[こころのこよみ(魂の暦)]の記事一覧
- 2012/10/22 こころのこよみ(第29週) 〜コトバ第一ナリ〜
- 2012/10/16 こころのこよみ(第28週) 〜享受、消化、発信〜
- 2012/10/12 こころのこよみ(第27週) 〜予感に満ちた憧れ〜
- 2012/10/01 こころのこよみ(第26週) 〜ミヒャエル祭の調べ〜
- 2012/09/28 こころのこよみ(第25週) 〜頼りになるもの〜
- 2012/09/17 こころのこよみ(第24週) 〜闇、光を捉えざりき、されど〜
- 2012/09/10 こころのこよみ(第23週) 〜霧のとばり〜
- 2012/09/10 こころのこよみ(第22週) 〜さびしがらせよ閑古鳥〜
- 2012/09/10 こころのこよみ(第21週) 〜これまでにない稔りの力〜
- 2012/08/26 こころのこよみ(第20週) 〜バランスを取り戻せ〜
- 2012/08/21 こころのこよみ(第19週) 〜繰り返される勤しみ〜
- 2012/08/18 こころのこよみ(第18週) 〜葛藤を経て、衣を織る〜
- 2012/08/08 こころのこよみ(第17週) 〜閑さや岩にしみ入る蝉の声〜
- 2012/08/05 こころのこよみ(第16週) 〜黙ることのアクティビティー〜
- 2012/07/30 こころのこよみ(第15週) 〜魔法にかけられたような<わたし>〜
- 2012/07/24 こころのこよみ(第14週) 〜もの想いから抜け出す道〜
- 2012/07/18 こころのこよみ(第13週) 〜祈りというもの〜
- 2012/07/10 こころのこよみ(第12週) 〜子どもたちの歌声〜
- 2012/07/02 こころのこよみ(第11週) 〜何が留まるものなのか〜
- 2012/06/26 こころのこよみ(第10週) 〜お天道様が見ているよ〜
2012年10月22日
こころのこよみ(第29週) 〜コトバ第一ナリ〜
みずから考えることの光が、
内において力強く輝く。
世の精神の力の源から、
意味深く示される数々の験し。
それらはいま、わたしへの夏の贈りもの、
秋の静けさ、そしてまた、冬の希み。
Sich selbst des Denkens Leuchten
Im Innern kraftvoll zu entfachen,
Erlebtes sinnvoll deutend
Aus Weltengeistes Kräftequell,
Ist mir nun Sommererbe,
Ist Herbstesruhe und auch Winterhoffnung.
改めてこの夏を振り返って、
夏という季節を生きたことによって、世から、わたしは、何を、贈られたか。
それは、「ことば」であった。
「わたしはひとりである」という「ことば」だった。
いま、秋になり、外なる静けさの中で、
その「ことば」を活発に消化する時であることをわたしは感じている。
そして、来たる冬において、
その「ことば」は、血となり、肉となって、生まれ出る。
夏に受けとられ、
秋に消化された「ことば」が、
冬には、
「己のことば」、
「わたしの内なるひとり生みの子」、
「ことに仕える(わたしの仕事)」として世へと発信される。
そんなクリスマスへの希みがある。
夏に贈られた「ことば」があるからこそ、
この秋、わたしは、その「ことば」を基点にして、
自分の情を鎮めることができる。
自分の考えを導いていくことができる。
自分の意欲を強めていくことができる。
そして、冬へと、クリスマスへと、備えるのだ。
メディテーションをする上にも、
余計なことを考えないようにするために、
飛び回る鬼火のような考えや情を鎮めようとする。
しかし、いくら頑張ってみたところで、どうにも鎮まらない時がよくある。
そんな時、メディテーションのために与えられている「ことば」に沿い、
その「ことば」に考えを集中させていくと、
だんだん、おのずと、静かで安らかなこころもちに至ることができる。
「ことば」を先にこころに据えるのだ。
その「ことば」に沿うことによって得られる感覚。
日本人においては、
特に、万葉の歌を歌う頃から時代を経て、
「古今和歌集」の頃もさらに経て、
「新古今和歌集」が編まれた頃、
その「ことば」の感覚が、意識的に、先鋭的に、磨かれていたようだ。
歌を詠むこと、詠歌において、
「題」を先に出して、その「題」を基にして、まず、こころを鎮め、こころを整えて、
その後、歌を詠んだのである。
こころの想うままに歌を歌えた時代は、だんだんと、過ぎ去っていったのだ。
こころには、あまりにも、複雑なものが行き来していて、
それが、必ずしも、歌を詠むに適した状態であるとは限らない。
「詠歌ノ第一義ハ、心ヲシヅメテ、妄念ヲヤムルニアリ」
「トカク歌ハ、心サハガシクテハ、ヨマレヌモノナリ」
「コトバ第一ナリ」
(本居宣長『あしわけ小舟』より)
「ことば」がこころの内に据えられてあるからこそ、
「ことば」という手がかりがあるからこそ、
わたしたちは、みずからのこころのありようを手の内に置くことができるようになる。
わたしたち日本人は、長い時を経て、
歌を詠むことを通して、
「ことば」の世界に直接入り、
「ことば」の力に預かりながら、
己のこころを整え、情を晴らし、問いを立て、明日を迎えるべく意欲をたぎらしていた。
秋になり、
わたしたちは夏に贈られた「ことば」を通して、
妄念を鎮め、こころを明らかにしていくことができる。
そうして初めて、
「みずから考えることの光が、内において力強く輝く」。
歌を何度も何度も口ずさむように、
メディテーションを深めていくことが、
来たる冬への備えになるだろう。
2012年10月16日
こころのこよみ(第28週) 〜享受、消化、発信〜
わたしは、内において、新しく甦ることができる。
己であることの拡がりを感じる。
そして、力に満ちた考えの輝きが、
こころの太陽の力から、
生きることの謎を解いてくれる。
いくつもの願いを満たしてくれる。
これまで希みのつばさは、弱められていたのに。
Ich kann im Innern neu belebt
Erfühlen eignen Wesens Weiten
Und krafterfüllt Gedankenstrahlen
Aus Seelensonnenmacht
Den Lebensrätseln lösend spenden,
Erfüllung manchem Wunsche leihen,
Dem Hoffnung schon die Schwingen lähmte.
