2011年04月17日

こころのこよみ(第1週)〜復活祭の調べ〜

    Wenn aus den Weltenweiten  

   世の広がりから、

   Die Sonne spricht zum Menschensinn

   陽が人の感官に語りかけ、

   Und Freude aus den Seelentiefen

   そしてこころの深みから喜びが、

   Dem Licht sich eint im Schauen,

   観ることの内に光とひとつになると、

   Dann ziehen aus der Selbstheit Hülle

   己であることの被いから広がり渡る、

   Gedanken in die Raumesfernen

   考えが空間の彼方へと。

   Und binden dumpf

   そしておぼろげに結びつける、

   Des Menschen Wesen an des Geistes Sein.

   人というものをありありとした精神へと。





冬から時を経て、春がやってきています。

わたしたちは、自分の中の考えの不確かさ、暗さ、混乱との葛藤を経て、
内における考えの確かさ、明るさを求めてもがき、
そして、外における光の明るさとの出会いに向けて、
歩き続けています。

復活祭と言われている祝祭の日を前にして、
まずは、みずからに何が起こるのかを、
みずからのからだとこころと精神をもって確かめる。

この時期、
呼吸というものの転換が起こることをわたしは感じます。

地球にこころがあり(!)、
そのこころの生の営みが時を巡って規則正しく行われている。
それが季節の巡りです。

その巡りは、知っていくほどに、精神としての様相を明らかにしてくれます。

これまでの時間、去年の秋から冬、そして春を迎えようとするまで、
わたしは息を吸い続けてきたように感じています。

こころに語りかけてくれている世の考え、世のことばを、
なんとか聴き取ろうとして、
本を読み、人と会い、仕事をし、考え、感じ、瞑想を続けてきた。

そして、内側こそを充実させようとしてきた。

その内なるこころの行為は、
息を吸うことによって外の空気を内に取り入れることと相通じています。

人は息を吸うことによって、
内に目覚めることへと、みずからを促します。

それは、半ば意識的な行為でもあり、
半ば、無意識に導かれて、誘われてしている行為でもあります。

地球においては、
気温が下がり、
植物が枯れゆき、死んでいくからこそ、
下にある大地には熱が貯めおかれ、
生命がじっと黙するかたちで充実していきます。

しかしそんな外なる自然の様相だけではなく、
大いなる世から精神が流れ込み、
みずからのこころの糧にしようとする地球の秋から冬の内なるあり方と、
ひとりひとりの人のあり方とがやはり相応しているのです。

地球も精神的な呼吸をしています。


しかし、今年、冬から春になろうとするその矢先に、
大震災と原発問題を経験して、
わたしたちは息を吸うのを通り越して、息が止まっていた、固唾を呑んでいた、
そんな気がします。

いま、おそらく、日本に意識的に生きる多くの人が、
自分は、何を、どう理解し、どう行動していくのか、
ひいては、どう生きていくのか、
その問いを自分自身に向けて、立ち止まっているのではないでしょうか。

外の状況が不安を煽るようなかたちで刻々と迫ってきていて、
そのような問いを立てる人、
うまく立てられない人、
様々あると思うのですが、
明るくはない雲が自分たちの頭の上にかかってきているような感覚はあるのではないでしょうか。

しかし、いまだ緊迫した状態にあることは間違いないのですが、
それがおそらく、何ヶ月、いや何年、何十年かもしれませんが、続くかもしれないのですが、
息が止まっている状態から、
いま、わたしたちは、息を吐き始めようとしています。

息を吐かないと、もたない。

それは、もちろん、そうなのですが、
むしろ、意識的に息を吐いていくことをしてこそ、
新しい展開がある。

考えが、己の狭い枠を超えて広がっていく。

考え方が、生き方が、
これまでの自分なりのものから、
より広いもの、深いものへと変わっていく。

新しいこころもちが生まれる。

息が吐かれることによって。

地球は、春の訪れとともに、キリストの復活として、
人にそのことを促そうとしている。

この『こころのこよみ』のこれまでの道筋を辿るならば、
こんな時だからこそ、いま一度、
大きな世との重なりをわが身とこころに意識的に試し続けてみる。

そうすることによって大きな世から精神の糧(生きる力)を取り込む生き方が、
これまでの地上生活しか目に入らないようなわたしの生き方に、
果たしてどのようなかたちで突き入ってくるのか。

まだ、精神と自分自身との結びつきを感じられたとしても、
それはぼんやりとしたものかもしれない。

しかし、なんらかの考えの、情の、拡大が、更新が、始まる。

それは、精神というものをありありと視野に入れた生き方からこそ、始まる。

posted by koji at 22:15 | 大阪 ☁ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

こころのこよみ(第52週の続き)

人と世が、美を通して出会い、(横の出会い)
人と天が、生きる力を通して出会い、(縦の出会い)
その横と縦の出会いが十字でクロスするところで、
『こころのこよみ』は、この第52週をもって一年を終えます。

この週のことば、
「生きる力が天からわたしのからだに流れ込んでくる」とはどういうことなのだろうと、
自分なりに毎日そのことばを噛み締めています。

いま、日本が、どんなことになっていようと、
大きな世は、冬から春へとその自然の巡りを繰りなしてくれている。

目覚め始めようとしている我が目や耳をできる限り使い、
美を通して声を出し始めている自然を、
そのときそのときに迎えようとすることによって、
何かがわたしの内側に語りかけてくれているのを覚える練習。

それが、この時期にふさわしいアントロポゾフィーの練習ならば、
やってみるしかないではないですか。
何はともあれ、物理的に、心理的に、自分はできる状況にいるのですから。

いまの日本に最も必要な「喜びと生きる力」が、
その練習から生まれてくるか?
天から流れ込んでくるとは、どういうことなのか。

問い続け、試し続け、また問い続けるしかないのです。

「生きる力が天からわたしのからだに流れ込んでくる」という恩恵。

からだとこころの苦しみを乗り越えるための力。

それは、きっと、はっきりと目にみえるようなあり方ではなく、
密やかなプロセス、作用、結果として、
確かにわたしたちは身をもって知っていくでしょう。


posted by koji at 22:00 | 大阪 ☁ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月09日

こころのこよみ(第52週) 「この災いの最中に」

    Wenn aus den Seelentiefen           

   こころの深みから

   Der Geist sich wendet zu dem Weltensein  

   精神がみずからありありとした世へと向かい、

   Und Schönheit quillt aus Raumesweiten,  

   美が空間の拡がりから溢れ出るとき、

   Dann zieht aus Himmelsfernen     

   天の彼方から流れ込む、

   Des Lebens Kraft in Menschenleiber   

   生きる力が人のからだへと。

   Und einet, machtvoll wirkend,     

   そして、力強く働きながら、ひとつにする、

   Des Geistes Wesen mit dem Menschensein.

