[こころのこよみ(魂の暦)]の記事一覧

2018年05月22日

こころのこよみ(第7週)〜吹き込まれ、そして解き放たれる息〜

  
わたしのわたしたるところ、
  
それはいまにも離れ去らうとしてゐる、
 
世の光に強く引き寄せられて。
 
さあ、来たれ、わたしの予感よ、
 
あなたの力に満ちたふさわしさの中に、
 
考へる力に代はつて。
 
考へる力は感官の輝きの中で、
 
みづからを見失はうとしてゐる。

      ルドルフ・シュタイナー

 
 
 
Mein Selbst, es drohet zu entfliehen,
Vom Weltenlichte mächtig angezogen.
Nun trete du mein Ahnen
In deine Rechte kräftig ein,
Ersetze mir des Denkens Macht,
Das in der Sinne Schein
Sich selbst verlieren will.
 
 
 
芸術への感覚、芸術を生きる感覚といふものは、どの人の内側にもある。

ただ、それは意識して育まれることによつて、だんだんとその人のものになり、表に顕れてくるものだらう。
 
その感覚を育むほどに、この『こころのこよみ』を通しての密(ひめ)やかな学びにもリアリティーが生まれてくる。
 
人は、芸術に取り組むとき、ある種の息吹きを受け、それを自分の中で響かせ、そしてその息吹きを解き放つていく。大きな呼吸のやうな動き、風の動きの中に入つていく。

そのやうな大きな息遣ひと自分自身の小さな息遣ひとがひとつに合はさつていくプロセスが、芸術における創造行為だと感じる。

言語造形をしてゐて、そのことをリアルに感じるのだが、きつと、どの芸術のジャンルでも、さうではないだらうか。そして、つまるところ、人が意識してする行為といふ行為が、きつと、芸術になりえる。
 
シュタイナーは、そのやうな、芸術をする人に吹き込まれる息吹きを、インスピレーションと呼んだ。
 
そしてそのインスピレーションから、今度は息を吐き出すやうに何かを創ることが芸術である。
 
わたしたちの地球期以前の、月期からさらに太陽期に遡るときにおいて、世に、物質の萌しとして、熱だけでなく、光と風が生じた頃に、人は、インスピレーションを生きてゐた。(Inspiration は、ラテン語の insprare (吹き込む)から来てゐる)
 
人は芸術を生きるとき、その太陽期からの贈りものとして、光と風を、いまや物質のものとしてではなく、精神のものとして、インスピレーションとして、感じる。
 
 わたしのわたしたるところ、
 それはいまにも離れ去らうとしてゐる

 
一年の巡りで言へば、わたしたちは、秋から冬の間に吸ひ込んだ精神の息、精神の風、「インスピレーション」を、春から夏の間に解き放たうとしてゐる。
 
秋から冬の間、「わたしのわたしたるところ」「考へる力」はそのインスピレーションを孕(はら)むことができたのだ。
 
「いまにも離れ去らうとしてゐる」とは、春から夏の間のこの時期、インスピレーションを孕んだ「わたしのわたしたるところ」「考へる力」が変容して、意欲の力として、からだを通して表に顕れ出ようとしてゐる、大いなる世へと拡がつていかうとしてゐるといふことでもあるだらう。
 
  世の光に強く引き寄せられて
 
その精神の吐く息に連れられて、拡がりゆく「わたしのわたしたるところ」「考へる力」は、外の世においてみづから空つぽになるほどに、光の贈りものをいただける。
 
その光の贈りものとは、「予感」といふ、より高いものからの恵みである。
 
  さあ、来たれ、わたしの予感よ、
  あなたの力に満ちたふさわしさの中に、
  考へる力に代はつて。

 

芸術とは、インスピレーションといふ世の風に吹き込まれることであり、予感といふ世の光に従ふことである。練習を通して初めてやつてくる予感に沿つていくことである。練習とは、身を使ふことである。
 
インスピレーションを孕んだ考へる力が、まづは頭から全身に働きかける。その精神の息吹きを、練習によつて、解き放つていく。その息吹きが練習によつて解き放たれるその都度その都度、予感が、光として、ある種の法則をもつたものとしてやつてくる。
 
インスピレーションが、胸、腕、手の先、腰、脚、足の裏を通して、息遣ひを通して、芸術として世に供され、供するたびに、芸術をする人はその都度、予感をもらえるのだ。
 
この小さな頭でこざかしく考へることを止めて、やがて己に来たるべきものを感じ取らうとすること。
 
こざかしく考へることを止めること。「さあ、来たれ、わたしの予感よ」と精神に向かつて呼びかけつつ、動きつつ、待つこと。それは、秋から冬の間、明らかに紛れなく考へる働きとは趣きがまるで違ふが、アクティビティーにおいては、それに負けないぐらゐの強さがゐる。
 
世から流れてくるものを信頼すること。
 
そして、そのやうな、身の働きの中で、芸術行為の中で、予感が恩寵のやうにやつてくる。
 
だから、この季節において、考へる力は、感官の輝きの中で、手足の働きの中で、意欲の漲りの中で、見失はれていいのだ。
 
  考へる力は感官の輝きの中で、
  みづからを見失はうとしてゐる。

 
 
 
わたしのわたしたるところ、
それはいまにも離れ去らうとしてゐる、
世の光に強く引き寄せられて。
さあ、来たれ、わたしの予感よ、
あなたの力に満ちたふさわしさの中に、
考へる力に代はつて。
考へる力は感官の輝きの中で、
みづからを見失はうとしてゐる。


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2018年05月12日

こころのこよみ(第6週) 〜生活の中に根付いてゐる信仰〜


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己れであることから蘇る、
 
わたしのわたしたるところ。そしてみづからを見いだす、
 
世の啓けとして、
 
時と場の力の中で。
 
世、それはいたるところでわたしに示す、
 
神々しいもとの相(すがた)として、
 
わたしの末の相(すがた)のまことたるところを。
 
ルドルフ・シュタイナー

 
 
Es ist erstanden aus der Eigenheit  
Mein Selbst und findet sich
Als Weltenoffenbarung             
In Zeit- und Raumeskräften;         
Die Welt, sie zeigt mir überall
Als göttlich Urbild
Des eignen Abbilds Wahrheit.

 

じつくりと見る。
じつくりと聴く。
じつくりと受けとる。
 
そのやうに世に向かつて、人に向かつて、意識的に感官を開くほどに、世も人も、ものものしく語りだす。
 
そして、世と人に向かつて我が身を披けば披くほど、我がこころが起き上がつてくる、立ち上がつてくる、蘇つてくる。
 
たとへば、幼い子どもを育ててゐるとき、大人の忙しさについつい子どもを巻き込んでしまうことがある。
 
そんな時、よく子どもは大人の意嚮にことごとく反発して、ぐずつたり、泣きわめいたりする。
 
しかし、この「忙しさ」といふこころの焦りに、大人であるわたしみづからが気づけた時、目の前の子どもにじつくりと眼を注ぐことができた時、子どもの息遣ひに耳をじつくりと傾けることができた時、子どもが落ちつくことが、よくある。
 
そんな時、子どもがいつさう子どもらしく輝いてくる。その子が、その子として、啓けてくる。
 
そして、さうなればなるほど、眼を注いでゐるわたし自身のこころも喜びと愛に啓けてくる。わたしが、わたしのこころを取り戻してゐる。
 
子どもを育ててゐる毎日は、そんなことの連続。
 
きつと、子どもだけでなく、お米その他の作物をつくつたり、育てたりすることにおいても、それを毎日してゐる人には、同じやうなことが感じられてゐるのではないだらうか。
 
子どもがゐてくれてゐるお陰で、他者がゐてくれてゐるお陰で、ものがあつてくれるお陰で、わたしはわたしのわたしたるところ、わたしのまことたるところを見いだすことができる。
 
他者といふ世、それはこちらが眼を注ぎさへすれば、いたるところでわたしにわたしのまことたるところを示してくれる。
 
他者に、世に、わたしのまことたるところが顕れる。
 
そのことも、不思議で、密やかで、かつリアルなことだが、そのわたしのまことたるところが、神々しい元の相(すがた)に相通じてゐることに気づいていくことは、あらためて、信仰といふことに対する親しさをわたしたちに与へてくれる。
 
生活の中に根付いてゐる信仰。
 
日々、つきあつてゐるものといふものや他者を通してこそ、啓いていくことができる信仰。
 
我が国の信仰は、昔からさうであつた。
 
 
 
己れであることから蘇る、
わたしのわたしたるところ。そしてみづからを見いだす、
世の啓けとして、
時と場の力の中で。
世、それはいたるところでわたしに示す、
神々しいもとの相(すがた)として、
わたしの末の相(すがた)のまことたるところを。

 

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2018年04月27日

こころのこよみ(第4週) 〜主と客、重ねて合はせて「わたし」〜

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「わたしは、わたしのわたしたるところを感じる」
 
さう感覚が語る。
 
それは陽のあたる明るい世の内で、
 
光の流れとひとつになる。
 
それは考へる働きに、
 
明るさと暖かさを贈り、
 
そして人と世をひとつにするべく、
 
固く結びつけようとする。

ルドルフ・シュタイナー

 
 
 
Ich fühle Wesen meines Wesens:
So spricht Empfindung,
Die in der sonnerhellten Welt
Mit Lichtesfluten sich vereint;
Sie will dem Denken
Zur Klarheit Wärme schenken
Und Mensch und Welt
In Einheit fest verbinden.
 
