2011年09月27日

こころのこよみ(第21週)〜問いを立てる力〜

Ich fühle fruchtend fremde Macht

わたしはこれまでにない実りの力を感じる。

Sich stärkend mir mich selbst verleihn,

その力はしっかりとわたしにわたしみずからを与えてくれる。

Den Keim empfind ich reifend

わたしは感覚する、萌しが熟し、

Und Ahnung lichtvoll weben

そして予感が光に満ちて織りなされるのを、

Im Innern an der Selbstheit Macht.

内において、己の力として。



「これまでにない実りの力」とは、
「わたしがわたしに問いを立てる力」です。

簡単に問いに対する答えは出ないでしょう。

それは、秋から冬へかけての精神からの振る舞い、行為によって、
そのつどそのつど答えが見いだされていくからです。

しかし、
問いを立てられるということは、
自分が抱えていることがいったい何であるのか、
そのことが明らかになる、
そのことに意識的になるということであり、
「その力はしっかりとわたしにわたしみずからを与えてくれ」ます。

秋とは内なる意識が明るんでいく季節です。

夏の間は、
世との交わりを通して、
大いなる広やかな世からの知らせを通して、
わたしに漠とした予感が「萌し」のように与えられていました。
「わたしは何をすべきなのか」
「わたしは何をしたいのか」
そのような問いに対して、漠とした予感が与えられていました。

しかし、
秋からは、
わたしによってより明らかに問いが立てられるならば、
その意識の明るみを通して、
夏の間は予感にしか過ぎなかったものが熟し、
「光に満ちて織りなされて」いくのを見ることができるようになります。

そのより明らかな問いとは、
より細やかにみずからのこころのありようを見てとることをもって、
日々経験することや、
その経験することから生まれるみずからの感情が、
いったい何を自分に教えようとしてくれているのか、
と問いを立てることでもあるでしょう。

わたしに夏に与えられていた予感が、
「わたしのことがら」として熟し、
織りなされている「ことのがら」までをも、
意識の明るみの中に見ることができるようになってきます。

この時期には、
まず答えを安易に求めるのではなく、
明らかに問いを立てる力、
その「実りの力」を持つことによって初めて、
わたしに具体的な仕事や目標や生きがいが一歩一歩向こうから近づいてきます。

そう、
葛藤は続きます。
たやすく答えはやってきません。

しかし、そのような「自問自答」の繰り返し、
葛藤の繰り返しを重ねるほどに、
人は人になっていくのではないでしょうか。


「これまでにない実りの力」、
それは「問いを立てる力」であり、
「内における、己の力」です。


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2011年09月19日

こころのこよみ(第20週)〜享受し、消化し、仕事すること〜

So fühl ich erst mein Sein,

わたしはいま、わたしのありようをこう感じる、

Das fern vom Welten-Dasein 

世にあるものから遠ざかれば、

In sich sich selbst erlöschen 

みずからにおいてみずからが消え失せ、

Und bauend nur auf eignem Grunde 

そして、己の基の上にのみ立つならば、

In sich sich selbst ertöten müßte.

みずからにおいてみずからをきっと殺してしまう。




先週の『こころのこよみ』において
http://kotobanoie.seesaa.net/article/225478472.html
秋へと歩みを進めていくうちに、
夏の憶いを何度も反芻し、辿りなおす作業(勤しみ)をすることによって、
人はみずからの内でだんだんと己の力が強まってきているのを感じ、
己は何を考え、何を感じ、何を欲しているのかが、
明らかになってくることが記されてありました。

それは、
<わたし>の目覚めの時期が秋の訪れとともに再び巡ってきたということでもあります。

<わたし>の目覚め、己の力の強まり。

しかし、今週の『こよみ』においては、
そのことから生まれる危うさに対して、
バランスを取ることが述べられています。

世にあるものから遠ざかれば、
みずからにおいてみずからが消え失せ、
そして、己の基の上にのみ立つならば、
みずからにおいてみずからをきっと殺してしまう


『いかにして人が高い世を知るにいたるか』
http://www.seikodo-print.co.jp/products/sub_36.html
の「条件」の章において、
「人がだんだんにみずからを外の世に沿わせなくして、
 そのかわりに、いきいきとした内の生を育むこと」の大切さが書かれてあるのですが、
それはこれからの季節にわたしたちが勤しむこととして、
意識されていいところです。

しかし、その内の生を育むことが、
みずからの内に閉じこもることではないことも述べられています。

「(静かに、ひとりきりで、みずからを深める一時一時)には、
 みずからが生きたこと、
 外の世が語りかけてきたことを、
 まさしく静かに、
 ありのままに想ってみてほしい。
 どの花も、どの動物も、どの振る舞いも、
 そのような一時において、
 思いもよらない秘密をあかすようになる」

そして更にこうあります。

「享受した後に、
 その享受したことからなにかが顕れるようにする人が、
 みずからの知る才を培い、育てる。
 その人が、きっと、享受することだけをありのままに想うとかではなく、
 享受しつづけることを諦めて、
 その享受したことを内なる働きによって消化するということをこそ
 習いとするようになる」

過ぎ行く現象の中で、
何が過ぎ行かず、留まるものか、
そう問う練習。

そして、
外の世との交渉の中で、
みずからの共感・反感そのものを見つめる練習をする。

そのつどの喜び、痛み、快、不快が、
何をわたしに教えてくれようとしているのか。
そう問う練習。

そのような一時一時において、
「思いもよらない秘密」があかされる道がだんだんと啓かれてくる。

「<わたし>を世にむけて開いてほしい。
 その人は、きっと、享受しようとする。
 そもそも、享受すればこそ、
 外の世がその人へとやってくる。
 その人が享受することに対してみずからを鈍らせるなら、
 周りから糧となるものを取り込むことができなくなった植物のごとくになる。
 しかし、その人が享受することにとどまれば、
 みずからをみずからの内に閉ざす。
 その人は、
 その人にとってはなにがしかであっても、
 世にとっては意味をもたない。
 その人がみずからの内においていかほど生きようとも、
 みずからの<わたし>をすこぶる強く培おうとも、
 世はその人を閉め出す。
 世にとってその人は死んでいる」

そして最後にこうあります。

「密やかに学ぶ人は、
 享受するということを、
 ただみずからを世にむけて気高くする手立てと見てとる。
 その人にとっては、
 享受するということが、
 世について教えてくれる教え手である。
 しかし、
 その人は享受することで教えを受けたのちに、
 仕事へと進む。
 その人が習うのは、
 習ったことをみずからの知識の富として貯えるためではなく、
 習ったことを世に仕えることのうちへと据えるためである」


秋から冬へと、
みずからがみずからを促すことによって、
己の力を強め、<わたし>を目覚めさせていくことができますが、
それは、
「仕事」をすること、
「世に仕えること」へと繋げていくことによってこそ、
その人の糧になっていきます。

外の世との交渉を絶たないこと。

内において、外の世のことを深めること。

そして、その深まりから、外の世に働きかけていくこと。

それが、秋から冬にかけての密やかな学びにおける筋道です。




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2011年09月11日

こころのこよみ(第19週)〜憶い出を抱きしめる〜

Geheimnisvoll das Neu-Empfang'ne

密やかさに満ちて新しく受けとめたものを

Mit der Erinn'rung zu umschließen,

憶いとともに抱きしめる。

Sei meines Strebens weitrer Sinn:

それがわたしの勤しむこれからのこと。

Er soll erstarkend Eigenkräfte

それはきっと、強められた己の力を

In meinem Innern wecken 

わたしの内において目覚めさせ、

Und werdend mich mir selber geben.