   精神というものと人のありようとを。
  
                                (第52週)




一年の最後の週です(『こころのこよみ』においては、復活祭の週から一年を始めます)。

この春を迎える季節に、
災いによってわたしたちは深く深く悲しみ、惑い、苦しんでいますが、
それだからこそ、
外の世は、
闇と同じくらいの光をも、
自然の法則に則って人に贈ってくれています。

そして、わたしの内深くに宿っている精神。

それが、もし、
クリスマスに生まれ、
それ以降だんだんと内側で育ってきたと感じられるならば、
この春を迎える時期、
その精神が内を照らすだけではなく、
外の世に向かって、光を発し始めていることにも気づきはしないでしょうか。

その内からの光と、
美とともにありありと輝きだしてくる外の世とが、
人において出会います。

人と世が出会います。

人の内の美と外の世の美が出会います。

こういう混乱の最中だからこそ、
人それぞれのこれまでに内にあったものと、
外の世が釣り合いをもって出会います。

これは、内側に混乱があった人が被災したのだということでは全くなく、
この混乱・被災の「最中」に、
人の内側があぶりだされてきて、
その人の感情・言動・行動となって表立ってくるということです。

これから、わたしたちは、
様々な次元で様々なやり方で(ひとりひとりのやり方で!)、
この難しい問題に立ち向かっていくことになります。

『アントロポゾフィーによるこころのこよみ』では、
まず、おのれと世との出会いを、
自分自身からどういうものにしていくかということに光を当てていきます。

それは、おのれと世との横のかかわり・出会いです。

おのれの内なるものと、
世の外なる自然(天災・人災、天のすること、人のすることも畢竟、自然ではないでしょうか)とを、
みずからアクティブにどう重ね合わせていくかということです。

その出会いに加えて、
生きる力が天から人のからだに流れ込むという、
縦のかかわり・出会いが、
生まれます。

そして、精神というものと、
人のありようが結びつきます。

それは、みずからからのアクティビティーに降り注ぐ恵みのようなものです。

生きる力は、天(精神の世)からやってくるということ。

このことをアントロポゾフィーを通して、『こころのこよみ』を通して、
わたしたちは学んでいきます。

美を通して、人と世が横のかかわりで出会い、
生きる力を通して、人と天が縦のかかわりで出会います。

この時期、十字架を人は生き得ます。

そして、この第52週が、第1週と、響きあいます。

posted by koji at 13:57 | 大阪 ☔ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月02日

こころのこよみ(第51週)〜春を待つ〜

    Ins Innre des Menschenwesens

   人というものの内へと

   Ergießt der Sinne Reichtum sich,

   感官を通して豊かさが流れ込む。

   Es findet sich der Weltengeist

   世の精神はおのれを見いだす、

   Im Spiegelbild des Menschenauges,

   人のまなこに映る相(すがた)の中に。

   Das seine Kraft aus ihm

   その相(すがた)から力が、

   Sich neu erschaffen muß.

   きっと新たに汲み上げられる。

                           (第51週)


今週のわたしの訳では、
他の3人の方々(高橋巌さん、秦理絵子さん、鳥山雅代さん)と随分違ってしまいました。

拙訳は、文法の初歩も踏まえ切れていないものです。
どうぞ通じておられる方からのご指摘をお待ちしています。

さて、

わたしのまなこに、耳に、肌に、あらゆる感官に、
この時期、豊かさが流れ込んできています。

光として、熱として、響きとして、匂い、香りとして、
感覚という感覚が、<ことば>を秘めながら、わたしたちに語りかけてきています。

目をはじめとする人の感官に、何が映り、何が響いているのか。

内なる目覚めから外なる感官を通しての目覚めへと移りゆこうとしているこの時期に、
世の精神は、そのことにとても関心を抱いている。

世の精神は、
秋から冬にかけては、
内なる精神を通して、人に語りかけてくる。
春から夏にかけては、
外なる感官を通して、人に語りかけてくる。

一年中、世の精神は、人に語りかけてくれているのですが、
春から夏にかけてと、秋から冬にかけてとは、その質に違いがあるのです。

わたしたちのこれからのテーマは、
世の精神からの語りかけを聴き取ること。

世の精神との間に対話を交わせるようになっていくこと。

そのことを、世の精神は、いまこそ、とても、とても期待している。

そう感じられてなりません。

この人と世の精神との対話の中からこそ、
世の精神の方が、
そのつど、そのつど、新しい力を汲み上げていくことができるのだ。
「きっと」です。

わたしの訳では、
人が力を汲み上げるのではなく、
世の精神が力を汲み上げる、となりました。

もちろん、人も、そこから、力を汲み上げるのですが、
ここでは、世の精神が主役です。
人は、世の精神に力を与える相手役です。

今週の副題に「春を待つ」とあります。

「待つ」とは、
そもそも、神が降りてこられるのを待つことを言ったそうです。

松の木は、ですから、神の依り代として、特別なものでありましたし、
祭りとは、その「待つ」ことでありました。

わたしたちは、いま、こころから、春を待っています。

こころの春を、魂の春を、待っています。

また、世の精神もおのれを見いだすために、
わたしたち人がまなこを開くのを待っています。

ですから、副題を、
「(世の精神としての)春が(人の感官の目覚めを)待つ」
「春が待つ」
としてもいいかもしれません。

posted by koji at 21:40 | 大阪 ☁ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月01日

こころのこよみ(第50週)

    Es spricht zum Menschen-Ich,

   人の<わたし>に語りかける。  

   Sich machtvoll offenbarend

   みずから力強く顕れつつ、

   Und seines Wesens Kraefte loesend,

   そしてものものしい力を解き放ちつつ、

   Des Weltendaseins Werdelust:

   世のありありとした繰りなす喜びが語りかける。

   In dich mein Leben tragend

   「あなたの内に、わたしのいのちを担いなさい。

   Aus seinem Zauberbanne

   魔法の縛りを解いて。

   Erreiche ich mein wahres Ziel.

