[こころのこよみ(魂の暦)]の記事一覧
- 2014/12/02 こころのこよみ(第34週) 〜ありありとしてくる<わたし>〜 (再掲)
- 2014/11/22 こころのこよみ(第33週) 〜人に任されている仕事〜 (再掲)
- 2014/11/17 こころのこよみ(第32週) 〜世の力の源は決して枯れない〜 (再掲)
- 2014/11/10 こころのこよみ(第31週) 〜「事」と「言」と「心」〜 (再掲)
- 2014/11/06 こころのこよみ(第30週) 〜秋の喜び、垂直性〜 (再掲)
- 2014/10/26 こころのこよみ(第29週) 〜コトバ第一ナリ〜 (再掲)
- 2014/10/19 こころのこよみ(第28週) 〜こころの太陽の力〜
- 2014/10/12 こころのこよみ(第27週) 〜世を信頼する〜
- 2014/10/07 こころのこよみ(第26週) 〜ミヒャエル祭の調べ〜 (再掲)
- 2014/09/30 こころのこよみ(第25週) 〜仕事の季節〜 (再掲)
- 2014/09/27 こころのこよみ(第24週) 〜ものへゆく道〜 (再掲)
- 2014/09/22 こころのこよみ(第23週) 〜霧のとばり〜 (再掲)
- 2014/09/13 こころのこよみ(第22週) 〜さびしがらせよ閑古鳥〜 (再掲)
- 2014/09/07 こころのこよみ(第21週) 〜これまでにない稔りの力〜 (再掲)
- 2014/09/02 こころのこよみ(第20週) 〜享受し、消化し、仕事すること〜 (再掲)
- 2012/12/01 こころのこよみ(第34週) 〜意気込みはどこから〜
- 2012/11/21 こころのこよみ(第33週) 〜惟一つの無くてはならぬもの〜
- 2012/11/14 こころのこよみ(第32週) 〜委ね、任せられるときの「わたし」〜
- 2012/11/04 こころのこよみ(第31週) 〜「事」と「言」と「心」〜
- 2012/10/29 こころのこよみ(第30週) 〜秋の喜び、垂直性〜
2014年12月02日
こころのこよみ(第34週) 〜ありありとしてくる<わたし>〜 (再掲)
密やかに古くから保たれてきたものが
新しく生まれてくる己のありようと共に
内において活き活きとするのを感じる。
それはきっと目覚めた世の数々の力が
わたしの人生の外なる仕事に注ぎ込まれ
そしてだんだんとわたしをありありと刻み込んでいくだろう。
Geheimnisvoll das Alt-Bewahrte
Mit neu erstandnem Eigensein
Im Innern sich belebend fühlen:
Es soll erweckend Weltenkräfte
In meines Lebens Außenwerk ergießen
Und werdend mich ins Dasein prägen.
この肉をもったからだは、なんのためにあるのだろう。
この世で仕事をし、この世に仕え、
自分の周りの世をほんの少しずつでも善きものにしていくために、
このからだをわたしは授かっているのではないだろうか。
そして、そのように、
「からだを使って、今日も生きていこう」という意気込みはどこから生まれてくるのだろう。
日々、寝床から、起き上がれるということ。
手を動かして、洗顔できるということ。
ものを食べられるということ。
歩いて、行きたいところへ行くことができるということ。
子どもと遊ぶことができるということ。
そして、仕事ができるということ・・・。
これらすべてのことをするためには、からだが健康であることは勿論だが、さらに意気込みがいる。
その意気込みは、自分自身で生み出すというよりも、
朝起きて、眠りから覚めて、おのずといただいている。
それは本当に恩寵だと感じる。
これこそが、世の数々の力からの恵みではないか。
この恩寵への感謝の日々を毎日生き続けていくことが、
この季節、きっと、わたしたちの外なる仕事に生きた力を吹き込んでくれる。
感謝の念いこそが、わたしたちの心意気を日々目覚めさせてくれる。
そして、この目覚めは毎日を新しくする。
わたし自身を新しくしてくれる。
感謝できないときが、人にはあるものだ。
しかし、そんなとき、人は意識の上で夢見ている状態か、眠り込んでいる状態だ。
さあ、当たり前にできていることに、あらためて目を注いでみよう。
からだを当たり前に使えることの恩寵にあらためて驚くことができるだろうか。
さらに、あなたにとって、わたしにとって、「密やかに、古くから保たれてきたもの」とは、何か。
それは、みずからのこころというものの核のこと。
こころの相(すがた)は刻一刻と変わるが、こころというものの核は、変わらずに留まり続ける。
その核を「わたしのわたしたるところ」、<わたし>、もしくは精神と言ってもよく、
それを意識の上に育てていくために、メディテーションというこころの練習がある。
この『こころのこよみ 第34週』では、
そのこころというものの核を「密やかに、古くから保たれてきたもの」と言い表している。
そして、毎日の感謝から生まれる、「新しく生まれてくる己のありよう」。
無理をせず、どこまでも自分自身であること(精神からの光)。
そして、日々新鮮に自分自身を感じること(からだからの恩寵)。
このふたつが重なって、
こころそのものが、活き活きと動き出す。
活き活きと動き出して、いよいよ、
わたしは、<わたし>として、ますます、「ありありと」あるようになってくる。
外の仕事に「ありありと」<わたし>が刻み込まれていく。
わたしが、<わたしはある>というありように、なりゆくこと。
これこそが、豊かさである。
ひとりひとりの<わたしはある>というありようこそが、世を豊かにする。
密やかに古くから保たれてきたものが
新しく生まれてくる己のありようと共に
内において活き活きとするのを感じる。
それはきっと目覚めた世の数々の力が
わたしの人生の外なる仕事に注ぎ込まれ
そしてだんだんとわたしをありありと刻み込んでいくだろう。
2014年11月22日
こころのこよみ(第33週) 〜人に任されている仕事〜 (再掲)
わたしはいま、世をこう感じる。
それは、わたしのこころがともに生きることなしには、
そこにはただ凍りついた虚しいいのちのみ、
そして、力が啓かれることもない。
人のこころにおいて、世は新しく創りなす。
世そのものにおいては、死を見いだすのみ。
So fühl ich erst die Welt,
Die außer meiner Seele Miterleben
An sich nur frostig leeres Leben
Und ohne Macht sich offenbarend,
In Seelen sich von neuem schaffend,
In sich den Tod nur finden könnte.