そして、だんだんとわたしをわたしみずからに与えていくだろう。




よく「夏の憶い出」というようなことが歌にされますが、
それは、やはり、若い人と若い人との「出会い」、
特に男と女の出会いから生まれたこころ模様が歌われますよね。

それは「密(ひめ)やか」なこころ模様だからこそ、
歌になり、
人のこころを打ってきます。

この『こころのこよみ』を辿ってくることによって、
わたしはいまの中年の自分にふさわしい「夏の出会い」があったことを感じています(笑)。

そして、その「出会い」は、
若い男と女の出会いにも負けないくらいの「密やか」なものです。

なにせ、目に見えないもの、
ある「考え」
ある「方向性」
ある「理想」との出会いですから。

秋へと移りゆく季節の中で、
その「出会い」を「密やかさに満ちて新しく受けとめたもの」として、
大切にしたい、
「憶いとともに抱きしめ」ていきたいと感じています。

この理想に対する憶い出は、大切に包み込んでおかないと、
日々の生活の中でたやすく忘れ去られてしまいます。

理想に対して毎日、考えること、想い出すこと、
その勤しみの繰り返しが、きっと、己の力を強めます。

この繰り返しの道は、
秋のミヒャエル祭に向けて、
わたしの内なる目覚めが促され、
「わたしをわたしみずからに与えていく」、
つまり、
わたしがますますわたしになっていく道です。

posted by koji at 17:02 | 大阪 ☀ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月04日

こころのこよみ(第18週)〜こころを衣(ころも)に〜

Kann ich die Seele weiten, 

わたしはこころを拡げることができるのか、

Daß sie sich selbst verbindet

受けとった世のきざしのことばを

Empfangnem Welten-Keimesworte ? 

己と 結びつけつつ。

Ich ahne, daß ich Kraft muß finden,

わたしは予感する、きっと力を見いだすことを。

Die Seele würdig zu gestalten,

こころをふさわしくかたちづくり、

Zum Geisteskleide sich zu bilden.

精神の衣へと織りなすべく。




前の週の『こよみ』において、
世のことばが語りかけてきました。
「わたしの世のひろがりをもって、
 あなたの精神の深みを満たしなさい」と。

その語りをしかと聴き届けることができるかどうかは、
わたしたちの内なる成熟次第ですが、
ただ、耳を傾けようとするこころの構えはつくろうとすることができます。

夏の世の大いなるひろがり、
それに沿うことができたなら、
それは沿うた人に、
これまでの生き方、考え方、感じ方を越えるようなものを、
「贈りもの」として与えてくれました。

これを読んでくださっている皆さんには、
どのような「夏の贈りもの」が贈られたでしょうか。

その「贈り物」を受け入れる器。

その器が「こころ」であるならば、
わたしはみずからにあらためてこう問うことになります。

「わたしはこころを拡げることができるのか」

その問いに応えていくことが、
この夏から秋へと移っていく時期のテーマです。

新しい考え、価値観、ライフスタイル、人生観、世界観、
それらを「己と結びつけつつ」です。

しかし、その結びつけは、きっと、外からの結びつけではなく、
内からおのずと生じてくる結びつきになるのではないでしょうか。

夏という季節を精神的に生きようとした人には、
外なる季節の移り変わりに応じるような、
内なる移り変わり、成熟へのおのずさがだんだんと身についてきているのを感じるはずです。

「わたしは予感する、きっと力を見いだすことを」

それは、
こころを拡げ、
こころを衣(ころも)にする力。

衣(ころも)とは、万葉の昔から、
「恋衣」「旅衣」「染衣」のように生活感情を言うことばとしてよく使われていたそうです。
(白川静『字訓』より)

こころという器が、
精神というわたしのわたしたるところが身にまとう衣となるまでに、
柔らかく、輝きつつ、しなやかで、強いものになる力を、
きっと見いだす。

この秋のはじめのテーマであり、
学び続けている人への励ましでもあります。

posted by koji at 14:47 | 大阪 ☔ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月23日

こころのこよみ(第17週)〜世のことば〜

Es spricht das Weltenwort,

世のことばが語る、

Das ich durch Sinnestore

そのことばをわたしは感官の扉を通して

In Seelengründe durfte führen:

こころの基にまでたずさえることを許された。

Erfülle deine Geistestiefen

「あなたの精神の深みを満たしなさい、

Mit meinen Weltenweiten,

わたしの世のひろがりをもって。

Zu finden einstens mich in dir.

いつかきっとあなたの内にわたしを見いだすために」




この『こころのこよみ』を辿っていて、
その内実をどれほどにまで自分は理解しているのだろうかと思います。
いまの自分には、まだ分からない、悟れないことばかりだと感じています。

しかし、亀のような歩みではあっても、
この『こころのこよみ』という道の上を休まずに歩き続けていることは確かで、
去年の冬、クリスマス前から書き始めたのですが、
春、そしてこの夏と辿ってきて、
季節の趣きをこれまでにない深さで味わっています。

またこれから秋へと歩みを進めていき、冬、クリスマスを迎え、
また一年、そしてまた一年と、年を重ねていくにつれて、
この味わいは無限に深まっていくだろうと予感しています。

「世のことばが語る」。

この「世のことば」について、
去年のクリスマスから『こよみ』のことばを通して考えようとしてきました。
http://kotobanoie.seesaa.net/article/172848562.html
(この週の対である第36週です)

「世のことばが語る」、
それは「世のはじめのつくりなしのことばが語る」ということであり、
「キリストが語る」ということなのだという考えが、
だんだんと自分にとって縁遠いものではなくリアルなものに感じられてきます。

「世のことば」、キリストは、
いまや地球の精神であると、シュタイナーは語っています。

そして、一年の四季の巡りを意識的に生きることを通して、
人がその精神に出会うことをシュタイナーは希んで、
この『こころのこよみ』の仕事を仕上げました。

人がみずからのエーテルのからだをなりかわらせることで内に生まれる「生きることの精神」を通して、
その出会いは生じると言います。

もちろん、そのエーテルのからだのなりかわりは、
とても長い長い時の流れの中の練習から生じることでしょうが、
それでも毎年、季節の巡りを辿る練習をしていくうちに、
クリスマスイヴからの十三夜において、
そのキリストとの出会いがエーテルの域において生じるのを感じえます、きっと。

