[こころのこよみ(魂の暦)]の記事一覧
- 2022/04/27 こころのこよみ(第2週) 〜春の芽吹き 登りゆく聖き竜〜
- 2022/04/17 こころのこよみ(第1週) 〜甦りの祭の調べ〜
- 2022/04/09 こころのこよみ(第52週)〜十字架を生きる〜
- 2022/04/02 こころのこよみ(第51週) 〜花が待つてゐる〜
- 2022/03/26 こころのこよみ(第50週)〜願はくば、人が聴くことを!〜
- 2022/03/06 こころのこよみ(第49週) 〜夜と昼〜
- 2022/02/27 こころのこよみ(第48週)〜行はれたし、精神の見はるかしを〜
- 2022/02/21 こころのこよみ(第47週)〜行はれたし、精神の慮りを〜
- 2022/02/15 こころのこよみ(第46週)〜行はれたし、精神の想ひ起こしを〜
- 2022/02/06 こころのこよみ(第45週)〜こころの満ち足り、晴れやかさ〜
- 2022/02/01 こころのこよみ(第44週) 〜ひとりの人〜
- 2022/01/24 こころのこよみ(第43週)〜冷たさに立ち向かふこころの炎〜
- 2022/01/16 こころのこよみ(第42週) 〜こころをこめてする仕事〜
- 2022/01/10 こころのこよみ(第41週)〜胸からほとばしる力〜
- 2021/09/22 こころのこよみ(第25週) 〜仕事の季節〜
- 2021/09/17 こころのこよみ(第24週) 〜生産的であるもののみがまことである〜
- 2021/09/14 こころのこよみ(第23週) 〜霧のとばり〜
- 2021/08/28 こころのこよみ(第22週) 〜深まりゆく感謝の念ひ〜
- 2021/08/25 こころのこよみ(第21週) 〜問ひを立てる力〜
- 2021/08/16 こころのこよみ(第20週) 〜享受し、消化し、仕事すること〜
2022年04月27日
こころのこよみ(第2週) 〜春の芽吹き 登りゆく聖き竜〜
外なるすべての感官のなかで、
考への力はみづからのあり方を見失ふ。
精神の世は見いだす、
再び、人が芽吹いてくるのを。
その萌しを、精神の世に、
しかし、そのこころの実りを、
人の内に、きつと、見いだす。
Ins Äußre des Sinnesalls
Verliert Gedankenmacht ihr Eigensein;
Es finden Geisteswelten
Den Menschensprossen wieder,
Der seinen Keim in ihnen,
Doch seine Seelenfrucht
In sich muß finden.
わたしは、目を、耳を、もつと働かせることができるはずだ。
全身全霊で、ものごとにもつと集中して、向かひ合ふことができるはずだ。
身といふものは、使へば使ふほどに、活き活きと働くことができるやうになつてくる。
たとへば、自然に向かひ合ふときにも、たとへば、音楽に耳を傾けるときにも、この外なるすべての感官を通して、意欲的に、アクティブに、見ること、聴くことで、まつたく新たな経験がわたしの中で生まれる。
ときに、からだとこころを貫かれるやうな、ときに、浮遊感を伴ふやうな、ときに、もののかたちがデフォルメされて突出してくるやうな、そのやうな感覚を明るい意識の中で生きることができる。
「外なるすべての感官の中で、考への力はみづからのあり方を見失ふ」とは、感覚を全身全霊で生きることができれば、あれこれ小賢しい考へを弄することなどできない状態を言ふのではないか。
このやうないのちの力に満ちた、みずみずしい人のあり方。それは、精神の世における「萌し」「芽吹き」だらう。
春になると、地球は息を天空に向かつて吐き出す。だからこそ、大地から植物が萌えはじめる。
そして、地球の吐く息に合はせるかのやうに、人のこころの深みからも、意欲が芽吹いてくる。
春における、そんな人の意欲の萌し、芽吹きは、秋になるころには、ある結実をきつと見いだすだらう。
春、天に昇る竜は、秋、地に下り行く。
その竜は聖竜であらう。
それは、きつと、この時代を導かうとしてゐる精神、ミヒャエルに貫かれた竜だらう。
秋から冬にかけて、キリストと地球のために、たつぷりと仕事をしたミヒャエルは、その力を再び蓄へるために、春から夏にかけて、キリストと地球のこころとともに、大いなる世へと、天へと、帰りゆく。そしてまた、秋になると、ミヒャエルは力を蓄へて、この地の煤払ひに降りてきてくれるのだ。
わたしたちの意欲もミヒャエルの動きに沿ふならば、春に、下から萌え出てき、感官を通して、ものを観て、聴いて、世の精神と結びつかうとする。
そして、秋には、上の精神からの力をもらひつつ再び降りてきて、地に実りをもたらすべく、方向性の定まつた活きた働きをすることができる。
だからこそ、春には春で意識してやつておくことがあるし、その実りをきつと秋には迎へることができる。
それは、こころの農作業のやうなものだ。
外なるすべての感官のなかで、
考への力はみづからのあり方を見失ふ。
精神の世は見いだす、
再び、人が芽吹いてくるのを。
その萌しを、精神の世に、
しかし、そのこころの実りを、
人の内に、きつと、見いだす。
2022年04月17日
こころのこよみ(第1週) 〜甦りの祭の調べ〜
滋賀県大津市の建部大社の八重桜
世の広がりから、
陽が人の感官に語りかけ、
そして喜びがこころの深みから、
光とひとつになる、観ることのうちに。
ならば、己れであることの被ひから広がり渡る、
考へが空間の彼方へと。
そしておぼろげに結びつける、
人といふものをありありとした精神へと。
Wenn aus den Weltenweiten
Die Sonne spricht zum Menschensinn
Und Freude aus den Seelentiefen
Dem Licht sich eint im Schauen,
Dann ziehen aus der Selbstheit Hülle
Gedanken in die Raumesfernen
Und binden dumpf
Des Menschen Wesen an des Geistes Sein.
自分自身のこころが、光とひとつになり、喜びが溢れだす。
陽の光(外なる自然)と、こころの光(内なる自然)が、ひとつになる。
春とは、そもそも、そんな己れのありやうを観ることのできるときだ。
ものをぢつと見る。ものもぢつとわたしを見てゐる。
ものをぢつと、見つめるほどに、ものもわたしに応へようとでもしてくれるかのやうに、様々な表情を見せてくれるやうになる。
そんな、わたしとものとの関係。
それは、意欲と意欲の交はりだ。
その交はりのなかに、ある集中した静けさが生まれる。
その静けさが、わたしのこころを喜びと共に空間の彼方へと拡げてくれる。
とかく、狭いところで右往左往しがちな、わたしの考へ。
だが、光と共に春に息づく何かを、ぢつと見ること、ぢつと聴くことで、静けさと共に、喜びが生まれてくる。
その静かな喜びがあればこそ、自分なりの考へ方、感じ方といふ、いつもの己れの被ひを越えて、こころを拡げてゆくことができる。
それによつて、新しく、生まれ変はつたやうなこころもち。こころの甦り。わたしだけが行ふわたしだけの復活祭。
そして、ありありとした精神は、そこに。
生活を新しく開く鍵は、すぐ、そこに。
しかし、まだ、こころはしつかりと、その精神と結びつくことができない。
ことばといふ精神が降りてくるまでには、聖き靈(ひ)の降り給ふ祭(甦りの祭の50日後)を待つこと。
いまは、おぼろげに、結びつくことができるだけだ。
そんな己れのありやうを観てゐる。
一行目の「世の広がり」とは、同時に、「〈わたし〉の広がり」であり、三行目の「こころの深み」とは、同時に、「世の深み」でもある。
アントロポゾフィーの『こころのこよみ』の第一週目は、世と〈わたし〉とをひとつにし、「広がり」と「深み」とをひとつにする、人のこころのありやうを描いてゐる。
そのこころを導く「考へ」は、ひとりの人として身をもつて立つ「ここ」から、「彼方へと」拡がりわたる方向性を持つてゐる。
そんな己れのこころのありやうを生きることから、この『こころのこよみ』の学びを始めて行くことができる。
世の広がりから、
陽が人の感官に語りかけ、
そして喜びがこころの深みから、
光とひとつになる、観ることのうちに。
ならば、己れであることの被ひから広がり渡る、
考へが空間の彼方へと。
そしておぼろげに結びつける、
人といふものをありありとした精神へと。
2022年04月09日
こころのこよみ(第52週)〜十字架を生きる〜
春の吉野川
こころの深みから
精神がみづからありありとした世へと向かひ、
美が場の広がりから溢れ出るとき、
天の彼方から流れ込む、
生きる力が人のからだへと。
そして、力強く働きながら、ひとつにする、
精神といふものと人であることを。
Wenn aus den Seelentiefen
Der Geist sich wendet zu dem Weltensein
Und Schönheit quillt aus Raumesweiten,
Dann zieht aus Himmelsfernen
Des Lebens Kraft in Menschenleiber
Und einet, machtvoll wirkend,
Des Geistes Wesen mit dem Menschensein.
ものをぢつと観る。ものがありありとしてくるまで、ぢつと観る。そのとき、こころの深みが動く。こころの力を振り絞つて、そのものとひとつにならうとするとき、わたしの精神とものの精神との交流が始まる。
眼といふものは、実は腕であり手なのだ。
何かを観るといふ行為は、実は手を伸ばしてその何かに触れる、もしくはその何かを摑むといふことなのだ。
そのやうな見えない腕、見えない手が人にはある。
何かをぢつと觀る、それはとても能動的な行為だ。
おほもとに、愛があるからこそ、する行為だ。
見れど飽かぬ 吉野の河の 常滑(とこなめ)の
絶ゆることなく また還り見む
柿本人麻呂 (萬葉集0037)
そのやうにして、アクティブに、腕を伸ばすがごとくにものを観たり、自然の響き、音楽やことばの響きに耳を澄ますとき、方向で言へば、まさに上から、天から、そのつどそのつど、フレッシュな光、息吹き、啓けがやつてくる。
言語造形をしてゐるときも、同じだ。
みづから稽古してゐるとき、うまくいかなくても、それでも繰り返し、繰り返し、ことばがありありとしたものになるまで、美が立ち上がつてくるまで、ことばに取り組んでゐるうちに、また、他者のことばをこころの力を振り絞りながら聽いてゐるときに、「これだ!」といふ上からの啓けに見舞はれる。
そのたびごとに、わたしは、力をもらへる。喜びと安らかさと確かさをもつて生きる力だ。
精神である人は、みづからのこころとからだを使つて、ぢつと観る。聽く。働く。美を追ひ求める。
そのとき、世の精神は、力強く、天から働きかけてくれる。
そして、精神と人とをひとつにしようとしてくれてゐる。
場の広がりの中で、人と世が美を通して出会ひ(横の出会ひ)、精神との交はりの中で、人と天が生きる力を通して出会ひ(縱の出会ひ)、その横と縱の出会ひが十字でクロスする。
十字架を生きる。
そこで、『こころのこよみ』は、この第52週をもつて一年を終へ、甦りの日(復活祭)に臨む。
こころの深みから
精神がみづからありありとした世へと向かひ、
美が場の広がりから溢れ出るとき、
天の彼方から流れ込む、
生きる力が人のからだへと。
そして、力強く働きながら、ひとつにする、
精神といふものと人であることを。
2022年04月02日
こころのこよみ(第51週) 〜花が待つてゐる〜
金沢の武家屋敷庭にて
人といふものの内へと
感官を通して豐かさが流れ込む。
世の精神は己れを見いだす、
人のまなこに映る相(すがた)の中に。
それはその力を世の精神から
きつと新たに汲み上げる。
Ins Innre des Menschenwesens
Ergießt der Sinne Reichtum sich,
Es findet sich der Weltengeist
Im Spiegelbild des Menschenauges,
Das seine Kraft aus ihm
Sich neu erschaffen muß.