 
 
幼児は、たとへば、ことばといふものに、一心に、全身全霊で、耳を傾ける。
 
からだまるごとを感覚器官にして、聴くといふ仕事を一心にしてゐる。
 
そのことによつて、誰に手ほどきを受けるでなく、かうごうしい力、精神によつて、ことばを習得していく。
 
からだは「ことば」の器になつていく。
 
幼児の内に、そのやうに、からだをことばの器にするべく、おのづと力が働いてくれてゐた。
 
わたしたち大人は、意識的に、その人から、仕事をしてこそ、育まれるべきものが育まれ、満たされるべきものが満たされる。
 
このからだは、何歳になつても、まだまだ、育まれて、育まれて、おのれの感覚を深めていくことができる。
 
ものごとに対して判断しなければならないとき、データや数値なども、なんらかの判断材料を提供してくれるが、それに頼り切らず、もつと、おのれのからだを通しての感覚を育んでいくことが、おのれへの、人間への、信頼を取り戻していく上で、大切な指針になつていくのではないだらうか。
 
その、感覚とは、そもそも、わたしたちに何を語つてくれてゐるのか、何を教へようとしてくれてゐるのだらうか。
 
シュタイナーがここで使つてゐる「感覚(Empfindung)」といふことばは、「受けて(emp)見いだす(finden)」からできてゐることばだ。
 
人によつて受けて見いだされた光、色、響き、熱、味、触など。

それらが感覚であるし、また、それらだけでなく、(これまでの生理学や心理学では、さうは言はないらしいが)それらによつて起こつてきた情、意欲、考へも、感覚なのだ。なぜなら、みづからのこころといふものも、世の一部だからだ。
 
色や響きなど、外からのものを、人は感覚する(受けて見いだす)し、情や意欲や考へといふ内からのものをも、人は感覚する(受けて見いだす)。
 
しかし、外からの感覚は、外からのものとして客として迎へやすいのだが、内からの感覚は、内からのものであるゆゑに、客として迎へにくい。主(あるじ)としてのみづからと、客である情や意欲や考へとを一緒くたにしてしまいがちだ。
 
主と客をしつかりと分けること、それは客を客としてしつかりと観ることである。
 
みづからの情や意欲や考へを、まるで他人の情や意欲や考へとして観る練習。
 
明確に主(あるじ)と客を分ける練習を重ねることで、分けられた主と客を再びひとつにしていく力をも見いだしていくことができる。その力が、こころを健やかにしてくれる。
 
主と客を明らかに分けるといふことは、主によつて、客が客として意識的に迎へられる、といふことでもあらう。
 
そして、やつてくる客に巻き込まれるのではなく、その客をその都度ふさわしく迎へていくことに習熟していくことで、主は、ますます、主として、ふさわしく立つていく力を身につけていくことだらう。
 
人が、外からのものであれ、内からのものであれ、その客を客として意欲的に迎へようとすればするほど、客はいよいよみづからの秘密を明かしてくれる。感覚といふ感覚が、語りかけてくる。
 
外の世からの感覚だけでなく、考へ、感じ、意欲など、内に湧き起つてくる感覚を、しつかりと客として迎へるほど、その客が語りかけてきてゐることばを聴かうとすればするほど、わたしは「わたしのわたしたるところ」を日々、太く、深く、成長させていく。
 
客のことばを聴くこと。それが主(あるじ)の仕事である。
 
その仕事によつて、わたしは、みづからの狭い限りを越えて、「わたしのわたしたるところ」をだんだんと解き明かしていくことができる。
 
主によつて客が客として迎へられるといふのは、客によつて主が主として迎へられるといふことであるだらうし、それは、主と客がひとつになるといふ、人と世との、もしくは人と人との、出会ひの秘儀とも言つていいものではないだらうか。
 
そして、主と客がひとつになるときに、「わたし」がいよいよ明らかなものになつていく。

つまり、主=「わたし」ではなく、主+客=「わたし」なのだ。
 
たとへば、セザンヌの絵や彼の残したことば、もしくは、芭蕉の俳諧などに接し続けてゐると、ものとひとつになることを目指して彼らがどれほど苦闘したか、だんだんと窺ひ知ることができるやうになつてくる。
 
彼らは、世といふもの、こころといふものの内に潜んでゐる大きな何かを捉へることに挑み、そのプロセスの中で壊され、研がれ、磨かれ、その果てにだんだんと立ち顕れてくる「人のわたし」といふものへと辿りつかうとした。
 
彼らは、色彩といふもの、さらに風雅(みやび)といふものと、ひとつにならうとする仕事を死ぬまでやり通した人たちだと感じる。
 
ものとひとつになるときこそ、「人のわたし」ははつきりと立ち顕れてくることを彼らは知つてゐた。
 
感覚を客としてふさわしく迎へれば迎へるほど、それは、「わたしのわたしたるところ」の拡がりと深みを語つてくれるし、また、わたしはそのことばを情で聴き取るにつれて、わたしは、客について、おのれについて、「わたし」について、明るく、確かに、考へることができる。そして、わたしと世がひとつであることへの信頼感をだんだんと得ていくことができる。
 
 
 
「わたしは、わたしのわたしたるところを感じる」
さう感覚が語る。
それは陽のあたる明るい世の内で、
光の流れとひとつになる。
それは考へる働きに、
明るさと暖かさを贈り、
そして人と世をひとつにするべく、
固く結びつけようとする。

 
 

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2018年04月22日

こころのこよみ(第3週) 〜「語る」とは「聴く」こと〜

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世のすべてに語りかける、
 
己れを忘れ、
 
かつ、己れのおほもとを肝に銘じながら、
 
人の育ちゆく<わたし>が、語りかける。
 
「あなたの内に、わたしは解き放たれる、
 
わたし自身であることの鎖から。
 
そして、わたしはまことわたしたるところを解き明かす」
 
ルドルフ・シュタイナー

 
 
Es spricht zum Weltenall,
Sich selbst vergessend 
Und seines Urstands eingedenk,
Des Menschen wachsend Ich:
In dir befreiend mich
Aus meiner Eigenheiten Fessel,
Ergründe ich mein echtes Wesen.
 
 
 
「語る」とは、「聴く」ことである。
 
そのことが、言語造形をしてゐるとリアルに感じられてくる。
 
語り手みづからが聴き手となること。
 
頭で考へないで、聴き耳を立てながら、語るやうにしていく。
ひらめきが語りを導いてくれるやうに。
 
「ひらめき」とは、語り手の己れが空つぽになり、その空つぽになつたところに流れ込んでくる「ことばの精神」。それはまるで、からだにまで流れ込んでくる生きる力のやうだ。
 
その「ひらめき」「ことばの精神」は、聴き耳を立てるかのやうにして待つことによつて、語り手に降りてくる。
 
「語る」とき、自分が、かう語りたい、ああ語りたい、といふことよりも、「ことばといふもの」「ことばの精神」に、耳を傾け、接近し、沿つていきつつ語る。
 
己れを忘れて、かつ、己れのおほもと(ことばの精神)を頼りにしながら、語り、語り合ふことができる。
 
そのやうに、語り手が「ことばの精神」に聴き耳を立てながら語ることによつて、聴き手も「ことばの精神」に聴き耳を立てる。
 
そのやうな「ことばの精神」と親しくなりゆくほどに、語り手、聴き手、双方の内なる<わたし>が育ちゆく。
 
 
だから、今週の「ことばのこよみ」での、「世のすべてに語りかける」とは、世のすべてから流れてくる「ことばの精神」に耳を傾けることでもある。
 
そのときに流れ込んでくる「ものものしい精神」「ありありとした精神」を感じることによつて、わたしは解き放たれる。みづからにこだはつてゐたところから解き放たれる。
 
だから、たとへば、「他者に語りかける」時には、こちらから必ずしもことばを出さなくてもよく、むしろ、「他者をよく観る、他者の声に聴き耳を立てる」といふこと。
 
そのやうな「語り合ひ」「聴き合ひ」においてこそ、人は、みづからを知りゆく。「ああつ、さうか、さうだつたのか!」といふやうな、ものごとについての、他者についての、みづからについての、解き明かしが訪れる。
 
互ひがよき聴き手であるときほど、対話が楽しくなり、豊かなものになる。
 
特に、この季節、自然といふものをよく観ることによつて、聴き耳を立てることによつて、他者をよく観ることによつて、他者のことばに聴き耳を立てることによつて、自然との対話の内に、他者との対話の内に、わたしは、わたし自身であることの鎖から解き放たれる。そして、わたしは、まことわたしたるところを解き明かす。
 
芽吹き、花開くものたちにたつぷりと沿ふ喜びを積極的に見いだしくのだ。
 
 
 
世のすべてに語りかける、
己れを忘れ、
かつ、己れのおほもとを肝に銘じながら、
人の育ちゆく<わたし>が、語りかける。
「あなたの内に、わたしは解き放たれる、
わたし自身であることの鎖から。
そして、わたしはまことわたしたるところを解き明かす」

 

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2018年04月17日

こころのこよみ(第2週) 〜こころの農作業〜


諏訪 天竜.jpg
絵:新月紫紺大『諏訪天竜

 
 
外なるすべての感官のなかで、
 
考への力はみづからのあり方を見失ふ。
 
精神の世は見いだす、
 
再び、人が芽吹いてくるのを。
 
その萌しを、精神の世に、
 
しかし、そのこころの実りを、
 
人の内に、きつと、見いだす。

ルドルフ・シュタイナー

 
 
 
Ins Äußre des Sinnesalls
Verliert Gedankenmacht ihr Eigensein;
Es finden Geisteswelten
Den Menschensprossen wieder,
Der seinen Keim in ihnen,
Doch seine Seelenfrucht
In sich muß finden.
 
 
 
わたしは、目を、耳を、もつと働かせることができるはずだ。全身全霊で、ものごとにもつと集中して向かひ合ふことができるはずだ。身といふものは、使へば使ふほどに、活き活きと働くことができるやうになつてくる。
 
たとへば、自然に向かひ合ふときにも、たとへば、音楽に耳を傾けるときにも、この外なるすべての感官を通して意欲的に見ること、聴くことで、まつたく新たな経験がわたしの中で生まれる。
 
ときに、からだとこころを貫かれるやうな、ときに、浮遊感を伴ふやうな、ときに、もののかたちがデフォルメされて突出してくるやうな、そのやうな感覚を明るい意識の中で生きることができる。
 
「外なるすべての感官の中で、考への力はみづからのあり方を見失ふ」とは、感覚を全身全霊で生きることができれば、あれこれ、小賢しい考へを弄することなどできない状態を言ふのではないか。
 
このやうないのちの力に満ちたみずみずしい人のあり方。それは、精神の世における「萌し」「芽吹き」だらう。
 
春になると、地球は息を天空に向かつて吐き出す。だからこそ、大地から植物が萌えはじめる。
 
そして、地球の吐く息に合はせるかのやうに、人のこころの深みからも、意欲が芽吹いてくる。
 
春における、そんな人の意欲の萌し、芽吹きは、秋になるころには、ある結実をきつと見いだすだらう。
 
春、天に昇る龍は、秋、地に下り行く。
 
その龍は、きつと、この時代を導かうとしてゐる精神ミカエルに貫かれた龍だらう。
 
秋から冬にかけてキリストと地球のためにたつぷりと仕事をしたミカエルは、その力を再び蓄へるために、春から夏にかけて、キリストと地球のこころとともに、大いなる世へと、天へと、帰りゆく。そしてまた、秋になると、ミカエルは力を蓄へて、この地の煤払ひに降りてくる。
 
わたしたちの意欲もミカエルの動きに沿ふならば、春に、下から萌え出てき、感官を通して、ものを観て、聴いて、世の精神と結びつかうとする。
 
そして、秋には、上の精神からの力をもらいつつ再び降りてきて、地に実りをもたらすべく、方向性の定まつた活きた働きをすることができる。
 
だから、春には春で意識してやつておくことがあるし、その実りをきつと秋には迎へることができる。
 
それは、こころの農作業のやうなものだ。
 
 
 
 
外なるすべての感官のなかで、
考への力はみづからのあり方を見失ふ。
精神の世は見いだす、
再び、人が芽吹いてくるのを。
その萌しを、精神の世に、
しかし、そのこころの実りを、
人の内に、きつと、見いだす。

 
 
諏訪耕志記

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2018年03月22日

こころのこよみ(第48週)〜行はれたし、精神の見はるかしを〜


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熱田神宮 

考へることとからだの関係をシュタイナーの今週の『こころのこよみ』と『礎のことば』に沿つて述べました。毎年、こよみに寄り沿ふことで、季節の巡りに秘められてゐる規範がこころの中に樹木のやうに育つていきます。
 
 
世の高みから
 
力に滿ちてこころに流れてくる光の中で
 
現はれよ、こころの謎を解きながら、
 
世の考への確かさよ。
 
その光り輝く力を集め、
 
人の心(臟)の中に愛を呼び覺ますべく。
 
           ルドルフ・シュタイナー
 

 
 
Im Lichte das aus Weltenhöhen
Der Seele machtvoll fliessen will
Erscheine, lösend Seelenrätsel
Des Weltendenkens Sicherheit
Versammelnd seiner Strahlen Macht
Im Menschenherzen Liebe weckend.
 