そのように、
夏から冬へ、また冬から夏へと、『こころのこよみ』を生きているうちに、
わたしたちは、
こころの基にまで、世のことばを、たずさえることが、許されます。
こうして辿っているからこそ、
「許している」のは、ほかの誰でも無く、この<わたし>であり、
またそれはキリストです。

「いつかきっとあなたの内にわたしを見いだす」

その「いつか」とは、きっと、いつの日かのクリスマスなのでしょう。

そしてクリスマスは、
いつの日でもありえます。

クリスマスを想いつつ、
この夏の終わりを生きたいと思います。

posted by koji at 22:46 | 大阪 ☁ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月15日

こころのこよみ(第16週)〜夏の贈りもの〜

Zu bergen Geistgeschenk im Innern,

精神からの贈りものを内に秘めよと、

Gebietet strenge mir mein Ahnen,

我が予感がわたしに厳しく求める。

Daß reifend Gottesgaben

それによって、神々しい恵みが熟し、

In Seelengründen fruchtend

こころの基にて、豊かに、

Der Selbstheit Früchte bringen.

己であることの実りがもたらされる。




8月も半ばになりました。

暑さはいまだ厳しいですが、
立秋も過ぎ、日一日とわたしたちは秋に向かっています。

「精神からの贈りもの」。

この夏の「精神からの贈りもの」は、なんだったんだろう。

そう、自分に問うています。

わたし個人においては、
娘ふたりが6歳と3歳で幼児期真っ只中ということもあり、
この夏、
「子どもというもの」「子どもであること」に毎日向かい合うところから、
漠とした予感ではありますが、
ある「贈りもの」を頂いているように感じています。

その「贈りもの」を、
もう少し、
内に大切に秘めておこうと思っています。

わたしにとって、
この「贈りもの」は、
これからの生き方を随分左右するものでは、という予感があります。

そして、日一日と秋へと進みゆくなかで、
「己であること」を、
新しく立て直してゆきたい。

そう希んでいます。

皆さんはこの夏、
どんな「精神からの贈りもの」を感じていますか?

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2011年08月06日

こころのこよみ(第15週)〜天使、それはわたしの<わたし>〜

Ich fühle wie verzaubert

わたしはまるで魔法にかけられたように感じる。

Im Weltenschein des Geistes Weben.

世の輝きの中の精神の織りなし。

Es hat in Sinnesdumpfheit

それはぼんやりとした感官において、

Gehüllt mein Eigenwesen,

わたしのわたしたるところを満たす、

Zu schenken mir die Kraft, 

わたしに力を贈るべく。

Die, ohnmächtig sich selbst zu geben,

その力を力無き己に授けるのは、

Mein Ich in seinen Schranken ist.

魔法にかけられているわたしの<わたし>だ。




世は、今、輝いています。

しかし、わたしたち人は、
その外的な輝きのまぶしさの中にみずからを見失いそうにもなっていました。

ただ、ヨハネ祭以降、
だんだんと地球の精神がその呼吸において、
吐くことによって世の彼方へと拡がりゆくことから、
吸うことによって地球へと戻ってくることへと移り変わっていることをも、
この『こころのこよみ』の第13週、第14週で順に追って見てきました。

そのことをわたしは、
予感として、
感情として、
あるいはリアルな実感として、
感じ取ることはできるだろうか。

そうみずからに問いつつ、
この夏を生きています。

なぜなら、
この『こころのこよみ』においては、
地球のいのちの織りなしとわたしのいのちの織りなしとを
ひとつに重ね合わせることが試みられようとしているのですから。

「世の輝きの中の精神の織りなし」、
それは、わたしにとっては、
天空に拡がりわたるものから地上の大いなる自然、
それらひとつひとつのものの内に織りなすものでもありますし、
また、目の前にいる子どもや朋友、
そして最も身近なパートナーという、
わたしにとっては他者の中の他者、
しかし最も親しい他者の内に織りなすものでもあります。
(もしくは、みずからのからだも、世の内です)

この夏、わたしは、この他者なる人を通して、
「輝きの内なる精神」からの予感、声を聴き取らせてもらえているように感じています。

生活をしていて、
働いていて、
実人生を生きていて、
己などというものは、
いかに力無きものかと、
いやというほど思い知らされることはないでしょうか。

他者との関係において、
こころが噛み合わない違和感やら、
ことばの無力さやら、
みずからのこころを律しきれない振る舞いなどを通して、
己の無力さを意識に突きつけられることはないでしょうか。

そんなとき、
己の無力さを自覚するからこそ、
初めて、
己よりも高いものがあることに想いが至る。

他者との関係において、
己よりも高いもの、
それはわたしの場合、みずからを見守ってくださっているであろう精神存在であり、
その他者を見守ってくださっているであろう精神存在に、
我がこころを向けること。

その高いものにこころを向けることによって、
いかにみずからのこころのそれまでの暗闇のようなありように、
光と熱と愛が差し込んでくるか。

それは、
いつものお決まりの地上の関係性を超えたところからやってくる、
天からの、精神からの、恵みのように感じます。

そして、
そのような地上における他者との関係があったればこそ、
わたしにそのようなこころのなりかわりが促されたのであり、
他者がいてくれたからこそ、
その他者から、
新しいこころもちとことばと力を贈られたことにも、
気づかされます。

それら、
より高い存在との関係、
地上のともがらとの関係、
両方あって、
わたしは学べます。

それは、
精神からの恩恵であるように感じますし、
魔法にかけられているようにも感じます。

わたしは、
みずからの力を超えた、
わたしよりも高い存在からの助け、
わたしよりも高い存在との共同作業によって、
これまでの仕事という仕事に取り組めてこれたと感じていますし、
これからもきっと、そうでしょう。

このわたしよりも高い存在を、
「わたしの<わたし>」と、
ここでは言っています。


posted by koji at 22:39 | 大阪 ☁ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月30日

こころのこよみ(第14週)

An Sinnesoffenbarung hingegeben

感官の啓けに沿いつつ、

Verlor ich Eigenwesens Trieb,

わたしはみずからを駆り立てるものを失った。

Gedankentraum, er schien

夢のような考え、それはまるで、

Betäubend mir das Selbst zu rauben,

己を奪い去るかのようにわたしを眠らせた。

Doch weckend nahet schon

しかし、すでに目覚めさせつつわたしに迫っている、

Im Sinnenschein mir Weltendenken.