   ならば、わたしは、まことの目当てに行きつく」

                        (第50週 3月16日〜22日)




だいぶん、更新が遅れてしまっています。

今日は、
咲きはじめた桜だけでなく、
他の木々や草花たちのたたずまいのなんと「ものものしく」、活き活きとしていたことか。

大惨事が起きているこの最中だからでしょうか、
逆に、
明るく暖かな日差しの中で、
それぞれの植物が歓声を上げているのが聴こえてくるような気がしました。

この週の「こよみ」において、
「世のありありとした繰りなす喜びが、人の<わたし>に語りかける」とあります。

この語りかけを人は聴くことができるのでしょうか。

シュタイナーは、練習次第で、誰でも聴くことができると、
『いかにして人が高い世を知るにいたるか』においてはっきりと書いています。

みぞおちに近い十弁の蓮の花を養う練習によって、
「自然における力と隠れた性質があらわになる」
「それによってわたしたちの周りにあるものがそのこころとしての性質を告げ知らせる」
とあります。

それは、物質の世における対象についての知から、
イマジネーションによる知を経て、
インスピレーションの知にいたる時に得られるものです。



2行目に「offenbarend」ということばがあって、
それを「顕れつつ」と訳してみたのですが、
鈴木一博さんによりますと、
この「offenbaren」は、
「春たてる霞の空」や、
「風たちぬ」などの
「たつ」だと解いていられます。

「たつ」とはもともと、
目に見えないものがなんらかの趣きで開かれる、
耳に聴こえないものがなんらかの趣きで顕わに示される、
という日本語だそうです。

「春がたつ」のも、「秋がたつ」のも、
目には見えないことですが、
昔の人は、それを敏感に感じ、
いまの大方の人は、それをこよみで知ります。



今日、
植物から何かが「力強く」「ものものしく」立ち上がってきている。

人の<わたし>に向かって、<ことば>を語りかけてきている!

わたしは、それらの<ことば>に耳を傾け、聴くことができるだろうか。

今日のような喜びの声、励ましの声、
時に悲しみの声、嘆きの声、
それらをわたしたち人は聴くことができるだろうか。

それらを人が聴くときに、
世は「まことの目当てに行きつく」。

「聴いてもらえた〜」という喜びです。

世が、自然が、宇宙が、喜ぶんです。

シュタイナーは、
「願わくば、人が聴くことを!」ということばで、
晩年の『礎(いしずえ)のことば』という作品を終えています。

願わくば、人が、
世の<ことば>を、
生きとし生けるものたちの<ことば>を、
海の<ことば>を、
風の<ことば>を、
大地の<ことば>を、
星の<ことば>を、
子どもたちの<ことば>を、
聴くことを。

今回の大震災、そして放射能による大災害の只中で、
わたしたちは何を学ぶことができるのでしょうか。

わたしたちが、どれほど世の<ことば>を聴くための意識を稼いでこなかったか、
ということかもしれません。

密やかな学びは、
こういう時だからこそ、
現代の大方の人の意識の先頭を切って、深みを探ろうとします。

災害に対する物理的な対策が立てられていくことと平行して、
わたしたち人の内側で、
密やかな学びが進行していくべく、
仕事をしていきたいと思っています。


posted by koji at 23:44 | 大阪 | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月17日

こころのこよみ(第49週) 〜世のありありとした力〜

    Ich fuehle Kraft des Weltenseins;

   「わたしは、世のありありとした力を感じる」

   So spricht Gedankenklarheit,

   そう、考えの明らかさが語る。

   Gedenkend eignen Geistes Wachsen

   みずからの精神が長けてゆくのを考える。

   In finstern Weltennaechten

   暗い世の夜の中で。

   Und neigt dem nahen Weltentage

   そして世の昼が近づきつつある。

   Des Innern Hoffnungsstrahlen.

   内なる希みの光をもって。

                        (第49週 3月9日〜15日)




被災されてこの地で生きていくために戦っていらっしゃる方に、
いま、守りがありますように。

被災されてこの世を去られた方々のこころと精神に、
いま、守りがありますように。



「世のありありとした力」をこれほどまでに感じた一週間はなかったように思います。

いま、この苦しみ、恐れ、不安、悲しみを荷っていらっしゃる方々の上に、
覆いかぶさっている夜の闇のようなもの。

冷たい冷たい避難所の中で、
毛布一枚で夜を越えることの肉体的な苦痛はどれほどのものだろうか。

そしてどれほどの苛みがこころを襲っていることだろうか。

このときにこそ、
精神が長けてゆくことを信じたい。

そして、きっと、
世の昼、世の春がこれからやってきて、
内なる希みの光が、
こころに思い出されることを信じて生きていきたい。

posted by koji at 18:27 | 大阪 ☀ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月10日

こころのこよみ(第48週)

    Im Lichte das aus Weltenhoehen

   世の高みから

   Der Seele machtvoll fliessen will

   力に満ちてこころに流れてくる光の中で

   Erscheine, loesend Seelenraetsel

   現われよ、こころの謎を解きながら、

   Des Weltendenkens Sicherheit

   世の考えの確かさよ。

   Versammelnd seiner Strahlen Macht

   その光り輝く力を集め、

   Im Menschenherzen Liebe weckend.

