Der Seele Schaffensmacht
こころから生み出す力、
Sie strebet aus dem Herzensgrunde
それは心の基からほとばしりでる。
Im Menshenleben Götterkräfte
人の生きる中で、神々の力を
Zu rechtem Wirken zu entflammen,
ふさわしい働きへと燃え上がらせるべく。
Sich selber zu gestalten
おのれみずからを形づくるべく。
In Menschenliebe und im Menschenwerke.
人の愛において、人の仕事において。
人は、
善きこと、素晴らしいことを、大いに考えることはできても、
それを行為にまで移していくことには、難しさを感じるのではないでしょうか。
考えることや思いえがくこと。
そして、
実際に、すること。
この間には、人それぞれにそれぞれの距離があります。
「血のエーテル化」(1911年10月1日 バーゼル)と題された講演で、
シュタイナーが語っていることを、
今週の『こよみ』をメディテーションする上での助けにしてみましょう。
人は、昼間、目覚めつつ考えているとき、
心臓からエーテル化した血が光となってほとばしりでて、
頭の松果体にまで昇っていき、輝く。
そして、
人は、夜眠っているあいだ、考える力が眠り込み、
逆に意志・意欲が目覚め、活発に働く。
そのとき、
大いなる世(マクロコスモス)から人の頭の松果体を通り、心臓に向かって、
「いかに生きるべきか」
「いかに人として振舞うべきか」といった道徳的な力が、
その人に朝起きたときに新しく生きる力をあたえるべく、
色彩豊かに流れ込んでくる。
それは、神々が、その人を励ますために夜毎贈ってくれている力だ。
だから、人は夜眠らなければならない。
人が少しでも振る舞いにおいて成長していくためには、
眠りの時間に神々から助けをもらう必要がある。
昼間、人において、
「こころから生み出す力」、考える力が、
「心の基」から、エーテル化した血が光となってほとばしりでる。
その下から上へのエーテルの流れは、
頭の松果体のところで、
夜、上から下への神々の力と出会い、
そこで光が色彩をもって渦巻く。
その光の輝きは心臓あたりにまで拡がっていく。
それが、人というミクロコスモスで毎日起こっていることがらだ。
そして、マクロコスモス、大いなる世においては、
キリスト・イエスがゴルゴタの丘で血を流したとき以来、
そのキリストの血がエーテル化し、
地球まるごとを中心から輝かせている。
そのとき以来、
ひとりひとりの人が、
キリストのゴルゴタのことを知るほどに、
みずからの内なるエーテル化した血の流れが、
キリストのエーテル化した血とひとつになって、
昼間、人を輝かせ、力づけている。
そのキリスト化したエーテルの血と、
マクロコスモスから夜毎やってくる神々の力とが出会うことで、
人は、さらに昼間、
愛において、
仕事において、
その神々の力をふさわしい働きへと燃え上がらせる。
考えることや思いえがくこと。
そして、
実際に、すること。
その間を、人みずからが埋めていく。
それが時代のテーマだ。
鍵は、アントロポゾフィーによって、キリストのことを学ぶことだと感じます。
キリストのゴルゴタのことを人がしっかりと目覚めて分かるために、
アントロポゾフィーは20世紀初頭にやってきた、
とシュタイナーは語っています。
なお、
シュタイナーが、Seele ということばを使うときは、
からだと繋がるところでありながらも、
からだからは独立した働きを荷う「こころ」を言っていますが、
Herzen ということばを使うときは、
物質の素材でできている心臓のありようをも含む意味合いを指し、
またその物質の心臓の働きを支えているエーテルの心臓を指すようです。
そこで、Herzen を「心」と書き表しています。
[こころのこよみ(魂の暦)]の記事一覧
- 2012/01/29 こころのこよみ(第41週) 〜生活のキリスト化〜
- 2012/01/17 こころのこよみ(第40週) 〜こころの中で他者を生きる〜
- 2012/01/08 こころのこよみ(第39週)〜自由と愛〜
- 2011/12/24 こころのこよみ(第38週)〜聖き夜の調べ〜
- 2011/12/18 こころのこよみ(第37週)〜クリスマスを前にした希み〜
- 2011/12/10 こころのこよみ(第36週)〜お金と仕事〜
- 2011/12/06 こころのこよみ(第35週)〜<ある>と<生きる>〜
- 2011/12/04 こころのこよみ(第34週)〜「ある」〜
- 2011/11/27 こころのこよみ(第33週)〜人に任されている仕事〜
- 2011/11/20 こころのこよみ(第32週)〜己の足で立つ〜
- 2011/11/13 こころのこよみ(第31週)〜三つの力の織りなし〜
- 2011/11/06 こころのこよみ(第30週)〜自分の真ん中〜
- 2011/11/01 こころのこよみ(第29週)〜旅路を行く〜
- 2011/10/19 こころのこよみ(第28週)〜力強いことば〜
- 2011/10/09 こころのこよみ(第27週)〜こころの力〜
- 2011/10/02 こころのこよみ(第26週)〜ミヒャエル祭の調べ〜
- 2011/10/01 こころのこよみ(第25週)〜年のいのち〜
- 2011/09/30 こころのこよみ(第24週)〜生産的であるもののみが、まこと〜
- 2011/09/29 こころのこよみ(第23週)〜秋の滋味深さ〜
- 2011/09/28 こころのこよみ(第22週)〜秋深き隣は何をする人ぞ〜
2012年01月29日
2012年01月17日
こころのこよみ(第40週) 〜こころの中で他者を生きる〜
Und bin ich in den Geistestiefen,
そして、わたしはある、精神の深みに。
Erfüllt in meinen Seelengründen
わたしのこころの基において、
Aus Herzens Liebewelten
心に満ちる愛の世から、
Der Eigenheiten leerer Wahn
己であることの虚しい想い込みが、
Sich mit des Weltenwortes Feuerkraft.
世のことばの火の力によって、焼き尽くされる。
「わたしは、いる」
「わたしは、いま、ここに、いる」という響きから生まれてくる情よりも、
「わたしは、ある」という響きから生まれてくる、
「いま」「ここ」さえも越えた、
「わたし」というものそのもの、
「ある」ということそのことの、
限りのない広やかさと深さと豊かさの情。
何度も声に出している内に、その情を感じます。
「わたしは、ある」。
それは、その人が、
どんな能力があるとか、
どんな地位に就いているとか、
というような外側のありようからのことばではなく、
ただ、ただ、
その人が、その人として、ある、ということ。
そのことだけをその人自身が見つめて、出てきたことばです。
そのときの「わたし」は、目には見えない<わたし>です。
そして、
シュタイナーの『精神の世の境』という本から要約したかたちですが、
「愛」についてのことばを書いてみます。
精神科学の学び手は、
考える力を通して「みずからの情」を育んでいくことに重きを置いている。
その情が、こころに強さと確かさと安らかさを与えてくれるからだ。
そして、学び手は、
この感官の(物質の)世を生きるにおいて、
その強められた「みずからの情」を抑制することを通して、
愛を生きる。
愛とは、
みずからのこころにおいて、
他者の喜びと苦しみを生きることである。
感官を凌ぐ意識によって人は精神の世に目覚めるが、
感官の世においては、精神は愛の中で目覚め、愛として甦る。
「世のことばの火の力」
それは、きっと、愛だと感じます。
そして、それによって、「己であることの虚しい思い込みが、焼き尽くされる」。
そして、わたしはある、精神の深みに。
Erfüllt in meinen Seelengründen
わたしのこころの基において、
Aus Herzens Liebewelten
心に満ちる愛の世から、
Der Eigenheiten leerer Wahn
己であることの虚しい想い込みが、
Sich mit des Weltenwortes Feuerkraft.
世のことばの火の力によって、焼き尽くされる。
「わたしは、いる」
「わたしは、いま、ここに、いる」という響きから生まれてくる情よりも、
「わたしは、ある」という響きから生まれてくる、
「いま」「ここ」さえも越えた、
「わたし」というものそのもの、
「ある」ということそのことの、
限りのない広やかさと深さと豊かさの情。
何度も声に出している内に、その情を感じます。
「わたしは、ある」。
それは、その人が、
どんな能力があるとか、
どんな地位に就いているとか、
というような外側のありようからのことばではなく、
ただ、ただ、
その人が、その人として、ある、ということ。
そのことだけをその人自身が見つめて、出てきたことばです。
そのときの「わたし」は、目には見えない<わたし>です。
そして、
シュタイナーの『精神の世の境』という本から要約したかたちですが、
「愛」についてのことばを書いてみます。
精神科学の学び手は、
考える力を通して「みずからの情」を育んでいくことに重きを置いている。
その情が、こころに強さと確かさと安らかさを与えてくれるからだ。
そして、学び手は、
この感官の(物質の)世を生きるにおいて、
その強められた「みずからの情」を抑制することを通して、
愛を生きる。
愛とは、
みずからのこころにおいて、
他者の喜びと苦しみを生きることである。
感官を凌ぐ意識によって人は精神の世に目覚めるが、
感官の世においては、精神は愛の中で目覚め、愛として甦る。
「世のことばの火の力」
それは、きっと、愛だと感じます。
そして、それによって、「己であることの虚しい思い込みが、焼き尽くされる」。
2012年01月08日
こころのこよみ(第39週)〜自由と愛〜
An Geistesoffenbarung hingegeben
精神の啓けに身を捧げ、
Gewinne ich des Weltenwesens Licht.
わたしは世というものの光を得る。
Gedankenkraft, sie wächst
考える力、それは長ける、
Sich klärend mir mich selbst zu geben,
わたしにわたしみずからを明かしながら。
Und weckend löst sich mir
そしてわたしに呼び覚ます、
Aus Denkermacht das Selbstgefühl.
考える力を通して、みずからの情を。
「精神の啓け」。
それは、
「心(心臓)の明るさの中に、
精神の子が、
聖き、世のことばとして生まれた」と、
年の終わりの聖き夜の調べとして、
先週の『こころのこよみ』に謳われていました。
「精神の子」
「聖き、世のことば」
「キリスト」
とは、何なのか。
わたしにとって、どのようなものなのだろうか。
ヨハネ福音書講義を読むと、
その問いにこうシュタイナーは答えています。
それは、
「わたしこと」
「われあり」
だと。
「わたしがある」ということを人にもたらしたもの。
それがキリストだと、
密のキリスト教では認められ、人から人へと伝えられてきた。
この「わたしがある」ということを実感することこそが、
現代人におけるまさにもっとも深い願いなのではないでしょうか。
どんなときでも、どんな場所でも、誰と会っていても、誰に会っていなくても、
「わたしがある」ということへの情、信頼、確かさが己に根付いているほどに、
人は健やかさに恵まれます。
その「わたしがある」という情が、この時期に、生まれた。
それを「精神の啓け」と、ここでは言っています。
このクリスマスの時期、皆さんはいかがだったでしょうか。
「わたしがある」というところへと、
「身を捧げる」。
ならば、「わたしは世というものの光を得る」。
それは、
どこまでも、
この「わたしのわたしたるところ」「わたしがある」への信頼から、
人との対話へと、
仕事へと、
一歩踏み出していくことです。
それは、きっと、
見返りを求めない、
その人のその人たるところからの自由な愛からのふるまいでしょう。
その勇気をもって踏み出した一歩の先には、
きっと、
「世というものの光」が見いだされます。
輝いている場面に出会います。
輝いている人に出会います。
輝いている「わたし」に出会います。
皆さんはいかがだったでしょうか。
そして、
「わたしのわたしたるところ」「わたしがある」という情は、
どのように稼がれるのでしょう。
それは、「考える力が長ける」ことによって稼がれます。
普段、わたしたちの考える力は、
目に見えるもの、手に触れるものなどに、張り付いてしまっています。
物質的な感官を通して入ってくるものに対して考えることに尽きてしまっています。
「いま、何時だろう」
「今日は何を食べようか」
「あそこに行くまでには、どの電車に乗り継いでいったらいいだろうか」
「ローンの返済を今月ちゃんと済ませることができるだろうか」
などなど・・・。
また、目に美しいもの、ここちよいもの、快をもたらしてくれるものには、
それらを享受するのに、特に努力はいりません。
わたしたちのふだんの考える力は、
そのように特に意志の力を要せず、
やってきたものを受けとり、適度に消化し、あとはすぐに流していくことに仕えています。
しかし、たとえば、葉がすべて落ちてしまった木の枝。
目に美しい花や紅葉などが消え去った冬の裸の枝。
それらをじっと見つめながら、
こころの内で、
考える力にみずからの意欲・意志を注ぎ込みながら、
来たる春や夏に咲きいずるはずの、
目には見えない鮮やかな花や緑滴る葉を想い描きつつ、
その木というものの命に精神の眼差しを向けてみるならば、
その寒々しかった冬の裸の枝の先に、
何か活き活きとした光のようなものが感じられてこないだろうか。
それぐらい、
考える力を、見えるものにではなく、見えないものに、
活き活きと意欲を働かせつつ向けてみると、
その考えられた考えが、
それまでの外のものごとを単になぞるだけ、コピーするだけの死んだものから、
ものやことがらの内に通っているかのような、
活き活きと命を漲らせたものになる。
考える力を、そのように、
感官を超えたものに意志をもって向けていくことによって、
わたしたちは内において、
自然界に写る影の像を命ある像に転換できます。
死を生に転換できるのです。
そして、その考える力によって、
わたしたちみずからも活き活きとしてきます。
わたしにわたしみずからを明かします。
わたしに、みずからの情を、呼び覚まします。
「みずからの情」、
それは、すなわち、「わたしがある」という情ですし、
みずからに由るという情、
「自由」の情でもあります。
キリストとは、
「わたしがある」「わたしこと」を人にもたらしたものです。
そして、いまももたらし続けているならば、
現代において、なおいっそう、
ひとりひとりが、
キリストによってもたらされたみずから考える力を長けさせることによって、
「わたしがある」ことの情、つまり、内なる自由から、
「わたしを捧げる」意欲、つまり、愛する道を歩いていくことを、
キリストは応援している。
この『こころのこよみ』を読みながら、
そのことをメディテーションします。
精神の啓けに身を捧げ、
Gewinne ich des Weltenwesens Licht.
わたしは世というものの光を得る。
Gedankenkraft, sie wächst
考える力、それは長ける、
Sich klärend mir mich selbst zu geben,
わたしにわたしみずからを明かしながら。
Und weckend löst sich mir
そしてわたしに呼び覚ます、
Aus Denkermacht das Selbstgefühl.