 
 
考へる力といふものについて、人はよく誤解する。
 
考へるとは、あれこれ自分勝手にものごとの意味を探ることでもなく、浮かんでくる考へに次から次へとこころをさまよはせることでもなく、何かを求めて思ひわづらふことでもなく、ものごとや人を裁くことへと導くものでもない。
 
考へるとは、本來、みづからを置いてものごとに沿ふこと、思ひわづらふことをきつぱりと止めて、考へが開けるのをアクティブに待つこと、そして、ものごととひとつになりゆくことで、愛を生みだすこと。
 
今囘もまた、鈴木一博さんの『礎のことば』の讀み説きから多くの示唆を得てゐる。
 
人が考へるとは、考へといふ光が降りてくるのを待つこと、人に考へが開けることだ。
 
考へが開けるきつかけは、人の話を聽く、本を讀む、考へに考へ拔く、道を歩いてゐて、ふと・・・など、人によりけり、時と場によりけり、様々あるだらうが、どんな場合であつても、人が頭を安らかに澄ませたときにこそ、考へは開ける。たとへ、身体は忙しく、活発に、動き回つてゐても、頭のみは、靜かさを湛えてゐるほどに、考へは開ける。
 
そして、頭での考への開けと共に、こころに光が当たる。考へが開けることによつて、こころにおいて、ものごとが明るむ。そして、こころそのものも明るむ。
 
「ああ、さうか、さうだつたのか!」といふときのこころに差し込む光の明るさ、暖かさ。誰しも、覚えがあるのではないだらうか。
 
明るめられたこころにおいて、降りてきたその考へは、その人にとつて、隈なく見通しがきくものだ。
 
また、見通しがきく考へは、他の人にとつても見通しがきき、その人の考へにもなりうる。
 
そもそも、考へは誰の考へであつても、考へは考へだから。
 
人に降りてくる考へは、その人の考へになる前に、そもそも世の考へである。
 
自然法則といふものも、自然に祕められてゐる世の考へだ。
 
人が考へることによつて、自然がその祕密「世の考へ」を打ち明ける。
 
その自然とは、ものといふものでもあり、人といふ人でもある。
 
目の前にゐる人が、どういふ人なのか、我が子が、どういふ人になつていくのか、もしくは、自分自身がどういふ人なのか、それは、まづもつては、謎だ。
 
その謎を謎として、長い時間をかけて、その人と、もしくはみづからと、腰を据ゑてつきあひつつ、その都度その都度、こころに開けてくる考へを摑んでいくことによつてのみ、だんだんと、その人について、もしくは、わたしといふ人について、考へが頭に開け、光がこころに明るんでくる。
 
それはだんだんと明るんでくる「世の高みからの考へ」でもある。
 
わたしなりの考へでやりくりしてしまふのではなく、からだとこころをもつて対象に沿ひ續けることによつて、「世の考へ」といふ光が頭に降りてくるのを待つのだ。
 
すぐに光が降りてくる力を持つ人もゐる。長い時間をかけて、ゆつくりと光が降りてくるのを待つ人もゐる。
 
どちらにしても、そのやうに、考へと共にこころにやつてくる光とは、世からわたしたちへと流れるやうに贈られる贈り物といつてもいいかもしれない。
 
さらに言へば、それは、わたしの<わたし>が、わたしの<わたし>に、自由に、本當に考へたいことを、考へとして、光として、贈る贈り物なのだ。
 
____________________________________________
 
人のこころ!
あなたは安らふ頭に生き
頭は、あなたに、とわの基から
世の考へを打ち明ける。
行はれたし、精神の見はるかしを
考への安らかさのうちに。
そこにては神々の目指すことが
世とものとの光を
あなたの<わたし>に
あなたの<わたし>が自由に欲すべく
贈る。
もつて、あなたは真に考へるやうになる
人と精神との基にて。         
(『礎のことば』より)  
 

_____________________________________________

 
その贈り物があるからこそ、わたしたちは、また、世の考へが贈られるのを待ちつつ考へることができるし、考への光が降りてくればこそ、わたしたちは、こころの明るさと共に、その考へを見通し、見はるかすことができ、その見はるかしからこそ、こころに愛が目覚めうる。
 
ある人の長所にあるとき、はつと氣づいて、その人をあらためてつくづくと見つめ、その人のことを見直したり、好ましく思つたりもする。
 
長所にはつと氣づく、それこそが、考への光が降りてきたといふことだらうし、その人について光をもつて考へられるからこそ、こころに愛が呼び覚まされるのだらう。
 
人を愛する時とは、世の高みから、力に滿ちて流れてくる「世の考へ」が、こころに開ける時。
 
考へが開けるとき、そこには、きつと、愛がある。
 
愛が生まれないときは、考へてゐるやうで、実は考へてゐない。自分勝手に考へや思ひをいぢくりまはしてゐるか、巡り巡る考へや思ひに飜弄されてゐるときだ。
 
考へることによつて愛が生まれることと、愛をもつて考へることとは、きつと、ひとつの流れとして、人の内側で循環してゐる。
 
  
 
世の高みから
力に滿ちてこころに流れてくる光の中で
現はれよ、こころの謎を解きながら、
世の考への確かさよ。
その光り輝く力を集め、
人の心(臟)の中に愛を呼び覺ますべく。





【ことばの家 諏訪 平成三十年度クラスのご案内】
 
●言語造形クラス
https://kotobanoie.net/spra/

●和歌(やまとうた)を学ぶ会
https://kotobanoie.net/yamatouta/

●生誕劇を演じるクラス
https://kotobanoie.net/spra/#pageant

●言語造形で甦る我が国の神話と歴史クラス
https://kotobanoie.net/spra/#kojiki

●日本の言霊を味わうクラス(講師:諏訪千晴)
https://kotobanoie.net/kototama/

●普遍人間学そして言語造形を学ぶクラス
https://kotobanoie.net/tue/

●名張・言語造形を体験する会『ことばを聴く 語る』

講師: 
諏訪耕志 (「ことばの家 諏訪」主宰 )

日時: 
4月16日(月) 10:00〜13:00

場所:
三重県名張市内 (お申込み頂いた方に詳細をお知らせします)

参加費: 
3,000円

お問い合わせ・お申込み: 
ことばの家 諏訪 
 e-mail info@kotobanoie.net
 Tel 06-7505-6405

プログラム:
10:00 お話しを語るワークショップ
(言語造形を体験していただきます)

12:00 お話しに耳を澄ます朗読会 
(言語造形による語りを聴いていただきます)

「風呂に入るお地蔵さん(名張の昔話)」 南ゆうこ
「和泉式部日記」より 森野友香理
「蛇の輪(創作昔話)」 諏訪耕志

12:45 シェアリング

(全員で感想を語りあい聴きあいましょう)

13:00 終了

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2018年03月16日

こころのこよみ(第47週) 〜行はれたし、精神の慮(おもんぱか)りを〜


IMGP0301.JPG 

 
世のふところから甦つてくるだらう、
 
感官への輝きを息づかせる繰りなす喜びが。
 
その喜びは見いだす。わたしの考へる力が、
 
神々しい力を通して備へられ、
 
内において力強いわたしとして生きてゐることを。

ルドルフ・シュタイナー

 
 
 
Es will erstehen aus dem Weltenschosse,
Den Sinnenschein erquickend Werdelust,
Sie finde meines Denkens Kraft
Gerüstet durch die Gotteskräfte
Die kräftig mir im Innern leben.
 
 
 
以前にも引用させてもらつたが、鈴木一博さんが以前、日本アントロポゾフィー協会会報に掲載された『礎(いしずえ)のことば』から、ここ二、三週間の『こころのこよみ』への大きな示唆をもらつてゐる。
 
   精神
   こころ
   からだ
 
人は、この三つの次元の違ふありようからなりたつてゐる。
 
自分自身を顧みても、やはり、どちらかといふと、精神が上の方に、からだが下の方にあり、こころがその間に挟まつてゐることを感じる。
 
そして、この『こころのこよみ』は、その名の通り、真ん中の、「こころ」がそれによつて活き活きと生きることを願つて書き記されてゐる。
 
三月も半ばにならうかといふこの時期、陽の光がだんだんと明るく、暖かく、長く、わたしたちを照らし出すとともに、地から、少しづつ少しづつ、草木の力が繰りなしてきてゐるのを見てとることができる。

そして、「啓蟄」といはれるやうに、虫たちをはじめとする動く生き物たちも地の下から、水の中から這ひ出してきてゐる。
 
わたしたち人は、どうだらう。
 
人においても、近づいてきてゐる春の陽気にそそられて、からだもこころも動き出さうとしてゐないだらうか。
 
世の、春に近づいていく繰りなしが、まづは、下のからだへの蠢(うごめ)き、繰りなしを誘ひ出し、感官へのそのやうな働きかけが、真ん中のこころを動かさうとしてゐないだらうか。
 
その動きこそが、喜びにもなりえる。
 
以下、鈴木さんの文章からの引き写しだが、その「精神の想ひ起こし、精神の慮り、精神の見はるかし」に、
まさにリアリティーを感じる。
 
 
________________________________
 
 
こころといふものは、常にシンパシーとアンチパシーの間で揺れ動いてゐる。
 
しかし、人は、そのシンパシー、アンチパシーのままにこころを動かされるだけでなく、その間に立つて、そのふたつの間合ひをはかり、そのふたつを引き合はせつつ、バランスを保ちつつ、静かなこころでゐることもできる。
 
むしろ、さうあつてこそ、こころといふものをわたしたちは感じとることができる。
 
そのこころの揺れ動き、そしてバランスは、からだにおける心臓と肺の張りと緩みのリズムとも織りなしあつてゐる。
 
こころのシンパシー、アンチパシーとともに、心拍は高まりもするし、低まりもする。また、呼吸といふものも、そのこころのふたつの動きに左右される。吐く息、吸ふ息のリズムが整つたり、乱れたりする。
 
そして、心拍の脈打ちと脈打ちの間、吐く息、吸ふ息の間に、静かな間(ま)をわたしたちは感じとることができる。
 
その静かな間(ま)を感じとつてこそ、わたしたちは、リズムといふもの、時といふものをリアルにとらへることができる。
 
そして更に、こころにおいて、シンパシーとアンチパシーとの間で生きつつ、からだにおいて、心と肺のリズムの間で生きつつ、わたしたちは、世といふものとの間においても、リズミカルに、ハーモニックに、調和して生きていく道を探つていくことができる。
 