より目を開いて、より耳を澄まして、ものごとといふものごとにぢつと向かひあつてみれば、ものごとは、より活き活きとした相(すがた)をわたしに顯はしてくれる。
わたしが花をそのやうに觀てゐるとき、花もわたしを觀てゐる。
そして、わたしの瞳の中に映る相(すがた)は、もはや死んだものではなく、ますます、ものものしく、活きたものになりゆく。
また、わたしの瞳も、だんだんとそのありやうを深めていく。物理的なものの内に精神的なものを宿すやうになる。
花へのそのやうなアクティブな向かひやうによつて、わたしみづからが精神として甦る。
そして、その深まりゆくわたしの内において、花の精神(世の精神)が甦る。花の精神は、さういふ人のアクトを待つてゐる。
「待つ」とは、そもそも、神が降りてこられるのを待つことを言つたさうだ。
松の木は、だから、神の依り代として、特別なものであつたし、祭りとは、その「待つ」ことであつた。
中世以前、古代においては、人が神を待つてゐた。
しかし、いま、神が人を待つてゐる。世の精神が人を待つてゐる。
世の精神が、己れを見いだすために、わたしたち人がまなこを開くのを待つてゐる。わたしたち人に、こころの眼差しを向けてもらふのを待つてゐる。
植物は、激情から解き放たれて、いのちをしづしづと、淡々と、また悠々と営んでゐる存在だ。
しかし、植物は、人の問ひかけを待つてゐるのではないだらうか。
さらには、人のこころもちや情に、応へようとしてゐるのではないだらうか。
人と植物とのそのやうな關係は、古来、洋の東西を問はず営まれてきた。
とりわけ、日本においては、華道、さらには茶道が、そのやうな植物と人との關係をこの上なく深いものにしてゐる。
それは、表だつて言挙げされはしないが、植物を通しての瞑想の営みとして深められてきたものだ。
落(おち)ざまに 水こぼしけり 花椿
松尾芭蕉
人といふものの内へと
感官を通して豐かさが流れ込む。
世の精神は己れを見いだす、
人のまなこに映る相(すがた)の中に。
それはその力を世の精神から
きつと新たに汲み上げる。
2022年03月26日
こころのこよみ(第50週)〜願はくば、人が聴くことを!〜
人の<わたし>に語りかける。
みづから力強く立ち上がりつつ、
そしてものものしい力を解き放ちつつ、
世のありありとした繰りなす喜びが語りかける。
「あなたの内に、
わたしのいのちを担ひなさい。
魔法の縛りを解いて。
ならば、わたしは、
まことの目当てに行きつく」
Es spricht zum Menschen-Ich,
Sich machtvoll offenbarend
Und seines Wesens Kraefte loesend,
Des Weltendaseins Werdelust:
In dich mein Leben tragend
Aus seinem Zauberbanne
Erreiche ich mein wahres Ziel.
春が少しづつ近づいて来てゐる。木々や草花たちのたたずまひ。なんと「ものものしい」までに、活き活きとしてゐることだらう。
明るく暖かな日差しの中で、それぞれの植物が歓声を上げてゐるのが聴こえてくるやうな気がする。
この週の「こよみ」において、「世のありありとした繰りなす喜びが、人の<わたし>に語りかける」とある。
この語りかけを人は聴くことができるだらうか。
2行目に「offenbarend」といふことばがあつて、それを「立ち上がりつつ」と訳してみたが、鈴木一博さんによると、この「offenbaren」は、「春たてる霞の空」や、「風たちぬ」などの「たつ」だと解いてをられる。
「たつ」とはもともと、目に見えないものがなんらかの趣きで開かれる、耳に聴こえないものがなんらかの趣きで顕わに示される、さういふ日本語ださうだ。
「春がたつ」のも、「秋がたつ」のも、目には見えないことだが、昔の人は、それを敏感に感じ、いまの大方の人は、それをこよみで知る。
いま、植物から何かが、「力強く」「ものものしく」立ち上がつてきてゐる。
人の<わたし>に向かつて、<ことば>を語りかけてきてゐる!
わたしはそれらの<ことば>に耳を傾け、聴くことができるだらうか。
喜びの声、励ましの声、時に悲しみの声、嘆きの声、それらをわたしたち人は聴くことができるだらうか。
それらを人が聴くときに、世は「まことの目当てに行きつく」。
「聴いてもらへた!」といふ喜びだ。
世が、自然が、宇宙が、喜ぶ。
シュタイナーは、「願はくば、人が聴くことを!」といふことばで、晩年の『礎(いしずえ)のことば』といふ作品を終へてゐる。
願はくば、人が、
世の<ことば>を、
生きとし生けるものたちの<ことば>を、
海の<ことば>を、
風の<ことば>を、
大地の<ことば>を、
星の<ことば>を、
子どもたちの<ことば>を、
聴くことを!
人の<わたし>に語りかける。
みづから力強く立ち上がりつつ、
そしてものものしい力を解き放ちつつ、
世のありありとした繰りなす喜びが語りかける。
「あなたの内に、
わたしのいのちを担ひなさい。
魔法の縛りを解いて。
ならば、わたしは、
まことの目当てに行きつく」
2022年03月06日
こころのこよみ(第49週) 〜夜と昼〜
「わたしは世のありありとした力を感じる」
さう、考への明らかさが語る。
考へつつ、みづからの精神が長けゆく、
暗い世の夜の中で。
そして世の昼に近づきゆく、
内なる希みの光を放ちつつ。
Ich fühle Kraft des Weltenseins:
So spricht Gedankenklarheit,
Gedenkend eignen Geistes Wachsen
In finstern Weltennächten,
Und neigt dem nahen Weltentage
Des Innern Hoffnungsstrahlen.
この週の『こよみ』に、向かひ合ふ中で、シュタイナーの1923年2月3日、4日のドルナッハでの講演『夜の人と昼の人』の内容と、今週の『こよみ』が響き合つてきた。
春が近づいてくる中で感じる、ありありとした世の力。
たとへ、その力を感じることができても、わたしが考へつつ、その感じを考へで捉へなければ、わたしはそれをことばにして言ひ表すことはできない。
世のありありとした力も、それに対して湧きあがつてくる感じも、<わたし>といふ人からすれば、外側からやつてくるもの。
それらに対して、人は、考へることによつて、初めて、内側から、<わたし>から、応へることができる。
そのやうにして、外側からのものと内側からのものが合はさつて、知るといふこと(認識)がなりたち、ことばにして言ひ表すこともできる。
わたしたちの外側からたくさんの世の力がありありと迫つてくる。
そんな外側からの力に対し、わたしたちの内側からの考へる力が追ひつかないときがある。
そんなとき、たくさんの、たくさんの、思ひやことばが行き交ふ。
わたしたちの考へる力は、その都度その都度、外の世からやつてくる力に対して応じていかざるをえないが、しかし、そのことに尽きてしまはざるをえないのだらうか。
対応していくにしても、その考へる力が、明らかな一点、確かな一点に根ざさないのならば、その対応は、とかくその場限りの、外の世に振り回されつぱなしのものになりはしないだらうか。
その確かな一点、明らかな一点とは、「わたしはある」といふことを想ひ起こすこと、考へることであり、また、その考へるを見るといふこと。
他の誰かがかう言つてゐるから、かう考へる、ああ言つてゐるから、ああ考へるのではなく、他の誰でもない、この「わたしはある」といふ一点に立ち戻り、その一点から、「わたしが考へる」といふ内からの力をもつて、外の出来事に向かつていくことができる。
それは、外の出来事に振り回されて考へるのではなく、内なる意欲の力をもつて、みづから考へるを発し、みづから考へるを導いていくとき、考へは、それまでの死んだものから生きてゐるものとして活き活きと甦つてくる。
そのとき、人は、考へるに<わたし>を注ぎ込むこと、意欲を注ぎ込むことによつて、「まぎれなく考へる」をしてゐる。(この「まぎれなく考へる」が、よく「純粋思考」と訳されてゐるが、いはゆる「純粋なこと」を考へることではない)
わたしたちが日々抱く考へといふ考へは、死んでゐる。
それは、考へるに、<わたし>を注ぎ込んでゐないからだ。みづからの意欲をほとんど注ぎ込まずに、外の世に応じて「考へさせられてゐる」からだ。
そのやうな、外のものごとから刺戟を受けて考へる考へ、なほかつ、ものごとの表面をなぞるだけの考へは、死んでゐる。
多くの人が、よく、感覚がすべて、感じる感情がすべてだと言ふ。実は、その多くの人は、そのやうな、死んだ考へをやりくりすることに対するアンチパシーからものを言つてゐるのではないだらうか。
ところが、そのやうな受動的なこころのあり方から脱して、能動的に、エネルギッシュに、考へるに意欲を注ぎ込んでいくことで、考へは死から甦り、生命あるものとして、人に生きる力を与へるものになる。
その人に、軸ができてくる。
世からありとあらゆる力がやつてくるが、だんだんと、その軸がぶれることも少なくなつてくるだらう。
その軸を創る力、それは、みづからが、考へる、そして、その考へるを、みづからが見る。この一点に立ち戻る力だ。
この一点から、外の世に向かつて、その都度その都度、考へるを向けていくこと、それは、腰を据ゑて、その外のものごとに沿ひ、交はつていくことだ。
