[こころのこよみ(魂の暦)]の記事一覧

2015年04月17日

こころのこよみ(第2週) 〜こころの農作業〜 (再掲)


外なるすべての感官のなかで、

考えの力はみずからのあり方を見失う。

精神の世は見いだす、

再び、人が芽吹いてくるのを。

その萌しを、精神の世に、

しかし、そのこころの実りを、

人の内に、きっと、見いだす。




Ins Äußre des Sinnesalls
Verliert Gedankenmacht ihr Eigensein;
Es finden Geisteswelten
Den Menschensprossen wieder,
Der seinen Keim in ihnen,
Doch seine Seelenfrucht
In sich muß finden.



わたしは、目を、耳を、もっと働かせることができるはずだ。
全身全霊で、ものごとにもっと集中して向かい合うことができるはずだ。
身というものは、使えば使うほどに、活き活きと働くことができるようになってくる。

たとえば、自然に向かい合うときにも、
たとえば、音楽に耳を傾けるときにも、
この外なるすべての感官を通して意欲的に見ること、聴くことで、
まったく新たな経験がわたしの中で生まれる。

ときに、からだとこころを貫かれるような、
ときに、浮遊感を伴うような、
ときに、もののかたちがデフォルメされて突出してくるような、
そのような感覚を明るい意識の中で生きることができる。

「外なるすべての感官の中で、考えの力はみずからのあり方を見失う」とは、
感覚を全身全霊で生きることができれば、
あれこれ、小賢しい考えを弄することなどできない状態を言うのではないか。

このようないのちの力に満ちたみずみずしい人のあり方。
それは、精神の世における「萌し」「芽吹き」だろう。

春になると、地球は息を天空に向かって吐き出す。
だからこそ、大地から植物が萌えはじめる。

そして、地球の吐く息に合わせるかのように、
人のこころの深みからも、意欲が芽吹いてくる。

春における、そんな人の意欲の萌し、芽吹きは、
秋になるころには、
ある結実をきっと見いだすだろう。

春、天に昇る竜は、
秋、地に下り行く。

中国では、その竜を聖竜とするそうだ。

それは、きっと、この時代を導こうとしている精神ミヒャエルに貫かれた竜だろう。

秋から冬にかけてキリストと地球のためにたっぷりと仕事をしたミヒャエルは、
その力を再び蓄えるために、
春から夏にかけて、キリストと地球のこころとともに、大いなる世へと、天へと、帰りゆく。
そしてまた、秋になると、ミヒャエルは力を蓄えて、
この地の煤払いに降りてきてくれるのだ。

わたしたちの意欲もミヒャエルの動きに沿うならば、
春に、下から萌え出てき、
感官を通して、ものを観て、聴いて、世の精神と結びつこうとする。

そして、秋には、上の精神からの力をもらいつつ再び降りてきて、
地に実りをもたらすべく、方向性の定まった活きた働きをすることができる。

だから、春には春で意識してやっておくことがあるし、
その実りをきっと秋には迎えることができる。

それは、こころの農作業のようなものだ。



外なるすべての感官のなかで、
考えの力はみずからのあり方を見失う。
精神の世は見いだす、
再び、人が芽吹いてくるのを。
その萌しを、精神の世に、
しかし、そのこころの実りを、
人の内に、きっと、見いだす。



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2015年04月11日

こころのこよみ(第1週) 〜復活祭の調べ〜


世の広がりから、

陽が人の感官に語りかけ、

そして喜びがこころの深みから、

光とひとつになる、観ることのうちに。

ならば、己であることの被いから広がり渡る、

考えが空間の彼方へと。

そしておぼろげに結びつける、

人というものをありありとした精神へと。




Wenn aus den Weltenweiten
Die Sonne spricht zum Menschensinn
Und Freude aus den Seelentiefen
Dem Licht sich eint im Schauen,
Dann ziehen aus der Selbstheit Hülle
Gedanken in die Raumesfernen
Und binden dumpf
Des Menschen Wesen an des Geistes Sein.



