[こころのこよみ(魂の暦)]の記事一覧
- 2023/06/18 こころのこよみ(第11週)
- 2023/06/10 こころのこよみ(第10週)
- 2023/06/03 こころのこよみ(第9週)
- 2023/05/27 こころのこよみ(第8週)
- 2023/05/20 こころのこよみ(第7週)
- 2023/05/14 こころのこよみ(第6週)
- 2023/05/06 こころのこよみ(第5週)
- 2023/04/30 こころのこよみ(第4週)
- 2023/04/22 こころのこよみ(第3週)
- 2023/04/15 こころのこよみ(第2週)
- 2023/04/09 こころのこよみ(第1週) 〜甦りの祭り(復活祭)の調べ〜
- 2023/04/01 こころのこよみ(第52週)〜十字架を生きる〜
- 2023/03/25 こころのこよみ(第51週) 〜花が待つてゐる〜
- 2023/03/18 こころのこよみ(第50週)〜願はくば、人が聴くことを!〜
- 2023/03/13 こころのこよみ(第49週) 〜夜と昼〜
- 2023/03/10 こころのこよみ(第48週)〜行はれたし、精神の見はるかしを〜
- 2023/03/10 こころのこよみ(第47週)〜行はれたし、精神の慮りを〜
- 2023/03/10 こころのこよみ(第46週)〜行はれたし、精神の想ひ起こしを〜
- 2023/03/01 こころのこよみ(第45週)〜こころの満ち足り、晴れやかさ〜
- 2023/02/25 こころのこよみ(第44週) 〜ひとりの人〜
2023年06月18日
こころのこよみ(第11週)
この、陽の時に、
あなたは賢き知を得る。
世の美しさに沿ひつつ、
あなたの内にいきいきとあなたを感じ切る。
人の<わたし>はみづからを失ひ、
そして見いだしうる、世の<わたし>の内に。
Es ist in dieser Sonnenstunde
An dir, die weise Kunde zu erkennen:
An Weltenschönheit hingegeben,
In dir dich fühlend zu durchleben:
Verlieren kann das Menschen-Ich
Und finden sich im Welten-Ich.
2023年06月10日
こころのこよみ(第10週)
夏の高みへと
のぼりゆく、陽、輝くもの。
それはわたしの人としての情を連れゆく、
広やかなところへと。
ほのめきをもつて内にて動く、
感覚。おぼろにわたしに知らせつつ。
あなたはいつか知るだらう、
「あなたを今、ひとつの神なるものが感じてゐる」と。
Zu sommerlichen Höhen
Erhebt der Sonne leuchtend Wesen sich;
Es nimmt mein menschlich Fühlen
In seine Raumesweiten mit.
Erahnend regt im Innern sich
Empfindung, dumpf mir kündend,
Erkennen wirst du einst:
Dich fühlte jetzt ein Gotteswesen.
2023年06月03日
こころのこよみ(第9週)
滋賀県草津の小槻神社
我が意欲のこだはりを忘れ、
夏を知らせる世の熱が満たす、
精神とこころのものとしてのわたしを。
光の中でわたしを失くすやうにと、
精神において観ることがわたしに求める。
そして強く、御声(みこゑ)がわたしに知らせる、
「あなたを失ひなさい、あなたを見いだすために」
Vergessend meine Willenseigenheit,
Erfüllet Weltenwärme sommerkündend
Mir Geist und Seelenwesen;
Im Licht mich zu verlieren
Gebietet mir das Geistesschauen,
Und kraftvoll kündet Ahnung mir:
Verliere dich, um dich zu finden.
2023年05月27日
こころのこよみ(第8週)
感官の力が育ちゆく、
神々の創り給ふものとの結びつきのうちに。
それは考へる力を、
夢のまどろみへと沈める。
神々しいものが、
我がこころとひとつになれば、
きつと人の考へるは、
夢のやうなありやうのうちに静かに慎んでゐる。
Es wächst der Sinne Macht
Im Bunde mit der Götter Schaffen,
Sie drückt des Denkens Kraft
Zur Traumes Dumpfheit mir herab.
Wenn göttlich Wesen
Sich meiner Seele einen will,
Muß menschlich Denken
Im Traumessein sich still bescheiden.
2023年05月20日
こころのこよみ(第7週)
我が己れ、それはいまにも離れ去らうとしてゐる、
世の光に強く引き寄せられて。
さあ、来たれ、汝よ、我がほのめきよ、
汝がふさはしきところに、力に満ちて、
考へる力に代はりて。
それは感官の輝きの中に、
消え去らうとしてゐる。
Mein Selbst, es drohet zu entfliehen,
Vom Weltenlichte mächtig angezogen.
Nun trete du mein Ahnen
In deine Rechte kräftig ein,
Ersetze mir des Denkens Macht,
Das in der Sinne Schein
Sich selbst verlieren will.
2023年05月14日
こころのこよみ(第6週)
立ち上がる、己れなりであることから、
わたしのわたしたるところ。そしてみづからを見いだす、
世の啓けとして、
時と場の力の中で。
世、それはいたるところでわたしに示す、
神々しいもとの相(すがた)として、
己れなりの末の相(すがた)のまことたるところを。
Es ist erstanden aus der Eigenheit
Mein Selbst und findet sich
Als Weltenoffenbarung
In Zeit- und Raumeskräften;
Die Welt, sie zeigt mir überall
Als göttlich Urbild
Des eignen Abbilds Wahrheit.
2023年05月06日
こころのこよみ(第5週)
光の内に、精神の深みから
その場その場で実り豊かに織りなしつつ、
神々の創りたまふものが啓かれる。
その内にこころそのものが顕れる、
広がりつつ、ありありとした世に、
そして立ち上がりつつ、
狭い己れの内なる力から。
Im Lichte, das aus Geistestiefen
Im Räume fruchtbar webend
Der Götter Schaffen offenbart:
In ihm erscheint der Seele Wesen
Geweitet zu dem Weltensein
Und auferstanden
Aus enger Selbstheit Innenmacht.
2023年04月30日
こころのこよみ(第4週)
ボッティチェリ「ヴィーナスの誕生」
「わたしは感じる、わたしのわたしたるところを」
さう感覚が語る。
それは陽のあたる明るい世の内で、
光の流れとひとつになる。
それは考へるに、
明るくなるやうにと暖かさを贈り、
そして人と世を、
ひとつに固く結びつけようとする。
Ich fühle Wesen meines Wesens:
So spricht Empfindung,
Die in der sonnerhellten Welt
Mit Lichtesfluten sich vereint;
Sie will dem Denken
Zur Klarheit Wärme schenken
Und Mensch und Welt
In Einheit fest verbinden.