アントロポゾフィーの学びにおいて、
そして、この『こころのこよみ』を通して、
季節の巡り、「年のいのち」の内に入り込んで、感じていくこと、考えていくこと。
そのことによってわたしたちは、
「心臓が考えを持ち始める」ということに少しずつリアリティーを感じだす。
それは、「わたし」の密やかな深まり、「わたし」の秘儀、と言ってもいい。
今週のこよみの各行において、その「わたし」の秘儀を言い表すことばが連ねられている。
「内において、新しく甦る」
「己であることの拡がり」
「力に満ちた考えの輝き」
「こころの太陽の力」
その「内なるこうごうしさ」を、
わたしたちはこの『こころのこよみ』に沿って育もうとしている。
秋きぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる
(藤原敏行朝臣)
世の季節の移り変わりを敏く感じ取っていたわたしたち日本人は、
和歌のことばに沿って、
内なるこころの移り変わりをも敏く感じ取る訓練をしてきた。
外なるものとともに、内なるものをも、深く味わう。
その鋭敏な享受を通して、
わたしたちは、その享受したものの中にいつまでも留まっているのではなく、
それをアクティブに消化することができる。
そして、その消化を経て、わたしたちは、ものやことやこころのありさまをより深く「知る」。
感覚の享受から、内においてそれをアクティブに消化することへと進む。
さらに、
その消化し、稼がれた知を自分の中に溜め込むのではなく、
世に向けて、発信する。
そのアウトプットの仕方を学んでいく。
シュタイナーも『いかにして人は高い世を知るにいたるか』の「条件」の章で、
世に向けて己を気高くするためにこそ、学びというものがある、
と述べている。
享受し、消化し、発信していく。
この一連のこころの訓練を通して、
人は、「内なるこうごうしさ」、「わたしの秘儀」とはなんであるかを、だんだんと学び取っていく。
本居宣長は、そのこころの訓練を「もののあはれを知る」ことと言い、
その学びの粋を、紫式部による『源氏物語』に観た。
そこに、歌と物語がことばの芸術として活き活きと織りなされてある。
日本人が、人として、世にどう呼応し、どう向き合っているのか、
ということがありのままに活写されている。
そのようなことを宣長は言った。
心情のこころを育んできた時代において、
日本人は、和歌と『源氏物語』を、こころから愛し、それを詠み、読みこむことを通して、
こころの糧にしてきた。
そして、意識のこころの時代に入り、
宣長は、その享受への愛と、消化し発信していく勤しみを連動させていく学びのサイクルを、
日本人のものの学びのありようの粋として、意識的にことばに捉えた。
それを、「もののあはれを知る」ことと言った。
人が、内なる、みずからのこうごうしさを知ること。
「わたしの秘儀」にだんだんと通じていくこと。
その学びの連続が、きっと、外の世とのかかわりを新しくしてくれる。
2012年10月12日
こころのこよみ(第27週) 〜予感に満ちた憧れ〜
わたしというものの深みへと進みゆくほどに、
予感に満ちた憧れが呼び起こされる。
わたしはみずからを見てとりつつ、わたしを見いだす、
夏の太陽から贈られた萌しとして。
秋の調べの中で熱く息づく、
こころの力として。
In meines Wesens Tiefen dringen:
Erregt ein ahnungsvolles Sehnen,
Daß ich mich selbstbetrachtend finde,
Als Sommersonnengabe, die als Keim
In Herbstesstimmung wärmend lebt
Als meiner Seele Kräftetrieb.
人は、社会の中で生きていて、
他者とかかわりあいながら日々を送っている。
そこには、人の様々なこころの思いや情が走り、絡まっていて、
見えないものでありながら、
そのこころから発せられているものによって、
人は勇気をもらうこともあり、
生きる元気を失ってしまうこともある。
物質的に目に見える世界だけでなく、
そのようなこころの世を、人は、生きている。
そのような、こころの力が様々な趣きで入り乱れている中で、
人は、ともすると、眠ってしまう。意識を失ってしまう。麻痺してしまう。
自分が、一体、何をしにここに来ているのか、
何のために働いているのか、
本来、何を求めて生きているのか、
分からなくなってしまう。
だからこそ、いま、わたしは「目覚める」ことを大事にしたい。
自分が、一体、何をしにここに来ているのか、
何のために働いているのか、
本来、何を求めて生きているのか、
その都度、その都度、確認して、今日という日を生きたい。
秋という季節において、
わたしたち人は、この「目覚め」へと、促されている。
夏の太陽の光と熱を、
内なる光と熱にして、
毎日、「目覚めて生きろよ」と、世から促されている。
「ひとりのわたし」というものを自覚すればするほどに、
「わたしは、ひとりである」という考えを活き活きと深めていくほどに、
人は、きっと、目覚める。
そして、予感に満ちた憧れが呼び起こされる。
それは、この「わたし」は、「ひとりのわたし」であるからこそ、何かができる、
という予感であり、憧れだ。
何かを「する」ために、
わたしたち人は、この世に、降りてきたのではないか。
その「する」は、
ひとりひとり、どこまでも、己の裁量次第だ。
その「する」は、
誰かの真似でなくていい。
誰かがやれと言ったから、するのでない。
他者から認められる、認められない、ということも、大切なことではない。
この「ひとりのわたしがする」からこそ、値千金だ。
日々、世から与えられている仕事。
自分から創り出す仕事。(それも、とどのつまりは、世から与えられている)
ひとりひとりに与えられている仕事は、ひとつひとつ違うはず。
この「断想」でも、繰り返し、この芭蕉の句を掲げさせてもらっている。
秋深き隣は何をする人ぞ
「隣」とは、
わたしと同じく、
「ひとりのわたし」である「隣人」であり、
それは、<わたし>でもあろう。
人は、静かな時を持たなければならない。
2012年10月01日
こころのこよみ(第26週) 〜ミヒャエル祭の調べ〜
自然、その母のようなありよう、
わたしは、それを、意欲において担う。
そして、わたしの意欲の火の力、
それが、わたしの精神の萌しのかずかずを鍛える。
その萌しのかずかずが、みずからの情を生む、
わたしをわたしにおいて担うべく。 (鈴木一博訳)
Natur, dein mütterliches Sein,
Ich trage es in meinem Willenswesen;
Und meines Willens Feuermacht,
Sie stählet meines Geistes Triebe,
Daß sie gebären Selbstgefühl
Zu tragen mich in mir.