自分自身のこころが、
光とひとつになり、
喜びに溢れだす。

陽の光(外なる自然)と、
こころの光(内なる自然)が、
ひとつになる。

この春、わたしは、そんなおのれのありようを観ている。

ものをじっと見る。
ものもじっとわたしを見ている。

ものをじっと、見つめるほどに、
ものもわたしに応えようとでもしてくれるかのように、様々な表情を見せてくれるようになる。

そんな、わたしとものとの関係。

それは、意欲と意欲の交わりだ。

その交わりのなかからこそ、喜びが生まれる。

そして、喜びこそが、
わたしのこころを空間の彼方へと拡げてくれる。

とかく、狭いところで右往左往しがちな、わたしの考え。

だが、観ることによって生まれてくる喜びが、
わたしによって考えられる考えを、
自分なりの考え方、感じ方といういつものおのれの被いを越えて拡げてゆく。

それによって、新しく、生まれ変わったようなこころもち。
こころの甦り。
わたしだけが行うわたしだけの復活祭。

そして、ありありとした精神は、そこに。
生活を新しく開く鍵は、もうすぐ、そこに。

しかし、まだ、しっかりとは、その精神とは結びつくことができない。
ことばという精神が降りてくるまでには、聖霊降臨祭(復活祭の50日後)を待つこと。

いまは、おぼろげに、結びつくことができるだけだ。

そんなおのれのありようを観ている。


世の広がりから、
陽が人の感官に語りかけ、
そして喜びがこころの深みから、
光とひとつになる、観ることのうちに。
ならば、己であることの被いから広がり渡る、
考えが空間の彼方へと。
そしておぼろげに結びつける、
人というものをありありとした精神へと。






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2015年04月04日

こころのこよみ(第52週)〜十字を生きる〜 (再掲)


こころの深みから

精神がみずからありありとした世へと向かい、

美が空間の拡がりから溢れ出るとき、

天の彼方から流れ込む、

生きる力が人のからだへと。

そして、力強く働きながら、ひとつにする、

精神というものと人であることを。




Wenn aus den Seelentiefen 
Der Geist sich wendet zu dem Weltensein 
Und Schönheit quillt aus Raumesweiten,
Dann zieht aus Himmelsfernen
Des Lebens Kraft in Menschenleiber
Und einet, machtvoll wirkend,
Des Geistes Wesen mit dem Menschensein.




ものをじっと観る。
ものがありありとしてくるまで、じっと観る。
そのとき、こころの深みが動く。
こころの力を振り絞って、そのものとひとつになろうとするとき、
わたしの精神とものの精神との交流が始まる。

そして、また、そのときに、
方向で言えば、まさに上から、天から、
そのつどそのつど、フレッシュな光、息吹き、啓けがやってくる。

言語造形をしているときも、同じだ。

みずから稽古しているとき、
うまくいかなくても、
それでも繰り返し、繰り返し、
ことばがありありとしたものになるまで、
美が立ち上がってくるまで、ことばに取り組んでいるうちに、
また、他者のことばをこころの力を振り絞りながら聴いているときに、
「これだ!」という上からの啓けに見舞われる。

そのたびごとに、わたしは、力をもらえる。
喜びと安らかさと確かさをもって生きる力だ。

精神である人は、みずからのこころとからだを使って、
じっと観る。聴く。働く。美を追い求める。

そのとき、世の精神は、力強く、天から働きかけてくれる。

そして、精神と人とをひとつにしようとしてくれている。

人と世が、美を通して出会い、(横の出会い)
人と天が、生きる力を通して出会い、(縦の出会い)
その横と縦の出会いが十字でクロスするところで、
『こころのこよみ』は、この第52週をもって一年を終える。



こころの深みから
精神がみずからありありとした世へと向かい、
美が空間の拡がりから溢れ出るとき、
天の彼方から流れ込む、
生きる力が人のからだへと。
そして、力強く働きながら、ひとつにする、
精神というものと人であることを。



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2015年04月01日

こころのこよみ(第51週) 〜花が待っている〜 (再掲)


人というものの内へと

感官を通して豊かさが流れ込む。

世の精神はおのれを見いだす、

人のまなこに映る相(すがた)の中に。

その相(すがた)から力が、

きっと新たに汲み上げられる。




Ins Innre des Menschenwesens
Ergießt der Sinne Reichtum sich,
Es findet sich der Weltengeist
Im Spiegelbild des Menschenauges,
Das seine Kraft aus ihm
Sich neu erschaffen muß.