荒れた冬の海を前にしてゐるときと、茫洋として、のたりのたりと静かに波打つてゐる春の海を前にしてゐるとき。
 
峨々たる山を前にしてゐるときと、穏やかな草原を前にしてゐるとき。
 
いまにも雨が降り出しさうな、どんよりとした曇り空の下にゐるときと、晴れ晴れとした雲ひとつない青空を仰ぐとき。
 
しかめ面をしてゐる人の前にゐるときと、につこりしてゐる人の前にゐるとき。
 
そして、春夏秋冬といふ四季の巡りにおいて、それぞれの季節におけるからだとこころのありやうの移りゆき。
 
世といふものと、わたしたちとの間においても、ハーモニーを奏でることができるには、そのふたつが、ひとりひとりの人によつて、はからわれ、釣り合はされ、ひとつに響き合つてこそ。
 
世とわたし。

そのふたつの間を思ひつつ、はかりつつ、響き合はせる。その精神の慮(おもんぱか)りを積極的にすることによつて、人は、世に、和やかに受け入れられる。
 
人と世は、ひとつに合はさる。
 
そして、人は、歌ふ。春夏秋冬、それぞれの歌を歌ふ。
 
慮る(besinnen)は、歌ふ(singen)と語源を同じくするさうだ。
 
こころにおける精神の慮り、それは歌心だ、と鈴木さんは述べてゐる。
 
   人のこころ!
   あなたは心と肺のときめきに生き
   心と肺に導かれつつ、時のリズムを経て
   あなたそのものを感じるに至る。
   行はれたし、精神の慮りを
   こころの釣り合ひにおいて。
   そこにては波打つ世の
   成りつ為しつが
   あなたの<わたし>を
   世の<わたし>と
   ひとつに合はせる。
   もつて、あなたは真に生きるやうになる
   人のこころの働きとして。         
            『礎のことば』より

 
春の訪れとともに世のふところから、下のからだを通して、感官への輝きを通して、こころに、繰りなす喜び。
 
そして、上の精神からの考へる力。その考へる力は、冬のクリスマスの時期を意識的に生きることによつて、神々しい力によつて備へられてゐる。その考へる力によつて、こころにもたらされる力強い<わたし>。
 
世とからだを通しての下からの繰りなしによつて、こころに生まれる喜びといふ情を、上の精神からやつてくる考へる力が支へてくれてゐる。
 
この下からと上からのハーモニックな働きかけによつて、真ん中のこころに、喜びが生まれ、育つていく。
 
 
 
世のふところから甦つてくるだらう、
感官への輝きを息づかせる繰りなす喜びが。
その喜びは見いだす。わたしの考へる力が、
神々しい力を通して備へられ、
内において力強いわたしとして生きてゐることを。

 


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「和泉式部日記」より 森野友香理
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2018年03月05日

こころのこよみ(第46週) 〜行はれたし、精神の想ひ起こしを〜


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世、それはいまにもぼやかさうとする、

こころのひとり生みの力を。

だからこそ、想ひ起こせ、

精神の深みから輝きつつ。

そして観ることを強め、

意欲の力を通して、

おのれを保つことができるやうに。

ルドルフ・シュタイナー



Die Welt, sie drohet zu betäuben
Der Seele eingeborne Kraft;
Nun trete du, Erinnerung,
Aus Geistestiefen leuchtend auf
Und stärke mir das Schauen,
Das nur durch Willenskräfte
Sich selbst erhalten kann.


「ひとり生み」とは、何でせうか。同じくシュタイナーのヨハネ福音書講義の第四講にそのことばが出てきます。

かつて福音書が書かれた頃、「ふたり生み」といふのは、父と母の血の混じりあいから生まれた者のこと、ひとり生み」といふのは、そのやうな血の混じりあいから生まれた者でなく、神の光を受け入れることによつて、精神とひとつになつた者、精神として生まれた者、神の子、かうごうしい子のことでした。

人びとの多くは、「わたし」といふ人のための下地をすでに備へながらも、聖書に記されるところの「光」をまだ受け入れませんでした。

「群れとしてのわたし」のところにまでは「光」は降りてきてゐましたが、いちいちの人はまだ受け入れてゐませんでした。

それは、おらが国、おらが村、をれんち、そのやうな意識が、ひとりひとりの人に当たり前のやうに強くかぶさつてゐて、そこに尽きてゐた、といふことでせう。

しかし、わづかな者たちながら、「光」を受け入れた者たちは、その「光」を通してみづからを神の子、「ひとり生みの子」となしました。

そのやうな人のことを、この国では何と呼んだのでせうか。

「覚者」、「善智識」でせうか。これらはきつと仏教からのことばですね。

柳田国男で、「大子(おおいこ)、すなはち神の長子」といふことばも、『新たなる太陽』の中に読むことができます。

物の人がふたり生み、精神の人がひとり生みです。

そして、キリスト・イエスこそは、その「光そのもの」、もしくは「光」のおほもとである「ことばそのもの」として、「父のひとり生みの息子」として、肉のつくりをもつてこの世の歴史の上に現れました。

ことば(ロゴス)、肉となれり

彼こそは、ひとりひとりの人に、こよなく高く、ひとりの人であることの意識、「わたしはある」を、もたらすことを使命とする者でした。

わたしたちが、その「ひとり生みの力」を想ひ起こすこと、それは、キリスト・イエスの誕生と死を想ひ起こすといふことです。

そして、わたしたちひとりひとりの内なる「わたしはある」を想ひ起こすことです。

それは、日々のメディテーションによつて生まれる、精神との結びつきを想ひ起こすことであります。

目で見、耳で聞いたことを想ひ起こすことに尽きない、精神の覚えを想ひ起こすことです。

その想ひ起こしがそのやうにだんだんと深まつていくことによつて、人は、「わたしはある」といふこと、みづからが神と結ばれてある」といふこと、みづからの「わたし」が、神の「わたし」の内にあるといふこと、そのことを確かさと安らかさをもつてありありと知る道が開けてきます。

「想ひ起こす」といふ精神の行為は、意欲・意志をもつて、考へつつ、いにしへを追つていくといふことです。

普段の想ひ起こすことにおいても、頭でするのみでは、その想ひは精彩のないものになりがちですが、胸をもつて想ひ起こされるとき、それはメロディアスに波打つかのやうにこころに甦つてきます。

さらに手足をもつて場に立ちつつ、振舞ふことで、より活き活きと、みずみずしく、深みをもつて、想ひが甦つてきます。

故郷に足を運んだ時だとか、手足を通して自分のものにしたもの、技量となつたものを、いまいちどやつてみる時だとか、そのやうに手足でもつて憶えてゐることを手足を通して想ひ起こすかのやうにする時、想ひが深みをもつて甦ります。

そして、そのやうな手足をもつての想ひ起こしは、その人をその人のみなもとへと誘ひます。

その人が、その人であることを、想ひ起こします。

その人のその人らしさを、想ひ起こします。

例へば、この足で立ち、歩くことを憶えたのは、生まれてから一年目辺りの頃でした。その憶えは、生涯、足で立つこと、歩くことを通して、想ひ起こされてゐます。その人が、その人の足で立ち、歩くことを通して、その人の意識は目覚め、その人らしさが保たれます。

だから、年をとつて、足が利かなくなることによつて、その人のその人らしさ、こころの張り、意識の目覚めまでもが、だんだんと失はれていくことになりがちです。

手足を通しての想ひ起こし、それは、意欲の力をもつてすることであり、人を活き活きと甦らせる行為でもあるのです。

そして、それはメディテーションにも言へることなのです。


行はれたし、精神の想ひ起こしをもつて、
あなたは真に生きるやうになる、
まこと人として、
世のうちに
(『礎のことば』)



メディテーションによる想ひ起こしは、手足による想ひ起こしに等しいものです。

メディテーションとは、意欲をもつての厳かで真摯な行為です。

毎日の行為です。

「ひとり生みの力」を想ひ起こすこと、それは、わたしの「わたし」が、神の「わたし」の内に、ありありとあること、「わたしのわたしたるところ」、「わたし」のみなもと、それを想ひ起こすことであります。

世に生きてゐますと、その「ひとり生みの力」をぼやかさうとする機会にいくらでも遭ひます。

世は、ふたり生みであることから生まれる惑ひといふ惑ひをもたらします。

「だからこそ、勤しみをもつて、想ひ起こせ」です。

「惑ひといふ惑ひを払つて、想ひ起こせ」です。

想ひ起こされたものをしつかりとこころの目で観ること、もしくは想ひ起こすといふ精神の行為そのものをもしつかりと観ること、それがつまり、「観ることを強める」といふことです。

それはきつと、手足に生きることに等しいやうな、意欲の力を通してなされることですし、その意欲の力があつてこそ、人は、「おのれを保つことができる」、おのれのみなもとにあることを想ひ起こすことができるのでせう。


世、それはいまにもぼやかさうとする、
こころのひとり生みの力を。
だからこそ、想ひ起こせ、
精神の深みから輝きつつ。
そして観ることを強め、
意欲の力を通して、
おのれを保つことができるやうに。



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2018年02月13日

こころのこよみ(第43週) 〜内なる炎〜

 
冬の深みにおいて、
 
精神のまことのありやうが暖められ、
 
世の現われに、
 
心の力を通してありありと力が与へられる。
 
「世の冷たさに力強く立ち向かふのは、
 
人の内なるこころの炎」

 
        ルドルフ・シュタイナー
 
 
In winterlichen Tiefen
Erwarmt des Geistes wahres Sein,
Es gibt dem Weltenschine
Durch Herzenskräfte Daseinsmächte;
Der Weltenkälte trotzt erstarkend
Das Seelenfeuer im Menscheninnern.
 