感官の輝きの中に、世の考えるが。




この週の『こころのこよみ』を読んでいると、
子どものありようと相近しい人のありようが描かれているように感じます。

子どもは目覚めたありようで己を駆り立てようともしていないし、
ただ、感官が啓かれていることに無意識に沿うている。
世からの恩恵をからだいっぱいで享受している。
夏をめいっぱい楽しんでいる。

そして、これはうちの6歳の子どものことだから、
大勢の子どもに当てはまるかは分からないのだけれども、
この時期、子どもは精神の世に近いところにいるのではないかと感じるのです。

娘はこんな夏休みのまんなかで、
ソファかなんかに寛いで座りながら、

  「ああ、夏休み、ほんとに楽しいなぁ。
   わたし、いっぱい遊びたいし、いっぱい勉強もしたいの。
   それでね、いちばん勉強したいのはね、神さまのことなの。
   どうやって、この世界をつくったのかとか、
   人のからだをつくったのかとか、
   ほんとに、不思議だと思わない?」

とつぶやきました。

子育てをしていて、
子どもの方からこそ自分は学んでいるんだと感じさせられることが実にたくさんあります。

「ほんとに勉強したいのは、神様のこと」

子どもは、小さい頭で考えているのではなく、
いまだ大きな世のうちにいながら、考えている。

だから、子どもはわたしのこころの底の底の思いを思い出させてくれる。

夏のこのようなときだからこそ、
わたしたち大人も、
この子どものありように習うことがふさわしくはないだろうか。

子どもの輝くような素朴な考えるありようから、
わたしたち大人は、大切なこと(世の考える)を
思い出すことができるのではないだろうか。

子どもの輝き、
それは人と人が生を営みあう社会の中で、
絶対に失くしたくないものだ。

わたしたち大人は、
自分の頭で考えようとすることをいったん置いておいて、
子どもの高みからの広やかな考え、ことば、表情、息遣い、
それらに目を注いでみたら、
思わぬ新しいこころもちをもらえたり、
もしくは、生きていく上で本当に大切なことを思い出させてくれるかもしれない。

「感官の輝き」、
それは、子どもからの輝きを受けとることからでも、
リアルに感じ取ることができる。

そのとき、
自分の小さい頭で考えるよりも、
よりフレッシュな、
より本質的なことがらを、
恩恵のように受けとることができる時期でもあるように思います。

「すでに目覚めさせつつわたしに迫っている、
 感官の輝きの中に、世の考えるが」

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2011年07月23日

こころのこよみ(第13週)

Und bin ich in den Sinneshöhen,

そして、わたしは感官の高みにある。

So flammt in meinen Seelentiefen

すると、燃え上がる、我がこころの深みにおいて、

Aus Geistes Feuerwelten

精神の火の世から、

Der Götter Wahrheitswort:

神々しいまことのことばが。

In Geistesgründen suche ahnend

「精神の基にて、予感しつつ、探し求めなさい、

Dich geistverwandt zu finden.

精神としてのあなたを見いだすべく」




夏の間、
わたしたちは、
草木の緑、色とりどりの花々、空の青、太陽の光と熱、、
自然の現われという現れに魅せられ、惑わされ、入り込みます。

しかし、もし、ふさわしい感官と情を持っていれば、
活き活きと働いているその自然のいちいちから、
客観的な精神が人に向かってくる。

一行目の「わたしは感官の高みにある」とは、
ものというもの、そのいちいちを、
じっくりと見、聴き、触れ、味わうことを通して、
普段見過ごし、聞き過ごしているものが、
より明らかに、より動きを伴って、わたしの情を動かすように、
見えてくる、聴こえてくるということではないかと感じています。

人の感官というものは、
こちらからものに近づいていき、意欲を持って開こうとすればするほどに、
だんだんと開発されていくものです。

その感官の育みについて、シュタイナーは、
『いかにして人が高い世を知るにいたるか』
『テオゾフィー』
『密の学のあらまし』などという本において具体的に述べています。

感官の高い育み。
それは、こころの、細やかな、密やかな深まりとして、育まれるものです。

その密やかさのうちに、
ことばが燃え上がるように響いてくる。

こころの深みにおいて、精神の火の世から、神々しいまことのことばが。

「精神の基にて、予感しつつ、探し求めなさい、
 精神としてのあなたを見いだすべく」

からだとしてのわたしでなく、
こころとしてのわたしでなく、
精神としてのわたしを見いだす・・・。

1922年ドルナッハでの講演録『四季の宇宙的イマジネーション』(水声社)を紐解いてみると、
夏に、そのような我がこころの深みに燃え上がることばのなんたるかが、
誰によって話されているかが、
シュタイナーによって指して説かれているのを読むことができます。

まことのことばを燃えるように人間に語りかけている神々しい方々。

客観的な精神。

そのようなシュタイナーが語ってくれる目に見えない存在について、
信じ込むのではなく、
考えることを通して、
もし、そのような存在を、わたしの、上に、感じながら、この夏を生きていくとするなら、
わたしの生活は、
内なる生活は、
どのようになっていくだろう。

そう自分に問いながら、毎日を過ごしています。

自分だけに目を注ぐのではなくて、
自分の上、自分の下、自分の左右、自分の前後、
そこにはわたしよりも高い方々が生きている、語りかけてくれている、
そう意識して生活していくこと。


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2011年07月18日

こころのこよみ(第12週)〜ヨハネ祭の調べ〜

Der Welten Schönheitsglanz,

世の美しい輝き、

Er zwinget mich aus Seelentiefen

それは、わたしにこころの深みから強いる、

Des Eigenlebens Götterkräfte

内に生きる神々しい力を

Zum Weltenfluge zu entbinden;

世の彼方へと解き放つようにと。

Mich selber zu verlassen,

わたしは己から離れ、

Vertrauend nur mich suchend

信じつつ、ただみずからを探し求める、

In Weltenlicht und Weltenwärme.

世の光と世の熱の中に。



今週のこよみには「ヨハネ祭の調べ」という副題がついています。

アントロポゾフィーによる宗教改新運動であるキリスト者共同体においては、
洗礼者ヨハネの誕生日である6月24日に近い日曜日から4週間の間、
ヨハネ祭を祝うそうです。

わたしも、共同体に属してはいないのですが、この4週間、
ヨハネ祭のこころもちとはどのようなものなのかを、
探りつつ生活をしていました。

キリスト教が生まれる以前、古代諸宗教においては、
夏至を一年の頂点とするお祭りが熱狂的に行われていました。

人というものを導く神は、太陽におられる。

その信仰が人びとの生活を支えていたのです。

太陽が最も高いところに位置するこの時期に、
太陽におられる神に向かって、
人々は我を忘れて、
祈祷をし、捧げものをし、踊り、歌いながら、
その祭りを執り行ってきました。

洗礼者ヨハネは、
その古代的宗教・古代的世界観から、
まったく新しい宗教・新しい世界観へと、
橋渡しをした人でありました。

彼は、夏に生まれたというだけでなく、
いにしえの宗教における夏の熱狂を取り戻すべく、
まさしく、炎のような情熱をもって、
ヨルダン川のほとりにおいて、
全国から集まってくる人々に水をもって洗礼を授けていました。

しかし、彼は、これまでは太陽にあられた神が、
もうすぐこの地上に降りてこられることを知っていました。 

  「汝ら、悔い改めよ、天の国は近づけり」 (マタイ3.2)

