帝塚山古墳 世の美しい輝き、
それは、わたしをこころの深みから切に誘ふ、
内に生きる神々の力を
世の彼方へと解き放つやうにと。
わたしは己れから離れ、
信じつつ、ただみづからを探し求める、
世の光と世の熱の中に。
ルドルフ・シュタイナー
Johanni-Stimmung
Der Welten Schönheitsglanz,
Er zwinget mich aus Seelentiefen
Des Eigenlebens Götterkräfte
Zum Weltenfluge zu entbinden;
Mich selber zu verlassen,
Vertrauend nur mich suchend
In Weltenlicht und Weltenwärme.
今週のこよみには「ヨハネ祭の調べ」といふ副題がついてゐる。
キリスト教が生まれる以前、古代諸宗教においては、夏至を一年の頂点とするお祭りが熱狂的に行はれてゐた。
人といふものを導く神は、太陽にをられる。
その信仰が人びとの生活を支へてゐた。
太陽がもつとも高いところに位置するこの時期に、太陽にをられる神に向かつて、人々は我を忘れて、祈祷をし、捧げものをし、踊り、歌ひながら、その祭りを執り行つてゐた。
洗礼者ヨハネは、その古代的宗教・古代的世界観から、まつたく新しい宗教・新しい世界観へと、橋渡しをした人であつた。
彼は、夏に生まれたといふだけでなく、いにしへの宗教における夏の熱狂を取り戻すべく、まさしく、炎のやうな情熱をもつて、ヨルダン川のほとりにおいて、全国から集まつてくる人々に水をもつて洗礼を授けてゐた。
しかし、彼は、これまでは太陽にあられた神が、まうすぐこの地上に降りてこられることを知つてゐた。
汝ら、悔い改めよ、天の国は近づけり
(マタイ3.2)
そして、みづからの役目がそこで終はることをも知つてゐた。
わが後に来たる者は我に勝れり、
我よりさきにありし故なり
(ヨハネ1.15)
我は水にて汝らに洗礼を施す、
されど我よりも力ある者きたらん、
我はそのくつの紐を解くにも足らず。
彼は聖霊と火とにて汝らに洗礼を施さん
(ルカ3.16)
彼は必ず盛んになり、我は衰ふべし
(ヨハネ3.30)
ヨハネはイエスに洗礼を授け、イエスのこころとからだに、太陽の精神であるキリストが降り来たつた。
それは、太陽の精神が、その高みから降りて、地といふ深みへと降りたといふことであり、ひとりひとりの人の内へと降り、ひとりひとりの人の内において活き活きと働き始める、その大いなる始まりでもあつた。
「内に生きる神々しい力」とは、人の内にこそ生きようとしてゐる、キリストのこころざし(Christ Impuls)。
ヨハネがそのことに仕へ、みづからを恣意なく捧げたことが、四つの新約の文章から熱く伝はつてくる。
そのときからずつと、キリストは、この地球にあられる。
そのことをわたしたちは実感できるだらうか。
しかし、シュタイナーは、その実感のためには、ひとりひとりの人からのアクティビティーが要ると言つてゐる。
みづからの内において、キリストがあられるのを感じることは、おのづからは生じない。
人が世に生きるにおいて、みづからを自覚し、自律し、自立させ、自由に己れから求めない限りは、「内に生きる神々しい力」という実感は生まれ得ない。
ヨハネ祭は、もはや、古代の夏至祭りではなく、熱狂的に、我を忘れて祝ふものではなく、意識的に、我に目覚めて、キリストを探し求める祝ひ。
それは、この世を離れるのではなく、この世を踏まえつつ、羽ばたくといふ、わたしたち現代に意識的に生きる人といふ人の求めることでもある。
この夏の季節、キリストは息を吐くかのやうに、みづからのからだである地球から離れ、世の彼方にまで拡がつていかうとしてゐる。
わたしたち人も、キリストのそのやうな動き・呼吸に沿ふならば、己れから離れ、己れのからだとこころを越えて、精神である「みづから」を見いだすことができる。
生活の中で、わたしたちはそのことをどう理解していくことができるだらうか。
からだを使つて働き、汗を流し、学び、歌ひ、遊ぶ、それらの動きの中でこそ、からだを一杯使ふことによつてこそ、からだから離れることができ、こころを一杯使ふことによつてこそ、こころから離れることができ、「世の光と世の熱の中に」みづからといふ精神を見いだすことができる。
そして、この夏において、意識的に、子どもに、習ふこと。
わたしの目の前で、笹の葉にたんざくを吊るしながら、けらけら笑ひ、歌ひ、踊つてゐる子どもたち。
ヨハネ祭のとき、古代の人々は、鳥たちが歌ふことから学びつつ、その歌声を人間的に洗煉させて音楽と詩を奏で、歌ひ、踊つたといふ。
鳥たちの声の響きは、大いなる世の彼方にまで響き渡り、そしてその響きに応じて天から地球に精神豊かなこだまのやうなものが降りてくる。
このヨハネ祭の季節に、人は、夢のやうな意識の中で、鳥たちに学びつつ、歌ひ、踊ることによつて、己れから離れ、いまだ天に見守られてゐる<わたし>を見いだすことができた。
いまも、子どもたちは、幾分、古代の人たちの夢のやうな意識のありようを生きてゐる。
そんな夏の子どもたちの笑ひ声と歌声をさへぎりたくない。その響きはいまも彼方の世にまで届くのだから。
そして、わたしたちが己れから離れ、大いなる世、コスモスをより精神的に理解するほどに、子どもたちの歌声に対するエコーのやうに、ひとりひとりの<わたし>、「神々しい力」が、天に見守られてゐるのを見いだし、響き返してくれてゐるのを聴き取ることができ、この世の様々な状況に対応していく道を見いだしていくことができるのではないか。
言語造形をしてゐても、さう、実感してゐる。
夏至の頃に、キリストは世の高みと拡がりに至ることによつて、毎年繰り返して、昂揚感を覚えてゐると言ふ。
ヨハネ祭の調べ。
それは、ひとりひとりが外の世に働きかけることによつて、意識的に、目覚めつつ、みづからを高めつつ、みづからといふ精神を見いだすこと。
そこから、地上的なキリスト教ではなく、夏に拡がりゆくキリストの昂揚を通して、より大いなる世のキリストを見いだしていくこと。
そのことがキリスト以降、改められた夏の祭りとしての、ヨハネ祭の調べだと感じる。
世の美しい輝き、
それは、わたしをこころの深みから切に誘ふ、
内に生きる神々の力を
世の彼方へと解き放つやうにと。
わたしは己から離れ、
信じつつ、ただみづからを探し求める、
世の光と世の熱の中に。