
月岡芳年 『素戔嗚尊出雲の簸川上に八頭蛇を退治したまふ図』
自然、その母のやうなありやう、
わたしは、それを、意欲において担ふ。
そして、わたしの意欲の火の力、
それが、わたしの精神の萌しのかずかずを鍛へる。
その萌しのかずかずが、みづからの情を生む、
わたしをわたしにおいて担ふべく。 (鈴木一博訳)
Natur, dein mütterliches Sein,
Ich trage es in meinem Willenswesen;
Und meines Willens Feuermacht,
Sie stählet meines Geistes Triebe,
Daß sie gebären Selbstgefühl
Zu tragen mich in mir.
先週の『こころのこよみ』で、「内なるこころの光と熱。これほど、頼りになるものがあるだらうか。」と書いた。
この頼りになるものを、わたしたちひとりひとりの人にもたらさうとしてくれてゐる精神存在がゐる。さうシュタイナーは語つてゐる。
大いなる精神存在、ミヒャエル。
この存在は、どのやうにして、この時期に、わたしたちのこころとからだに働きかけて下さつてゐるのだらうか。
今週の『こよみ』を読んでみる。口ずさんでみる。
息遣ひも活き活きと、声を解き放ちながら唱へてみる。
何度もこころとからだで味わつてみる。
意欲をもつて、ことばとつきあつてみる。
さうすると、普段以上の意欲をもつてしなければ、何も感じられないことに気づく。
そして、積極的にことばを唱へるほどに、わたしはこころへと立ち上つてくる意欲といふ熱があればこそ、我がこころとからだが活き活きとしてくるのを感じる。
その熱をもつてこそ、もつとも近く親しい「自然」である我がからだとこころを担つてゐると感じることができる。
意欲とは、わたしのからだへと、こころへと、下から、足元から、立ち上がつてくる熱である。
それは熱心さであり、こころざしの顕れである。
その「意欲の火の力」があつてこそ、その火を、わたしが、燃やすからこそ、わたしのからだとこころに、上から、天から、降り注いでくる「考へ・想ひ・こころざし・精神の萌しのかずかず」である光が、だんだんと暖められ、鍛へられる。
わたしたちは、この時期、上からの光(考へ)と、下からの熱(意欲)とを、織りなしあわせる。
その織りなしあいが、こころに「みづからの情」を生む。
その情とは、「わたしは、わたしだ」「わたしは、ひとりだ」といふこころの真ん中に生まれる情だ。
その情をもつて、わたしといふ「ひとりの人」は活き活きと甦つてくる。
恐れや不安や物思ひなどを凌いで、「ひとりの人」として、この世に立ち、目の前にあることにこころから向かつていくことができる。
光としての考へが、こころを暖め熱くするものへと練られ、実行可能なものへと鍛へられていく。
そのやうに、自分のこころとからだで、『こころのこよみ』のことばをひとつひとつ味はつていくと、シュタイナーが多くの著書や講演で語つた精神存在を、リアルに親しく感じることができる通路が開かれていくし、さうしていくことによつて、実人生を安らかに確かに積極的に歩んでいくことができると実感する。
これからの秋から冬にかけて、外なる闇と寒さがだんだんと深まつてくる。
そしてややもすれば、闇と冷たさがこころにまで侵蝕してくる。
そんな時に、内なるこころの光と熱を、ひとりひとりの人がみづからの力で稼ぐことができるやうにと、共に一生懸命働いて下さつてゐるのが、ミヒャエルだ。
一方、闇と寒さを人にもたらす者、それがミヒャエルの当面の相手、アーリマンだ。
人を闇と寒さの中に封じ込めようとしてゐるそのアーリマンの力の中に、剣の力をもつて、鉄の力をもつて、切り込み、光と熱を人のこころにもたらす助けを、秋から冬の間にし、毎年毎年、ひとりひとりの人が、キリスト・イエスが生まれるクリスマスを、こころに清く備へ、整へるのを助けて下さるのが、ミヒャエルだ。
シュタイナーは『こころのこよみ』を通して、ことばの精神の力を四季の巡る世に打ち樹てようとした。
祝祭を、世における大いなる時のしるしとして、ひとりひとりの人がみづからのこころにおいて新しく意識的に創つていくことができるやうにと、『こころのこよみ』を書いた。
「こよみ」とは、
事(こと)をよむことであり、
言(ことば)をよむことであり、
心(こころ)をよむことである。
意識的に四季を生きること。
四季を『こころのこよみ』とともに生きること。
それは、地球をも含みこむ大いなる世とともに精神的に生きるといふ新しい生き方を、わたしたちが摑む手立てになつてくれるだらう。
また、みづからの狭い枠を乗り越えて、こころの安らかさと確かさと積極さを取り戻す手立てにもなつてくれるだらう。
自然、その母のやうなありやう、
わたしは、それを、意欲において担ふ。
そして、わたしの意欲の火の力、
それが、わたしの精神の萌しのかずかずを鍛へる。
その萌しのかずかずが、みづからの情を生む、
わたしをわたしにおいて担ふべく。