そして、みずからの役目がそこで終わることをも知っていました。

  「わが後に来たる者は我に勝(まさ)れり、
   我よりさきにありし故なり」 (ヨハネ1.15)

  「我は水にて汝らに洗礼を施す、
   されど我よりも力ある者きたらん、
   我はそのくつの紐を解くにも足らず。
   彼は聖霊と火とにて汝らに洗礼を施さん」 (ルカ3.16)

  「彼は必ず盛んになり、我は衰ふべし」 (ヨハネ3.30)

ヨハネはイエスに洗礼を授け、
イエスのこころとからだに、
太陽の精神であるキリストが降り来たりました。

それは、太陽の精神が、その高みから降りて、
地という深みへと降りたということであり、
ひとりひとりの人の内へと降り、
ひとりひとりの人の内において活き活きと働き始める、
その大いなる始まりでもありました。

「内に生きる神々しい力」とは、
人の内にこそ生きようとしている、
キリストのこころざし(Christ Impuls)です。

ヨハネがそのことに仕え、みずからを恣意なく捧げたことが、
四つの新約の文章から熱く伝わってきます。

そのときからずっと、キリストは、この地球にあられる。

そのことをわたしたちは実感できるでしょうか。

しかし、シュタイナーは、その実感のためには、
ひとりひとりの人からのアクティビティーが要ると言っています。

みずからの内において、
キリストがあられるのを感じることは、
おのずからは生じない。

人が世に生きるにおいて、
みずからを自覚し、自律し、自立させ、自由に己から求めない限りは、
その実感は生まれ得ないと言います。

ヨハネ祭は、もはや、古代の夏至祭りではなく、
熱狂的に、我を忘れて祝うものではなく、
意識的に、我に目覚めて、キリストを探し求める祝いです。

それは、この世を離れるのではなく、
この世を踏まえつつ、羽ばたくという、
わたしたち現代に意識的に生きる人という人の求めることでもあります。


この夏の季節、
キリストは息を吐くかのように、
みずからのからだである地球から離れ、
世の彼方にまで拡がっていこうとしている。

わたしたち人も、
キリストのそのような動き・呼吸に沿うならば、
己から離れ、
己のからだとこころを越えて、
精神である「みずから」を見いだすことができる。

生活の中で、
わたしたちはそのことをどう理解していくことができるでしょうか。

からだを使って働き、
汗を流し、
学び、
歌い、
遊ぶ、
それらの動きの中でこそ、
からだを一杯使うことによってこそ、
からだから離れることができ、
こころを一杯使うことによってこそ、
こころから離れることができ、
「世の光と世の熱の中に」みずからという精神を見いだすことができる。

そう、実感しています。

夏至の頃に、キリストは世の高みと拡がりに至ることによって、
毎年繰り返して、高揚感を覚えていると言います。

ヨハネ祭の調べ。

それは、ひとりひとりが外の世に働きかけることによって、
意識的に、目覚めつつ、みずからを高めつつ、
みずからという精神を見いだすこと。

そこから、地上的なキリスト教ではなく、
夏に拡がりゆくキリストの高揚を通して、
より大いなる世のキリストを見いだしていくこと。

そのことがキリスト以降、
改められた夏の祭りとしての、
ヨハネ祭の調べだと感じます。





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2011年07月11日

こころのこよみ(第11週)

Es ist in dieser Sonnenstunde

この太陽の時の中で、

An dir, die weise Kunde zu erkennen:

あなたは、賢き知を得る。

An Weltenschönheit hingegeben,

世の美しさに沿いつつ、

In dir dich fühlend zu durchleben:

あなたの内にいきいきとあなたを感じつつ。

Verlieren kann das Menschen-Ich

<人のわたし>は、みずからを失い、

Und finden sich im Welten-Ich.

そして、<世のわたし>の内に、
みずからを見いだすことができる。




シュタイナーの語る「神々しいもの」、
それらは、感官(目や耳などのからだの働き・器官)を通しては覚えられないものです。

感官を通して覚えられるものは、感官と同じ質を持つ物質のものです。

「神々しいもの」だけではなく、
「人のこころ」「人の精神」も「考え」も「情」も「意志」も、
感官では覚えられません。
実のところ、<わたし>というものも、感官では覚えられません。

しかし、人は「わたしは、わたしだ」と知っています。

では、どのようにして、
この「わたしは、わたしだ」で言っているところの<わたし>を覚えることができるのか?

それは、まぎれもなく、「考えるを見る」から覚えられます。

「考える<わたし>を見る」からこそ、
<わたし>が覚えられ、
「わたしは、わたしだ」と言えます。

「考える」は、普段、外のものに向かうのですが、
外のものに向かわず、
「考えるみずから」にその「考える」を向けると、
後追いですが、
「考えるみずから」が覚えられます。

「考えるみずから」、
それが、<わたし>です。

<わたし>とは、感官を超えたものです。

その<わたし>の覚え方を深め、強めていく、
その覚え方に習熟していくに従って、
「神々しいもの」を覚える道が啓かれていく。

なぜなら、その<わたし>こそが、
「知」のおおもとであり、
「神々しいもの」からのひとしずくであり、
「神々しいもの」に通じるものであるからです。



しかし、この夏という季節においては、
「人の<わたし>は、みずからを失う」とあります。

それは、秋や冬の季節におけるように、
己の内を見続けていても、
もしくは、己の内で考え続けていても、
もはや、そこにはいのちをもたらすような活き活きとした知は見いだされず、
「太陽の時の中で」、
「世の美しさに沿いつつ」でこそ、
「賢き知」である<わたし>を得ることができるのであり、
「世の<わたし>の内」でこそ、活き活きとみずからを見いだすことができる、
ということです。

考える力が沈んでいく夏における<わたし>の覚え方。

それは、
からだを動かすこと、手を動かすこと、足を動かすこと、汗を流すこと、
からだをもって、外に出て、ものというものの<わたし>、
人という人の<わたし>に出会うこと、
からだを通して、「賢き知」を得ていくこと、
それは、
感官を通して、感官を超えたものを受けとっていくことに通じていきますし、
それが、「世の<わたし>」を見いだすということです。

「世」の内に、
「もの」の内に、<わたし>がある。

そして、やがて、「神々しいもの」が啓けてくる。

それは、春から夏にかけて、稲を育みつつ、日本人がずっと歩んできた、
「ものへゆく道」とも通じます。


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2011年07月02日

こころのこよみ(第10週)

Zu sommerlichen Höhen

夏の高みへと

Erhebt der Sonne leuchtend Wesen sich;

太陽が、輝くものが、のぼる。

Es nimmt mein menschlich Fühlen

それはわたしの人としての情を連れゆく、

In seine Raumesweiten mit.

広やかなところへと。

Erahnend regt im Innern sich

予感しつつ、内にて動く、

Empfindung, dumpf mir kündend,

感覚。ぼんやりとわたしに知らせつつ。

Erkennen wirst du einst:

あなたはいつか知るだろう、

Dich fühlte jetzt ein Gotteswesen.