より目を開いて、より耳を澄まして、
ものごとというものごとにじっと向かいあってみれば、
ものごとは、より活き活きとした相(すがた)をわたしに顕わしてくれる。

わたしが花をそのように観ているとき、
花もわたしを観ている。

そして、わたしの瞳の中に映る相(すがた)は、もはや死んだものではなく、
ますます活きたものになりゆく。

また、その活きたものになりゆく相を映すわたしの瞳も、
だんだんとそのありようを深めていく。
物理的なものの内に精神的なものを宿すようになる。

花へのそのようなアクティブな向かいようによって、
わたしみずからが精神として甦る。

そして、その深まりゆくわたしの内において、
花の精神(世の精神)が甦る。
花の精神は、そういう人のアクトを待っている。

「待つ」とは、
そもそも、神が降りてこられるのを待つことを言ったそうだ。

松の木は、だから、神の依り代として、特別なものであったし、
祭りとは、その「待つ」ことであった。

中世以前、古代においては、人が神を待っていた。

しかし、いま、神が、世の精神が、人を待っている。

世の精神が、おのれを見いだすために、
わたしたち人がまなこを開くのを待っている。



人というものの内へと
感官を通して豊かさが流れ込む。
世の精神はおのれを見いだす、
人のまなこに映る相(すがた)の中に。
その相(すがた)から力が、
きっと新たに汲み上げられる。


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2015年03月30日

こころのこよみ(第50週)〜願わくば、人が聴くことを!〜 (再掲)


人の<わたし>に語りかける。

みずから力強く立ち上がりつつ、

そしてものものしい力を解き放ちつつ、

世のありありとした繰りなす喜びが語りかける。

「あなたの内に、わたしのいのちを担いなさい。

魔法の縛りを解いて。

ならば、わたしは、まことの目当てに行きつく」




Es spricht zum Menschen-Ich,
Sich machtvoll offenbarend
Und seines Wesens Kraefte loesend,
Des Weltendaseins Werdelust:
In dich mein Leben tragend
Aus seinem Zauberbanne
Erreiche ich mein wahres Ziel.

   

咲きはじめた桜。
他の木々や草花たちのたたずまい。
なんと「ものものしい」までに、活き活きとしていることだろう。

明るく暖かな日差しの中で、それぞれの植物が歓声を上げているのが聴こえてくるような気がする。

この週の「こよみ」において、
「世のありありとした繰りなす喜びが、人の<わたし>に語りかける」とある。

この語りかけを人は聴くことができるだろうか。

2行目に「offenbarend」ということばがあって、
それを「立ち上がりつつ」と訳してみたが、
鈴木一博さんによると、
この「offenbaren」は、
「春たてる霞の空」や、
「風たちぬ」などの
「たつ」だと解いておられる。

「たつ」とはもともと、
目に見えないものがなんらかの趣きで開かれる、
耳に聴こえないものがなんらかの趣きで顕わに示される、
という日本語だそうだ。

「春がたつ」のも、「秋がたつ」のも、
目には見えないことだが、
昔の人は、それを敏感に感じ、
いまの大方の人は、それをこよみで知る。

いま、植物から何かが「力強く」「ものものしく」立ち上がってきている。

人の<わたし>に向かって、<ことば>を語りかけてきている!

わたしは、それらの<ことば>に耳を傾け、聴くことができるだろうか。

喜びの声、励ましの声、
時に悲しみの声、嘆きの声、
それらをわたしたち人は聴くことができるだろうか。

それらを人が聴くときに、
世は「まことの目当てに行きつく」。

「聴いてもらえた!」という喜びだ。

世が、自然が、宇宙が、喜ぶ。

シュタイナーは、
「願わくば、人が聴くことを!」ということばで、
晩年の『礎(いしずえ)のことば』という作品を終えている。

願わくば、人が、
世の<ことば>を、
生きとし生けるものたちの<ことば>を、
海の<ことば>を、
風の<ことば>を、
大地の<ことば>を、
星の<ことば>を、
子どもたちの<ことば>を、
聴くことを!