世とは、
この地球を含む宇宙まるごとのことであり、
四季折々に織りなしている自然のいちいちのことであり、
このわたしをも含む、人という人のことでもあり、
そして、物質の域だけでなく、こころの域、精神の域にまで及ぶものであるだろう。
その「世」というものに、
この「わたし」が働きかけることによって、
何が生じるだろうか。
たとえば、
こころを籠めて世の何かを、
世話する、
面倒をみる、
手塩にかけて育てる、などなど・・・。
人が、そうするとき、
その何かはどのような変化を見せてくれるだろうか。
人がこころを注ぎつつ手入れしている庭と、
ほったらかしの庭とでは、
何かが違う。
人が大事に、感謝をもって住んでいる家と、
家のあちこちに対して文句を言いつつ、手入れが行き届かない家と、
また、誰も住んでいない家とでは、
それぞれ、趣きを異にする。
対象が、
庭や家だけでなく、
動物や人ならば、
その違いもより明らかに見られるのではないだろうか。
それは、決して、気のせいではない、
明らかな趣の違いとしてしっかりと感じられる。
今週の『こよみ』では、こう記されてある。
わたしのこころが共に生きることなしには、
そこにはただ、凍りついた虚しいいのちのみ
世は、
人によってこころから意を注がれることを待っているのではないだろうか。
花も、動物も、水や風やあらゆる自然のものも、
人が創り出したあらゆるものというもの、機械類までも、
そして、
もちろん、人や、
目には見えないが世に存在している者たちも、
人から、こころを向けられるのを待っているのではないだろうか。
人がこころを注ぐところに、
新しいいのちが宿る。
いのち、
それは人が、その人みずからのこころの力をもって、
世に新しく与えることのできる愛、
と言ってもいいかもしれない。
人からの愛が注がれるところに、
新しく、世そのものがもっている力が啓かれる。
そうして、世は、人とともに、時とともに、更新されていく。
世は、
人からの積極的な行為、愛を、待っている。
人とは、
なんと大きな仕事を任されていることだろう。
わたしはいま、世をこう感じる。
それは、わたしのこころがともに生きることなしには、
そこにはただ凍りついた虚しいいのちのみ、
そして、力が啓かれることもない。
人のこころにおいて世は新しく創りなす。
世そのものにおいては死を見いだすのみ。
2014年11月17日
こころのこよみ(第32週) 〜世の力の源は決して枯れない〜 (再掲)
わたしは稔りゆく己の力を感じる。
その力は強められたわたしを世に委ねる。
わたしのわたしたるところを力強く感じる、
明るみへと向かうべく、
生きることの仕合わせが織りなされる中で。
Ich fühle fruchtend eigne Kraft
Sich stärkend mich der Welt verleihn;
Mein Eigenwesen fühl ich kraftend
Zur Klarheit sich zu wenden
Im Lebensschicksalsweben.
この秋という季節に、
稔りゆく<わたし>の力は、
どこから得られるか。
わたしがわたしみずからを支え引き上げていくための力は、
どこから得られるか。
「稔りゆく己の力」
「強められたわたし」
「わたしのわたしたるところ」
これらは、みな、
己から己を解き放ち、
己の小なる力を諦め、
大なるものに己を委ね、任せられるとき、
感じられるものではないだろうか。
大いなるもの、それを「世」と言うのなら、
世の力の源は決して枯れることがない。
その源から、<わたし>は常に力を頂いている。
その繋がりを信頼して、
今日も仕事をしていこう。
今日という一日、明日、あさって・・・
「生きることの仕合わせ(運命)が織りなされる中で」、
何が待っているのだろう。
小さなわたしがあれこれと采配していくのではなく、
大いなるものがわたしの生を織りなしてくれていることへの信頼を育みつつ、
勇気をもって、今日も仕事をしていこう。
そのときこそ、「わたしのわたしたるところ」「強められたわたし」が、
きっと顕れてくる。
今日も、丁寧に、牛のようにひたすら押しながら、
「明るみへと向かうべく」仕事をしていこう。
わたしは稔りゆく己の力を感じる。
その力は強められたわたしを世に委ねる。
わたしのわたしたるところを力強く感じる、
明るみへと向かうべく、
生きることの仕合わせが織りなされる中で。
2014年11月10日
こころのこよみ(第31週) 〜「事」と「言」と「心」〜 (再掲)
精神の深みからの光が、
まるで太陽のように輝きだす。
それは生きる意欲の力になり、
そして、おぼろな感官に輝きいり、
力を解き放ち、
こころから創ろうとする力を
人の仕事において、熟させる。
Das Licht aus Geistestiefen,
Nach außen strebt es sonnenhaft.
Es wird zur Lebenswillenskraft
Und leuchtet in der Sinne Dumpfheit,
Um Kräfte zu entbinden,
Die Schaffensmächte aus Seelentrieben
Im Menschenwerke reifen lassen.
精神の深みからの光が、まるで太陽のように輝きだす
わたしたちは、太陽の輝きには馴染みがある。
しかし、上の文を読んで、
「まるで太陽のように輝きだす精神の深みからの光」をどう捉えていいものか、
途方に暮れはしないだろうか。
この文、これらのことばの連なりから、
どのようなリアリティーを摑むことができるだろうか。
ことばのリアリティーを摑むために、何度もこころの内に唱え、口ずさんでみると、どうだろうか。
水が集って流れるように声に出すことを「詠む」というそうだが(白川静『字訓』)、
そのような活き活きとした息遣いで味わってみる。
また、その川底に光るひとつひとつの石を見るように、
一音一音、味わうようにしてみる。
そのようにことばを味い、ことばの響きに耳を澄まそうとすることにより、
こころの静けさとアクティビティーを通して、
「精神の深みからの光」が、「事」として、だんだんと顕れてくる。
ここで言われている「事」と「言」が重なってくる。
また、過去に幾度か経験した「輝きだす」瞬間を想い起こし始める。
そのようにして、リアリティーの糸口が見いだされてくるにつれて、
いまこの瞬間において、「精神の深みからの光」が、こころに降りてくるのを感じ、覚える。
そのようにして、
「事(こと)」と「言(ことば)」と「心(こころ)」が、光の内に重なってくる。
その重なりが、こころの内なる化学反応のように生じてくるのを待つ。
「精神の深みからの光」。
その「光」こそが、
「生きる意欲の力になり」、
「こころから創ろうとする力を、人の仕事において熟させる」。
意欲をもって生きるとは、どういうことなのか。
自分の仕事において創造力が熟してくるとは、どういうことなのか。
まず、内なる「光」というもののリアリティーを得ることで、
それらのことが分かる道が開けてくる。
こころを暖め、熱くさせながら。
光だけを生きるのではなく、熱をもって仕事に向かい始める。
「事」と「言」と「心」が、さらに幾重にもかさなってくる。
今週、
精神の光が、生きる意欲の力になり、仕事を熟させていく。
その「事」を、ことばとこころで辿っていこう。
精神の深みからの光が、
まるで太陽のように輝きだす。
それは生きる意欲の力になり、
そして、おぼろな感官に輝きいり、
力を解き放ち、
こころから創ろうとする力を
人の仕事において、熟させる。
2014年11月06日
こころのこよみ(第30週) 〜秋の喜び、垂直性〜 (再掲)
こころの太陽の光の中でわたしに生じる、
考えることの豊かな実り。
みずからを意識することの確かさにおいて、
すべての感じ方が変わる。
わたしは喜びに満ちて感覚することができる、
秋の精神の目覚めを。
「冬はわたしの内に、
こころの夏を目覚めさせるだろう」
Es sprießen mir im Seelensonnenlicht
Des Denkens reife Früchte,
In Selbstbewußtseins Sicherheit
Verwandelt alles Fühlen sich.
Empfinden kann ich freudevoll
Des Herbstes Geisterwachen:
Der Winter wird in mir
Den Seelensommer wecken.