「神々しいものが、今、あなたを感じている」




夏至を過ぎて、
外には熱が日一日と増していく中、
内にはしっかりとした考えにまとまらなくて、
ただ、漠とした予感として、ずっとこころの内に育ってきているもの。

『こころのこよみ』に沿って、
我がこころを観つつ、
世の大きな時の流れ(四季の移り変わり)との重なりをいくばくとでも感じ取っていくと、
いま、このこころに育っている「予感」が、
ある確かさと安らかさをもたらしてくれていることを実感できる。

その「予感」が、わたしに、
「あなたを失いなさい、あなたを見いだすために」と知らせてくれている。

そのことを先週の『こよみ』でみた。

しっかりと考えることをもってとらえられないとしても、
さらに次のことを情が教えてくれている。

のぼりゆく太陽とともに、
予感が、そして「内にて動く感覚」が、
わたしの広がりゆく情に応じるように教えてくれている。

「神々しいものが、今、あなたを感じている」と。

神々しいもの、
それは、わたしたち地に生きる人たちの、
考えの織りなし、
さらに考えを越えた情のところ、
夢のような意識のところ、
いわゆる道徳性を感じている。

わたしたちは、確かさと安らかさの情をもって、
その「神々しいもの」の情と向かい合うのか。

それとも、不確かさと入り乱れた情で、
「神々しいもの」と向かい合うのか。

しかし、そもそも、わたしたちは、
その「神々しいもの」という、
目や耳でとらえられない存在に、
どう向き合うことができるのだろう。(続く)

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2011年06月23日

こころのこよみ(第9週)

Vergessend meine Willenseigenheit,

我が意欲のこだわりを忘れ、

Erfüllet Weltenwärme sommerkündend

夏を知らせる世の熱が、満たす、

Mir Geist und Seelenwesen;

精神とこころのものとしてのわたしを。

Im Licht mich zu verlieren

光の中でわたしを失くすようにと、

Gebietet mir das Geistesschauen,

精神において観ることがわたしに求める。

Und kraftvoll kündet Ahnung mir:

そして強く、予感がわたしに知らせる、

Verliere dich, um dich zu finden.

「あなたを失いなさい、あなたを見いだすために」




この『こころのこよみ』においては、
世から人に与えられるものと、
人から世に捧げるものとが、
交錯している。

世から、いま、熱が、わたしのこころと精神に与えられている。

もちろん、わたしのからだに、
日一日と、じりじりと熱が与えられている。

しかし、この3月11日に起こったことをきっかけとして、
これから迫ってくる夏の暑さへの対応の仕方が、
外的にも内的にも変えられていくならば、
この外的なからだへの熱を、
わたしは内的なこころと精神への熱に変換できるだろうか。

世から熱として与えられているものを、
まこと、精神としてわたしは受け取ることができるだろうか。

もし、熱というものを、
外的なだけでなく、
内的に、精神とこころへのものとして受け取ることができるのなら、
「我が意欲のこだわり」は、
恩寵のように遠のいている。

そして、その恩寵を与えつつ、
熱と、光と、予感が、(聖霊、聖き精神が)
わたしに求めること。

それは、「あなたを失いなさい、あなたを見いだすために」。

さて、わたしは、その世からの求めに応じることができるだろうか。

この『こころのこよみ』を通して、
季節の中で、
わたしはわたしを試してみたいと思っている。




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2011年06月12日

こころのこよみ(第8週)

Es wächst der Sinne Macht            

感官の力が長けゆく、

Im Bunde mit der Götter Schaffen,         

神々の創りたまうものに結びつけられて。

Sie drückt des Denkens Kraft           

それは考える力を沈める、

Zur Traumes Dumpfheit mir herab.         

夢のまどろみへと。

Wenn göttlich Wesen               

神々しいものが、

Sich meiner Seele einen will,            

わたしのこころとひとつになろうとする時、

Muß menschlich Denken              

きっと人の考えるは、

Im Traumessein sich still bescheiden.        

夢のようなありようの中で、静かに慎んでいる。





今日、6月12日は聖霊降臨祭の日である。

約二千年前、
十字架刑の三日後にキリストは蘇り(復活)、
その後四十日間に渡ってキリストは精神のからだをもって現われ、
当時の弟子たちに親しく語りかけたという。

しかし、キリストはその後十日間、弟子たちの前からその姿を消したという(昇天)。

その十日の間、
弟子たちは「夢のようなありようの中で静かに慎んで」いた。

ひとところに集まって、
静かに熱く、しかし夢にまどろんでいるようなありかたで祈っていた。

そして、聖霊降臨の日、
それは聖霊(聖き精神)が、
ともに集っている弟子たちに初めて降りてきて、
弟子たちがさまざまな言語をもって(個人個人がおのおの自分のことばで)、
そのキリストのことばとしての聖き精神を語り始めた日だった。



前週において、
「さあ、来たれ、わたしの予感よ、考える力に代わって」
とみずからの精神に呼びかけた。

その「予感」への呼びかけとは、
こざかしく考えることを止めて、
より大いなるものからの流れ(世の考え・キリストのことば)に耳を傾けるという行為だった。

それは、「静かに慎む」ありようをもって、
みずからを浄めつつ待つという行為でもある。

二千年後のわたしたちは、
考える力が失われてくるこの季節においても、
そのような備えをしようとアクティブにみずからをもっていくならば、
「神々しいものが、わたしのこころとひとつになる」聖霊降臨祭を、
自分たちのいまいる場所で立てていくことができるかもしれない。


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こころのこよみ(第7週)

Mein Selbst, es drohet zu entfliehen,         

わたしのわたしたるところ、それはいまにも離れ去ろうとしている、

Vom Weltenlichte mächtig angezogen.         

世の光に強く引き寄せられて。

Nun trete du mein Ahnen               

さあ、来たれ、わたしの予感よ、

In deine Rechte kräftig ein,              

あなたの力に満ちたふさわしさの中に、

Ersetze mir des Denkens Macht,           

考える力に代わって。

Das in der Sinne Schein               

考える力は感官の輝きの中で、

Sich selbst verlieren will.              

みずからを見失おうとしている。




わたしから離れ去ろうとしているもの(わたしのわたしたるところ、考える力)。

そして、わたしの中に入ってこさせようとしているもの(予感)。

このふたつの働きのうち、
前者はおのずからな働きである。

世の光と熱が、わたしの考える力をだんだんとまどろませていく。

しかし、後者はわたしが「さあ、来たれ、わたしの予感よ」と精神に向かって呼ばなければ、
やってこない働きである。

そして、「予感よ、来い」と呼びかけるそのことは、どのような行為だろう。

それは、この小さな頭でこざかしく考えることを止めて、
やがて己に来たるべきものを感じ取ろうとすること。

こざかしく考えることを止めるということ。
それは、秋から冬の間、明らかに紛れなく考える働きとは趣きがまるで違うが、
アクティビティーにおいては、それに負けないぐらいの強さがいる。

世から流れてくるものを信頼すること。

ものというものに感官を開いて、
世の流れそのものを観ようとすること。




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2011年06月06日

こころのこよみ(第6週)

Es ist erstanden aus der Eigenheit  

己であることから蘇る、

Mein Selbst und findet sich

わたしのわたしたるところ。そしてみずからを見いだす、

Als Weltenoffenbarung             

世の啓けとして、

In Zeit- und Raumeskräften;         

時と場の力の中で。

Die Welt, sie zeigt mir überall

世、それはいたるところでわたしに示す、

Als göttlich Urbild

神々しいもとの相(すがた)として、

Des eignen Abbilds Wahrheit.