   人の心の中に愛を呼び覚ますべく。

                       (第48週 3月2日〜9日)



「世の考えの確かさよ、現われろ」とうたわれるこの第48週。

わたしの考えではなく、
「世の考え」。

これは、こう言い換えてもいいかもしれません。

昼の考えではなく、
夜の考え。

夜の考え?

ここで述べていることは、
シュタイナー自身の研究によって述べられていることですが、
それをわたし自身の生活の中で、
研究の中で、
ためつすがめつ、考え、感じ、確かめていくことができます。

眠っているとき、人は昼間とは比べ物にならないほど、
意志の力に満ちています。

そしてその強い意志に満ちて、考えています。

この頭を離れて。

エゴから離れて自由に。

世に広がりつつ。

昼間よりも遥かに賢く、力に満ちて、広やかに、高みから、
意志に満ちて考えています。

そして眠っている間に、人は精神の世から毎夜毎夜、
次の日を生きる力と高く広やかな叡智を授かっています。

ただ、それをわたしたちは朝起きるとすぐに忘れてしまいます。

そして昼間には、
夜の間の意志がごく弱められて眠っているかのように働いています。

そして、現代人はとかく、内からの意志の力をほとんど発揮せずに、
外側の世にあわせて受動的に考えて(考えさせられて)います。

それもまた、意味のあることであるのは確かなのですが。

ただ、この昼間の生活は、
わたしたちの過去からの考え方、感じ方、意志の発揮の仕方に縛られています。

「世の考えの確かさよ、現われろ」というのは、
昼間の生活の中に、
夜眠っている間に営んでいる意志に満ちた考える働きを導きいれることです。

それは、眠っている間に授かった叡智を昼間にも感じ続けようとし、
だんだんとその知にはっきりと目覚めていく生活を始めていくことです。

そのために、
アントロポゾフィーによるこころの練習があります。

そのひとつに、
日々の生活をこれまで以上に意志に満ちたものにしていくことがあります。

それは、夜の意志を昼に持ち込み、引き継ぐということです。

生活のいちいちを、
「わたし」からの行為として、
こころをこめて、注意深く、愛を込めて、していく。

そして、アントロポゾフィーの本を読むとき、
知的な理解にとどまるだけでなく、
意志を精一杯使って、
文章の中に「わたし」をもって立つかのように、読む。

そのような行為が習いになるに従って、
人は過去のこころのありように縛られることから解き放たれていく道が開けてきます。

人は、自由な存在なのではなく、
意識を使って練習していくことの内に自由になりゆく存在なのです。

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2011年02月28日

こころのこよみ(第47週)

    Es will erstehen aus dem Weltenschosse,

   世のふところから蘇ってくるだろう、

   Den Sinnenschein erquickend Werdelust,

   感官への輝きを息づかせる生みなす喜びが。

   Sie finde meines Denkens Kraft

   その喜びは見いだす。わたしの考える力が、

   Geruestet durch die Gotteskraefte

   神々しい力を通して備えられ、

   Die kraeftig mir im Innern leben.

   内において力強いわたしとして生きていることを。

                          (第47週 2月23日〜3月1日)



少しずつ光が増し、暖かくなってきている外の世。

世のふところから現れてきているいのちの芽生えに、
わたしたちは喜びを感じます。

まるで自分が何かを生みなすかのような喜びです。

その喜びも、こころを外の世に向けて開いているからこそ、生まれてきます。



さて、わたしたちは、内にも、その生みなす喜びを見いだすことができるでしょうか。

それは、きっと、冬からの考える力が、もう、
具体的なわたしのプランとしておもてに顕われ出ようとしているのを観るからこそ感じられる喜びです。

なにしろ、冬のあの時期(クリスマス)に授かった力は神々しかった。

しかしその力と光とこころざしを紛らわすような、ぼやかすような、力を奪うような働きかけも、
人は受けてきました。

そのようなみずからの内にやってきた光と試練をともに観ようとしてきたからこそ、
そして、その試練を乗り越えてきたからこその、
この時期の喜びです。

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2011年02月22日

こころのこよみ(第46週)

   Die Welt, sie drohet zu betaeuben

   世、それはいまにもぼやかそうとする、

   Der Seele eingeborne Kraft;

   こころの生まれたての力を。

   Nun trete du, Erinnerung,

   だからこそ、想い起こせ、

   Aus Geistestiefen leuchtend auf

   精神の深みから輝きつつ。

   Und staerke mir das Schauen,

   そして「観ること」を強め、

   Das nur durch Willenskraefte

   意欲の力を通して、

   Sich selbst erhalten kann.

   おのれを保つことができるように。

                  (第46週 2月16日〜22日)



年末年始に立てたこころざし、
(Christ Impuls キリストのこころざし、と、ここでは言いたいと思います)
それがこの時期、ぼやかされます。
揺らぎます。
何をこころざしたのか、分からなくなってきたりもします。

こころの面からも、からだの面からも、
それはもう様々な働きかけを受けて、
おのれを保てなくなってきたりします。

しかし、それが、春に向けての脱皮のチャンスです。

ここが踏ん張りどころです。

「だからこそ、想い起こせ」

想う力。

「想う」とは、こころに相をつくること、絵姿をもって考えることです。

クリスマスのときに抱いた考え。

「わたしはどう生きたいのか」

その考えをさらに絵姿をもって描いてみる。

そして、その想いを、よいこらっしょと起こす。

絵姿をもって、意欲をもって、ありありと、何度でも、こころに描いてみる。

起こされたその考えの相、想いを自分自身で「観ること」。

そもそも、相とは観られて、初めて相となります。

その想い起こしこそが、
その起こされた想いを観ることこそが、
この危機のときを越えていく鍵です。

アントロポゾフィーは、
人の内に眠っている力を意識的にアクティブに起こし、使っていく道です。

そこから、わたしたちは春に向けて、
いっそうこころを安らかに確かに満ち足らせていくことができます。

posted by koji at 16:21 | 大阪 ☀ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月13日

こころのこよみ(第45週)

   Es festigt sich Gedankenmacht

   考える力が強まる、

   Im Bunde mit der Geistgeburt,

   精神の生まれとの結びつきの中で。

   Sie hellt der Sinne dumpfe Reize

   それは感官へのおぼろげなそそりを

   Zur vollen Klarheit auf.