先週の『こころのこよみ』で、
「内なるこころの光と熱。これほど、頼りになるものがあるだろうか。」と書いた。
この頼りになるものを、
わたしたちひとりひとりの人にもたらそうとしてくれている精神存在がいる。
そうシュタイナーは語っている。
大いなる精神存在、ミヒャエル。
この存在を、自分自身のこころとからだに働きかけてくるものとして捉えてみながら、
今週の『こよみ』を読んでみる。
口ずさんでみる。
息遣いも活き活きと、声を解き放ちながら唱えてみる。
何度もこころとからだで味わってみる。
意欲をもって、ことばとつきあってみる。
そうすると、
他の何よりも最も近く親しい「自然」として、
我がこころとからだを、
まさしく、「わたしは、意欲において担っている」と感じることができる。
その意欲とは、わたしのこころの熱である。熱心さであり、こころざしの顕れである。
その「意欲の火の力」があってこそ、
その火を、わたしが、燃やすからこそ、
わたしに降り注いでくる「アイデア・イデー・考え」というかずかずの光が、
「精神の萌しのかずかず」が、
だんだんと鍛えられる。
そして、
上からの光(考え)と、
下からの熱(意欲)とを、
織りなしあわせて、
「わたしは、ひとりであること」、
「わたしは、わたしであること」、
「みずからの情」を稼ぐことができる。
わたしという「ひとりの人」は活き活きと甦ってくる。
恐れや不安や物思いなどを凌いで、
「ひとりの人」として、
この世に立ち、
目の前にあることにこころから向かっていくことができる。
光としての考えが、
こころを暖め、熱くするものへと、そして実行可能なものへと、鍛えられていく。
そのように、自分のこころとからだで、
『こころのこよみ』のことばをひとつひとつ味わっていくと、
シュタイナーが多くの著書や講演で語った精神存在を、
リアルに親しく感じることができる通路が開かれていくし、
そうしていくことによって、
実人生を安らかな確かなものとして刻んでいくことができると実感する。
これからの秋から冬にかけて、
外なる闇と寒さがだんだんと深まってくる。
そしてややもすれば、闇と冷たさがこころにまで侵食してくる。
そんな時に、
内なるこころの光と熱を、
ひとりひとりの人がみずからの力で稼ぐことができるようにと、
ひとりひとりの人と共に一生懸命働いているのが、
ミヒャエルだ。
一方、闇と寒さを人にもたらす者、それがミヒャエルの当面の相手、アーリマンだ。
人を闇と寒さの中に封じ込めようとしているそのアーリマンの力の中に、
剣の力をもって、鉄の力をもって、切り込み、
光と熱を人のこころにもたらす助けを、秋から冬の間にし、
毎年毎年、ひとりひとりの人が、
キリスト・イエスが生まれるクリスマスを、
こころに清く備え、整えるのを助けるのが、
ミヒャエルだ。
シュタイナーは『こころのこよみ』を通して、
ことばの精神の力を四季の巡る世に打ちたてようとした。
祝祭を、世における大いなる時のしるしとして、
ひとりひとりの人がみずからのこころにおいて新しく意識的に創っていくことができるようにと、
『こころのこよみ』を書いた。
「こよみ」とは、
事(こと)をよむことであり、
言(ことば)をよむことであり、
心(こころ)をよむことである。
意識的に四季を生きること。
四季を『こころのこよみ』とともに生きること。
それは、地球をも含みこむ大いなる世とともに精神的に生きるという新しい生き方を、
わたしたちが摑む手立てになってくれるだろう。
また、みずからの狭い枠を乗り越えて、
こころの安らかさと確かさを取り戻す手立てにもなってくれるだろう。
2012年09月28日
こころのこよみ(第25週) 〜頼りになるもの〜
わたしはいま、わたしを取り戻し、
そして、輝きつつ、内なる光が拡がりゆく、
空間と時の闇の中へと。
眠りへと自然がせきたてられるとき、
こころの深みはきっと目覚めている。
そして、目覚めつつ、太陽の熱を担いゆく、
寒い冬のさなかへと。
Ich darf nun mir gehören
Und leuchtend breiten Innenlicht
In Raumes- und in Zeitenfinsternis.
Zum Schlafe drängt natürlich Wesen,
Der Seele Tiefen sollen wachen
Und wachend tragen Sonnengluten
In kalte Winterfluten.
立ち上がり、陽の光と熱を浴びながら歩き回る、夏の彷徨が終わって、
立ち止まり、内なるこころの光と熱を発していく秋が始まった。
内なるこころの光と熱。
これほど、頼りになるものがあるだろうか。
これがあれば、
秋から冬にかけて、
たとえ外の世がその歩みをだんだんと速め、
まるで眠りへと急きたてられていくように、いのちを失っていっても、
内なるこころは、きっと、
「ひとりのわたし」として、
目覚めていることができる。
夏にいただいた陽の熱の大いなる働きを、
内なるこころの熱として、
来たる冬の寒さのさなかへも、
注ぎ込んでいくことができる。
さあ、これからが、仕事の季節だ。
2行目から3行目の
「そして、輝きつつ、内なる光が拡がりゆく、空間と時の闇の中へと」と、
6行目から7行目の
「そして、目覚めつつ、太陽の熱を担いゆく、寒い冬のさなかへと」が、響き合っている。
ミヒャエル祭を前に、
何度もこの週の『こころのこよみ』を口ずさんでいくことで、
内なる光と熱を実感していこう。
2012年09月17日
こころのこよみ(第24週) 〜闇、光を捉えざりき、されど〜
みずからを絶えず創り上げつつ、
こころは己のありように気づく。
世の精神、それは勤しみ続ける。
みずからを知ることにおいて、新しく甦り、
そして、こころの闇から汲み上げる、
己であることの意欲の稔りを。
Sich selbst erschaffend stets,
Wird Seelensein sich selbst gewahr;
Der Weltengeist, er strebet fort
In Selbsterkenntnis neu belebt
Und schafft aus Seelenfinsternis
Des Selbstsinns Willensfrucht.
「みずからを絶えず創り上げつつ、こころは己のありように気づく」
これは、特に現代において、ひとりひとりが担っているテーマではないだろうか。
そのテーマとは、
わたしたちひとりひとりが、他に寄りかからず、
みずからの足で立つ、自立する、ということである。
「論語」において孔子が言うところの「三十にして立つ」という、その「立つ」である。
その「立つ」とは、「こころが己のありように気づく」ことであり、
わたしが「ひとりのわたし」であること、
「ひとりぼっち」「ひとりきり」であることに目覚めるということだ。
先々週の『こよみ』からわたしの中で生まれたことばとして、
「『ひとりであること』の自覚の上にこそ、キリストは寄り添ってくださる」と書かせてもらった。
その「ひとりのわたし」の自覚をすべての人にもたらそうとしているのが、
いまもって地球の精神、世の精神として働き続けているキリストであり、
キリストは、ひとりひとりの人の内なる闇に、
「ひとりのわたし」であることの光をもたらそうとしている。
「世の精神(キリスト)、それは勤しみ続ける」
洗礼者ヨハネは、みずからを「ひとりにて、呼ぶ者の、声」だと名のった。
彼は、「ひとりのわたし」のもたらし手であるキリストがこの世にやってくるのを知っていた。
そのためには、みずからが、血の絆、民族の絆を超えた「ひとりのわたし」であることを、
他の人々に先駆けて知っていた。
そして、彼は、「呼ぶ」者であった。
キリストをこの世に呼ぶ人であった。
「ひとりのわたし」のもたらし手であるキリストを、
「ひとりのわたし」を自覚しているみずからを通して呼び入れる人であった。
さらに、彼は、「声」であった。響きであった。
その声は肉の耳には届かぬ響きであり、
声ならぬ声であり、
全身全霊を賭したいのちの漲りからいずる声であり、
エーテルの動きにみずからの使命を響かせていた。
わたしたちは、皆、いずれ、洗礼者ヨハネに倣い、
各々、「ひとりのわたし」の内にこそ、キリストを呼び、キリストを迎え入れる。
たとえ、
「闇、光を捉えざりき」「こころの闇が、光を捉えるのに備えがなされていない」期間が長く続こうとも、
きっと、人は、だんだんと、
「みずからを知ること(ひとりのわたしであることの自覚)において、新しく甦り」、
だんだんと、
「己であること(ひとりのわたしであること)の意欲の稔りを、こころの闇から汲み上げ」ていく。
洗礼者ヨハネは、わたしたち人の先駆けとしてのシンボルである。
2012年09月10日
こころのこよみ(第23週) 〜霧のとばり〜
秋めいて、和らぐ、
感官へのそそり。
光の顕れの中に混じる、
ぼんやりとした霧のとばり。
わたしは空間の拡がりの中で観る、
秋、そして冬の眠り。
夏はわたしに、
みずからを捧げてくれた。
Es dämpfet herbstlich sich
Der Sinne Reizesstreben;
In Lichtesoffenbarung mischen
Der Nebel dumpfe Schleier sich.
Ich selber schau in Raumesweiten
Des Herbstes Winterschlaf.
Der Sommer hat an mich
Sich selber hingegeben.
ゆっくりと和らいでくる陽の光。
そして、秋が日一日と深まりゆくにつれて、
過ぎ去った夏と、
これからやってくる冬とのあいだに、
立ちかかるかのような、
霧のとばり、「秋霧」。
その「とばり」によって、
戸のこちら側と向こう側をわたしたちは改めて観ることができる。
夏の輝きと闇を。
そして、これからの冬の闇と輝きを。
こころのこよみ(第22週) 〜さびしがらせよ閑古鳥〜
世の拡がりから来る光が、
内において力強く生き続ける。
それはこころの光となり、
そして、精神の深みにおいて輝く。
稔りをもたらすべく、
世の己から生まれる人の己が、
時の流れに沿って熟していく。
Das Licht aus Weltenweiten,
Im Innern lebt es kräftig fort:
Es wird zum Seelenlichte
Und leuchtet in die Geistestiefen,
Um Früchte zu entbinden,
Die Menschenselbst aus Weltenselbst
Im Zeitenlaufe reifen lassen.
外に輝いていた陽の光が、
いつしか、
こころの光になっている。
そのこころの光は、
萌しであり、
これから、だんだんと、長けゆく。
その光は、
「ひとりぼっち」であることの自覚の光でもあった。
そして、「ひとりぼっち」であることの自覚は、
だんだんと深まり、
これから、だんだんと、熟してゆく。
その成熟は、
キリストの誕生を我がこころに迎えるための、なんらかの備えになる。
なぜなら、キリストの誕生とは、
「ひとり生みの子ども」
「神の子」
「ひとりであることのもたらし手」
「世の己から生まれる人の己」の誕生であるのだから。
憂きわれをさびしがらせよ閑古鳥 芭蕉
人は、もし、鬱々としたもの思いに沈んでいるのなら、
「寂しさ」という感情にまで辿りつくことで、
「寂しさ」「ひとりぼっちであることの自覚」にまで徹してみることで、
鬱々としたもの思いを突き抜けることができる。
そして、この「ひとりであること」の自覚の上にこそ、
キリストは寄り添ってくださるのかもしれない。
そして、「ひとりであること」の自覚を持つひとりとひとりが出会うところにこそ、
精神は息づく。
こころのこよみ(第21週) 〜これまでにない稔りの力〜
わたしはこれまでにない稔りの力を感じる。
その力はしっかりとわたしにわたしみずからを与えてくれる。
わたしは感覚する、萌しが熟し、
そして予感が光に満ちて織りなされるのを。
内において、己の力として。
Ich fühle fruchtend fremde Macht
Sich stärkend mir mich selbst verleihn,
Den Keim empfind ich reifend
Und Ahnung lichtvoll weben
Im Innern an der Selbstheit Macht.