わたしの末の相(すがた)のまことたるところを。





じっくりと見る。
じっくりと聴く。
じっくりと受けとる。

そのように世に向かって、人に向かって、
意識的に感官を開くほどに、
世も人も、ものものしく語りだす。

そして、世と人に向かって我が身を披けば披くほど、
我がこころが起き上がってくる、立ち上がってくる、蘇ってくる。

たとえば、幼い子どもを育てているとき、
大人の忙しさについつい子どもを巻き込んでしまうことがあります。

そんな時、よく子どもは大人の意向にことごとく反発して、
ぐずったり、泣きわめいたりします。

しかし、
この「忙しさ」というこころの焦りに大人みずからが気づけた時、
目の前の子どもにじっくりと眼を注ぐことができた時、
子どもの息遣いに耳をじっくりと傾けることができた時、
子どもが落ちつくこと、
よくありませんか。

そんな時、子どもがいっそう子どもらしく輝いてくる。
その子が、その子として、啓けてくる。

そして、そうなればなるほど、
眼を注いでいるわたし自身のこころも喜びと愛に啓けてくる。

子どもを育てている毎日は、
そんなことの連続ですね。

きっと、子どもだけでなく、
お米その他の作物をつくったり、育てたりすることにおいても、
それを毎日している人には同じようなことが感じられているのではないでしょうか。

子どもがいてくれているお陰で、
他者がいてくれているお陰で、
ものがあってくれるお陰で、
わたしはわたしのわたしたるところ、
わたしのまことたるところを見いだすことができる。

他者という世、
それは眼を注ぎさえすれば、
いたるところでわたしにわたしのまことたるところを示してくれる。

他者に、世に、
わたしのまことたるところが顕れる。

そのことも、不思議で、密やかで、かつリアルなことですが、
そのわたしのまことたるところが、
神々しい元の相(すがた)に相通じていることに気づいていくことは、
あらためて、
信仰ということに対する親しさをわたしたちに与えてくれはしないでしょうか。

すでに生活に根付いている信仰。

日々、つきあっているものというもの、人という人を通してこそ啓いていくことができる信仰。

もうすぐ、聖霊降臨祭がやってきます。

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2011年05月29日

こころのこよみ(第5週)

Im Lichte, das aus Geistestiefen

精神の深みからの光の中で、

Im Räume fruchtbar webend

その場その場で実り豊かに織りなしつつ、

Der Götter Schaffen offenbart:

神々の創りたまうものが啓かれる。

In ihm erscheint der Seele Wesen

その中に、こころそのものが顕れる、

Geweitet zu dem Weltensein

ありありとした世へと広がりつつ、

Und auferstanden

そして立ち上がりつつ、

Aus enger Selbstheit Innenmacht.

狭い己の内なる力から。






物質という物質のおおもとは、光。
光から、すべての物質はできている。

そして、こころというこころのおおもとは、愛。
愛から、すべてのこころは生まれている。

そのことをシュタイナーは『カルマの開示』という連続講演の第10講で述べています。

わたしたちの周りにあるすべての物質には、
世の考えが潜んでいる。

だからこそ、わたしたち人は、
物質を感官を通して迎え、
また物質について考えることで、
その物質に潜んでいる世の考えに、
己が考えた考えを重ねることができる。

つまり、その物質について知る。理解する。

それは、「人が考える」という光を放つ行為が、
世の考えという「神々が考える」ことから生まれた光と、
ひとつに合わさることです。

この世にある物質という物質には、
すべて叡智が通っています。

その叡智は、まさに、「神々が創りたまうもの」。

それら外に繰り広がっている物質という物質、ものというものに、
感官を向ければ向けるほど、感覚は語りだす。
そしてその感覚に導かれるように、
わたしたちの考える働きも光とともに、愛とともに、
外のものというものに向かっていく。(第4週)

その、外のものから受けた感覚と、
人の内からの考えとが、
合わさることによって、
初めて、
そのものを「知る」に至ります。

外の世を知るという行為は、
まさに「神々の創りたまうもの」を啓くこと。

そして、外の世を知ることとは、
別の言い方をするならば、
狭い自分を越えて、
新しい自分をその場その場で立てていくこと。

もしくは、
ものというもの、それぞれと、
自分のこころとが、
ひとつに合わさっていくこと。
その合わさりから、
「こころそのものが顕れる」こと。

人は、
ものを知るごとに、
「ああ、そうか」という内なる光に恵まれ、
ものを知るほどに、
ものへのこころが、ものへの愛が深まりゆきます。

外の世を知ること、
それは、光と愛を合せゆくことです。


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2011年05月22日

こころのこよみ(第4週)

Ich fühle Wesen meines Wesens:     

「わたしはわたしのわたしたるところを感じる
            
So spricht Empfindung,         

そう感覚が語る。

Die in der sonnerhellten Welt      

それは陽のあたる明るい世の内で、

Mit Lichtesfluten sich vereint;     

光の流れとひとつになる。

Sie will dem Denken          

それは考えるに、

Zur Klarheit Wärme schenken       

明るくなるようにと、暖かさを贈り、

Und Mensch und Welt
          
そして人と世を

In Einheit fest verbinden.

ひとつにするべく、固く結びつけようとする。







2行目の「Empfindung 感覚」というもの。

そのことばは、emp(受けて)finden(見いだす)という動詞から生まれた名詞です。

「感覚」とは、「人によって受けて見いだされるところ」であり、
更に言えば、「人のからだを通して受けて見いだされるところ」です。

人のからだは、
その人によってふさわしく使われれば使われるほどに、
ものごとというものごとを深く、繊細に、明瞭に、受けて見いだすことのできる器になりえます。




この『こころのこよみ』は、
人へ仕事をするようにと呼びかけています。

昔のこよみが、おもに農事という仕事の区切りや節目を知らせていたように、
この『こころのこよみ』は、現代において、
人がみずからのこころとからだを耕す仕事への誘(いざな)いです。

この季節、
確かに、こころは内向きから外向きへとその方向を変えているのが感じられます。

春になり、気温が緩んでくると、
人はからだも緩まりますし、こころも解け、
冬の間、どちらかというと、内向きだったこころの向きが、
外の自然へと、外の事象へと、おのずと向かいます。