   まったき明らかさへともたらす。

   Wenn Seelenfuelle

   こころの満ち足りが

   Sich mit dem Weltenwerden einen will,

   世のくりなしとひとつになりたいのなら、

   Muss Sinnesoffenbarung

   きっと感官への啓けは、

   Des Denkens Licht empfangen.

   考えの光を受けとめる。

                    (第45週 2月9日〜15日)


こころの満ち足り。

それは、内と外がひとつに重なり合うことで生まれてくる。

アントロポゾフィーは、
その内と外との重ね合わせを意識的に織りなしていくことを人に指して説いています。

以前の人は、
その重ね合わせがおのずと生じていました。

素朴に、季節の巡りを生きていました。

いまの人は、
それがおのずと生じては来ません。

外なる自然の巡り、季節の巡りは、いまや、随分よそよそしいものです。
影も影の考え、抽象的な考えで、
春夏秋冬を言い、
もしくは「おぼろげなそそり」を感じるだけで、
「あっ、春が来た」
「暑いなあ、もう夏だね」
「寒くなったな」
などで済んだりもします。

季節の巡りに対する実感が、
昔の人ほど、
おそらく、こころの深くで生きられてはいません。

いまの人のように、
外におけるものの豊かさと生活の利便をそれほど享受できなかった昔の人は、
その分、
みずからのこころとからだをフルに使うことによって、
素朴に、内から生きることの豊かさを享受できていました。

それは、外の季節の巡りが、
内のこころの巡りと、
いまほど、分離していなかったためであります。

いまは、内なるこころの働きが外の世の働きから切り離されています。

外の季節の巡りが、自然の巡りならば、
内のこころの巡りも、内なる自然の巡りです。

わたしたちは、いま、
意識して外と内の自然の巡りを重ね合わせることを通して、
こころの満ち足りを生み出していくことを必要としています。

もう一度、
こころとからだをフルに使って働くこととともに、
アントロポゾフィーを生きることが、
『こころのこよみ』をよむことが、
わたしたちの助けになりえます。

『こころのこよみ』を意識的によむこと自体が、
(「よむ」とは、「読む」でもあり、「詠む」でもあり、「呼ぶ」でもあります)
この週のことばにあるように、
感官への啓けと、
考えの光とを、
ひとつにすることです。

それは、こころの満ち足りを生み出す促しになります。

考える力、光、炎が生み出され、繰りなされていた冬の深みから、
ようやく、
目や、耳や、その他の感官を通して、
感官へのおぼろげなそそり、春へのおぼろげな予感が生じてくるこの時期、
そのそそりや予感は、
やはり、考える光に照らされることによって、
初めて感官の啓けとなり、
さらに、こころの満ち足りを生み出します。

こころの満ち足り、安らかさ、確かさ。

わたしたちは、どれほどそれを求めているでしょうか。

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2011年02月05日

こころのこよみ(第44週)

    Ergreifend neue Sinnesreize

   新しい感官へのそそりに捉えられ、

   Erfuellet Seelenklarheit,

   こころに明るさが満ちる。

   Eingedenk vollzogner Geistgeburt,

   満を持して精神が生まれたことを念う。

   Verwirrend sprossend Weltenwerden

   もつれつつ芽生える世の繰りなし。

   Mit meines Denkens Schoepferwillen.

   わたしは考える。湧き出る意欲。

                     (第44週 2月2日〜8日)



節分の日を過ぎて、立春となってからというもの、
ここ大阪でも、
随分と日中の暖かさが変わったように感じられています。

しかし、夕暮れて日が落ちると、
途端に寒さに襲われます。

この寒暖の混ざり合いに身体の具合を狂わせないように注意したいと思っています。

この外における熱の不安定さは、
わたしたち人に、
内における「わたし」のありようの不安定さをもたらそうともしています。

立春を迎えて、わたしたちは待ち焦がれている春の気配をいち早く捉え、
感官を通してどこかしらそそられるのを自覚します。

それは冬の外側の暗さに対して育まれてきた内側の明るさとあいまって、
わたしたちに少し浮き立つようなこころもちを与えもします。

しかし、同時に、
寒暖の入れ替わりのように、
外の世においてもつれつつ繰りなしてくるものが、
人に働きかけても来る時期です。

その時、人は、「わたし」が揺らぐのを感じるかもしれません。

「こころのこよみ」を通して、
昨年の暮れからクリスマスのこころもちを引き続き感じて来れたなら、
わたしたちは、何らかの実感・リアリティーを得ています。

その時内側に生まれた「世のことば」「精神の子」。
そしてそこから育ってきた「世というものの光」「考える力」「火」「炎」。

それらを意識的に内に念うこと、考えることこそが、
外の世からのもつれつつの働きかけに対して、「わたし」をしっかりと保ち、
外の世に負けない意欲を湧き出させます。

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2011年01月30日

こころのこよみ(第43週)

更新するのが遅れてしまいました。
遅ればせながら、今週の「こころのこよみ」を味わっていただければ嬉しいです。


    In winterlichen Tiefen

   冬の深みにおいて、

   Erwarmt des Geistes wahres Sein,

   精神のまことのありようが暖められ、

   Es gibt dem Weltenschine

   世の現われに、

   Durch Herzenskraefte Daseinsmaechte;

   心の力を通してありありと力が与えられる。

   Der Weltenkaelte trotzt erstarkend

   世の冷たさに立ち向かうのは、強められた、

   Das Seelenfeuer im Menscheninnern.