人の<わたし>に語りかける。
みずから力強く立ち上がりつつ、
そしてものものしい力を解き放ちつつ、
世のありありとした繰りなす喜びが語りかける。
「あなたの内に、わたしのいのちを担いなさい。
魔法の縛りを解いて。
ならば、わたしは、まことの目当てに行きつく」


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2015年03月27日

こころのこよみ(第49週) 〜夜と昼〜 (再掲)


「わたしは世のありありとした力を感じる」

そう、考えの明らかさが語る。

考えつつ、みずからの精神が長けゆく、

暗い世の夜の中で。

そして世の昼に近づきゆく、

内なる希みの光をもって。




Ich fühle Kraft des Weltenseins:
So spricht Gedankenklarheit,
Gedenkend eignen Geistes Wachsen
In finstern Weltennächten,
Und neigt dem nahen Weltentage
Des Innern Hoffnungsstrahlen.



今回の『こころのこよみ』について、以前書いたもののうちのひとつに、
2011年3月11日のことがあってすぐのものがある。
http://kotobanoie.seesaa.net/article/191122893.html

地震と津波と原発事故から遠く離れた大阪に生きている自分にとってさえも、
この『こよみ』で言われていることが、あの当時、リアリティーをもって強く迫ってきた。

今年、この週の『こよみ』に、
精神のありようから、もう一度、向かい合う中で、
シュタイナーの1923年2月3日、4日のドルナッハでの講演『夜の人と昼の人』の内容と、
今週の『こよみ』が響き合ってきた。

春が近づいてくる中で感じる、ありありとした世の力。

たとえ、その力を感じることができても、
わたしが考えつつ、その感じを考えで捉えなければ、
わたしはそれをことばにして言い表すことはできない。

世のありありとした力も、
それに対して湧きあがってくる感じも、
<わたし>という人からすれば、
外側からやってくるもの。

それらに対して、人は、考えることによって、
初めて、内側から、<わたし>から、応えることができる。

そのようにして外側からのものと内側からのものが合わさって、
知るということ(認識)がなりたち、
ことばにして言い表すこともできる。

2011年の3月11日以来の月日の中で、
わたしたちの外側からあまりにもたくさんの世の力がありありと迫ってきた。

そんな外側からの力に対し、わたしたちの内側からの考える力が追いつかない、
そんな脅威と焦慮にわたしたちは見舞われた。

そして、たくさんの、たくさんの、ことばが行き交った。

わたしたちの考える力は、その都度その都度、
外の世からやってくる力に対して応じていかざるをえないが、
しかし、そのことに尽きてしまわざるをえないのだろうか。

対応していくにしても、
その考える力が、明らかな一点、確かな一点に根ざさないのならば、
その対応は、とかくその場限りの、
外の世に振り回されっぱなしのものになりはしないだろうか。

その確かな一点、明らかな一点とは、
「わたしはある」ということを想い起こすこと、考えることであり、
また、その考えるを見るということ。

他の誰かがこう言っているから、こう考える、
ああ言っているから、ああ考えるのではなく、
他の誰でもないこの「わたしはある」という一点に立ち戻り、
その一点から「わたしが考える」という内からの力をもって、
外の出来事に向かっていくことができる。

それは、外の出来事に振り回されて、考えるのではなく、
内なる意欲の力をもって、
みずから考えるを発し、
みずから考えるを導いていくとき、
考えは、それまでの死んだものから生きているものとして活き活きと甦ってくる。

そのとき、人は、考えるに<わたし>を注ぎ込むこと、意欲を注ぎ込むことによって、
「まぎれなく考える」をしている。
(この「まぎれなく考える」が、よく「純粋思考」と訳されているが、「いわゆる純粋なこと」を考えることではない)

わたしたちが日々抱く考えという考えは、死んでいる。

それは、考えるに、<わたし>を注ぎ込んでいないからだ。
みずからの意欲をほとんど注ぎ込まずに、
外の世に応じて「考えさせられている」からだ。
そのような、外のものごとから刺激を受けて考える考え、
なおかつ、ものごとの表面をなぞるだけの考えは、死んでいる。