考える力を通して、みずからの情を。
「精神の啓け」。
それは、
「心(心臓)の明るさの中に、
精神の子が、
聖き、世のことばとして生まれた」と、
年の終わりの聖き夜の調べとして、
先週の『こころのこよみ』に謳われていました。
「精神の子」
「聖き、世のことば」
「キリスト」
とは、何なのか。
わたしにとって、どのようなものなのだろうか。
ヨハネ福音書講義を読むと、
その問いにこうシュタイナーは答えています。
それは、
「わたしこと」
「われあり」
だと。
「わたしがある」ということを人にもたらしたもの。
それがキリストだと、
密のキリスト教では認められ、人から人へと伝えられてきた。
この「わたしがある」ということを実感することこそが、
現代人におけるまさにもっとも深い願いなのではないでしょうか。
どんなときでも、どんな場所でも、誰と会っていても、誰に会っていなくても、
「わたしがある」ということへの情、信頼、確かさが己に根付いているほどに、
人は健やかさに恵まれます。
その「わたしがある」という情が、この時期に、生まれた。
それを「精神の啓け」と、ここでは言っています。
このクリスマスの時期、皆さんはいかがだったでしょうか。
「わたしがある」というところへと、
「身を捧げる」。
ならば、「わたしは世というものの光を得る」。
それは、
どこまでも、
この「わたしのわたしたるところ」「わたしがある」への信頼から、
人との対話へと、
仕事へと、
一歩踏み出していくことです。
それは、きっと、
見返りを求めない、
その人のその人たるところからの自由な愛からのふるまいでしょう。
その勇気をもって踏み出した一歩の先には、
きっと、
「世というものの光」が見いだされます。
輝いている場面に出会います。
輝いている人に出会います。
輝いている「わたし」に出会います。
皆さんはいかがだったでしょうか。
そして、
「わたしのわたしたるところ」「わたしがある」という情は、
どのように稼がれるのでしょう。
それは、「考える力が長ける」ことによって稼がれます。
普段、わたしたちの考える力は、
目に見えるもの、手に触れるものなどに、張り付いてしまっています。
物質的な感官を通して入ってくるものに対して考えることに尽きてしまっています。
「いま、何時だろう」
「今日は何を食べようか」
「あそこに行くまでには、どの電車に乗り継いでいったらいいだろうか」
「ローンの返済を今月ちゃんと済ませることができるだろうか」
などなど・・・。
また、目に美しいもの、ここちよいもの、快をもたらしてくれるものには、
それらを享受するのに、特に努力はいりません。
わたしたちのふだんの考える力は、
そのように特に意志の力を要せず、
やってきたものを受けとり、適度に消化し、あとはすぐに流していくことに仕えています。
しかし、たとえば、葉がすべて落ちてしまった木の枝。
目に美しい花や紅葉などが消え去った冬の裸の枝。
それらをじっと見つめながら、
こころの内で、
考える力にみずからの意欲・意志を注ぎ込みながら、
来たる春や夏に咲きいずるはずの、
目には見えない鮮やかな花や緑滴る葉を想い描きつつ、
その木というものの命に精神の眼差しを向けてみるならば、
その寒々しかった冬の裸の枝の先に、
何か活き活きとした光のようなものが感じられてこないだろうか。
それぐらい、
考える力を、見えるものにではなく、見えないものに、
活き活きと意欲を働かせつつ向けてみると、
その考えられた考えが、
それまでの外のものごとを単になぞるだけ、コピーするだけの死んだものから、
ものやことがらの内に通っているかのような、
活き活きと命を漲らせたものになる。
考える力を、そのように、
感官を超えたものに意志をもって向けていくことによって、
わたしたちは内において、
自然界に写る影の像を命ある像に転換できます。
死を生に転換できるのです。
そして、その考える力によって、
わたしたちみずからも活き活きとしてきます。
わたしにわたしみずからを明かします。
わたしに、みずからの情を、呼び覚まします。
「みずからの情」、
それは、すなわち、「わたしがある」という情ですし、
みずからに由るという情、
「自由」の情でもあります。
キリストとは、
「わたしがある」「わたしこと」を人にもたらしたものです。
そして、いまももたらし続けているならば、
現代において、なおいっそう、
ひとりひとりが、
キリストによってもたらされたみずから考える力を長けさせることによって、
「わたしがある」ことの情、つまり、内なる自由から、
「わたしを捧げる」意欲、つまり、愛する道を歩いていくことを、
キリストは応援している。
この『こころのこよみ』を読みながら、
そのことをメディテーションします。
2011年12月24日
こころのこよみ(第38週)〜聖き夜の調べ〜
Weihe-Nacht-Stimmung 聖き夜の調べ
Ich fuehle wie entzaubert
わたしは感じる、
Das Geisteskind im Seelenschoss,
まるでこころの奥で、精神の子が魔法から解かれたようだ。
Es hat in Herzenshelligkeit
その子は心の明るさの中で、
Gezeugt das heil'ge Weltenwort
聖き、世のことばとして生まれた。
Der Hoffnung Himmelsfrucht,
希みに満ちた天の実りが、
Die jubelnd wächst in Weltenfernen
喜びの声を上げて世の彼方へと拡がりゆく、
Aus meines Wesens Gottesgrund.
わたしのわたしたるところ、神の基から。
クリスマス、それは、おさな子の誕生を寿ぐ日です。
おさな子のおさな子たるところの生まれを祝う日です。
どの人のこころの奥にも眠っているおさな子が、
魔法を解かれたかのように目覚めうることを認め合う日です。
おさな子、
それは、子ども時代の内でもとりわけ、
記憶の境の向こう、三歳以前のわたしたちのありようです。
この世に生まれたわたしたちは、
そのおさな子の時代に、
おおよそ三年をかけて、
立ち、歩く力、
話す力、
考える力を、
人として生きる最もベーシックな三つの力として身につけ始めました。
それらの力は、その人が生涯を生きていく上で育んでいくことになる、
こころの三つの力、
欲する力(意欲・意志)
感じる力(情)
考える力(思考)
の萌しとしての表れでもあります。
その力は、当然その子によって意識的に身につけられたものでもなければ、
大人によって教え込まれたものでもなく、
そのおさな子の内から、
まるでこうごうしい力が繰り出してくるかのように、
地上的に考える力を超えたところから、
生まれてきました。
そのおのずと生まれてきたこうごうしい力は、
しかし、
三年間しかこの世にはありません。
おさな子のおさな子たるところが輝く三年間から後は、
その子の内に、
少しずつ地上を生きていくための知性と共に、
エゴがだんだんと育ち始めます。
きっと、それも、人の育ちにはなくてはならないものです。
しかし、おおよそ、三年の間のみ、
人の内に、そのこうごうしい力は通います。
この地を生きていくための基の力であり、
かつ、
この地を越えたこうごうしいところからの力は、
三年の間のみ、
おさな子に通います。
ですから、
「聖き、世のことば」キリストも、
この世に、三年の間しか生きることができませんでした。
イエス、三十歳から三十三歳の間です。
そのイエスに三年間通った力は、
おさな子のおさな子たるところからの力として、
世のすべての争い、分け隔て、エゴ、
それらを越える、愛する力として、
この地上に受肉しました。
後にキリストを宿すイエスが母マリアから生まれたとされている、
24日から25日の間の聖き夜。
その夜から、キリストがイエスに受肉した1月6日までをクリスマスとして祝います。
そして、このクリスマスは、
二千年以上前のおおもとの聖き夜に起こったことを想い起こすことを通して、
わたしたちの内なるおさな子たるところを想い起こすときです。
わたしたちの内にも、確かに、そのこうごうしい力が通っていました。
そして、いまも、通っています。
しかし、わたしがわたしたるところから、
そのこうごうしい力を想い起こせばこそ、
いまもその力が通っていることを知ることができます。
このクリスマスの日々に、
その力を自分の内にも認めればこそ、
来る年への希みが生まれ、羽ばたき始めます。
希みに満ちた天の実りが、
喜びの声を上げて世の彼方へと拡がりゆく、
わたしのわたしたるところ、神の基から
2011年12月18日
こころのこよみ(第37週)〜クリスマスを前にした希み〜
Zu tragen Geisteslicht in Weltenwinternacht
世の冬の夜に、精神の光を荷いゆくべく、
Erstrebet selig meines Herzens Trieb
恵みに満ちたわたしは心から追い求める。
Dass leuchtend Seelenkeime
輝くこころの萌しが、
In Weltengruenden wurzeln
世の基に根をおろすように。
Und Gotteswort im Sinnesdunkel
そして神のことばが、感官を覆う闇の中で、
Verklaerend alles Sein durchtönt.
ありとあらゆるものを輝かせ、貫いて響くように。
前週の『こころのこよみ』において、
メディテーションをしている人の、
冴えて目覚めてきたこころの内に、
「世のことば」「キリスト」が語りかけてくるさまが描かれてありました。
そのことばは、
「あなたの仕事の目当てをわたしの精神の光で満たしなさい、
わたしを通して、あなたを捧げるべく」
と響いてくるとあります。
ことばを通してメディテーションを続けていますと、
だんだんと、そのことばに沿った形で、生活と人生が流れ始めるのを感じます。
考える力が実の力であり、
その力こそが生きることを導いている事実をまざまざと感じます。
「わたしの仕事の目当てをキリストの精神の光で満たす」とは、
そして「キリストを通して、わたしを捧げる」とは、
と考え続けていくことを通して、
その考えと声にだんだんと親しんでいく、
だんだんと近づいていく、
だんだんとひとつになっていく、
その内なる道が踏み均されていきます。
そして、だんだんと密やかながら、
これまでの自分の考え方、感じ方、欲し方に変化が生まれてくる。
そして、さらに、その内なる道に沿うかのように、
外なる道が、自分の前に啓けてくる。
そのようなプロセスをわたしたちは、クリスマスに向けて歩んでいくことができる。
その「キリストのことば」を精神の光として、
こころに荷ってゆくことができるならば、
そのこころざしは、
「輝くこころの萌し」として、きっと「世の基に根」をおろします。
人のこころが輝いていれば、
きっと、
その人の周りの世も輝きだします。
人のこころに、
「神のことば」
「キリストのことば」
「わたしのわたしたるところからのことば」が響いているほどに、
きっと、
「ありとあらゆるものが輝きだし」、
「ありとあらゆるものを貫いて響きだす」ことでしょう。
人は、仕事を通して、事に仕えることを通して、
ありとあらゆるものを輝かせ、響かせることができる。
そんな希みをクリスマスを前にして抱くことができるのならば、
わたしたちは、特に未来を荷っていくだろう世代の人たちに対して、
何らかの貢献ができるかもしれません。
わたしたちが、いま、各々の仕事を通してやっていくことができること、
それを見定めていきたいですね。
世の冬の夜に、精神の光を荷いゆくべく、
Erstrebet selig meines Herzens Trieb
恵みに満ちたわたしは心から追い求める。
Dass leuchtend Seelenkeime
輝くこころの萌しが、
In Weltengruenden wurzeln
世の基に根をおろすように。
Und Gotteswort im Sinnesdunkel
そして神のことばが、感官を覆う闇の中で、
Verklaerend alles Sein durchtönt.
ありとあらゆるものを輝かせ、貫いて響くように。
前週の『こころのこよみ』において、
メディテーションをしている人の、
冴えて目覚めてきたこころの内に、
「世のことば」「キリスト」が語りかけてくるさまが描かれてありました。
そのことばは、
「あなたの仕事の目当てをわたしの精神の光で満たしなさい、
わたしを通して、あなたを捧げるべく」
と響いてくるとあります。
ことばを通してメディテーションを続けていますと、
だんだんと、そのことばに沿った形で、生活と人生が流れ始めるのを感じます。
考える力が実の力であり、
その力こそが生きることを導いている事実をまざまざと感じます。
「わたしの仕事の目当てをキリストの精神の光で満たす」とは、
そして「キリストを通して、わたしを捧げる」とは、
と考え続けていくことを通して、
その考えと声にだんだんと親しんでいく、
だんだんと近づいていく、
だんだんとひとつになっていく、
その内なる道が踏み均されていきます。
そして、だんだんと密やかながら、
これまでの自分の考え方、感じ方、欲し方に変化が生まれてくる。
そして、さらに、その内なる道に沿うかのように、
外なる道が、自分の前に啓けてくる。
そのようなプロセスをわたしたちは、クリスマスに向けて歩んでいくことができる。
その「キリストのことば」を精神の光として、
こころに荷ってゆくことができるならば、
そのこころざしは、
「輝くこころの萌し」として、きっと「世の基に根」をおろします。
人のこころが輝いていれば、
きっと、
その人の周りの世も輝きだします。
人のこころに、
「神のことば」
「キリストのことば」
「わたしのわたしたるところからのことば」が響いているほどに、
きっと、
「ありとあらゆるものが輝きだし」、
「ありとあらゆるものを貫いて響きだす」ことでしょう。
人は、仕事を通して、事に仕えることを通して、
ありとあらゆるものを輝かせ、響かせることができる。
そんな希みをクリスマスを前にして抱くことができるのならば、
わたしたちは、特に未来を荷っていくだろう世代の人たちに対して、
何らかの貢献ができるかもしれません。
わたしたちが、いま、各々の仕事を通してやっていくことができること、
それを見定めていきたいですね。
2011年12月10日
こころのこよみ(第36週)〜お金と仕事〜
In meines Wesens Tiefen spricht
わたしというものの深みにおいて、
Zur Offenbarung drängend
いま、目覚めよ、と、
Geheimnisvoll das Weltenwort:
密やかに世のことばが語る。
Erfülle deiner Arbeit Ziele
「あなたの仕事の目当てを
Mit meinem Geisteslichte,
わたしの精神の光で満たしなさい、
Zu opfern dich durch mich.