秋が深まってきた。
それまでの曖昧で不安定だった考える力の焦点が定まってきて、
本当にこころから考えたいことを考えられるようになってくる。
考えたいことを考える。
その内なる行為こそが、こころに太陽の光をもたらす。
それは、自分の場合、本当に喜ばしいことで、
考える力に濁りがなくなってくると、
感情も清明になり、
意欲にも火がついてくるのだ。
そして、本、文章、テキスト、人とのいい出逢いに恵まれるようになってくる。
生きることの意味。理想。希望。
それらの考えと情が、
わたしにとって何よりも気力と意欲、そして喜びを起こしてくれる。
そのことを実感できる日々はありがたいものだ。
見えるものについてただ無自覚に考え、なんとなく思い続けているよりも、
見えないものへの信を深めるような考えと情を育んでいくことが、
どれだけ、こころを目覚めさせることか!
ものがただ並んでいる平面を生きることよりも、
ものというものにおける垂直を生きること。
秋から冬への生活とは、
そのような「ものへゆく道」「深みを見いだす生活」になりえる。
日々のアップ・アンド・ダウンというものではなく、
週を経るごとに、
こころが織りなされていくことを実感できるのは、
「わたしであること」の安らかさと確かさをもたらしてくれる。
ありがたいことだと思う。
こころの太陽の光の中でわたしに生じる、
考えることの豊かな実り。
みずからを意識することの確かさにおいて、
すべての感じ方が変わる。
わたしは喜びに満ちて感覚することができる、
秋の精神の目覚めを。
「冬はわたしの内に、
こころの夏を目覚めさせるだろう」
2014年10月26日
こころのこよみ(第29週) 〜コトバ第一ナリ〜 (再掲)
みずから考えることの光が、
内において力強く輝く。
世の精神の力の源から、
意味深く示される数々の験し。
それらはいま、わたしへの夏の贈りもの、
秋の静けさ、そしてまた、冬の希み。
Sich selbst des Denkens Leuchten
Im Innern kraftvoll zu entfachen,
Erlebtes sinnvoll deutend
Aus Weltengeistes Kräftequell,
Ist mir nun Sommererbe,
Ist Herbstesruhe und auch Winterhoffnung.
改めてこの夏を振り返って、
夏という季節を生きたことによって、世から、わたしは、何を、贈られたか。
それは、「ことば」であった。
「わたしはひとりである」という「ことば」だった。
いま、秋になり、外なる静けさの中で、
その「ことば」を活発に消化する時であることをわたしは感じている。
そして、来たる冬において、
その「ことば」は、血となり、肉となって、生まれ出る。
夏に受けとられ、
秋に消化された「ことば」が、
冬には、
「己のことば」、
「わたしの内なるひとり生みの子」、
「わたしの仕事(ことに仕える)」として世へと発信される。
そんなクリスマスへの希みがある。
夏に贈られた「ことば」があるからこそ、
この秋、その「ことば」を基点にして、
自分の情を鎮めることができる。
自分の考えを導いていくことができる。
自分の意欲を強めていくことができる。
そして、冬へと、クリスマスへと、備えるのだ。
メディテーションをする上にも、
余計なことを考えないようにするために、
飛び回る鬼火のような考えや情を鎮めようとする。
しかし、いくら頑張ってみたところで、どうにも鎮まらない時がよくある。
そんな時、メディテーションのために与えられている「ことば」に沿い、
その「ことば」に考えを集中させていくと、
だんだん、おのずと、静かで安らかなこころもちに至ることができる。
「ことば」を先にこころに据えるのだ。
その「ことば」に沿うことによって得られる感覚。
日本人においては、
特に、万葉の歌を歌う頃から時代を経て、
「古今和歌集」の頃もさらに経て、
「新古今和歌集」が編まれた頃、
その「ことば」の感覚が、意識的に、先鋭的に、磨かれていたようだ。
歌を詠むこと、詠歌において、
「題」を先に出して、その「題」を基にして、まず、こころを鎮め、こころを整えて、
その後、歌を詠んだのである。
こころの想うままに歌を歌えた時代は、だんだんと、過ぎ去っていったのだ。
こころには、あまりにも、複雑なものが行き来していて、
それが、必ずしも、歌を詠むに適した状態であるとは限らない。
「詠歌ノ第一義ハ、心ヲシヅメテ、妄念ヲヤムルニアリ」
「トカク歌ハ、心サハガシクテハ、ヨマレヌモノナリ」
「コトバ第一ナリ」
(本居宣長『あしわけ小舟』より)
「ことば」がこころの内に据えられてあるからこそ、
「ことば」という手がかりがあるからこそ、
わたしたちは、みずからのこころのありようを手の内に置くことができるようになる。
わたしたち日本人は、長い時を経て、
歌を詠むことを通して、
「ことば」の世界に直接入り、
「ことば」の力に預かりながら、
己のこころを整え、情を晴らし、問いを立て、明日を迎えるべく意欲をたぎらしていた。
秋になり、
わたしたちは夏に贈られた「ことば」を通して、
妄念を鎮め、こころを明らかにしていくことができる。
そうして初めて、
「みずから考えることの光が、内において力強く輝く」。
歌を何度も何度も口ずさむように、
メディテーションを深めていくことが、
来たる冬への備えになるだろう。
みずから考えることの光が、
内において力強く輝く。
世の精神の力の源から、
意味深く示される数々の験し。
それらはいま、わたしへの夏の贈りもの、
秋の静けさ、そしてまた、冬の希み。
2014年10月19日
こころのこよみ(第28週) 〜こころの太陽の力〜
わたしは、内において、新しく甦ることができる。
己であることの拡がりを感じる。
そして、力に満ちた考えの輝きが、
こころの太陽の力から、
生きることの謎を解いてくれる。
いくつもの願いを満たしてくれる。
これまで希みのつばさは、弱められていたのに。
Ich kann im Innern neu belebt
Erfühlen eignen Wesens Weiten
Und krafterfüllt Gedankenstrahlen
Aus Seelensonnenmacht
Den Lebensrätseln lösend spenden,
Erfüllung manchem Wunsche leihen,
Dem Hoffnung schon die Schwingen lähmte.
わたしたちひとりひとりは、こころにおいて、アクティブになれる。
それは、影のような様々な死んだ考えを漠然と抱くのを止めて、積極的に、こころの熱くなるような考えをリアルに持つときだ。
自分自身が本当に考えたいことのみを考えるときだ。
そのとき、考えが、干からびた枠組みだけのものから、こころを熱く息づかせるいのちを持ち始め、こころは新しく甦る。
太陽は夏の間、外側に照り輝いていたけれども、秋からは、こころの内に輝き始めることができる。
そして15世紀から始まっている新しい時代において、人が抱く考えがどんどん干からびたものになってきたのも、ちゃんとした理由がある。
それは、わたしたちが生きている20世紀から21世紀にかけて、その死んだ考えを、ひとりひとりが意識的に、アクティブに、こころの内でいのちあるものに変容させるためだ。
考えを活き活きとしたみずみずしいものに。
その変容は、秋という季節において起こり得ることであり、またわたしたちの時代において起こし得ることである。
「内において、新しく甦る」
「己であることの拡がり」
「力に満ちた考えの輝き」
「こころの太陽の力」
なんと、力強い、いのちのみずみずしさを湛えたことばたちだろう。
ことばを繰り返し繰り返し詠むことで、ことばに湛えられているいのちを汲み出そう。
声に出すことで、考えを活き活きと深めていこう。
考えがいのちを得て、こころが熱く息づく。
こころに太陽が輝き始める。
わたしは、内において、新しく甦ることができる。
己であることの拡がりを感じる。
そして、力に満ちた考えの輝きが、
こころの太陽の力から、
生きることの謎を解いてくれる。
いくつもの願いを満たしてくれる。
これまで希みのつばさは、弱められていたのに。
2014年10月12日
こころのこよみ(第27週) 〜世を信頼する〜
わたしというものの深みへと進みゆくほどに、
予感に満ちた憧れが呼び起こされる。
わたしはわたしを見いだす、みずからを見てとりつつ、
夏の太陽から贈られた萌しとして。
秋の調べの中で熱く息づく、
こころの力として。
In meines Wesens Tiefen dringen:
Erregt ein ahnungsvolles Sehnen,
Daß ich mich selbstbetrachtend finde,
Als Sommersonnengabe, die als Keim
In Herbstesstimmung wärmend lebt
Als meiner Seele Kräftetrieb.
自然はリズムを刻んでいる。
世はリズムを刻んでいる。
わたしもリズムを刻んで生きていくことができる。
この『こころのこよみ』は、そのことを助けるひとつの「道」だ。
道というものは、先人が歩んでくれたからこそ、いま、そこにある。
先人への信頼が、その道への信頼となり、それが更に、人というものへの信頼、世というものへの信頼へと育ってゆく。
このメディテーションの道を歩んでいくことで、世のリズムと我がこころのリズムとを重ね合わせる練習ができる。
それは、大いなる世の生命と己の生命とを重ね合わせていく作業だ。
この『こころのこよみ』に沿って、夏から秋へと歩んでくると、この秋から冬にかけて、新しい「わたし」にきっと出逢うという予感に満ちた憧れに満たされるのを感じる。
その新しいわたしは、熱く息づくこころの力として、新しいアイデアと新しい意欲に通われようとしているのだ。
わたしは、何も力んで、何かをしようというのではない。
世のリズムが、わたしにその新しいわたしを授けてくれるのを、待つことを習えばいい。
世を信頼するのだ。
わたしというものの深みへと進みゆくほどに、
予感に満ちた憧れが呼び起こされる。
わたしはわたしを見いだす、みずからを見てとりつつ、
夏の太陽から贈られた萌しとして。
秋の調べの中で熱く息づく、
こころの力として。
2014年10月07日
こころのこよみ(第26週) 〜ミヒャエル祭の調べ〜 (再掲)
自然、その母のようなありよう、
わたしは、それを、意欲において担う。
そして、わたしの意欲の火の力、
それが、わたしの精神の萌しのかずかずを鍛える。
その萌しのかずかずが、みずからの情を生む、
わたしをわたしにおいて担うべく。 (鈴木一博訳)
Natur, dein mütterliches Sein,
Ich trage es in meinem Willenswesen;
Und meines Willens Feuermacht,
Sie stählet meines Geistes Triebe,
Daß sie gebären Selbstgefühl
Zu tragen mich in mir.
先週の『こころのこよみ』で、「内なるこころの光と熱。これほど、頼りになるものがあるだろうか。」と書いた。
この頼りになるものを、わたしたちひとりひとりの人にもたらそうとしてくれている精神存在がいる。
そうシュタイナーは語っている。
大いなる精神存在、ミヒャエル。
この存在は、どのようにして、この時期に、わたしたちのこころとからだに働きかけて下さっているのだろうか。
今週の『こよみ』を読んでみる。口ずさんでみる。
息遣いも活き活きと、声を解き放ちながら唱えてみる。
何度もこころとからだで味わってみる。
意欲をもって、ことばとつきあってみる。
そうすると、普段以上の意欲をもってしなければ、何も感じられないことに気づく。
そして、積極的にことばを唱えるほどに、わたしはこころへと立ち上ってくる意欲という熱があればこそ、我がこころとからだが活き活きとしてくるのを感じる。
その熱をもってこそ、最も近く親しい「自然」である我がからだとこころを担っていると感じることができる。
意欲とは、わたしのからだへと、こころへと、下から、足元から、立ち上がってくる熱である。
それは熱心さであり、こころざしの顕れである。
その「意欲の火の力」があってこそ、その火を、わたしが、燃やすからこそ、わたしのからだとこころに、上から、天から、降り注いでくる「考え・想い・こころざし・精神の萌しのかずかず」である光が、だんだんと暖められ、鍛えられる。
わたしたちは、この時期、上からの光(考え)と、下からの熱(意欲)とを、織りなしあわせる。
その織りなしあいが、こころに「みずからの情」を生む。
その情とは、「わたしは、わたしだ」「わたしは、ひとりだ」というこころの真ん中に生まれる情だ。
その情をもって、わたしという「ひとりの人」は活き活きと甦ってくる。
恐れや不安や物思いなどを凌いで、「ひとりの人」として、この世に立ち、目の前にあることにこころから向かっていくことができる。
光としての考えが、こころを暖め熱くするものへと練られ、実行可能なものへと鍛えられていく。
そのように、自分のこころとからだで、『こころのこよみ』のことばをひとつひとつ味わっていくと、シュタイナーが多くの著書や講演で語った精神存在を、リアルに親しく感じることができる通路が開かれていくし、そうしていくことによって、実人生を安らかに確かに積極的に歩んでいくことができると実感する。
これからの秋から冬にかけて、外なる闇と寒さがだんだんと深まってくる。
そしてややもすれば、闇と冷たさがこころにまで侵食してくる。
そんな時に、内なるこころの光と熱を、ひとりひとりの人がみずからの力で稼ぐことができるようにと、
共に一生懸命働いて下さっているのが、ミヒャエルだ。
一方、闇と寒さを人にもたらす者、それがミヒャエルの当面の相手、アーリマンだ。
人を闇と寒さの中に封じ込めようとしているそのアーリマンの力の中に、剣の力をもって、鉄の力をもって、切り込み、光と熱を人のこころにもたらす助けを、秋から冬の間にし、毎年毎年、ひとりひとりの人が、キリスト・イエスが生まれるクリスマスを、こころに清く備え、整えるのを助けて下さるのが、ミヒャエルだ。
シュタイナーは『こころのこよみ』を通して、ことばの精神の力を四季の巡る世に打ち樹てようとした。
祝祭を、世における大いなる時のしるしとして、ひとりひとりの人がみずからのこころにおいて新しく意識的に創っていくことができるようにと、『こころのこよみ』を書いた。
「こよみ」とは、
事(こと)をよむことであり、
言(ことば)をよむことであり、
心(こころ)をよむことである。
意識的に四季を生きること。
四季を『こころのこよみ』とともに生きること。
それは、地球をも含みこむ大いなる世とともに精神的に生きるという新しい生き方を、わたしたちが摑む手立てになってくれるだろう。
また、みずからの狭い枠を乗り越えて、こころの安らかさと確かさと積極さを取り戻す手立てにもなってくれるだろう。
自然、その母のようなありよう、
わたしは、それを、意欲において担う。
そして、わたしの意欲の火の力、
それが、わたしの精神の萌しのかずかずを鍛える。
その萌しのかずかずが、みずからの情を生む、
わたしをわたしにおいて担うべく。
2014年09月30日
こころのこよみ(第25週) 〜仕事の季節〜 (再掲)
わたしはいま、わたしを取り戻し、
そして、輝きつつ、内なる光が拡がりゆく、
空間と時の闇の中へと。
眠りへと自然がせきたてられるとき、
こころの深みはきっと目覚めている。
そして、目覚めつつ、太陽の熱を担いゆく、
寒い冬のさなかへと。
Ich darf nun mir gehören
Und leuchtend breiten Innenlicht
In Raumes- und in Zeitenfinsternis.