※普通、「Denken」といふドイツ語を訳すときには、「思考」と訳すことが多いのですが、「denken」といふ動詞(考へる)がそのまま名詞になつてゐるので、その動きを活かすべく、「考へる」と動詞的に訳してゐます。
2023年04月22日
こころのこよみ(第3週)
世のすべてに語りかける、
己れを忘れ、
かつ、己れのおほもとを肝に銘じながら、
人の育ちゆく<わたし>が、語りかける。
「あなたの内にわたしを解き放つ、
わたし自身であることの鎖から。
わたしは解き明かす、まことわたしたるところを」
Es spricht zum Weltenall,
Sich selbst vergessend
Und seines Urstands eingedenk,
Des Menschen wachsend Ich:
In dir befreiend mich
Aus meiner Eigenheiten Fessel,
Ergründe ich mein echtes Wesen.
2023年04月15日
こころのこよみ(第2週)
外なるすべての感官のうちに
見失ふ 考への力が己れのあり方を
見いだす 靈(ひ)の世は
人がふたたび芽吹いてくるのを
その萌しを靈(ひ)の世に
しかしそのこころの実りを
人のうちにきつと見いだす
Ins Äußre des Sinnesalls
Verliert Gedankenmacht ihr Eigensein;
Es finden Geisteswelten
Den Menschensprossen wieder,
Der seinen Keim in ihnen,
Doch seine Seelenfrucht
In sich muß finden.
※
シュタイナーは、Sinn(感官)とEmpfindung(感覚)とをはつきりと使ひ分けてゐます。
Sinn(感官)は、目や耳などの感覚器官であり、その機能・働きをも言ひます。
Empfindung(感覚)は、Emp(受けて)findung(見いだされたもの)といふつくりで、感官に向かつてやつて来るもののことを言ひます。
2023年04月09日
こころのこよみ(第1週) 〜甦りの祭り(復活祭)の調べ〜
世の拡がりから
陽が語りかける 人の感官に
そして喜びがこころの深みから
光とひとつになる 観ることのうちに
ならば拡がり渡る 己れであることの被ひから
考へがここより彼方へと
そして結びつける おぼろに
人といふものを ありありとした靈(ひ)へと
Wenn aus den Weltenweiten
Die Sonne spricht zum Menschensinn
Und Freude aus den Seelentiefen
Dem Licht sich eint im Schauen,
Dann ziehen aus der Selbstheit Hülle
Gedanken in die Raumesfernen
Und binden dumpf
Des Menschen Wesen an des Geistes Sein.
2023年04月01日
こころのこよみ(第52週)〜十字架を生きる〜
春の吉野川
こころの深みから
精神がありありとした世へと向かひ、
美が場の広がりから溢れ出るとき、
天の彼方から流れ込む、
生きる力が人のからだへと。
そして、力強く働きながら、ひとつにする、
精神といふものと人であることを。
Wenn aus den Seelentiefen
Der Geist sich wendet zu dem Weltensein
Und Schönheit quillt aus Raumesweiten,
Dann zieht aus Himmelsfernen
Des Lebens Kraft in Menschenleiber
Und einet, machtvoll wirkend,
Des Geistes Wesen mit dem Menschensein.
ものをぢつと観る。ものがありありとしてくるまで、ぢつと観る。そのとき、こころの深みが動く。こころの力を振り絞つて、そのものとひとつにならうとするとき、わたしの精神とものの精神との交流が始まる。
眼といふものは、実は腕であり手なのだ。
何かを観るといふ行為は、実は手を伸ばしてその何かに触れる、もしくはその何かを摑むといふことなのだ。
そのやうな見えない腕、見えない手が人にはある。
何かをぢつと觀る、それはとても能動的な行為だ。
おほもとに、愛があるからこそ、する行為だ。
見れど飽かぬ 吉野の河の 常滑(とこなめ)の
絶ゆることなく また還り見む
柿本人麻呂 (萬葉集0037)
そのやうにして、アクティブに、腕を伸ばすがごとくにものを観たり、自然の響き、音楽やことばの響きに耳を澄ますとき、方向で言へば、まさに上から、天から、そのつどそのつど、フレッシュな光、息吹き、啓けがやつてくる。
言語造形をしてゐるときも、同じだ。
みづから稽古してゐるとき、うまくいかなくても、それでも繰り返し、繰り返し、ことばがありありとしたものになるまで、美が立ち上がつてくるまで、ことばに取り組んでゐるうちに、また、他者のことばをこころの力を振り絞りながら聽いてゐるときに、「これだ!」といふ上からの啓けに見舞はれる。
そのたびごとに、わたしは、力をもらへる。喜びと安らかさと確かさをもつて生きる力だ。
精神である人は、みづからのこころとからだを使つて、ぢつと観る。聽く。働く。美を追ひ求める。
そのとき、世の精神は、力強く、天から働きかけてくれる。
そして、精神と人とをひとつにしようとしてくれてゐる。
場の広がりの中で、人と世が美を通して出会ひ(横の出会ひ)、精神との交はりの中で、人と天が生きる力を通して出会ひ(縱の出会ひ)、その横と縱の出会ひが十字でクロスする。
十字架を生きる。
そこで、『こころのこよみ』は、この第52週をもつて一年を終へ、甦りの日(復活祭)に臨む。
こころの深みから
精神がありありとした世へと向かひ、
美が場の広がりから溢れ出るとき、
天の彼方から流れ込む、
生きる力が人のからだへと。
そして、力強く働きながら、ひとつにする、
精神といふものと人であることを。
2023年03月25日
こころのこよみ(第51週) 〜花が待つてゐる〜
金沢の武家屋敷庭にて
春を待つ
人といふものの内へと
感官を通して豐かさが流れ込む。
世の精神は己れを見いだす、
人のまなこに映る相(すがた)の中に。
その世の精神から力が、
きつと新たに汲み上げられる。
Frühling-Erwartung
Ins Innre des Menschenwesens
Ergießt der Sinne Reichtum sich,
Es findet sich der Weltengeist
Im Spiegelbild des Menschenauges,
Das seine Kraft aus ihm
Sich neu erschaffen muß.