では、その力を、人はどうやつて育んでいくことができるのだらうか。また、そのやうに、考へるに意欲を注ぎ込んでいく力は、どこからやつてくるのだらうか。
それは、夜、眠つてゐるあひだに、人といふ人に与へられてゐる。
ただし、昼のあひだ、その人が意欲を注ぎつつ考へるほどに応じてである。
夜の眠りのあひだに、人はただ休息してゐるのではない。
意識は完全に閉ぢられてゐるが、考へるは、意識が閉ぢられてゐる分、まつたく外の世に応じることをせずにすみ、よりまぎれなく考へる力を長けさせていく。
それは、眠りのあひだにこそ、意欲が強まるからだ。ただ、意欲によつて強められてゐる考へる力は、まつたく意識できない。
眠つてゐることによつて、意識の主体であるアストラルのからだと<わたし>が、エーテルのからだとフィジカルなからだから離れてゐるのだから。
眠りのあひだに、わたしたちは、わたしたちの故郷であるこころと精神の世へと戻り、次の一日の中でフレッシュに力強く考へる力をその世の方々から戴いて、朝、目覚める。
要は、夜の眠りのあひだに長けさせてゐる精神の力を、どれだけ昼のあひだにみづからに注ぎこませることができるかだ。
そのために、シュタイナーは、その講演で、本を読むときに、もつと、もつと、エネルギッシュに、意欲の力を注ぎ込んでほしい、さう述べてゐる。
それは、人のこころを育てる。
現代人にもつとも欠けてゐる意欲の力を奮ひ起こすことで、死んだ考へを生きた考へに甦らせることこそが、こころの育みになる。
アントロポゾフィーの本をいくらたくさん読んでも、いや、シュタイナー本人からいくらいい講演、いい話を聴いたとしても、それだけでは駄目なのだと。
文といふ文を、意欲的に、深めること。
ことばを通して、述べられてゐる考へに読む人が生命を吹き込むこと。
アントロポゾフィーは、そのやうにされないと、途端に、腰崩れの、中途半端なものになつてしまふと。
1923年といふ、彼の晩年近くの頃で、彼の周りに集まる人のこころの受動性をなんとか奮ひ起こして、能動的な、主体的な、エネルギッシュな力に各々が目覚めるやうに、彼はことばを発してゐた。
その力は、夜の眠りのあひだに、高い世の方々との交はりによつてすべての人が贈られてゐる。
夜盛んだつた意欲を、昼のあひだに、どれだけ人が目覚めつつ、意識的に、考へるに注ぎ込むか。
その内なる能動性、主体性、エネルギーこそが、「内なる希みの光」。
外の世へのなんらかの希みではなく、<わたし>への信頼、<わたし>があることから生まれる希みだ。
その内なる希みの光こそが、昼のあひだに、人を活き活きとさせ、また夜の眠りのあひだに、精神を長けさせる。
その夜と昼との循環を意識的に育んでいくこと、「内なる希みの光」を各々育んでいくこと、それが甦りの祭を前にした、こころの仕事であり、わたしたちにとつて、実はとても大切なこころの仕事なのだと思ふ。
「わたしは世のありありとした力を感じる」
さう、考への明らかさが語る。
考へつつ、みづからの精神が長けゆく、
暗い世の夜の中で。
そして世の昼に近づきゆく、
内なる希みの光を放ちつつ。
2022年02月27日
こころのこよみ(第48週)〜行はれたし、精神の見はるかしを〜
平櫛田中『養老』
光、世の高みから、
こころに力に満ちて流れくる。
光の内に現はれよ、こころの謎を解きながら、
世の考へるの確かさよ。
その光り輝く力を集め、
人の胸に愛を呼び覚ますべく。
Im Lichte das aus Weltenhöhen
Der Seele machtvoll fliessen will
Erscheine, lösend Seelenrätsel
Des Weltendenkens Sicherheit
Versammelnd seiner Strahlen Macht
Im Menschenherzen Liebe weckend.
考へる力といふものについて、人はよく誤解する。
考へるとは、あれこれ自分勝手にものごとの意味を探ることでもなく、浮かんでくる考へに次から次へとこころをさまよはせることでもなく、何かを求めて思ひわづらふことでもなく、ものごとや人を裁くことへと導くものでもない。
考へるとは、本来、みづからを措いてものごとに沿ふこと、思ひわずらふことをきつぱりと止めて、考へが開けるのをアクティブに待つこと、そして、ものごととひとつになりゆくことで、愛を生みだすこと。
今回もまた、鈴木一博さんの『礎のことば』の読み説きから多くの示唆を得てゐる。
人が考へるとは、考へといふ光が降りてくるのを待つこと、人に考へが開けることだ。
考へが開けるきつかけは、人の話を聴く、本を読む、考へに考へ抜く、道を歩いてゐて、ふと・・・など、人によりけり、時と場によりけり、様々あるだらうが、どんな場合であつても、人が頭を安らかに澄ませたときにこそ、考へは開ける。
たとへ、身体は忙しく、活発に、動き回つてゐても、頭のみは、静かさを湛えてゐるほどに、考へは開ける。
そして、頭での考への開けと共に、こころに光が当たる。考へが開けることによつて、こころにおいて、ものごとが明るむ。そして、こころそのものも明るむ。
「ああ、さうか、さうだつたのか!」といふときの、こころに差し込む光の明るさ、暖かさ。誰しも、覚えがあるのではないだらうか。
明るめられたこころにおいて、降りてきたその考へは、その人にとつて、隈なく見通しがきくものだ。
また、見通しがきく考へは、他の人にとつても見通しがきき、その人の考へにもなりうる。
そもそも、考へは誰の考へであつても、考へは考へだから。
人に降りてくる考へは、その人の考へになる前に、そもそも世の考へである。
自然法則といふものも、自然に秘められてゐる世の考へだ。
人が考へることによつて、自然がその秘密「世の考へ」を打ち明ける。
その自然とは、ものといふものでもあり、人といふ人でもある。
目の前にゐる人が、どういふ人なのか、我が子が、どういふ人になつていくのか、もしくは、自分自身がどういふ人なのか、それは、まづもつては、謎だ。
その謎を謎として、長い時間をかけて、その人と、もしくはみづからと、腰を据ゑてつきあひつつ、その都度その都度、こころに開けてくる考へを摑んでいくことによつてのみ、だんだんと、その人について、もしくは、わたしといふ人について、考へが頭に開け、光がこころに明るんでくる。
それはだんだんと明るんでくる「世の高みからの考へ」でもある。
わたしなりの考へでやりくりしてしまうのではなく、からだとこころをもつて対象に沿ひ続けることによつて、「世の考へ」といふ光が頭に降りてくるのを待つのだ。
すぐに光が降りてくる力を持つ人もゐる。長い時間をかけて、ゆつくりと光が降りてくるのを待つ人もゐる。
どちらにしても、そのやうに、考へと共にこころにやつてくる光とは、世からわたしたちへと流れるやうに贈られる贈り物といつてもいいかもしれない。
さらに言へば、それは、わたしの<わたし>が、わたしの<わたし>に、自由に、本当に考へたいことを、考へとして、光として、贈る贈り物なのだ。
―――――――
人のこころ!
あなたは安らう頭に生き
頭は、あなたに、とわの基から
世の考へを打ち明ける。
行はれたし、精神の見はるかしを
考への安らかさのうちに。
そこにては神々の目指すことが
世とものとの光を
あなたの<わたし>に
あなたの<わたし>が自由に欲すべく
贈る。
もつて、あなたは真に考へるやうになる
人と精神との基にて。
(『礎のことば』より)
――――――――
その贈り物があるからこそ、わたしたちは、また、世の考へが贈られるのを待ちつつ考へることができるし、考への光が降りてくればこそ、わたしたちは、こころの明るさと共に、その考へを見通し、見はるかすことができ、その見はるかしからこそ、こころに愛が目覚めうる。
ある人の長所にあるとき、はつと気づいて、その人をあらためてつくづくと見つめ、その人のことを見直したり、好ましく思つたりもする。
長所にはつと気づく、それこそが、考への光が降りてきたといふことだらうし、その人について光をもつて考へられるからこそ、こころに愛が呼び覚まされるのだらう。
人を愛する時とは、世の高みから、力に満ちて流れてくる「世の考へ」が、こころに開ける時。
考へが開けるとき、そこには、きつと、愛がある。
愛が生まれないときは、考へてゐるやうで、実は考へてゐない。自分勝手に考へや思ひをいぢくりまはしてゐるか、巡り巡る考へや思ひに翻弄されてゐるときだ。
考へることによつて愛が生まれることと、愛をもつて考へることとは、きつと、ひとつの流れとして、人の内側で循環してゐる。
光、世の高みから、
こころに力に満ちて流れくる。
光の内に現はれよ、こころの謎を解きながら、
世の考へるの確かさよ。
その光り輝く力を集め、
人の胸に愛を呼び覚ますべく。
2022年02月21日
こころのこよみ(第47週)〜行はれたし、精神の慮りを〜
世のふところから立ち上がつてくるだらう、
感官への輝きを甦らせる繰りなす喜びが。
それは見いだす。わたしの考へる力が、
神々しい力を通して備へられ、
力強く、わたしの内に、生きることを。
Es will erstehen aus dem Weltenschosse,
Den Sinnenschein erquickend Werdelust,
Sie finde meines Denkens Kraft
Gerüstet durch die Gotteskräfte
Die kräftig mir im Innern leben.