「これまでにない稔りの力」
夏の間、こころにおける葛藤を経て稼がれた、新しい感じ方、考え方、ものの捉え方。
夏が過ぎ行こうとしている、いま、
それらがいよいよこころに根付いてきていることを感じる。
夏は、豊かな自然の輝きが人に語りかけてくるときであったし、
人と人とが出会い、交わる季節だった。
しかし、みずからが孤独であることに思わず出くわしてしまうのは、
ひとりきりであるときよりも、
そんな人と人との間にいるとき、外の世が輝いているときかもしれない。
みずからが孤独であることに出くわして、
初めて人は孤独であることの意味を見いだそうと葛藤し始める。
そして葛藤するということは、みずからに問うということでもある。
みずからに問う人にこそ、答えはやってくる。
その自問自答の繰り返しが、
その「わたしみずからの力」「己の力」としての「稔りの力」をわたしにもたらしてくれる。
その力は、秋という新しい季節における、
みずからが生まれ変わることへの予感、
みずからが甦ることへの予感をゆっくりとこころの内に織りなしていく。
2012年08月26日
こころのこよみ(第20週) 〜バランスを取り戻せ〜
わたしはいま、わたしのありようをこう感じる、
世にあるものから遠ざかれば、
みずからにおいてみずからが消え失せ、
そして、己の基の上にのみ立つならば、
みずからにおいてみずからをきっと殺してしまう。
So fühl ich erst mein Sein,
Das fern vom Welten-Dasein
In sich sich selbst erlöschen
Und bauend nur auf eignem Grunde
In sich sich selbst ertöten müßte.
先週の『こころのこよみ』において記されていたこと。
それは、この夏にこころに降りてきた新しい考えを伝える「世のことば」を、
何度も何度も抱きしめるかのようにこころに想い起こす作業だった。
丁度100年前、シュタイナーはその作業に勤しんでいたのだろう。
そんな作業に取り組んでいると、
彼でさえ、
ややもすると、
その降りてきた考え、「世のことば」そのものに、
少し縛られてしまうような感覚も生まれざるをえなかったのであろうか。
この週の『こよみ』においては、
もしかしたら、
その縛りから生まれるバランスの崩れを取り戻そうとするような内容かもしれない。
実際、わたしもそうなのである。
この『こよみ』を辿っていて、
「これは今の自分のことをかなり精確に言ってくれているなあ」
とよく感じる。
世にあるものから遠ざからず、
己の基の上にのみ立たずに生きていくには、
わたしは、さあ、どうしていけばいい?
そんな問いに、いま、直面しているのである。
この「こよみ」は、本当に、『こころの』『こよみ』である。
2012年08月21日
こころのこよみ(第19週) 〜繰り返される勤しみ〜
密やかさに満ちて新しく受けとめたものを
憶いとともに抱きしめる。
それがわたしの勤しむこれからのこと。
それはきっと、強められた己の力を
わたしの内において目覚めさせ、
そして、だんだんとわたしをわたしみずからに与えていくだろう。
Geheimnisvoll das Neu-Empfang'ne
Mit der Erinn'rung zu umschließen,
Sei meines Strebens weitrer Sinn:
Er soll erstarkend Eigenkräfte
In meinem Innern wecken
Und werdend mich mir selber geben.
先週の『こころのこよみ』にあった「世のきざしのことば」。
その「ことば」が、
もし、わたしのこれまでの感じ方、考え方を、
拡げてくれるような、深めてくれるようなものだったとしたなら、
わたしはそれを、何度も何度も、意識の上に、こころのまんなかに、置いてみよう。
そして、その「ことば」を何度も抱きしめてみよう。
こころで抱きしめるという行為を何度もしていくうちに、
その「ことば」と、わたしが、
だんだんと、
ひとつになっていく。
「世のことば」が、「わたしのことば」になっていく。
その繰り返しの行為こそが、
<わたし>の力を強めてくれる。
わたしのわたしたるところが、だんだんと、目覚めてくる。
2012年08月18日
こころのこよみ(第18週) 〜葛藤を経て、衣を織る〜
わたしはこころを拡げることができるのか、
受けとった世のきざしのことばを
己と 結びつけつつ。
わたしは予感する、きっと力を見いだすことを。
こころをふさわしくかたちづくり、
精神の衣へと織りなすべく。
Kann ich die Seele weiten,
Daß sie sich selbst verbindet
Empfangnem Welten-Keimesworte ?
Ich ahne, daß ich Kraft muß finden,
Die Seele würdig zu gestalten,
Zum Geisteskleide sich zu bilden.
この夏、
こころを拡げることができるような「ことば」を受け取ることができただろうか。
これまでの自分なりの感じ方、考え方を、よき意味で突き崩し、限りを拡げていくような「ことば」を。
そう、自分に問うてみる。
おそらく、それは、どれぐらいこころの中で葛藤したかにかかっている。
夏の美しさと共に、
夏の混乱、惑溺が、この身に押し寄せ、
いま一度、自分の中心軸を見いだすための葛藤を経ることによって、
これから秋から冬へと生きていくための大いなる叡智の元となるような、
「世のきざしのことば」が初めて受け取られるのではないだろうか。
葛藤したからこそ、
「わたしは、きっと、力を見いだす」という予感がある。
<わたし>という本体は、精神であり、
その本体が衣として纏うのが、こころである。
葛藤の果てに受けとったその力は、
<わたし>という本体が纏う衣として、こころの力として、
きっと、織りなされていくはずだ。
この予感を大事にして、一日一日、少しずつでも前に進んで行こう。
2012年08月08日
こころのこよみ(第17週) 〜閑さや岩にしみ入る蝉の声〜
世のことばが語る、
そのことばをわたしは感官の扉を通して
こころの基にまでたずさえることを許された。
「あなたの精神の深みを満たしなさい、
わたしの世のひろがりをもって。
いつかきっとあなたの内にわたしを見いだすために」
Es spricht das Weltenwort,
Das ich durch Sinnestore
In Seelengründe durfte führen:
Erfülle deine Geistestiefen
Mit meinen Weltenweiten,
Zu finden einstens mich in dir.
閑さや岩にしみ入る蝉の声 松尾芭蕉
「蝉の声」は耳に聞こえる。時に、聴く人の全身を圧するように鳴り響く。
「閑さ」はどうだろうか。
「閑さ」は、耳を傾けることによって、聞き耳を立てることによって、
初めて聴くことができるものではないだろうか。
それは、耳という感官を超えた「感官」によって受け止められるものだと感じる。
芭蕉は、「蝉の声」を通して「閑さ」を聴いたのだろうか。
「閑さ」を通してあらためて「蝉の声」が聞こえてきたのだろうか。
そして、芭蕉は、「蝉の声」の向こうに、「閑さ」の向こうに、何を聴いたのだろうか。
芭蕉は、旅しながらメディテーションをする中で、
そのふたつの聴覚の重なりの向こうに、
己が全身全霊で何かを受けとめるありさまを「おくのほそ道」に記した。
それは、芭蕉によるひとつの精神のドキュメントであり、
心象スケッチであり、
春から秋にかけての「こころのこよみ」であった。
この週の『こころのこよみ』に、
「世のことばが語る」とある。
わたしもことばを語る。
しかし、世がことばを語るとはどういうことだろうか。
「世のことば」が語るとはどういうことだろうか。
その「ことば」は、この肉の耳には聞こえないものである。
耳という感官を超えた「感官」によって受け止められるものである。
メディテーションを通して、
「こころの基にまでたずさえることを許された」ことばである。
人が人というものの中心をいよいよ人の内へと移す。
人が安らかさの一時(ひととき)に内において語りかけてくる声に耳を傾ける。
人が内において精神の世とのつきあいを培う。
人が日々のものごとから遠のいている。
日々のざわめきが、その人にとっては止んでいる。
その人の周りが静かになっている。
その人がその人の周りにあるすべてを遠のける。
その人が、また、そのような外の印象を想い起こさせるところをも遠のける。
内において安らかに見遣るありよう、紛れのない精神の世との語らいが、
その人のこころのまるごとを満たす。
(中略)
静けさからその人への語りかけがはじまる。
それまでは、その人の耳を通して響きくるのみであったが、いまや、
その人のこころを通して響きくる。
内なる言語が ―内なることばが― その人に開けている。
(『いかにして人が高い世を知るにいたるか』「内なる安らかさ」の章より)
この夏の季節にメディテーションをする中で、
精神の世が語りかけてくることば。
あなたの精神の深みを満たしなさい、
わたしの世のひろがりをもって。
いつかきっとあなたの内にわたしを見いだすために。
芭蕉はいまも、夏の蝉の声という生命が漲り溢れている響きの向こうに、静けさを聴き取り、
その静けさの向こうに、「世のことば」を聴いているのではないか。
2012年08月05日
こころのこよみ(第16週) 〜黙ることのアクティビティー〜
精神からの贈りものを内に秘めよと、
我が予感がわたしに厳しく求める。
それによって、神々しい恵みが熟し、
こころの基にて、豊かに、
己であることの実りがもたらされる。
Zu bergen Geistgeschenk im Innern,
Gebietet strenge mir mein Ahnen,
Daß reifend Gottesgaben
In Seelengründen fruchtend
Der Selbstheit Früchte bringen.
ことばを話すこと以上によりこころのアクティビティーを使うのは、
黙ることである。
沈黙を生きることを大切にすることによって生がだんだんと深まっていく。
この沈黙とは、
こころが滞っているがゆえではなくて、
アクティブにこころを慎むところから生まれる沈黙である。
話すことをやめるのではない。
ことばと、そのことばを話そうとしている己と、そのことばを聴こうとしている人を大切にしたいからこそ、
ことばを迎え、ことばを選び、ことばを運ぶのである。
ことばと、
ことばを話す人と、
ことばを聴く人。
その三者の間に世の秘密が隠れていて、
そこにこそ、精神からの贈りものが降りてくる。
そこにこそ、豊かさと貧しさの根源がある。
2012年07月30日
こころのこよみ(第15週) 〜魔法にかけられたような<わたし>〜
わたしは感じる、
まるで、世の輝きの中に、精神が魔法にかけられて織り込まれているようだ。
それはぼんやりとした感官において、
わたしのわたしたるところを満たす、
わたしに力を贈るべく。
その力を力無き己に授けるのは、
魔法にかけられているわたしの<わたし>だ。
Ich fühle wie verzaubert
Im Weltenschein des Geistes Weben.
Es hat in Sinnesdumpfheit
Gehüllt mein Eigenwesen,
Zu schenken mir die Kraft,
Die, ohnmächtig sich selbst zu geben,
Mein Ich in seinen Schranken ist.
精神、それは、わたしの<わたし>。わたしのわたしたるところ。
それが、いま、魔法にかけられているようだ。
夏の日差しに照らされてキラキラ、ギラギラ、輝いているものというものの中に、
精神が魔法にかけられたかのように織り込まれている。
ものに同化した精神としての<わたし>が織り込まれている。
ものと<わたし>の境が無くなってくる。
そして、精神と物質は、対極のものと言えるのかもしれない。
夏、物質が輝いているとき、精神は眠り込む。
冬、精神が目覚めているとき、物質は儚くなる。
しかし、夏、精神としての<わたし>は魔法にかけられたように眠り込もうとするけれども、
別の観点から言えば、
精神としての<わたし>は、
より大いなる拡がりの中で、
より大いなるものたちと合わさって、
より大いなる力をいただいている。
それが何かはぼんやりとしていてはっきりとは分かりかねるけれども。
そのことを信頼して、
丁寧に、
毎日を過ごしていこう。
2012年07月24日
こころのこよみ(第14週) 〜もの想いから抜け出す道〜
感官の啓けに沿いつつ、
わたしはみずからを駆り立てるものを失った。
夢のような考え、それはまるで、
己を奪い去るかのようにわたしを眠らせた。
しかし、すでに目覚めさせつつわたしに迫っている、
感官の輝きの中に、世の考えるが。
An Sinnesoffenbarung hingegeben
Verlor ich Eigenwesens Trieb,
Gedankentraum, er schien
Betäubend mir das Selbst zu rauben,
Doch weckend nahet schon
Im Sinnenschein mir Weltendenken.
いつも、この『こころのこよみ』を読んでくださっている方、ありがとうございます。
この季節、考える力が、本当に鈍ってくる。
皆さんはどうですか。
もし、そうならば、にも関わらず、読んでくださって、ありがとうございます。
「考える力」こそが、人を本来的に駆り立てる力なのに、
その力が失われているのを感じる。
夏の美しさが目や耳などを支配して、
美をたっぷりと味わうこともできる反面、
その情報量の多さに混乱してしまう危険性があるのも、この季節の特徴かもしれない。
内なる統一を与える「わたしの考える力」が失われて、
そのかわりに、もの想いに支配される時間が増えている。
その「もの想い(夢のような考え)」とは、
ものごとや人に沿って考えることではなくて、
ものごとや人について、手前勝手に想像してしまったり、
その想像にこころが支配されてしまって、その想いの中で行ったり来たりを繰り返すありようだ。
もの想いは、「己を奪い去るかのようにわたしを眠らせる」。
本当に自分の考えたいことを考えることで、人は目覚めることができる。
けれども、もの想いにふけることで、
人は夢を見ているような、あるいは、眠り込むようなありように陥ってしまう。
そんなありようから抜け出す道はあるのだろうか。
「考える」よりも、
「見る」に、もっと徹してみよう。
「見る」をもっと深めていくことを通して、
感官を通して、だんだんと輝きが見えてくる。
それは感官を超えたものを見いだし始めることでもあり、
この世のものというもの、ことということをなりたたせている基のところを垣間見ることでもある。
密やかなところを見いだせば見いだすほどに、
また顕わなところも、よりくっきり、はっきりと見えてくる。
そして、その見えてくるところが、ものを言い出す。
夏ならではのこころの練習として、
ものがものを言い出すまで、じっと、「見る」に徹してみよう。
その「見る」から聴きだされることば、伝えられる考え、それらは、こころに直接響いてくる。
小賢しく考える必要がなくて、
それらのことばと考えが、こころに直接「訪れる」。
その訪れるものを「世の考える」と、ここでは言っている。
この『こよみ』を追っていると、
まるで「いまの自分の生活、こころ模様そのものを記しているじゃないか」と感じることがよくある。
もの想いから抜け出す道を、わたしも、いま、探りつつ歩いている。
2012年07月18日
こころのこよみ(第13週) 〜祈りというもの〜
そして、わたしは感官の高みにある。
すると、燃え上がる、我がこころの深みにおいて、
精神の火の世から、
神々しいまことのことばが。
「精神の基にて、予感しつつ、探し求めなさい、
精神としてのあなたを見いだすべく」
Und bin ich in den Sinneshöhen,
So flammt in meinen Seelentiefen
Aus Geistes Feuerwelten
Der Götter Wahrheitswort:
In Geistesgründen suche ahnend
Dich geistverwandt zu finden.
「祈りというもの」という題でシュタイナーは講演をしている。(ベルリン、1910年2月17日)
(『こころの生活のなりかわり、こころの生きる細道』(GA59)より)
いまの自分自身のありようからしばし離れる。
過去に自分がなしてきたことを想い起こすことで、
自分自身の弱さを見つめ、同時にそんな自分を見守ってきてくれた存在に感謝する。
それは、祈りである。
過去を司ってくれている神への祈りである。
そして未来にやがてやってくるものに対する、へりくだり、仕えるこころの構えを育んでいく。
その構えを育む時にこそ、恐れや不安を乗り越えることができる。
「何がわたしの人生にやってきても、
それはわたしの成長にとってなくてはならないものとして来るのだし、
わたしは、このこころの構えを育んでいくことで、
きっと、そのやってきたものとの間にハーモニーを見いだすことができる。
わたしに、何がやってきても、それにへりくだり、仕える、こころの力を与えてください」
それは、祈りである。
未来を司ってくれている神への祈りである。
祈りとは、
そのような過去の神と未来の神へこころの力を向け、こころの力を捧げることだ。
わたしたちは、いま、目の前にあるものを見るだけでなく、
また、空間的にだけでなく、
過去へ、未来へ、視線を延ばす。
そして高みから視野を獲得する。
そして、わたしは感官の高みにある。
わたしたちは、祈りという、
自分自身の人生を高みから見ることによる視野の拡大で、
過去の神への祈りからは、炎のような熱を、
未来の神への祈りからは、闇に差し込んでくる光を、
精神の世からいただくことができる。
わたしたちは、
感謝するということと、
仕えるということ、
このふたつの「精神の基」としての働きをもって、
こころを拡大し、フルにこころの力を発揮していくことができる。
その時、「精神としてのあなた」「精神としてのわたし」が、顕れてくる。
夏の盛りの時、
「祈りというもの」にこころを向けてみることで、
こころに安らかさと確かさが生まれはしないだろうか。
2012年07月10日
こころのこよみ(第12週) 〜子どもたちの歌声〜
Johanni-Stimmung ヨハネ祭の調べ
世の美しい輝き、
それは、わたしにこころの深みから強いる、
内に生きる神々しい力を
世の彼方へと解き放つようにと。
わたしは己から離れ、
信じつつ、ただみずからを探し求める、
世の光と世の熱の中に。
Der Welten Schönheitsglanz,
Er zwinget mich aus Seelentiefen
Des Eigenlebens Götterkräfte
Zum Weltenfluge zu entbinden;
Mich selber zu verlassen,
Vertrauend nur mich suchend
In Weltenlicht und Weltenwärme.