より目を開いて、より耳を澄まして、ものごとといふものごとにぢつと向かひあつてみれば、ものごとは、より活き活きとした相(すがた)をわたしに顯はしてくれる。
わたしが花をそのやうに觀てゐるとき、花もわたしを觀てゐる。
そして、わたしの瞳の中に映る相(すがた)は、もはや死んだものではなく、ますます、ものものしく、活きたものになりゆく。
また、わたしの瞳も、だんだんとそのありやうを深めていく。物理的なものの内に精神的なものを宿すやうになる。
花へのそのやうなアクティブな向かひやうによつて、わたしみづからが精神として甦る。
そして、その深まりゆくわたしの内において、花の精神(世の精神)が甦る。花の精神は、さういふ人のアクトを待つてゐる。
「待つ」とは、そもそも、神が降りてこられるのを待つことを言つたさうだ。
松の木は、だから、神の依り代として、特別なものであつたし、祭りとは、その「待つ」ことであつた。
中世以前、古代においては、人が神を待つてゐた。
しかし、いま、神が人を待つてゐる。世の精神が人を待つてゐる。
世の精神が、己れを見いだすために、わたしたち人がまなこを開くのを待つてゐる。わたしたち人に、こころの眼差しを向けてもらふのを待つてゐる。
植物は、激情から解き放たれて、いのちをしづしづと、淡々と、また悠々と営んでゐる存在だ。
しかし、植物は、人の問ひかけを待つてゐるのではないだらうか。
さらには、人のこころもちや情に、応へようとしてゐるのではないだらうか。
人と植物とのそのやうな關係は、古来、洋の東西を問はず営まれてきた。
とりわけ、日本においては、華道、さらには茶道が、そのやうな植物と人との關係をこの上なく深いものにしてゐる。
それは、表だつて言挙げされはしないが、植物を通しての瞑想の営みとして深められてきたものだ。
落(おち)ざまに 水こぼしけり 花椿
松尾芭蕉
春を待つ
人といふものの内へと
感官を通して豐かさが流れ込む。
世の精神は己れを見いだす、
人のまなこに映る相(すがた)の中に。
その世の精神から力が、
きつと新たに汲み上げられる。
2023年03月18日
こころのこよみ(第50週)〜願はくば、人が聴くことを!〜
人の<わたし>に語りかける。
みづから力強く立ち上がりつつ、
そしてものものしい力を解き放ちつつ、
世のありありとした繰りなす喜びが語りかける。
「あなたの内に、
わたしのいのちを担ひなさい。
魔法の縛りを解いて。
ならば、わたしは、
まことの目当てに行きつく」
Es spricht zum Menschen-Ich,
Sich machtvoll offenbarend
Und seines Wesens Kraefte loesend,
Des Weltendaseins Werdelust:
In dich mein Leben tragend
Aus seinem Zauberbanne
Erreiche ich mein wahres Ziel.
春が少しづつ近づいて来てゐる。木々や草花たちのたたずまひ。なんと「ものものしい」までに、活き活きとしてゐることだらう。
明るく暖かな日差しの中で、それぞれの植物が歓声を上げてゐるのが聴こえてくるやうな気がする。
この週の「こよみ」において、「世のありありとした繰りなす喜びが、人の<わたし>に語りかける」とある。
この語りかけを人は聴くことができるだらうか。
2行目に「offenbarend」といふことばがあつて、それを「立ち上がりつつ」と訳してみたが、鈴木一博さんによると、この「offenbaren」は、「春たてる霞の空」や、「風たちぬ」などの「たつ」だと解いてをられる。
「たつ」とはもともと、目に見えないものがなんらかの趣きで開かれる、耳に聴こえないものがなんらかの趣きで顕わに示される、さういふ日本語ださうだ。
「春がたつ」のも、「秋がたつ」のも、目には見えないことだが、昔の人は、それを敏感に感じ、いまの大方の人は、それをこよみで知る。
いま、植物から何かが、「力強く」「ものものしく」立ち上がつてきてゐる。
人の<わたし>に向かつて、<ことば>を語りかけてきてゐる!
わたしはそれらの<ことば>に耳を傾け、聴くことができるだらうか。
喜びの声、励ましの声、時に悲しみの声、嘆きの声、それらをわたしたち人は聴くことができるだらうか。
それらを人が聴くときに、世は「まことの目当てに行きつく」。
「聴いてもらへた!」といふ喜びだ。
世が、自然が、宇宙が、喜ぶ。
シュタイナーは、晩年の『礎(いしずゑ)のことば』といふ作品を「願はくば、人が聴くことを!」といふことばで締めくくつてゐる。
わたしも、この「願はくば、人が聴くことを!」といふことばに和して叫びたくなる。
願はくば、人が、
世の<ことば>を、
生きとし生けるものたちの<ことば>を、
海の<ことば>を、
風の<ことば>を、
大地の<ことば>を、
星の<ことば>を、
子どもたちの<ことば>を、
聴くことを!
人の<わたし>に語りかける。
みづから力強く立ち上がりつつ、
そしてものものしい力を解き放ちつつ、
世のありありとした繰りなす喜びが語りかける。
「あなたの内に、
わたしのいのちを担ひなさい。
魔法の縛りを解いて。
ならば、わたしは、
まことの目当てに行きつく」
2023年03月13日
こころのこよみ(第49週) 〜夜と昼〜
「わたしは世のありありとした力を感じる」
さう、考への明らかさが語る。
考へつつ、みづからの精神が長けゆく、
暗い世の夜の中で。
そして世の昼に近づきゆく、
内なる希みの光を放ちつつ。
Ich fühle Kraft des Weltenseins:
So spricht Gedankenklarheit,
Gedenkend eignen Geistes Wachsen
In finstern Weltennächten,
Und neigt dem nahen Weltentage
Des Innern Hoffnungsstrahlen.