 
 
いま、人と人は、どれほど分かり合へてゐるだらうか。
 
人と人との間に、無関心が、行き違ひが、無理解が、そして憎しみまでもが立ちはだかつてゐる。
 
わたしたちは、そのやうなあり方を「世の冷たさ」として辛く感じてゐる。
 
その冷たさから我がこころを守らうとして、いつさう厚く重ね着をして、こころを閉ざす。
 
こころを閉ざした者同士がいくら出会つても、求めてゐる暖かさは得られさうにない。
 
しかし、このあり方が、時代の必然なんだと、もし知ることができれば、何かを自分から変へていくことができるだらうか。
 
この日本といふ国では、明治維新からの文明開化の風潮の中で、人のこころのあり方が変はつてきた。
 
人のこころが、何を考えるにも、何をなすにも、意識して考え、意識してなすことを目指してゐる。
 
さういふこの時代において、まずは、人のこころは冷たく、硬い知性に満たされてしまふ。
 
それは、すべてを、人までをも、物質として、計量できるものとして、扱ふことができるといふ知性だ。
 
この時代において、この冷たく、硬い知性が人のこころに満ちてきたからこそ、現代の文明がここまで発達してきた。
 
そして、文明が発達すればするほど、人は、己れが分からなくなってくる。人といふものが分からなくなつてくる。
 
人といふものは、からだだけでなく、こころと精神からもなりたつてゐるからだ。
 
だから、その冷たく、硬い知性を己れのものにすることによつて、人は、人といふものがわからなくなり、他者との繋がりを見失つてしまふ。
 
己れの己れたるところとの繋がりさへも見失つてしまふにいたる。
 
文明の発達を支へる冷たい知性が、冷たい人間観、人間関係を生み出した。
 
そして、そのやうに繋がりが断たれることによつて、人は、自分が「ひとりであること」を痛みと共に感じる。
 
無意識に繋がつてゐた人との関係が断たれていく中で、人はひとりであることに初めて意識的になり、改めて、自分の意志で人との繋がりを創つていく力を、わたしたちは育んでいく必要に迫られてゐる。
 
むしろ、かう言つた方がいいだらう。
 
ひとりになれたからこそ、そのやうな力を育んでいくことができる。
 
ひとりになることによつて、初めて、人と繋がることの大切さをしつかりと意識的に知ることができる。
 
だから、このやうな人と人との関係が冷たいものになつてしまふことは、時代の必然だ。
 
なぜなら、繋がりとは、つけてもらふものではなく、ひとり立ちした人と人とが分かち合ひ、語り合ひ、愛し合ふ中で生みだしていくものだからだ。
 
わたしたち人は、そのやうに、いつたん他者との関係を断たれることによつて、痛みと共に、冷たく、硬い知性と共に、ひとりで立つことを習つてきた。
 
そして、そろそろ、ひとりで立つところから、意識のこころの本来の力、「熱に満ちた、暖かい知性」、「頭ではなく、心臓において考へる力」「ひとり立ちして愛する力」を育んでいく時代に入ってきてゐる。
 
他者への無関心、無理解、憎しみは、実は、人が、からだを持つことから必然的に生じてきてゐる。
 
硬いからだを持つところから、人は冷たく、硬い知性を持つことができるやうになり、からだといふ潜在意識が働くところに居座つてゐる他者への無理解、憎しみが、こころに持ち込まれるのである。
 
だから、これからの時代のテーマは、そのやうな、からだから来るものを凌いで、こころにおいて、暖かさ、熱、人といふものの理解、愛を、意識的に育んでいくことである。
 
日本においては、明治以前まで伝統と慣習がふくよかに用意してくれてゐた人と人との和のしつらへを、これからは、意識して、みづからの働きをもつて想ひ出し、創り出していくことがテーマだ。
 
「世の冷たさに力強く立ち向かふのは、人の内なるこころの炎」だ。
 
その「内なるこころの炎」とは、どの人の内にも鎮まつてゐる。
 
その炎を深みで感じつつ、深みで知りゆくことによって、ますます意識的に内なる熱をもつて燃え上がらせることができる。
 
そして、人と人との間に吹きすさんでいる無理解と憎しみといふ「世の冷たさ」に、立ち向かふ(ひとりで立ち、ひとりで向かひ合ふ)ことができる。
 
内なる炎。内なる熱。
 
意識のこころの時代において、人は、みづからのこころに炎と熱をもたらすことができる。
 
「わたしは、ある」。
 
シュタイナーは、この『こころのこよみ』を通して、わたしたちのこれからのテーマを指し示してくれてゐる。
 
 

冬の深みにおいて、
精神のまことのありやうが暖められ、
世の現われに、
心の力を通してありありと力が与へられる。
「世の冷たさに力強く立ち向かふのは、
人の内なるこころの炎」

 

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2018年01月17日

こころのこよみ(第40週) 〜わたしは、ある〜


そして、わたしはある、精神の深みに。
 
わたしのこころの基において、
 
心に満ちる愛の世から、
 
己れであることの虚しい想ひ込みが、
 
世のことばの火の力によって、焼き尽くされる。
 
          ルドルフ・シュタイナー



Und bin ich in den Geistestiefen,
Erfüllt in meinen Seelengründen
Aus Herzens Liebewelten
Der Eigenheiten leerer Wahn
Sich mit des Weltenwortes Feuerkraft
 
 
 
「わたしは、いる」「わたしは、いま、ここに、いる」といふ響きから生まれてくる情よりも、「わたしは、ある」といふ響きから生まれてくる、「いま」「ここ」さえも越えた、「わたし」といふものそのもの、「ある」といふことそのことの、限りのない広やかさと深さと豊かさの情。
 
何度も声に出している内に、その情を感じる。
 
「わたしは、ある」。
 
それは、その人が、どんな能力があるとか、どんな地位に就いてゐるとか、といふやうな外側のありやうからのことばではなく、ただ、ただ、その人が、その人として、ある、といふこと。
 
そのことだけをその人自身が見つめて、出てきたことばだ。
 
そのときの「わたし」は、目には見えない<わたし>だ。
 
シュタイナーは、『精神の世の境』といふ講演録の中で、「愛」について語つてゐる。要約した形だが、そのことばを書いてみる。
 
 
 
ーーーーーーーーーーーーーーーー
 
精神科学の学び手は、考へる力を通して「みづからの情」を育んでいくことに重きを置いてゐる。その情が、こころに強さと確かさと安らかさを与へてくれるからだ。

そして、学び手は、この物質の世を生きるとき、その強められた「みづからの情」を抑へることを通して、愛を生きる。
 
愛とは、みづからのこころにおいて、他者の喜びと苦しみを生きることである。
 
感官を凌ぐ意識によって人は精神の世に目覚めるが、感官の世(物質の世)においては、精神は愛の中で目覚め、愛として甦る。
 
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
 
 
「世のことばの火の力」
それは、きつと、愛だ。
 
そして、それによつて、「己れであることの虚しい思ひ込みが、焼き尽くされる」。
 
 
 

そして、わたしはある、精神の深みに。
わたしのこころの基において、
心に満ちる愛の世から、
己れであることの虚しい想ひ込みが、
世のことばの火の力によって、焼き尽くされる。

 
 
 

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2018年01月02日

こころのこよみ 第39週 <わたしがあること>の情


精神の啓けに身を捧げ、
 
わたしは世といふものの光を得る。
 
考へる力、それは長ける、
 
わたしにわたしみづからを明かしながら。
 
そしてわたしに呼び覚ます、
 
考へる力を通して、わたしがあることの情を。

 
          ルドルフ・シュタイナー
 
 
An Geistesoffenbarung hingegeben
Gewinne ich des Weltenwesens Licht.
Gedankenkraft, sie wächst
Sich klärend mir mich selbst zu geben,
Und weckend löst sich mir
Aus Denkermacht das Selbstgefühl.
 
 
 
「精神の啓け」。それは、イエスといふ幼な子が、こころの深みに生まれること。イエスとは、のちに、キリストとなる方。キリストとは、「わたしこと」「われあり」のもたらし手。「わたしがある」といふことをひとりひとりの人にもたらさうとする方。それがキリストだと、密のキリスト教では認められ、人から人へと密(ひめ)やかに伝へられてきた。
 
いまやもはや、この「わたしがある」といふことを実感することは、限られた人たちだけではなく、すべての現代人における、もつとも深い願ひなのではないだらうか。
 
どんなときでも、どんな場所でも、誰と会つてゐても、誰に会つてゐなくても、「わたしがある」といふことへの情、信頼、確かさが己れに根付いてゐるほどに、人は健やかさに恵まれはしないだらうか。
 
その「わたしがある」といふ情が、この時期に、イエスの誕生によって、人にもたらされた。それを「精神の啓け」と、ここでは言つてゐる。
 
では、「わたしのわたしたるところ」「わたしがある」といふ情はどのやうに稼がれるだらうか。
 
それは、「考へる力が長ける」ことによって稼がれる。
 
普段、わたしたちの考へる力は、目に見えるもの、手に触れるものなどに、張り付いてしまつてゐる。物質的な感官を通して入つてくるものに対して考へることに尽きてしまつてゐる。
 
「いま、何時だらう」「今日は何を食べようか」「あそこに行くまでには、どの電車に乗り継いでいつたらいいだらうか」「ローンの返済を今月ちゃんと済ませることができるだらうか」などなど・・・。
 
また、目に美しいもの、ここちよいもの、快をもたらしてくれるものには、それらを享受するのに、特に努力はいらない。
 
わたしたちのふだんの考へる力は、そのやうに特に意志の力を要せず、やつてきたものを受けとり、適度に消化し、あとはすぐに流していくことに仕へてゐる。
 
しかし、たとへば、葉がすべて落ちてしまつた木の枝。目に美しい花や紅葉などが消え去つた冬の裸の枝。それらをじつと見つめながら、こころの内で、考へる力にみづからの意欲・意志を注ぎ込んでみる。 
 
来たる春や夏に咲きいずるはずの、目には見えない鮮やかな花や緑滴る葉を想ひ描きつつ、その木といふものの命に精神の眼差しを向けてみる。さうすると、その寒々しかった冬の裸の枝の先に、何か活き活きとした光のやうなものが感じられてこないだらうか。
 
それぐらい、考へる力を、見えるものにではなく、見えないものに、活き活きと意欲を働かせつつ向けてみる。すると、その考へられた考へが、それまでの外のものごとを単になぞるだけ、コピーするだけの死んだものから、ものやことがらの内に通ってゐるかのやうな、活き活きと命を漲らせたものになる。 
考へる力を、そのやうに、感官を超えたものに意志をもつて向けていくことによつて、わたしたちは内において、自然界に写る影の像を命ある像に転換できる。死を生に転換できる。
 
そして、その考へる力によつて、わたしたちみづからも活き活きとしてくる。わたしにわたしみづからを明かす。わたしに、「わたしがあること」の情を、呼び覚ます。この情は、このやうに、おのづから生まれるのではなく、ひとりひとりの人がみづから勤しんでこそ稼ぐことのできる高くて尊い情だ。
 
「わたしがあること」の情とは、みづからに由るといふ情、「自由」の情でもある。
 
キリストとは、「わたしがある」「わたしこと」を人にもたらした方。 
 
現代において、わたしたちひとりひとりが、キリストによつてもたらされたみづから考へる力を長けさせることができる。その考へる力によつて「わたしがある」ことの情、つまり、内なる自由を稼ぐことができる。その内なる自由からこそ、「わたしを捧げる」意欲、つまり、愛する道を歩いていくことができる。そのことを、キリストは応援してゐる。
 
そして、「わたしがある」ということをもつて「身を捧げる」。ならば、「わたしは世といふものの光を得る」。
 
それは、どこまでも、この「わたしのわたしたるところ」「わたしがある」への信頼から、人との対話へと、仕事へと、一歩踏み出していくこと。
 
それは、きつと、見返りを求めない、その人のその人たるところからの自由な愛からのふるまいだ。
 
その勇気をもつて踏み出した一歩の先には、きつと、「世といふものの光」が見いだされる。
 
たとへ闇に覆はれてゐるやうに見える中にも、輝いてゐるものや、輝いてゐる人、そして輝いてゐる「わたし」を見いだすことができないだらうか。
 
「わたしがある」という情、「幼な子」の情を育みつづけるならば。
 
この『こころのこよみ』を読みながら、そのことをメディテーションする(追つて繰り返しアクティブに考へる)ことができる。
 
 
精神の啓けに身を捧げ、
わたしは世といふものの光を得る。
考へる力、それは長ける、
わたしにわたしみづからを明かしながら。
そしてわたしに呼び覚ます、
考へる力を通して、わたしがあることの情を。

 

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2017年12月23日

こころのこよみ 第38週 聖き夜の調べ 〜目覺めよ、男たちの内なるをさな子〜

 
わたしは感じる、
 
まるでこころの奧で、精神の子が魔法から解かれたやうだ。
 
その子は心(臟)の晴れやかさの中で、
 
聖き、世のことばとして、
 
希みに滿ちた天の実りとして、生まれた。
 
それが喜びの聲を上げて世の彼方へと拡がりゆく、
 
わたしのわたしたるところ、神の基から。

 
 
Weihe-Nacht-Stimmung
Ich fuehle wie entzaubert
Das Geisteskind im Seelenschoss,
Es hat in Herzenshelligkeit
Gezeugt das heil'ge Weltenwort
Der Hoffnung Himmelsfrucht,
Die jubelnd wächst in Weltenfernen
Aus meines Wesens Gottesgrund.
 