以前にも引用させてもらつたが、鈴木一博さんが以前、日本アントロポゾフィー協会会報に掲載された『礎(いしずえ)のことば』から、ここ二、三週間の『こころのこよみ』への大きな示唆をもらつてゐる。
精神、こころ、からだ。
人は、この三つの次元の違ふありやうからなりたつてゐる。
自分自身を顧みても、やはり、どちらかといふと、精神が上の方に、からだが下の方にあり、こころがその間に挟まつてゐることを感じる。
そして、この『こころのこよみ』は、その名の通り、真ん中の「こころ」が、活き活きと生きることを願つて書き記されてゐる。
この時期、陽の光がだんだんと明るく、暖かく、長く、わたしたちを照らし出すとともに、地から、少しづつ少しづつ、草木の力が繰りなしてきてゐるのを見てとることができる。そして、「啓蟄」といはれるやうに、虫たちをはじめとする動く生き物たちも地の下から、水の中から這ひ出してきてゐる。
わたしたち人は、どうだらう。
人においても、近づいてきてゐる春の陽気にそそられて、からだもこころも動き出さうとしてゐないだらうか。
世の、春に近づいていく繰りなしが、まづは、下のからだへの蠢(うごめ)き、繰りなしを誘ひ出し、感官へのそのやうな働きかけが、真ん中のこころを動かさうとしてゐないだらうか。
その動きこそが、喜びにもなりえる。
以下、鈴木さんの文章からの引き写しだが、その精神の想ひ起こし、精神の慮り、精神の見はるかしに、まさにリアリティーを感じる。
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こころといふものは、常にシンパシーとアンチパシーの間で揺れ動いてゐる。
しかし、人は、そのシンパシー、アンチパシーのままにこころを動かされるだけでなく、その間に立つて、そのふたつの間合ひをはかり、そのふたつを引き合はせつつ、バランスを保ちつつ、静かなこころでゐることもできる。
むしろ、さうあつてこそ、こころといふものをわたしたちは感じとることができる。
そのこころの揺れ動き、そしてバランスは、からだにおける心臓と肺の張りと緩みのリズムとも織りなしあつてゐる。
こころのシンパシー、アンチパシーとともに、心拍は高まりもするし、低まりもする。
また、呼吸といふものも、そのこころのふたつの動きに左右される。吐く息、吸ふ息のリズムが整つたり、乱れたりする。
そして、心拍の脈打ちと脈打ちの間、吐く息、吸ふ息の間に、静かな間(ま)をわたしたちは感じとることができる。
その静かな間(ま)を感じとつてこそ、わたしたちは、リズムといふもの、時といふものをリアルにとらへることができる。
そして更に、こころにおいて、シンパシーとアンチパシーとの間で生きつつ、からだにおいて、心と肺のリズムの間で生きつつ、わたしたちは、世といふものとの間においても、リズミカルに、ハーモニックに、調和して生きていく道を探つていくことができる。
荒れた冬の海を前にしてゐるときと、茫洋として、のたりのたりと静かに波打つてゐる春の海を前にしてゐるとき。
峨々たる山を前にしてゐるときと、穏やかな草原を前にしてゐるとき。
いまにも雨が降り出しさうな、どんよりとした曇り空の下にゐるときと、晴れ晴れとした雲ひとつない青空を仰ぐとき。
しかめ面をしてゐる人の前にゐるときと、につこりしてゐる人の前にゐるとき。
そして、春夏秋冬といふ四季の巡りにおいて、それぞれの季節におけるからだとこころのありやうの移りゆき。
世といふものと、わたしたちとの間においても、ハーモニーを奏でることができるには、そのふたつが、ひとりひとりの人によつて、はからわれ、釣り合はされ、ひとつに響き合つてこそ。
世とわたし。そのふたつの間を思ひつつ、はかりつつ、響き合はせる。その精神の慮(おもんぱか)りを積極的にすることによつて、人は、世に、和やかに受け入れられる。
人と世は、ひとつに合はさる。
そして、人は、歌ふ。春夏秋冬、それぞれの歌を歌ふ。
慮る(besinnen)は、歌ふ(singen)と語源を同じくするさうだ。
こころにおける精神の慮り、それは歌心だ、と鈴木さんは述べてゐる。
人のこころ!
あなたは心と肺のときめきに生き
心と肺に導かれつつ、時のリズムを経て
あなたそのものを感じるに至る。
行はれたし、精神の慮りを
こころの釣り合ひにおいて。
そこにては波打つ世の
成りつ為しつが
あなたの<わたし>を
世の<わたし>と
ひとつに合はせる。
もつて、あなたは真に生きるやうになる
人のこころの働きとして。
(『礎のことば』より)
春の訪れとともに世のふところから、下のからだを通して、感官への輝きを通して、こころに、繰りなす喜び。
そして、上の精神からの考へる力。その考へる力は、冬のクリスマスの時期を意識的に生きたことによつて、神々しい力によつて備へられてゐる。その考へる力によつて、こころにもたらされる力強い<わたし>。
世とからだを通しての下からの繰りなしによつて、こころに生まれる喜びといふ情を、上の精神からやつてくる考へる力が支へてくれてゐる。
この下からと上からのハーモニックな働きかけによつて、真ん中のこころに、喜びが生まれ、育つていく。
世のふところから立ち上がつてくるだらう、
感官への輝きを甦らせる繰りなす喜びが。
それは見いだす。わたしの考へる力が、
神々しい力を通して備へられ、
力強く、わたしの内に、生きることを。
2022年02月15日
こころのこよみ(第46週)〜行はれたし、精神の想ひ起こしを〜
世、それはいまにもぼやかさうとする、
こころのひとり生みの力を。
だからこそ、想ひ起こせ、
精神の深みから輝きつつ。
そして観ることを強めよ、
意欲の力を通して、
己れを保つことができるやうに。
Die Welt, sie drohet zu betäuben
Der Seele eingeborne Kraft;
Nun trete du, Erinnerung,
Aus Geistestiefen leuchtend auf
Und stärke mir das Schauen,
Das nur durch Willenskräfte
Sich selbst erhalten kann.
「ひとり生み」とは、何か。
シュタイナーのヨハネ福音書講義の第四講に、そのことばが出てくる。
かつて福音書が書かれた頃、「ふたり生み」とは、父と母の血の混じりあひから生まれた者のこと、「ひとり生み」とは、そのやうな血の混じりあひから生まれた者でなく、神の光を受け入れることによつて、精神とひとつになつた者、精神として生まれた者、神の子、神々しい子のことだつた。
今から二千年以上前には、人びとの多くは、「わたし」といふ、人のための下地をすでに備へながらも、後に聖書に記されるところの「光」をまだ受け入れることができなかつた。
「群れとしてのわたし」のところには、「光」は降りてきてゐたが、ひとりひとりの人は、その「光」をまだ受け入れてゐなかつた。
「ひとりのわたし」といふ意識はまだなく、おらが国、おらが村、おれんち、そのやうな「ふたり生みの子」としての意識が、ひとりひとりの人のこころを満たしてゐた。
しかし、少数ではあるが、「光」を受け入れた者たちは、その「光」を通してみづからを神の子、「ひとり生みの子」となした。
物の人がふたり生み、精神の人がひとり生みだ。
そして、キリスト・イエスこそは、その「光そのもの」、もしくは「光」のおおもとである「ことばそのもの」として、「父のひとり生みの息子」として、肉のつくりをもつてこの世の歴史の上に現れた。
ことば(ロゴス)、肉となれり(ヨハネ書一章十四節)
彼こそは、ひとりひとりの人に、こよなく高く、ひとりの人であることの意識、「わたしはある」をもたらすことを使命とする者だつた。
わたしたちが、その「ひとり生みの力」を想ひ起こすこと、それは、キリスト・イエスの誕生と死を想ひ起こすといふこと。
そして、わたしたちひとりひとりの内なる、「わたしはある」を想ひ起こすこと。
それは、日々のメディテーションによつて生まれる、精神との結びつきを想ひ起こすことであり、目で見、耳で聞いたことを想ひ起こすことに尽きず、精神の覚え「わたしはある」を想ひ起こすことだ。
その想ひ起こしがそのやうにだんだんと深まつていくことによつて、人は、「わたしはある」といふこと、「みづからが神と結ばれてある」といふこと、みづからの「わたし」が、神の「わたし」の内にあるといふこと、そのことを確かさと安らかさをもつて、ありありと知る道が開けてくる。
「想ひ起こす」といふ精神の行為は、意欲をもつて考へつつ、いにしへを追つていくといふことだ。
普段の想ひ起こすことにおいても、頭でするのみでは、その想ひは精彩のないものになりがちだが、胸をもつて想ひ起こされるとき、メロディアスに波打つかのやうに、想ひがこころに甦つてくる。
さらに手足をもつて場に立ちつつ、振る舞ふことで、より活き活きと、みずみずしく、深みをもつて、想ひが甦つてくる。
故郷に足を運んだ時だとか、手足を通して自分のものにしたもの、技量となつたものを、いまいちどやつてみる時だとか、そのやうに手足でもつて憶えてゐることを、手足を通して想ひ起こすかのやうにする時、想ひが深みをもつて甦る。
そして、そのやうな手足をもつての想ひ起こしは、その人をその人のみなもとへと誘ふ。
その人が、その人であることを、想ひ起こす。
その人のその人らしさを、その人はみづから想ひ起こす。
例へば、この足で立ち、歩くことを憶えたのは、生まれてから一年目辺りの頃だつた。その憶えは、生涯、足で立つこと、歩くことを通して、頭でではなく、両脚をもつて想ひ起こされてゐる。
その人が、その人の足で立ち、歩くことを通して、その人の意識は目覚め、その人らしさが保たれてゐる。
だから、年をとつて、足が利かなくなることによつて、その人のその人らしさ、こころの張り、意識の目覚めまでもが、だんだんと失はれていくことになりがちだ。
手足を通しての想ひ起こし、それは、意欲の力をもつてすることであり、人を活き活きと甦らせる行為でもある。
そして、それはメディテーションにも言へる。
行はれたし、精神の想ひ起こしを
もつて、あなたは真に生きるやうになる、
まこと人として、世のうちに
(シュタイナー『礎のことば』1923年12月25日)
メディテーションによる想ひ起こしは、手足による想ひ起こしに等しいもの。
メディテーションとは、意欲をもつての厳かで真摯な行為。
毎日の行為である。
「ひとり生みの力」を想ひ起こすこと、それは、わたしの「わたし」が、神の「わたし」の内に、ありありとあること、「わたしのわたしたるところ」、「わたし」のみなもと、それを想ひ起こすことだ。
世に生きてゐると、その「ひとり生みの力」をぼやかさうとする機会にいくらでも遭ふ。
世は、ふたり生みであることから生まれる、惑ひといふ惑ひをもたらさうとする。
「だからこそ、勤しみをもつて、想ひ起こせ」。
「惑ひといふ惑ひを払つて、想ひ起こせ」。
想ひ起こされたものをしつかりとこころの目で観ること、もしくは想ひ起こすといふ精神の行為そのものをも、しつかりと観ること、それがつまり、「観ることを強める」といふことだ。
その意欲の力があつてこそ、人は、「己れを保つことができる」、おのれのみなもとにあることを想ひ起こすことができる。
世、それはいまにもぼやかさうとする、
こころのひとり生みの力を。
だからこそ、想ひ起こせ、
精神の深みから輝きつつ。
そして観ることを強めよ、
意欲の力を通して、
己れを保つことができるやうに。
2022年02月06日
こころのこよみ(第45週)〜こころの満ち足り、晴れやかさ〜
東山魁夷 「碧湖」
考への力が強まる、
精神の生まれとの結びつきの中で。
それは感官へのおぼろげなそそりを
まつたき明らかさへと晴れ渡らせる。
こころの満ち足りが、
世のくりなしとひとつになれば、
きつと感官への啓けは、
考へる光を受けとめる。
Es festigt sich Gedankenmacht
Im Bunde mit der Geistgeburt,
Sie hellt der Sinne dumpfe Reize
Zur vollen Klarheit auf.