この週の『こよみ』に、向かひ合ふ中で、シュタイナーの1923年2月3日、4日のドルナッハでの講演『夜の人と昼の人』の内容と、今週の『こよみ』が響き合つてきた。
春が近づいてくる中で感じる、ありありとした世の力。
たとへ、その力を感じることができても、わたしが考へつつ、その感じを考へで捉へなければ、わたしはそれをことばにして言ひ表すことはできない。
世のありありとした力も、それに対して湧きあがつてくる感じも、<わたし>といふ人からすれば、外側からやつてくるもの。
それらに対して、人は、考へることによつて、初めて、内側から、<わたし>から、応へることができる。
そのやうにして、外側からのものと内側からのものが合はさつて、知るといふこと(認識)がなりたち、ことばにして言ひ表すこともできる。
わたしたちの外側からたくさんの世の力がありありと迫つてくる。
そんな外側からの力に対し、わたしたちの内側からの考へる力が追ひつかないときがある。
そんなとき、たくさんの、たくさんの、思ひやことばが行き交ふ。
わたしたちの考へる力は、その都度その都度、外の世からやつてくる力に対して応じていかざるをえないが、しかし、そのことに尽きてしまはざるをえないのだらうか。
対応していくにしても、その考へる力が、明らかな一点、確かな一点に根ざさないのならば、その対応は、とかくその場限りの、外の世に振り回されつぱなしのものになりはしないだらうか。
その確かな一点、明らかな一点とは、「わたしはある」といふことを想ひ起こすこと、考へることであり、また、その考へるを見るといふこと。
他の誰かがかう言つてゐるから、かう考へる、ああ言つてゐるから、ああ考へるのではなく、他の誰でもない、この「わたしはある」といふ一点に立ち戻り、その一点から、「わたしが考へる」といふ内からの力をもつて、外の出来事に向かつていくことができる。
それは、外の出来事に振り回されて考へるのではなく、内なる意欲の力をもつて、みづから考へるを発し、みづから考へるを導いていくとき、考へは、それまでの死んだものから生きてゐるものとして活き活きと甦つてくる。
そのとき、人は、考へるに<わたし>を注ぎ込むこと、意欲を注ぎ込むことによつて、「まぎれなく考へる」をしてゐる。(この「まぎれなく考へる」が、よく「純粋思考」と訳されてゐるが、いはゆる「純粋なこと」を考へることではない)
わたしたちが日々抱く考へといふ考へは、死んでゐる。
それは、考へるに、<わたし>を注ぎ込んでゐないからだ。みづからの意欲をほとんど注ぎ込まずに、外の世に応じて「考へさせられてゐる」からだ。
そのやうな、外のものごとから刺戟を受けて考へる考へ、なほかつ、ものごとの表面をなぞるだけの考へは、死んでゐる。
多くの人が、よく、感覚がすべて、感じる感情がすべてだと言ふ。実は、その多くの人は、そのやうな、死んだ考へをやりくりすることに対するアンチパシーからものを言つてゐるのではないだらうか。
ところが、そのやうな受動的なこころのあり方から脱して、能動的に、エネルギッシュに、考へるに意欲を注ぎ込んでいくことで、考へは死から甦り、生命あるものとして、人に生きる力を与へるものになる。
その人に、軸ができてくる。
世からありとあらゆる力がやつてくるが、だんだんと、その軸がぶれることも少なくなつてくるだらう。
その軸を創る力、それは、みづからが、考へる、そして、その考へるを、みづからが見る。この一点に立ち戻る力だ。
この一点から、外の世に向かつて、その都度その都度、考へるを向けていくこと、それは、腰を据ゑて、その外のものごとに沿ひ、交はつていくことだ。
では、その力を、人はどうやつて育んでいくことができるのだらうか。また、そのやうに、考へるに意欲を注ぎ込んでいく力は、どこからやつてくるのだらうか。
それは、夜、眠つてゐるあひだに、人といふ人に与へられてゐる。
ただし、昼のあひだ、その人が意欲を注ぎつつ考へるほどに応じてである。
夜の眠りのあひだに、人はただ休息してゐるのではない。
意識は完全に閉ぢられてゐるが、考へるは、意識が閉ぢられてゐる分、まつたく外の世に応じることをせずにすみ、よりまぎれなく考へる力を長けさせていく。
それは、眠りのあひだにこそ、意欲が強まるからだ。ただ、意欲によつて強められてゐる考へる力は、まつたく意識できない。
眠つてゐることによつて、意識の主体であるアストラルのからだと<わたし>が、エーテルのからだとフィジカルなからだから離れてゐるのだから。
眠りのあひだに、わたしたちは、わたしたちの故郷であるこころと精神の世へと戻り、次の一日の中でフレッシュに力強く考へる力をその世の方々から戴いて、朝、目覚める。
要は、夜の眠りのあひだに長けさせてゐる精神の力を、どれだけ昼のあひだにみづからに注ぎこませることができるかだ。
そのために、シュタイナーは、その講演で、本を読むときに、もつと、もつと、エネルギッシュに、意欲の力を注ぎ込んでほしい、さう述べてゐる。
それは、人のこころを育てる。
現代人にもつとも欠けてゐる意欲の力を奮ひ起こすことで、死んだ考へを生きた考へに甦らせることこそが、こころの育みになる。
アントロポゾフィーの本をいくらたくさん読んでも、いや、シュタイナー本人からいくらいい講演、いい話を聴いたとしても、それだけでは駄目なのだと。
文といふ文を、意欲的に、深めること。
ことばを通して、述べられてゐる考へに読む人が生命を吹き込むこと。
アントロポゾフィーは、そのやうにされないと、途端に、腰崩れの、中途半端なものになつてしまふと。
1923年といふ、彼の晩年近くの頃で、彼の周りに集まる人のこころの受動性をなんとか奮ひ起こして、能動的な、主体的な、エネルギッシュな力に各々が目覚めるやうに、彼はことばを発してゐた。
その力は、夜の眠りのあひだに、高い世の方々との交はりによつてすべての人が贈られてゐる。
夜盛んだつた意欲を、昼のあひだに、どれだけ人が目覚めつつ、意識的に、考へるに注ぎ込むか。
その内なる能動性、主体性、エネルギーこそが、「内なる希みの光」。
外の世へのなんらかの希みではなく、<わたし>への信頼、<わたし>があることから生まれる希みだ。
その内なる希みの光こそが、昼のあひだに、人を活き活きとさせ、また夜の眠りのあひだに、精神を長けさせる。
その夜と昼との循環を意識的に育んでいくこと、「内なる希みの光」を各々育んでいくこと、それが復活祭を前にした、こころの仕事であり、わたしたちにとつて、実はとても大切なこころの仕事なのだと思ふ。
「わたしは世のありありとした力を感じる」
さう、考への明らかさが語る。
考へつつ、みづからの精神が長けゆく、
暗い世の夜の中で。
そして世の昼に近づきゆく、
内なる希みの光を放ちつつ。
2023年03月10日
こころのこよみ(第48週)〜行はれたし、精神の見はるかしを〜
平櫛田中『養老』
光、世の高みから、
こころに力満ちて流れくる。
現はれよ、こころの謎を解きながら、
世の考へるの確かさよ。
その光り輝く力を集め、
人の胸に愛を呼び覚ますべく。
Im Lichte das aus Weltenhöhen
Der Seele machtvoll fliessen will
Erscheine, lösend Seelenrätsel
Des Weltendenkens Sicherheit
Versammelnd seiner Strahlen Macht
Im Menschenherzen Liebe weckend.
