[こころのこよみ(魂の暦)]の記事一覧

2015年09月29日

「こころのこよみ」pdf版 アップしました


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嬉しいことに、色々な所で、何人かの方が声をかけて下さって、
「ブログでの『こころのこよみ』の連載はどうなっているのか」と訊いて下さいます。

これまで三年続けて書き続けてきたのですが、ここでひとつまとまったかたちにしてみました。

『こころのこよみ』http://www.kotobanoie.net/data/koyomi.pdf
( pdf版です。ダウンロードして、見開きの仕様にしていただくと、読みやすくなります

今日9月29日は、ミヒャエルの祭りの日。

この日を機に、また新しく一年のこよみを、こころと重ね合わせながら詠んでいただき、メディテーションの糧にしていただければ幸いです。


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2015年08月12日

こころのこよみ(第19週) 〜繰り返される勤しみ〜 (再掲)



密(ひめ)やかさに満ちて新しく受けとめたものを

想い起こしつつ、包み込む。

それがわたしの勤しみの、さらなる意味となれ。

それは強められた己れの力を

わたしの内において目覚めさせ、

そして、だんだんとわたしをわたしみずからに与えていくだろう。




Geheimnisvoll das Neu-Empfang'ne             
Mit der Erinn'rung zu umschließen,            
Sei meines Strebens weitrer Sinn:             
Er soll erstarkend Eigenkräfte                
In meinem Innern wecken                  
Und werdend mich mir selber geben.  



先週の『こころのこよみ』にあった「世のきざしのことば」。

それは、まさに、密(ひめ)やかさに満ちて、内において、その人その人が、受け取るもの。

その「きざしのことば」は、
真夏の暑さの中で、
これまでの感じ方、考え方を、
拡げ、深め、壊してくれるようなもの。

そのような「きざしのことば」は、どの人にも、訪れていたのではないか。
それを聴こうとするならば、どの人の内においても、密やかながら、聴こえたのではないか。

もし、それを、この週、何度も何度も、意識の上に想い起こしつつ、
こころのまんなかに、置いてみるなら。

その「ことば」を何度もこころに包み込んでみるなら。

その繰り返される勤しみが、
その「ことば」と、<わたし>を、
だんだんと、
ひとつにしていく。    

「世のことば」が、「わたしのことば」になっていく。    

そんな、地味だけれども、繰り返しの行為こそが、
<わたし>の力を強めてくれる。

わたしのわたしたるところが、だんだんと、目覚めてくる。

今週の「こころのこよみ」に沿って練習すること。
それは、秋からの、新しい<わたし>への、備えとなるだろう。



密(ひめ)やかさに満ちて新しく受けとめたものを
想い起こしつつ、包み込む。
それがわたしの勤しみの、さらなる意味となれ。
それは強められた己れの力を
わたしの内において目覚めさせ、
そして、だんだんとわたしをわたしみずからに与えていくだろう。



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2015年08月03日

こころのこよみ(第18週) 〜新しい衣(ころも)〜 (再掲)


わたしはこころを拡げることができるのか、

受けとった世のきざしのことばを

己と結びつけつつ。

わたしは予感する、きっと力を見いだすことを。

こころをふさわしくかたちづくり、

精神の衣へと織りなすべく。



Kann ich die Seele weiten,                  
Daß sie sich selbst verbindet                 
Empfangnem Welten-Keimesworte ?           
Ich ahne, daß ich Kraft muß finden,           
Die Seele würdig zu gestalten,               
Zum Geisteskleide sich zu bilden. 



前の週の『こよみ』において、
世のことばが語りかけてきた。
「わたしの世のひろがりをもって、
あなたの精神の深みを満たしなさい」と。

夏の世の大いなるひろがり、
それに沿うことができたなら、
それは沿うた人に、
これまでの生き方、考え方、感じ方を越えるようなものを、
「贈りもの」として与えてくれる。

これを読んでくださっている皆さんには、
どのような「夏の贈りもの」が贈られただろうか。

その「贈り物」を受け入れる器。

その器が「こころ」であるならば、
わたしはみずからにあらためてこう問うことになる。

「わたしはこころを拡げることができるのか」

その問いに応えていくことが、
この夏から秋へと移っていく時期のテーマだと感じる。

新しい考え、価値観、ライフスタイル、人生観、世界観、
それらを「己と結びつけつつ」。

しかし、その結びつけは、きっと、外からの結びつけではなく、
内からおのずと生じてくる結びつきになるのではないだろうか。

夏という季節を精神的に生きる。
そのとき、外なる季節の移り変わりに応じるような、
内なる移り変わり、成熟へのおのずさがだんだんと身についてきているのを感じるかもしれない。

「わたしは予感する、きっと力を見いだすことを」

それは、
こころを拡げ、
こころを、精神から織られた衣(ころも)にする力。

衣(ころも)とは、万葉の昔から、
「恋衣」「旅衣」「染衣」のように、
深く、活き活きと、しみじみと息づく生活感情を言うことばとしてよく使われていたそうだ。
(白川静『字訓』より)

「ころも」も「こころ」も、
三つの o の母音から成り立つ、やまとことば。

それは、本来、
精神から凝(こご)るものとしての動き、
わたしたちのからだにまとうものとしての動きを、
音韻として顕わにしてはいないだろうか。

こころというものが、
精神というわたしのわたしたるところ・わたしの芯から、織りなされる。
そして、からだにまとう衣となって、
身のこなし、振る舞いのひとつひとつに顕れる。
しなやかに、柔らかく、輝きつつ。

そんな内なる力をきっと見いだす。

この夏から秋のはじめにかけてのテーマであり、
学び続けている人への励ましでもあるだろう。


わたしはこころを拡げることができるのか、
受けとった世のきざしのことばを
己と結びつけつつ。
わたしは予感する、きっと力を見いだすことを。
こころをふさわしくかたちづくり、
精神の衣へと織りなすべく。


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2015年07月26日

こころのこよみ(第17週) 〜閑さや岩にしみ入る蝉の声〜 (再掲)


世のことばが語る、

そのことばをわたしは感官の扉を通して

こころの基にまでたずさえることを許された。

「あなたの精神の深みを満たしなさい、

わたしの世のひろがりをもって。

いつかきっとあなたの内にわたしを見いだすために」



Es spricht das Weltenwort,          
Das ich durch Sinnestore                
In Seelengründe durfte führen:            
Erfülle deine Geistestiefen              
Mit meinen Weltenweiten,               
Zu finden einstens mich in dir.  



閑さや岩にしみ入る蝉の声  松尾芭蕉

「蝉の声」は耳に聞こえる。
時に、聴く人の全身を圧するように鳴り響く。

「閑さ」はどうだろうか。 
「閑さ」は、耳を傾けることによって、聞き耳を立てることによって、
初めて聴くことができるものではないだろうか。

「閑さ」とは、本来、耳という感官を超えた「感官」によって受け止められるものではないだろうか。

芭蕉は、「蝉の声」を通して「閑さ」を聴いたのだろうか。
「閑さ」を通してあらためて「蝉の声」が聞こえてきたのだろうか。

そして、芭蕉は、「蝉の声」の向こうに、「閑さ」の向こうに、何を聴いたのだろうか。

芭蕉は、旅しながらメディテーションをする中で、
そのふたつの聴覚の重なりの向こうに、
己が全身全霊で何かを受けとめるありさまを「おくのほそ道」に記した。

それは、芭蕉によるひとつの精神のドキュメントであり、
心象スケッチであり、
春から秋にかけての「こころのこよみ」であった。


この週の『こころのこよみ』に、
「世のことばが語る」とある。
わたしもことばを語る。
しかし、世がことばを語るとはどういうことだろうか。
「世のことば」が語るとはどういうことだろうか。

その「ことば」は、この肉の耳には聞こえないものである。
耳という感官を超えた「感官」によって受け止められるものである。
メディテーションを通して、
「こころの基にまでたずさえることを許された」ことばである。