多くの人が、よく、感覚がすべて、感じる感情がすべてだと言う。
実は、その多くの人は、
そのような死んだ考えをやりくりすることに対するアンチパシーから、
ものを言っているのではないだろうか。

ところが、そのような受動的なこころのあり方から脱して、
能動的に、エネルギッシュに、考えるに意欲を注ぎ込んでいくことで、
考えは死から甦り、生命あるものとして、人に生きる力を与えるものになる。

その人に、軸ができてくる。

世からありとあらゆる力がやってくるが、
だんだんと、その軸がぶれることも少なくなってくるだろう。

その軸を創る力、
それは、みずからが、考える、
そして、その考えるを、みずからが見る。
この一点に立ち戻る力だ。

この一点から、外の世に向かって、その都度その都度、考えるを向けていくこと、
それは、腰を据えて、その外のものごとに沿い、交わっていくことだ。

では、その力を人はどうやって育んでいくことができるのだろうか。
また、そのように、考えるに意欲を注ぎ込んでいく力は、どこからやってくるのだろうか。

それは、夜、眠っているあいだに、
人という人に与えられている。

ただし、昼のあいだ、
その人が意欲を注ぎつつ考えるほどに応じてである。

夜の眠りのあいだに、人はただ休息しているのではない。

意識は完全に閉じられているが、
考えるは、意識が閉じられている分、まったく外の世に応じることをせずにすみ、
よりまぎれなく考える力を長けさせていく。

それは、眠りのあいだにこそ、意欲が強まるからだ。
ただ、意欲によって強められている考える力は、まったく意識できない。
眠っていることによって、
意識の主体であるアストラルのからだと<わたし>が、
エーテルのからだとフィジカルなからだから離れているのだから。

眠りのあいだに、わたしたちは、わたしたちの故郷であるこころと精神の世へと戻り、
次の一日の中でフレッシュに力強く考える力をその世の方々から頂いて、
朝、目覚める。

要は、
夜の眠りのあいだに長けさせている精神の力を、
どれだけ昼のあいだにみずからに注ぎこませられるかだ。

そのために、シュタイナーは、その講演で、
本を読むときに、もっと、もっと、エネルギッシュに、意欲の力を注ぎ込んでほしい、
そう述べている。

それは、人のこころを育てる。

現代人に最も欠けている意欲の力を奮い起こすことで、
死んだ考えを生きた考えに甦らせることこそが、
こころの育みになる。

アントロポゾフィーの本をいくらたくさん読んでも、
いや、シュタイナー本人からいくらいい講演、いい話を聴いたとしても、
それだけでは駄目なのだと。

文という文を、意欲的に、深めること。

ことばを通して、述べられている考えに読む人が生命を吹き込むこと。

アントロポゾフィーは、そのようにされないと、途端に、
腰崩れの、中途半端なものになってしまうと。

1923年という、彼の晩年近くの頃で、
彼の周りに集まる人のこころの受動性をなんとか奮い起こして、
能動的な、主体的な、エネルギッシュな力に各々が目覚めるように、
彼はことばを発していた。

その力は、
夜の眠りのあいだに、高い世の方々との交わりによってすべての人が贈られている。

夜盛んだった意欲を、
昼のあいだに、どれだけ人が目覚めつつ、意識的に、
考えるに注ぎ込むか。

その内なる能動性、主体性、エネルギーこそが、「内なる希みの光」。

外の世へのなんらかの希みではなく、
<わたし>への信頼、<わたし>があることから生まれる希みだ。

その内なる希みの光こそが、
昼のあいだに、人を活き活きとさせ、
また夜の眠りのあいだに、精神を長けさせる。

その夜と昼との循環を意識的に育んでいくこと、
「内なる希みの光」を各々育んでいくこと、
それが復活祭を前にした、こころの仕事であり、
2011年3月11日以降の日本に生きるわたしたちにとって、
実はとても大切なこころの仕事なのだと思う。



「わたしは世のありありとした力を感じる」
そう、考えの明らかさが語る。
考えつつ、みずからの精神が長けゆく、
暗い世の夜の中で。
そして世の昼に近づきゆく、
内なる希みの光をもって。