Zum Schlafe drängt natürlich Wesen,
Der Seele Tiefen sollen wachen
Und wachend tragen Sonnengluten
In kalte Winterfluten.
立ち上がり、陽の光と熱を浴びながら歩き回る夏の彷徨が終わって、
立ち止まり、内なるこころの光と熱を発していく秋が始まっている。
内なるこころの光と熱によって、こころが目覚めているということ。
「わたしがわたしである」ことに目覚めているということ。
そして、こころが生きる情熱を感じているということ。
これほど、頼りになるものがあるだろうか。
これがあれば、秋から冬にかけて、たとえ外の世が生命力を失っていっても、内なるこころは、きっと、「ひとりのわたし」として、活き活きと目覚めていることができる。
夏にいただいた太陽の光と熱の大いなる働きを、内なるこころの光と熱として、来たる冬の寒さのさなかへと意欲的に注ぎ込んでいくことができる。
光と熱。
それはいまやわたしのこころの内から発しようとしている。
そしてこれからやってくる冬の闇と寒さとのコントラストを際立たせようとしている。
太陽の光と熱と共に、あの夏をこころから生きたからこそ、この秋があるのだ、そして、この秋が、冬へと引き続いていく。
そのような季節のつながり、くりなし、なりかわりを丁寧に、確かに、感じること。それが、内なるこころのつながり、くりなし、なりかわりをも自覚することへと繋がっていく。
四季を生きること、一年のいのちを生きることが、みずからを知ることへとわたしを導いていく。
この『こころのこよみ』に沿いつつ、四季それぞれに息づいている「ことば」を聴く。ならば、それらの「ことば」が、生命ある連続としてこころにしずしずと流れてくる。
夏、外なる光と熱の中にわたしは溶け込み、ある意味、わたしはわたしを見失っていた。
秋、わたしはわたしを取り戻し、萌していた希みが羽を拡げようとしている。
さあ、これからが、稔りの季節、粛々とした仕事の季節だ。
わたしはいま、わたしを取り戻し、
そして、輝きつつ、内なる光が拡がりゆく、
空間と時の闇の中へと。
眠りへと自然がせきたてられるとき、
こころの深みはきっと目覚めている。
そして、目覚めつつ、太陽の熱を担いゆく、
寒い冬のさなかへと。
2014年09月27日
こころのこよみ(第24週) 〜ものへゆく道〜 (再掲)
みずからを絶えず創り上げつつ、
こころは己のありように気づく。
世の精神、それは勤しみ続ける。
みずからを知ることにおいて、新しく甦り、
そして、こころの闇から汲み上げる、
己であることの意欲の稔りを。
Sich selbst erschaffend stets,
Wird Seelensein sich selbst gewahr;
Der Weltengeist, er strebet fort
In Selbsterkenntnis neu belebt
Und schafft aus Seelenfinsternis
Des Selbstsinns Willensfrucht.
創る人は幸いだ。
生み出す人は幸いだ。
育てる人は幸いだ。
金と引き換えにものを買い続け、サービスを消費し続ける現代人特有の生活のありようから、一歩でも踏み出せたら、その人は幸いだ。
その一歩は、料理を作ることや、手紙や日記を書いてみることや、花に水をやることや、ゴミを拾うことや、そんなほんの小さな行いからでもいいかもしれない。
この手と脚を動かし、世と触れ合う。
そのような行為によってこそ、みずからが創り上げられ、その行為からこそ、こころは己のありように気づく。
そして、「世の精神」。
それは、一刻も休まず、勤しみ、生み出しているからこそ、「世の精神」であり、だからこそ、太陽や月は周期を持ち、四季は巡る。
「世の精神」はそのようにして絶えず勤しんでいる。
そうして勤しみながら、人というものに働きかけ、また人というものからの働きかけを受けて、絶えず己を知りゆこうとしている。「世の精神」みずからが、人との交流を通して、己を知ろうとしている。「世の精神」は、人の働きを待っている。
そして更に「世の精神」は、人というものにみずからを捧げようとし、人というものから愛を受け取ることを通して、より確かに己というものを知りゆき、己を知れば知るほど、そのつど新たに新たに「世の精神」は甦る。
「世の精神」には、人が必要なのだ。
同じく、わたしたち人は、そんな世の精神に倣いつつ、地球上のものというものに働きかけ、ものを愛し、ものに通じていくことをもって、みずからを新たに新たに知りつつ、たとえ、肉体は年老いても、そのつどそのつどこころは甦り、精神的に若返ることができる。
我が国、江戸時代中期を生きた稀代の国学者、本居宣長(1730-1801)も、そして、ゲーテ(1749-1832)という人も、その「世の精神」に倣い続け、「ものへゆく道」を歩き通した人であり、両人の残された仕事の跡を顧みれば、晩年にいたるまでのその若々しい創造力に驚かされる。
シュタイナーは、そのゲーテのありかたをこう言い当てている。
ゲーテは、ひとたび、こんな意味深いことばを語りました。
「生産的であるもののみが、まことである」
それは、こういうことです。
人は、きっと、みずからを、まことの有するところとなします。
そして、まことは働きかけます。
そして、人が生きて歩むとき、まことは、まことであることの証を、
生産的であることを通して見いだします。
これが、彼にとって、まことの試金石でした。
すなわち、生産的であるもののみが、まことです。
(1908年10月22日 ベルリン 「ゲーテの密やかなしるし」より)
秋には、「己の力」が「意欲の稔り」として発露してくる。
創ること、生み出すこと、育てることなどの行為は、わたしたち人にこころの確かさ、安らかさ、活発さを取り戻させてくれる。
そして、行為し、ものと交わり、人と交わる時に、各々人は初めて己のこころの闇に直面する。その己の闇を認め、赦すことからこそ、「わたしはある」「わたしはわたしである」という、こころの真ん中の礎である情に目覚め、己であることの意欲の稔りを、汲み上げていく。
「ものへゆくこと」「生産的であること」、それがまことへの道だ。
みずからを絶えず創り上げつつ、
こころは己のありように気づく。
世の精神、それは勤しみ続ける。
みずからを知ることにおいて、新しく甦り、
そして、こころの闇から汲み上げる、
己であることの意欲の稔りを。
2014年09月22日
こころのこよみ(第23週) 〜霧のとばり〜 (再掲)
秋めいて、和らぐ、
感官へのそそり。
光の顕れの中に混じる、
ぼんやりとした霧のとばり。
わたしは空間の拡がりの中で観る、
秋、そして冬の眠り。
夏はわたしに、
みずからを捧げてくれた。
Es dämpfet herbstlich sich
Der Sinne Reizesstreben;
In Lichtesoffenbarung mischen
Der Nebel dumpfe Schleier sich.