しかし、その方向転換は、現代人においてはいまだ無意識に起こっていることです。

いま、わたしたちは、おのれのこころとからだの耕しのために、
意識的に、積極的に、外の事象、ものごとを、
感覚器官を通して受けて見いだしていくことを学んでいくことができます。

花をじっと見る。

人のことばをじっと聴く。

陽の暖かさを、風のそよぎを肌にじかに感じる。

これまでよりも、意識的に、積極的に、じっと受けとってみる。

そのような行為によって、
今週の『こよみ』にあるように、だんだんと、
「わたしはわたしのわたしたるところを感じる」と感覚が語りだすようになるのではないか。

それは、移ろいやすい感覚ではなく、
ひとところに安らかにとどまり続けることによって、
ものごとの深み、生命、精神が見いだされてくるような感覚。

その感覚は同時に、その人自身の深み、生命、精神をも呼び出す。

そして、そのこころの安らかさから、
考える、そのありようが、冷たさから、暖かさへと変容していく。

ものごとを、人を、愛をもって、考えられるようになっていくことへの誘い。

人とものごとを、
人と人を、
人と世を、
ひとつにすることへの誘い。

それが、今週の『こころのこよみ』です。





幼児は、ことばというものに、一心に、全身全霊で、耳を傾けます。

からだまるごとを感覚器官にして、
聴くという仕事を一心にしています。

そのことによって、誰に手ほどきを受けるでなく、
こうごうしい力、精神によって、
ことばを習得していきます。

からだは「ことば」の器になっていきます。

幼児の内に、
そのように、からだをことばの器にするべく、おのずと力が働いてくれていました。

わたしたち大人は、
意識的に、その人から、仕事をしてこそ、
育まれるべきものが育まれ、
満たされるべきものが満たされます。

このからだは、
まだまだ、育まれて、育まれて、おのれの感覚を深めていくことができます。

ものごとに対して判断しなければならないとき、
データや数値もある判断材料を提供してくれますが、
それに頼り切らず、
もっと、おのれのからだを通しての感覚を育んでいくことが、
おのれへの、人間への、信頼を取り戻していく上で、
大切なテーマになっていきます。


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2011年05月15日

こころのこよみ(第3週)

    Es spricht zum Weltenall,

   世のすべてに語りかける、

   Sich selbst vergessend

    己自身を忘れ、

   Und seines Urstands eingedenk,

   かつ、みずからの根源を肝に銘じながら、

   Des Menschen wachsend Ich:

   人の育ちゆく<わたし>が語りかける。

   In dir, befreiend mich

   「あなたの内に、わたしは解き放たれる、

   Aus meiner Eigenheiten Fessel,

   わたし自身であることの鎖から。

   Ergründe ich mein echtes Wesen.

   そして、わたしはまことわたしたるところを解き明かす」




人との出会い。

それが、この週の『こころのこよみ』のことばとわたしとが、重なるところです。

大震災、そして原発問題がわたしの意識の上に覆いかぶさり続けているからこそ、
生き方そのものを新しく捉え直していく、絶好のチャンスをもらえているのではないか。

そう、考えています。

この第3週においては、
「育ちゆく<わたし>が、
世のすべてに語りかける」とあります。

「あなたの内に、わたしは解き放たれる、
わたし自身であることの鎖から。
そして、わたしはまことわたしたるところを解き明かす」

「あなた、すなわち、世」ということばは、
わたしにとっては、「人」でした。
「他者」でした。

わたしの生き方が新しくなり始めているとするならば、
そんなわたしに応じる、
新しい生き方を表してくれるような人たちに出会い始めます。

考えが己であることの被いから広がり渡り始め(第1週)、
「己自身を忘れ」
「かつ、みずからの根源を肝に銘じ」るからこそ、
これまでになく、
新しく他者に向かって己を開いていくことができる。

新しい<わたし>に応じる新しい<他者>。

そんな新しい<他者>に、
新しい<わたし>が語りかけることによって、
<他者>の内に、わたしのまことわたしたるところを見いだす。

精神が己の内だけにあるのではなく、
むしろ<他者>の内にこそ、精神があるのだということに新しく気づく。

その他者の内なる精神こそが、
「まことわたしたるところ」を解き明かしてくれるという新しい気づき。

<他者>と<わたし>は、
実は同じ<わたし>なのだということの気づき。

人との出会い、
それは、<他者>との出会いであり、
<わたし>との新しい出会いであること。

今週の『こころのこよみ』は、
そのことに気づかせてくれます。

また、
この週が第50週と対応していることも、
いまの己のこころを理解していくことの助けになってくれます。
http://kotobanoie.seesaa.net/article/193698260.html

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2011年05月10日

こころのこよみ(第2週)

更新が遅れていますが、
少しずつ追いついていきたいと思います。


   Ins Äußre des Sinnesalls            

   外なるすべての感官のなかで、

   Verliert Gedankenmacht ihr Eigensein;     

   考えの力はみずからのあり方を見失う。

   Es finden Geisteswelten            

   精神の世は見いだす、

   Den Menschensprossen wieder,         

   再び人が芽吹いてくるのを。

   Der seinen Keim in ihnen,           

   人の内なるその萌しは、

   Doch seine Seelenfrucht            

   しかし、そのこころの実りを

   In sich muß finden.              

   みずからの内にきっと見いだす。





外なる感官を通して、
人は、世を受けとっています。

熱を、光の輝きを、色を、響きを、匂いを、硬さ、柔らかさを・・・。

いま、わたしたちは、
ものというものからの、
色という色からの、
かたちというかたちからの、
響きという響きからの、
「ことば」に耳を傾けていいときです。

世のすべてが何かしら人に語りかけています。

自分自身からの考えをひとまず置いておいて、
外からの「ことば」に耳を傾ける。

そのようにして人がアクティブに受け取ることをしていくほどに、
「精神の世が、再び芽吹いてくる人を見いだす」とあります。

復活祭にいたるまで、
わたしたち人は地中で生きていました。
ひっそりと熱をみずからの内に保っていました。
もしくは地中において、もがいていました。

しかし、この復活祭を期に、
人は芽吹いてくる。

地中に潜んでいた力が地表に出てくる。

人それぞれ、何らかの力を自分の中に見いだし、
太陽に向かって、
長けゆきます。

それを精神の世が見いだしてくれています。

わたしたちがアクティブにすることと、
精神の世がしてくれていることとが、
響きあいます。

『こころのこよみ』を通してわたしたちは、
この交流を実感していく道を歩みだすことができます。

この<わたし>と精神の世との交流からこそ、
「こころの実りをみずからの内に見いだそう」とする意欲も湧き上がってきます。

人はひとりきりだと、
なかなかその力も湧いてきません。

ものとの出会い、
人との出会い、
精神の世との出会い、
それらを通してのみ、
人はみずからの芽を芽吹かせ、葉を拡げ、花を咲かせ、実を実らせようとします。


posted by koji at 07:31 | 大阪 ☁ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする