ボッティチェリ「ヴィーナスの誕生」
「わたしは、わたしのわたしたるところを感じる」
さう感覚が語る。
それは陽のあたる明るい世の内で、
光の流れとひとつになる。
それは考へるに、
明るくなるやうにと、暖かさを贈り、
そして人と世をひとつにするべく、
固く結びつけようとする。
Ich fühle Wesen meines Wesens:
So spricht Empfindung,
Die in der sonnerhellten Welt
Mit Lichtesfluten sich vereint;
Sie will dem Denken
Zur Klarheit Wärme schenken
Und Mensch und Welt
In Einheit fest verbinden.
※普通、「Denken」といふドイツ語を訳すときには、「思考」と訳すことが多いのですが、「denken」といふ動詞(考へる)がそのまま名詞になつてゐるので、その動きを活かすべく、「考へる」と動詞的に訳してゐます。
幼児は、たとへば、ことばといふものに、一心に、全身全霊で、耳を傾ける。
からだまるごとを感覚器官にして、聴くといふ仕事を一心にしてゐる。
そのことによつて、誰に手ほどきを受けるでなく、神々しい力、精神によつて、ことばを習得していく。
からだは「ことば」の器になつていく。
幼児の内に、そのやうに、からだをことばの器にするべく、おのづと力が働いてくれてゐた。
わたしたち大人は、意識的に、その人から、仕事をしてこそ、育まれるべきものが育まれ、満たされるべきものが満たされる。
このからだは、何歳になつても、まだまだ、育まれて、育まれて、おのれの感覚を深めていくことができる。
ものごとに対して判断しなければならないとき、データや数値なども、なんらかの判断材料を提供してくれるが、それに頼り切らず、もつと、己れのからだを通しての感覚を育んでいくことが、己れへの、人間への、信頼を取り戻していく上で、大切な指針になつていくのではないだらうか。
その、感覚とは、そもそも、わたしたちに何を語つてくれてゐるのか、何を教へようとしてくれてゐるのだらうか。
シュタイナーがここで使つてゐる「感覚(Empfindung)」といふことばは、「受けて(emp)見いだす(finden)」からできてゐることばだ。
人によつて受けて見いだされた、光、色、響き、熱、味、触など。それらが感覚であるし、また、それらだけでなく、(これまでの生理学や心理学では、さうは言はないらしいが)それらによつて起こつてきた、情、意欲、考へも、感覚なのだ。なぜなら、みづからのこころといふものも、世の一部だからだ。
色や響きなど、外からのものを、人は感覚する(受けて見いだす)し、情や意欲や考へといふ内からのものをも、人は感覚する(受けて見いだす)。
しかし、外からの感覚は、外からのものとして客として迎へやすいのだが、内からの感覚は、内からのものであるゆゑに、客として迎へにくい。主(あるじ)としてのみづからと、客である情や意欲や考へとを一緒くたにしてしまいがちだ。
主と客をしつかりと分けること、それは客を客としてしつかりと観ることである。
みづからの情や意欲や考へを、まるで他人の情や意欲や考へとして観る練習。
明確に主(あるじ)と客を分ける練習を重ねることで、分けられた主と客を再び、ひとつにしていく力をも見いだしていくことができる。その力が、こころを健やかにしてくれる。
主と客を明らかに分けるといふことは、主によつて、客が客として意識的に迎へられる、といふことでもあらう。
そして、やつてくる客に巻き込まれるのではなく、その客をその都度ふさわしく迎へていくことに習熟していくことで、主は、ますます、主として、ふさわしく立つていく力を身につけていくことだらう。
外からのものであれ、内からのものであれ、その客を客として意欲的に迎へようとすればするほど、客はいよいよみづからの秘密を明かしてくれる。感覚といふ感覚が、語りかけてくる。
外の世からの感覚だけでなく、考へ、感じ、意欲など、内に湧き起つてくる感覚を、しつかりと客として迎へるほど、その客が語りかけてきてゐることばを聴かうとすればするほど、わたしは「わたしのわたしたるところ」を日々、太く、深く、成長させていく。
客のことばを聴くこと。それが主(あるじ)の仕事である。
その仕事によつて、わたしは、みづからの狭い限りを越えて、「わたしのわたしたるところ」をだんだんと解き明かしていくことができる。
主によつて客が客として迎へられるといふのは、客によつて主が主として迎へられるといふことであるだらう。
迎へるべき客を迎へる。
そして、これ以上、お付き合ひしなくてもいい客を、しつかりと迎へた上で、愛で抱擁したあと、去つていただく。
それは、主と相応しい客がひとつになるといふ、人と世との、もしくは人と人との、出会ひの秘儀とも言つていいものではないだらうか。
そして、主と客がひとつになるときに、「わたし」がいよいよ明らかなものになつていく。
つまり、主=「わたし」ではなく、主+客=「わたし」なのだ。
たとへば、セザンヌの絵や彼の残したことば、もしくは、芭蕉の俳諧などに接し続けてゐると、ものとひとつになることを目指して、彼らがどれほど苦闘したか、だんだんと窺ひ知ることができるやうになつてくる。
彼らは、世といふもの、こころといふものの内に潜んでゐる大きな何かを捉へることに挑み、そのプロセスの中で壊され、研がれ、磨かれ、その果てにだんだんと立ち顕れてくる「人のわたし」といふものへと辿りつかうとした。
彼らは、色彩といふもの、さらに風雅(みやび)といふものと、ひとつにならうとする仕事を死ぬまでやり通した人たちだと感じる。
ものとひとつになるときこそ、「人のわたし」がはつきりと立ち顕れてくることを彼らは知つてゐた。
感覚を客としてふさわしく迎へれば迎へるほど、それは、「わたしのわたしたるところ」の拡がりと深みを語つてくれるし、また、わたしはそのことばを情で聴き取るにつれて、わたしは、客について、己れについて、「わたし」について、明るく、確かに、考へることができる。
そして、わたしと世がひとつであること、すべてがひとつであることへの信頼感と確かさをだんだんと得ていくことができる。
「わたしは、わたしのわたしたるところを感じる」
さう感覚が語る。
それは陽のあたる明るい世の内で、
光の流れとひとつになる。
それは考へるに、
明るくなるやうにと、暖かさを贈り、
そして人と世をひとつにするべく、
固く結びつけようとする。