    人が人というものの中心をいよいよ人の内へと移す。
   人が安らかさの一時(ひととき)に内において語りかけてくる声に耳を傾ける。
   人が内において精神の世とのつきあいを培う。
   人が日々のものごとから遠のいている。
   日々のざわめきが、その人にとっては止んでいる。
   その人の周りが静かになっている。
   その人がその人の周りにあるすべてを遠のける。
   その人が、また、そのような外の印象を想い起こさせるところをも遠のける。
   内において安らかに見遣るありよう、紛れのない精神の世との語らいが、
   その人のこころのまるごとを満たす。
   (中略)
   静けさからその人への語りかけがはじまる。
   それまでは、その人の耳を通して響きくるのみであったが、いまや、
   その人のこころを通して響きくる。
   内なる言語が ―内なることばが― その人に開けている。

        (『いかにして人が高い世を知るにいたるか』「内なる安らかさ」の章より)


この夏の季節にメディテーションをする中で、
精神の世が語りかけてくることば。

    あなたの精神の深みを満たしなさい、
   わたしの世のひろがりをもって。
   いつかきっとあなたの内にわたしを見いだすために。


この「いつか」とは、クリスマスの頃であろう。
この週の対のこよみが、第36週である。
http://kotobanoie.seesaa.net/article/410652960.html
そこでは、「世のことば」キリストが、
人のこころの深みにおいて密やかに語る。

芭蕉は、俳諧ということばの芸術を通して、四季の巡りと共に深まりゆくこころの巡りを詠った人である。

彼はいまも、夏の蝉の声という生命が漲り溢れている響きの向こうに、静けさを聴き取り、
その静けさの向こうに、「世のことば」を聴いているのではないか。



世のことばが語る、
そのことばをわたしは感官の扉を通して
こころの基にまでたずさえることを許された。
「あなたの精神の深みを満たしなさい、
わたしの世のひろがりをもって。
いつかきっとあなたの内にわたしを見いだすために」




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2015年07月23日

こころのこよみ(第16週) 〜黙ることのアクティビティー〜 (再掲)


精神からの贈りものを内に秘めよと、

我が予感がわたしに厳しく求める。

それによって、神の恵みが熟し、

こころの基にて、豊かに、

己であることの実りがもたらされる。




Zu bergen Geistgeschenk im Innern,   
Gebietet strenge mir mein Ahnen,               
Daß reifend Gottesgaben                     
In Seelengründen fruchtend                   
Der Selbstheit Früchte bringen.  



ことばを話すこと以上によりこころのアクティビティーを使うのは、黙ること。
沈黙を生きることを大切にすることによって生がだんだんと深まっていく。

この沈黙とは、
こころが滞っているがゆえではなくて、
アクティブにこころを慎むところから生まれる沈黙である。

話すことをやめるのではない。
ことばと、
そのことばを話そうとしている己と、
そのことばを聴こうとしている人を、
大切にしたいからこそ、
ことばを迎え、ことばを選び、ことばを運ぶのである。

ことば。
ことばを話す人。
ことばを聴く人。

その三者の間に世の秘密が隠れていて、
そこにこそ、精神からの贈りもの(神の恵み)が降りてくる。
そこにこそ、豊かさと貧しさの根源がある。 


精神からの贈りものを内に秘めよと、
我が予感がわたしに厳しく求める。
それによって、神の恵みが熟し、
こころの基にて、豊かに、
己であることの実りがもたらされる。


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2015年07月11日

こころのこよみ(第15週) 〜子どものように生きる〜


わたしは感じる、

まるで、世の輝きの中に、精神が魔法にかけられて織り込まれているようだ。

それはぼんやりとした感官において、

わたしのわたしなりであるところを包む。

わたしに力を贈るべく、

その力を力無き己れに授けるのは、

囲いの中にある、わたしの<わたし>。




Ich fühle wie verzaubert          
Im Weltenschein des Geistes Weben.    
Es hat in Sinnesdumpfheit        
Gehüllt mein Eigenwesen,        
Zu schenken mir die Kraft,        
Die, ohnmächtig sich selbst zu geben,   
Mein Ich in seinen Schranken ist.     



子どもの頃と違って、
若者である頃と違って、
わたしたちは歳をとるにしたがって、
自分自身というもの、
わたしの意識というもの、
自意識というものを、
大事にするようになるので、
夏になると、
それらが魔法にかかったように包まれ、力無く眠りこまされているような感覚に陥り、
困惑してしまう。

わたしのわたしたるところ、わたしの<わたし>が、
囲いの中にあるようだ。

しかし、こうしたありようが、
この季節特有の、かりそめのものだということを知っているならば、
わたしたちは困惑から抜け出ることができる。

このぼんやりとしたありよう、焦点が絞られていないありよう、
それは、大きく広がりをもった意識であるからこそ、そのようなありようなのだ。

そして、この意識の大きさ、拡がりからこそ、力が授けられようとしている。

だから、ぼんやりとした感官のありようを、思う存分、生きればいいのではないか。

夏のこの季節、
頭ではなく、手足を使うことで、大いなる世と繋がることに勤しむこと。
ある意味、子どものように生きること。
そうすることで、ぼんやりとしたありようではあるが、人は大いなる世から力を授かる。

たたとえ、いま、その力の贈り手であるわたしの<わたし>が、
魔法にかけられ、囲いの中にあるとしても、
そのように手足をもって生きることが、
来たる秋から冬に向けての備えとなる。
 
わたしの<わたし>が力に満ちたものになりゆく、秋から冬への。



わたしは感じる、
まるで、世の輝きの中に、精神が魔法にかけられて織り込まれているようだ。
それはぼんやりとした感官において、
わたしのわたしなりであるところを包む。
わたしに力を贈るべく、
その力を力無き己れに授けるのは、
囲いの中にある、わたしの<わたし>。



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2015年07月06日

こころのこよみ(第14週) 〜「世の考える」に任せてみる〜 (再掲)


感官の啓けに沿いつつ、

わたしはみずからを駆り立てるものを失った。

夢のような考え、それは輝いた、

己を奪い去るかのようにわたしを眠らせながら。

しかし、すでに目覚めさせつつわたしに迫っている、

感官の輝きの中に、世の考えるが。




An Sinnesoffenbarung hingegeben  
Verlor ich Eigenwesens Trieb,             
Gedankentraum, er schien                
Betäubend mir das Selbst zu rauben,         
Doch weckend nahet schon                
Im Sinnenschein mir Weltendenken. 



この季節、考える力が、本当に鈍ってくる。

「考える力」こそが、人を本来的に駆り立てる力なのに、
その力が失われているのを感じる。

夏の美しさが目や耳などを支配して、
美をたっぷりと味わうこともできる反面、
その情報量の多さに混乱してしまう危険性があるのも、この季節の特徴かもしれない。

内なる統一を与える「わたしの考える力」が失われて、
そのかわりに、もの想いに支配される時間が増えている。

その「もの想い(夢のような考え)」とは、
ものごとや人に沿って考えることではなくて、
ものごとや人について、手前勝手に想像してしまったり、
その想像にこころが支配されてしまって、その想いの中で行ったり来たりを繰り返すありようだ。

もの想いは、めくるめくようにわたしのこころの中を巡り、輝きわたり、
「己を奪い去るかのようにわたしを眠らせる」。

本当に自分の考えたいことを考えることで、人は目覚めることができる。
けれども、もの想いにふけることで、
人は夢を見ているような、あるいは、眠り込むようなありように陥ってしまう。

そんなありようを、どう受け止めたらいいだろう。

「人が考える」よりも、
「わたしが考える」よりも、
「世が考える」、そのことに己れを任せてみないか。

世は、
まごうことなく、
秩序と法則に従って時を生きている。

そして自分は、
すでにいるべき場所にいて、
すでに出会うべき人に出会っており、
すでにするべきことに向かっており、
すでに生きるべき人生を生きている。

そう、見直してみないか。

「わたしが考える」ことの力が失われてしまった、この時期だからこそ、
その「世の考える」「(恣意を挟まず)おのずからまぎれなく考える」に任せてみる。

夏のこの時期における、そのこころのモードチェンジは、
自分自身を統一する考える力がいったんは眠ってしまい、見失われたからこそ、
来たる秋から冬にかけて新しく鮮やかに自分自身で考える力が目覚めることへと、
わたしたちを導いてくれるだろう。