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2015年03月22日

こころのこよみ(第48週) 〜行われたし、精神の見はるかしを〜 (再掲)


世の高みから

力に満ちてこころに流れてくる光の中で

現われよ、こころの謎を解きながら、

世の考えの確かさよ。

その光り輝く力を集め、

人の心(臓)の中に愛を呼び覚ますべく。



Im Lichte das aus Weltenhöhen
Der Seele machtvoll fliessen will
Erscheine, lösend Seelenrätsel
Des Weltendenkens Sicherheit
Versammelnd seiner Strahlen Macht
Im Menschenherzen Liebe weckend.



考える力というものについて、人はよく誤解する。

考えるとは、
あれこれ自分勝手にものごとの意味を探ることでもなく、
浮かんでくる考えに次から次へとこころをさまよわせることでもなく、
何かを求めて思いわずらうことでもなく、
ものごとや人を裁くことへと導くものでもない。

考えるとは、本来、
みずからを置いてものごとに沿うこと、
思いわずらうことをきっぱりと止めて、
考えが開けるのをアクティブに待つこと、
そして、ものごととひとつになりゆくことで、愛を生みだすこと。

今回もまた、鈴木一博さんの『礎のことば』の読み説きから多くの示唆を得ている。

人が考えるとは、
考えという光が降りてくるのを待つこと、
人に考えが開けることだ。

考えが開けるきっかけは、
人の話を聴く、本を読む、考えに考え抜く、道を歩いていて、ふと・・・など、
人によりけり、時と場によりけり、様々あるだろうが、
どんな場合であっても、
人が頭を安らかに澄ませたときにこそ、考えは開ける。
たとえ、身体は忙しく、活発に、動き回っていても、
頭のみは、静かさを湛えているほどに、
考えは開ける。

そして、頭での考えの開けと共に、こころに光が当たる。
考えが開けることによって、こころにおいて、ものごとが明るむ。
そして、こころそのものも明るむ。

「ああ、そうか、そうだったのか!」というときのこころに差し込む光の明るさ、暖かさ。
誰しも、覚えがあるのではないだろうか。

明るめられたこころにおいて、
降りてきたその考えは、その人にとって、隈なく見通しがきくものだ。

また、見通しがきく考えは、他の人にとっても見通しがきき、その人の考えにもなりうる。

そもそも、考えは誰の考えであっても、考えは考えだから。

人に降りてくる考えは、その人の考えになる前に、そもそも世の考えである。

自然法則というものも、自然に秘められている世の考えだ。

人が考えることによって、
自然がその秘密「世の考え」を打ち明ける。

その自然とは、ものというものでもあり、人という人でもある。

目の前にいる人が、どういう人なのか、
我が子が、どういう人になっていくのか、
もしくは、自分自身がどういう人なのか、
それは、まずもっては、謎だ。

その謎を謎として、
長い時間をかけて、その人と、もしくはみずからと、腰を据えてつきあいつつ、
その都度その都度、
こころに開けてくる考えを摑んでいくことによってのみ、
だんだんと、その人について、もしくは、わたしという人について、
考えが頭に開け、光がこころに明るんでくる。

それはだんだんと明るんでくる「世の高みからの考え」でもある。

わたしなりの考えでやりくりしてしまうのではなく、
からだとこころをもって対象に沿い続けることによって、
「世の考え」という光が頭に降りてくるのを待つのだ。

すぐに光が降りてくる力を持つ人もいる。
長い時間をかけて、ゆっくりと光が降りてくるのを待つ人もいる。

どちらにしても、
そのように、考えと共にこころにやってくる光とは、
世からわたしたちへと流れるように贈られる贈り物といってもいいかもしれない。

さらに言えば、それは、
わたしの<わたし>が、
わたしの<わたし>に、
自由に、
本当に考えたいことを、考えとして、光として、贈る贈り物なのだ。

    人のこころ!
   あなたは安らう頭に生き
   頭は、あなたに、とわの基から
   世の考えを打ち明ける。
   行われたし、精神の見はるかしを
   考えの安らかさのうちに。
   そこにては神々の目指すことが
   世とものとの光を
   あなたの<わたし>に
   あなたの<わたし>が自由に欲すべく
   贈る。
   もって、あなたは真に考えるようになる
   人と精神との基にて。         (『礎のことば』より) 
 