Wenn Seelenfülle
Sich mit dem Weltenwerden einen will,
Muß Sinnesoffenbarung
Des Denkens Licht empfangen.
ここで言はれてゐる「考へる力」とは、余計なことを考へない力のことである。
そして、この時、この場で、何が一番大事なことかを考へる力のことだ。
その力を持つためには、練習が要る。その練習のことを、シュタイナーはメディテーションと言つた。
普段に感じる共感(シンパシー)にも反感(アンチパシー)にも左右されずに、浮かんでくる闇雲な考へを退けて、明らかで、鋭く、定かなつくりをもつた考へに焦点を絞る。ひたすらに、そのやうな考へを、安らかに精力的に考へる練習だ。
強い意欲をもつて考へることで、他の考へが混じり込んだり、シンパシーやアンチパシーに巻き込まれて、行くべき考への筋道から逸れて行つてしまわないやうにするのだ。
その繰り返すメディテーションによつて、「考への力」が強く鍛へられ、その力がそのまま、「光」の働きであることを感覚するやうになる。
この時期に、メディテーションによつて強められる考への力が、こころに及んでくるひとつひとつのそそりを明るく照らす。
一つ一つの感覚、情、意欲、考へが、考への明るく晴れ渡らせる光によつて、明らかになる。
それが明らかになるほどに、こころも晴れ晴れとした満ち足りを感じる。こころのなかで感覚と精神が結ばれるからだ。
そして、そのこころの満ち足りは、自分だけの満ち足りに尽きずに、人との関はり、世との関はりにおいてこそ、本当の満ち足りになるはずだ。
こころの満ち足りは、やがて、ことばとなつて羽ばたき、人と人とのあひだに生きはじめ、精神となつて、人と世のあひだに生きはじめる。
こころの満ち足りが、世の繰りなしとひとつになつてゆく。
ひとりで考へる力は、考へる光となつて、人と人のあひだを、人と世のあひだを、明るく晴れ渡すのだ。
考への力が強まる、
精神の生まれとの結びつきの中で。
それは感官へのおぼろげなそそりを
まつたき明らかさへと晴れ渡らせる。
こころの満ち足りが
世の繰りなしとひとつになれば、
きつと感官への啓けは、
考へる光を受けとめる。
2022年02月01日
こころのこよみ(第44週) 〜ひとりの人〜
東山魁夷「冬華」
新しい感官へのそそりに捉へられ、
こころに明らかさが満ちる。
満を持して精神が生まれたことを念ふ。
世の繰りなしが、絡み合ひながら芽生える、
わたしの考へつつ創りなす意欲とともに。
Ergreifend neue Sinnesreize
Erfüllet Seelenklarheit,
Eingedenk vollzogner Geistgeburt,
Verwirrend sprossend Weltenwerden
Mit meines Denkens Schöpferwillen.
空気の冷たさはいつさう厳しくなつてきてゐるが、陽の光の明るさが増してきてゐることが感じられる。
わたしたちの感官に、まづ、訴へてくるのは、その陽の光だ。
冬から春への兆しを、わたしたちは何よりもまず、陽の光のありやうに感じ取つてゐる。
しかし、現代を生きてゐるわたしたちは、その外なる陽の光が明るさを増してきてゐる、そのことを感じはしても、それ以上の何かを感じることはほとんどないのではないだらうか。
昔の人は、その陽の光に、あるものを感じ取つてゐた。
それは、ひとりひとりを、神の力と結ぶことによつて、まさしく精神としての『人』とする力だ。
太陽を見上げたときに、次のやうな情を強く感じた。
「この天の存在から、
光とともにわたしたちの内に、
わたしたちを暖め、
わたしたちを照らしながら、
わたしたちに染み渡り、
わたしたちひとりひとりを
『人』とするものが流れ込んでくる」
(『人の生きることにおける、引き続くことと繰りなすこと 1918年10月5日ドルナッハ』より)
しかし、だんだんと、そのやうな情と感覚は失はれてきた。
陽の光を通して感じてゐた神からの叡智がだんだんと失はれてきた。
そして人は、自分の周りの事柄に対しては知識を増やしていつたが、ますます、自分は何者か、自分はどこからやつてき、どこへ行くのかが、分からなくなつてきた。
人といふものが、そして自分自身といふものが、ひとつの謎になつてきたのだ。
そのとき、ゴルゴタのこと、イエス・キリストの十字架における死と、墓からの甦りが起こつた。
もはや、物質としての太陽の光からは、わたしたちを『人』とする力を感じ、意識することはできない。
しかし、キリストがこの世にやつてき、さらにゴルゴタのことが起こることによつて、もはや外の道ではやつてくることができない力、人の最も内なる深みから、精神から、自分を『ひとりの人』とする力が立ち上がつてくる可能性が開けた。
イエス・キリストはみづからをかう言つた。「わたしは、世の光である」。
ふたたび、ひとりひとりの人に、みづからを『ひとりの人』として捉へうる力がもたらされた。
その力は物質の太陽の光からでなく、精神の光から、もたらされてゐる。
わたしたちは、1月から2月へかけて、明るくなりゆく陽の光からのそそりとともに、精神的な観点においても、内なる陽の光からのそそりを捉へてみよう。
さうすることから、きつと、わたしたちは、みづからの出自を改めて明らかさとともに想ひ起こすことができる。
「わたしは、ひとりの<わたし>である」と。「わたしは、そもそも、精神の人である」と。「<わたし>は、ある」と。
キリスト、そしてゴルゴタのことの意味。
わたしたちは、そのことを、「いま、想ひ起こす」「念ふ」ことができる。
「新しい感官へのそそりに捉へられ、
こころに明らかさが満ちる。
満を持して精神が生まれたことを念ふ」
そして、明るさを増してきてゐる陽の光によつて、外の世において、命が、植物や動物たちの中で繰りなしてくる。絡みあひながら、芽生えながら。
さらに、わたしたち人は、秋から冬の間に、まぎれなく考へる力を内において繰りなしてきた。
考へる力には、意欲の力が注ぎ込まれてこそ、まぎれなく考へる力となる。
考へる力に、創りなす意欲が注ぎ込まれてこそ、人はまぎれなく考へる力において、自由になりうる。
外の世に、どんなことが起こらうと、どんな出来事が繰りなされやうと、こころに、意欲的に考へる働きを繰りなして行くことで、わたしたちは、みづから自由への道を開いていくことができる。
日々、自分に向かつてやつてくるものごとのひとつひとつを、自分に対してのメッセージとして受けとり、考へていき、そして振舞つていくことによつて、開けてくる道がある。
その道は、『ひとりの人』としてのわたしを、自由へと、導いていくだらう。
新しい感官へのそそりに捉へられ、
こころに明らかさが満ちる。
満を持して精神が生まれたことを念ふ。
世の繰りなしが、絡みあひながら芽生える、
わたしの考へつつ創りなす意欲とともに。
2022年01月24日
こころのこよみ(第43週)〜冷たさに立ち向かふこころの炎〜
冬の深みにおいて、
精神のまことのありやうが暖まる。
それは、世の現はれに、
胸の力を通してありありとした力を与へる。
「世の冷たさに力強く立ち向かふのは、
人の内なるこころの炎」
In winterlichen Tiefen
Erwarmt des Geistes wahres Sein,
Es gibt dem Weltenschine
Durch Herzenskräfte Daseinsmächte;
Der Weltenkälte trotzt erstarkend
Das Seelenfeuer im Menscheninnern.