「見る」をもっと深めていくことを通して、
からだをもっと動かしていくことを通して、
感官を通して、だんだんと輝きが見えてくる。

頭であれこれ考えるよりも、
手足を動かすことを通して、手足で考える。
 
その手足の動きこそが、「世の考える」との親和性は高い。 
 
それは感官を超えたものを見いだし、感じ始めることでもあり、
理屈抜きで、この世のものというもの、ことということをなりたたせている基のところを垣間見ることでもある。
 
密やかなところを見いだせば見いだすほどに、
また顕わなところも、よりくっきり、はっきりと見えてくる。
 
そして、その見えてくるところが、ものを言い出す。
 
夏ならではのこころの練習として、
ものがものを言い出すまで、
からだを使ってみよう。
そして、からだをもって「見る」に徹してみよう。
 
その「動く」「見る」から聴きだされることば、伝えられる考え、
それらは、こころに直接響いてくる。
小賢しく考える必要がなく、
それらのことばと考えが、こころに直接「訪れる」。
 
その訪れるものを「世の考える」と、ここでは言っている。
 
 
この『こよみ』を追っていると、
まるで「いまの自分の生活、こころ模様そのものを記しているじゃないか」と感じることがよくある。
 
もの想いから抜け出す道を、わたしも、いま、探りつつ、汗を流して稽古をしつつ、歩いている。




感官の啓けに沿いつつ、
わたしはみずからを駆り立てるものを失った。
夢のような考え、それは輝いた、
己を奪い去るかのようにわたしを眠らせながら。
しかし、すでに目覚めさせつつわたしに迫っている、
感官の輝きの中に、世の考えるが。




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2015年06月28日

こころのこよみ(第13週) 〜金色の輝きの中、歌い、踊る〜


そして、我あり、感官の高みに。

ならば、燃え上がる、我がこころの深みにおいて、

精神の火の世から、

神々のまことのことばが。

「精神の基にて、予感しつつ、探し求めよ、

あなたを精神の縁とともに見いだすべく」



Und bin ich in den Sinneshöhen,             
So flammt in meinen Seelentiefen            
Aus Geistes Feuerwelten                  
Der Götter Wahrheitswort:                 
In Geistesgründen suche ahnend     
Dich geistverwandt zu finden.



これから始まる夏、
草木の緑、色とりどりの花々、空の青、太陽の光と熱、
活き活きと働いているその自然のいちいちから、
客観的な精神が人に語りかけてくる。

一行目の「我あり、感官の高みに」とは、
ものというもの、そのいちいちを、
じっくりと見、聴き、触れ、味わうことを通して、
普段見過ごし、聞き過ごしているものが、
よりものものしく、より明らかに、より動きを伴って、
見えてくる、聴こえてくるということと通じている。

感官の高み。
それは、こころの、細やかな、密やかな深まりとして、育まれるもの。

自然のいちいちに静かに眼差しを向け、その息遣いに耳を傾けてみよう。

その密やかさのうちに、
ことばが燃え上がるように響いてくる。

こころの深みにおいて、精神の火の世から、神々のまことのことばが。

「精神の基にて、予感しつつ、探し求めよ、
あなたを精神の縁とともに見いだすべく」


1922年ドルナッハでの講演録『四季の宇宙的イマジネーション』(水声社)を紐解いてみると、
夏に、そのような我がこころの深みに燃え上がることばのなんたるかが、
誰によって話されているかが、
シュタイナーによって指して説かれているのを読むことができる。

まことのことばを燃えるように人間に語りかけている神々。

客観的な精神。
 
その外なる精神は、この季節、金色に輝いている。

わたしたち人に燃え立つ炎のように語りかけている金色の精神。

この夏の外なる精神の方々が発する金色の輝きを浴びるわたしたちは、
冬、クリスマスの頃、みずからのこころの奥底、精神の基に、
内なる金色を輝かせることができよう。

来たる冬に、精神に縁のある、金色に輝く己自身をしっかりと見いだすことができよう。

夏のいまは、外なる金色の光に応じるように、
眼差しを注ぎ、耳を傾け、
さらには、踊り、歌を歌いながら音楽と詩を奏でることで、
冬に見いだすものを予感しつつ、探し求めるのだ。


そして、我あり、感官の高みに。
ならば、燃え上がる、我がこころの深みにおいて、
精神の火の世から、
神々のまことのことばが。
「精神の基にて、予感しつつ、探し求めよ、
あなたを精神の縁とともに見いだすべく」


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2015年06月21日

こころのこよみ(第12週) ヨハネ祭の調べ 〜子どもたちの歌声〜 (再掲)


世の美しい輝き、

それは、わたしをこころの深みから切に誘う、

内に生きる神々の力を

世の彼方へと解き放つようにと。

わたしは己から離れ、

信じつつ、ただみずからを探し求める、

世の光と世の熱の中に。



Johanni-Stimmung
Der Welten Schönheitsglanz,                   
Er zwinget mich aus Seelentiefen              
Des Eigenlebens Götterkräfte               
Zum Weltenfluge zu entbinden;            
Mich selber zu verlassen,            
Vertrauend nur mich suchend           
In Weltenlicht und Weltenwärme.        


今週のこよみには「ヨハネ祭の調べ」という副題がついている。

キリスト教が生まれる以前、古代諸宗教においては、
夏至を一年の頂点とするお祭りが熱狂的に行われていた。

人というものを導く神は、太陽におられる。

その信仰が人びとの生活を支えていた。

太陽が最も高いところに位置するこの時期に、
太陽におられる神に向かって、
人々は我を忘れて、
祈祷をし、捧げものをし、踊り、歌いながら、
その祭りを執り行っていた。

洗礼者ヨハネは、
その古代的宗教・古代的世界観から、
まったく新しい宗教・新しい世界観へと、
橋渡しをした人であった。

彼は、夏に生まれたというだけでなく、
いにしえの宗教における夏の熱狂を取り戻すべく、
まさしく、炎のような情熱をもって、
ヨルダン川のほとりにおいて、
全国から集まってくる人々に水をもって洗礼を授けていた。

しかし、彼は、これまでは太陽にあられた神が、
もうすぐこの地上に降りてこられることを知っていた。 

  「汝ら、悔い改めよ、天の国は近づけり」 (マタイ3.2)

そして、みずからの役目がそこで終わることをも知っていた。

  「わが後に来たる者は我に勝(まさ)れり、
  我よりさきにありし故なり」 (ヨハネ1.15)

  「我は水にて汝らに洗礼を施す、
  されど我よりも力ある者きたらん、
  我はそのくつの紐を解くにも足らず。
  彼は聖霊と火とにて汝らに洗礼を施さん」 (ルカ3.16)

  「彼は必ず盛んになり、我は衰ふべし」 (ヨハネ3.30)

ヨハネはイエスに洗礼を授け、
イエスのこころとからだに、
太陽の精神であるキリストが降り来たった。

それは、太陽の精神が、その高みから降りて、
地という深みへと降りたということであり、
ひとりひとりの人の内へと降り、
ひとりひとりの人の内において活き活きと働き始める、
その大いなる始まりでもあった。

「内に生きる神々しい力」とは、
人の内にこそ生きようとしている、
キリストのこころざし(Christ Impuls)。

ヨハネがそのことに仕え、みずからを恣意なく捧げたことが、
四つの新約の文章から熱く伝わってくる。

そのときからずっと、キリストは、この地球にあられる。

そのことをわたしたちは実感できるだろうか。

しかし、シュタイナーは、その実感のためには、
ひとりひとりの人からのアクティビティーが要ると言っている。

みずからの内において、
キリストがあられるのを感じることは、
おのずからは生じない。

人が世に生きるにおいて、
みずからを自覚し、自律し、自立させ、自由に己から求めない限りは、
その実感は生まれ得ない。

ヨハネ祭は、もはや、古代の夏至祭りではなく、
熱狂的に、我を忘れて祝うものではなく、
意識的に、我に目覚めて、キリストを探し求める祝い。

それは、この世を離れるのではなく、
この世を踏まえつつ、羽ばたくという、
わたしたち現代に意識的に生きる人という人の求めることでもある。

この夏の季節、
キリストは息を吐くかのように、
みずからのからだである地球から離れ、
世の彼方にまで拡がっていこうとしている。

わたしたち人も、
キリストのそのような動き・呼吸に沿うならば、
己から離れ、
己のからだとこころを越えて、
精神である「みずから」を見いだすことができる。

生活の中で、
わたしたちはそのことをどう理解していくことができるだろうか。

からだを使って働き、
汗を流し、
学び、
歌い、
遊ぶ、
それらの動きの中でこそ、
からだを一杯使うことによってこそ、
からだから離れることができ、
こころを一杯使うことによってこそ、
こころから離れることができ、
「世の光と世の熱の中に」みずからという精神を見いだすことができる。