 
※シュタイナーが、Seele といふことばを使ふときは、からだと繋がるところでありながらも、からだからは独立した働きを荷う「こころ」のことを言つてゐるが、Herzenといふことばを使ふときは、物質の素材でできてゐる心臟のありようをも含む意味合ひを指し、またその物質の心臟の働きを支へてゐるエーテルの心臟を指すやうだ。そこで、Herzen を「心(臟)」と書き表してゐる。
 
 

クリスマス、それは、をさな子の誕生を寿ぐ日。どの人のこころの奧にも眠つてゐるをさな子のをさな子たるところの生まれを祝ふ日。
 
をさな子、それは、子ども時代の内でもとりわけ、記憶の境の向かう、三歳以前のわたしたちのありよう。
 
いまこそ、この時代こそ、世の男たちの(このわたしの)内なるをさな子が目覺めますやうに。さう祈らずにはゐられない。なぜなら、をさな子のをさな子たる力とは、世のすべての爭ひ、分け隔て、エゴ、それらを越える、創造する力、愛する力だから。
 
わたしたちは、そのをさな子の時に、おおよそ三年かけて、歩く力、話す力、考へる力を育み始める。その三つの力は、人のからだを創つていく力でもある。
 
歩く力によつて脚が、話す力によつて胸が、考へる力によつて頭が、だんだんと創られていく。歩く力、話す力、考へる力は、当然その子によつて意識的に身につけられたものでもなければ、大人によつて教へ込まれたものでもなく、そのをさな子の内から、まるでかうごうしい力が繰り出してくるかのやうに、地上的な力を超えたところから、生まれてきた。
 
そのおのづと生まれてきたかうごうしい力は、しかし、三年間しかこの世にはない。をさな子のをさな子たるところが輝く三年間から後は、その子の内に、少しづつ地上を生きていくための知性と共に、エゴがだんだんと育ち始める。きつと、それも、人の育ちにはなくてはならないもの。
 
しかし、おおよそ、三年の間のみ、人の内に、からだを創るためにそのかうごうしい力は通ふ。この地を生きていくための基の力であり、かつ、この地を越えたかうごうしいところからの力は、三年の間のみ、をさな子に通ふ。
 
「聖き、世のことば」キリストも、この世に、三年間しか生きることができなかつた。イエス、三十歳から三十三歳の間だ。そのイエスにキリストとして三年間通つた力は、をさな子のをさな子たるところからの力であつた。キリストは、世のすべての爭ひ、分け隔て、エゴを越え、人のこころとこころに橋を架ける、愛する力として、この地上に受肉した。
 
後にキリストを宿すイエスが母マリアから生まれたとされてゐる、24 日から25 日の間の聖き夜。その夜から、キリストがイエスに受肉した1 月6 日までをクリスマスとして祝ふ。
 
そして、このクリスマスは、二千年以上前のおおもとの聖き夜に起こつたことを想ひ起こすことを通して、わたしたちの内なるをさな子たるところを想ひ起こす時だ。そして、いまから三千年以上あとに、すべての人がみづからのこころに精神のをさな子(生命の精神 Lebens Geist)・キリストを見いだすことを、あらかじめ想ひ起こして祝ふ時だ。
 
三歳以前のわたしたちの内に、確かに、そのかうごうしい力が通つてゐた。そして、いまも、通つてゐる。しかし、わたしが、そのかうごうしい力を想ひ起こせばこそ、いまもその力が通つてゐることに目覺めることができる。
 
このクリスマスの日々に、その力を自分の内にも認めればこそ、來る年への希みが羽ばたき始める。争ひ、鬪ひ疲れてゐる男たちが、みづからの内なるをさな子を想ひ起こしてゆくならば、世はおのづから刻一刻となりかはつていくのだ。
 
 
わたしは感じる、
まるでこころの奧で、精神の子が魔法から解かれたやうだ。
その子は心(臟)の晴れやかさの中で、
聖き、世のことばとして、
希みに滿ちた天の実りとして、生まれた。
それが喜びの聲を上げて世の彼方へと拡がりゆく、
わたしのわたしたるところ、神の基から。

 

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2017年12月14日

こころのこよみ(第36週) 〜汝は何を怖がつてゐるのか〜

 
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わたしといふものの深みにおいて
 
いま、目覚めよ、と
 
密(ひめ)やかに世のことばが語る。
 
  汝の仕事の目当てを
 
  我が精神の光で満たせ、
 
  我を通して、汝を捧げるべく。

 
      ルドルフ・シュタイナー
 
 
In meines Wesen Tiefen spricht
Zur Offenbarung draengend
Geheimnisvoll das Weltenwort ;
Erfuelle deiner Arbeit Ziele
Mit meinem Geisteslichte
Zu opfern dich durch mich
 

 
わたしといふものの深みにおいて、「いま、目覚めよ」と、世のことばが密やかに響く。
 
「世のことば」とは、キリスト。
キリストがささやくように「いま、目覚めよ」と言ふ。
 
「目覚めよ」とは、恐れや不安を乗り越えよ、といふこと。
 
世のことばがささやいてゐる。
 
汝は何を怖がつてゐるのか。何も怖がることはない。己れの内に隠されてゐる恐怖から、他者を罵り、責めることは、もうやめよ。汝を捧げよ。汝の仕事に。我(キリスト)を通して。
 
仕事をするといふことは、さういふことではないか。
 

 
わたしといふものの深みにおいて
いま、目覚めよ、と
密(ひめ)やかに世のことばが語る。
  汝の仕事の目当てを
  我が精神の光で満たせ、
  我を通して、汝を捧げるべく。

 

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2017年12月08日

こころのこよみ(第35週) 〜<わたしはある>そして<愼ましく生き抜いていく>〜


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「渡頭(とたう)の夕暮」和田英作


<ある>とは何かを、わたしは知りえるのか、
 
それを再び見いだしえるのか、
 
こころが活き活きと働くならば。
 
わたしは感じる、わたしに力が与へられてゐるのを。
 
それは、己れみづからが手足となつて、
 
世を愼ましく生き抜いていく力だ。

 
 
 
Kann ich das Sein erkennen,
Daß es sich wiederfindet   
Im Seelenschaffensdrange ?   
Ich fühle, daß mir Macht verlieh'n, 
Das eigne Selbst dem Weltenselbst   
Als Glied bescheiden einzuleben.
 
 
 
この週の『こよみ』の<ある>といふことばから、言語造形家の鈴木一博さんが以前、シュタイナーの『礎のことば』について書かれてゐた文章を想ひ起こした。
 
そもそも、<わたし>は、氣づいたときには、まうすでに、ここに<あつた>。ものごころがついたときから、<わたし>がすでに<あらしめられてある>ことに、氣づきだした。
 
この<わたし>は、わたしが氣づく前から<ある>。
 
そして、いま、<わたしはある>といふ事態をありありと感じることができる時といふのは、わたしのこころが活き活きと生きて、働いてゐた後、そのことをその活き活きとした感覺を失はずに想ひ起こす時ではないか。
 
だから、そのやうに、こころにおいて活き活きと何かを想ひ起こすことで、<わたしがある>といふことを、より深く、より親しく感じ、より明らかに知つていくことができる。
 
何を想ひ起こすのか。
 
内に蘇つてくる、ものごころがついてからの想ひ出。
 
また、ふだんは想ひ起こされないものの、故郷の道などを歩くときに、その場その場で想ひ出される実に多くのこと。
 
当時あつたことが、ありありと想ひ出されるとき、そのときのものごとだけでなく、そのときの<わたし>といふ人もが、みづみづしく深みを湛えて蘇つてくる。
 
それらを頭で想ひ描くのでなく、胸でメロディアスに波立つかのやうに想ひ描くならば、その想ひ出の繰りなしは、みづみづしい深みを湛えて波立ついのちの織りなしと言つてもいいし、「精神の海」と呼ぶこともできる。
 
その「精神の海」に行きつくことによつて、人は「みづからがある」ことに対する親しさを得ることができはしないだらうか。
 
そして、その「精神の海」には、わたしが憶えてゐるこころの憶いだけではなく、からだが憶えてゐるものも波打つてゐる。
 
たとへば、この足で立つこと、歩くこと。ことばを話すこと。子どもの頃に憶えたたくさんの歌。自轉車に乘ること。字を書くこと。筆遣ひ。疱丁遣ひ。などなど。
 
身についたこと、技量、それはどのやうに身につけたかを頭で想ひ出すことはできなくても、手足で憶えてゐる。
 
手足といふもの、からだといふものは、賢いものだ。
 
それらの手足で憶えてゐることごとへの信頼、からだの賢さへの信頼があるほどに、人は、<わたしがある>といふことに対する確かな支へを持てるのではないだらうか。
 
また、パーソナルな次元を超えて、人といふ人が持つてゐる、からだといふなりたち、こころといふなりたち、果ては、世といふもの、神といふもの、それらも人によつて想ひ起こされてこそ、初めて、ありありと、みづみづしく、その人の内に生き始める。
 
だからこそ、<わたしはある>といふ想ひを人は深めることができる。<神の内に、わたしはある><わたしの内に、神はある>といふ想ひにまで深めることができる。
 
想ひ出をみづみづしく蘇らせること。手足の闊達な動きに祕められてゐる技量といふ技量を発揮すること。それらすべてを司つてゐる世の生みなし手にまで遡る想ひを稼いで得ること。
 
それらが、<わたしがある>といふことの意味の解き明かし、わたしがある>といふことへの信頼を生みはしないか。
 
それらが、人のこころを活き活きと生かしはしないか。
 
そのやうにわたしのこころが活き活きと生きたことを想ひ起こすことと、<わたしはある>とが響きあふ。
 
<ある>といふことを知つていくことは、<ある>といふことを想ひ起こしていくことだ。
 
世の中において、こころが<生きた>こと、手足が<生きた>こと、わたしまるごとが<生きた>ことを、活き活きとわたしが想ひ起こす時、<わたし>も、世も、ありありと共にあつたのであり、いまも共にあるのであり、これからも共にありつづける。わたしと世は、きつと、ひとつだ。
 
そして、いまも、これからも、精神からの想ひ起こしをすることで、こころを活き活きと働かせつつ、力が与へられてゐるのを感じつつ、手足を使つて、地道に、愼ましく、世を生きてゆくほどに、<ある>といふことを、つまりは、<わたしがある>といふことを、わたしは知りゆき、何度でも見いだしていくだらう。
 
ここで、クリスマス会議でシュタイナーにより発せられた『礎のことば』のはじめの一部を載せておきます。
 
 
    人のこころ!
 
   あなたは手足に生き
 
   手足に支へられつつ、場を経て
 
   精神の海へと行きつく。
 
   行はれたし、精神の想ひ起こしを
 
   こころの深みにて。
 
   そこにては
 
   世の生みなし手が司り
 
   あなたの<わたし>が
 
   神の<わたし>のうちに
 
   ありありとある。
 
   もつて、あなたは真に生きるやうになる
 
   まこと人として、世のうちに。

 
              (鈴木一博さん訳)
 
 
<ある>とは何かを、わたしは知りえるのか、
それを再び見いだしえるのか、
こころが活き活きと働くならば。
わたしは感じる、わたしに力が与へられてゐるのを。
それは、己れみづからが手足となつて、
世を愼ましく生き抜いていく力だ。

 
 

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2017年12月02日

こころのこよみ(第34週) 〜ありありとしてくる<わたし>〜


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密やかに古くから保たれてきたものが
 
新しく生まれてくる己れのありやうと共に
 
内において活き活きとするのを感じる。
 
きつと目覺めた世の數々の力が
 
わたしの人生の外なる仕事に注ぎ込まれ
 
そしてだんだんとわたしをありありと刻み込んでいくだらう。
 
                ルドルフ・シュタイナー

 
 
Geheimnisvoll das Alt-Bewahrte
Mit neu erstandnem Eigensein
Im Innern sich belebend fühlen:
Es soll erweckend Weltenkräfte
In meines Lebens Außenwerk ergießen
Und werdend mich ins Dasein prägen.          
 
 
 
まづ、あなたにとつて、わたしにとつて、一行目の「密やかに、古くから保たれてきたもの」とは、何だらう。
 
それは、みづからのこころといふものの核のことである。こころの相(すがた)は刻一刻と変はるが、こころといふものの核は、変はらずに留まり続ける。
 
その核を「わたしのわたしたるところ」、<わたし>、もしくは精神と言つてもよく、それを意識の上に育てていくために、メディテーションといふこころの練習がある。
 
この『こころのこよみ 第34週』では、そのこころといふものの核を「密やかに、古くから保たれてきたもの」と言ひ表してゐる。
 
 
 
さらに、この肉をもつたからだは、なんのためにあるのだらう。
 
この世で仕事をし、この世に仕へ、自分の周りの世をほんの少しづつでも善きものにしていくために、このからだをわたしは授かつてゐるのではないだらうか。
 
そして、そのやうに、「からだを使つて、今日も生きていかう」といふ意氣込みはどこから生まれてくるのだらう。
 
日々、寝床から、起き上がれるといふこと。手を動かして、洗顏できるといふこと。ものを食べられるといふこと。歩いて、行きたいところへ行くことができるといふこと。子どもと遊ぶことができるといふこと。そして、仕事ができるといふこと・・・。
 
これらすべてのことをするためには、からだが健康であることは勿論だが、さらに意氣込みが要る。
 
その意氣込みは、自分自身で生み出すといふよりも、朝起きて、眠りから覺めて、おのづとゐただいてゐる。それは本當に恩寵だと感じる。
 
これこそが、世の數々の力からの恵みではないか。
 
この恩寵への感謝の日々を毎日生き續けていくことが、この季節、きつと、わたしたちの外なる仕事に生きた力を吹き込んでくれる。
 
感謝の念ひこそが、わたしたちの心意氣を日々目覺めさせてくれる。
 
そして、この目覺めは毎日を新しくする。わたし自身を新しくしてくれる。
 
感謝できないときが、人にはあるものだ。しかし、そんなとき、人は意識の上で夢見てゐる状態か、眠り込んでゐる状態だ。
 
さあ、當たり前にできてゐることに、あらためて目を注いでみよう。からだを當たり前に使へることの恩寵にあらためて驚くことができるだらうか。
 
そのやうに、毎日の感謝から生まれるものが、二行目にある「新しく生まれてくる己れのありやう」である。
 
 
 
無理をせず、どこまでも自分自身であること(精神からの光・一行目)。そして、日々新鮮に自分自身を感じること(からだからの恩寵・二行目)。このふたつが重なつて、こころそのものが、活き活きと動き出す(三行目)。
 
活き活きと動き出して、いよいよ、わたしは、<わたし>として、ますます、「ありありと」あるやうになつてくる。外の仕事に「ありありと」<わたし>が刻み込まれていく(四・五・六行目)。
 
わたしが、<わたしはある>といふありように、なりゆくこと。これこそが、豐かさである。
 
ひとりひとりの<わたしはある>といふありやうこそが、世を豐かにする。
 
 
 
密やかに古くから保たれてきたものが
新しく生まれてくる己れのありやうと共に
内において活き活きとするのを感じる。
きつと目覺めた世の數々の力が
わたしの人生の外なる仕事に注ぎ込まれ
そしてだんだんとわたしをありありと刻み込んでいくだらう。


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2017年11月21日

こころのこよみ第32週 〜世の力の源は決して枯れない〜

 
わたしは稔りゆく己れの力を感じる。
その力は強められたわたしを世に委ねる。
わたしのわたしたるところを力強く感じる、
明るみへと向かふべく、
生きることの仕合はせが織りなされる中で。

             ルドルフ・シュタイナー
 
 
Ich fühle fruchtend eigne Kraft
Sich stärkend mich der Welt verleihn;
Mein Eigenwesen fühl ich kraftend
Zur Klarheit sich zu wenden
Im Lebensschicksalsweben.
 
 

この秋といふ季節に、稔りゆく<わたし>の力は、どこから得られるか。
 
わたしがわたしみづからを支へ引き上げていくための力は、どこから得られるか。
 
「稔りゆく己れの力」
「強められたわたし」
「わたしのわたしたるところ」
 
これらは、みな、己れから己れを解き放ち、己れの小なる力を諦め、大なるものに己れを委ね、任せられるとき、感じられるものではないだらうか。
 
大いなるもの、それを「世」と言ふのなら、世の力の源は決して枯れることがない。
 
その源から、<わたし>は常に力を頂いてゐる。
 
その繋がりを信頼して、今日も仕事をしていかう。
今日といふ一日、明日、あさつて・・・
 
「生きることの仕合はせ(運命)が織りなされる中で」、何が待つてゐるのだらう。
 
小さなわたしがあれこれと采配していくのではなく、大いなるものがわたしの生を織りなしてくれていることへの信頼を育みつつ、勇気をもつて、今日も仕事をしていかう。
 
そのときこそ、「わたしのわたしたるところ」「強められたわたし」が、きつと顕れてくる。
 
今日も、丁寧に、牛のやうにひたすら押しながら、「明るみへと向かふべく」仕事をしていかう。
 
 
わたしは稔りゆく己れの力を感じる。
その力は強められたわたしを世に委ねる。
わたしのわたしたるところを力強く感じる、
明るみへと向かふべく、
生きることの仕合はせが織りなされる中で。
 

 

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2017年11月09日

こころのこよみ第31週 〜「事」と「言」と「心」〜

 
精神の深みからの光が、
まるで太陽のやうに輝きだす。
それは生きる意欲の力になり、
そして、おぼろな感官に輝き入り、
力を解き放ち、
こころから創らうとする力を
人の仕事に於いて、熟させる。

          (ルドルフ・シュタイナー)
 
Das Licht aus Geistestiefen,
Nach außen strebt es sonnenhaft.
Es wird zur Lebenswillenskraft
Und leuchtet in der Sinne Dumpfheit,
Um Kräfte zu entbinden,
Die Schaffensmächte aus Seelentrieben
Im Menschenwerke reifen lassen.
 
 
 
「精神の深みからの光が、まるで太陽のやうに輝きだす」
わたしたちは、太陽の輝きには馴染みがある。しかし、上の文を読んで、「まるで太陽のやうに輝きだす精神の深みからの光」をどう捉へていいものか、途方に暮れはしないだらうか。
 
この文、これらのことばの連なりから、どのやうなリアリティーを摑むことができるだらうか。
 
ことばのリアリティーを摑むために、何度もこころの内に唱へ、口ずさんでみると、どうだらうか。
 
水が集つて流れるやうに聲に出すことを「詠む」と云ふさうだが(白川靜『字訓』)、そのやうな活き活きとした息遣ひで味はつてみる。また、その川底に光るひとつひとつの石を見るやうに、一音一音、味はふやうにしてみる。
 
そのやうにことばを味はひ、ことばの響きに耳を澄まさうとすることにより、こころの靜けさとアクティビティーを通して、「精神の深みからの光」が、「事」として、だんだんと顯れてくる。
 
ここで言はれてゐる「事」と「言」が重なつてくる。
 
また、過去に幾度か経験した内側が「輝きだす」瞬間を想ひ起こし始める。
 
そのやうにして、リアリティーの糸口が見いだされてくるにつれて、いまこの瞬間において、「精神の深みからの光」が、こころに降りてくるのを感じ、覺える。
 
そのやうにして、「事(こと)」と「言(ことば)」と「心(こころ)」が、光の内に重なつてくる。
 
その重なりが、こころの内なる化學反応のやうに生じてくるのを待つ。
 
「精神の深みからの光」。
 
その「光」こそが、「生きる意欲の力になり」、「こころから
創ろうとする力を、人の仕事において熟させる」。
 
意欲をもつて生きるとは、どういふことなのか。
 
自分の仕事において創造力が熟してくるとは、どう云ふことなのか。
 
まづ、内なる「光」と云ふもののリアリティーを得ることで、それらのことが分かる道が開けてくる。
 
こころを暖め、熱くさせながら。光だけを生きるのではなく、熱をもつて仕事に向かひ始める。
 
「事」と「言」と「心」が、さらに幾重にも重なつてくる。
 
今週、精神の光が、生きる意欲の力になり、仕事を熟させていく。
 
その「事」を、ことばとこころで辿つていかう。
 
 
精神の深みからの光が、
まるで太陽のやうに輝きだす。
それは生きる意欲の力になり、
そして、おぼろな感官に輝き入り、
力を解き放ち、
こころから創らうとする力を
人の仕事に於いて、熟させる。

 

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2017年10月30日

こころのこよみ(第30週) 〜秋の喜び、垂直性〜

 
こころの太陽の光の中でわたしに生じる、
考へることの豐かな実り。
みづからを意識することの確かさにおいて、
すべての感じ方が変はる。
わたしは喜びに滿ちて感覺することができる、
秋の精神の目覺めを。
「冬はわたしの内に、
こころの夏を目覺めさせるだらう」
        (ルドルフ・シュタイナー)

 
Es sprießen mir im Seelensonnenlicht
Des Denkens reife Früchte,
In Selbstbewußtseins Sicherheit
Verwandelt alles Fühlen sich.
Empfinden kann ich freudevoll
Des Herbstes Geisterwachen:
Der Winter wird in mir
Den Seelensommer wecken.
 