いま、人と人は、どれほど分かり合へてゐるだらうか。
人と人との間に、無関心が、行き違ひが、無理解が、そして憎しみまでもが立ちはだかつてゐる。
自分自身のこととしても、そのことを痛切に感じる。
わたしたちは、そのやうなあり方を「世の冷たさ」として、密かに、ときにひどく辛く感じてゐる。
その冷たさから自分を守らうとして、こころを閉ざす。
こころを閉ざした者同士がいくら出会つても、求めてゐる暖かさは得られさうにない。
しかし、このあり方が時代の必然であることを知ることができれば、何かを自分から変へていくことができるのではないだらうか。
15世紀以降、人のこころのあり方が変はつてきてゐる。
意識のこころの時代だ。
この時代において、まづ、人のこころは冷たく、硬い知性に満たされる。
その知性は、すべてを、人までをも、物質として、計量できるものとして扱はうとする。
この時代において、この冷たく硬い知性が、人のこころに満ちてきたからこそ、現代の文明がここまで発達してきた。
そして、文明が発達すればするほど、人は、己れが分からなくなつてくる。人といふものが分からなくなつてくる。
人といふものは、からだだけでなく、こころと精神からもなりたつてゐるからだ。
だから、その冷たく硬い知性を己れのものにすることによつて、人は、人といふものがわからなくなり、他者との繋がりを見失つてしまふ。
己れの己れたるところとの繋がりさへも見失つてしまふにいたる。
文明の発達を支へる冷たい知性が、冷たい人間観、人間関係を生み出した。
そして、そのやうに繋がりが断たれることによつて、人は、自分が「ひとりであること」を痛みと共に感じざるをえない。
以前の時代には、無意識に繋がつてゐた人と人との関係。人と自然との関係。人と世との関係。
それらが断たれていく中で、人はひとりであることに初めて意識的になり、改めて、自分の意志で繋がりを創つていく力を育んでいく必要に迫られてゐる。
しかし、むしろ、かう言つた方がいいかもしれない。
ひとりになれたからこそ、そのやうな力を育んでいくことができるのだと。
ひとりになることによつて、初めて、人と繋がることの大切さにしつかりと意識的になることができる。
だから、このやうな人と人との関係が冷たいものになつてしまふことは、時代の必然なのだ。
そして、この時代の必然を見やる、ひとり立ちしたひとりひとりの人が、みづから天(精神)と繋がり、垂直の繋がりをアクティブに創り出すならば・・・。
そのとき、至極精妙な天からの配剤で、横にゐる人との繋がり、水平の繋がりが与へられる。
垂直の繋がりが、ひとりひとりの人によつて育まれるがゆゑに、水平の繋がりが天から与へられる。
さうして初めて、人と人とが分かち合ひ、語り合ひ、愛し合ふことができる。
地上的な知性で、地上的なこころで、地上的なことばで、人と人とが分かり合へるのではない。
そのやうな意識のこころの時代が始まつて、すでに500〜600年経つてゐる。
わたしたち人は、そのやうに、いつたん他者との関係を断たれることによつて、痛みと共に、冷たく、硬い知性と共に、ひとりで立つことを習つてきた。
そして、そろそろ、ひとりで立つところから、意識のこころの本来の力、「熱に満ちた、暖かい知性」、「頭ではなく、心臓において考へる力」、「ひとり立ちして愛する力」を育んでいく時代に入つてきてゐる。
他者への無関心、無理解、憎しみは、実は、人が、からだを持つことから必然的に生じてきてゐる。
硬いからだを持つところから、人は冷たく硬い知性を持つことができるやうになり、からだといふ潜在意識が働くところに居座つてゐる他者への無理解、憎しみが、こころに持ち込まれるのだ。
だから、これからの時代のテーマは、そのやうな、からだから来るものを凌いで、こころにおいて、暖かさ、熱、人といふものの理解、愛を、意識的に育んでいくことだ。
「世の冷たさに力強く立ち向ふのは、人の内なるこころの炎」だ。
その「内なるこころの炎」は、天に向かつて燃ゑ上がる。精神に向かふ意志の炎となる。
日常生活を送るうへで、日々の忙しさにかまけつつも、なほかつ求めざるを得ないこころの糧。それは、精神である。
地上に生きる人にとつて、なくてはならないこころの糧としての精神。その精神の具象的なもののうち、代表的なもののひとつは、キリストであらう。
キリストのこと、クリスマスにをさな子としてこの世に生まれたこと、春を迎へようとする頃、ゴルゴタの丘の上で起こつたこと、そのことを深みで感じつつ、深みで知りゆくことによつて、ますます意識的にこころを精神に向かつて燃ゑ上がらせることができる。
そして、人と人との間に吹きすさんでゐる無理解と憎しみといふ「世の冷たさ」に立ち向かふことができる。
ひとりで立ち、ひとりで向かひ合ふことができる。
キリストのことを考へないまま信じるのではなく、キリストのことを考へて、想ひ、そして知りゆくこと。
意識のこころの時代において、人は、そのやうなキリスト理解をもつて、みづからのこころに炎を灯すことができる。
なぜなら、キリストの別の名は、「わたしは、ある」だからだ。
「わたしは、ある」。
さう、こころに銘じるとき、わたしたちは、こころに炎を感じないだらうか。
そして、キリスト教徒であるなしにかかはらず、キリストと繋がる。
冬の深みにおいて、
精神のまことのありやうが暖まる。
それは、世の現はれに、
胸の力を通してありありとした力を与へる。
「世の冷たさに力強く立ち向かふのは、
人の内なるこころの炎」
2022年01月16日
こころのこよみ(第42週) 〜こころをこめてする仕事〜
この冬の闇に
みづからの力の啓けがある。
こころからの強い求めがある。
暗闇にそれをもたらし、
そして予感する。
胸の熱を通して、感官が啓くことを。
Es ist in diesem Winterdunkel
Die Offenbarung eigner Kraft
Der Seele starker Trieb,
In Finsternisse sie zu lenken
Und ahnend vorzufühlen
Durch Herzenswärme Sinnesoffenbarung.
毎週、この『こころのこよみ』を生きていく。
毎週、ここに記されてある詩句を繰り返しこころの内で味はつてみる。
さうすると、ここに記されてあることばが、それを読んでゐる自分自身のこころの歩みと、重なつてくるのを感じることができる。
そのこころに重なつてきてゐる力は、さらに、心(物質の心臓とエーテルの心臓の重なりあひ)の働きを活性化させるやうに感じる。
そのことは、この詩句に沈潜するほどに感じられる、体内に流れ出す熱い血をもつて確かめられる。
物質の心臓は、物質のからだの中心を司る器官で、血液の巡りによつて活き活きと脈打つてゐる。
エーテルの心臓は、人のエーテルのからだの中心を司る器官だが、愛の巡りによつて活き活きと脈打ち、そこから光が発し、熱が生まれる。
内に抱く考へが、愛を基にしたものならば、その考へはエーテルの心臓を活き活きと脈打たせる。
さうでないならば、その考へはその心臓を締め付ける。
活き活きと脈打つエーテルの心臓が光と熱をもつて、物質の心臓の働きを促し、熱い血の巡りを促す。それをここでは、「胸の熱」としてゐる。その胸の熱が、さらに、こころの働きといふ働きを促しだす。
その活性化されだしたこころの働きを通して、ものが、よく見えだし、よく聴こえはじめる。
そして、肉の目や耳には映らない、こころのもの、他者の情や他者の考へがリアリティーをもつて、心臓で感じられるやうになつてくる。
きつと、その道は、人の情や考へだけでなく、ものといふもの、例へば、植物や動物の情、地水風火の情や考へなどをも感じられることへと繋がつていくだらう。
頭の脳で理解するのではなく、心臓で感じ、心臓で考へることができるやうになつていくだらう。
外なる感官だけでなく、そのやうな内なる感官もが啓きはじめ、働きはじめる。
「そして予感する
胸の熱を通して、感官が啓くことを」
そして、その啓かれるものを受けとることを通して、わたしたちはどう振舞ふことができるだらうか。
「 みづからの力の啓け
こころからの強い求め
それを冬の暗闇にもたらす」
その振る舞ひは、きつと、その人その人の仕事として、世の冬の暗闇に光をもたらすものになるはずだ。
お金を稼ぐことが仕事をすることだといふ意味ではなく、その人がこころをこめてすることこそが仕事であるとするならば、わたしたちは、いま、いる場所で、
その仕事を始めることができる。
この冬の闇にみづからの力の啓けがある。
こころからの強い求めがある。
暗闇にそれをもたらし、
そして予感する。
胸の熱を通して、感官が啓くことを。
2022年01月10日
こころのこよみ(第41週)〜胸からほとばしる力〜
こころから生み出す力、
それは胸の基からほとばしりでる。
人の生きる中で、神々の力を、
ふさはしい働きへと燃え上がらせるべく、
おのれみづからを形づくるべく、
人の愛において、人の仕事において。
Der Seele Schaffensmacht
Sie strebet aus dem Herzensgrunde
Im Menshenleben Götterkräfte
Zu rechtem Wirken zu entflammen,
Sich selber zu gestalten
In Menschenliebe und im Menschenwerke.
人は、善きこと、素晴らしいことを、大いに考へることはできても、それを行為にまで移していくことには、難しさを感じるのではないだらうか。
考へることや思ひ描くこと。そして、実際に、すること。
この間には、人それぞれにそれぞれの距離がある。
「血のエーテル化」(1911年10月1日 バーゼル)と題された講演でシュタイナーが語つてゐることを要約して、今週の『こよみ』をメディテーションする上での助けにしてみる。
―――――――
人は、昼間、目覚めつつ考へてゐるとき、心臓からエーテル化した血が光となつてほとばしりでて、頭の松果体にまで昇つていき、輝く。
そして、人は、夜眠つてゐるあひだ、考へる力が眠り込み、逆に意志・意欲が目覚め、活発に働く。そのとき、大いなる世(マクロコスモス)から人の頭の松果体を通り、心臓に向かつて、「いかに生きるべきか」「いかに人として振舞ふべきか」といつた道徳的な力が、その人に朝起きたときに新しく生きる力を与へるべく、色彩豊かに流れ込んでくる。
それは、神々が、その人を励ますために夜毎贈つてくれてゐる力だ。
だから、人は夜眠らなければならない。
人が少しでも振る舞ひにおいて成長していくためには、眠りの時間に神々から助けをもらふ必要がある。
昼間、人において、「こころから生み出す力」、考へる力が、「胸の基」から、エーテル化した血が光となつてほとばしりでる。
その下から上へのエーテルの流れは、頭の松果体のところで、夜、上から下への神々の力と出会ひ、そこで光が色彩をもつて渦巻く。
その光の輝きは心臓あたりにまで拡がつていく。
それが、人といふミクロコスモスで毎日起こつてゐることがらだ。
そして、マクロコスモス、大いなる世からの視野には、キリスト・イエスがゴルゴタの丘で血を流したとき以来、そのキリストの血がエーテル化し、地球まるごとを中心から輝かせてゐるのが視える。
そのとき以来、ひとりひとりの人が、キリストのゴルゴタのことを親しく知るほどに、みづからの内なるエーテル化した血の流れが、キリストのエーテル化した血とひとつになつて、昼間、人を輝かせ、力づけてゐる。
そのキリスト化したエーテルの血と、マクロコスモスから夜毎やつてくる神々の力とが出会ふことで、人は、さらに昼間、愛において、仕事において、その神々の力をふさわしい働きへと燃え上がらせる。
考へ、思ひ描くこと。(胸から上つていくエーテル化した血の流れ)
そして、実際に、すること。(高い世から心臓に降りてくる力)
その間を、人みづからが埋めていく。
そのふたつを、人みづからが重ねていく。
それが時代のテーマだ。
―――――――
シュタイナーによつて語られたこれらの精神科学からのことばを、何度も繰り返して自分の考へで辿つてみる。鵜呑みにするのではなく、折に触れて、何度も考へてみる。
キリストのゴルゴタのことを親しく知るといふことは、自分自身が生まれ育つた文化風土において、どういふ意味を持つのか、考へてみる。
キリストのゴルゴダのことの意味は、自分以外の人や物事を念ふて死ぬことができる、といふことではないだらうか。
むかしの日本に、さういふ文化が根付いてゐたこと。大いなる理想を考へ、そしてその通りに実行してゐた人が数多ゐたこと。
わたしたちの先祖の方々が当り前のやうに歩いてゐたそのやうな道を、わたしたち現代人が想ひ起こすとき、そのやうな道があつたことを、ありありと念ふとき、本当に自分のこころが、輝き、力づけられるかどうか、感じつつ、確かめていく。
そして、そのやうに輝き、力づけられた自分のこころと、神々の力が、交はつてゐること。
その交はりがあることによつて、自分の仕事が、充実して、まるで自分以上の力、神々の力が燃え上がるやうな瞬間を迎へることができること。
そのことを感じつつ、確かめていく。
こころから生み出す力、
それは胸の基からほとばしりでる。
人の生きる中で、神々の力を、
ふさはしい働きへと燃え上がらせるべく、
おのれみづからを形づくるべく、
人の愛において、人の仕事において。
2021年09月22日
こころのこよみ(第25週) 〜仕事の季節〜
畏(かしこ)くも、わたしはいま、わたしを取り戻し、
そして輝きつつ、内なる光を拡げゆく、
場と時の闇の中へと。
眠りへと自然がせきたてられるとき、
こころの深みよ、目覚めよ、
そして目覚めつつ、陽のたぎりを担ひゆけ、
寒い冬のさなかへと。
Ich darf nun mir gehören
Und leuchtend breiten Innenlicht
In Raumes- und in Zeitenfinsternis.
Zum Schlafe drangt naturlich Wesen,
Der Seele Tiefen sollen wachen
Und wachend tragen Sonnengluten
In kalte Winterfluten.
陽の光と熱を浴びながら歩き回る夏の彷徨が終はつて、静かに立ち止まり、内なるこころの光と熱を生きていく秋が始まつてゐる。
内なるこころの光と熱によつて、こころが目覚めゆくといふこと。
「わたしがわたしである」ことに目覚めゆくといふこと。
そして、こころが生きる情熱を感じ始めるといふこと。
これほど、頼りになるものがあるだらうか。
かうして、わたしたちは、秋から冬にかけて、たとへ外の世が生命力を失つて行き、枯れて行つても、内なるこころは、きつと、「ひとりのわたし」として、活き活きと目覚めゆくことができる。
夏にいただいた陽の光と熱の大いなる働きを、内なるこころの光と熱としてゆく。
そして、来たる冬の寒さのさなかへと意欲的にそのこころの光と熱を注ぎ込んでゆくことができる。
光と熱。
それはいまやわたしのこころの内から発しようとしてゐる。
そしてこれからやつてくる冬の闇と寒さとのコントラストを際立たせようとしてゐる。
陽の光と熱と共にあの夏をからだ一杯で生きたからこそ、この秋があるのだ。そして、この秋が、冬へと引き続いていく。
そのやうな季節のつながり、くりなし、なりかはりをていねいに、確かに、感じること。それが、内なるこころのつながり、くりなし、なりかはりをも自覚することへと繋がつていく。
四季を生きること、一年のいのちを生きることが、みづからを知ることへとわたしを導く。
この『こころのこよみ』に沿ひつつ、四季それぞれに息づいてゐる「ことば」を聴く。
ならば、それらの「ことば」が、生命ある連続としてこころにしづしづと流れてくる。
夏、外なる光と熱の中にわたしは溶け込み、ある意味、わたしはわたしを見失つてゐた。
秋、わたしはわたしを取り戻し、萌してゐた希みが羽を拡げようとしてゐる。
さあ、これからが、稔りの季節、粛々とした仕事の季節だ。
畏(かしこ)くも、わたしはいま、わたしを取り戻し、
そして輝きつつ、内なる光を拡げゆく、
場と時の闇の中へと。
眠りへと自然がせきたてられるとき、
こころの深みよ、目覚めよ、
そして目覚めつつ、陽のたぎりを担ひゆけ、
寒い冬のさなかへと。
2021年09月17日
こころのこよみ(第24週) 〜生産的であるもののみがまことである〜
みづからを絶えず創り上げつつ、
こころは己れのありやうに気づく。
世の精神、それは勤しみ続ける。
みづからを知ることにおいて新しく甦り、
そしてこころの闇から汲み上げる、
己れの感官の意欲の稔りを。
Sich selbst erschaffend stets,
Wird Seelensein sich selbst gewahr;
Der Weltengeist, er strebet fort
In Selbsterkenntnis neu belebt
Und schafft aus Seelenfinsternis
Des Selbstsinns Willensfrucht.
創る人は幸ひだ。生み出す人は幸ひだ。育てる人は幸ひだ。
金と引き換へにものを買ひ続け、サービスを消費し続ける現代人特有の生活のありやうから、一歩でも踏み出せたら、その人は幸ひだ。
その一歩は、料理を作ることや、手紙や日記を書いてみることや、花に水をやることや、ゴミを拾ふことや、そんなほんの小さな行ひからでもいいかもしれない。
この手と脚を動かし、世と触れ合ふ。
そのやうな行為によつてこそ、みづからを創り上げることができ、その行為からこそ、こころは己れのありやうに気づく。
そして、「世の精神」。
それは、一刻も休まず、勤しみ、生み出してゐるからこそ、「世の精神」であり、だからこそ、太陽や月は周期を持ち、四季は巡る。
「世の精神」はそのやうにして絶えず勤しみながら、人に働きかけ、また人からの働きかけを受けて、絶えず己れを知りゆかうとしてゐる。
「世の精神」みづからが、人との交流を通して、己れを知らうとしてゐる。「世の精神」は、人の働きを待つてゐる。
そして更に「世の精神」は、人といふものにみづからを捧げようとし、人といふものから愛を受け取ることを通して、より確かに己れといふものを知りゆき、己れを知れば知るほど、そのつど新たに新たに「世の精神」は甦る。
同じく、わたしたち人は、そんな「世の精神」に倣ひつつ、地球上のものといふものに働きかけ、ものを愛し、ものに通じていくことをもつて、みづからを新たに新たに知りつつ、たとへ、肉体は年老いても、そのつどそのつどこころは甦り、精神的に若返ることができる。
「世の精神」には、人が必要であり、人には「世の精神」が必要なのだ。
我が国、江戸時代中期を生きた稀代の国学者、本居宣長(1730-1801)も、そして、ゲーテ(1749-1832)といふ人も、その「世の精神」に倣ひ続け、「ものにゆく道」を歩き通した人であり、両人の残された仕事の跡を顧みれば、晩年に至るまでのその若々しい生産力・創造力に驚かされる。
シュタイナーは、そのゲーテのありかたをかう言ひ当ててゐる。
ーーーーー
ゲーテは、ひとたび、こんな意味深いことばを語りました。
「生産的であるもののみが、まことである」
それは、かういふことです。
人は、きつと、みづからを、まことの有するところとなします。
そして、まことは働きかけます。
そして、人が生きて歩むとき、まことは、まことであることの証を、生産的であることを通して見いだします。
これが、彼にとつて、まことの試金石でした。
すなはち、生産的であるもののみが、まことです。
(1908年10月22日 於ベルリン 講演「ゲーテの密やかなしるし」より)
ーーーーー
秋には、「己れの力」が「意欲の稔り」として発露してくる。
創ること、生み出すこと、育てることなどの行為は、わたしたち人にこころの確かさ、安らかさ、活発さを取り戻させてくれる。
そして、行為し、ものと交はり、人と交はる時に、各々人は初めて、己れのこころの闇に直面する。壁に突き当たる。
しかしながら、その己れの闇を認め、赦すことからこそ、「わたしはある」「わたしはわたしである」といふ、こころの真ん中の礎である情に目覚め、身をもつて生きつつ、己れの感官の意欲の稔りを、汲み上げていく。
「ものにゆくこと」「生産的・創造的であること」、それがまことへの道だ。
みづからを絶えず創り上げつつ、
こころは己れのありやうに気づく。
世の精神、それは勤しみ続ける。
みづからを知ることにおいて新しく甦り、
そしてこころの闇から汲み上げる、
己れの感官の意欲の稔りを。
2021年09月14日
こころのこよみ(第23週) 〜霧のとばり〜
秋めいて和らぐ、
感官へのそそり。
光の顕れに混じる、
ぼんやりとした霧のとばり。
我が身をもつて観る、場の拡がりに、
秋、そして冬の眠り。
夏はわたしに、
みづからを捧げてくれた。
Es dampfet herbstlich sich
Der Sinne Reizesstreben;
In Lichtesoffenbarung mischen
Der Nebel dumpfe Schleier sich.
Ich selber schau in Raumesweiten
Des Herbstes Winterschlaf.
Der Sommer hat an mich
Sich selber hingegeben.
ゆつくりと和らいでくる陽の光。
それとともに、感官へのそそりも和らいでくる。
そして、秋が日一日と深まりゆくにつれて、過ぎ去つた夏と、これからやつてくる冬とのあひだに、立ちかかるかのやうな、霧のとばり、「秋霧」。
その「とばり」によつて、戸の向かう側とこちら側にわたしたちは改めてこころを向けることができる。
戸の向かう側において、過ぎ去つた夏における世の大いなる働きの残照をわたしたちは憶ひ起こす。
夏における外なる世の輝き。
そして夏における内なるこころの闇。
その外と内のありやうを憶ひ起こす。
そして、戸のこちら側において、だんだんと深まつてくる秋における生命の衰へと、来たるべき冬における生命の死とを、わたしたちは予感する。
これからの冬における外なる世の闇。
そしてクリスマスに向かふ内なるこころの輝き。
その外と内のありやうを予感する。
夏を憶ひ起こすことと、冬を予感すること。
こころのアクティブな働きをもつて、その間に、わたしたちは、いま、立つことができる。
さうすることで、きつと、こころが和らげられ、静かでありながらも、意欲を滾らせてゆくことができる。
秋めいて、和らぐ、
感官へのそそり。
光の顕れに混じる、
ぼんやりとした霧のとばり。
我が身をもつて観る、場の拡がりに、
秋、そして冬の眠り。
夏はわたしに、
みづからを捧げてくれた。
2021年08月28日
こころのこよみ(第22週) 〜深まりゆく感謝の念ひ〜
世の拡がりから来る光が、
内において力強く生き続ける。
それはこころの光となり、
そして、精神の深みにおいて輝く。
稔りをもたらすべく、
世の己れから生まれる人の己れが、
時の流れに沿つて熟させていく。
Das Licht aus Weltenweiten,
Im Innern lebt es kräftig fort:
Es wird zum Seelenlichte
Und leuchtet in die Geistestiefen,
Um Früchte zu entbinden,
Die Menschenselbst aus Weltenselbst
Im Zeitenlaufe reifen lassen.
鈴木一博氏が「こころのこよみ」の解説されてゐて、この週のこよみにこのやうな文章を記してをられる。
そもそもひとつであるところが、
外にあつて「光」と呼ばれ、
内にあつて「意識」と呼ばれる。
内と外はひとつの対であり、
リアルなところは、内と外のあはひにある。
ゲーテのことばにかうある。
「なにひとつ内にあらず、
なにひとつ外にあらず /
そも、内にあるは外にあるなり」
(Nichits ist drinnen,nichits ist draußen;/
Denn was innen,das ist außen.「Epirrhema」)
夏の間、外に輝いてゐた陽の光が、いつしか、こころの光になつてゐる。
そのこころの光は、萌しであり、これから、だんだんと、長けゆく。
そのこころの光は、感謝の念ひであり、だんだんと深まり、秋から来たるべき冬に向けて、だんだんと、熟してゆく。
その成熟は、冬のさなかに訪れる新しい年の精神の誕生を我がこころに迎へるための、なんらかの備へになる。
それは、太陽の輝きの甦りに向けての備へである。
むかし、我が国では、そもそも、その冬至の頃(旧暦の十一月の終はり頃)に、新嘗祭(にいなへのまつり)を毎年行つて来た。
一年の米の収穫には、いい年もあれば、悪い年もある。
しかし、どんな年であれ、米(むかしは米のことを「とし」と言つた)を授けて下さつた神に対する感謝の念ひを育みつつ、日本人は生きて来た。
この感謝の念ひが、秋から冬への移り行きの中に生まれる寂しさ、孤独、侘しさといつた情を凌ぐ、静かな元手となつてゐた。
それが、また、こころの光であつた。
西の国々では、冬至の直後にイエス・キリストの誕生を祝ふクリスマスがある。
そして、キリストの誕生とは、「ひとり生みの子ども」「神の子」「ひとりであることのもたらし手」「世の己れから生まれる人の己れ」の誕生であつた。
西洋では、一年の稔りへの感謝の念ひを年の終はりにすることに代はつて、キリストの誕生を寿いだのだ。
それは、「ひとりであること」の稔りであつた。
その「ひとりであること」の自覚の光が、秋から冬に向けて熟して行く。
憂きわれをさびしがらせよ閑古鳥 芭蕉
人は、「ひとりであることの自覚」から生まれる寂しさといふ情にまで徹してみることで、鬱々としたもの思ひを突き抜けることができる。
そして、この「ひとりであること」の自覚の上にこそ、キリストは寄り添つてくださるのかもしれない。
そして、「ひとりであること」の自覚を持つひとりの人とひとりの人が出会ふところにこそ、精神は息づく。
他を否むところからではなく、他に感謝することからこそ、人のうちに己れが生まれる。
他に感謝するとは、ひとりの人としてのわたしが、世の己れを世の己れとしてしつかりと認めることであり、その他の己れを認める力が、わたしの己れをひとり立ちさせるのだ。
ひとりの他者も、世である。
芭蕉は、また、この「閑古鳥」も「ひとり」であることを認め、ひとりであるもの同志として、その閑古鳥との精神の交流、閑古鳥への感謝をも感じてゐる。
世の拡がりから来る光が、
内において力強く生き続ける。
それはこころの光となり、
そして、精神の深みにおいて輝く。
稔りをもたらすべく、
世の己れから生まれる人の己れが、
時の流れに沿つて熟させていく。
2021年08月25日
こころのこよみ(第21週) 〜問ひを立てる力〜
わたしはこれまでにない稔りの力を感じる。
それはしつかりとわたしにわたしみづからを与へてくれる。
わたしは感覚する、萌しが熟し、
そして予感が光に満ちて織りなすのを。
内において、己れの力として。
Ich fuhle fruchtend fremde Macht
Sich starkend mir mich selbst verleihn,
Den Keim empfind ich reifend
Und Ahnung lichtvoll weben
Im Innern an der Selbstheit Macht.
「これまでにない稔りの力」とは。
それは、夏、こころにおいて稼がれた、新しい感じ方、考へ方、ものの捉へ方を、その後何度も繰り返し自分自身に引き続き、問ふて、問ふて、問ひ続けることから生まれる力のことである。
夏は、豊かな自然の輝きが人に語りかけてくるときであつたし、人と人とが出会ひ、交はる季節だつた。
しかし、そのやうに外の世が輝いてゐるとき、人と人とが交はる、そんなときこそ、みづからが孤独であることに思はず出くはしてしまふこともあるのではないだらうか。
みづからが孤独であることに出くはして、初めて人は孤独であることの意味を見いださうと葛藤し始める。
そして葛藤するといふことは、「わたしは、いつたい、どのやうに生きていきたいのか」といふ問ひをみづからに問ふといふことでもある。
みづからに問ひ続ける。そして答へを探し求める。
その自問自答の繰り返しが、何を育てるか。
己れみづからに問ひを立てる力を育てるのだ。
その「問ひを立てる力」が、「わたしみづからの力」「己れの力」としての「稔りの力」をわたしにもたらしてくれる。
ふさはしく問ひを立てることこそが、手前勝手な答へを作りだして満足することへと自分を導くのではなく、精神といふ高い次元に耳を澄ませる力になりゆくからだ。
そして、己れが生まれ変はることへの予感が、ゆつくりと、こころの内に光に満ちて織りなしていく。
それは、秋といふ季節ならではのこころの織りなしである。
そのやうにして、秋とは内なる意識が明るんでいく季節だ。
意識が明るむ、とは何とありがたく、幸ひなことだらう。
わたしはこれまでにない稔りの力を感じる。
それはしつかりとわたしにわたしみづからを与へてくれる。
わたしは感覚する、萌しが熟し、
そして予感が光に満ちて織りなされるのを。
内において、己れの力として。
2021年08月16日
こころのこよみ(第20週) 〜享受し、消化し、仕事すること〜
松本 竣介「男の横顔」
わたしはいま、わたしのありやうをかう感じる、
世にあるものから遠ざかれば、
みづからにおいてみづからが消え失せ、
そして己れの基の上にのみ立つならば、
みづからにおいてみづからをきつと殺してしまふ。
So fuhl ich erst mein Sein,
Das fern vom Welten-Dasein
In sich sich selbst erloschen
Und bauend nur auf eignem GrundeIn
sich sich selbst ertoten muste.
秋へと少しづつ歩みを進めていくうちに、わたしたちは、夏の憶ひを何度も反芻し、辿りなほす作業に勤しむことができる。
暑かつたこの夏、何を想ひ、何を考へ、何を感じ、何を欲したか・・・。
さう想ひ起こし、辿り直すことによつて、人はみづからの内で、だんだんと己れの力が強まつてきてゐるのを感じる。
それは、<わたし>の目覚めの時期が秋の訪れとともに再び巡つてくるといふことでもある。
<わたし>の目覚め、己れの力の強まり。
しかし、今週の『こよみ』においては、その<わたし>の目覚め、己れの力の強まりから生まれてしまふ危うさに対して、バランスを取ることが述べられてゐる。
世にあるものから遠ざかれば、
みづからにおいてみづからが消え失せ、
そして己れの基の上にのみ立つならば、
みづからにおいてみづからをきつと殺してしまふ
『いかにして人が高い世を知るにいたるか』(鈴木一博訳)の「条件」の章において、「人がだんだんにみづからを外の世に沿はせなくして、そのかはりに、いきいきとした内の生を育むこと」の大切さが書かれてあるが、それはこれからの季節にわたしたちが勤しむこととして、意識されていいところだ。
しかし、その内の生を育むことが、みづからの内に閉ぢこもることではないことも述べられてゐる。
ーーーーーーーー
●静かに、ひとりきりで、
みづからを深める一時一時には、
みづからが生きたこと、
外の世が語りかけてきたことを、
まさしく静かに、ありのままに想つてみてほしい。
どの花も、どの動物も、どの振る舞ひも、
そのやうな一時において、
思ひもよらない秘密をあかすやうになる。
●享受した後に、
その享受したことから
なにかが顕れるやうにする人が、
みづからの知る才を培ひ、育てる。
その人が、きつと、
享受することだけをありのままに想ふとかではなく、
享受しつづけることを諦めて、
その享受したことを内なる働きによつて
消化するといふことをこそ習ひとするやうになる。
ーーーーーーーー
過ぎ行く現象の中で、何が過ぎ行かず、留まるものか、さう問ふ練習。
外の世との交渉の中で、みづからの共感・反感そのものを見つめる練習。
あのときの喜び、痛み、快、不快が、何をわたしに教へてくれようとしてゐるのか。さう問ふ練習。
それは、享受したこと、感覚したことを、消化するといふこと。
そのやうな一時一時において、「思ひもよらない秘密」があかされる道がだんだんと啓かれてくる。
そして、もう一度、享受するといふこと、外の世に己れを開くことの大切さが述べられる。
ーーーーーーーー
●<わたし>を世にむけて開いてほしい。
その人は、きつと、享受しようとする。
そもそも、享受すればこそ、
外の世がその人へとやつてくる。
その人が享受することに対してみづからを鈍らせるなら、
周りから糧となるものを
取り込むことができなくなつた植物のごとくになる。
しかし、その人が享受することにとどまれば、
みづからをみづからの内に閉ざす。
その人は、その人にとつてはなにがしかであつても、
世にとつては意味をもたない。
その人がみづからの内においていかほど生きようとも、
みづからの<わたし>をすこぶる強く培はうとも、
世はその人を閉め出す。
世にとつてその人は死んでゐる。
●密やかに学ぶ人は、享受するといふことを、
ただみづからを世にむけて気高くする手立てと見てとる。
その人にとつては、享受するといふことが、
世について教へてくれる教へ手である。
しかし、その人は享受することで教へを受けたのちに、
仕事へと進む。
その人が習ふのは、
習つたことをみづからの智識の富として貯へるためではなく、
習つたことを世に仕へることのうちへと据ゑるためである。
ーーーーーーーー
夏から秋へ、そして来たる冬へと、<わたし>を目覚めさせていくこと。
しかし、それは、「仕事」をすること、「世に仕へること」へと繋げていくことによつてこそ、その人の本当の糧、本当の力になつていく。
外の世との交渉を絶たないこと。
内において、メディテーションにおいて、外の世のことを深めること。
そして、その深まりから、外の世に働きかけていくこと。
それが、密やかな学びにおける筋道だ。
わたしはいま、わたしのありやうをかう感じる、
世にあるものから遠ざかれば、
みづからにおいてみづからが消え失せ、
そして己れの基の上にのみ立つならば、
みづからにおいてみづからをきつと殺してしまふ。