わたしを通して、あなたを捧げるべく」
秋から冬にかけてのここ数週間の一連の『こころのこよみ』において、
上がってきたキーワードは、「仕事」です。
ここで言う「仕事」とは、
まさしく字に書くごとく、
「事に仕えること」でしょう。
己の内に充実し、実ってきた力をもって、
世に出て行き、
世の中で働き、
世に仕える。
世が与えてくれている事に仕える。
そして、人に仕える。
それを「仕事」と言うのでしょう。
その「仕事」においてこそ、
わたしのわたしたるところが感じられ、
そのわたしたるところによって世に息が吹き込まれ、
だんだんとそのわたしたるところが「ありありと世の内にある」ようになってくる。
今週の『こよみ』で、特に言い表されているのは、
その「仕事」の目当てを、
表面的な成果や成功や金や収入や損得に置くな、ということです。
「仕事」に必ずついてまわる「お金のこと」。
その「お金」のことで眠り込むな、ということです。
それは、こういうことだと考えます。
「お金」は、人の生命、生活、人生をなりたたせていく上で、
なくてはならないものと感じられます。
その「金!金!金!」という感じや感情に眠り込むとは、
「金がなければ生きては行けない」という考えにがんじがらめになることであり、
一方、
その感情から目覚めるとは、
「お金は要る人のところへ要る分だけ必ず行くようになっている、
事に仕えることに専念しようとする人のところには、
その仕事に必要なお金は必ず回ってくるようになっている、
よって、
まず何が本質的なこととしてこころに据えられるべきなのか、
それは、
己の内なる力を全部使って、
事に仕えるべく、己をもっていこうとすることだ。
お金は、きっと、要る分だけ、後からついてきてくれる」
わたしは、そう、考え、そう、感じます。
人と人との間でやりとりされるお金というものに関して、
決めるべきことは、はっきりと決めてしかるべきでしょう。
まずは、法の観点から(情)。
または、経済の観点から(考え)。
はたまた、精神の観点から(意志、意欲)。
(ちなみに、
法における平等は、人と人の間に醸されるべき情を大事に汲み取るものであってほしいですし、
経済の友愛は、情からではなく、ある定かな考えからなされてしかるべきですし、
精神の自由は、ひとりひとりの個別の意欲をふさわしく評価することとひとつです。)
しかし、お金というものを含む世のものごとは、
すべて、精神からなりたっています。
その精神をはじめにこころに据えることなくして、
法も、経済も、人間的なものとしてなりたちえないはずです。
生活を織りなしていくために、
まず精神を基に置く。
自分の仕事について、
「その事に愛をもって仕えることができるかどうか」。
そのことをはじめに考えることができるだろうか。
その考えは、
決してこころの表面でのものではなく、
わたしというものの深みにおいて、初めて繰りなされます。
わたしというものの深みにおいて、
世のことばが密やかに語ります。
「いま、目覚めよ」と。
「世のことば」キリストは、
わたしというもの、人というもの誰しもの深みにおいてのみ、
きっと、ものを言うのでしょう。
「いま、目覚めよ」と。
金は大切だ、生活も大切だ、いのちも大切だ、幸せも大切だ、
しかし、
あなたの仕事の目当てを
わたしの精神の光で満たしなさい。
わたしを通して、あなたを捧げるべく。
わたしというものの深みにおいて、
Zur Offenbarung drängend
いま、目覚めよ、と、
Geheimnisvoll das Weltenwort:
密やかに世のことばが語る。
Erfülle deiner Arbeit Ziele
「あなたの仕事の目当てを
Mit meinem Geisteslichte,
わたしの精神の光で満たしなさい、
Zu opfern dich durch mich.
わたしを通して、あなたを捧げるべく」
秋から冬にかけてのここ数週間の一連の『こころのこよみ』において、
上がってきたキーワードは、「仕事」です。
ここで言う「仕事」とは、
まさしく字に書くごとく、
「事に仕えること」でしょう。
己の内に充実し、実ってきた力をもって、
世に出て行き、
世の中で働き、
世に仕える。
世が与えてくれている事に仕える。
そして、人に仕える。
それを「仕事」と言うのでしょう。
その「仕事」においてこそ、
わたしのわたしたるところが感じられ、
そのわたしたるところによって世に息が吹き込まれ、
だんだんとそのわたしたるところが「ありありと世の内にある」ようになってくる。
今週の『こよみ』で、特に言い表されているのは、
その「仕事」の目当てを、
表面的な成果や成功や金や収入や損得に置くな、ということです。
「仕事」に必ずついてまわる「お金のこと」。
その「お金」のことで眠り込むな、ということです。
それは、こういうことだと考えます。
「お金」は、人の生命、生活、人生をなりたたせていく上で、
なくてはならないものと感じられます。
その「金!金!金!」という感じや感情に眠り込むとは、
「金がなければ生きては行けない」という考えにがんじがらめになることであり、
一方、
その感情から目覚めるとは、
「お金は要る人のところへ要る分だけ必ず行くようになっている、
事に仕えることに専念しようとする人のところには、
その仕事に必要なお金は必ず回ってくるようになっている、
よって、
まず何が本質的なこととしてこころに据えられるべきなのか、
それは、
己の内なる力を全部使って、
事に仕えるべく、己をもっていこうとすることだ。
お金は、きっと、要る分だけ、後からついてきてくれる」
わたしは、そう、考え、そう、感じます。
人と人との間でやりとりされるお金というものに関して、
決めるべきことは、はっきりと決めてしかるべきでしょう。
まずは、法の観点から(情)。
または、経済の観点から(考え)。
はたまた、精神の観点から(意志、意欲)。
(ちなみに、
法における平等は、人と人の間に醸されるべき情を大事に汲み取るものであってほしいですし、
経済の友愛は、情からではなく、ある定かな考えからなされてしかるべきですし、
精神の自由は、ひとりひとりの個別の意欲をふさわしく評価することとひとつです。)
しかし、お金というものを含む世のものごとは、
すべて、精神からなりたっています。
その精神をはじめにこころに据えることなくして、
法も、経済も、人間的なものとしてなりたちえないはずです。
生活を織りなしていくために、
まず精神を基に置く。
自分の仕事について、
「その事に愛をもって仕えることができるかどうか」。
そのことをはじめに考えることができるだろうか。
その考えは、
決してこころの表面でのものではなく、
わたしというものの深みにおいて、初めて繰りなされます。
わたしというものの深みにおいて、
世のことばが密やかに語ります。
「いま、目覚めよ」と。
「世のことば」キリストは、
わたしというもの、人というもの誰しもの深みにおいてのみ、
きっと、ものを言うのでしょう。
「いま、目覚めよ」と。
金は大切だ、生活も大切だ、いのちも大切だ、幸せも大切だ、
しかし、
あなたの仕事の目当てを
わたしの精神の光で満たしなさい。
わたしを通して、あなたを捧げるべく。
2011年12月06日
こころのこよみ(第35週)〜<ある>と<生きる>〜
Kann ich das Sein erkennen,
<ある>とは何か、わたしは知りえるのか、
Daß es sich wiederfindet
それを再び見いだしえるのか、
Im Seelenschaffensdrange ?
こころが活き活きと働くならば。
Ich fühle, daß mir Macht verlieh'n,
わたしは感じる、わたしに力が与えられているのを。
Das eigne Selbst dem Weltenselbst
それは、己みずからが手足となって、
Als Glied bescheiden einzuleben.
世を慎ましく生き抜いていく力だ。
この週の『こよみ』の<ある>ということばから、
言語造形家の鈴木一博さんが以前、
シュタイナーの『礎のことば』について書かれていた文章を想い起こしました。
そもそも、わたしは、気づいたときには、もうすでに、ここにありました。
ものごころがついたときから、
わたしがすでにあらしめられてあることに、気づきだしました。
そして、この<わたしがある>という事態は、
わたしのこころが活き活きと生きて、働いているときにこそ、
まさに、ありありと感じられます。
その感じから始まって、
<わたしがある>ということをより深く、より親しく、より明らかに知っていくためには、
こころにおいて、
活き活きと想い起こすことが助けになります。
何を想い起こすのか。
内に蘇ってくる、ものごころがついてからの想い出。
また、ふだんは想い起こされないものの、
故郷の道などを歩くときに、その場その場で想い出される実に多くのこと。
当時あったことが、
ありありと想い出されるとき、
そのときのものごとだけでなく、
そのときの<わたし>という人もが、
みずみずしく深みを湛えて蘇ってきます。
それらを頭で想い描くのでなく、
胸でメロディアスに波立つかのように想い描くならば、
その想い出の繰りなしは、
みずみずしい深みを湛えて波立ついのちの織りなしと言ってもいいですし、
「精神の海」と呼ぶこともできる。
その「精神の海」に行きつくことによって、
人は「みずからがある」ことに対する親しさを得ることができはしないでしょうか。
そして、その「精神の海」には、
わたしが憶えているこころの憶いだけではなく、
からだが憶えているものも波打っています。
たとえば、
この足で立つこと、歩くこと。
自転車に乗ること。
ことばを話すこと。
子どもの頃に憶えたたくさんの歌。
字を書くこと。筆遣い。
包丁遣い。
などなど。
身についたこと、技量、
それはどのように身につけたかを頭で想い出すことはできなくても、
手足で憶えています。
それらの手足で憶えていることごとへの信頼があるほどに、
人は、<わたしがある>ということに対する確かな支えを持てるのではないでしょうか。
また、パーソナルな次元を超えて、
人という人が持っている、
からだというなりたち、
こころというなりたち、
果ては、
世というもの、
神というもの、
それらも人によって想い起こされてこそ、
初めて、ありありと、みずみずしく、
その人の内に生き始める。
だからこそ、
<わたしがある>という想いを、
<神の内に、わたしがある>、
もしくは、
<わたしの内に、神がある>
という想いにまで、
人は深めることができる。
想い出をみずみずしく蘇らせること。
手足の闊達な動きに秘められている技量という技量を発揮すること。
それらすべてを司っている世の生みなし手にまで遡る想いを稼いで得ること。
それらが、<わたしがある>ということの意味の解き明かし、
<わたしがある>ということへの信頼を生みはしないか。
それらが、人のこころを活き活きと生かしはしないか。
そのようにわたしのこころが活き活きと生きることと、
<わたしがある>とが響きあいます。
こころとからだが、活き活きとしているときこそ、
わたしは、ここに、<ある>ことを実に感じ、実に知ります。
<ある>ということを知っていくことは、
世の中において、
こころが<生きる>こと、
手足が<生きる>こと、
わたしまるごとが<生きる>ことと、
きっと、ひとつです。
そして、いまも、これからも、
精神からの想い起こしをすることで、
こころを活き活きと働かせつつ、
力が与えられているのを感じつつ、
手足を使って、
世を生きてゆくほどに、
<ある>ということを、
つまりは、
<わたしがある>ということを、
わたしは知りゆき、再び見いだしていくでしょう。
ここで、『礎のことば』のはじめの一部を載せておきます。
人のこころ!
あなたは手足に生き
手足に支えられつつ、場を経て
精神の海へと行きつく。
行われたし、精神の想い起こしを
こころの深みにて。
そこにては
世の生みなし手が司り
あなたの<わたし>が
神の<わたし>のうちに
ありありとある。
もって、あなたは真に生きるようになる
まこと人として、世のうちに。
(鈴木一博さん訳)
<ある>とは何か、わたしは知りえるのか、
Daß es sich wiederfindet
それを再び見いだしえるのか、
Im Seelenschaffensdrange ?
こころが活き活きと働くならば。
Ich fühle, daß mir Macht verlieh'n,
わたしは感じる、わたしに力が与えられているのを。
Das eigne Selbst dem Weltenselbst
それは、己みずからが手足となって、
Als Glied bescheiden einzuleben.
世を慎ましく生き抜いていく力だ。
この週の『こよみ』の<ある>ということばから、
言語造形家の鈴木一博さんが以前、
シュタイナーの『礎のことば』について書かれていた文章を想い起こしました。
そもそも、わたしは、気づいたときには、もうすでに、ここにありました。
ものごころがついたときから、
わたしがすでにあらしめられてあることに、気づきだしました。
そして、この<わたしがある>という事態は、
わたしのこころが活き活きと生きて、働いているときにこそ、
まさに、ありありと感じられます。
その感じから始まって、
<わたしがある>ということをより深く、より親しく、より明らかに知っていくためには、
こころにおいて、
活き活きと想い起こすことが助けになります。
何を想い起こすのか。
内に蘇ってくる、ものごころがついてからの想い出。
また、ふだんは想い起こされないものの、
故郷の道などを歩くときに、その場その場で想い出される実に多くのこと。
当時あったことが、
ありありと想い出されるとき、
そのときのものごとだけでなく、
そのときの<わたし>という人もが、
みずみずしく深みを湛えて蘇ってきます。
それらを頭で想い描くのでなく、
胸でメロディアスに波立つかのように想い描くならば、
その想い出の繰りなしは、
みずみずしい深みを湛えて波立ついのちの織りなしと言ってもいいですし、
「精神の海」と呼ぶこともできる。
その「精神の海」に行きつくことによって、
人は「みずからがある」ことに対する親しさを得ることができはしないでしょうか。
そして、その「精神の海」には、
わたしが憶えているこころの憶いだけではなく、
からだが憶えているものも波打っています。
たとえば、
この足で立つこと、歩くこと。
自転車に乗ること。
ことばを話すこと。
子どもの頃に憶えたたくさんの歌。
字を書くこと。筆遣い。
包丁遣い。
などなど。
身についたこと、技量、
それはどのように身につけたかを頭で想い出すことはできなくても、
手足で憶えています。
それらの手足で憶えていることごとへの信頼があるほどに、
人は、<わたしがある>ということに対する確かな支えを持てるのではないでしょうか。
また、パーソナルな次元を超えて、
人という人が持っている、
からだというなりたち、
こころというなりたち、
果ては、
世というもの、
神というもの、
それらも人によって想い起こされてこそ、
初めて、ありありと、みずみずしく、
その人の内に生き始める。
だからこそ、
<わたしがある>という想いを、
<神の内に、わたしがある>、
もしくは、
<わたしの内に、神がある>
という想いにまで、
人は深めることができる。
想い出をみずみずしく蘇らせること。
手足の闊達な動きに秘められている技量という技量を発揮すること。
それらすべてを司っている世の生みなし手にまで遡る想いを稼いで得ること。
それらが、<わたしがある>ということの意味の解き明かし、
<わたしがある>ということへの信頼を生みはしないか。
それらが、人のこころを活き活きと生かしはしないか。
そのようにわたしのこころが活き活きと生きることと、
<わたしがある>とが響きあいます。
こころとからだが、活き活きとしているときこそ、
わたしは、ここに、<ある>ことを実に感じ、実に知ります。
<ある>ということを知っていくことは、
世の中において、
こころが<生きる>こと、
手足が<生きる>こと、
わたしまるごとが<生きる>ことと、
きっと、ひとつです。
そして、いまも、これからも、
精神からの想い起こしをすることで、
こころを活き活きと働かせつつ、
力が与えられているのを感じつつ、
手足を使って、
世を生きてゆくほどに、
<ある>ということを、
つまりは、
<わたしがある>ということを、
わたしは知りゆき、再び見いだしていくでしょう。
ここで、『礎のことば』のはじめの一部を載せておきます。
人のこころ!