Ich selber schau in Raumesweiten
Des Herbstes Winterschlaf.
Der Sommer hat an mich
Sich selber hingegeben.
ゆっくりと和らいでくる陽の光。
それとともに、感官へのそそりも和らいでくる。
そして、秋が日一日と深まりゆくにつれて、過ぎ去った夏と、これからやってくる冬とのあいだに、立ちかかるかのような、霧のとばり、「秋霧」。
その「とばり」によって、戸の向こう側とこちら側にわたしたちは改めてこころを向けることができる。
戸の向こう側において、過ぎ去った夏における世の大いなる働きの残照をわたしたちは憶い起こす。
夏における外なる世の輝き。
そして夏における内なるこころの闇。
その外と内のありようを憶い起こす。
そして、戸のこちら側において、だんだんと深まってくる秋における生命の衰えと、来たるべき冬における生命の死とを、わたしたちは予感する。
これからの冬における外なる世の闇。
そしてクリスマスに向かう内なるこころの輝き。
その外と内のありようを予感する。
夏を憶い起こすことと、冬を予感すること。
こころのアクティブな働きをもって、その間に、わたしたちは、いま、立つことができる。
そうすることで、きっと、こころが和らげられ、静かでありながらも、意欲を滾らせてゆくことができる。
秋めいて、和らぐ、
感官へのそそり。
光の顕れの中に混じる、
ぼんやりとした霧のとばり。
わたしは空間の拡がりの中で観る、
秋、そして冬の眠り。
夏はわたしに、
みずからを捧げてくれた。
2014年09月13日
こころのこよみ(第22週) 〜さびしがらせよ閑古鳥〜 (再掲)
世の拡がりから来る光が、
内において力強く生き続ける。
それはこころの光となり、
そして、精神の深みにおいて輝く。
稔りをもたらすべく、
世の己から生まれる人の己が、
時の流れに沿って熟していく。
Das Licht aus Weltenweiten,
Im Innern lebt es kräftig fort:
Es wird zum Seelenlichte
Und leuchtet in die Geistestiefen,
Um Früchte zu entbinden,
Die Menschenselbst aus Weltenselbst
Im Zeitenlaufe reifen lassen.
外に輝いていた陽の光が、いつしか、こころの光になっている。
そのこころの光は、萌しであり、これから、だんだんと、長けゆく。
その光は、「ひとりぼっち」であることの自覚の光でもあった。
そして、「ひとりぼっち」であることの自覚は、だんだんと深まり、
これから、だんだんと、熟してゆく。
その成熟は、キリストの誕生を我がこころに迎えるための、なんらかの備えになる。
なぜなら、キリストの誕生とは、「ひとり生みの子ども」「神の子」
「ひとりであることのもたらし手」「世の己から生まれる人の己」の誕生であるのだから。
憂きわれをさびしがらせよ閑古鳥 芭蕉
人は、もし、鬱々としたもの思いに沈んでいるのなら、「寂しさ」という感情にまで辿りつくことで、「寂しさ」「ひとりぼっちであることの自覚」にまで徹してみることで、鬱々としたもの思いを突き抜けることができる。そして、この「ひとりであること」の自覚の上にこそ、キリストは寄り添ってくださるのかもしれない。
そして、「ひとりであること」の自覚を持つひとりとひとりが出会うところにこそ、精神は息づく。
世の拡がりから来る光が、
内において力強く生き続ける。
それはこころの光となり、
そして、精神の深みにおいて輝く。
稔りをもたらすべく、
世の己から生まれる人の己が、
時の流れに沿って熟していく。
2014年09月07日
こころのこよみ(第21週) 〜これまでにない稔りの力〜 (再掲)
わたしはこれまでにない稔りの力を感じる。
その力はしっかりとわたしにわたしみずからを与えてくれる。
わたしは感覚する、萌しが熟し、
そして予感が光に満ちて織りなされるのを。
内において、己の力として。
Ich fühle fruchtend fremde Macht
Sich stärkend mir mich selbst verleihn,
Den Keim empfind ich reifend
Und Ahnung lichtvoll weben
Im Innern an der Selbstheit Macht.
「これまでにない稔りの力」
夏の間、こころにおける葛藤を経て稼がれた、新しい感じ方、考え方、ものの捉え方。
夏が過ぎ行こうとしている、いま、
それらがいよいよこころに根付いてきていることを感じる。
夏は、豊かな自然の輝きが人に語りかけてくるときであったし、
人と人とが出会い、交わる季節だった。
しかし、みずからが孤独であることに思わず出くわしてしまうのは、
ひとりきりであるときよりも、
そんな人と人との間にいるとき、外の世が輝いているときかもしれない。
みずからが孤独であることに出くわして、
初めて人は孤独であることの意味を見いだそうと葛藤し始める。
そして葛藤するということは、みずからに問うということでもある。
みずからに問う人にこそ、答えはやってくる。
「いかにして、生きていくか」という問い。
その自問自答の繰り返しによる「問いを立てる力」が、
「わたしみずからの力」「己の力」としての「稔りの力」をわたしにもたらしてくれる。
その力は、秋という新しい季節における、
みずからが生まれ変わることへの予感、
みずからが甦ることへの予感をゆっくりとこころの内に光に満ちて織りなしていく。
そのようにして、秋とは内なる意識が明るんでいく季節だ。
意識が明るむ、とは何とありがたく、さいわいなことだろう。
わたしはこれまでにない稔りの力を感じる。
その力はしっかりとわたしにわたしみずからを与えてくれる。
わたしは感覚する、萌しが熟し、
そして予感が光に満ちて織りなされるのを。
内において、己の力として。
2014年09月02日
こころのこよみ(第20週) 〜享受し、消化し、仕事すること〜 (再掲)
2010年の12月から、2012年の12月まで2年間にわたって、ルードルフ・シュタイナーの『こころのこよみ』に沿って毎週書いていました。
過去の拙記事を読んでくださっている方が複数いて下さっていることもあり、またわたし自身の毎週毎日の生活の指針としても繰り返し辿り直したいので、当時の記事を適宜書き直すこともしながら、再掲しようと思います。
お付き合いくだされば、嬉しいです。
9月第一週は『こころのこよみ』第20週です。
わたしはいま、わたしのありようをこう感じる、
世にあるものから遠ざかれば、
みずからにおいてみずからが消え失せ、
そして、己の基の上にのみ立つならば、
みずからにおいてみずからをきっと殺してしまう。
So fühl ich erst mein Sein,
Das fern vom Welten-Dasein
In sich sich selbst erlöschen
Und bauend nur auf eignem GrundeIn
sich sich selbst ertöten müßte.
秋へと歩みを進めていくうちに、わたしたちは、夏の憶いを何度も反芻し、辿りなおす作業(勤しみ)をすることができる。
暑かったこの夏、何を想い、何を考え、何を感じ、何を欲したか・・・。
そう想い起こし、辿り直すことによって、人はみずからの内でだんだんと己の力が強まってきているのを感じる。
それは、<わたし>の目覚めの時期が秋の訪れとともに再び巡ってきたということでもある。
<わたし>の目覚め、己の力の強まり。
しかし、今週の『こよみ』においては、そのことから生まれる危うさに対して、バランスを取ることが述べられている。
世にあるものから遠ざかれば、
みずからにおいてみずからが消え失せ、
そして、己の基の上にのみ立つならば、
みずからにおいてみずからをきっと殺してしまう
『いかにして人が高い世を知るにいたるか』(鈴木一博訳)
(http://www.seikodo-print.co.jp/products/sub_36.html)の「条件」の章において、「人がだんだんにみずからを外の世に沿わせなくして、そのかわりに、いきいきとした内の生を育むこと」の大切さが書かれてあるが、それはこれからの季節にわたしたちが勤しむこととして、意識されていいところだ。
しかし、その内の生を育むことが、みずからの内に閉じこもることではないことも述べられている。
「(静かに、ひとりきりで、みずからを深める一時一時)には、
みずからが生きたこと、
外の世が語りかけてきたことを、
まさしく静かに、
ありのままに想ってみてほしい。
どの花も、どの動物も、どの振る舞いも、
そのような一時において、
思いもよらない秘密をあかすようになる」
そして更にこうある。
「享受した後に、
その享受したことからなにかが顕れるようにする人が、
みずからの知る才を培い、育てる。
その人が、きっと、
享受することだけをありのままに想うとかではなく、
享受しつづけることを諦めて、
その享受したことを内なる働きによって消化するということをこそ
習いとするようになる」
過ぎ行く現象の中で、何が過ぎ行かず、留まるものか、そう問う練習。
そして、外の世との交渉の中で、みずからの共感・反感そのものを見つめる練習をする。
あのときの喜び、痛み、快、不快が、何をわたしに教えてくれようとしているのか。そう問う練習。
そのような一時一時において、
「思いもよらない秘密」があかされる道がだんだんと啓かれてくる。
「<わたし>を世にむけて開いてほしい。
その人は、きっと、享受しようとする。
そもそも、享受すればこそ、
外の世がその人へとやってくる。
その人が享受することに対してみずからを鈍らせるなら、
周りから糧となるものを取り込むことができなくなった
植物のごとくになる。
しかし、その人が享受することにとどまれば、
みずからをみずからの内に閉ざす。
その人は、
その人にとってはなにがしかであっても、
世にとっては意味をもたない。
その人がみずからの内においていかほど生きようとも、
みずからの<わたし>をすこぶる強く培おうとも、
世はその人を閉め出す。
世にとってその人は死んでいる」
そして最後にこうある。
「密やかに学ぶ人は、
享受するということを、
ただみずからを世にむけて気高くする手立てと見てとる。
その人にとっては、
享受するということが、
世について教えてくれる教え手である。
しかし、
その人は享受することで教えを受けたのちに、
仕事へと進む。
その人が習うのは、
習ったことをみずからの知識の富として貯えるためではなく、
習ったことを世に仕えることのうちへと据えるためである」
秋から冬へと、みずからがみずからを促すことによって、己の力を強め、<わたし>を目覚めさせていくことができるが、それは、「仕事」をすること、「世に仕えること」へと繋げていくことによってこそ、その人の糧になっていく。
外の世との交渉を絶たないこと。
内において、メディテーションにおいて、外の世のことを深めること。
そして、その深まりから、外の世に働きかけていくこと。
それが、秋から冬にかけての密やかな学びにおける筋道だ。
わたしはいま、わたしのありようをこう感じる、
世にあるものから遠ざかれば、
みずからにおいてみずからが消え失せ、
そして、己の基の上にのみ立つならば、
みずからにおいてみずからをきっと殺してしまう。
2012年12月01日
こころのこよみ(第34週) 〜意気込みはどこから〜
密やかに、古くから保たれてきたものが、
新しく生まれてくる己のありようと共に、
内において活き活きとするのを感じる。
「それは、きっと、目覚めた世の数々の力を、
わたしの人生の外なる仕事に注ぎ込み、
そしてだんだんとわたしを、<ある>の内へと刻み込んでいくだろう」
Geheimnisvoll das Alt-Bewahrte
Mit neu erstandnem Eigensein
Im Innern sich belebend fühlen:
Es soll erweckend Weltenkräfte
In meines Lebens Außenwerk ergießen
Und werdend mich ins Dasein prägen.
世の力は、見えない。
しかし、常に漲っている。
漲りつつ、人に降り注ごうとしている。
そして、人みずからの意識が目覚めていればいるほど、
その世の力は、
この肉でできたからだの内で目覚めて、どんどん働いてくれる。
この肉をもったからだは、なんのためにあるのだろう。
この世で仕事をし、この世に仕え、
自分の周りの世をほんの少しずつでも善きものにしていくために、
このからだをわたしは授かっているのではないだろうか。
そして、そのように、
「からだを使って、今日も生きていこう」という意気込みはどこから生まれてくるのだろう。
日々、寝床から、起き上がれるということ。
手を動かして、洗顔できるということ。
ものを食べられるということ。
歩いて、行きたいところへ行くことができるということ。
子どもと遊ぶことができるということ。
そして、仕事ができるということ・・・。
これらすべてのことをするためには、意気込みがいる。
その意気込みは、自分自身で生み出すというよりも、
朝起きて、眠りから覚めて、おのずといただいている。
それは本当に恩寵だと感じる。
これこそが、世の力からの恵みではないか。
そして、この恩寵が恩寵であることに気づき、
そのことを意識して毎日生きる。
(この恵みを、わたしたち人はいかに高い世にいる方々からいただいているかという、
その仕組みを細やかに知っていくこと。
そのアントロポゾフィーの学びによって、
わたしはだんだんと意識的に生活を捉え、
親しい感謝の念いを抱くことができるようになってくると感じている)
この恩寵への感謝の日々を毎日生き続けていくことが、
この季節、きっと、わたしたちの外なる仕事に生きた力を吹き込んでくれる。
なぜなら、わたしたちは、秋から冬にかけてのこの季節に、
精神とこころの次元においていよいよ目覚めてくるからだ。
この目覚めは、毎日の恩寵に対する毎日の感謝から生まれる。
それ故に、この目覚めは、毎日を新しくする。
感謝できないときが、人にはあるものだ。
しかし、そんなとき、人は意識の上で夢見ている状態か、眠り込んでいる状態だ。
さあ、当たり前にできていることに、あらためて目を注いでみよう。
その恩寵にあらためて驚くことができるだろうか。
さらに、
あなたにとって、わたしにとって、
「密やかに、古くから保たれてきたもの」とは、何か。
その「密やかに、古くから保たれてきたもの」を想い起こすこと。学び直すこと。
そして、毎日の感謝から生まれる、「新しく生まれてくる己のありよう」。
このふたつが重なって、
生活が、外なる仕事が、そしてなにより、こころそのものが、活き活きと動き出す。
活き活きと動き出して、いよいよ、
わたしは、わたしとして、ますます、<ある>べきありようで<ある>ようになってくる。
わたしが、<わたしはある>というありように、なりゆくこと。
これこそが、豊かさであり、世に資するということではないだろうか。
2012年11月21日
こころのこよみ(第33週) 〜惟一つの無くてはならぬもの〜
わたしはいま、世をこう感じる。
それは、わたしのこころが共に生きることなしには、
そこにはただ、凍りついた虚しいいのちのみ、
そして、力が啓かれることもない。
人のこころにおいて、世は新しく創りなす。
世そのものにおいては、死を見いだすのみ。
So fühl ich erst die Welt,
Die außer meiner Seele Miterleben
An sich nur frostig leeres Leben
Und ohne Macht sich offenbarend,
In Seelen sich von neuem schaffend,
In sich den Tod nur finden könnte.
もし、わたしのこころが虚ろであったなら、
わたしにとって、この世は、死、死、死であろう。
このこころに、いのちを、生を、光を、もたらすのは、何だろう。
ルカ福音書にこうある。
汝さまざまの事により、心労す。
されど無くてはならぬものは多からず、
惟一つのみ
(ルカ伝第十章四一、四二節)
「惟一つの無くてはならぬもの」とは何であろう。
2012年11月14日
こころのこよみ(第32週) 〜委ね、任せられるときの「わたし」〜
わたしは、実りゆく己の力を感じる。
その力は、強められたわたしを世に委ねる。
わたしのわたしたるところを力強く感じる、
明るみへと向かうべく、
生きることの仕合わせが織りなされる中で。
Ich fühle fruchtend eigne Kraft
Sich stärkend mich der Welt verleihn;
Mein Eigenwesen fühl ich kraftend
Zur Klarheit sich zu wenden
Im Lebensschicksalsweben.
「実りゆく己の力」
「強められたわたし」
「わたしのわたしたるところ」
これらは、みな、
己から己を解き放ち、
己の小なる力を諦め、
大なるものに己を委ね、任せられるとき、
感じられるものではないだろうか。
今日という一日、明日、あさって・・・
「生きることの仕合わせが織りなされる中で」、
何が待っているのだろう。
小さなわたしがあれこれと采配していくのではなく、
大いなるものがわたしの生を織りなしてくれていることへの信頼を、
そこに見いだすことができたら。
そのときこそ、「わたしのわたしたるところ」「強められたわたし」が、
きっと顕れてくる。
今日も、丁寧に、牛のようにひたすら押しながら、
「明るみへと向かうべく」仕事をしていこう。
2012年11月04日
こころのこよみ(第31週) 〜「事」と「言」と「心」〜
精神の深みからの光が、
まるで太陽のように輝きだす。
それは生きる意欲の力になり、
そして、おぼろな感官に輝きいり、
力を解き放ち、
こころから創ろうとする力を
人の仕事において、熟させる。
Das Licht aus Geistestiefen,
Nach außen strebt es sonnenhaft.
Es wird zur Lebenswillenskraft
Und leuchtet in der Sinne Dumpfheit,
Um Kräfte zu entbinden,
Die Schaffensmächte aus Seelentrieben
Im Menschenwerke reifen lassen.
精神の深みからの光が、まるで太陽のように輝きだす
わたしたちは、太陽の輝きには馴染みがある。
しかし、上の文を読んで、
「まるで太陽のように輝きだす精神の深みからの光」をどう捉えていいものか、
途方に暮れはしないだろうか。
この文、これらのことばの連なりから、
どのようなリアリティーを摑むことができるだろうか。
ことばのリアリティーを摑むために、何度もこころの内に唱え、口ずさんでみると、どうだろうか。
水が集って流れるように声に出すことを「詠む」というそうだが(白川静『字訓』)、
そのような活き活きとした息遣いで味わってみる。
また、その川底に光るひとつひとつの石を見るように、
一音一音、味わうようにしてみる。
そのようにことばを味い、ことばの響きに耳を澄まそうとすることにより、
こころの静けさとアクティビティーを通して、
「精神の深みからの光」が、「事」として、だんだんと顕れてくる。
ここで言われている「事」と「言」が重なってくる。
また、過去に幾度か経験した「輝きだす」瞬間を想い起こし始める。
そのようにして、リアリティーの糸口が見いだされてくるにつれて、
いまこの瞬間において、「精神の深みからの光」が、こころに降りてくるのを感じ、覚える。
そのようにして、
「事(こと)」と「言(ことば)」と「心(こころ)」が、光の内に重なってくる。
その重なりが、こころの内なる化学反応のように生じてくるのを待つ。
「精神の深みからの光」。
その「光」こそが、
「生きる意欲の力になり」、
「こころから創ろうとする力を、人の仕事において熟させる」。
意欲をもって生きるとは、どういうことなのか。
自分の仕事において創造力が熟してくるとは、どういうことなのか。
まず、内なる「光」というもののリアリティーを得ることで、
それらのことが分かる道が開けてくる。
こころを暖め、熱くさせながら。
「事」と「言」と「心」が、さらに幾重にもかさなってくる。
今週、
精神の光が、生きる意欲の力になり、仕事を熟させていく。
その「事」を、ことばとこころで辿っていこう。
2012年10月29日
こころのこよみ(第30週) 〜秋の喜び、垂直性〜
こころの太陽の光の中でわたしに生じる、
考えることの豊かな実り。
みずからを意識することの確かさにおいて、
すべての感じ方が変わる。
わたしは喜びに満ちて感覚することができる、
秋の精神の目覚めを。
「冬はわたしの内に、
こころの夏を目覚めさせるだろう」
Es sprießen mir im Seelensonnenlicht
Des Denkens reife Früchte,
In Selbstbewußtseins Sicherheit
Verwandelt alles Fühlen sich.
Empfinden kann ich freudevoll
Des Herbstes Geisterwachen:
Der Winter wird in mir
Den Seelensommer wecken.
想い起こせば、この夏の日々、何を考えて生きているかと、
あらためてわたし自身に問うたとき、
大概は下らないことを考えていることに気づき、
やってきては過ぎ去っていく毎日をただなんとか凌いでいるだけじゃないかと、
自分に言ってしまいそうになった。
しかし、季節の巡りというものはしっかりとあり、
その巡りにつれて、こころの巡りというものもあって、
夏の頃は、
考えや情が、あちらこちらに引きずり回されて、しんどい思いをしていたにも関わらず、
秋がこうして深まってくると、
それまでの曖昧で不安定だった考える力の焦点が定まってきて、
本当にこころから考えたいことを考えられるようになってくる。
それは、自分の場合、本当に喜ばしいことで、
考える力に濁りがなくなってくると、
感情も清明になり、
意欲にも火がついてくるのだ。
そして、いい本、いい文章、いいテキストにも出会えるようになってくる。
生きることの意味。理想。
それらの考えが、
わたしにとって何よりも気力を育んでくれることを実感できる日々はありがたいものだ。
見えるものについてただ無自覚に考え、なんとなく思い続けているよりも、
見えないものへの信を深めるような考えを育んでいくことが、
どれだけ、こころを目覚めさせることか!
ものがただ並んでいる平面を生きることよりも、
ものというものにおける垂直を生きること。
秋から冬への生活とは、
そのような「ものへゆく道」「深みを見いだす生活」になりえる。
日々のアップ・アンド・ダウンというものではなく、
週を経るごとに、
こころが織りなされていくことを実感できるのは、
「わたしであること」の安らかさと確かさをもたらしてくれる。
ありがたいことだと思う。