このような社会情勢の中でも、
「世の美しい輝き」は探そうとすれば、いたるところにある。
たくさんの緑の葉が風にそよぐ向こうに見える青い空。そして木陰。
生命の迸りのような虫や鳥たちのさえずり。羽ばたき。
いまも、子どもたちは、わたしの目の前で、笹の葉にたんざくを吊るしながら、
けらけら笑い、歌い、踊っている。
ヨハネ祭のとき。
古代の人々は、鳥たちが歌うことから学びつつ、
その歌声を人間的に洗練させて音楽と詩を奏で、歌い、踊ったという。
鳥たちの声の響きは、大いなる世の彼方にまで響き渡り、
そしてその響きに応じて天から地球に精神豊かなこだまのようなものが下ってくる。
このヨハネ祭の季節に、
人は、鳥たちに学びつつ、歌い、踊ることによって、
己から離れ、
いまだ天に見守られている<わたし>を当時の夢のような意識の中に見いだすことができた。
いまも、
子どもたちは、幾分、古代の人たちの夢のような意識のありようを生きている。
そんな夏の子どもたちの笑い声と歌声をさえぎりたくない。
その響きはいまも彼方の世にまで届くのだから。
そして、わたしたちが己から離れ、
大いなる世、コスモスをより精神的に理解するほどに、
子どもたちの歌声に対するエコーのように、
ひとりひとりの<わたし>、「神々しい力」が、
天に見守られているのを見いだし、響き返してくれているのを聴き取ることができ、
この世の様々な状況に対応していく道を見いだしていくことができるのではないか。
2012年07月02日
こころのこよみ(第11週) 〜何が留まるものなのか〜
この太陽の時の中で、
あなたは、賢き知を得る。
世の美しさに沿いつつ、
あなたの内にいきいきとあなたを感じつつ。
<人のわたし>は、みずからを失い、
そして、<世のわたし>の内に、みずからを見いだすことができる。
Es ist in dieser Sonnenstunde
An dir, die weise Kunde zu erkennen:
An Weltenschönheit hingegeben,
In dir dich fühlend zu durchleben:
Verlieren kann das Menschen-Ich
Und finden sich im Welten-Ich.
「世の美しさ」とは、決して表側だけの美しさを言っているのではないだろう。
「この太陽の時の中で」は、
美しさも醜さも、素晴らしさも馬鹿馬鹿しさも、すべてが白日の下に晒される。
それらすべてがいずれ白日の下に晒され、光が当てられるからこそ、「世の美しさ」なのだ。
その晒されたものがなんであれ、
人はそれを経験し、生きなければならない。
そのような、のっぴきならないものが「世の美しさ」として感じられるだろうか。
そして、それに沿うことができるだろうか。
どんな単純なものごとであれ、複雑なものごとであれ、
どんな素晴らしいこと、酷いことであれ、
わたしたちは、そのものごと、できごとの深さをとかく見くびってしまうことがある。
ものごとは、なんであれ、
付き合い続けて、沿い続けて、
初めて、密やかに、その深さを打ち明け始める。
子どもの立てている寝息や家族の笑顔。
草木や花々の健気ないのちの営み。
日々つきあっている者同士の関係、いさかい、葛藤、愛。
マスコミにはもはや反映されないけれども、
インターネットを通して映される、毎日移り変わっていく世の動向。人びとの集団的意識の移り行き。
それらひとつひとつが、その深みを顕してくれるのは、
はやばやと見くびってしまわずに、
こころをこめてそれに向き合い続け、沿い続けるときだ。
そして、人は、こころからものごとに向き合い、沿おうとするとき、
ある人は身体をもって、ある人はこころだけで、ある人は精神だけでする。
しかし、ものごとに沿うという行為の、
肝心要(かなめ)は、
その行為に精神が通っているということである。
ものごとを肉体をもって体験することに価値を置くか、
そういった体験から身を引き離して、こころの純粋さを保つことに価値を置くか、
そのふたつの間で言い合いをするのではなく、
ものごとと<わたし>との関係において、
何が過ぎ去らず、留まるものなのかという問いをもつこと。
それは、祈りであり、メディテーションでもある。
それが精神を通わせつつものごとに沿うことの糸口になる。
からだをもって振る舞い、こころから行為していくことの糸口になる。
その時、
捨てようとしなくても、人は狭く小さなわたしを捨てることができる。
そして、より広やかで深みをもった<わたし>、<世のわたし>、
こころざし、「賢き知」が立ち上がってくる。
2012年06月26日
こころのこよみ(第10週) 〜お天道様が見ているよ〜
夏の高みへと
太陽が、輝くものが、のぼる。
それはわたしの人としての情を連れゆく、
広やかなところへと。
予感しつつ、内にて動く、
感覚。ぼんやりとわたしに知らせつつ。
あなたはいつか知るだろう、
「神々しいものが、今、あなたを感じている」
Zu sommerlichen Höhen
Erhebt der Sonne leuchtend Wesen sich;
Es nimmt mein menschlich Fühlen
In seine Raumesweiten mit.
Erahnend regt im Innern sich
Empfindung, dumpf mir kündend,
Erkennen wirst du einst:
Dich fühlte jetzt ein Gotteswesen.
夏の太陽の光と熱によって、
植物の緑が花のとりどりの色となって上へ上へと燃え上がる。
鳥たちが、虫たちが、いよいよ高らかに、軽やかに、
夏の青空の高みに向かって、鳴き声を響かせ、
大いなる世、宇宙にその響きが拡がっていく。
太陽によって引き起こされるそんな植物と動物たちの働きが、
わたしたちの周りの夏の空気に働きかけているのを、
わたしたちは感じることができるだろうか。
もし、そういうことごとを人が感じつつ、来る夏を生きることができるならば、
みずからの、人ならではのところ、人であること、わたしであることもが、
いまはもう、ここにはなく、
ここよりも、さらに、高いところに、
さらに広やかなところにあり、
天によって見守られていることを情として感じることができるだろうか。
「お天道様が見ているよ」
幼い頃、このことばを親たちからよく聞いた。
おそらく、そのことばは、
古来、日本人がずっと我が子どもたちに言い伝えてきたものだろう。
「お天道様」それは、太陽の神様であり、
わたしたちに警告を発しつつ、
わたしたちを見守っている存在として、常に高みにあるものとして感じていたものだったのだろう。
そして、いま、わたしたちは、その「お天道様」を、
人の人たるところ、<わたし>であるところとして感じているのではないだろうか。
「神々しいものが、いま、あなたを感じている」とは、
「高い<わたし>こそが、いま、低い、普段の、わたしを見守ってくれている」
ということかもしれない。
わたしたちは、自分自身のこれまでの見方や感じ方や考え方から離れて、
改めて、この季節だからこそ、
「お天道様」に見守られていることを感じ、
「お天道様」からの視点で生きていくことができるだろうか。
見る眼を磨き、耳を澄ますなら、
きっと、予感と感覚が、教えてくれるだろう。