   人の内なるこころの炎。

                    (第43週 1月26日〜2月1日)




暖かさ、火、燃え盛るもの、炎。

この1月の間、
「こころのこよみ」を詠んでいますと、
ひたすら、こころの内に、これらの要素を呼び起こさんとして、
ことばが刻み込まれているのを感じます。

なぜならば、ここに書かれてあるとおり、
世には冷たさが、
人のこころには容易に冷たさと驕り高ぶりが立ち上がってくるからです。

考える力から、この炎は生まれています。

しかし、同じく、
考える力から、
冷たさと驕り高ぶりも生まれえます。

それは人のこころに「わたし」が通い得ないところから生じます。

世の冷たさとは、
おのれのこころを支配しようとする冷たさです。

その冷たさに立ち向かうのは、
高く考えることから生まれる暖かさ、そして炎しかありません。

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2011年01月18日

こころのこよみ(第42週)

    Es ist in diesem Winterdunkel

   この冬の闇に

   Die Offenbarung eigner Kraft

   みずからの力の啓けがある。

   Der Seele starker Trieb,

   こころからの強い求めがある。

   In Finsternisse sie zu lenken

   暗闇にそれらをもたらし、

   Und ahnend vorzufuehlen

   そして予感する。

   Durch Herzenswaerme Sinnesoffenbarung.

   心の暖かさを通して、感官が開くことを。

                            (第42週 1月19日〜25日)



この冬の冷たさと暗さがあるからこそ、
わたしたちはわたしたちみずからの心を暖かくし、
光を灯す作業に執りかかれます。

闇であるからこそ、
目覚めが起こりうる。

外なる光ではなく、
内なる光が、
どの人のこころにも差し込みうる。

この季節こそが、
自分のしたいこと、
自分の方向性、
自分の理想、
自分の夢に対して、
目覚めていい時期なんだ。

もう目覚めている人は、
この冬には、
みずからの内に宿っている考えを、
さらにいっそう明らかなものに、確かなものにしていく。

それは、
わたしが、わたしの「考える」「感じる」「欲する」に働きかけて、
つまりアストラールのからだに働きかけて、
みずからの精神おのれ(Geistselbst)を育んでいくことです。

そして、前週において、
「人の愛において、人の仕事において、神々の力が燃え上がる」
とありました。

その炎ゆえの心の暖かさを通して、
このこころの力が、
感官を開き、外の世界と豊かに交わっていくことへと、
具体的な仕事への意欲へと、
未来への希みへと、
きっと、繋がっていきます。

春への希みです。

繰り返される人生の春への希みです。

外なる自然の、世の、地球の、宇宙の運行は、
このようになっています。

さて、この運行と、
わたしたちのこころという、
人の内なる自然をひとつに合わせるか、合わせないかは、
その人、その人に、任されています。



いま、わたしが言語造形で取り組んでいる詩にも、
応援歌が鳴り響いています。

闇の中でこそ、
精神が輝きだします。


  草野心平作 『冬眠』から

    食べることを断ち暗闇で僅かに希薄な空気だけで生きていることは。

    それこそ富士山のように大きな忍耐かもしれませんが。

    この忍耐が共通なら。

    そして共通であることから。

    ぼんやりそれが愛の方向へ移行します。

    事実わたくしたちが共に生きていることをほんとうに感じますのは。

    共共に生の歓喜を歌い合った地上の春や夏ではなくて。

    この暗闇のなかでです。

    (中略)

    もうすぐ自然に。

    わたくしの頭が。

    わたくしの四肢が。

    むっくり起きあがる時がくる。

    (中略)

    ギギムはきっぱり眼をひらいた。

    暗い。

    冷たい。

    けれどもギギムはいまの生活を忍耐だとは思わず生活だと思っている。

    不満はない。

    地上の未来への夢をギギムは。

    こん度は眼をあけながら見ようとした。


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2011年01月11日

こころのこよみ(第41週)

    Der Seele Schaffensmacht

   こころから生み出す力、

   Sie strebet aus dem Herzensgrunde

   それは心の基からほとばしりでる。

   Im Menshenleben Goetterkraefte

   人の生きる中で、神々の力を

   Zu rechtem Wirken zu entflammen,

   ふさわしい働きへと燃え上がらせるべく。

   Sich selber zu gestalten

   おのれみずからを形づくるべく。

   In Menschenliebe und im Menschenwerke.

   人の愛において、人の仕事において。

                               (第41週 1月12日〜18日)



世のことば、世の光が、
おのれの虚しい想い込みを焼き尽くすほどの火にまで長けるこの時期。

この考える力から生まれた火が、
わたしたちを創造的な仕事に取り掛かるまでに繰りなしていきます。

夏にわたしたちを外から焦がすように照っていた陽の光が、
今、この冬のさなかに、内から火の力となって燃え上がります。

外から受けとった力が内なる力になりかわるのが、
秋から冬にかけてです。

その冬の内なる力を基にして、外からの力を更に豊かに受け取ることができるのが、
春から夏にかけてです。

そのような四季の巡りを意識的なこころで生きていくこと。

それが「こころのこよみ」を通して、シュタイナーが育もうとしたことです。

陽の光は、地上に降り注ぐ神の働きだということを、
もしわたしたちが真摯に受け取ることができれば、
夏の過ごし方も内側から変わっていくでしょう。

そして、冬のこの時期になって、
わたしたちはその神々の働きを、
おのれみずからの働きへと転換していることに気づくこともできます。

14世紀以前の人たちが、おのずと生活の中でいただいていた分別の賢さ。
それは天候から何かを読む力であったり、
それを生活に活かす智恵でした。

15世紀以降、わたしたちはそれを徐々に失ってきました。

外で何が起ころうとも、
内においては独立して生活を営めるようになってきました。

自然に振り回されずに済むようにだんだんなってきました。

一年中、欲しいものを欲しいときに得ることができるようになりました。

しかし、その分、人は、こころを病んでしまいがちです。

21世紀を生きているわたしたちは、
意識して、
四季の巡りなどの外に繰りなされている働きと、
考える、感じる、欲するなどのこころの内なる働きとを、
ひとつに重ね合わせることによって、
ふたたび、こころの健やかさを得ることができるのです!

なぜならば、
外なる働きも、
内なる働きも、
ともに、精神の別々の側面なのですから。

それを、人が、ふたたび、ひとつにするのです。

posted by koji at 17:59 | 大阪 ☀ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月03日

こころのこよみ(第40週)

わたしたちはこの「こころのこよみ」を通して、
12月25日のクリスマスの頃、
幼な子の生まれを寿ぎました。

  精神の子が、こころの明るさのなかで、聖き、世のことばとして生れた

そして、次の週において、
その世のことばは、世の光として、
わたしたちのこころの奥で受けとられ、
まるで一年の歩みを集約するかのように、
一日一日だんだんとその「世のことば」「世の光」は成長していきます。

  考える力、それは長ける

クリスマスの頃、人に贈られる力、
それは「考える力」です。

しかもそれは冷たく硬い力、苛む力、責める力ではありません。

照らす力、暖める力、愛する力としての考える力です。

頭を照らし、心を暖めるものが、
本来の「考える力」です。

それはキリストが与えてくれたものです。

キリストは、この時期、この地に降りてきました。

人の身となりました。

  ことば、肉となれり

それは、人の内側から「考える力」が生まれたということです。
照らし、暖め、愛するものとして。

そのとき、まず、何にキリスト・イエスは対しあうことになったか。

悪です。

40日の断食の末に荒野において、
悪からの問いかけ、誘惑を投げかけられます。

わたしたちのこころの内においても、
聖きものと邪まなものとが同居しています。

その邪なるものからの働きかけが強くなるのも尤もです。
この時期、聖き光がこころの内に生れたのですから。

来る1月6日のキリスト降誕(ヨルダン川におけるヨハネの洗礼による)のときから、
その邪まなるものとの闘いが、
わたしたちひとりひとりのこころの内で起こるでしょう。

そしてわたしたちは応援を受けています。


    Und bin ich in den Geistestiefen,

   そしてわたしは精神の深みにいる。

   Erfuellt in meinen Seelengruenden

   我がこころの基にて、

   Aus Herzens Liebewelten

   心に満ちる愛の世から、

   Der Eigenheiten leerer Wahn

   己であることの虚しい想い込みが、

   Sich mit des Weltenwortes Feuerkraft.

   世のことばの火の力によって、焼き尽くされる。

                     (第40週 1月5日〜1月11日)





「世のことば」は、火の力にまでなっています。

「己であることの虚しい想い込み」を焼き尽くします。


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2010年12月26日

こころのこよみ(第39週)

自分自身の学びのために、
できるところまで「こころのこよみ」を味わっていきたいと思っています。


   An Geistesoffenbarung hingegeben

   精神の開けに身を捧げ、

   Gewinne ich des Weltenwesens Licht,

   わたしは世というものの光を得る。

   Gedankenkraft, sie waechst

   考える力、それは長ける、

   Sich Klaerend mir mich selbst zu geben

   わたしにわたしみずからを明かしながら。

   Und weckend loest sich mir

   そしてわたしを呼び覚ます、

   Aus Denkenmacht das selbstgefuehl.

   考える力を通してみずからの情を。

                             (第39週 12月29日〜1月4日)


前週において、

「精神の子が、こころの明るさのなかに、聖き、世のことばとして生れた」とありました。

クリスマスのこころもちとしてです。

子が生れる。

それは、

目に見える次元においても、

目に見えない次元においても、

生活を一変させます。

こころもちを一変させます。

なんとも言えない光をもたらします。

わたしは、ある趣きで、「開かれます」。

わたしが働いたからには違いないのですが、

わたし個人が生み出したのではない「世の光」に恵まれます。

「子ども」、

それはなんと愛すべき存在でしょうか。

世から恵まれた光の存在。

それが、わたしたちの「子ども」です。

そして、そこからです。

本当の考える力が長けだすのは。

その力は、ますます、「わたし」という人間を照らし出します。

「おのれの情」が確かなものになっていきます。

「わたしが、ここに、いま、いること」が確かさの情として感じられていきます。



しかし、この時期に、その恵みと裏腹に、

さいなみがやってくる可能性もありはしないでしょうか。

光のかわりに闇が。

光としての考える力のかわりに、もの思いが跋扈する。

もの思いの「もの」とは、

自分でも訳が分からないような不気味なものでもありますし、

自分を自分でなくさせるような、

自分のまんなかなどないかのように思わせる悪の力でもあります。

この「もの思い」を凌いでいくために、

アントロポゾフィーがあるのかもしれません。

もしかしたら、

わが国においても、中世の始まりにおいて、

鎌倉新仏教の担い手たち、親鸞や道元なども、

その「もの思い」を凌ぐための方図を指し示そうとしていたのかもしれません。

現代において、

アントロポゾフィーは、明瞭に、その方図を指して、示しているように、

わたしには思えてなりません。

それは、

一日のリズム、

一週間のリズム、

月の巡りとしてのひと月のリズム、

太陽の巡りとしての一年四季の織りなしのリズム、

七年をひとつの周期としたリズム、など、

それらに沿って、

いま一度、新たな意識で、

世のリズムと我が内なるこころのリズムを重ね合わせていく学びを始めることです。

その学びが、「こころのこよみ」によって、指し示されています。

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2010年12月19日

こころのこよみ(第38週)〜聖き夜の調べ〜



  Ich fuehle wie entzaubert
  わたしは感じる、

  Das Geisteskind im Seelenschoss,
  まるでこころの奥で精神の子が魔法から解かれたようだ。

  Es hat in Herzenshelligkeit
  その子はこころの明るさの中で、

  Gezeugt das heil'ge Weltenwort
  聖き、世のことばとして生まれた。

  Der Hoffnung Himmelsfrucht,
  希みに満ちた天の実りが、

  Die jubelnd waechst in Weltenfernen
  喜びの声を上げて世の彼方へと拡がりゆく、

  Aus meines Wesens Gottesgrund.
  わたしのわたしたるところ、神の基から。           

  (第38週 12月22〜28日)



クリスマスに、何が起こったか。

清められたところ(マリア)に、神の子が孕まれ、

時を得てこの世に幼な子として生まれ出でたということです。

毎年のクリスマスは、

その聖き幼な子の誕生を想い出すお祭りです。

その幼な子は、

長じて30歳のときに、「世のことば(みことば)、キリスト」としてこの世に立つ人でもあります。

その出来事は、

わたしたちひとりひとりの内側で、今も、起こりうる事柄ではないでしょうか。

「考え(concept)」とは、そもそも「孕まれたもの(conceptus)」のことです。

人のこころに精神の子が孕まれます。それが、「考え」です。

そして、その子が生まれます。それが、「ことば」です。

この時期に、わたしたちの内側で孕まれた種が、問いとして、考えとして、輝きつつ萌し、

「希みに満ちた天の実り」として、ことばとなってこの世に生まれ出ずる。

クリスマスとは、

本来、人という人から、ことばが「喜びの声を上げて世の彼方へと拡がりゆく」時です。

そして、このクリスマスにふさわしいお祭りの場が、今仕立てられるならば、

きっと、その声は、人によって聴かれるでしょう。

クリスマスとは、そのように、人のことばに耳を傾けあうときです。

幼な子の誕生を祝いあうときです。

たどたどしくてもいい、

無垢なことばの誕生を祝うときです。

「アントロポゾフィーによるこころのこよみ Der Anthroposopfische Seelenkalender」を通して、

わたしたちはそのことに意識的に向かい合うことができます。



  12/23(木・祝) 「物語とともに 聖き夜にむけて」


しらべ

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2010年12月15日

こころのこよみ(第37週)〜聖き夜にむけて〜


Zu tragen Geisteslicht in Weltenwinternacht
世の冬の夜に精神の光を荷いゆくべく、

Erstrebet selig meines Herzens Trieb  
恵みに満ちたわたしはこころから追い求める。  
      
Dass leuchtend Seelenkeime  
輝くこころの萌しが、  
  
In Weltengruenden wurzeln   
世の基に根をおろすように。  

Und Gotteswort im Sinnesdunkel
そして神のことばが、感官を覆う闇の中で、  

Verklaerend alles Sein durchtoent. 
ありとあらゆるものを輝かせ、貫いて響くように。  

(第37週 12月15日〜21日)



前週の「こころのこよみ」を通して、

わたしは、自分自身が抱いている問いにより自覚的になれたように感じています。

「わたしの仕事の目標を世のことば(キリスト)の精神の光で満たす」とは。

「世のことば(キリスト)を通して、わたしを捧げる」とは。



そもそも、「わたしにとっての本当の仕事」とはいったい何だろう。

そんな問いがあらためてこの時期にやってきました。

その問いこそが、「輝くこころの萌し」であり、

そして、その問いに毎日、からだとこころで応えていくことが、

「輝くこころの萌しが、世の基に根をおろす」ということです。

そして、

闇の中で、いや、闇の中だからこそ、

「神のことばが、ありとあらゆるものを輝かせ、貫いて響く」。

とすれば、

「キリストの精神に満たされた仕事」とは、

外から光はやってこないという状況の中で、

外は暗いという状況の中で、

それでも、内から、自分から、光を放っていくような仕事のことです。

外からは何ももう与えてくれない。

しかし、今、自分からやっていこう、自分から与えてみよう、

そんな仕事。

日々のささいな出来事に、

誰に何も言われなくても、

自分から何かをやってみる、動いてみる、働きかけてみる。

すると、それらのささいな出来事に、ほんのちょっとした輝きが生まれてこないか。

また、いつもよりも、違った調子の音が響いてこないか。

クリスマスを前にした「こころのこよみ」から、

そんな励ましに似たものを受けとることができます。



「仕事」とは、自分から、事に、仕えていくことです。

毎日、「わたし」から、仕えていくことです。

その精神を「キリストのこころざし(Christ Impuls)」とシュタイナーは呼んでいます。

どんな小さなことにも、それは生きえます。

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2010年12月11日

こころのこよみ(第36週) 〜聖き夜にむけて〜

この23日に聖き夜にむけての物語の会をするのですが、
その週にいたるまでの3週分の「こころのこよみ」(ルードルフ・シュタイナー)を
ここに挙げていきたいと思います。
下手な訳ですがこの3週間を味わっていただければ嬉しいです。


   In meines Wesen Tiefen spricht    わたしというものの深みにおいて

   Zur Offenbarung draengend       いま、目覚めよ、と

   Geheimnisvoll das Weltenwort ;     密(ひめ)やかに世のことばが語る。

   Erfuelle deiner Arbeit Ziele       「汝の仕事の目標を

   Mit meinem Geisteslichte        我が精神の光で満たせ。

   Zu opfern dich durch mich        我を通して、汝を捧げるために」

                              (第36週 12月8日〜14日)




この3週間の「こころのこよみ」に、
「世のことば」「神のことば」というように、
「ことば」というものが、
シュタイナーによって意識の上に引き上げられています。

「世のことば」
それは、ロゴスであり、
命であり、
光であり、
つまり、キリストです。

「ヨハネ福音書」のはじめにこうありました。

   はじめにことばありき
   ことば神のところにありき
   ことば神なりき   −こうごうしかりきー
   ことば、はじめに神のところにありき
   すべてはことばによりてなれり
   ことばによらずなれるは、なれるかぎりいささかもなし
   ことばに命ありき
   命、人の光となりき
   光、闇にそそぎき
   闇、光をとらえずありき

そしてシュタイナーはその福音書を講じて、こう言います。

   はじめにことばありき、ことば神のところにありき、ことば神なりき 
  
   そして、いま、ことばはどこにあるでしょうか。
   いまもことばはあります。
   ことばは人のところにあります。
   そして人の人たるところが、ことばです。
   こうしてヨハネ福音書の書き手は、
   人を神につなげます。



さて、「わたしの仕事の目標を世のことば(キリスト)の精神の光で満たす」とは。

「世のことば(キリスト)を通して、わたしを捧げる」とは。

そして、わたしのわたしたるところである「ことば」とは。


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