考へる力といふものについて、人はよく誤解する。
考へるとは、あれこれ自分勝手にものごとの意味を探ることでもなく、浮かんでくる考へに次から次へとこころをさまよはせることでもなく、何かを求めて思ひわづらふことでもなく、ものごとや人を裁くことへと導くものでもない。
考へるとは、本来、みづからを措いてものごとに沿ふこと、思ひわずらふことをきつぱりと止めて、考へが開けるのをアクティブに待つこと、そして、ものごととひとつになりゆくことで、愛を生みだすこと。
今回もまた、鈴木一博さんの『礎のことば』の読み説きから多くの示唆を得てゐる。
人が考へるとは、考へといふ光が降りてくるのを待つこと、人に考へが開けることだ。
考へが開けるきつかけは、人の話を聴く、本を読む、考へに考へ抜く、道を歩いてゐて、ふと・・・など、人によりけり、時と場によりけり、様々あるだらうが、どんな場合であつても、人が頭を安らかに澄ませたときにこそ、考へは開ける。
たとへ、身体は忙しく、活発に、動き回つてゐても、頭のみは、静かさを湛えてゐるほどに、考へは開ける。
そして、頭での考への開けと共に、こころに光が当たる。考へが開けることによつて、こころにおいて、ものごとが明るむ。そして、こころそのものも明るむ。
「ああ、さうか、さうだつたのか!」といふときの、こころに差し込む光の明るさ、暖かさ。誰しも、覚えがあるのではないだらうか。
明るめられたこころにおいて、降りてきたその考へは、その人にとつて、隈なく見通しがきくものだ。
また、見通しがきく考へは、他の人にとつても見通しがきき、その人の考へにもなりうる。
そもそも、考へは誰の考へであつても、考へは考へだから。
人に降りてくる考へは、その人の考へになる前に、そもそも世の考へである。
自然法則といふものも、自然に秘められてゐる世の考へだ。
人が考へることによつて、自然がその秘密「世の考へ」を打ち明ける。
その自然とは、ものといふものでもあり、人といふ人でもある。
目の前にゐる人が、どういふ人なのか、我が子が、どういふ人になつていくのか、もしくは、自分自身がどういふ人なのか、それは、まづもつては、謎だ。
その謎を謎として、長い時間をかけて、その人と、もしくはみづからと、腰を据ゑてつきあいつつ、その都度その都度、こころに開けてくる考へを摑んでいくことによつてのみ、だんだんと、その人について、もしくは、わたしといふ人について、考へが頭に開け、光がこころに明るんでくる。
それはだんだんと明るんでくる「世の高みからの考へ」でもある。
わたしなりの考へでやりくりしてしまうのではなく、からだとこころをもつて対象に沿ひ続けることによつて、「世の考へ」といふ光が頭に降りてくるのを待つのだ。
すぐに光が降りてくる力を持つ人もゐる。長い時間をかけて、ゆつくりと光が降りてくるのを待つ人もゐる。
どちらにしても、そのやうに、考へと共にこころにやつてくる光とは、世からわたしたちへと流れるやうに贈られる贈り物といつてもいいかもしれない。
さらに言へば、それは、わたしの<わたし>が、わたしの<わたし>に、自由に、本当に考へたいことを、考へとして、光として、贈る贈り物なのだ。
―――――――
人のこころ!
あなたは安らう頭に生き
頭は、あなたに、とわの基から
世の考へを打ち明ける。
行はれたし、精神の見はるかしを
考への安らかさのうちに。
そこにては神々の目指すことが
世とものとの光を
あなたの<わたし>に
あなたの<わたし>が自由に欲すべく
贈る。
もつて、あなたは真に考へるやうになる
人と精神との基にて。
(『礎のことば』より)
――――――――
その贈り物があるからこそ、わたしたちは、また、世の考へが贈られるのを待ちつつ考へることができるし、考への光が降りてくればこそ、わたしたちは、こころの明るさと共に、その考へを見通し、見はるかすことができ、その見はるかしからこそ、こころに愛が目覚めうる。
ある人の長所にあるとき、はつと気づいて、その人をあらためてつくづくと見つめ、その人のことを見直したり、好ましく思つたりもする。
長所にはつと気づく、それこそが、考への光が降りてきたといふことだらうし、その人について光をもつて考へられるからこそ、こころに愛が呼び覚まされるのだらう。
人を愛する時とは、世の高みから、力に満ちて流れてくる「世の考へ」が、こころに開ける時。
考へが開けるとき、そこには、きつと、愛がある。
愛が生まれないときは、考へてゐるやうで、実は考へてゐない。自分勝手に考へや思ひをいぢくりまはしてゐるか、巡り巡る考へや思ひに翻弄されてゐるときだ。
考へることによつて愛が生まれることと、愛をもつて考へることとは、きつと、ひとつの流れとして、人の内側で循環してゐる。
光、世の高みから、
こころに力満ちて流れくる。
現はれよ、こころの謎を解きながら、
世の考へるの確かさよ。
その光り輝く力を集め、
人の胸に愛を呼び覚ますべく。
こころのこよみ(第47週)〜行はれたし、精神の慮りを〜
世のふところから立ち上がつてくるだらう、
感官への輝きを甦らせる繰りなす喜びが。
それは見いだす。わたしの考へる力が、
神々しい力を通して備へられ、
力強く、わたしの内に、生きることを。
Es will erstehen aus dem Weltenschosse,
Den Sinnenschein erquickend Werdelust,
Sie finde meines Denkens Kraft
Gerüstet durch die Gotteskräfte
Die kräftig mir im Innern leben.