あなたは手足に生き
手足に支えられつつ、場を経て
精神の海へと行きつく。
行われたし、精神の想い起こしを
こころの深みにて。
そこにては
世の生みなし手が司り
あなたの<わたし>が
神の<わたし>のうちに
ありありとある。
もって、あなたは真に生きるようになる
まこと人として、世のうちに。
(鈴木一博さん訳)
2011年12月04日
こころのこよみ(第34週)〜「ある」〜
Geheimnisvoll das Alt-Bewahrte
密やかに、古くから保たれてきたものが、
Mit neu erstandnem Eigensein
新しく生まれてきた己のありようと共に、
Im Innern sich belebend fühlen:
内において活き活きとするのを感じる。
Es soll erweckend Weltenkräfte
「それは、きっと、目覚めた世の数々の力を、
In meines Lebens Außenwerk ergießen
わたしの人生の外なる仕事に注ぎ込み、
Und werdend mich ins Dasein prägen.
そしてだんだんとわたしを、<ある>の内へと刻み込んでいくだろう」
「密やかに、古くから保たれてきたもの」
それは、
みずからのこころというものの核のことです。
こころは、その相(すがた)を刻一刻と変えます。
しかし、そのこころというものの核は、変わらずに留まり続けます。
その核を「わたしのわたしたるところ」、<わたし>、もしくは精神と言ってもよく、
それを意識の上に据えるために、
メディテーションというこころの練習があります。
そのメディテーションを続けていくならば、
その核を、
「おおもとのみずからにおいて繰り返す地上の人生を貫くところ」(『密の学のあらまし』)
として、どの人もそれを観るのだ、
とシュタイナーは書いています。
この『こころのこよみ 第34週』では、
それを、 「密やかに、古くから保たれてきたもの」と言い表しています。
そのみずからにおいて、
引き続くもの、消え去らないもの、留まるものが、
「新しく生まれてきた己のありようと共に、
内において活き活きとするのを感じる」とあります。
秋において、新しく生まれてきた己のありようとは、
実りゆく己として、
強められたわたしとして、
外の人生、仕事、生活の中に見いだすことができるありようです。
ものや人にこころを込めて向かい合うそのたびごとに、
新しく見いだされるそのものや人の輝き。
その輝きを見いだすとき、
実は、そのつどそのつど、
新しい己自身をも見いだしているものではないでしょうか。
人は何かにときめくとき、
ときめいているわたし自身にも気づくことができます。
その、ときめいているわたし自身が、
そのつど、そのつど、新しく生まれる己です。
別の言い方をするなら、
わたしが日々生きる局面という局面には、
生きることの仕合わせが織りなされています。
生きることの仕合わせとは、
わたしと人との間で、
わたしと世との間で、
織りなされる関係性、運命、カルマというものです。
その織りなしの中でこそ、
わたしのわたしたるところが、新しく見いだされます。
古くから保たれてきたものが、新しく見いだされます。
「古くから保たれてきたものが、
新しく生まれてきた己のありようと共に、
内において活き活きとするのを感じる」
わたしの中の、
古さと新しさ、
留まるものと新たに生まれたもの、
その織りなしあい。
それが、
人生の外なる仕事と、
内なる<わたし>のありようとの織りなしあいへと、きっと繋がっていきます。
内なる<わたし>が、活き活きとこころに生みだされるほどに、
わたしを囲む世の数々の力も、きっと活き活きと目覚めて、
わたしの人生の外なる仕事に注ぎ込まれてくるでしょう。
「そしてだんだんとわたしを、<ある>の内へと刻み込んでいくだろう」
<ある Dasein>とは、
「存在」「実存」というふうに訳されることが多いと思うのですが、
「はじめにことばありき」のあるですし、
「われあり」のあるですし、
「むかし、あるところに、じいさまとばあさまがあった」の「ある」ですし、
ありとあらゆるものを主語としえる「ある」です。
「古くから保たれてきたものが、
新しく生まれてきた己のありようと共に、
内において活き活きとする」ほどに、
わたしは、
ますます<ありあり>と「ある」ようになっていく。
それは、
みずからの内なる古さと新しさの間の往復と合一、
みずからの内と外の間の往復と合一、
みずからがするメディテーションと仕事の間の往復と合一の中で、
だんだんと感じられていくことです。
密やかに、古くから保たれてきたものが、
Mit neu erstandnem Eigensein
新しく生まれてきた己のありようと共に、
Im Innern sich belebend fühlen:
内において活き活きとするのを感じる。
Es soll erweckend Weltenkräfte
「それは、きっと、目覚めた世の数々の力を、
In meines Lebens Außenwerk ergießen
わたしの人生の外なる仕事に注ぎ込み、
Und werdend mich ins Dasein prägen.
そしてだんだんとわたしを、<ある>の内へと刻み込んでいくだろう」
「密やかに、古くから保たれてきたもの」
それは、
みずからのこころというものの核のことです。
こころは、その相(すがた)を刻一刻と変えます。
しかし、そのこころというものの核は、変わらずに留まり続けます。
その核を「わたしのわたしたるところ」、<わたし>、もしくは精神と言ってもよく、
それを意識の上に据えるために、
メディテーションというこころの練習があります。
そのメディテーションを続けていくならば、
その核を、
「おおもとのみずからにおいて繰り返す地上の人生を貫くところ」(『密の学のあらまし』)
として、どの人もそれを観るのだ、
とシュタイナーは書いています。
この『こころのこよみ 第34週』では、
それを、 「密やかに、古くから保たれてきたもの」と言い表しています。
そのみずからにおいて、
引き続くもの、消え去らないもの、留まるものが、
「新しく生まれてきた己のありようと共に、
内において活き活きとするのを感じる」とあります。
秋において、新しく生まれてきた己のありようとは、
実りゆく己として、
強められたわたしとして、
外の人生、仕事、生活の中に見いだすことができるありようです。
ものや人にこころを込めて向かい合うそのたびごとに、
新しく見いだされるそのものや人の輝き。
その輝きを見いだすとき、
実は、そのつどそのつど、
新しい己自身をも見いだしているものではないでしょうか。
人は何かにときめくとき、
ときめいているわたし自身にも気づくことができます。
その、ときめいているわたし自身が、
そのつど、そのつど、新しく生まれる己です。
別の言い方をするなら、
わたしが日々生きる局面という局面には、
生きることの仕合わせが織りなされています。
生きることの仕合わせとは、
わたしと人との間で、
わたしと世との間で、
織りなされる関係性、運命、カルマというものです。
その織りなしの中でこそ、
わたしのわたしたるところが、新しく見いだされます。
古くから保たれてきたものが、新しく見いだされます。
「古くから保たれてきたものが、
新しく生まれてきた己のありようと共に、
内において活き活きとするのを感じる」
わたしの中の、
古さと新しさ、
留まるものと新たに生まれたもの、
その織りなしあい。
それが、
人生の外なる仕事と、
内なる<わたし>のありようとの織りなしあいへと、きっと繋がっていきます。
内なる<わたし>が、活き活きとこころに生みだされるほどに、
わたしを囲む世の数々の力も、きっと活き活きと目覚めて、
わたしの人生の外なる仕事に注ぎ込まれてくるでしょう。
「そしてだんだんとわたしを、<ある>の内へと刻み込んでいくだろう」
<ある Dasein>とは、
「存在」「実存」というふうに訳されることが多いと思うのですが、
「はじめにことばありき」のあるですし、
「われあり」のあるですし、
「むかし、あるところに、じいさまとばあさまがあった」の「ある」ですし、
ありとあらゆるものを主語としえる「ある」です。
「古くから保たれてきたものが、
新しく生まれてきた己のありようと共に、
内において活き活きとする」ほどに、
わたしは、
ますます<ありあり>と「ある」ようになっていく。
それは、
みずからの内なる古さと新しさの間の往復と合一、
みずからの内と外の間の往復と合一、
みずからがするメディテーションと仕事の間の往復と合一の中で、
だんだんと感じられていくことです。
2011年11月27日
こころのこよみ(第33週)〜人に任されている仕事〜
So fühl ich erst die Welt,
わたしはいま、世をこう感じる。
Die außer meiner Seele Miterleben
それは、わたしのこころが共に生きることなしには、
An sich nur frostig leeres Leben
そこにはただ、凍りついた虚しいいのちのみ、
Und ohne Macht sich offenbarend,
そして、力が啓かれることもない。
In Seelen sich von neuem schaffend,
人のこころにおいて、世は新しく創りなす。
In sich den Tod nur finden könnte.
世そのものにおいては、死を見いだすのみ。
前々週から、
己みずからの内なる力が満ちてくることと共に、
その力をもって世に出て行き、
世に働きかけ、
世と共に生き、
世に何かを生み出す、
そのような人のありようが描かれてありました。
http://kotobanoie.seesaa.net/article/234925600.html
http://kotobanoie.seesaa.net/article/236130223.html
世とは、
このわたしにとって、
四季折々に織りなしている自然のいちいちのことでしょうし、
人という人、他者のことでもありますし、
それは、このわたしをも含むものでもありますし、
そして、物質の域だけでなく、そこを超えて、
こころの域、
精神の域にまで及ぶものであります。
その「世」というものに、
この「わたし」が働きかけることによって、
何が生じるでしょうか。
たとえば、
こころを籠めて世の何かを、
世話する、
面倒をみる、
手塩にかけて育てる、などなど・・・。
人が、そうするとき、
その何かはどのような変化を見せてくれるでしょうか。
人がこころを注ぎつつ手入れしている庭と、
ほったらかしの庭とでは、
何かが違います。
人が大事に、感謝をもって住んでいる家と、
家のあちこちに対して文句を言いつつ、手入れが行き届かない家と、
また、誰も住んでいない家とでは、
それぞれ、趣きを異にします。
対象が、
庭や家だけでなく、
動物や人ならば、
その違いもより明らかに見られるのではないでしょうか。
それは、決して、気のせいではない、
明らかな趣の違いですね。
今週の『こよみ』では、こう記されてあります。
わたしのこころが共に生きることなしには、
そこにはただ、凍りついた虚しいいのちのみ
世は、
人によってこころから意を注がれることを待っているのではないでしょうか。
花も、動物も、水や風やあらゆる自然のものも、
人が創り出したあらゆるものというもの、機械類までも、
そして、
もちろん、人や、
目には見えないが世に存在している者たちも、
人から、こころを向けられるのを待っているのではないでしょうか。
人がこころを注ぐところに、
初めていのちが宿る。
いのち、
それは人が、その人みずからのこころの力をもって、
世に新しく与えることのできる愛、
と言ってもいいかもしれません。
人からの愛が注がれるところに、
初めて、世そのものがもっている力が啓かれる。
地球、そして世は、
人からの積極的な行為、愛を、待っている。
人とは、
なんと大きな仕事を任されていることでしょう。
わたしはいま、世をこう感じる。
Die außer meiner Seele Miterleben
それは、わたしのこころが共に生きることなしには、
An sich nur frostig leeres Leben
そこにはただ、凍りついた虚しいいのちのみ、
Und ohne Macht sich offenbarend,
そして、力が啓かれることもない。
In Seelen sich von neuem schaffend,
人のこころにおいて、世は新しく創りなす。
In sich den Tod nur finden könnte.
世そのものにおいては、死を見いだすのみ。
前々週から、
己みずからの内なる力が満ちてくることと共に、
その力をもって世に出て行き、
世に働きかけ、
世と共に生き、
世に何かを生み出す、
そのような人のありようが描かれてありました。
http://kotobanoie.seesaa.net/article/234925600.html
http://kotobanoie.seesaa.net/article/236130223.html
世とは、
このわたしにとって、
四季折々に織りなしている自然のいちいちのことでしょうし、
人という人、他者のことでもありますし、
それは、このわたしをも含むものでもありますし、
そして、物質の域だけでなく、そこを超えて、
こころの域、
精神の域にまで及ぶものであります。
その「世」というものに、
この「わたし」が働きかけることによって、
何が生じるでしょうか。
たとえば、
こころを籠めて世の何かを、
世話する、
面倒をみる、
手塩にかけて育てる、などなど・・・。
人が、そうするとき、
その何かはどのような変化を見せてくれるでしょうか。
人がこころを注ぎつつ手入れしている庭と、
ほったらかしの庭とでは、
何かが違います。
人が大事に、感謝をもって住んでいる家と、
家のあちこちに対して文句を言いつつ、手入れが行き届かない家と、
また、誰も住んでいない家とでは、
それぞれ、趣きを異にします。
対象が、
庭や家だけでなく、
動物や人ならば、
その違いもより明らかに見られるのではないでしょうか。
それは、決して、気のせいではない、
明らかな趣の違いですね。
今週の『こよみ』では、こう記されてあります。
わたしのこころが共に生きることなしには、
そこにはただ、凍りついた虚しいいのちのみ
世は、
人によってこころから意を注がれることを待っているのではないでしょうか。
花も、動物も、水や風やあらゆる自然のものも、
人が創り出したあらゆるものというもの、機械類までも、
そして、
もちろん、人や、
目には見えないが世に存在している者たちも、
人から、こころを向けられるのを待っているのではないでしょうか。
人がこころを注ぐところに、
初めていのちが宿る。
いのち、
それは人が、その人みずからのこころの力をもって、
世に新しく与えることのできる愛、
と言ってもいいかもしれません。
人からの愛が注がれるところに、
初めて、世そのものがもっている力が啓かれる。
地球、そして世は、
人からの積極的な行為、愛を、待っている。
人とは、
なんと大きな仕事を任されていることでしょう。
2011年11月20日
こころのこよみ(第32週)〜己の足で立つ〜
Ich fühle fruchtend eigne Kraft
わたしは、実りゆく己の力を感じる。
Sich stärkend mich der Welt verleihn;
その力は、強められたわたしを世に委ねる。
Mein Eigenwesen fühl ich kraftend
わたしのわたしたるところを力強く感じる。
Zur Klarheit sich zu wenden
明るみへと向かうべく、
Im Lebensschicksalsweben.