 
想ひ起こせば、この夏の日々、何を考へて生きてゐるかと、あらためてわたし自身に問ふたとき、大概は下らないことを考へてゐたことに氣づき、やつてきては過ぎ去つていく毎日をただなんとか凌いでゐるだけぢやないかと、自分に言つてしまひさうになつた。
 
しかし、季節の巡りといふものはしつかりとあり、その巡りにつれて、こころの巡りといふものもあつて、夏の頃は、考へや情が、あちらこちらに引きずり囘されて、しんどい思ひをしてゐたにも関はらず、秋がかうして深まつてくると、それまでの曖昧で不安定だつた考へる力の焦点が定まつてきて、本当にこころから考へたいことを考へられるやうになつてくる。
 
それは、自分の場合、本当に喜ばしいことで、考へる力に濁りがなくなつてくると、感情も清明になり、意欲にも火がついてくるのだ。
 
そして、いい本、いい文章、いいテキストにも出会へるやうになつてくる。
 
生きることの意味。理想。それらの考へが、わたしにとつて何よりも氣力を育んでくれることを実感できる日々はありがたいものだ。
 
見えるものについてただ無自覺に考へ、なんとなく思ひ続けてゐるよりも、見えないものへの信を深めるやうな考へを育んでいくことが、どれだけ、こころを目覺めさせることか!
 
ものがただ竝んでゐる平面を生きることよりも、ものといふものにおける垂直を生きること。
 
秋から冬への生活とは、そのやうな「ものへゆく道」「深みを見いだす生活」になりえる。
 
日々のアップ・アンド・ダウンといふものではなく、週を經るごとに、こころが織りなされていくことを実感できるのは、「わたしであること」の安らかさと確かさをもたらしてくれる。
 
ありがたいことだと思ふ。
 
 
こころの太陽の光の中でわたしに生じる、
考へることの豐かな実り。
みづからを意識することの確かさにおいて、
すべての感じ方が変はる。
わたしは喜びに滿ちて感覺することができる、
秋の精神の目覺めを。
「冬はわたしの内に、
こころの夏を目覺めさせるだらう」

 

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2017年10月23日

こころのこよみ(第29週) 〜コトバ第一ナリ〜

 
みづから考へることの光が、
内にをいて力強く輝く。
世の精神の力の源から、
意味深く示される数々の験し。
それらはいま、わたしへの夏の贈りもの、
秋の静けさ、そしてまた、冬の希み。

           (ルドルフ・シュタイナー)
 
 
Sich selbst des Denkens Leuchten
Im Innern kraftvoll zu entfachen,
Erlebtes sinnvoll deutend
Aus Weltengeistes Kräftequell,
Ist mir nun Sommererbe,
Ist Herbstesruhe und auch Winterhoffnung.
 
 
 
改めてこの夏を振り返つて、夏という季節を生きたことによつて、世から、わたしは、何を、贈られたか。
 
それは、「ことば」であつた。
 
「わたしはひとりである」といふ「ことば」だつた。
 
いま、秋になり、外なる静けさの中で、その「ことば」を活発に消化する時であることをわたしは感じてゐる。
 
そして、来たる冬において、その「ことば」は、血となり、肉となって、生まれ出る。
 
夏に受けとられ、秋に消化された「ことば」が、冬には、「己れのことば」、「わたしの内なるひとり生みの子」、「ことに仕へる(わたしの仕事)」として世へと発信される。
 
そんなクリスマスへの希みがある。
 
夏に贈られた「ことば」があるからこそ、この秋、わたしは、その「ことば」を基点にして、自分の情を鎮めることができる。
 
自分の考へを導いていくことができる。
 
自分の意欲を強めていくことができる。
 
そして、冬へと、クリスマスへと、備へるのだ。
 
 
メディテーションをする上にも、余計なことを考へないようにするために、飛び回る鬼火のやうな考へや情を鎮めようとする。
 
しかし、いくら頑張つてみたところで、どうにも鎮まらない時がよくある。
 
そんな時、メディテーションのために与へられてゐる「ことば」に沿ひ、その「ことば」に考へを集中させていくと、だんだん、おのづと、静かで安らかなこころもちに至ることができる。
 
「ことば」を先にこころに据えるのだ。
 
その「ことば」に沿ふことによつて得られる感覚。
 
日本人に於いては、特に、萬葉の歌を歌ふ頃から時代を経て、「古今和歌集」の頃もさらに経て、「新古今和歌集」が編まれた頃、その「ことば」の感覚が、意識的に、先鋭的に、磨かれてゐたやうだ。
 
歌を詠むこと、詠歌に於いて、「題」を先に出して、その「題」を基にして、まづ、こころを鎮め、こころを整へて、その後、歌を詠んだのである。
 
こころの想ふままに歌を歌へた時代は、だんだんと、過ぎ去つていつたのだ。
 
こころには、あまりにも、複雑なものが行き来してゐて、それが、必ずしも、歌を詠むに適した状態であるとは限らない。
 
 
「詠歌ノ第一義ハ、心ヲシヅメテ、妄念ヲヤムルニアリ」
 
「トカク歌ハ、心サハガシクテハ、ヨマレヌモノナリ」
 
「コトバ第一ナリ」

 
(本居宣長『あしわけ小舟』より)
 
 
「ことば」がこころの内に据えられてあるからこそ、「ことば」という手がかりがあるからこそ、わたしたちは、みづからのこころのありやうを手の内に置くことができるようになる。
 
わたしたち日本人は、長い時を経て、歌を詠むことを通して、「ことば」の世界に直接入り、「ことば」の力に預かりながら、己れのこころを整へ、情を晴らし、問ひを立て、明日を迎へるべく意欲をたぎらしてゐた。
 
秋になり、わたしたちは夏に贈られた「ことば」を通して、妄念を鎮め、こころを明らかにしていくことができる。
 
さうして初めて、「みづから考えることの光が、内にをいて力強く輝く」。
 
歌を何度も何度も口ずさむやうに、メディテーシヨンを深めていくことが、来たる冬への備へになるだらう。
 
 
みづから考へることの光が、
内にをいて力強く輝く。
世の精神の力の源から、
意味深く示される数々の験し。
それらはいま、わたしへの夏の贈りもの、
秋の静けさ、そしてまた、冬の希み。

 
 
 

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2017年04月22日

こころのこよみ(第2週) 〜こころの農作業〜 (再掲)


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こころのこよみ (第2週) を再掲します。
 
眼、耳、その他、十二のすべての感官を活発に働かせる。それは、せわしなく動かないこと、小賢しく考へないこととひとつです。
 
自分のしてゐること、しようとしてゐることの実り(結果)が、すぐに目の前に現れはしなくても、この春に耕した土からは、秋の終わりに実りをもたらしてくれます。
 
耕されることを待つてゐる土とは、わたしたちのこころです。
 
春、龍は天に昇り、わたしたち人を世の広やかさ、高さ、奥行きの深さへといざなつてくれようとしてゐます。
 
その龍は大空に雲となつて姿を垣間見せてくれることもありますが、人のこころの内側の天空に向かつて昇りゆく存在です。
 
その内なる存在を感じながら、小賢しく考へず、ただただ、花を觀るとき、わたしたちはその花の精神に触れ、自分自身の精神が芽吹いてくることを感じるのです。
 
ひとつの花には、その奥、その向かうがあるのです。
 
この春、その奥、向かうへの感覚を育むほどに、半年後の秋には、龍がこの地へと降りてくるに従つて考へる力が冴えわたり、頭が澄み切つてくるでせう。
 

 

  
 
こころのこよみ(第2週) 〜こころの農作業〜 (再掲)
 
 
外なるすべての感官のなかで、
 
考への力はみづからのあり方を見失ふ。
 
精神の世は見いだす、
 
再び、人が芽吹いてくるのを。
 
その萌しを、精神の世に、
 
しかし、そのこころの実りを、
 
人の内に、きつと、見いだす。
 
 
Ins Äußre des Sinnesalls
Verliert Gedankenmacht ihr Eigensein;
Es finden Geisteswelten
Den Menschensprossen wieder,
Der seinen Keim in ihnen,
Doch seine Seelenfrucht
In sich muß finden.
 
 
わたしは、目を、耳を、もつと働かせることができるはずだ。全身全靈で、ものごとにもつと集中して向かひ合ふことができるはずだ。身といふものは、使へば使ふほどに、活き活きと働くことができるやうになつてくる。
 
たとへば、自然に向かひ合ふときにも、たとへば、音樂に耳を傾けるときにも、この外なるすべての感官を通して意欲的に見ること、聽くことで、まつたく新たな經驗がわたしの中で生まれる。
 
ときに、からだとこころを貫かれるやうな、ときに、浮遊感を伴ふやうな、ときに、もののかたちがデフォルメされて突出してくるやうな、そのやうな感覺を明るい意識の中で生きることができる。
 
「外なるすべての感官の中で、考への力はみづからのあり方を見失ふ」とは、感覺を全身全靈で生きることができれば、あれこれ、小賢しい考へを弄することなどできない状態を言ふのではないか。
 
このやうないのちの力に滿ちたみづみづしい人のあり方。それは、精神の世における「萌し」「芽吹き」だらう。
 
春になると、地球は息を天空に向かつて吐き出す。だからこそ、大地から植物が萌えはじめる。
 
そして、地球の吐く息に合はせるかのやうに、人のこころの深みからも、意欲が芽吹いてくる。
 
春における、そんな人の意欲の萌し、芽吹きは、秋になるころには、ある結実をきつと見いだすだらう。
 
春、天に昇る龍は、秋、地に下り行く。
 
中國では、その龍を聖龍とするさうだ。
 
それは、きつと、この時代を導かうとしてゐる精神ミヒャエルに貫かれた龍だらう。
 
秋から冬にかけてキリストと地球のためにたつぷりと仕事をしたミヒャエルは、その力を再び蓄へるために、春から夏にかけて、キリストと地球のこころとともに、大いなる世へと、天へと、歸りゆく。そしてまた、秋になると、ミヒャエルは力を蓄へて、この地の煤拂ひに降りてきてくれるのだ。
 
わたしたちの意欲もミヒャエルの動きに沿ふならば、春に、下から萌え出てき、感官を通して、ものを觀て、聽いて、世の精神と結びつかうとする。
 
そして、秋には、上の精神からの力をもらひつつ再び降りてきて、地に実りをもたらすべく、方向性の定まつた活きた働きをすることができる。
 
だから、春には春で意識してやつておくことがあるし、その実りをきつと秋には迎へることができる。
 
それは、こころの農作業のやうなものだ。
 
 
 
外なるすべての感官のなかで、
考への力はみづからのあり方を見失ふ。
精神の世は見いだす、
再び、人が芽吹いてくるのを。
その萌しを、精神の世に、
しかし、そのこころの実りを、
人の内に、きつと、見いだす。

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