そして、この夏において、
意識的に、子どもに、習うこと。

いまも、子どもたちは、わたしの目の前で、笹の葉にたんざくを吊るしながら、
けらけら笑い、歌い、踊っている。

ヨハネ祭のとき。
古代の人々は、鳥たちが歌うことから学びつつ、
その歌声を人間的に洗練させて音楽と詩を奏で、歌い、踊ったという。

鳥たちの声の響きは、大いなる世の彼方にまで響き渡り、
そしてその響きに応じて天から地球に精神豊かなこだまのようなものが下ってくる。

このヨハネ祭の季節に、
人は、鳥たちに学びつつ、歌い、踊ることによって、
己から離れ、
いまだ天に見守られている<わたし>を当時の夢のような意識の中に見いだすことができた。

いまも、
子どもたちは、幾分、古代の人たちの夢のような意識のありようを生きている。

そんな夏の子どもたちの笑い声と歌声をさえぎりたくない。
その響きはいまも彼方の世にまで届くのだから。

そして、わたしたちが己から離れ、
大いなる世、コスモスをより精神的に理解するほどに、
子どもたちの歌声に対するエコーのように、
ひとりひとりの<わたし>、「神々しい力」が、
天に見守られているのを見いだし、響き返してくれているのを聴き取ることができ、
この世の様々な状況に対応していく道を見いだしていくことができるのではないか。

言語造形をしていても、そう、実感している。

夏至の頃に、キリストは世の高みと拡がりに至ることによって、
毎年繰り返して、高揚感を覚えていると言う。

ヨハネ祭の調べ。

それは、ひとりひとりが外の世に働きかけることによって、
意識的に、目覚めつつ、みずからを高めつつ、
みずからという精神を見いだすこと。

そこから、地上的なキリスト教ではなく、
夏に拡がりゆくキリストの高揚を通して、
より大いなる世のキリストを見いだしていくこと。

そのことがキリスト以降、
改められた夏の祭りとしての、
ヨハネ祭の調べだと感じる。


世の美しい輝き、
それは、わたしをこころの深みから切に誘う、
内に生きる神々の力を
世の彼方へと解き放つようにと。
わたしは己から離れ、
信じつつ、ただみずからを探し求める、
世の光と世の熱の中に。



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2015年06月13日

こころのこよみ(第11週) 〜白日の下の美しさ〜 (再掲)


この太陽の時の中で、

あなたは、賢き知を得る。

世の美しさに沿いつつ、

あなたの内にいきいきとあなたを感じ切る。

<人のわたし>は、みずからを失い、

そして、<世のわたし>の内に、みずからを見いだすことができる。



Es ist in dieser Sonnenstunde   
An dir, die weise Kunde zu erkennen:      
An Weltenschönheit hingegeben,       
In dir dich fühlend zu durchleben:       
Verlieren kann das Menschen-Ich        
Und finden sich im Welten-Ich.        



世の美しさ」とは、決して表側だけの美しさを言っているのではないだろう。
この太陽の時の中で」は、
美しさも醜さも、素晴らしさも馬鹿馬鹿しさも、すべてが白日の下に晒される。
それらすべてが白日の下に晒され、光が当てられるからこそ、「世の美しさ」なのだ。

その晒されたものがなんであれ、
人はそれを経験し、生きなければならない。
そのような、のっぴきならないものが「世の美しさ」として感じられるだろうか。
そして、それに沿うことができるだろうか。

どんな単純なものごとであれ、複雑なものごとであれ、
どんな素晴らしいこと、酷いことであれ、
わたしたちは、そのものごと、できごとを見くびらずに、
その深みを見てとることができるだろうか。

ものごとは、なんであれ、
付き合い続けて、沿い続けて、
初めて、密やかに、その深さを打ち明け始める。

子どもの立てている寝息や家族の笑顔。
草木や花々の健気ないのちの営み。
日々つきあっている者同士の関係、愛、いさかい、葛藤。
毎日移り変わっていく世の動向。
人びとの集団的意識の移り行き。

それらひとつひとつが、その深みを顕してくれるのは、
はやばやと見くびってしまわずに、
こころをこめてそれに向き合い続け、沿い続けるときだ。

そして、ものごとに沿うという行為の、
肝心要(かなめ)は、
ものごとと<わたし>との関係において、
何が過ぎ去らず、留まるものなのか、
いったい何が本質的なことなのか、という問いをもつこと。

それが精神を通わせつつものごとに沿うことの糸口になる。
からだをもって振る舞い、こころから行為していくことの糸口になる。

その時、
捨てようとしなくても、
人は狭く小さなわたしを捨てることができるかもしれない。
 
そして、より広やかで深みをもった<世のわたし>の内に、
賢き知」と、
他の誰のでもない、
自分自身のこころざしが、
立ち上がってきはしないか。



この太陽の時の中で、
あなたは、賢き知を得る。
世の美しさに沿いつつ、
あなたの内にいきいきとあなたを感じ切る。
<人のわたし>は、みずからを失い、
そして、<世のわたし>の内に、みずからを見いだすことができる。



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2015年06月07日

こころのこよみ(第10週) 〜お天道様が見ているよ〜 (再掲)


夏の高みへと

太陽が、輝くものが、のぼる。

それはわたしの人としての情を連れゆく、

広やかなところへと。

予感しつつ、内にて動く、

感覚。ぼんやりとわたしに知らせつつ。

あなたはいつか知るだろう、

「神なるものが、今、あなたを感じている」



Zu sommerlichen Höhen            
Erhebt der Sonne leuchtend Wesen sich;     
Es nimmt mein menschlich Fühlen       
In seine Raumesweiten mit.           
Erahnend regt im Innern sich          
Empfindung, dumpf mir kündend,        
Erkennen wirst du einst:            
Dich fühlte jetzt ein Gotteswesen.       



これから来たる夏の太陽の光と熱によって、
植物の緑が、花のとりどりの色となって、上へ上へと燃え上がる。

鳥たちが、虫たちが、いよいよ高らかに、軽やかに、
夏の青空の高みに向かって、鳴き声を響かせ、
大いなる世、宇宙にその響きが拡がっていく。

太陽によって引き起こされるそんな植物と動物たちの働きが、
わたしたちの周りの夏の空気に働きかけているのを、
わたしたちは感じることができるだろうか。

もし、そういうことごとを人が感じつつ、
来たる夏を生きることができるならば、
みずからの、人ならではのところ、人であること、わたしであることもが、
ここよりも、さらに、高いところに、
さらに広やかなところにのぼりゆき、
天によって見守られることを、
情として感じることができるだろうか。



「お天道様が見ているよ」
幼い頃、このことばを親たちからよく聞いた。

おそらく、そのことばは、
古来、日本人がずっと我が子どもたちに言い伝えてきたものだろう。

「お天道様」それは、太陽の神様であり、
わたしたちに警告を発しつつ、
わたしたちを見守っている存在として、
常に高みにあるものとして感じていたものだったのだろう。

そして、いま、わたしたちは、その「お天道様」を、
人の人たるところ、<わたし>であるところとして感じているのではないだろうか。

「神なるものが、いま、あなたを感じている」とは、
「高い<わたし>こそが、いま、低い、普段の、わたしを見守ってくれている」
ということかもしれない。

わたしたちは、自分自身のこれまでの見方や感じ方や考え方から離れて、
改めて、この季節だからこそ、
「お天道様」に見守られていることを感じ、
「お天道様」からの視点、
「おのずから」なありかたで、
生きていくことができるだろうか。

見る眼を磨き、耳を澄ますなら、
きっと、予感と感覚が、教えてくれるだろう。


夏の高みへと
太陽が、輝くものが、のぼる。
それはわたしの人としての情を連れゆく、
広やかなところへと。
予感しつつ、内にて動く、
感覚。ぼんやりとわたしに知らせつつ。
あなたはいつか知るだろう、
「神なるものが、今、あなたを感じている」



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2015年06月01日

こころのこよみ(第9週) 〜失いなさい、見いだすために〜 (再掲)



我が意欲のこだわりを忘れ、
 
夏を知らせる世の熱が、満ちる、
 
精神とこころのものとしてのわたしに。
 
光の中でわたしを失くすようにと、
 
精神において観ることがわたしに求める。
 
そして強く、予感がわたしに知らせる、
 
「あなたを失いなさい、あなたを見いだすために」

 
 
 
Vergessend meine Willenseigenheit,
Erfüllet Weltenwärme sommerkündend
Mir Geist und Seelenwesen;
Im Licht mich zu verlieren
Gebietet mir das Geistesschauen,
Und kraftvoll kündet Ahnung mir:
Verliere dich, um dich zu finden.  
 
 
 
「わたしは、これをしたい、あれをやりたい、これをしなけりゃ、あれをしなけりゃ・・・」
 
そのような意欲というものも、内なる「熱」と言っていいのだけれども、
その意欲の中にある「こだわり」を忘れることができるだろうか。
「・・・しなければ」というような「恐れ」を忘れることができるだろうか。
 
朝、陽の光が輝き出すと、
その熱が、来たる夏を知らせてくれているように感じる。
 
そして、「熱いなあ」と感じるだけにせずに、
ずっと、その熱に問いかけるように、していると、
その陽の光から発せられている熱は、
自分が抱いている意欲の熱よりも、
はるかに、はるかに、巨大で、
太陽の意欲は、
わたしの意欲よりも、
はるかに、はるかに、強く、深く、遠くを見通しているかのような豊かさであると感じる。
 
そのような意欲の大いなる力は、太陽を通して、どこから来るのだろう。
 
シュタイナーは、『世と人のなりかわり』(全集175巻)の中で、
「父なるもの」からだと話している。
 
その「父なるもの」「そもそも世を創りし方、そしていまも創り続けている方」と人との出会いは、ひとりひとりの生涯の内に一度はきっとある。
 
人生の中で、己というもののこだわりを脱ぎ捨てられたことで、
夏の太陽のような巨大な輝きと熱、感動と驚きと畏敬の念いに満たされる時、
その出会いは生じる。
 
だから、子どもの頃、
丁度、これから始まる夏にかけて、
大いなる天空を仰ぎ、
そこに拡がる星ぼしに想いを重ね、
自分の感情と意欲を大いなる叡智に沿わせていくことは、
人生にきっと一度は生じる「父なるもの」との出会いに向けた良き備えになる。
 
人生の中で、このことばが、予感として、響くときが、きっとある。
 
   光の中で、あなたを失いなさい、あなたを見いだすために
 
 
我が意欲のこだわりを忘れ、
夏を知らせる世の熱が、満ちる、
精神とこころのものとしてのわたしに。
光の中でわたしを失くすようにと、
精神において観ることがわたしに求める。
そして強く、予感がわたしに知らせる、
「あなたを失いなさい、あなたを見いだすために」

  

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2015年05月27日

こころのこよみ(第8週) 〜聖霊が降り給う日々〜 (再掲)


感官の力が長けゆく、

神々の創り給うものに結びつけられて。

それは考える力を沈める、

夢のまどろみへと。

神々しいものが、

わたしのこころとひとつになろうとする時、

きっと人の考えるは、

夢のようなありようの中で、静かに慎んでいる。



Es wächst der Sinne Macht          
Im Bunde mit der Götter Schaffen, 
Sie drückt des Denkens Kraft           
Zur Traumes Dumpfheit mir herab.
Wenn göttlich Wesen           
Sich meiner Seele einen will,
Muß menschlich Denken  
Im Traumessein sich still bescheiden. 




感官の力(見る力や聴く力など)は、
ものに吸い寄せられてしまうこともあるだろう。
たとえば、テレビやこのコンピューターの画面などに。

しかし、ものに吸い寄せられたままではなく、
感官の力を、もっと意識的に、意欲的に、働かせ、
じっくりと腰を据えて、何かを見る、何かに耳を澄ませてみる・・・。

考える力が鎮められ、沈められる位、
見てみる、聴いてみる。

見れど飽かぬも、まさに、見てとればいよいよ飽かぬも。
なぜ、飽かぬのだろうか。
それは、見てとる、見る、見ゆ、に先立って、愛するがあるから・・・。
そのとき、そのときの、「愛する」から、
からだのおおいさ、実用の大事さが披かれる。

その時のこころのありようは、むしろ、
「考えるは、夢のようなありようの中で、静かに慎んでいる」
と表現することがぴったりとする。

そうすると、わたしたちは、何を受け取り、どのように感じるだろう。

この週は、聖霊降臨祭の週でもある。

約二千年前、
十字架刑の三日後にキリストは甦り(復活)、
その後四十日間に渡ってキリストは精神のからだをもって現われ、
当時の弟子たちに親しく語りかけたという。

しかし、キリストはその後十日間、弟子たちの前からその姿を消したという(昇天)。

その十日の間、
弟子たちは「夢のようなありようの中で静かに慎んで」いた。

ひとところに集まって、
静かに熱く、しかし夢にまどろんでいるようなありかたで祈っていた。

そして、聖霊降臨の日、
それは聖霊(聖き精神)が、
ともに集っている弟子たちに初めて降りてきて、
弟子たちがさまざまな言語をもって(個人個人がおのおの自分のことばで)、
そのキリストのことばとしての聖き精神を語り始めた日だった。

前週において、
「さあ、来たれ、わたしの予感よ、考える力に代わって」
とみずからの精神に呼びかけた。

その「予感」への呼びかけとは、
こざかしく考えることを止めて、
より大いなるものからの流れ(世の考え・キリストのことば)に耳を傾けるという行為だった。

それは、「静かに慎む」ありようをもって、
みずからを浄めつつ待つという行為でもある。

二千年後のわたしたちは、
考える力が失われてくるこの季節においても、
そのような備えをしようとアクティブにみずからをもっていくならば、
「神々しいものが、わたしのこころとひとつになる」聖霊降臨祭を、
自分たちのいまいる場所で立てていくことができるかもしれない。

「すべては神々の創り給うものである」
「神々しいものとこころがひとつになる」といったことを、
読む、言うにとどまらず、
予感し、実感し、見て、そのことを生きていくために、
からだを通して、実際の練習を意識的にしつづけていくことの大切さを感じる。

教育であれ、芸術であれ、
そこに、アントロポゾフィーの社会性が育っていく基盤があるのではないだろうか。



感官の力が長けゆく、
神々の創り給うものに結びつけられて。
それは考える力を沈める、
夢のまどろみへと。
神々しいものが、
わたしのこころとひとつになろうとする時、
きっと人の考えるは、
夢のようなありようの中で、静かに慎んでいる。



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2015年05月22日

こころのこよみ(第7週)〜芸術感覚、光と風〜 (再掲)


わたしのわたしたるところ、

それはいまにも離れ去ろうとしている、

世の光に強く引き寄せられて。

さあ、来たれ、わたしの予感よ、

あなたの力に満ちたふさわしさの中に、

考える力に代わって。

考える力は感官の輝きの中で、

みずからを見失おうとしている。




Mein Selbst, es drohet zu entfliehen,
Vom Weltenlichte mächtig angezogen.
Nun trete du mein Ahnen
In deine Rechte kräftig ein,
Ersetze mir des Denkens Macht,
Das in der Sinne Schein
Sich selbst verlieren will.



芸術への感覚、芸術を生きる感覚というものは、どの人の内側にもある。
ただ、それは意識して育まれることによって、
だんだんとその人のものになり、
表に顕れてくるものだろう。

その感覚を育むほどに、
この『こころのこよみ』を通しての密(ひめ)やかな学びにもリアリティーが生まれてくる。

人は、芸術に取り組むとき、
ある種の息吹きを受け、それを自分の中で響かせ、そしてその息吹きを解き放っていく。
大きな呼吸のような動き、風の動きの中に入っていく。
そのような大きな息遣いと自分自身の小さな息遣いとがひとつに合わさっていくプロセスが、
芸術における創造行為だと感じる。
言語造形をしていて、そのことをリアルに感じるのだが、
きっと、どの芸術のジャンルでも、そうではないだろうか。
そして、つまるところ、人が意識してする行為という行為が、きっと、芸術になりえる。

シュタイナーは、そのような、
芸術をする人に吹き込まれる息吹きを、インスピレーションと呼んだ。

そしてそのインスピレーションから、今度は息を吐き出すように何かを創ることが芸術である。

わたしたちの地球期以前の、月期からさらに太陽期に遡るときにおいて、
世に、物質の萌しとして、熱だけでなく、光と風が生じた頃に、
人は、インスピレーションを生きていた。
(Inspiration は、ラテン語の insprare (吹き込む)から来ている)

人は芸術を生きるとき、
その太陽期からの贈りものとして、
光と風を、いまや物質のものとしてではなく、
精神のものとして、インスピレーションとして、感じる。

    わたしのわたしたるところ、それはいまにも離れ去ろうとしている

一年の巡りで言えば、
わたしたちは、秋から冬の間に吸い込んだ精神の息、精神の風、「インスピレーション」を、
春から夏の間に解き放とうとしている。

秋から冬の間、
「わたしのわたしたるところ」「考える力」はそのインスピレーションを孕(はら)むことができたのだ。

「いまにも離れ去ろうとしている」とは、
春から夏の間のこの時期、
インスピレーションを孕んだ「わたしのわたしたるところ」「考える力」が変容して、
意欲の力として、からだを通して表に顕れ出ようとしている、
大いなる世へと拡がっていこうとしているということでもあるだろう。

    世の光に強く引き寄せられて

その精神の吐く息に連れられて、
拡がりゆく「わたしのわたしたるところ」「考える力」は、
外の世においてみずから空っぽになるほどに、光の贈りものをいただける。

その光の贈りものとは、「予感」という、より高いものからの恵みである。

    さあ、来たれ、わたしの予感よ、
   あなたの力に満ちたふさわしさの中に、
   考える力に代わって。



芸術とは、
インスピレーションという世の風に吹き込まれることであり、
予感という世の光に従うことである。
練習を通して初めてやってくる予感に沿っていくことである。
練習とは、身を使うことである。

インスピレーションを孕んだ考える力が、まずは頭から全身に働きかける。
その精神の息吹きを、練習によって、解き放っていく。
その息吹きが練習によって解き放たれるその都度その都度、
予感が、光として、ある種の法則をもったものとしてやってくる。

インスピレーションが、
胸、腕、手の先、腰、脚、足の裏を通して、
息遣いを通して、
芸術として世に供され、
供するたびに、
芸術をする人はその都度、予感をもらえるのだ。

この小さな頭でこざかしく考えることを止めて、
やがて己に来たるべきものを感じ取ろうとすること。

こざかしく考えることを止めること。
「さあ、来たれ、わたしの予感よ」と精神に向かって呼びかけつつ、動きつつ、待つこと。
それは、秋から冬の間、明らかに紛れなく考える働きとは趣きがまるで違うが、
アクティビティーにおいては、それに負けないぐらいの強さがいる。

世から流れてくるものを信頼すること。

そして、そのような、身の働きの中で、芸術行為の中で、予感が恩寵のようにやってくる。

だから、この季節において、考える力は、
感官の輝きの中で、手足の働きの中で、意欲の漲りの中で、
見失われていいのだ。

    考える力は感官の輝きの中で、
   みずからを見失おうとしている。




わたしのわたしたるところ、
それはいまにも離れ去ろうとしている、
世の光に強く引き寄せられて。
さあ、来たれ、わたしの予感よ、
あなたの力に満ちたふさわしさの中に、
考える力に代わって。
考える力は感官の輝きの中で、
みずからを見失おうとしている。




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2015年05月12日

こころのこよみ(第6週) 〜生活の中に根付いている信仰〜 (再掲)


己であることから蘇る、
 
わたしのわたしたるところ。そしてみずからを見いだす、
 
世の啓けとして、
 
時と場の力の中で。
 
世、それはいたるところでわたしに示す、
 
神々しいもとの相(すがた)として、
 
わたしの末の相(すがた)のまことたるところを。

 
 
 
Es ist erstanden aus der Eigenheit  
Mein Selbst und findet sich
Als Weltenoffenbarung             
In Zeit- und Raumeskräften;         
Die Welt, sie zeigt mir überall
Als göttlich Urbild
Des eignen Abbilds Wahrheit.

 

じっくりと見る。
じっくりと聴く。
じっくりと受けとる。
 
そのように世に向かって、人に向かって、
意識的に感官を開くほどに、
世も人も、ものものしく語りだす。
 
そして、世と人に向かって我が身を披けば披くほど、
我がこころが起き上がってくる、立ち上がってくる、蘇ってくる。
 
たとえば、幼い子どもを育てているとき、
大人の忙しさについつい子どもを巻き込んでしまうことがある。
 
そんな時、よく子どもは大人の意向にことごとく反発して、
ぐずったり、泣きわめいたりする。
 
しかし、
この「忙しさ」というこころの焦りに、
大人であるわたしみずからが気づけた時、
目の前の子どもにじっくりと眼を注ぐことができた時、
子どもの息遣いに耳をじっくりと傾けることができた時、
子どもが落ちつくことが、よくある。
 
そんな時、子どもがいっそう子どもらしく輝いてくる。
その子が、その子として、啓けてくる。
 
そして、そうなればなるほど、
眼を注いでいるわたし自身のこころも喜びと愛に啓けてくる。
わたしが、わたしのこころを取り戻している。
 
子どもを育てている毎日は、そんなことの連続。

きっと、子どもだけでなく、
お米その他の作物をつくったり、育てたりすることにおいても、
それを毎日している人には、
同じようなことが感じられているのではないだろうか。

子どもがいてくれているお陰で、
他者がいてくれているお陰で、
ものがあってくれるお陰で、
わたしはわたしのわたしたるところ、
わたしのまことたるところを見いだすことができる。
 
他者という世、
それはこちらが眼を注ぎさえすれば、
いたるところでわたしにわたしのまことたるところを示してくれる。
 
他者に、世に、
わたしのまことたるところが顕れる。
 
そのことも、不思議で、密やかで、かつリアルなことだが、
そのわたしのまことたるところが、
神々しい元の相(すがた)に相通じていることに気づいていくことは、
あらためて、
信仰ということに対する親しさをわたしたちに与えてくれる。
 
生活の中に根付いている信仰。
 
日々、つきあっているものというものや他者を通してこそ、
啓いていくことができる信仰。
 
もうすぐ、聖霊降臨祭がやってくる。
 
 
 
己であることから蘇る、
わたしのわたしたるところ。そしてみずからを見いだす、
世の啓けとして、
時と場の力の中で。
世、それはいたるところでわたしに示す、
神々しいもとの相(すがた)として、
わたしの末の相(すがた)のまことたるところを。


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2015年05月04日

こころのこよみ(第5週) 〜セザンヌ 画家の仕事とは〜 (再掲)


トロネの道とサント・ヴィクトワール山.jpg

リンゴとナプキン.jpg

首吊りの家.jpg

庭師ヴァリエ.jpg

座る農夫.jpg

大水浴図.jpg




精神の深みからの光の中で、

その場その場で実り豊かに織りなしつつ、

神々の創りたまうものが啓かれる。

その中に、こころそのものが顕れる、

ありありとした世へと広がりつつ、

そして立ち上がりつつ、

狭い己の内なる力から。




Im Lichte, das aus Geistestiefen
Im Räume fruchtbar webend
Der Götter Schaffen offenbart:
In ihm erscheint der Seele Wesen
Geweitet zu dem Weltensein
Und auferstanden
Aus enger Selbstheit Innenmacht.



画家とは、何をする人なんだろう。
セザンヌの絵を観て、そのことを考えさせられる。

道楽で絵を描くのではなく、
「仕事」として絵を描くとは、どういうことか。

セザンヌのことばによると、
「感覚を実現すること」、
それが彼にとって絵を描くことによってなしていきたいことであり、
彼の「仕事」だった。

彼が強い意欲をもって、ものを見ようとすればするほど、
ものの方が、彼をじっと見つめる、
自然が自然そのものの内に秘めている持続的な、強い、時に巨大な「もの」を彼に流し込んでくる。
それはすでに感官(目や耳などの感覚器官)を超えて受信される「もの」である。

そして、
自然からのそのような「もの」の流れに応じるかのように、
あまりにも巨大なセザンヌ自身の「こころそのもの」が顕れる。

その場その場の自然から流れ込んでくる「もの」。
そして、立ち顕れてくる彼自身の「こころそのもの」。
そのふたつの出会いそのものを、
キャンバスの上に、色彩で顕わにしろと、彼は自然そのものに求められる。

その求めに応えるのが、「感覚の実現」であろうし、彼の仕事であった。
その求めに応え続けたのが、彼の生涯だった。

世は、人に、
「その場その場で実り豊かに織りなしつつ神々が創りたまうもの」を啓いてほしいと、
希っている。

なぜなら、それによって、
人は、
「 狭い己の内なる力から、
 ありありとした世へと広がりつつ、
 自分の足で立ち上がりつつ、
 自分自身のこころそのものを顕わにする」ことができるからなのだろう。

セザンヌは、そのことを、意識的になそうとした人だと感じる。



精神の深みからの光の中で、
その場その場で実り豊かに織りなしつつ、
神々の創りたまうものが啓かれる。
その中に、こころそのものが顕れる、
ありありとした世へと広がりつつ、
そして立ち上がりつつ、
狭い己の内なる力から。


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2015年04月26日

こころのこよみ(第4週) 〜主と客、重ねてあわせて「わたし」〜 (再掲)


「わたしは、わたしのわたしたるところを感じる」

そう感覚が語る。

それは陽のあたる明るい世の内で、

光の流れとひとつになる。

それは考えるに、

明るくなるようにと、暖かさを贈り、

そして人と世をひとつにするべく、

固く結びつけようとする。





Ich fühle Wesen meines Wesens:
So spricht Empfindung,
Die in der sonnerhellten Welt
Mit Lichtesfluten sich vereint;
Sie will dem Denken
Zur Klarheit Wärme schenken
Und Mensch und Welt
In Einheit fest verbinden.




幼児は、たとえば、ことばというものに、一心に、全身全霊で、耳を傾ける。

からだまるごとを感覚器官にして、
聴くという仕事を一心にしている。

そのことによって、誰に手ほどきを受けるでなく、
こうごうしい力、精神によって、
ことばを習得していく。

からだは「ことば」の器になっていく。

幼児の内に、
そのように、からだをことばの器にするべく、おのずと力が働いてくれていた。

わたしたち大人は、
意識的に、その人から、仕事をしてこそ、
育まれるべきものが育まれ、
満たされるべきものが満たされる。

このからだは、何歳になっても、
まだまだ、育まれて、育まれて、おのれの感覚を深めていくことができる。

ものごとに対して判断しなければならないとき、
データや数値なども、なんらかの判断材料を提供してくれるが、
それに頼り切らず、
もっと、おのれのからだを通しての感覚を育んでいくことが、
おのれへの、人間への、信頼を取り戻していく上で、
大切な指針になっていくのではないだろうか。

その、感覚とは、そもそも、
わたしたちに何を語ってくれているのか、何を教えようとしてくれているのだろうか。

シュタイナーがここで使っている「感覚(Empfindung)」ということばは、
「受けて(emp)見いだす(finden)」からできていることばだ。

人によって受けて見いだされた光、色、響き、熱、味、触など。
それらが感覚であるし、
また、それらだけでなく、
(これまでの生理学や心理学では、そうは言わないらしいが)
それらによって起こってきた情、意欲、考えも、感覚なのだ。
なぜなら、みずからのこころというものも、
世の一部だからだ。

色や響きなど、外からのものを、人は感覚する(受けて見いだす)し、
情や意欲や考えという内からのものをも、人は感覚する(受けて見いだす)。

しかし、外からの感覚は、外からのものとして客として迎えやすいのだが、
内からの感覚は、内からのものであるゆえに、客として迎えにくい。
主(あるじ)としてのみずからと、
客である情や意欲や考えとを一緒くたにしてしまいがちだ。

主と客をしっかりと分けること、
それは客を客としてしっかりと観ることである。

みずからの情や意欲や考えを、
まるで他人の情や意欲や考えとして観る練習。

明確に主(あるじ)と客を分ける練習を重ねることで、
分けられた主と客を再びひとつにしていく力をも見いだしていくことができる。
その力が、こころを健やかにしてくれる。

主と客を明らかに分けるということは、
主によって、客が客として意識的に迎えられる、ということでもあろう。

そして、やってくる客に巻き込まれるのではなく、
その客をその都度ふさわしく迎えていくことに習熟していくことで、
主は、ますます、主として、ふさわしく立っていく力を身につけていくことだろう。

人が、外からのものであれ、内からのものであれ、
その客を客として意欲的に迎えようとすればするほど、
客はいよいよみずからの秘密を明かしてくれる。
感覚という感覚が、語りかけてくる。

外の世からの感覚だけでなく、
考え、感じ、意欲など、内に湧き起ってくる感覚を、
しっかりと客として迎えるほど、
その客が語りかけてきていることばを聴こうとすればするほど、
わたしは「わたしのわたしたるところ」を日々、太く、深く、成長させていく。

客のことばを聴くこと。
それが主(あるじ)の仕事である。

その仕事によって、
わたしは、みずからの狭い限りを越えて、
「わたしのわたしたるところ」をだんだんと解き明かしていくことができる。

主によって客が客として迎えられるというのは、
客によって主が主として迎えられるということであるだろうし、
それは、主と客がひとつになるという、
人と世との、もしくは人と人との、出会いの秘儀とも言っていいものではないだろうか。

そして、主と客がひとつになるときに、「わたし」がいよいよ明らかなものになっていく。
つまり、主=「わたし」ではなく、
主+客=「わたし」なのだ。

たとえば、セザンヌの絵や彼の残したことば、
もしくは、芭蕉の俳諧などに接し続けていると、
ものとひとつになることを目指して彼らがどれほど苦闘したか、
だんだんと窺い知ることができるようになってくる。

彼らは、世というもの、こころというものの内に潜んでいる大きな何かを捉えることに挑み、
そのプロセスの中で壊され、研がれ、磨かれ、
その果てにだんだんと立ち顕れてくる「人のわたし」というものへと辿りつこうとした。

彼らは、色彩というもの、さらに風雅(みやび)というものと、
ひとつになろうとする仕事を死ぬまでやり通した人たちだと感じる。

ものとひとつになるときこそ、
「人のわたし」ははっきりと立ち顕れてくることを彼らは知っていた。

感覚を客としてふさわしく迎えれば迎えるほど、
それは、「わたしのわたしたるところ」の拡がりと深みを語ってくれるし、
また、わたしはそのことばを情で聴き取るにつれて、
わたしは、客について、おのれについて、「わたし」について、
明るく、確かに、考えることができる。
そして、わたしと世がひとつであることへの信頼感をだんだんと得ていくことができる。



「わたしは、わたしのわたしたるところを感じる」
そう感覚が語る。
それは陽のあたる明るい世の内で、
光の流れとひとつになる。
それは考えるに、
明るくなるようにと、暖かさを贈り、
そして人と世をひとつにするべく、
固く結びつけようとする。



posted by koji at 23:57 | 大阪 | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月22日

こころのこよみ(第3週) 〜「語る」とは「聴く」こと〜 (再掲)


世のすべてに語りかける、

己を忘れ、

かつ、己のおおもとを肝に銘じながら、

人の育ちゆく<わたし>が、語りかける。

「あなたの内に、わたしは解き放たれる、

わたし自身であることの鎖から。

そして、わたしはまことわたしたるところを解き明かす」




Es spricht zum Weltenall,
Sich selbst vergessend 
Und seines Urstands eingedenk,
Des Menschen wachsend Ich:
In dir befreiend mich
Aus meiner Eigenheiten Fessel,
Ergründe ich mein echtes Wesen.




「語る」とは、「聴く」ことである。

そのことが、言語造形をしているとリアルに感じられてくる。

語り手みずからが聴き手となること。

頭で考えないで、聴き耳を立てながら、語るようにしていく。
ひらめきが語りを導いてくれるように。

「ひらめき」とは、語り手の己が空っぽになり、
その空っぽになったところに流れ込んでくる「ことばの精神」。
それはまるで、からだにまで流れ込んでくる生きる力のようだ。

その「ひらめき」「ことばの精神」は、
聴き耳を立てるかのようにして待つことによって、語り手に降りてくる。

「語る」とき、
自分が、こう語りたい、ああ語りたい、ということよりも、
「ことばというもの」「ことばの精神」に、耳を傾け、接近し、沿っていきつつ語る。

己を忘れて、
かつ、己のおおもと(ことばの精神)を頼りにしながら、
語り、語り合うことができる。

そのように、語り手が「ことばの精神」に聴き耳を立てながら語ることによって、
聴き手も「ことばの精神」に聴き耳を立てる。

そのような「ことばの精神」と親しくなりゆくほどに、
語り手、聴き手、双方の内なる<わたし>が育ちゆく。


だから、今週の「ことばのこよみ」での、
「世のすべてに語りかける」とは、
世のすべてから流れてくる「ことばの精神」に耳を傾けることでもある。

そのときに流れ込んでくる「ものものしい精神」「ありありとした精神」を感じることによって、
わたしは解き放たれる。
みずからにこだわっていたところから解き放たれる。

だから、たとえば、「他者に語りかける」時には、
こちらから必ずしもことばを出さなくてもよく、むしろ、
「他者をよく観る、他者の声に聴き耳を立てる」ということ。

そのような「語り合い」「聴き合い」においてこそ、
人は、みずからを知りゆく。
「ああっ、そうか、そうだったのか!」というような、
ものごとについての、他者についての、みずからについての、解き明かしが訪れる。

互いがよき聴き手であるときほど、対話が楽しくなり、豊かなものになる。

特に、この季節、
自然というものをよく観ることによって、聴き耳を立てることによって、
他者をよく観ることによって、他者のことばに聴き耳を立てることによって、
自然との対話の内に、
他者との対話の内に、
わたしは、わたし自身であることの鎖から解き放たれる。
そして、わたしは、まことわたしたるところを解き明かす。

芽吹き、花開くものたちにたっぷりと沿う喜びを積極的に見いだしていきたい。


世のすべてに語りかける、
己を忘れ、
かつ、己のおおもとを肝に銘じながら、
人の育ちゆく<わたし>が、語りかける。
「あなたの内に、わたしは解き放たれる、
わたし自身であることの鎖から。
そして、わたしはまことわたしたるところを解き明かす」



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2015年04月17日

こころのこよみ(第2週) 〜こころの農作業〜 (再掲)


外なるすべての感官のなかで、

考えの力はみずからのあり方を見失う。

精神の世は見いだす、

再び、人が芽吹いてくるのを。

その萌しを、精神の世に、

しかし、そのこころの実りを、

人の内に、きっと、見いだす。




Ins Äußre des Sinnesalls
Verliert Gedankenmacht ihr Eigensein;
Es finden Geisteswelten
Den Menschensprossen wieder,
Der seinen Keim in ihnen,
Doch seine Seelenfrucht
In sich muß finden.



わたしは、目を、耳を、もっと働かせることができるはずだ。
全身全霊で、ものごとにもっと集中して向かい合うことができるはずだ。
身というものは、使えば使うほどに、活き活きと働くことができるようになってくる。

たとえば、自然に向かい合うときにも、
たとえば、音楽に耳を傾けるときにも、
この外なるすべての感官を通して意欲的に見ること、聴くことで、
まったく新たな経験がわたしの中で生まれる。

ときに、からだとこころを貫かれるような、
ときに、浮遊感を伴うような、
ときに、もののかたちがデフォルメされて突出してくるような、
そのような感覚を明るい意識の中で生きることができる。

「外なるすべての感官の中で、考えの力はみずからのあり方を見失う」とは、
感覚を全身全霊で生きることができれば、
あれこれ、小賢しい考えを弄することなどできない状態を言うのではないか。

このようないのちの力に満ちたみずみずしい人のあり方。
それは、精神の世における「萌し」「芽吹き」だろう。

春になると、地球は息を天空に向かって吐き出す。
だからこそ、大地から植物が萌えはじめる。

そして、地球の吐く息に合わせるかのように、
人のこころの深みからも、意欲が芽吹いてくる。

春における、そんな人の意欲の萌し、芽吹きは、
秋になるころには、
ある結実をきっと見いだすだろう。

春、天に昇る竜は、
秋、地に下り行く。

中国では、その竜を聖竜とするそうだ。

それは、きっと、この時代を導こうとしている精神ミヒャエルに貫かれた竜だろう。

秋から冬にかけてキリストと地球のためにたっぷりと仕事をしたミヒャエルは、
その力を再び蓄えるために、
春から夏にかけて、キリストと地球のこころとともに、大いなる世へと、天へと、帰りゆく。
そしてまた、秋になると、ミヒャエルは力を蓄えて、
この地の煤払いに降りてきてくれるのだ。

わたしたちの意欲もミヒャエルの動きに沿うならば、
春に、下から萌え出てき、
感官を通して、ものを観て、聴いて、世の精神と結びつこうとする。

そして、秋には、上の精神からの力をもらいつつ再び降りてきて、
地に実りをもたらすべく、方向性の定まった活きた働きをすることができる。

だから、春には春で意識してやっておくことがあるし、
その実りをきっと秋には迎えることができる。

それは、こころの農作業のようなものだ。



外なるすべての感官のなかで、
考えの力はみずからのあり方を見失う。
精神の世は見いだす、
再び、人が芽吹いてくるのを。
その萌しを、精神の世に、
しかし、そのこころの実りを、
人の内に、きっと、見いだす。



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2015年04月11日

こころのこよみ(第1週) 〜復活祭の調べ〜


世の広がりから、

陽が人の感官に語りかけ、

そして喜びがこころの深みから、

光とひとつになる、観ることのうちに。

ならば、己であることの被いから広がり渡る、

考えが空間の彼方へと。

そしておぼろげに結びつける、

人というものをありありとした精神へと。




Wenn aus den Weltenweiten
Die Sonne spricht zum Menschensinn
Und Freude aus den Seelentiefen
Dem Licht sich eint im Schauen,
Dann ziehen aus der Selbstheit Hülle
Gedanken in die Raumesfernen
Und binden dumpf
Des Menschen Wesen an des Geistes Sein.



自分自身のこころが、
光とひとつになり、
喜びに溢れだす。

陽の光(外なる自然)と、
こころの光(内なる自然)が、
ひとつになる。

この春、わたしは、そんなおのれのありようを観ている。

ものをじっと見る。
ものもじっとわたしを見ている。

ものをじっと、見つめるほどに、
ものもわたしに応えようとでもしてくれるかのように、様々な表情を見せてくれるようになる。

そんな、わたしとものとの関係。

それは、意欲と意欲の交わりだ。

その交わりのなかからこそ、喜びが生まれる。

そして、喜びこそが、
わたしのこころを空間の彼方へと拡げてくれる。

とかく、狭いところで右往左往しがちな、わたしの考え。

だが、観ることによって生まれてくる喜びが、
わたしによって考えられる考えを、
自分なりの考え方、感じ方といういつものおのれの被いを越えて拡げてゆく。

それによって、新しく、生まれ変わったようなこころもち。
こころの甦り。
わたしだけが行うわたしだけの復活祭。

そして、ありありとした精神は、そこに。
生活を新しく開く鍵は、もうすぐ、そこに。

しかし、まだ、しっかりとは、その精神とは結びつくことができない。
ことばという精神が降りてくるまでには、聖霊降臨祭(復活祭の50日後)を待つこと。

いまは、おぼろげに、結びつくことができるだけだ。

そんなおのれのありようを観ている。


世の広がりから、
陽が人の感官に語りかけ、
そして喜びがこころの深みから、
光とひとつになる、観ることのうちに。
ならば、己であることの被いから広がり渡る、
考えが空間の彼方へと。
そしておぼろげに結びつける、
人というものをありありとした精神へと。






posted by koji at 22:40 | 大阪 ☀ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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