生きることの仕合わせが織りなされる中で。
「実りゆく己の力」
「強められたわたし」
「力強く感じられるわたしのわたしたるところ」
それは、どのようなものを言っているのでしょうか。
どのようなわたしの状態を言っているのでしょうか。
人がこの状態を生きることからこそ、人の世に愛が育っていく、
という確信。
シュタイナーのすべての仕事の基は、その確信にあります。
ものには順序があり、
人ひとりひとりが自分の足で立ってこそ、
そこから人と人とのハーモニーが生まれてくる。
ハーモニーを目指して人が集まってくるとき、
みずからの足で立つということを、
ひとりひとりが意識して育んでいくことができればいいですね。
みずからの足で立つという状態は、どういう状態なのか。
このことを論じるのは難しい。
ひとりひとりが、各々の状況にあり、
各々の「仕合わせ(運命)」を生きていて、
その中でみずからの足で立つということは、
それこそ各々のあり方、スタイルでなされていくことで、
一般論では捉えられません。
(たとえば、経済的に自立することが自分の足で立つことだと捉える人もいるでしょうし、
他者への依存心からの決別こそがそうだと捉える人もいるでしょう)
しかし、その己の足で立つということを、
こころの側面で見てみるならば、
そこにひとつの共通した趣きが現れてきます。
考える、感じる、欲する。
このこころの三つの力にある種の調和が息づいています。
安らかさ、確かさ、優しさ、強さ、そして愛が、
こころに息づいています。
また、
自分自身を含めたあらゆるものごとに、
バランスを見いだすことのできるこころの状態とも言えはしないでしょうか。
物質の側面に偏るでもなく、
精神の側面に偏るでもなく、
その両方を兼ね備えた存在として己を見、世のものごとのすべてを見ることができる。
気をつけたいのは、
自分が高みに立ってしまい、
知らず知らずのうちにこころが批判的になることです。
そうなることによって、
ことばの上では精神を唱えながら、
精神が干からびていく。
精神が干からびていけば、
人とものごとの、
こころとからだしか目に入らなくなる。
精神と物質の間のバランスを感じながら、
人は己のこころの充実をもって、
世に出て行きます。
その内なる充実、バランスが、
きっと、外なる充実、バランスを呼び寄せます。
世とは、
その充実とバランスが人によって委ねられているところのものです。
世とは、
人が「わたしのわたしたるところ」から照らす光に応じて、
「明るみ」を増していくところです。
世とは、
人によって、
「生きることの仕合わせが織りなされる」ところです。
「仕合わせ Schicksal」とは、
「運命」とも訳されますが、
人がする「仕事」が、
人に「合わさる」ことです。
己の足で立つことから、
人が、
「仕合わせ」をみずから織りなしていきます。
世は、
「明るみ」へ向かって、
人が「わたしのわたしたるところ」から足を踏み出すのを待っています。
人は世によって創られますが、
世も人によって創られます。
わたしは、実りゆく己の力を感じる。
Sich stärkend mich der Welt verleihn;
その力は、強められたわたしを世に委ねる。
Mein Eigenwesen fühl ich kraftend
わたしのわたしたるところを力強く感じる。
Zur Klarheit sich zu wenden
明るみへと向かうべく、
Im Lebensschicksalsweben.
生きることの仕合わせが織りなされる中で。
「実りゆく己の力」
「強められたわたし」
「力強く感じられるわたしのわたしたるところ」
それは、どのようなものを言っているのでしょうか。
どのようなわたしの状態を言っているのでしょうか。
人がこの状態を生きることからこそ、人の世に愛が育っていく、
という確信。
シュタイナーのすべての仕事の基は、その確信にあります。
ものには順序があり、
人ひとりひとりが自分の足で立ってこそ、
そこから人と人とのハーモニーが生まれてくる。
ハーモニーを目指して人が集まってくるとき、
みずからの足で立つということを、
ひとりひとりが意識して育んでいくことができればいいですね。
みずからの足で立つという状態は、どういう状態なのか。
このことを論じるのは難しい。
ひとりひとりが、各々の状況にあり、
各々の「仕合わせ(運命)」を生きていて、
その中でみずからの足で立つということは、
それこそ各々のあり方、スタイルでなされていくことで、
一般論では捉えられません。
(たとえば、経済的に自立することが自分の足で立つことだと捉える人もいるでしょうし、
他者への依存心からの決別こそがそうだと捉える人もいるでしょう)
しかし、その己の足で立つということを、
こころの側面で見てみるならば、
そこにひとつの共通した趣きが現れてきます。
考える、感じる、欲する。
このこころの三つの力にある種の調和が息づいています。
安らかさ、確かさ、優しさ、強さ、そして愛が、
こころに息づいています。
また、
自分自身を含めたあらゆるものごとに、
バランスを見いだすことのできるこころの状態とも言えはしないでしょうか。
物質の側面に偏るでもなく、
精神の側面に偏るでもなく、
その両方を兼ね備えた存在として己を見、世のものごとのすべてを見ることができる。
気をつけたいのは、
自分が高みに立ってしまい、
知らず知らずのうちにこころが批判的になることです。
そうなることによって、
ことばの上では精神を唱えながら、
精神が干からびていく。
精神が干からびていけば、
人とものごとの、
こころとからだしか目に入らなくなる。
精神と物質の間のバランスを感じながら、
人は己のこころの充実をもって、
世に出て行きます。
その内なる充実、バランスが、
きっと、外なる充実、バランスを呼び寄せます。
世とは、
その充実とバランスが人によって委ねられているところのものです。
世とは、
人が「わたしのわたしたるところ」から照らす光に応じて、
「明るみ」を増していくところです。
世とは、
人によって、
「生きることの仕合わせが織りなされる」ところです。
「仕合わせ Schicksal」とは、
「運命」とも訳されますが、
人がする「仕事」が、
人に「合わさる」ことです。
己の足で立つことから、
人が、
「仕合わせ」をみずから織りなしていきます。
世は、
「明るみ」へ向かって、
人が「わたしのわたしたるところ」から足を踏み出すのを待っています。
人は世によって創られますが、
世も人によって創られます。
2011年11月13日
こころのこよみ(第31週)〜三つの力の織りなし〜
Das Licht aus Geistestiefen,
精神の深みからの光が、
Nach außen strebt es sonnenhaft.
まるで太陽のように輝きだす。
Es wird zur Lebenswillenskraft
それは生きる意欲の力になり、
Und leuchtet in der Sinne Dumpfheit,
そして、おぼろな感官に輝きいり、
Um Kräfte zu entbinden,
力を解き放ち、
Die Schaffensmächte aus Seelentrieben
こころから創ろうとする力を
Im Menschenwerke reifen lassen.
人の仕事において、熟させる。
考える(思考)、欲する(意欲・意志)、感じる(感情)。
この三つの力が、こころの内に織りなされています。
この第31週の『こころのこよみ』には、
その三つの力がバランスよく織りなされている様が描かれています。
「精神の深みからの光が、まるで太陽のように輝きだす」
メディテーションという、
物質の世にとらわれない、
「まぎれなく考える」行為によってこそ、
この太陽のように輝きだす光を覚えることができます。
また、その「まぎれなく考える」という内なる行為には、
必ず、「考えるに仕える」という意欲の力、欲する力が欠かせません。
アントロポゾフィーのこころの練習においては、
むき出しの意欲に向き合うのではなく、
まぎれなく考えるメディテーションを通して、
意欲の培いに取り組んでいきます。
意欲・意志は、考えることの内に育まれていきます。
まぎれなく考えることから、
つまり、精神の輝く光から、
「生きる意欲の力」が生まれ、育ってきます。
そして、見ること、聴くこと、触れること、その他の感官に、
その光が輝きいります。
「おぼろな感官に輝きいり」
それは、感官という「世を欲する働きと器官」「意欲の器官」に、
考える力が通うということでもあります。
この考える力と欲する力との結びつき、結婚が、
感じる力という子を産みだします。
「力を解き放つ」
そして、その感情の力は、
こころからの情熱となって、
人を仕事に向かわせ、
人を仕事において深め、前進させるでしょう。
「こころから創ろうとする力を、人の仕事において、熟させる」
精神の深みからの光が、
Nach außen strebt es sonnenhaft.
まるで太陽のように輝きだす。
Es wird zur Lebenswillenskraft
それは生きる意欲の力になり、
Und leuchtet in der Sinne Dumpfheit,
そして、おぼろな感官に輝きいり、
Um Kräfte zu entbinden,
力を解き放ち、
Die Schaffensmächte aus Seelentrieben
こころから創ろうとする力を
Im Menschenwerke reifen lassen.
人の仕事において、熟させる。
考える(思考)、欲する(意欲・意志)、感じる(感情)。
この三つの力が、こころの内に織りなされています。
この第31週の『こころのこよみ』には、
その三つの力がバランスよく織りなされている様が描かれています。
「精神の深みからの光が、まるで太陽のように輝きだす」
メディテーションという、
物質の世にとらわれない、
「まぎれなく考える」行為によってこそ、
この太陽のように輝きだす光を覚えることができます。
また、その「まぎれなく考える」という内なる行為には、
必ず、「考えるに仕える」という意欲の力、欲する力が欠かせません。
アントロポゾフィーのこころの練習においては、
むき出しの意欲に向き合うのではなく、
まぎれなく考えるメディテーションを通して、
意欲の培いに取り組んでいきます。
意欲・意志は、考えることの内に育まれていきます。
まぎれなく考えることから、
つまり、精神の輝く光から、
「生きる意欲の力」が生まれ、育ってきます。
そして、見ること、聴くこと、触れること、その他の感官に、
その光が輝きいります。
「おぼろな感官に輝きいり」
それは、感官という「世を欲する働きと器官」「意欲の器官」に、
考える力が通うということでもあります。
この考える力と欲する力との結びつき、結婚が、
感じる力という子を産みだします。
「力を解き放つ」
そして、その感情の力は、
こころからの情熱となって、
人を仕事に向かわせ、
人を仕事において深め、前進させるでしょう。
「こころから創ろうとする力を、人の仕事において、熟させる」
2011年11月06日
こころのこよみ(第30週)〜自分の真ん中〜
Es sprießen mir im Seelensonnenlicht
こころの太陽の光の中でわたしに生じる、
Des Denkens reife Früchte,
考えることの豊かな実り。
In Selbstbewußtseins Sicherheit
みずからを意識することの確かさにおいて、
Verwandelt alles Fühlen sich.
すべての感じ方が変わる。
Empfinden kann ich freudevoll
わたしは喜びに満ちて感覚することができる、
Des Herbstes Geisterwachen:
秋の精神の目覚めを。
Der Winter wird in mir
冬はわたしの内に、
Den Seelensommer wecken.
こころの夏を目覚めさせるだろう。
ここで、
「こころの太陽の光」とありますが、
そもそも、その「光」を己のこころに感じ、見るためには、
己のこころの中の「闇」を見て、感じていなければ、
きっと、リアリティーのないことばになるのではないでしょうか。
いまを生きている人で、
己のこころの内に闇を感じない人はおそらくいないでしょう。
しかし、感じてはいても、
しっかりと己の内なる闇を見据えることは、
わたしたちの大きく大切な課題のひとつだと言えます。
いま、わたしたちは、その内なる闇を見据えることを通して、
その闇にみずから光を差し込ませるときを迎えています。
秋という季節だからでもありますし、
現代という時代だからでもあります。
それは、
人が己の考える力をしっかりと研ぎ、鍛えるほどに、
わたしのわたしたる拠り所、故郷、真ん中に、
立ち戻ることができる季節であり、時代だからです。
その真ん中とは、
常に生きていくための力の泉が湧いてくるところです。
みずからがみずからに問うことによって考えることから、
人は真ん中に立ち戻ることができ、
その真ん中からは、その人ならではの豊かな実り、命の水が、もたらされます。
そして、内なる闇に光が注がれていきます。
これまでも常に光は注ぎ続けてくれていたのでしょうが、
闇は光を捉えなかった。
しかし、これからは、人が真ん中に立つことを通して、
だんだんと闇は光を捉えていくでしょう。
また、
自分の真ん中を意識できること、
それは落ち着きと確かさと希みをもたらしてくれます。
その落ち着きと確かさと希みは、
世に対する見方、感じ方を、きっと、変えます。
そして、
喜びとは、
自分の真ん中に立つことから生じてくるのではないでしょうか。
それは、精神の目覚めと言ってもよく、
秋のそのような目覚めは、
冬の内なる熱いこころざしと希みに繰りなしていきます。
ちなみに、
訳のまずさを置いておいて、言うのですが、
まずは、この『こころのこよみ』を、
息を使い切りつつ声に出しながら、
何度も味わうことをしてみますと、
読む人のこころが、
そこに書かれてあることばに、
だんだんと寄り添ってくる。
そして、だんだんとこの『こよみ』の意味(こころの味わい)が、
こころに向かって降りてきます。
学びには様々な道がありますが、
(本を読むことなどを通して)アントロポゾフィーの学びをより進めていくことと、
この『こころのこよみ』を繰り返し声に出すこととが相まって、
メディテーションがだんだんとなりたってくる、
そのような道がある。
そうわたしは感じています。
こころの太陽の光の中でわたしに生じる、
Des Denkens reife Früchte,
考えることの豊かな実り。
In Selbstbewußtseins Sicherheit
みずからを意識することの確かさにおいて、
Verwandelt alles Fühlen sich.
すべての感じ方が変わる。
Empfinden kann ich freudevoll
わたしは喜びに満ちて感覚することができる、
Des Herbstes Geisterwachen:
秋の精神の目覚めを。
Der Winter wird in mir
冬はわたしの内に、
Den Seelensommer wecken.
こころの夏を目覚めさせるだろう。
ここで、
「こころの太陽の光」とありますが、
そもそも、その「光」を己のこころに感じ、見るためには、
己のこころの中の「闇」を見て、感じていなければ、
きっと、リアリティーのないことばになるのではないでしょうか。
いまを生きている人で、
己のこころの内に闇を感じない人はおそらくいないでしょう。
しかし、感じてはいても、
しっかりと己の内なる闇を見据えることは、
わたしたちの大きく大切な課題のひとつだと言えます。
いま、わたしたちは、その内なる闇を見据えることを通して、
その闇にみずから光を差し込ませるときを迎えています。
秋という季節だからでもありますし、
現代という時代だからでもあります。
それは、
人が己の考える力をしっかりと研ぎ、鍛えるほどに、
わたしのわたしたる拠り所、故郷、真ん中に、
立ち戻ることができる季節であり、時代だからです。
その真ん中とは、
常に生きていくための力の泉が湧いてくるところです。
みずからがみずからに問うことによって考えることから、
人は真ん中に立ち戻ることができ、
その真ん中からは、その人ならではの豊かな実り、命の水が、もたらされます。
そして、内なる闇に光が注がれていきます。
これまでも常に光は注ぎ続けてくれていたのでしょうが、
闇は光を捉えなかった。
しかし、これからは、人が真ん中に立つことを通して、
だんだんと闇は光を捉えていくでしょう。
また、
自分の真ん中を意識できること、
それは落ち着きと確かさと希みをもたらしてくれます。
その落ち着きと確かさと希みは、
世に対する見方、感じ方を、きっと、変えます。
そして、
喜びとは、
自分の真ん中に立つことから生じてくるのではないでしょうか。
それは、精神の目覚めと言ってもよく、
秋のそのような目覚めは、
冬の内なる熱いこころざしと希みに繰りなしていきます。
ちなみに、
訳のまずさを置いておいて、言うのですが、
まずは、この『こころのこよみ』を、
息を使い切りつつ声に出しながら、
何度も味わうことをしてみますと、
読む人のこころが、
そこに書かれてあることばに、
だんだんと寄り添ってくる。
そして、だんだんとこの『こよみ』の意味(こころの味わい)が、
こころに向かって降りてきます。
学びには様々な道がありますが、
(本を読むことなどを通して)アントロポゾフィーの学びをより進めていくことと、
この『こころのこよみ』を繰り返し声に出すこととが相まって、
メディテーションがだんだんとなりたってくる、
そのような道がある。
そうわたしは感じています。
2011年11月01日
こころのこよみ(第29週)〜旅路を行く〜
Sich selbst des Denkens Leuchten
みずから考えることの光が、
Im Innern kraftvoll zu entfachen,
内において力強く輝く。
Erlebtes sinnvoll deutend
世の精神の力の源から、
Aus Weltengeistes Kräftequell,
意味深く示される数々の験し。
Ist mir nun Sommererbe,
それらはいま、わたしへの夏の贈りもの、
Ist Herbstesruhe und auch Winterhoffnung.
秋の静けさ、そしてまた、冬の希み。
秋、それは人のこころの外への道が途絶え始め、
逆に内への道(メディテーション)が始まるときです。
それは、考える力が強まってくるときだとも言えます。
考える力が強まるとは、
何やかやとあれこれ考えることではなく、
自分が決めたひとつのことから離れることなく、
そのことについて考え続けていく力を言います。
それは、まるで、独りで旅路を歩き続けているような感覚を与えます。
此の道や行く人なしに秋の暮
様々な路に入っていくのですが、
大元の筋道は通っている。
行く先は、きっと、
「内」であり、
「輝く光」であり、
「人であること」であり、
「世の精神の源」であり、
「神とは」です。
そしてそこから人は帰ってきます。
「意味深く示された数々の験し」を携えて、
この世へと、人と人が行き交う世へと、みずみずしく帰ってきます。
人声や此の道帰る秋の暮
この行き来が活き活きとなされる秋に、
芭蕉はこの精神とこころのありようを推敲を重ねつつ書き記しました。
また、この行き来は、一年の巡りを通しても、
よりダイナミックになされます。
考えること(秋)は、きっと、
感じること(冬)へ、
そして、欲すること(春)へと、
だんだんとからだ(夏)に帰ってきます。
夏にからだを活き活きと動かしたことから生まれた力が、
秋の静かさの中で、内において活き活きと考える力に変容している。
そしてその考える力が、
冬において、
清く、みずみずしく感じ、待ち希む情へと深まり、
春へと新たな意欲を準備します。
この秋、内への道を歩もうとする者に、援けがありますように。
みずから考えることの光が、
Im Innern kraftvoll zu entfachen,
内において力強く輝く。
Erlebtes sinnvoll deutend
世の精神の力の源から、
Aus Weltengeistes Kräftequell,
意味深く示される数々の験し。
Ist mir nun Sommererbe,
それらはいま、わたしへの夏の贈りもの、
Ist Herbstesruhe und auch Winterhoffnung.
秋の静けさ、そしてまた、冬の希み。
秋、それは人のこころの外への道が途絶え始め、
逆に内への道(メディテーション)が始まるときです。
それは、考える力が強まってくるときだとも言えます。
考える力が強まるとは、
何やかやとあれこれ考えることではなく、
自分が決めたひとつのことから離れることなく、
そのことについて考え続けていく力を言います。
それは、まるで、独りで旅路を歩き続けているような感覚を与えます。
此の道や行く人なしに秋の暮
様々な路に入っていくのですが、
大元の筋道は通っている。
行く先は、きっと、
「内」であり、
「輝く光」であり、
「人であること」であり、
「世の精神の源」であり、
「神とは」です。
そしてそこから人は帰ってきます。
「意味深く示された数々の験し」を携えて、
この世へと、人と人が行き交う世へと、みずみずしく帰ってきます。
人声や此の道帰る秋の暮
この行き来が活き活きとなされる秋に、
芭蕉はこの精神とこころのありようを推敲を重ねつつ書き記しました。
また、この行き来は、一年の巡りを通しても、
よりダイナミックになされます。
考えること(秋)は、きっと、
感じること(冬)へ、
そして、欲すること(春)へと、
だんだんとからだ(夏)に帰ってきます。
夏にからだを活き活きと動かしたことから生まれた力が、
秋の静かさの中で、内において活き活きと考える力に変容している。
そしてその考える力が、
冬において、
清く、みずみずしく感じ、待ち希む情へと深まり、
春へと新たな意欲を準備します。
この秋、内への道を歩もうとする者に、援けがありますように。
2011年10月19日
こころのこよみ(第28週)〜力強いことば〜
Ich kann im Innern neu belebt
わたしは、内において、新しく甦ることができる。
Erfühlen eignen Wesens Weiten
己であることの拡がりを感じる。
Und krafterfüllt Gedankenstrahlen
そして、力に満ちた考えの輝きが、
Aus Seelensonnenmacht
こころの太陽の力から、
Den Lebensrätseln lösend spenden,
生きることの謎を解いてくれる。
Erfüllung manchem Wunsche leihen,
いくつもの願いを満たしてくれる。
Dem Hoffnung schon die Schwingen lähmte.
これまで希みのつばさは、弱められていたのに。
ミヒャエルの日は9月29日と定められていますが、
その日から1ヶ月に渡って、その調べは響き続けています。
ミヒャエル祭の週において、
上から降りてきた精神の萌しが、
下からの意欲の火に鍛えられることによって、
真ん中から、その人がその人であることの情が生まれる、
とありました。
その「みずからの情」の誕生とは、
春に、キリストという神が、死を通してからだの甦りを遂げたことに対応する、
秋における、人の、生きながらのこころの甦りである、ということです。
こころの甦り。
それが、この第28週においてより強く捉えられます。
この『こころのこよみ』を読み始めたとき、よく感じたことは、
ここでの週ごとのことばに、
必ずしも読むわたしのこころがぴったり重なっているとは言えなかったことです。
しかし、
この『こよみ』に沿うことを年月をかけて練習していくことで、
ゆっくり、だんだんと、
ここに描かれてある地球の精神とこころによる呼吸プロセスに、
自分の精神とこころの呼吸プロセスが重なって行っていることを感じ始めます。
今週のような強いことばを十全に感じることは、
わたしにとって、いまだ難しいことです。
わたし自身、
あちこちに手を出さずに、
ひとつのことに腰を据えて取り組み続けることの練習の必要性を感じます。
今週にあることば。
「新しく甦る」
「己であることの拡がり」
「力に満ちた考え」
「こころの太陽の力」
なんと、力強い、いのちのみずみずしさを湛えたことばたちでしょうか。
それらのことばに生きる、精神の、こころの力が、
「生きることの謎を解き」
「いくつもの願いを満たす」
そのときを、
わたしたちは待つことができます。
しかしただ待っているだけでは何も起こらないでしょう。
ミヒャエルは、人のアクティビティに対して応援を贈ります。
この『こころのこよみ』を通して、
アクティブにみずからのこころをことばに沿わせていく練習を重ねていきましょう。
わたしは、内において、新しく甦ることができる。
Erfühlen eignen Wesens Weiten
己であることの拡がりを感じる。
Und krafterfüllt Gedankenstrahlen
そして、力に満ちた考えの輝きが、
Aus Seelensonnenmacht
こころの太陽の力から、
Den Lebensrätseln lösend spenden,
生きることの謎を解いてくれる。
Erfüllung manchem Wunsche leihen,
いくつもの願いを満たしてくれる。
Dem Hoffnung schon die Schwingen lähmte.
これまで希みのつばさは、弱められていたのに。
ミヒャエルの日は9月29日と定められていますが、
その日から1ヶ月に渡って、その調べは響き続けています。
ミヒャエル祭の週において、
上から降りてきた精神の萌しが、
下からの意欲の火に鍛えられることによって、
真ん中から、その人がその人であることの情が生まれる、
とありました。
その「みずからの情」の誕生とは、
春に、キリストという神が、死を通してからだの甦りを遂げたことに対応する、
秋における、人の、生きながらのこころの甦りである、ということです。
こころの甦り。
それが、この第28週においてより強く捉えられます。
この『こころのこよみ』を読み始めたとき、よく感じたことは、
ここでの週ごとのことばに、
必ずしも読むわたしのこころがぴったり重なっているとは言えなかったことです。
しかし、
この『こよみ』に沿うことを年月をかけて練習していくことで、
ゆっくり、だんだんと、
ここに描かれてある地球の精神とこころによる呼吸プロセスに、
自分の精神とこころの呼吸プロセスが重なって行っていることを感じ始めます。
今週のような強いことばを十全に感じることは、
わたしにとって、いまだ難しいことです。
わたし自身、
あちこちに手を出さずに、
ひとつのことに腰を据えて取り組み続けることの練習の必要性を感じます。
今週にあることば。
「新しく甦る」
「己であることの拡がり」
「力に満ちた考え」
「こころの太陽の力」
なんと、力強い、いのちのみずみずしさを湛えたことばたちでしょうか。
それらのことばに生きる、精神の、こころの力が、
「生きることの謎を解き」
「いくつもの願いを満たす」
そのときを、
わたしたちは待つことができます。
しかしただ待っているだけでは何も起こらないでしょう。
ミヒャエルは、人のアクティビティに対して応援を贈ります。
この『こころのこよみ』を通して、
アクティブにみずからのこころをことばに沿わせていく練習を重ねていきましょう。
2011年10月09日
こころのこよみ(第27週)〜こころの力〜
In meines Wesens Tiefen dringen:
わたしというものの深みへと進みゆくほどに、
Erregt ein ahnungsvolles Sehnen,
予感に満ちた憧れが呼び起こされる。
Daß ich mich selbstbetrachtend finde,
わたしはみずからを見てとりつつ、わたしを見いだす、
Als Sommersonnengabe, die als Keim
夏の太陽から贈られた萌しとして。
In Herbstesstimmung wärmend lebt
秋の調べの中で、暖かく息づく、
Als meiner Seele Kräftetrieb.
こころの力として。
いま、夏から秋への季節の移り変わりにあって、
外的にからだの調子を崩しておられる方を何人かお見受けします。
夏の疲れが出る頃なのかもしれませんね。
もしかしたら、より、深い理由が、各々の人にあるのかもしれません。
しかし、からだがそんな状態にあっても、
こころは、どう、生きることができるでしょうか。
もちろん、こころは、からだからの影響を多大に受けます。
しかし、こころは、精神からの働きかけをも多大に受けることができます。
自然と世が繰りなすリズム、
それをここでは精神と呼びたいのですが、
そのリズムに沿って意識的に生きることができれば、
人はこころの健やかさを取り戻すことができる。
そのために、
そのリズムを、ことばで、毎週、踏んで歩くことができるように、
週ごとのことばをメディテーションの素材となすことができるように、
との願いから、
シュタイナーはこのカレンダー『こころのこよみ』を書いたのです。
シュタイナーは、常に、
ひとりひとりの読者、その人からの自発的な行為を促そうとしています。
ミヒャエルもそうです。
キリストもそうです。
この時期、人は、
夏に贈られた贈りものとしての精神からの萌しを、
この時期ならではのこころの内に熾きる意欲の火によって鍛えることができる。
そうすることで、あらためて、自分自身を見いだし、
新しい方向性をもって、みずからの道を歩いていく。
「夏の太陽から贈られた萌しとして」、
わたしに、
わたしならではの、
理想・方向性・ひらめき・考え・想いが降りてきている。
そして、それが、いま、
こころの力として、鍛えられ、暖かく息づいている。
そのこころの力が、
暖かく内に深まることで、
実際の「他の誰のでもない、わたしの仕事」として、
きっと、外に顕れてきます。
さらに、
やがてやって来る、
冬の厳しい寒さの中で、
暖かく燃え続けるこころの内なる炎への予感。
クリスマスに宿る、その内なる炎に対する憧れたるや、
この二千年、どれほどだったでしょうか。
現代を生きるわたしたちは、
ひとりひとり、自発的にしか、
その炎を内に灯すことができません。
『こころのこよみ』は、
メディテーションを通しての、
人の自発性を待っています。
もしかしたら、
その自発性から生まれたこころの健やかさが、
少なからず、からだにも働きかけていくのかもしれません。
わたしというものの深みへと進みゆくほどに、
Erregt ein ahnungsvolles Sehnen,
予感に満ちた憧れが呼び起こされる。
Daß ich mich selbstbetrachtend finde,
わたしはみずからを見てとりつつ、わたしを見いだす、
Als Sommersonnengabe, die als Keim
夏の太陽から贈られた萌しとして。
In Herbstesstimmung wärmend lebt
秋の調べの中で、暖かく息づく、
Als meiner Seele Kräftetrieb.
こころの力として。
いま、夏から秋への季節の移り変わりにあって、
外的にからだの調子を崩しておられる方を何人かお見受けします。
夏の疲れが出る頃なのかもしれませんね。
もしかしたら、より、深い理由が、各々の人にあるのかもしれません。
しかし、からだがそんな状態にあっても、
こころは、どう、生きることができるでしょうか。
もちろん、こころは、からだからの影響を多大に受けます。
しかし、こころは、精神からの働きかけをも多大に受けることができます。
自然と世が繰りなすリズム、
それをここでは精神と呼びたいのですが、
そのリズムに沿って意識的に生きることができれば、
人はこころの健やかさを取り戻すことができる。
そのために、
そのリズムを、ことばで、毎週、踏んで歩くことができるように、
週ごとのことばをメディテーションの素材となすことができるように、
との願いから、
シュタイナーはこのカレンダー『こころのこよみ』を書いたのです。
シュタイナーは、常に、
ひとりひとりの読者、その人からの自発的な行為を促そうとしています。
ミヒャエルもそうです。
キリストもそうです。
この時期、人は、
夏に贈られた贈りものとしての精神からの萌しを、
この時期ならではのこころの内に熾きる意欲の火によって鍛えることができる。
そうすることで、あらためて、自分自身を見いだし、
新しい方向性をもって、みずからの道を歩いていく。
「夏の太陽から贈られた萌しとして」、
わたしに、
わたしならではの、
理想・方向性・ひらめき・考え・想いが降りてきている。
そして、それが、いま、
こころの力として、鍛えられ、暖かく息づいている。
そのこころの力が、
暖かく内に深まることで、
実際の「他の誰のでもない、わたしの仕事」として、
きっと、外に顕れてきます。
さらに、
やがてやって来る、
冬の厳しい寒さの中で、
暖かく燃え続けるこころの内なる炎への予感。
クリスマスに宿る、その内なる炎に対する憧れたるや、
この二千年、どれほどだったでしょうか。
現代を生きるわたしたちは、
ひとりひとり、自発的にしか、
その炎を内に灯すことができません。
『こころのこよみ』は、
メディテーションを通しての、
人の自発性を待っています。
もしかしたら、
その自発性から生まれたこころの健やかさが、
少なからず、からだにも働きかけていくのかもしれません。
2011年10月02日
こころのこよみ(第26週)〜ミヒャエル祭の調べ〜
Natur, dein mütterliches Sein,
自然、その母のようなありよう、
Ich trage es in meinem Willenswesen;
わたしは、それを、意欲において担う。
Und meines Willens Feuermacht,
そして、わたしの意欲の火の力、
Sie stählet meines Geistes Triebe,
それが、わたしの精神の萌しのかずかずを鍛える。
Daß sie gebären Selbstgefühl
その萌しのかずかずが、みずからの情を生む、
Zu tragen mich in mir.
わたしをわたしにおいて担うべく。
人にとって最も近しい自然は、己のからだです。
この世にある限り、ずっとつきあっていくものです。
そして、からだという自然は、
意識をもってつきあえばつきあうほど、
意識がからだに通いだし、
その意識が盛られ、技量が宿る、細やかな器へとなりたってゆきます。
それは、人が、己のからだをものにしていくプロセスです。
日々生きることを通して、
または、日々の意識的な練習を通して、
その人の表現、立ち居振る舞い、一挙手一投足から、
ことば遣い、果ては、こころの領域に至るまで、
その人の<わたし>が、
その人のからだとこころの主(あるじ)になりゆく。
そのプロセスを促そうとするのが、
ミヒャエルという大いなる天の使いの方であり、
特にこの秋の時期、精神の世から降りてくることを、
シュタイナーは語っています。
アントロポゾフィーは、
「人であることの意識」と言い換えられます。
そして、アントロポゾフィーは、
「人であることの意識」を育んでいくための練習を差し出します。
人は、練習して、人になっていきます。
むしろ、練習そのものの中に、アントロポゾフィーがあります。
ですから、アントロポゾフィーとは、
ミヒャエルとの共同作業そのものだと言えます。
その練習とは、次のようななりたちをしています。
からだという器は、
まさしく地球とのつながりから「母のようなありよう」だと言えます。
その器は、意欲という下からのこころの支えがないと、
器として機能しません。
また、その器は、
上からの考え・想い・意識・理想・こころざしという、
「精神の萌し」としてのこころの糧、
父なるものが降りてこないと、
枯れて、渇ききり、ひび割れてしまいます。
そこで、器は、
下からわたしの意欲の火で暖められ、熱せられることで、、
上から降り来たった、人であろうとする意識を煮込んでいきます。
もしくは、
わたしのこころとからだに降りてきた「精神の萌しのかずかずを鍛え」ます。
わたしたちは、この練習を、意識をもって、
仕事の一場面一場面、
生活のひとこまひとこまにおいて、
担っていくことができます。
そのような父と母との結びつきから、
子としての「みずからの情」が生まれます。
それは、「人であることの意識」を促す情、
「わたしをわたしにおいて担う」情です。
その「みずからの情」の誕生は、
きっと、こころの甦りでもあるはずです。
春の復活祭がキリストの死と復活を想い起こす祝祭であったように、
秋のミヒャエル祭は、人のこころの復活をみずからに認め、
そして、練習する者同士互いに認め合う祝祭です。
自然、その母のようなありよう、
Ich trage es in meinem Willenswesen;
わたしは、それを、意欲において担う。
Und meines Willens Feuermacht,
そして、わたしの意欲の火の力、
Sie stählet meines Geistes Triebe,
それが、わたしの精神の萌しのかずかずを鍛える。
Daß sie gebären Selbstgefühl
その萌しのかずかずが、みずからの情を生む、
Zu tragen mich in mir.
わたしをわたしにおいて担うべく。
人にとって最も近しい自然は、己のからだです。
この世にある限り、ずっとつきあっていくものです。
そして、からだという自然は、
意識をもってつきあえばつきあうほど、
意識がからだに通いだし、
その意識が盛られ、技量が宿る、細やかな器へとなりたってゆきます。
それは、人が、己のからだをものにしていくプロセスです。
日々生きることを通して、
または、日々の意識的な練習を通して、
その人の表現、立ち居振る舞い、一挙手一投足から、
ことば遣い、果ては、こころの領域に至るまで、
その人の<わたし>が、
その人のからだとこころの主(あるじ)になりゆく。
そのプロセスを促そうとするのが、
ミヒャエルという大いなる天の使いの方であり、
特にこの秋の時期、精神の世から降りてくることを、
シュタイナーは語っています。
アントロポゾフィーは、
「人であることの意識」と言い換えられます。
そして、アントロポゾフィーは、
「人であることの意識」を育んでいくための練習を差し出します。
人は、練習して、人になっていきます。
むしろ、練習そのものの中に、アントロポゾフィーがあります。
ですから、アントロポゾフィーとは、
ミヒャエルとの共同作業そのものだと言えます。
その練習とは、次のようななりたちをしています。
からだという器は、
まさしく地球とのつながりから「母のようなありよう」だと言えます。
その器は、意欲という下からのこころの支えがないと、
器として機能しません。
また、その器は、
上からの考え・想い・意識・理想・こころざしという、
「精神の萌し」としてのこころの糧、
父なるものが降りてこないと、
枯れて、渇ききり、ひび割れてしまいます。
そこで、器は、
下からわたしの意欲の火で暖められ、熱せられることで、、
上から降り来たった、人であろうとする意識を煮込んでいきます。
もしくは、
わたしのこころとからだに降りてきた「精神の萌しのかずかずを鍛え」ます。
わたしたちは、この練習を、意識をもって、
仕事の一場面一場面、
生活のひとこまひとこまにおいて、
担っていくことができます。
そのような父と母との結びつきから、
子としての「みずからの情」が生まれます。
それは、「人であることの意識」を促す情、
「わたしをわたしにおいて担う」情です。
その「みずからの情」の誕生は、
きっと、こころの甦りでもあるはずです。
春の復活祭がキリストの死と復活を想い起こす祝祭であったように、
秋のミヒャエル祭は、人のこころの復活をみずからに認め、
そして、練習する者同士互いに認め合う祝祭です。
2011年10月01日
こころのこよみ(第25週)〜年のいのち〜
Ich darf nun mir gehören
わたしはいま、わたしを取り戻し、
Und leuchtend breiten Innenlicht
そして、輝きつつ、内なる光が拡がりゆく、
In Raumes- und in Zeitenfinsternis.
空間と時の闇の中へと。
Zum Schlafe drängt natürlich Wesen,
眠りへと自然がせきたてられるとき、
Der Seele Tiefen sollen wachen
こころの深みはきっと目覚めている。
Und wachend tragen Sonnengluten
そして、目覚めつつ、太陽の熱を担いゆく、
In kalte Winterfluten.
寒い冬のさなかへと。
『こころのこよみ』を繰り返し繰り返し、
詠み上げ、詠み込むことで、
季節の推移の連続性を感じることができます。
それは、一年というものの生命、
年というものの中に息づいている精神を感じることだと言えます。
春の後が、夏。
夏の後が、秋。
秋の後が、冬。
冬の後に、また春が。
季節の移り変わりは当たり前のことです。
しかし、もしかしたら、多くの現代人は、
季節におけるその時その時の感覚印象だけに生きがちです。
春になったなあ。暑いなあ。秋めいたきたぞ。寒いなあ。
リズムはそこに感じられず、きわめて散文的な感じ方、生き方といえるかもしれません。
それは、
人が地球のリズムから逸脱して生きることができるようになってきた、
という時代の必然の流れの中にわたしたちがいたからです。
しかし、人は、これからふたたび、
意識的に、自由に、
地球のリズム、宇宙のリズムにみずからの生活を重ねあわせていくことで、
みずからを見いだし、
こころの健やかさを取り戻すことができます。
この『こころのこよみ』に沿いつつ、
目にも見えない、耳にも聴こえないものですが、
四季それぞれに息づいている「ことば」を聴くこと、
そしてそれらの「ことば」が生命ある連続として、
こころにしずしずと流れてくるのを感じることを学ぶことができます。
夏における、光と熱。
それは人に外からやってきました。
あの光と熱が、いま、外なるものから内なるものへと変容しているのを、
リアリティーをもって感じることができます。
こころの明瞭さと確かさと熱。
秋、わたしは、わたしを取り戻し、
萌していた希みが羽ばたこうとしているのを感じる。
光と熱。
それはいまや人の内から発し、
外なる空間と時間における闇、
そしてこれからやってくる外なる冬の寒さとのコントラストを際立たせようとしています。
秋における、
内なる光と外なる闇。
内なる熱と外なる寒さ。
内なる目覚めと外なる眠り。
あの夏をあのようにこころから生きたからこそ、
この秋があるのだ、
そして、この秋が、
冬へと引き続いていく。
そのような季節の内なる連続性と発展性・メタモルフォーゼを感じることで、
内なるこころの連続性と発展性・メタモルフォーゼをも自覚することができます。
四季を生きること、年のいのちを生きることが、
みずからを知ることへと人を導きます。
わたしはいま、わたしを取り戻し、
Und leuchtend breiten Innenlicht
そして、輝きつつ、内なる光が拡がりゆく、
In Raumes- und in Zeitenfinsternis.
空間と時の闇の中へと。
Zum Schlafe drängt natürlich Wesen,
眠りへと自然がせきたてられるとき、
Der Seele Tiefen sollen wachen
こころの深みはきっと目覚めている。
Und wachend tragen Sonnengluten
そして、目覚めつつ、太陽の熱を担いゆく、
In kalte Winterfluten.
寒い冬のさなかへと。
『こころのこよみ』を繰り返し繰り返し、
詠み上げ、詠み込むことで、
季節の推移の連続性を感じることができます。
それは、一年というものの生命、
年というものの中に息づいている精神を感じることだと言えます。
春の後が、夏。
夏の後が、秋。
秋の後が、冬。
冬の後に、また春が。
季節の移り変わりは当たり前のことです。
しかし、もしかしたら、多くの現代人は、
季節におけるその時その時の感覚印象だけに生きがちです。
春になったなあ。暑いなあ。秋めいたきたぞ。寒いなあ。
リズムはそこに感じられず、きわめて散文的な感じ方、生き方といえるかもしれません。
それは、
人が地球のリズムから逸脱して生きることができるようになってきた、
という時代の必然の流れの中にわたしたちがいたからです。
しかし、人は、これからふたたび、
意識的に、自由に、
地球のリズム、宇宙のリズムにみずからの生活を重ねあわせていくことで、
みずからを見いだし、
こころの健やかさを取り戻すことができます。
この『こころのこよみ』に沿いつつ、
目にも見えない、耳にも聴こえないものですが、
四季それぞれに息づいている「ことば」を聴くこと、
そしてそれらの「ことば」が生命ある連続として、
こころにしずしずと流れてくるのを感じることを学ぶことができます。
夏における、光と熱。
それは人に外からやってきました。
あの光と熱が、いま、外なるものから内なるものへと変容しているのを、
リアリティーをもって感じることができます。
こころの明瞭さと確かさと熱。
秋、わたしは、わたしを取り戻し、
萌していた希みが羽ばたこうとしているのを感じる。
光と熱。
それはいまや人の内から発し、
外なる空間と時間における闇、
そしてこれからやってくる外なる冬の寒さとのコントラストを際立たせようとしています。
秋における、
内なる光と外なる闇。
内なる熱と外なる寒さ。
内なる目覚めと外なる眠り。
あの夏をあのようにこころから生きたからこそ、
この秋があるのだ、
そして、この秋が、
冬へと引き続いていく。
そのような季節の内なる連続性と発展性・メタモルフォーゼを感じることで、
内なるこころの連続性と発展性・メタモルフォーゼをも自覚することができます。
四季を生きること、年のいのちを生きることが、
みずからを知ることへと人を導きます。
2011年09月30日
こころのこよみ(第24週)〜生産的であるもののみが、まこと〜
Sich selbst erschaffend stets,
絶えずみずからを創り上げつつ、
Wird Seelensein sich selbst gewahr;
こころは己のありように気づく。
Der Weltengeist, er strebet fort
世の精神、それは勤しみ続ける、
In Selbsterkenntnis neu belebt
みずからを知ることにおいて、新しく甦る、
Und schafft aus Seelenfinsternis
そして、こころの闇から汲み上げる、
Des Selbstsinns Willensfrucht.
己であることの意欲の実りを。
創る人は幸いです。
生み出す人は幸いです。
育てる人は幸いです。
金と引き換えにものを買い続け、
サービスを消費し続ける現代人特有の生活のありようから、
一歩でも踏み出せたら、その人は幸いです。
その一歩は、
料理を作ることや、
手紙や日記を書いてみることや、
花に水をやることや、
ゴミを拾うことや、
そんなほんの小さな行いからでもいいかもしれません。
この手と脚を動かし、
世と触れ合う。
そのような行為によってこそ、みずからが創り上げられ、
その行為からこそ、こころは己のありように気づく。
そして、「世の精神」。
それは、一刻も休まず、勤しんでいるからこそ、生み出しているからこそ、
「世の精神」なのです。
だからこそ、太陽や月は周期を持ち、四季は巡り、人は成長します。
その勤しみから、「世の精神」は、
人というものを通して、絶えず己を知りゆきます。
そして己を知れば知るほど、
そのつど新たに新たに「世の精神」は甦るはずです。
新しい自分になっていくはずです。
その勤しみに終わりはないでしょう。
「世の精神」は、みずからを知り、みずからを育み、みずからを甦らせるために、
人というものに働きかけ、人というものにみずからを捧げようとしています。
「世の精神」には、人が必要なのです。
同じく、
わたしたち人は、
そんな世の精神に倣いつつ、
地球上のものというものに働きかけ、
ものを愛し、
ものに通じていくことをもって、
みずからを新たに新たに知りつつ、
たとえ、肉体は年老いても、そのつどそのつど甦ります。若返ります。
ゲーテという人こそは、
その「世の精神」に倣い続けた人であり、
残された仕事の跡を顧みれば、
晩年にいたるまでのその若々しい創造力に驚きます。
シュタイナーは、そのゲーテのありかたをこう言い当てています。
ゲーテは、ひとたび、こんな意味深いことばを語りました。
「生産的であるもののみが、まことである」
それは、こういうことです。
人は、きっと、みずからを、まことの有するところとなします。
そして、まことは働きかけます。
そして、人が生きて歩むとき、まことは、まことであることの証を、
生産的であることを通して見いだします。
これが、彼にとって、まことの試金石でした。
すなわち、生産的であるもののみが、まことです。
(1908年10月22日 ベルリン 「ゲーテの密やかなしるし」より)
秋には、「己の力」が「意欲の実り」として発露してきます。
創ること、生み出すこと、育てることなどの行為は、
こころの確かさ、安らかさ、活発さを取り戻し、
こころの闇から、
己であることの意欲の実りを、
汲み上げます。
生産的であるもののみが、まことです。
絶えずみずからを創り上げつつ、
Wird Seelensein sich selbst gewahr;
こころは己のありように気づく。
Der Weltengeist, er strebet fort
世の精神、それは勤しみ続ける、
In Selbsterkenntnis neu belebt
みずからを知ることにおいて、新しく甦る、
Und schafft aus Seelenfinsternis
そして、こころの闇から汲み上げる、
Des Selbstsinns Willensfrucht.
己であることの意欲の実りを。
創る人は幸いです。
生み出す人は幸いです。
育てる人は幸いです。
金と引き換えにものを買い続け、
サービスを消費し続ける現代人特有の生活のありようから、
一歩でも踏み出せたら、その人は幸いです。
その一歩は、
料理を作ることや、
手紙や日記を書いてみることや、
花に水をやることや、
ゴミを拾うことや、
そんなほんの小さな行いからでもいいかもしれません。
この手と脚を動かし、
世と触れ合う。
そのような行為によってこそ、みずからが創り上げられ、
その行為からこそ、こころは己のありように気づく。
そして、「世の精神」。
それは、一刻も休まず、勤しんでいるからこそ、生み出しているからこそ、
「世の精神」なのです。
だからこそ、太陽や月は周期を持ち、四季は巡り、人は成長します。
その勤しみから、「世の精神」は、
人というものを通して、絶えず己を知りゆきます。
そして己を知れば知るほど、
そのつど新たに新たに「世の精神」は甦るはずです。
新しい自分になっていくはずです。
その勤しみに終わりはないでしょう。
「世の精神」は、みずからを知り、みずからを育み、みずからを甦らせるために、
人というものに働きかけ、人というものにみずからを捧げようとしています。
「世の精神」には、人が必要なのです。
同じく、
わたしたち人は、
そんな世の精神に倣いつつ、
地球上のものというものに働きかけ、
ものを愛し、
ものに通じていくことをもって、
みずからを新たに新たに知りつつ、
たとえ、肉体は年老いても、そのつどそのつど甦ります。若返ります。
ゲーテという人こそは、
その「世の精神」に倣い続けた人であり、
残された仕事の跡を顧みれば、
晩年にいたるまでのその若々しい創造力に驚きます。
シュタイナーは、そのゲーテのありかたをこう言い当てています。
ゲーテは、ひとたび、こんな意味深いことばを語りました。
「生産的であるもののみが、まことである」
それは、こういうことです。
人は、きっと、みずからを、まことの有するところとなします。
そして、まことは働きかけます。
そして、人が生きて歩むとき、まことは、まことであることの証を、
生産的であることを通して見いだします。
これが、彼にとって、まことの試金石でした。
すなわち、生産的であるもののみが、まことです。
(1908年10月22日 ベルリン 「ゲーテの密やかなしるし」より)
秋には、「己の力」が「意欲の実り」として発露してきます。
創ること、生み出すこと、育てることなどの行為は、
こころの確かさ、安らかさ、活発さを取り戻し、
こころの闇から、
己であることの意欲の実りを、
汲み上げます。
生産的であるもののみが、まことです。
2011年09月29日
こころのこよみ(第23週)〜秋の滋味深さ〜
Es dämpfet herbstlich sich
秋めいて、和らぐ、
Der Sinne Reizesstreben;
感官へのそそり。
In Lichtesoffenbarung mischen
光の顕れの中に混じる、
Der Nebel dumpfe Schleier sich.
ぼんやりとした霧のとばり。
Ich selber schau in Raumesweiten
わたしは空間の拡がりの中で観る、
Des Herbstes Winterschlaf.
秋、そして冬の眠り。
Der Sommer hat an mich
夏はわたしに、
Sich selber hingegeben.
みずからを捧げてくれた。
前の第21週、22週において、
人の「内なる己の力」が強まってくることによって、
その内なる意識の明るさにだんだんと焦点が絞られてきているのを感じましたが、
(http://kotobanoie.seesaa.net/article/227791337.html)
(http://kotobanoie.seesaa.net/article/227961729.html)
この第23週では、
まるで、息抜きをするように、
あらためて外なる感官を通しての覚えに意識の焦点を当てています。
第18週、19週においても、
(http://kotobanoie.seesaa.net/article/224227492.html)
(http://kotobanoie.seesaa.net/article/225478472.html)
秋に入ろうとする地球にあわせて、
こころが己の力を強め始めるありようが描かれていましたが、
次の第20週ではやはり、
その強まってくる内なるものへの意識の向きを緩和するかのように、
外の世とのバランスを取ることの大切さが記されていました。
(http://kotobanoie.seesaa.net/article/226604917.html)
『こころのこよみ』を週から週へと味わっていますと、
呼吸における緩急のようなものを感じます。
目や耳や肌などの外なる感官を通しての覚えは、
夏から秋に季節が移り変わってくるにつれて、
夏の光の強さとはまた別の趣きで印象深く人のこころに作用します。
外なる光の強さは失せてきますので、
その分、内なる光の強さ(考えることや想うこと)が強まっています。
しかし、あらためて外なる感官を開くことによって、
外からのそそりはもうすでに弱まり、
霧のとばりが降りているように感じますが、
秋が、秋として、その趣きをありありと、滋味深くわたしたちに示してくれます。
その感官への滋味深さが、
だんだんと深まってくる秋における生命の衰えと、
来たるべき冬における生命の死とを、
わたしたちに予感させます。
そして、また、秋をそのように感覚することで、
過ぎ去った夏における世の大いなる働きの残照をわたしたちは追憶します。
あらためて、
感官を通して、
こころの想いが和らげられます。
空間の拡がりへと。
過去と未来へと。
世が、秋めいて、和らぐように。
秋めいて、和らぐ、
Der Sinne Reizesstreben;
感官へのそそり。
In Lichtesoffenbarung mischen
光の顕れの中に混じる、
Der Nebel dumpfe Schleier sich.
ぼんやりとした霧のとばり。
Ich selber schau in Raumesweiten
わたしは空間の拡がりの中で観る、
Des Herbstes Winterschlaf.
秋、そして冬の眠り。
Der Sommer hat an mich
夏はわたしに、
Sich selber hingegeben.
みずからを捧げてくれた。
前の第21週、22週において、
人の「内なる己の力」が強まってくることによって、
その内なる意識の明るさにだんだんと焦点が絞られてきているのを感じましたが、
(http://kotobanoie.seesaa.net/article/227791337.html)
(http://kotobanoie.seesaa.net/article/227961729.html)
この第23週では、
まるで、息抜きをするように、
あらためて外なる感官を通しての覚えに意識の焦点を当てています。
第18週、19週においても、
(http://kotobanoie.seesaa.net/article/224227492.html)
(http://kotobanoie.seesaa.net/article/225478472.html)
秋に入ろうとする地球にあわせて、
こころが己の力を強め始めるありようが描かれていましたが、
次の第20週ではやはり、
その強まってくる内なるものへの意識の向きを緩和するかのように、
外の世とのバランスを取ることの大切さが記されていました。
(http://kotobanoie.seesaa.net/article/226604917.html)
『こころのこよみ』を週から週へと味わっていますと、
呼吸における緩急のようなものを感じます。
目や耳や肌などの外なる感官を通しての覚えは、
夏から秋に季節が移り変わってくるにつれて、
夏の光の強さとはまた別の趣きで印象深く人のこころに作用します。
外なる光の強さは失せてきますので、
その分、内なる光の強さ(考えることや想うこと)が強まっています。
しかし、あらためて外なる感官を開くことによって、
外からのそそりはもうすでに弱まり、
霧のとばりが降りているように感じますが、
秋が、秋として、その趣きをありありと、滋味深くわたしたちに示してくれます。
その感官への滋味深さが、
だんだんと深まってくる秋における生命の衰えと、
来たるべき冬における生命の死とを、
わたしたちに予感させます。
そして、また、秋をそのように感覚することで、
過ぎ去った夏における世の大いなる働きの残照をわたしたちは追憶します。
あらためて、
感官を通して、
こころの想いが和らげられます。
空間の拡がりへと。
過去と未来へと。
世が、秋めいて、和らぐように。
2011年09月28日
こころのこよみ(第22週)〜秋深き隣は何をする人ぞ〜
今年は春の復活祭が遅く、随分と週がずれてしまいました。
ミヒャエル祭が近づいていますので、
ペースを上げて書いていこうと思っています。
Das Licht aus Weltenweiten,
世の拡がりから来る光が、
Im Innern lebt es kräftig fort:
内において力強く生き続ける。
Es wird zum Seelenlichte
それはこころの光となり、
Und leuchtet in die Geistestiefen,
そして、精神の深みにおいて輝く。
Um Früchte zu entbinden,
実りをもたらすべく、
Die Menschenselbst aus Weltenselbst
世の己から生まれる人の己が、
Im Zeitenlaufe reifen lassen.
時の流れに沿って熟していく。
先週の第21週において、
わたしがわたしに「問いを立てる力」が育ってくること、
それこそが「内なる己の力」として実ってくるさまが描かれてありました。
そして、この第22週においては、
ますますその「内なる己の力」が強まり、深まってきます。
「内において力強く生き続け」、
「精神の深みにおいて輝き」、
「時の流れに沿って熟して」いきます。
それらの己の力とは、決して、
これまでのわたしなりの考え方・感じ方によって、
わたしの案件だけに意を注ぐということではなく、
他者のこと、世のことを、
これまで以上に柔軟に、深みをもって、親しく、
考え、想うことができるということでしょう。
ここで、松尾芭蕉の句を挙げてみます。
秋深き隣は何をする人ぞ
わたしたちの秋の深まりは、
自然の時の流れとともに、
かつまた、その人その人のこころの熟し具合に懸かっています。
そして、ここでの「秋深き」は、
「隣」つまり、隣人、世におけるすべての隣人にまでかけられているのでしょう。
(『芭蕉全句<下>』加藤 楸邨)
つまり、「秋深き隣」「秋深き隣人」「秋深き人」です。
「あなたは、何を、する人ですか」
この深く、真率な問い。
この熟したこころのありようから、
芭蕉はことばを紡ぎ、
シュタイナーもことばを紡いでいるのでしょう。
ミヒャエル祭が近づいていますので、
ペースを上げて書いていこうと思っています。
Das Licht aus Weltenweiten,
世の拡がりから来る光が、
Im Innern lebt es kräftig fort:
内において力強く生き続ける。
Es wird zum Seelenlichte
それはこころの光となり、
Und leuchtet in die Geistestiefen,
そして、精神の深みにおいて輝く。
Um Früchte zu entbinden,
実りをもたらすべく、
Die Menschenselbst aus Weltenselbst
世の己から生まれる人の己が、
Im Zeitenlaufe reifen lassen.
時の流れに沿って熟していく。
先週の第21週において、
わたしがわたしに「問いを立てる力」が育ってくること、
それこそが「内なる己の力」として実ってくるさまが描かれてありました。
そして、この第22週においては、
ますますその「内なる己の力」が強まり、深まってきます。
「内において力強く生き続け」、
「精神の深みにおいて輝き」、
「時の流れに沿って熟して」いきます。
それらの己の力とは、決して、
これまでのわたしなりの考え方・感じ方によって、
わたしの案件だけに意を注ぐということではなく、
他者のこと、世のことを、
これまで以上に柔軟に、深みをもって、親しく、
考え、想うことができるということでしょう。
ここで、松尾芭蕉の句を挙げてみます。
秋深き隣は何をする人ぞ
わたしたちの秋の深まりは、
自然の時の流れとともに、
かつまた、その人その人のこころの熟し具合に懸かっています。
そして、ここでの「秋深き」は、
「隣」つまり、隣人、世におけるすべての隣人にまでかけられているのでしょう。
(『芭蕉全句<下>』加藤 楸邨)
つまり、「秋深き隣」「秋深き隣人」「秋深き人」です。
「あなたは、何を、する人ですか」
この深く、真率な問い。
この熟したこころのありようから、
芭蕉はことばを紡ぎ、
シュタイナーもことばを紡いでいるのでしょう。