[こころのこよみ(魂の暦)]の記事一覧

2012年06月17日

こころのこよみ(第9週) 〜失いなさい、見いだすために〜


我が意欲のこだわりを忘れ、

夏を知らせる世の熱が、満ちる、

精神とこころのものとしてのわたしに。

光の中でわたしを失くすようにと、

精神において観ることがわたしに求める。

そして強く、予感がわたしに知らせる、

「あなたを失いなさい、あなたを見いだすために」

Vergessend meine Willenseigenheit,
Erfüllet Weltenwärme sommerkündend
Mir Geist und Seelenwesen;
Im Licht mich zu verlieren
Gebietet mir das Geistesschauen,
Und kraftvoll kündet Ahnung mir:
Verliere dich, um dich zu finden. 
 


「わたしは、これをしたい、あれをやりたい、これをしなけりゃ、あれをしなけりゃ・・・」

そのような意欲というものも、内なる「熱」と言っていいのだけれども、
そのこだわりを忘れることができるだろうか。

今朝、明け方まで吹きすさんでいた風と雨がやんで、陽の光が雲間から輝き出すと、
その熱が、来たる夏を知らせてくれているように感じた。
そして、「熱いなあ」と感じるだけにせずに、
ずっと、その熱を見つめるかのように、その熱に問いかけるように、していると、
その陽の光から発せられている熱は、
自分が抱いている意欲の熱よりも、
はるかに、はるかに、巨大で、
太陽の意欲は、
わたしの意欲よりも、
はるかに、はるかに、強く、深く、遠くを見通しているかのような豊かさであると感じた。

そのような意欲の大いなる力は、太陽を通して、どこから来るのだろう。

シュタイナーは、『世と人のなりかわり』(全集175巻)の中で、
「父なるもの」からだと話している。

その「父なるもの」「そもそも世を創りし方、そしていまも創り続けている方」と人との出会いは、
ひとりひとりの生涯の内に一度はきっとある。

人生の中で、己というもののこだわりを脱ぎ捨てられたことで、
夏の太陽のような巨大な輝きと熱、感動と驚きと畏敬の念いに満たされる時、
その出会いは生じる。

だから、子どもの頃、
丁度、夏の頃、
大いなる天空を仰ぎ、
そこに拡がる星ぼしに想いを重ね、
こころの感情を大いなる叡智に沿わせていくことは、
人生にきっと一度は生じる「父なるもの」との出会いに向けた良き備えになる。

人生の中で、このことばが、予感として、響くときが、きっとある。

   あなたを失いなさい、あなたを見いだすために


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2012年06月12日

こころのこよみ(第8週) 〜実際に練習をする〜


感官の力が長けゆく、

神々の創り給うものに結びつけられて。

それは考える力を沈める、

夢のまどろみへと。

神々しいものが、

わたしのこころとひとつになろうとする時、

きっと人の考えるは、

夢のようなありようの中で、静かに慎んでいる。


Es wächst der Sinne Macht          
Im Bunde mit der Götter Schaffen, 
Sie drückt des Denkens Kraft           
Zur Traumes Dumpfheit mir herab.
Wenn göttlich Wesen           
Sich meiner Seele einen will,
Muß menschlich Denken  
Im Traumessein sich still bescheiden.
 



感官の力(見る力や聴く力など)は、
ものに吸い寄せられてしまうこともあるだろう。
たとえば、テレビやこのコンピューターの画面などに。
そして、そういう時も、考える力は夢のまどろみの中に沈められてしまう。

しかし、ここでの、こころのありようは、
意識的なこころの練習からのみ生まれる。

感官を、意識的に、意欲的に、働かせる。
じっくりと腰を据えて、見る、聴く・・・。
ものに吸い寄せられてしまうのではなく、
見る力、聴く力を、嵩じさせながら、
ものが、訴えてくるまで、待つ。

わたしたちは、もしかしたら、
ほとんど、見ていないのかもしれない。
聴いていないのかもしれない。

考える力が鎮められ、沈められる位、
見てみる、聴いてみる。

その時のこころのありようは、むしろ、
「考えるは、夢のようなありようの中で、静かに慎んでいる」
と表現することがぴったりとする。

そうすると、わたしたちは、何を受け取り、どのように感じるだろう。

「すべては神々の創り給うものである」
「神々しいものとこころがひとつになる」といったことを、
読む、言うにとどまらず、
予感し、実感し、見て、そのことを生きていくために、
実際の練習を意識的にしつづけていくことの大切さを感じる。

教育であれ、芸術であれ、
そこに、アントロポゾフィーの社会性が育っていく基盤があるのではないだろうか。


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2012年05月31日

こころのこよみ(第7週) 〜芸術感覚、光と風〜

Mein Selbst, es drohet zu entfliehen,

わたしのわたしたるところ、それはいまにも離れ去ろうとしている、

Vom Weltenlichte mächtig angezogen.

世の光に強く引き寄せられて。

Nun trete du mein Ahnen

さあ、来たれ、わたしの予感よ、

In deine Rechte kräftig ein,

あなたの力に満ちたふさわしさの中に、

Ersetze mir des Denkens Macht,

考える力に代わって。

Das in der Sinne Schein

考える力は感官の輝きの中で、

Sich selbst verlieren will.

みずからを見失おうとしている。




芸術への感覚、芸術を生きる感覚というものは、どの人の内側にもある。
ただ、それは意識して育まれることによって、
だんだんとその人のものになり、
表に顕れてくるものだろう。

その感覚を育むほどに、
この『こころのこよみ』を通しての密(ひめ)やかな学びにもリアリティーが生まれてくる。

人は、芸術に取り組むとき、
ある種の息吹きを受け、それを自分の中で響かせ、そしてその息吹きを解き放っていく。
大きな呼吸のような動き、風の動きの中に入っていく。
そのような大きな息遣いと自分自身の小さな息遣いとがひとつに合わさっていくプロセスが、
芸術における創造行為だと感じる。
わたしは言語造形をしていて、そのことをリアルに感じるのだが、
きっと、どの芸術のジャンルでも、そうではないだろうか。
そして、つまるところ、人が意識してする行為という行為が、きっと、芸術になりえる。

シュタイナーは、そのような、
芸術をする人に吹き込まれる息吹きを、インスピレーションと呼んだ。

そしてそのインスピレーションから、今度は息を吐き出すように何かを創ることが芸術である。

わたしたちの地球期以前の、月期からさらに太陽期に遡るときにおいて、
世に、物質の萌しとして、熱だけでなく、光と風が生じた頃に、
人は、インスピレーションを生きていた。
(Inspiration は、ラテン語の insprare (吹き込む)から来ている)

人は芸術を生きるとき、
その太陽期からの贈りものとして、
光と風を、いまや物質のものとしてではなく、
精神のものとして、インスピレーションとして、感じる。

    わたしのわたしたるところ、それはいまにも離れ去ろうとしている

一年の巡りで言えば、
わたしたちは、秋から冬の間に吸い込んだ精神の息、精神の風、「インスピレーション」を、
春から夏の間に解き放とうとしている。

秋から冬の間、
「わたしのわたしたるところ」「考える力」はそのインスピレーションを孕(はら)むことができたのだ。

「いまにも離れ去ろうとしている」とは、
春から夏の間、
インスピレーションを孕んだ「わたしのわたしたるところ」「考える力」が変容して、
意欲の力として、からだを通して表に顕れ出ようとしている、
大いなる世へと拡がっていこうとしているということでもあるだろう。

    世の光に強く引き寄せられて

その精神の吐く息に連れられて、
拡がりゆく「わたしのわたしたるところ」「考える力」は、
外の世においてこそ、光の贈りものをいただける。

その光の贈りものとは、「予感」という、より高いものからの恵みである。

    さあ、来たれ、わたしの予感よ、
   あなたの力に満ちたふさわしさの中に、
   考える力に代わって。




芸術とは、
インスピレーションという世の風に吹き込まれることであり、
予感という世の光に従うことである。
練習を通して初めてやってくる予感に沿っていくことである。
練習とは、身を使うことである。

インスピレーションを孕んだ考える力が、まずは頭から全身に働きかける。
その精神の息吹きを、練習によって、解き放っていく。
その息吹きが練習によって解き放たれるその都度その都度、
予感が、光として、ある種の法則をもったものとしてやってくる。

インスピレーションが、
胸、腕、手の先、腰、脚、足の裏を通して、
息遣いを通して、
芸術として世に供され、
供するたびに、
芸術をする人はその都度、予感をもらえるのだ。



だから、この季節において、考える力は、
感官の輝きの中で、手足の働きの中で、意欲の漲りの中で、
見失われていいのだ。

そして、そのような、身の働きの中で、芸術行為の中で、予感が恩寵のようにやってくる。

    考える力は感官の輝きの中で、
   みずからを見失おうとしている。

   

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2012年05月28日

こころのこよみ(第6週) 〜もっと見る〜

Es ist erstanden aus der Eigenheit

己であることから蘇る、

Mein Selbst und findet sich

わたしのわたしたるところ。そしてみずからを見いだす、

Als Weltenoffenbarung

世の啓けとして、

In Zeit- und Raumeskräften;

時と場の力の中で。

Die Welt, sie zeigt mir überall

世、それはいたるところでわたしに示す、

Als göttlich Urbild

神々しいもとの相(すがた)として、

Des eignen Abbilds Wahrheit.

わたしの末の相(すがた)のまことたるところを。





わたしは、とかく、ものを写真に撮るが、ものをよく見ていない。
そんなことを、先日、セザンヌの絵を観ていて考えさせられた。
http://kotobanoie.seesaa.net/article/270094445.html

時と場の中で、
世が啓けてくるまで、
世が秘密を打ち明けてくれるまで、
ものを観る。

そして、その世の啓けこそが、本当の「わたし」の顕れなのだ。

世と「わたし」がすでにひとつであることを、身で証していく事。

そのことの実践がここにあると、セザンヌの絵に感じた。

世は末の相(すがた)しか、わたしに見せてくれていないとしても、
その末の相をもっと、意識的に、意欲的に、よく見ることで、聴くことで、触れることで、
その中にまことたるところ、神々しいもとの相(すがた)が顕れてくる。

この季節、もっと観よう。
眼だけでなく、からだまるごとを使って、ものを観てみよう。
世は、いたるところで、わたしに神々しい相(すがた)をわたしに示そうとしてくれている。

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2012年05月15日

こころのこよみ(第5週) 〜セザンヌ 画家の仕事とは〜

トロネの道とサント・ヴィクトワール山.jpg

リンゴとナプキン.jpg

首吊りの家.jpg

庭師ヴァリエ.jpg

座る農夫.jpg

大水浴図.jpg



Im Lichte, das aus Geistestiefen

精神の深みからの光の中で、

Im Räume fruchtbar webend

その場その場で実り豊かに織りなしつつ、

Der Götter Schaffen offenbart:

神々の創りたまうものが啓かれる。

In ihm erscheint der Seele Wesen

その中に、こころそのものが顕れる、

Geweitet zu dem Weltensein

ありありとした世へと広がりつつ、

Und auferstanden

そして立ち上がりつつ、

Aus enger Selbstheit Innenmacht.

狭い己の内なる力から。




画家とは、何をする人なんだろう。
先日、セザンヌ展を観に行って、そのことを考えさせられた。
http://cezanne.exhn.jp/

道楽で絵を描くのではなく、
「仕事」として絵を描くとは、どういうことか。

セザンヌのことばによると、
「感覚を実現すること」、
それが彼にとって絵を描くことによってなしていきたいことであり、
彼の「仕事」だった。

彼が強い意欲をもって、ものを見ようとすればするほど、
自然が自然そのものの内に秘めている持続的な、強い、時に巨大な「もの」を彼に流し込んでくる。
それはすでに感官(目や耳などの感覚器官)を超えて受信される「もの」である。

そして、
自然からのそのような「もの」の流れに応じるかのように、
あまりにも巨大なセザンヌ自身の「こころそのもの」が顕れる。

その場その場の自然から流れ込んでくる「もの」。
そして、立ち顕れてくる彼自身の「こころそのもの」。
そのふたつの出会いそのものを、
キャンバスの上に、色彩で顕わにしろと、彼は自然そのものに求められる。

その求めに応えるのが、「感覚の実現」であろうし、彼の仕事であった。
その求めに応え続けたのが、彼の生涯だった。

世は、人に、
その場その場で実り豊かに織りなしつつ神々が創りたまうもの」を啓いてほしいと、
希っている。

なぜなら、それによって、
人は、
狭い己の内なる力から、
 ありありとした世へと広がりつつ、
 自分の足で立ち上がりつつ、
 自分自身のこころそのものを顕わにする」
ことができるからなのだろう。

セザンヌは、そのことを、意識的になそうとした人だと感じた。

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2012年05月06日

こころのこよみ(第4週) 〜感覚が語る〜

Ich fühle Wesen meines Wesens:

「わたしはわたしのわたしたるところを感じる」
            
So spricht Empfindung,

そう感覚が語る。

Die in der sonnerhellten Welt

それは陽のあたる明るい世の内で、

Mit Lichtesfluten sich vereint;

光の流れとひとつになる。

Sie will dem Denken

それは考えるに、

Zur Klarheit Wärme schenken

明るくなるようにと、暖かさを贈り、

Und Mensch und Welt

そして人と世を

In Einheit fest verbinden.

ひとつにするべく、固く結びつけようとする。





    「わたしはわたしのわたしたるところを感じる」
   そう感覚が語る。


感覚とは、そもそも、
わたしたちに何を語ってくれているのか、何を教えようとしてくれているのだろうか。

シュタイナーがここで使っている「感覚(Empfindung)」ということばは、
「受けて(emp)見いだす(finden)」からできていることば。

わたしたち人が、
世に向かってみずからを開き、
世からの働きかけを受け、
そこに見いだしたものを、
もしくは、
それらの「受けて見いだす」というこころの働きそのものを、
感覚という。

人によって受けて見いだされた光、色、響き、熱、味、触などが感覚であるし、
それらだけでなく、
(これまでの生理学や心理学では、そうは言わないらしいが)
それらによって起こってきた情、意欲、考えも、感覚なのだ。
なぜなら、みずからのこころというものも、
世の一部だからだ。

色や響きなどの外からのものを、人は感覚する(受けて見いだす)し、
情や意欲や考えという内からのものをも、人は感覚する(受けて見いだす)。

外からの感覚は、外からのものとして客として迎えやすいのだが、
内からの感覚は、内からのものであるゆえに、客として迎えにくい。
主(あるじ)としてのみずからと、
客である情や意欲や考えとを一緒くたにしてしまいがちだ。
主と客をしっかりと分けること、
それは客を客としてしっかりと観ることである。
みずからの情や意欲や考えを、
まるで他人の情や意欲や考えとして観る練習。

その練習を重ねることが、
いったんは明確に分けた主と客を再びひとつにし、
新たなものを生み出すこころの力に繋がっていく。
こころを健やかにしてくれる。

人が、外からのものであれ、内からのものであれ、
その客を客として意欲的に迎えようとすればするほど、
客はいよいよみずからの秘密を明かしてくれる。
そして、そうするほどに、人は、みずからの狭い限りを越えて、
「わたし」をだんだんと解き明かしていくことができる。
主によって客が客として迎えられるというのは、
客によって主が主として迎えられるということであるだろうし、
それは、主と客がひとつになるという、
人と世との、もしくは人と人との、出会いの秘儀とも言っていいものではないだろうか。

そして、主と客がひとつになるときに、「わたし」がいよいよ明らかなものになっていく。
つまり、主=「わたし」ではなく、
主+客=「わたし」なのだ。

たとえば、セザンヌの絵や彼の残したことば、
もしくは、芭蕉の俳諧などに接し続けていると、
ものとひとつになることを目指して彼らがどれほど苦闘したか、
だんだんと窺い知れるようになってくる。

彼らは、世というもの、こころというものの内に潜んでいる大きな何かを捉えることに挑み、
そのプロセスの中で壊され、研がれ、磨かれ、
その果てにだんだんと立ち顕れてくる「人のわたし」というものへと辿りつこうとした。
彼らは、色彩というもの、さらに風雅というものとひとつになろうとする、
人の精神の仕事を死ぬまでやり通した人たちだと感じる。
ものとひとつになるときこそ、
「人のわたし」ははっきりと立ち顕れてくることを彼らは知っていた。

感覚は、
それを人が意欲的に働かせれば働かせるほど、
わたしのわたしたるところ」を情として語ってくれる。

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2012年04月28日

こころのこよみ(第3週) 〜「語る」とは「聴く」こと〜

Es spricht zum Weltenall,

世のすべてに語りかける、

Sich selbst vergessend 

己自身を忘れ、

Und seines Urstands eingedenk,

かつ、みずからの根源を肝に銘じながら、

Des Menschen wachsend Ich:

人の育ちゆく<わたし>が語りかける。

In dir, befreiend mich

「あなたの内に、わたしは解き放たれる、

Aus meiner Eigenheiten Fessel,

わたし自身であることの鎖から。

Ergründe ich mein echtes Wesen.

そして、わたしはまことわたしたるところを解き明かす」




「語る」とは、「聴く」ことだ。

「語り」がなりたつためには、勿論「聴く」人がいるということが前提になるが、
しかしそれ以上に、
語り手みずからが聴き手となることが大切なことのように思う。

頭で考えつつ語ることから脱して、
だんだんと、ひらめきが語りを導いてくれるまでにもっていくことが、語り手の難しい仕事である。

「ひらめき」とは、語り手の己自身が空っぽになり、
その空っぽになったところに流れ込んでくる「ことばの精神」。
それはまるで、からだにまで流れ込んでくる生きる力のようだ。

その「ひらめき」「ことばの精神」は、
聴き耳を立てるかのようにして待つことによって、語り手に降りてくる。

その聴き耳を立てる作業は、静かなものでありつつ、
積極的に意欲をもって自分自身から外に出て行き、対象に接近し、沿っていく作業だ。

「語る」とき、
自分が、こう語りたい、ああ語りたい、ということよりも、
「ことばというもの」「ことばの精神」に、耳を傾け、接近し、沿っていきつつ語る。
もっと平たく言うと、自分の声に聴き耳を立てつつ語る、ということだ。

語り手が「ことばの精神」に聴き耳を立てながら語ることによって、
聴き手も「ことばの精神」に聴き耳を立てる。

そのような「ことばの精神」と親しくなりゆくほどに、
語り手、聴き手、双方の内なる<わたし>が育ちゆく。

そして、
「世のすべてに語りかける」とは、
語りかけている自分自身の声とことばに耳を傾けつつ、
世のすべてから流れてくる「ことばの精神」に耳を傾けることでもある。

そのときに流れ込んでくる「ものものしい精神」「ありありとした精神」を感じることによって、
わたしは解き放たれる。
みずからにこだわっていたところから解き放たれる。

だから、たとえば、「他者に語りかける」時には、
こちらから必ずしもことばを出さなくてもよく、むしろ、
「他者をよく観る、他者の声に聴き耳を立てる」ということ。

そのような「語り合い」「聴き合い」においてこそ、
人は、みずからを知りゆく。
「ああっ、そうか、そうだったのか!」というような、
ものごとについての、他者についての、みずからについての、解き明かしが訪れる。

互いがよき聴き手であるときほど、対話が楽しくなる。

特に、この季節、
自然というものをよく観ることによって、聴き耳を立てることによって、
自然との対話の内に、
わたしは、わたし自身であることの鎖から解き放たれる。
そして、わたしは、まことわたしたるところを解き明かす。

芽吹き、花開くものたちにたっぷりと沿う喜びを積極的に見いだしていきたい。

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2012年04月16日

こころのこよみ(第2週) 〜こころの農作業〜

Ins Äußre des Sinnesalls

外なるすべての感官のなかで、

Verliert Gedankenmacht ihr Eigensein;

考えの力はみずからのあり方を見失う。

Es finden Geisteswelten

精神の世は見いだす、

Den Menschensprossen wieder,

再び人が芽吹いてくるのを。

Der seinen Keim in ihnen,

人の内なるその萌しは、

Doch seine Seelenfrucht

しかし、そのこころの実りを

In sich muß finden.

みずからの内にきっと見いだす。



わたしは、この身に授かっている感官をもっと働かせることができるはずだ。
全身全霊で、ものごとにもっと集中して向かい合うことができるはずだ。
身というものは、使えば使うほどに、活き活きと働くことができるようになってくる。

たとえば、自然に向かい合うときにも、
たとえば、音楽に耳を傾けるときにも、
この外なるすべての感官を通して我が意欲を奮い立たせつつ感覚することによって、
まったく新たな験しがわたしの中で生まれる。
ときに、からだとこころを貫かれるような、
ときに、浮遊感を伴うような、
ときに、もののかたちがデフォルメされて突出してくるような、
そのような感覚を明るい意識の中で生きることができる。

外なるすべての感官の中で、考えの力はみずからのあり方を見失う」とは、
感覚を全身全霊で生きることができれば、
あれこれ、小賢しい考えを弄することなどできない状態を言う。

このような人のあり方を、
世に対するわたしの意欲の漲りを、
「人の内なる萌し」「芽吹き」として、
精神の世は見てくれているのだろうか、本当に。

世との、ものごととの、人との、
春における、そのような新しい出会い方、つき合い方は、
いのちの力に満ちたみずみずしいものだ。

そして、地球の吐く息に合わせるかのように人のこころの深みから萌え出してくるこの意欲は、
もし、精神の世がしっかりと見てくれているのならば、
秋になるころには、
ある結実をきっと見いだすだろう。

春、天に昇る竜は、
秋、地に下り行く。

中国では、その竜を聖竜とするそうだ。

それは、きっと、この時代を導こうとしている精神ミヒャエルに貫かれた竜だろう。

秋から冬にかけてキリストと地球のためにたっぷりと仕事をしたミヒャエルは、
その力を再び蓄えるために、
春から夏にかけて、キリストと地球のこころとともに、大いなる世へと、天へと、帰りゆく。
そしてまた、秋になると、ミヒャエルは力を蓄えて、
この地の煤払いに降りてきてくれるのだ。

わたしたちの意欲もミヒャエルの動きに沿うならば、
春に、下から萌え出てき、
感官を使って世の精神と結びつこうとする。
そして、秋には、上の精神からの力をもらいつつ再び降りてきて、
地に実りをもたらすべく、方向性の定まった活きた働きをすることができる。

だから、春には春で意識してやっておくことがあるし、
その実りをきっと秋には迎えることができる。

それは、こころの農作業のようなものだ。

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2012年04月14日

こころのこよみ(第1週) 〜復活祭の調べ〜

Wenn aus den Weltenweiten

世の広がりから、

Die Sonne spricht zum Menschensinn

陽が人の感官に語りかけ、

Und Freude aus den Seelentiefen

そしてこころの深みから喜びが、

Dem Licht sich eint im Schauen,

観ることのうちに光とひとつになると、

Dann ziehen aus der Selbstheit Hülle

己であることの被いから広がり渡る、

Gedanken in die Raumesfernen

考えが空間の彼方へと。

Und binden dumpf

そしておぼろげに結びつける、

Des Menschen Wesen an des Geistes Sein.

人というものをありありとした精神へと。



第50週から、ずっと、世の人への働きかけ・語りかけが続いている。

それは、人のこころが外の世へと向かい始めているから。

人が向かうから、世も語りかけてきてくれている。

それは、意欲と意欲の交わり、気持ちと気持ちのつきあいだ。

その交わりのなかにこそ、きっと、喜びが生まれる。

ものをじっと、見つめるほどに、
ものもわたしに応えようとでもしてくれるかのように、様々な表情を見せてくれるようになる。

そのような、こころの練習をしている毎日の中で、
考えることが、もっと、もっと、拡がっていけばいい。

とかく、狭いところで右往左往しがちな、わたしの考え。

わたしによって考えられる考えが、
自分なりの考え方、感じ方といういつものおのれの被いを越えて拡がりゆく。
それによって、新しく、生まれ変わったようなこころもちで、外の世界の中に踏み出していく。

アントロポゾフィーは、
その時その場でどう考え、どう感じ、どう振舞っていくべきかを教えるのではなく、
こころを徹底的に鍛えよ、と言っている。
その試みの連続の中で、精神がきっと、新しく生きていく道を啓いてくれる。


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こころのこよみ(第52週) 〜精神の啓けに備える〜

Wenn aus den Seelentiefen 

こころの深みから

Der Geist sich wendet zu dem Weltensein 

精神がみずからありありとした世へと向かい、

Und Schönheit quillt aus Raumesweiten,

美が空間の拡がりから溢れ出るとき、

Dann zieht aus Himmelsfernen

天の彼方から流れ込む、

Des Lebens Kraft in Menschenleiber

生きる力が人のからだへと。

Und einet, machtvoll wirkend,

そして、力強く働きながら、ひとつにする、

Des Geistes Wesen mit dem Menschensein.

精神というものと人のありようとを。



ものをじっと観る。
それは、こころの深みが動くことだと感じる。
こころの力を振り絞って、そのものとひとつになろうとするとき、
わたしの精神とものの精神との交流が始まる。

そして、また、そのときに、
方向で言えば、まさに上から、天から、
そのつどそのつど、フレッシュな光、息吹き、啓けがやってくる。

言語造形をしているときも、同じだ。

みずから稽古しているとき、
うまくいかなくても、
それでも繰り返し、繰り返し、ことばに取り組んでいるうちに、
また、人のことばをこころの力を振り絞りながら聴いているときに、
「これだ!」という上からの啓けに見舞われる。

そのたびごとに、わたしは、力をもらえる。
喜びと安らかさと確かさをもって生きる力だ。

人は、ただ、こころとからだを使って、精神の啓けに備えるべく励むのみだ。
世の精神は、力強く、働いてくれている。
そして、精神と人とをひとつにしようとしてくれている。

posted by koji at 23:06 | 大阪 ☀ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

こころのこよみ(第51週) 〜精神の甦り〜

Ins Innre des Menschenwesens

人というものの内へと

Ergießt der Sinne Reichtum sich,

感官を通して豊かさが流れ込む。

Es findet sich der Weltengeist

世の精神はおのれを見いだす、

Im Spiegelbild des Menschenauges,

人のまなこに映る相(すがた)の中に。

Das seine Kraft aus ihm

その相(すがた)から力が、

Sich neu erschaffen muß.

きっと新たに汲み上げられる。



より目を開いて、より耳を澄まして、
ものごとというものごとにじっと向かいあってみれば、
ものごとは、より活き活きとした相(すがた)をわたしに顕わしてくれる。

わたしが花をそのように観ているとき、
花もわたしを観ている。

そして、わたしの瞳の中に映る相(すがた)は、もはや死んだものではなく、
ますます活きたものになりゆく。

また、その活きたものになりゆく相を映すわたしの瞳も、
だんだんとそのありようを深めていく。
物理的なものの内に精神的なものを宿すようになる。

花へのそのようなアクティブな向かいようによって、
わたしみずからが精神として甦る。

そして、その深まりゆくわたしの内において、
花の精神(世の精神)が甦る。

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2012年04月03日

こころのこよみ(第50週) 〜いのちからの語りかけ〜 

Es spricht zum Menschen-Ich,

人の<わたし>に語りかける。  

Sich machtvoll offenbarend

みずから力強く顕れつつ、

Und seines Wesens Kräfte lösend,

そしてものものしい力を解き放ちつつ、

Des Weltendaseins Werdelust:

世のありありとした繰りなす喜びが語りかける。

In dich mein Leben tragend

「あなたの内に、わたしのいのちを担いなさい、

Aus seinem Zauberbanne, 

魔法の縛りを解いて。

Erreiche ich mein wahres Ziel. 

ならば、わたしは、まことの目当てに行きつく」



春の訪れと共に、草花が大地から息を吹き返すかのように色づき始めています。

中でも、今週辺りから開き始めた桜の花は、
その息吹の甦りを印象深くわたしたちに訴えてきますよね。

その印象を過ぎ行かせずに、たっぷりと付き合ってみるならば、
そのいのちを営んでいる草花たちの身ぶり、語りかけ、声を感じる感覚が、
わたしたちのこころに生まれてきます。

ただ、見るのではなく、
目の前にあるいのちあるものの、
身ぶりを感じながら、
自分でもその身ぶりを内的にしながら、
じっくりとつきあうように、交わるように、絡み合うように、
観るのです。

このわたしからの観る(聴く)に応じて、
桜の花は、人の<わたし>に語りかけてきています。
密やかに、ですが。

草花をはじめ、世における生きとし生けるもの、いや、ありとあらゆるものは、
そのように人によって目を注がれること、耳を傾けられることを待ち望んでいます。


まるで、息を吐くかのように、
そのものに潜んでいるいのちが外の世に芽吹き、開かれてくるのが、
春という季節です。

それは、春において地球という大いなる「いきもの」が、
まるで息を吐き始めるかのように、
その「こころと精神」を大いなる世に解き放とうとするからです。

それは、人が毎夜眠るときに、こころと精神をからだから解き放つことと同じありようです。

クリスマスのときに、
地球はその「こころと精神」をみずからの内に保ちます。
まるで人が息を吸い込みきったときのように。
まるで人が昼間、目覚めきっているときのように。
地球がそのように静かに、目覚めきって、おのれを保ちつつ、内側から強く輝いている季節が冬です。
その冬のあいだ、
キリストという地球の精神は(それは太陽の精神・神でもあるわけですが)、
春がやってくるまで、
地球の内にいて、その愛の力を保ち、育み続けています。

その地球の内に保ち育み続けられ、熟されてきた愛の力が、
春の訪れと共に、
だんだんと大いなる世にむけて解き放たれ始めます。

地球がそのこころと精神を解き放とうとする、愛を解き放とうとするからこそ、
草木は太陽に向かって長けゆきます。

ですから、草木や花々は、キリストのこころと精神、愛のしるしです。

その愛が、人の<わたし>に密やかに語りかけてきています。

    「あなたの内に、わたしのいのちを荷いなさい、
    魔法の縛りを解いて。
    ならば、わたしは、まことの目当てに行きつく」


人によって、
植物をはじめ、世のありとあらゆるものは、
そのまことの目当てに達することができる。

その意識をもって、
春を生きていくならば、
わたしたちは、もういちど、
子ども時代に帰れるかもしれません。

世がみずみずしく、息づき始めます。

世とみずみずしく向かい合い、自分自身の内側にもそのみずみずしさがもたらされます。

わたしたちが『こころのこよみ』によって、
地球の四季の巡りを共に生きることは、
地球の精神であるキリストがいまもなおしつづけている、
愛の呼吸を共にすることなのです。

シュタイナーがこれを出版したのは、ちょうど100年前の1912年です。
その同じ年、彼はテオゾフィー協会を離れ、
アントロポゾフィー協会を仲間と共に打ち立てました。

アントロポゾフィー協会が生まれ、
『こころのこよみ』によって季節を意識的に生きるということを人と分かち合おうとしたのは、
キリストと共に人が生きることの、
底知れない大切さをシュタイナーが意識していたからです。

世からのよそよそしい疎外感に代わって、
世とのみずみずしい一体感を人が意識的におのれのものにしていく、
その大切さです。


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2012年03月26日

こころのこよみ(第49週) 〜夜と昼〜

Ich fühle Kraft des Weltenseins:

「わたしは世のありありとした力を感じる」

So spricht Gedankenklarheit,

そう、考えの明らかさが語る。

Gedenkend eignen Geistes Wachsen

考えつつ、みずからの精神が長けゆく、

In finstern Weltennächten,

暗い世の夜の中で。

Und neigt dem nahen Weltentage

そして世の昼に近づきゆく、

Des Innern Hoffnungsstrahlen.

内なる希みの光をもって。




今週の『こころのこよみ』について、去年書いたのは、
3月11日のことがあってすぐでした。
http://kotobanoie.seesaa.net/article/191122893.html

地震と津波と原発事故から遠く離れた大阪に生きている自分にとってさえも、
この『こよみ』で言われていることが、
リアリティーをもって強く迫ってきたのです。

今年、この週の『こよみ』に、
精神のありようから、もう一度、向かい合う中で、
シュタイナーの1923年2月3日、4日のドルナッハでの講演『夜の人と昼の人』の内容と、
今週の『こよみ』が響き合ってきました。

春が近づいてくる中で感じる、ありありとした世の力。

たとえ、その力を感じることができても、
わたしが考えつつ、その感じを考えで捉えなければ、
わたしはそれをことばにして言い表すことはできません。

世のありありとした力も、
それに対して湧きあがってくる感じも、
<わたし>という人からすれば、
外側からやってくるものです。

それらに対して、人は、考えることによって、
初めて、内側から、<わたし>から、応えることができます。

そのようにして外側からのものと内側からのものが合わさって、
知るということ(認識)がなりたち、
ことばにして言い表すこともできます。

去年の3月11日以来、
わたしたちの外側からあまりにもたくさんの世の力がありありと迫ってきました。

そんな外側からの力に対し、わたしたちの内側からの考える力が追いつかない、
そんな脅威と焦慮にわたしたちは見舞われました。

そして、たくさんの、たくさんの、ことばが行き交いました。

わたしたちの考える力は、その都度その都度、
外の世からやってくる力に対して応じていかざるをえないのですが、
しかし、そのことに尽きてしまわざるをえないのでしょうか。

対応していくにしても、
その考える力が、明らかな一点、確かな一点に根ざさないのならば、
その対応は、とかくその場限りの、
外の世に振り回されっぱなしのものになりはしないでしょうか。

その確かな一点、明らかな一点とは、
「わたしはある」ということを想い起こすこと、考えることであり、
また、その考えるを見るということです。

他の誰かがこう言っているから、こう考える、
ああ言っているから、ああ考えるのではなく、
他の誰でもないこの「わたしはある」という一点に立ち戻り、
その一点から「わたしが考える」という内からの力をもって、
外の出来事に向かっていきます。

それは、外の出来事に振り回されて、考えるのではなく、
内なる意欲の力をもって、
みずから考えるを発し、
みずから考えるを導いていくとき、
考えは、それまでの死んだものから生きているものとして活き活きと甦ってきます。

そのとき、人は、考えるに<わたし>を注ぎ込むこと、意欲を注ぎ込むことによって、
「まぎれなく考える」をしています。

わたしたちが日々抱く考えという考えは、死んでいます。

それは、考えるに、<わたし>を注ぎ込んでいないからです。
みずからの意欲をほとんど注ぎ込まずに、
外の世に応じて「考えさせられている」からです。
そのような、外のものごとから刺激を受けて考える考え、
なおかつ、ものごとの表面をなぞるだけの考えは、死んでいます。

多くの人が、よく、感覚がすべて、感じる感情がすべてだと言います。
実は、その多くの人は、
そのような死んだ考えをやりくりすることに対するアンチパシーから、
ものを言っているのではないでしょうか。

ところが、そのような受動的なこころのあり方から脱して、
能動的に、エネルギッシュに、考えるに意欲を注ぎ込んでいくことで、
考えは死から甦り、生命あるものとして、人に生きる力を与えるものになります。

その人に、軸ができてきます。

世からありとあらゆる力がやってきますが、
だんだんと、その軸がぶれることも少なくなってくるでしょう。

その軸を創る力、
それは、みずからが、考える、
そして、その考えるを、みずからが見る。
この一点に立ち戻る力です。

この一点から、外の世に向かって、その都度その都度、考えるを向けていくこと、
それは、腰を据えて、その外のものごとに沿い、交わっていくことです。

では、その力を人はどうやって育んでいくことができるのでしょうか。
また、そのように、考えるに意欲を注ぎ込んでいく力は、どこからやってくるのでしょうか。

それは、夜、眠っているあいだに、
人という人に与えられています。

ただし、昼のあいだ、
その人が意欲を注ぎつつ考えるほどに応じてです。

夜の眠りのあいだに、人はただ休息しているのではありません。

意識は完全に閉じられていますが、
考えるは、意識が閉じられている分、まったく外の世に応じることをせずにすみ、
よりまぎれなく考える力を長けさせていきます。

それは、眠りのあいだにこそ、意欲が強まるからです。
ただ、意欲によって強められている考える力は、まったく意識できません。
眠っていることによって、
意識の主体であるアストラールのからだと<わたし>が、
エーテルのからだと物のからだから離れていますから。

眠りのあいだに、わたしたちは、わたしたちの故郷であるこころと精神の世へと戻り、
次の一日の中でフレッシュに力強く考える力をその世の方々から頂いて、
朝、目覚めます。

要は、
夜の眠りのあいだに長けさせている精神の力を、
どれだけ昼のあいだにみずからに注ぎこませられるかです。

そのために、シュタイナーは、その講演で、
本を読むときに、もっと、もっと、エネルギッシュに、意欲の力を注ぎ込んでほしい、
そう述べています。

それは、人のこころを育てるのです。

現代人に最も欠けている意欲の力を奮い起こすことで、
死んだ考えを生きた考えに甦らせることこそが、
こころの育みになります。

アントロポゾフィーの本をいくらたくさん読んでも、
いや、シュタイナー本人からいくらいい講演、いい話を聴いたとしても、
それだけでは駄目なのだと。

文という文を、意欲的に、深めること。

ことばを通して、述べられている考えに読む人が生命を吹き込むこと。

アントロポゾフィーは、そのようにされないと、途端に、
腰崩れの、中途半端なものになってしまうと。

1923年という、彼の晩年近くの頃で、
彼の周りに集まる人のこころの受動性をなんとか奮い起こして、
能動的な、主体的な、エネルギッシュな力に各々が目覚めるように、
彼はことばを発していました。

その力は、
夜の眠りのあいだに、高い世の方々との交わりによってすべての人が贈られています。

繰り返しますが、
要は、
夜盛んだった意欲を、
昼のあいだに、どれだけ人が目覚めつつ、意識的に、
考えるに注ぎ込むか、です。

その内なる能動性、主体性、エネルギーこそが、
内なる希みの光」です。

外の世へのなんらかの希みではなく、
<わたし>への信頼、<わたし>があることから生まれる希みです。

その内なる希みの光こそが、
昼のあいだに、人を活き活きとさせ、
また夜の眠りのあいだに、精神を長けさせます。

その夜と昼との循環を意識的に育んでいくこと、
それが復活祭を前にした、
こころの仕事です。


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2012年03月20日

こころのこよみ(第48週) 〜行われたし、精神の見はるかしを〜

Im Lichte das aus Weltenhöhen

世の高みから

Der Seele machtvoll fliessen will

力に満ちてこころに流れてくる光の中で

Erscheine, lösend Seelenrätsel

現われよ、こころの謎を解きながら、

Des Weltendenkens Sicherheit

世の考えの確かさよ。

Versammelnd seiner Strahlen Macht

その光り輝く力を集め、

Im Menschenherzen Liebe weckend.

人の心の中に愛を呼び覚ますべく。




考える力というものについて、
人はよく誤解している。

そう感じることが、よくあります。

考えるとは、
あれこれ自分勝手にものごとの意味を探ることでもなく、
浮かんでくる考えに次から次へとこころをさまよわせることでもなく、
何かを求めて思いわずらうことでもなく、
ものごとや人を裁くことへと導くものでもありません。

考えるとは、本来、
みずからを置いてものごとに沿うこと、
思いわずらうことをきっぱりと止めて、
考えが開けるのをアクティブに待つこと、
そして、ものごととひとつになりゆくことで、愛を生みだすことです。

今回もまた、鈴木一博さんの『礎のことば』の読み説きから多くの示唆を得ています。

人が考えるとは、
考えという光が降りてくるのを待つこと、
人に考えが開けることです。

考えが開けるきっかけは、
人の話を聴く、本を読む、考えに考え抜く、道を歩いていて、ふと・・・など、
人によりけり、時と場によりけり、様々あるでしょうが、
どんな場合であっても、
人が頭を安らかに澄ませたときにこそ、考えは開けます。
身体は忙しく、活発に、動き回っていても、
頭のみは、静かさを湛えているほどに、
考えは開けます。

そして、考えの開けと共に、
こころに光が当たるのを感じない人はいないのではないでしょうか。
考えが開けることによって、こころにおいて、ものごとが明るみます。
そして、こころそのものも明るみます。

「ああ、そうか、そうだったのか!」というときのこころに差し込む光の明るさ、暖かさ。
誰しも、覚えがあるのではないでしょうか。

明るめられたこころにおいて、
降りてきたその考えは、その人にとって、隈なく見通しがききます。

また、見通しがきく考えは、他の人にとっても見通しがきき、その人の考えにもなります。

そもそも、考えは誰の考えであっても、考えは考えです。

人に降りてくる考えは、その人の考えになる前に、そもそも世の考えです。

自然法則というものも、自然に秘められている世の考えです。

人が考えることによって、
自然がその秘密「世の考え」を打ち明けます。

その自然とは、
他者という自然でもあるでしょうし、
わたし自身の人となりという自然でもあります。

目の前にいる人が、どういう人なのか、
我が子が、どういう人になっていくのか、
もしくは、自分自身がどういう人なのか、
それは、まずもっては、謎です。

その謎を謎として、
長い時間をかけて、その人と、もしくはみずからと、腰を据えてつきあいつつ、
その都度その都度、
こころに開けてくる考えを摑んでいくことによってのみ、
だんだんと、その人について、もしくは、わたしという人について、考えが開けてきます。

それはだんだんと明るんでくる「世の高みからの考え」でもあるのです。

わたしなりの考えでやりくりしてしまうのではなく、
からだとこころをもって対象に沿い続けることによって、
「世の考え」という光が降りてくるのを待つのです。

すぐに光が降りてくる力を持つ人もいるでしょうし、
長い時間をかけて、ゆっくりと光が降りてくるのを待つ人もいるでしょうが、
どちらにしても、
そのように、考えと共にこころにやってくる光とは、
世からわたしたちへと流れるように贈られる贈り物といってもいいかもしれません。

その贈り物があるからこそ、
わたしたちは、また、世の考えが贈られるのを待ちつつ考えることができるのでしょうし、
考えの光が降りてくればこそ、
わたしたちは、こころの明るさと共に、その考えを見通し、見はるかすことができ、
その見はるかしからこそ、こころに愛が目覚めます。

ある人の長所にあるとき、はっと気づいて、
その人をあらためてつくづくと見つめ、
その人のことが好きになっていること、
ありましたよね。

長所にはっと気づく、
それこそが、
考えの光が降りてきたということでしょうし、
その人について光をもって考えられるからこそ、
こころに愛が呼び覚まされるのでしょう。

人を愛する時とは、
世の高みから、力に満ちて流れてくる「世の考え」が、こころに開ける時です。

考えが開けるとき、
そこには、きっと、愛があります。

愛が生まれないときは、
考えているようで、実は考えていないということです。
自分勝手に考えや思いをいじくりまわしているか、
巡り巡る考えや思いに翻弄されているときでしょう。

考えることによって愛が生まれることと、
愛をもって考えることとは、
きっと、ひとつの流れとして、人の内側で循環します。

    人のこころ!
   あなたは安らう頭に生き
   頭は、あなたに、とわの基から
   世の考えを打ち明ける。
   行われたし、精神の見はるかしを
   考えの安らかさのうちに。
   そこにては神々の目指すことが
   世とものとの光を
   あなたの<わたし>に
   あなたの<わたし>が自由に欲すべく
   贈る。
   もって、あなたは真に考えるようになる
   人と精神との基にて。         (『礎のことば』より)  


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2012年03月10日

こころのこよみ(第47週) 〜行われたし、精神の慮(おもんぱか)りを〜

Es will erstehen aus dem Weltenschosse,

世のふところから蘇ってくるだろう、

Den Sinnenschein erquickend Werdelust,

感官への輝きを息づかせる繰りなす喜びが。

Sie finde meines Denkens Kraft

その喜びは見いだす。わたしの考える力が、

Gerüstet durch die Gotteskräfte

神々しい力を通して備えられ、

Die kräftig mir im Innern leben.

内において力強いわたしとして生きていることを。





以前にも引用させてもらいましたが、鈴木一博さんが以前、
日本アントロポゾフィー協会会報に掲載された『礎(いしずえ)のことば』から、
ここ2、3週間の『こころのこよみ』への大きな示唆をもらっています。

    精神
   こころ
   からだ


人は、この三つの次元の違うありようからなりたっています。

自分自身を顧みましても、
やはり、どちらかというと、
精神が上の方に、
からだが下の方にあり、
こころがその間に挟まっていることを感じます。

そして、この『こころのこよみ』は、
その名の通り、
真ん中の、
「こころ」がそれによって活き活きと生きることを願って書き記されています。

3月も半ばになろうかというこの時期、
陽の光がだんだんと明るく、暖かく、長く、わたしたちを照らし出すとともに、
地から、少しずつ少しずつ、
草木の力が繰りなしてきているのを見てとることができますね。
そして、「啓蟄」といわれるように、
虫たちをはじめとする動く生き物たちも地の下から、水の中から這い出してきます。

わたしたち人は、どうでしょうか。

人においても、
近づいてきている春の陽気にそそられて、
からだもこころも動き出そうとしていないでしょうか。

世の、春に近づいていく繰りなしが、
まずは、下のからだへの蠢き、繰りなしを誘い出し、
感官へのそのような働きかけが、
真ん中のこころを動かそうとしていないでしょうか。

その動きこそが、喜びにもなりえます。


以下、鈴木さんの文章からの引き写しなのですが、
その「精神の想い起こし、精神の慮り、精神の見はるかし」に、
まさにリアリティーを感じます。


こころというものは、
常にシンパシーとアンチパシーの間で揺れ動いています。

しかし、人は、そのシンパシー、アンチパシーのままにこころを動かされるだけでなく、
その間に立って、
そのふたつの間合いをはかり、
そのふたつを引き合わせつつ、
バランスを保ちつつ、
静かなこころでいることもできます。

むしろ、そうあってこそ、こころというものをわたしたちは感じとることができます。


そのこころの揺れ動き、そしてバランスは、
からだにおける心臓と肺の張りと緩みのリズムとも織りなしあっています。

こころのシンパシー、アンチパシーとともに、
心拍は高まりもしますし、低まりもします。
また、呼吸というものも、そのこころのふたつの動きに左右されます。
吐く息、吸う息のリズムが整ったり、乱れたりします。

そして、心拍の脈打ちと脈打ちの間、
吐く息、吸う息の間に、
静かな間(ま)をわたしたちは感じとることができます。

その静かな間(ま)を感じとってこそ、わたしたちは、
リズムというもの、時というものをリアルにとらえることができます。


そして更に、
こころにおいて、シンパシーとアンチパシーとの間で生きつつ、
からだにおいて、心と肺のリズムの間で生きつつ、
わたしたちは、世というものとの間においても、
リズミカルに、ハーモニックに、調和して生きていく道を探っていくことができます。

荒れた冬の海を前にしているときと、
茫洋として、のたりのたりと静かに波打っている春の海を前にしているとき。

峨々たる山を前にしているときと、
穏やかな草原を前にしているとき。

いまにも雨が降り出しそうな、どんよりとした曇り空の下にいるときと、
晴れ晴れとした雲ひとつない青空を仰ぐとき。

しかめ面をしている人の前にいるときと、
にっこりしている人の前にいるとき。

そして、春夏秋冬という四季の巡りにおいて、
それぞれの季節におけるからだとこころのありようの移りゆき。

世というものと、
わたしたちとの間においても、
ハーモニーを奏でることができるには、
そのふたつが、
ひとりひとりの人によって、
はからわれ、釣り合わされ、ひとつに響き合ってこそです。

世とわたし。
そのふたつの間を思いつつ、はかりつつ、響き合わせる。
その精神の慮(おもんぱか)りを積極的にすることによって、
人は、世に、和やかに受け入れられます。

人と世は、ひとつに合わさります。

そして、人は、歌います。
春夏秋冬、それぞれの歌を歌います。

慮る(besinnen)は、歌う(singen)と語源を同じくするそうです。

こころにおける精神の慮り、それは歌心だ、と鈴木さんは述べています。

    人のこころ!
   あなたは心と肺のときめきに生き
   心と肺に導かれつつ、時のリズムを経て
   あなたそのものを感じるにいたる。
   行われたし、精神の慮りを
   こころの釣り合いにおいて。
   そこにては波打つ世の
   成りつ為しつが
   あなたの<わたし>を
   世の<わたし>と
   ひとつに合わせる。
   もって、あなたは真に生きるようになる
   人のこころの働きとして。         『礎のことば』より



春の訪れとともに世のふところから、
下のからだを通して、感官への輝きを通して、
こころに、繰りなす喜び。

そして、
上の精神からの考える力。
その考える力は、
冬のクリスマスの時期を意識的に生きることによって、
神々しい力によって備えられています。
その考える力によって、
こころにもたらされる力強い<わたし>。

世とからだを通しての下からの繰りなしによって、
こころに生まれる喜びという情を、
上の精神からやってくる考える力が支えてくれます。

この下からと上からのハーモニックな働きかけによって、
真ん中のこころに、
喜びが生まれ、育っていきます。

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2012年03月05日

こころのこよみ(第46週) 〜行われたし、精神の想い起こしを〜

Die Welt, sie drohet zu betäuben 

世、それはいまにもぼやかそうとする、

Der Seele eingeborne Kraft;

こころのひとり生みの力を。

Nun trete du, Erinnerung,

だからこそ、想い起こせ、

Aus Geistestiefen leuchtend auf 

精神の深みから輝きつつ。

Und stärke mir das Schauen,

そして観ることを強め、

Das nur durch Willenskräfte 

意欲の力を通して、

Sich selbst erhalten kann.

おのれを保つことができるように。




ひとり生み」とは、何でしょうか。

ヨハネ福音書講義の第四講にそのことばが出てきます。

かつて福音書が書かれた頃、
「ふたり生み」というのは、父と母の血の混じりあいから生まれた者のこと、
「ひとり生み」というのは、そのような血の混じりあいから生まれた者でなく、
神の光を受け入れることによって、
精神とひとつになった者、
精神として生まれた者、
神の子、こうごうしい子のことでした。

人びとの多くは、「わたし」という人のための下地をすでに備えながらも、
聖書に記されるところの「光」をまだ受け入れませんでした。

「群れとしてのわたし」のところにまでは「光」は降りてきていましたが、
いちいちの人はまだ受け入れていませんでした。

それは、おらが国、おらが村、おれんち、そのような意識が、
ひとりひとりの人に当たり前のように強くかぶさっていた、ということでしょう。

しかし、わずかな者たちながら、「光」を受け入れた者たちは、
その「光」を通してみずからを神の子、「ひとり生みの子」となしました。

そのような人のことを、この国では何と呼んだのでしょうか。
「覚者」、「善知識」でしょうか。
これらはきっと仏教からのことばですね。
柳田國男で、「大子(おおいこ)、すなわち神の長子」ということばも、
『新たなる太陽』の中に読むことができます。

物の人がふたり生み、
精神の人がひとり生みです。

そして、キリスト・イエスこそは、
その「光そのもの」、
もしくは「光」のおおもとである「ことばそのもの」として、
「父のひとり生みの息子」として、
肉のつくりをもってこの世の歴史の上に現れました。

  ことば(ロゴス)、肉となれり

彼こそは、
ひとりひとりの人に、こよなく高く、ひとりの人であることの意識、「わたしはある」を、
もたらすことを使命とする者でした。

わたしたちが、その「ひとり生みの力」を想い起こすこと、
それは、キリスト・イエスの誕生と死を想い起こすということです。

そして、わたしたちひとりひとりの内なる「わたしはある」を想い起こすことです。

それは、日々のメディテーションによって生まれる、
精神との結びつきを想い起こすことであります。

目で見、耳で聞いたことを想い起こすことに尽きない、
精神の覚えを想い起こすことです。

その想い起こしがそのようにだんだんと深まっていくことによって、
人は、
「わたしはある」ということ、
「みずからが神と結ばれてある」ということ、
みずからの「わたし」が、神の「わたし」の内にあるということ、
そのことを確かさと安らかさをもってありありと知る道が開けてきます。

「想い起こす」という精神の行為は、
意欲・意志をもって、考えつつ、いにしえを追っていくということです。

普段の想い起こすことにおいても、
頭でするのみでは、その想いは精彩のないものになりがちですが、
胸をもって想い起こされるとき、
それはメロディアスに波打つかのようにこころに甦ってきます。

さらに手足をもって場に立ちつつ、振舞うことで、
より活き活きと、みずみずしく、深みをもって、想いが甦ってきます。

故郷に足を運んだ時だとか、
手足を通して自分のものにしたもの、技量となったものを、いまいちどやってみる時だとか、
そのように手足でもって憶えていることを手足を通して想い起こすかのようにする時、
想いが深みをもって甦ります。

そして、そのような手足をもっての想い起こしは、
その人をその人のみなもとへと誘います。

その人が、その人であることを、想い起こします。

その人のその人らしさを、想い起こします。

例えば、
この足で立ち、歩くことを憶えたのは、生まれてから一年目辺りの頃でした。
その憶えは、生涯、足で立つこと、歩くことを通して、想い起こされています。
その人が、その人の足で立ち、歩くことを通して、
その人の意識は目覚め、その人らしさが保たれます。

だから、
年をとって、足が利かなくなることによって、
その人のその人らしさ、こころの張り、意識の目覚めまでもが、
だんだんと失われていくことになりがちです。

手足を通しての想い起こし、
それは、意欲の力をもってすることであり、
人を活き活きと甦らせる行為でもあるのです。

そして、それはメディテーションにも言えることなのです。

  行われたし、精神の想い起こしを

 もって、あなたは真に生きるようになる、まこと人として、世のうちに
                             (『礎のことば』)



メディテーションによる想い起こしは、
手足による想い起こしに等しいものです。

メディテーションとは、意欲をもっての厳かで真摯な行為です。

毎日の行為です。

「ひとり生みの力」を想い起こすこと、
それは、わたしの「わたし」が、
神の「わたし」の内に、
ありありとあること、
「わたしのわたしたるところ」、
「わたし」のみなもと、
それを想い起こすことであります。

世に生きていますと、
その「ひとり生みの力」をぼやかそうとする機会にいくらでも遭います。

世は、ふたり生みであることから生まれる惑いという惑いをもたらします。

だからこそ、勤しみをもって、想い起こせ」です。

「惑いという惑いを払って、想い起こせ」です。

想い起こされたものをしっかりとこころの目で観ること、
もしくは想い起こすという精神の行為そのものをもしっかりと観ること、
それがつまり、
観ることを強める」ということです。

それはきっと、手足に生きることに等しいような、
意欲の力を通してなされることですし、
その意欲の力があってこそ、
人は、「おのれを保つことができる」、
おのれのみなもとにあることを想い起こすことができるのでしょう。


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2012年02月27日

こころのこよみ(第45週) 〜メディテーションのプロセス〜

Es festigt sich Gedankenmacht

考える力が強まる、
           
Im Bunde mit der Geistgeburt,

精神の生まれとの結びつきの中で。
            
Sie hellt der Sinne dumpfe Reize

それは感官へのおぼろげなそそりを

Zur vollen Klarheit auf.

まったき明らかさへともたらす。      
          
Wenn Seelenfülle

こころの満ち足りが
                 
Sich mit dem Weltenwerden einen will,

世の繰りなしとひとつになりたいのなら、
         
Muß Sinnesoffenbarung 

きっと感官への啓けは、
                
Des Denkens Licht empfangen.

考える光を受けとめる。




シュタイナーが語るところの「メディテーション」とは、
「見遣りつつ追って考えること」です。

そこには、
普段に感じる共感(シンパシー)にも反感(アンチパシー)にも左右されずに、
ひたすらに、
ある考えを見遣りつつ追って考えること、
「安らかな考えの仕事」です。

それは、きっと、強いみずからの意欲によって導かれなければ、
なりたたない内なる行為です。

強い意欲をもってしなければ、
すぐに、他の考えが混じり込んだり、
シンパシーやアンチパシーに巻き込まれて、
行くべき考えの筋道から逸れて行ってしまいます。

その繰り返すメディテーションによって、こころが強く鍛えられます。

 考える力が強まる

見遣りつつ追って考えられるその考えは、
浮かんでくる闇雲な考えではなく、
明らかで、鋭く、定かなつくりをもった考えを素材とします。

アントロポゾフィーによる精神科学も、そのような考えを、
『いかにして人が高い世を知るにいたるか』をはじめとするいくつかの文献を通して、
提示してくれています。

そのようなメディテーションによって、
その人に、芯からのなりかわりが生じてくる。

その人が現実について、まったく新たな想いをつくりはじめる。

ものごとというものごとが、その人にとって異なる値をもちはじめる。

そう、先の書にあります。

人は、人生の半ばにおいても、生まれ変わることができるのではないか。

人との出会い、人との語り合い、人との衝突、思いもかけない出来事、
その他様々なことによって、
人はみずからをそのつどそのつど新しく生まれ変わらせることができるのではないでしょうか。

そして、出来事が起こる前から、
前もって、
自分から、
精神を生み出すこともしてのけることができる。

メディテーションをしていく中で、そう、実感します。

その精神の誕生を祝うのが、クリスマスですし、
誰に言われるまでも無い、自分からの精神の出産は、
一年のいつと決まっているわけではなく、
メディテーションをしつつ、人は、毎日をクリスマスにもなしえます。

  メディテーションは、
 人というものの、
 とわに滅びない核を知ること、
 観ることへと人を導く道である。


メディテーションをしていく内に、
だんだんと、こころの感官、精神の感官へ、そそりが及んできているのを、
かすかに、おぼろげに、感じてきます。

そして、メディテーションによって強められる考える力が、
それら、感官へのおぼろげなそそりに、明らかさをもたらしていく。

そのプロセスが、今週の『こころのこよみ』に記されてあります。

そのような、だんだんと生じてくる、感官へのおぼろげなそそりは、
明らかなものになってゆくほどに、
こころを満ち足らせます。

そして、そのこころの満ち足りは、
自分だけの満ち足りに尽きずに、
人との関わり、世との関わりにおいてこそ、
本当の満ち足りになるはずです。

感官へと及んでいるおぼろげなそそりに、
強められた考えることを通して、
ますます明らかな光を当てていくことによって、
そのそそりを、ますます啓いていくことになります。

こころへの啓け、感官への啓けは、
考えの光を当てることによって、
ことばにすることができ、
人と人とのあいだに生きはじめます。

それでこそ、こころの満ち足りが、
世の繰りなしとひとつになりゆきます。

  こころの満ち足りが
                 
 世の繰りなしとひとつになりたいのなら、
         
 きっと感官への啓けは、
                
 考える光を受けとめる。



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2012年02月19日

こころのこよみ(第44週) 〜ひとりの人〜 

Ergreifend neue Sinnesreize

新しい感官へのそそりに捉えられ、

Erfüllet Seelenklarheit,

こころに明らかさが満ちる。

Eingedenk vollzogner Geistgeburt,

満を持して精神が生まれたことを念う。

Verwirrend sprossend Weltenwerden

世の繰りなしが、絡みあいながら芽生える、

Mit meines Denkens Schöpferwillen.

わたしの考えつつ創りなす意欲とともに。




2月も半ばを過ぎて、
空気の冷たさはいっそう厳しくなってきているのですが、
陽の光の明るさが増してきていることが感じられますね。

わたしたちの感官に、まず、訴えてくるのは、
その陽の光です。

冬から春への兆しを、わたしたちは何よりもまず、
陽の光のありように感じ取ります。

しかし、現代を生きているわたしたちは、
その外なる陽の光が明るさを増してきていることを感じはしても、
それ以上の何かを感じることはほとんどないのではないでしょうか。



昔の人は、
その陽の光に、あるものを感じ取っていました。

それは、人を、ひとりの人とする力です。

太陽を見上げたときに、次のような情を強く感じました。

「この天の存在から、
 光とともにわたしたちの内に、
 わたしたちを暖め、
 わたしたちを照らしながら、
 わたしたちに染み渡り、
 わたしたちひとりひとりをひとりの人とするものが流れ込んでくる」
(『人の生きることにおける、引き続くことと繰りなすこと 1918年10月5日ドルナッハ』より)


しかし、だんだんと、そのような情と感覚は失われてきました。

陽の光を通して感じていた神からの叡智がだんだんと失われてきたのです。

そして人は、自分の周りの事柄に対しては知識を増やしてはいきましたが、
ますます、自分は何者か、自分はどこからやってき、どこへ行くのかが、
分からなくなってきたのです。

自分自身こそが、ひとつの謎になってきたのです。

そのとき、
ゴルゴタのことが起こりました。

もはや、物質としての太陽の光からは、
わたしたち人をひとりの人とする力はやってきません。

しかし、
キリストがこの世にやってき、
さらにゴルゴタのことが起こることによって、
もはや外の道ではやってくることができない力、
人の最も内なる深みから、精神から、
自分をひとりの人とする力が立ち上がってくる可能性が開けました。

わたしは、世の光である」。

物質の太陽の光からでなく、
精神の光から、
みずからをひとりの人として捉える力がふたたび、人にもたらされました。

わたしたちは、
2月の明るくなりゆく陽の光からのそそりとともに、
精神的な観点からも、内なる陽の光からのそそりを捉えてみましょう。

そうすることから、きっと、わたしたちは、
みずからの出自を改めて明らかさとともに想い起こすことができます。
「わたしは、ひとりの<わたし>である」と。
「わたしは、そもそも、精神の人である」と。
「<わたし>は、ある」と。

キリスト、そしてゴルゴタのことの意味。

わたしたちは、そのことを、「いま、想い起こす」「念う」ことができます。

新しい感官へのそそりに捉えられ、
 こころに明らかさが満ちる。
 満を持して精神が生まれたことを念う


そして、
明るさを増してきている陽の光によって、
外の世が、繰りなしてきます。
絡みあいながら、芽生えながら。

しかし、わたしたちは、
秋から冬の間に、まぎれなき考える力を内において繰りなしてきました。

考える力には、意欲が注ぎ込まれてこそ、
まぎれなき考える力となります。

考える力に、創りなす意欲が注ぎ込まれてこそ、
人はまぎれなき考える力において、自由になります

そして、さらに、
外の世の繰りなしに、
内の世の繰りなしを重ねることによってこそ、
わたしたちは、みずから自由への道を開いていくことができます。

それは、日々、自分に向かってやってくるものごとのひとつひとつを、
自分に対してのメッセージとして受けとり、考えていく
そして振舞っていくことによって、
開けてくる道です。

それは、ひとりの人としてのわたしを自由へと導いていきます。



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2012年02月13日

こころのこよみ(第43週) 〜無理解と憎しみに抗して〜

In winterlichen Tiefen

冬の深みにおいて、

Erwarmt des Geistes wahres Sein,

精神のまことのありようが暖められ、

Es gibt dem Weltenschine

世の現われに、

Durch Herzenskräfte Daseinsmächte;

心の力を通してありありと力が与えられる。

Der Weltenkälte trotzt erstarkend

「世の冷たさに力強く立ち向かうのは、

Das Seelenfeuer im Menscheninnern.

人の内なるこころの炎」




いま、人と人は、どれほど分かり合えているでしょうか。

人と人との間に、無関心が、行き違いが、無理解が、
そして憎しみまでもが立ちはだかっている。

わたしたちは、そのようなあり方を「世の冷たさ」として辛く感じています。

その冷たさから我がこころを守ろうとして、
いっそう厚く重ね着をして、こころを閉ざします。

こころを閉ざした者同士がいくら出会っても、
求めている暖かさは得られそうにありません。

しかし、このあり方が、時代の必然なんだと、
もし知ることができれば、
何かを自分から変えていくことができるでしょうか。

15世紀以降、
人のこころのあり方が変わってきました。

意識のこころの時代です。

この時代において、まず、人のこころは冷たく、硬い知性に満たされます。

それは、すべてを、人までをも、
物質として、計量できるものとして、扱うことができるという知性です。

この時代において、この冷たく、硬い知性が人のこころに満ちてきたからこそ、
現代の文明がここまで発達してきました。

そして、文明が発達すればするほど、
人は、己が分からなくなってきます。
人というものが分からなくなってきます。
人というものは、からだだけでなく、こころと精神からもなりたっているからです。

だから、その冷たく、硬い知性を己のものにすることによって、
人は、人というものがわからなくなり、
他者との繋がりを見失ってしまうのです。

己の己たるところとの繋がりさえも見失ってしまうにいたります。

文明の発達を支える冷たい知性が、
冷たい人間観、人間関係を生み出しました。

そして、そのように繋がりが断たれることによって、
人は、自分が「ひとりであること」を痛みと共に感じるのです。

無意識に繋がっていた人との関係が断たれていく中で、
人はひとりであることに初めて意識的になり、
改めて、自分の意志で人との繋がりを創っていく力を、
わたしたちは育んでいく必要に迫られています。

むしろ、こう言った方がいいでしょう。
ひとりになれたからこそ、
そのような力を育んでいくことができるのです。

ひとりになることによって、
初めて、人と繋がることの大切さをしっかりと意識的に知ることができるのです。

だから、このような人と人との関係が冷たいものになってしまうことは、
時代の必然です。

なぜなら、繋がりとは、つけてもらうものではなく、
ひとり立ちした人と人とが分かち合い、語り合い、愛し合う中で生みだしていくものだからです。

そのような意識のこころの時代が始まって、すでに500〜600年経っています。

わたしたち人は、
そのように、いったん他者との関係を断たれることによって、
痛みと共に、冷たく、硬い知性と共に、
ひとりで立つことを習ってきたのです。

そして、そろそろ、ひとりで立つところから、
意識のこころの本来の力、
「熱に満ちた、暖かい知性」、
「頭ではなく、心臓において考える力」
「ひとり立ちして愛する力」を育んでいく時代に入ってきています。

他者への無関心、無理解、憎しみは、
実は、人が、からだを持つことから必然的に生じてきています。

硬いからだを持つところから、
人は冷たく、硬い知性を持つことができるようになり、
からだという潜在意識が働くところに居座っている他者への無理解、憎しみが、
こころに持ち込まれるのです。

ですから、これからの時代のテーマは、
そのような、からだから来るものを凌いで、
こころにおいて、
暖かさ、熱、人というものの理解、愛を、意識的に育んでいくことです。

世の冷たさに力強く立ち向うのは、人の内なるこころの炎」です。

その「内なるこころの炎」は、
キリストのこと、
ゴルゴタの丘の上で起こったこと

そのことを深みで感じつつ、深みで知りゆくことによって、
ますます意識的に燃え上がらせることができる。

そして、人と人との間に吹きすさんでいる無理解と憎しみという「世の冷たさ」に、
立ち向かう(ひとりで立って、ひとりで向かい合う)ことができる。

キリストのことを考えないで信じるのではなく、
キリストのことを考えて、想い、そして知りゆくこと。

意識のこころの時代において、人は、
そのようなキリスト理解をもって、
みずからのこころに愛と暖かさをもたらすことができる。

なぜなら、キリストの別の名は、「わたしは、ある」だからです。

シュタイナーは、いまから丁度100年前の1912年に、
この『こころのこよみ』を通して、
わたしたちのこれからのテーマを指し示してくれています。


posted by koji at 17:52 | 大阪 ☔ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月05日

こころのこよみ(第42週) 〜こころをこめてする仕事〜

Es ist in diesem Winterdunkel

この冬の闇に

Die Offenbarung eigner Kraft

みずからの力の啓けがある。

Der Seele starker Trieb,

こころからの強い求めがある。

In Finsternisse sie zu lenken

暗闇にそれらをもたらし、

Und ahnend vorzufühlen

そして予感する。

Durch Herzenswärme Sinnesoffenbarung.

心の熱を通して、感官が啓くことを。




まず、最後の行の、
心の熱を通して、感官が啓くこと」について書きます。

この『こころのこよみ』に沿いつつ一年の流れを生きていくうちに、
密やかですが、
メディテーションとコンセントレーションから生まれる力が、
こころに重なってきていることが感じられます。

そのこころに重なってきている力は、
さらに、
心(物質の心臓とエーテルの心臓の重なりあい)の働きを活性化させるように感じます。

そのことは、メディテーションとコンセントレーションによって、
体内の血が熱く流れ出すことを感じることをもって確かめられます。

物質の心臓は、物質のからだの中心を司る器官で、
血液の巡りによって活き活きと脈打っています。

エーテルの心臓は、人のエーテルのからだの中心を司る器官ですが、
愛の巡りによって活き活きと脈打ちます。
そしてそこから光が発し、熱が生まれます。

内に抱く考えが、愛を基にしたものならば、
その考えはエーテルの心臓を活き活きと脈打たせます。

そうでないならば、
その考えはその心臓を締め付けます。

活き活きと脈打つエーテルの心臓が光と熱をもって、
こころの働きという働きを促しだします。

その活性化されだしたこころの働きを通して、
ものが、よく見えだします。
よく聴こえはじめます。

そして、肉の目や耳には映らない、
こころのもの、他者の情や他者の考えがリアリティーをもって、
心臓で感じられるようになってきます。

きっと、その道は、人の情や考えだけでなく、
ものというもの、
例えば、
植物や動物の情、
地水風火の情や考えなどをも感じられることへと繋がっていくのでしょう。

頭の脳で理解するのではなく、
心臓で感じることができるようになってきます。

外なる感官だけでなく、
そのような内なる感官もが啓きはじめ、働きはじめます。



そして、
その啓かれるものを受けとることを通して、
わたしたちはどう振舞うことができるのでしょうか。

みずからの力の啓けとこころからの強い求め。
 それらを冬の暗闇にもたらす


その振る舞いは、
きっと、その人その人の仕事として、世の冬の暗闇に光をもたらすものです。

お金を稼ぐことが仕事をすることだという意味ではなく、
その人がこころをこめてすることこそが仕事であるとするならば、
わたしたちは、いま、いる場所で、
その仕事を始めることができるのではないでしょうか。



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