以前にも引用させてもらつたが、鈴木一博さんが以前、日本アントロポゾフィー協会会報に掲載された『礎(いしずえ)のことば』から、ここ二、三週間の『こころのこよみ』への大きな示唆をもらつてゐる。
精神、こころ、からだ。
人は、この三つの次元の違ふありやうからなりたつてゐる。
自分自身を顧みても、やはり、どちらかといふと、精神が上の方に、からだが下の方にあり、こころがその間に挟まつてゐることを感じる。
そして、この『こころのこよみ』は、その名の通り、真ん中の「こころ」が、活き活きと生きることを願つて書き記されてゐる。
この時期、陽の光がだんだんと明るく、暖かく、長く、わたしたちを照らし出すとともに、地から、少しづつ少しづつ、草木の力が繰りなしてきてゐるのを見てとることができる。そして、「啓蟄」といはれるやうに、虫たちをはじめとする動く生き物たちも地の下から、水の中から這ひ出してきてゐる。
わたしたち人は、どうだらう。
人においても、近づいてきてゐる春の陽気にそそられて、からだもこころも動き出さうとしてゐないだらうか。
世の、春に近づいていく繰りなしが、まづは、下のからだへの蠢(うごめ)き、繰りなしを誘ひ出し、感官へのそのやうな働きかけが、真ん中のこころを動かさうとしてゐないだらうか。
その動きこそが、喜びにもなりえる。
以下、鈴木さんの文章からの引き写しだが、その精神の想ひ起こし、精神の慮り、精神の見はるかしに、まさにリアリティーを感じる。
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こころといふものは、常にシンパシーとアンチパシーの間で揺れ動いてゐる。
しかし、人は、そのシンパシー、アンチパシーのままにこころを動かされるだけでなく、その間に立つて、そのふたつの間合ひをはかり、そのふたつを引き合はせつつ、バランスを保ちつつ、静かなこころでゐることもできる。
むしろ、さうあつてこそ、こころといふものをわたしたちは感じとることができる。
そのこころの揺れ動き、そしてバランスは、からだにおける心臓と肺の張りと緩みのリズムとも織りなしあつてゐる。
こころのシンパシー、アンチパシーとともに、心拍は高まりもするし、低まりもする。
また、呼吸といふものも、そのこころのふたつの動きに左右される。吐く息、吸ふ息のリズムが整つたり、乱れたりする。
そして、心拍の脈打ちと脈打ちの間、吐く息、吸ふ息の間に、静かな間(ま)をわたしたちは感じとることができる。
その静かな間(ま)を感じとつてこそ、わたしたちは、リズムといふもの、時といふものをリアルにとらへることができる。
そして更に、こころにおいて、シンパシーとアンチパシーとの間で生きつつ、からだにおいて、心と肺のリズムの間で生きつつ、わたしたちは、世といふものとの間においても、リズミカルに、ハーモニックに、調和して生きていく道を探つていくことができる。
荒れた冬の海を前にしてゐるときと、茫洋として、のたりのたりと静かに波打つてゐる春の海を前にしてゐるとき。
峨々たる山を前にしてゐるときと、穏やかな草原を前にしてゐるとき。
いまにも雨が降り出しさうな、どんよりとした曇り空の下にゐるときと、晴れ晴れとした雲ひとつない青空を仰ぐとき。
しかめ面をしてゐる人の前にゐるときと、につこりしてゐる人の前にゐるとき。
そして、春夏秋冬といふ四季の巡りにおいて、それぞれの季節におけるからだとこころのありやうの移りゆき。
世といふものと、わたしたちとの間においても、ハーモニーを奏でることができるには、そのふたつが、ひとりひとりの人によつて、はからわれ、釣り合はされ、ひとつに響き合つてこそ。
世とわたし。そのふたつの間を思ひつつ、はかりつつ、響き合はせる。その精神の慮(おもんぱか)りを積極的にすることによつて、人は、世に、和やかに受け入れられる。
人と世は、ひとつに合はさる。
そして、人は、歌ふ。春夏秋冬、それぞれの歌を歌ふ。
慮る(besinnen)は、歌ふ(singen)と語源を同じくするさうだ。
こころにおける精神の慮り、それは歌心だ、と鈴木さんは述べてゐる。
人のこころ!
あなたは心と肺のときめきに生き
心と肺に導かれつつ、時のリズムを経て
あなたそのものを感じるに至る。
行はれたし、精神の慮りを
こころの釣り合ひにおいて。
そこにては波打つ世の
成りつ為しつが
あなたの<わたし>を
世の<わたし>と
ひとつに合はせる。
もつて、あなたは真に生きるやうになる
人のこころの働きとして。
(『礎のことば』より)
春の訪れとともに世のふところから、下のからだを通して、感官への輝きを通して、こころに、繰りなす喜び。
そして、上の精神からの考へる力。その考へる力は、冬のクリスマスの時期を意識的に生きたことによつて、神々しい力によつて備へられてゐる。その考へる力によつて、こころにもたらされる力強い<わたし>。
世とからだを通しての下からの繰りなしによつて、こころに生まれる喜びといふ情を、上の精神からやつてくる考へる力が支へてくれてゐる。
この下からと上からのハーモニックな働きかけによつて、真ん中のこころに、喜びが生まれ、育つていく。
世のふところから立ち上がつてくるだらう、
感官への輝きを甦らせる繰りなす喜びが。
それは見いだす。わたしの考へる力が、
神々しい力を通して備へられ、
力強く、わたしの内に、生きることを。
こころのこよみ(第46週)〜行はれたし、精神の想ひ起こしを〜
世、それはいまにもぼやかさうとする、
こころのひとり生みの力を。
だからこそ、想ひ起こせ、
精神の深みから輝きつつ。
そして観ることを強めよ、
意欲の力を通して、
己れを保つことができるやうに。
Die Welt, sie drohet zu betäuben
Der Seele eingeborne Kraft;
Nun trete du, Erinnerung,
Aus Geistestiefen leuchtend auf
Und stärke mir das Schauen,
Das nur durch Willenskräfte
Sich selbst erhalten kann.
「ひとり生み」とは、何か。
シュタイナーのヨハネ福音書講義の第四講に、そのことばが出てくる。
かつて福音書が書かれた頃、「ふたり生み」とは、父と母の血の混じりあいから生まれた者のこと、「ひとり生み」とは、そのやうな血の混じりあいから生まれた者でなく、神の光を受け入れることによつて、精神とひとつになつた者、精神として生まれた者、神の子、神々しい子のことだつた。
今から二千年以上前には、人びとの多くは、「わたし」といふ、人のための下地をすでに備へながらも、後に聖書に記されるところの「光」をまだ受け入れることができなかつた。
「群れとしてのわたし」のところには、「光」は降りてきてゐたが、ひとりひとりの人は、その「光」をまだ受け入れてゐなかつた。
「ひとりのわたし」といふ意識はまだなく、おらが国、おらが村、おれんち、そのやうな「ふたり生みの子」としての意識が、ひとりひとりの人のこころを満たしてゐた。
しかし、少数ではあるが、「光」を受け入れた者たちは、その「光」を通してみづからを神の子、「ひとり生みの子」となした。
物の人がふたり生み、精神の人がひとり生みだ。
そして、キリスト・イエスこそは、その「光そのもの」、もしくは「光」のおおもとである「ことばそのもの」として、「父のひとり生みの息子」として、肉のつくりをもつてこの世の歴史の上に現れた。
ことば(ロゴス)、肉となれり(ヨハネ書一章十四節)
彼こそは、ひとりひとりの人に、こよなく高く、ひとりの人であることの意識、「わたしはある」をもたらすことを使命とする者だつた。
わたしたちが、その「ひとり生みの力」を想ひ起こすこと、それは、キリスト・イエスの誕生と死を想ひ起こすといふこと。
そして、わたしたちひとりひとりの内なる、「わたしはある」を想ひ起こすこと。
それは、日々のメディテーションによつて生まれる、精神との結びつきを想ひ起こすことであり、目で見、耳で聞いたことを想ひ起こすことに尽きず、精神の覚え「わたしはある」を想ひ起こすことだ。
その想ひ起こしがそのやうにだんだんと深まつていくことによつて、人は、「わたしはある」といふこと、「みづからが神と結ばれてある」といふこと、みづからの「わたし」が、神の「わたし」の内にあるといふこと、そのことを確かさと安らかさをもつて、ありありと知る道が開けてくる。
「想ひ起こす」といふ精神の行為は、意欲をもつて考へつつ、いにしへを追つていくといふことだ。
普段の想ひ起こすことにおいても、頭でするのみでは、その想ひは精彩のないものになりがちだが、胸をもつて想ひ起こされるとき、メロディアスに波打つかのやうに、想ひがこころに甦つてくる。
さらに手足をもつて場に立ちつつ、振る舞ふことで、より活き活きと、みずみずしく、深みをもつて、想ひが甦つてくる。
故郷に足を運んだ時だとか、手足を通して自分のものにしたもの、技量となつたものを、いまいちどやつてみる時だとか、そのやうに手足でもつて憶えてゐることを、手足を通して想ひ起こすかのやうにする時、想ひが深みをもつて甦る。
そして、そのやうな手足をもつての想ひ起こしは、その人をその人のみなもとへと誘ふ。
その人が、その人であることを、想ひ起こす。
その人のその人らしさを、その人はみづから想ひ起こす。
例へば、この足で立ち、歩くことを憶えたのは、生まれてから一年目辺りの頃だつた。その憶えは、生涯、足で立つこと、歩くことを通して、頭でではなく、両脚をもつて想ひ起こされてゐる。
その人が、その人の足で立ち、歩くことを通して、その人の意識は目覚め、その人らしさが保たれてゐる。
だから、年をとつて、足が利かなくなることによつて、その人のその人らしさ、こころの張り、意識の目覚めまでもが、だんだんと失はれていくことになりがちだ。
手足を通しての想ひ起こし、それは、意欲の力をもつてすることであり、人を活き活きと甦らせる行為でもある。
そして、それはメディテーションにも言へる。
行はれたし、精神の想ひ起こしを
もつて、あなたは真に生きるやうになる、
まこと人として、世のうちに
(シュタイナー『礎のことば』1923年12月25日)
メディテーションによる想ひ起こしは、手足による想ひ起こしに等しいもの。
メディテーションとは、意欲をもつての厳かで真摯な行為。
毎日の行為である。
「ひとり生みの力」を想ひ起こすこと、それは、わたしの「わたし」が、神の「わたし」の内に、ありありとあること、「わたしのわたしたるところ」、「わたし」のみなもと、それを想ひ起こすことだ。
世に生きてゐると、その「ひとり生みの力」をぼやかさうとする機会にいくらでも遭ふ。
世は、ふたり生みであることから生まれる、惑ひといふ惑ひをもたらさうとする。
「だからこそ、勤しみをもつて、想ひ起こせ」。
「惑ひといふ惑ひを払つて、想ひ起こせ」。
想ひ起こされたものをしつかりとこころの目で観ること、もしくは想ひ起こすといふ精神の行為そのものをも、しつかりと観ること、
それがつまり、「観ることを強める」といふことだ。
その意欲の力があつてこそ、人は、「己れを保つことができる」、おのれのみなもとにあることを想ひ起こすことができる。
世、それはいまにもぼやかさうとする、
こころのひとり生みの力を。
だからこそ、想ひ起こせ、
精神の深みから輝きつつ。
そして観ることを強めよ、
意欲の力を通して、
己れを保つことができるやうに。
2023年03月01日
こころのこよみ(第45週)〜こころの満ち足り、晴れやかさ〜
東山魁夷 「碧湖」
考への力が強まる、
精神の生まれとの結びつきの中で。
それは感官へのおぼろげなそそりを
まつたき明らかさへと晴れ渡らせる。
こころの満ち足りが、
世のくりなしとひとつになれば、
きつと感官への啓けは、
考へる光を受けとめる。
Es festigt sich Gedankenmacht
Im Bunde mit der Geistgeburt,
Sie hellt der Sinne dumpfe Reize
Zur vollen Klarheit auf.
Wenn Seelenfülle
Sich mit dem Weltenwerden einen will,
Muß Sinnesoffenbarung
Des Denkens Licht empfangen.
ここで言はれてゐる「考へる力」とは、余計なことを考へない力のことである。
そして、この時、この場で、何が一番大事なことかを考へる力のことだ。
その力を持つためには、練習が要る。その練習のことを、シュタイナーはメディテーションと言つた。
普段に感じる共感(シンパシー)にも反感(アンチパシー)にも左右されずに、浮かんでくる闇雲な考へを退けて、明らかで、鋭く、定かなつくりをもつた考へに焦点を絞る。ひたすらに、そのやうな考へを、安らかに精力的に考へる練習だ。
強い意欲をもつて考へることで、他の考へが混じり込んだり、シンパシーやアンチパシーに巻き込まれて、行くべき考への筋道から逸れて行つてしまわないやうにするのだ。
その繰り返すメディテーションによつて、「考への力」が強く鍛へられ、その力がそのまま、「光」の働きであることを感覚するやうになる。
この時期に、メディテーションによつて強められる考への力が、こころに及んでくるひとつひとつのそそりを明るく照らす。
一つ一つの感覚、情、意欲、考へが、考への明るく晴れ渡らせる光によつて、明らかになる。
それが明らかになるほどに、こころも晴れ晴れとした満ち足りを感じる。こころのなかで感覚と精神が結ばれるからだ。
そして、そのこころの満ち足りは、自分だけの満ち足りに尽きずに、人との関はり、世との関はりにおいてこそ、本当の満ち足りになるはずだ。
こころの満ち足りは、やがて、ことばとなつて羽ばたき、人と人とのあひだに生きはじめ、精神となつて、人と世のあひだに生きはじめる。
こころの満ち足りが、世の繰りなしとひとつになつてゆく。
ひとりで考へる力は、考へる光となつて、人と人のあひだを、人と世のあひだを、明るく晴れ渡すのだ。
考への力が強まる、
精神の生まれとの結びつきの中で。
それは感官へのおぼろげなそそりを
まつたき明らかさへと晴れ渡らせる。
こころの満ち足りが
世の繰りなしとひとつになれば、
きつと感官への啓けは、
考へる光を受けとめる。
2023年02月25日
こころのこよみ(第44週) 〜ひとりの人〜
東山魁夷「冬華」
新しい感官へのそそりに捉へられ、
こころに明らかさが満ちる。
満を持して精神が生まれたことを念ふ。
世の繰りなしが、絡み合ひながら芽生える、
わたしの考へつつ創りなす意欲とともに。
Ergreifend neue Sinnesreize
Erfüllet Seelenklarheit,
Eingedenk vollzogner Geistgeburt,
Verwirrend sprossend Weltenwerden
Mit meines Denkens Schöpferwillen.
空気の冷たさはいつさう厳しくなつてきてゐるが、陽の光の明るさが増してきてゐることが感じられる。
わたしたちの感官に、まづ、訴へてくるのは、その陽の光だ。
冬から春への兆しを、わたしたちは何よりもまず、陽の光のありやうに感じ取つてゐる。
しかし、現代を生きてゐるわたしたちは、その外なる陽の光が明るさを増してきてゐる、そのことを感じはしても、それ以上の何かを感じることはほとんどないのではないだらうか。
昔の人は、その陽の光に、あるものを感じ取つてゐた。
それは、ひとりひとりを、神の力と結ぶことによつて、まさしく精神としての『人』とする力だ。
陽を見上げたときに、次のやうな情を強く感じた。
「この天の存在から、
光とともにわたしたちの内に、
わたしたちを暖め、
わたしたちを照らしながら、
わたしたちに染み渡り、
わたしたちひとりひとりを
『人』とするものが流れ込んでくる」
(『人の生きることにおける、引き続くことと繰りなすこと 1918年10月5日ドルナッハ』より)
しかし、だんだんと、そのやうな情と感覚は失はれてきた。
陽の光を通して感じてゐた神からの叡智がだんだんと失はれてきた。
そして人は、自分の周りの事柄に対しては知識を増やしていつたが、ますます、自分は何者か、自分はどこからやつてき、どこへ行くのかが、分からなくなつてきた。
人といふものが、そして自分自身といふものが、ひとつの謎になつてきたのだ。
そのとき、ゴルゴタのこと、イエス・キリストの十字架における死と、墓からの甦りが起こつた。
もはや、物質としての太陽の光からは、わたしたちを『人』とする力を感じ、意識することはできない。
しかし、キリストがこの世にやつてき、さらにゴルゴタのことが起こることによつて、もはや外の道ではやつてくることができない力、人の最も内なる深みから、精神から、自分を『ひとりの人』とする力が立ち上がつてくる可能性が開けた。
イエス・キリストはみづからをかう言つた。「わたしは、世の光である」。
ふたたび、ひとりひとりの人に、みづからを『ひとりの人』として捉へうる力がもたらされた。
その力は物質の太陽の光からでなく、精神の光から、もたらされてゐる。
わたしたちは、1月から2月へかけて、明るくなりゆく陽の光からのそそりとともに、精神的な観点においても、内なる陽の光からのそそりを捉へてみよう。
さうすることから、きつと、わたしたちは、みづからの出自を改めて明らかさとともに想ひ起こすことができる。
「わたしは、ひとりの<わたし>である」と。「わたしは、そもそも、精神の人である」と。「<わたし>は、ある」と。
キリスト、そしてゴルゴタのことの意味。
わたしたちは、そのことを、「いま、想ひ起こす」「念ふ」ことができる。
「新しい感官へのそそりに捉へられ、
こころに明らかさが満ちる。
満を持して精神が生まれたことを念ふ」
そして、明るさを増してきてゐる陽の光によつて、外の世において、命が、植物や動物たちの中で繰りなしてくる。絡みあひながら、芽生えながら。
さらに、わたしたち人は、秋から冬の間に、まぎれなく考へる力を内において繰りなしてきた。
考へる力には、意欲の力が注ぎ込まれてこそ、まぎれなく考へる力となる。
考へる力に、創りなす意欲が注ぎ込まれてこそ、人はまぎれなく考へる力において、自由になりうる。
外の世に、どんなことが起こらうと、どんな出来事が繰りなされやうと、こころに、意欲的に考へる働きを繰りなして行くことで、わたしたちは、みづから自由への道を開いていくことができる。
日々、自分に向かつてやつてくるものごとのひとつひとつを、自分に対してのメッセージとして受けとり、考へていき、そして振舞つていくことによつて、開けてくる道がある。
その道は、『ひとりの人』としてのわたしを、自由へと、導いていくだらう。
新しい感官へのそそりに捉へられ、
こころに明らかさが満ちる。
満を持して精神が生まれたことを念ふ。
世の繰りなしが、絡みあひながら芽生える、
わたしの考へつつ創りなす意欲とともに。