その贈り物があるからこそ、
わたしたちは、また、世の考えが贈られるのを待ちつつ考えることができるし、
考えの光が降りてくればこそ、
わたしたちは、こころの明るさと共に、その考えを見通し、見はるかすことができ、
その見はるかしからこそ、こころに愛が目覚めうる。

ある人の長所にあるとき、はっと気づいて、
その人をあらためてつくづくと見つめ、
その人のことを見直したり、好ましく思ったりもする。

長所にはっと気づく、
それこそが、
考えの光が降りてきたということだろうし、
その人について光をもって考えられるからこそ、
こころに愛が呼び覚まされるのだろう。

人を愛する時とは、
世の高みから、力に満ちて流れてくる「世の考え」が、こころに開ける時。

考えが開けるとき、
そこには、きっと、愛がある。

愛が生まれないときは、
考えているようで、実は考えていない。
自分勝手に考えや思いをいじくりまわしているか、
巡り巡る考えや思いに翻弄されているときだ。

考えることによって愛が生まれることと、
愛をもって考えることとは、
きっと、ひとつの流れとして、人の内側で循環している。



世の高みから
力に満ちてこころに流れてくる光の中で
現われよ、こころの謎を解きながら、
世の考えの確かさよ。
その光り輝く力を集め、
人の心(臓)の中に愛を呼び覚ますべく。


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2015年03月16日

こころのこよみ(第47週) 〜行われたし、精神の慮(おもんぱか)りを〜 (再掲)


世のふところから蘇ってくるだろう、

感官への輝きを息づかせる繰りなす喜びが。

その喜びは見いだす。わたしの考える力が、

神々しい力を通して備えられ、

内において力強いわたしとして生きていることを。




Es will erstehen aus dem Weltenschosse,
Den Sinnenschein erquickend Werdelust,
Sie finde meines Denkens Kraft
Gerüstet durch die Gotteskräfte
Die kräftig mir im Innern leben.






以前にも引用させてもらったが、鈴木一博さんが以前、
日本アントロポゾフィー協会会報に掲載された『礎(いしずえ)のことば』から、
ここ二、三週間の『こころのこよみ』への大きな示唆をもらっている。

    精神
   こころ
   からだ


人は、この三つの次元の違うありようからなりたっている。

自分自身を顧みても、
やはり、どちらかというと、
精神が上の方に、
からだが下の方にあり、
こころがその間に挟まっていることを感じる。

そして、この『こころのこよみ』は、
その名の通り、
真ん中の、
「こころ」がそれによって活き活きと生きることを願って書き記されている。

三月も半ばになろうかというこの時期、
陽の光がだんだんと明るく、暖かく、長く、わたしたちを照らし出すとともに、
地から、少しずつ少しずつ、
草木の力が繰りなしてきているのを見てとることができる。
そして、「啓蟄」といわれるように、
虫たちをはじめとする動く生き物たちも地の下から、水の中から這い出してきている。

わたしたち人は、どうだろう。

人においても、
近づいてきている春の陽気にそそられて、
からだもこころも動き出そうとしていないだろうか。

世の、春に近づいていく繰りなしが、
まずは、下のからだへの蠢(うごめ)き、繰りなしを誘い出し、
感官へのそのような働きかけが、
真ん中のこころを動かそうとしていないだろうか。

その動きこそが、喜びにもなりえる。


以下、鈴木さんの文章からの引き写しだが、
その「精神の想い起こし、精神の慮り、精神の見はるかし」に、
まさにリアリティーを感じる。

________________________________

こころというものは、
常にシンパシーとアンチパシーの間で揺れ動いている。

しかし、人は、そのシンパシー、アンチパシーのままにこころを動かされるだけでなく、
その間に立って、
そのふたつの間合いをはかり、
そのふたつを引き合わせつつ、
バランスを保ちつつ、
静かなこころでいることもできる。

むしろ、そうあってこそ、こころというものをわたしたちは感じとることができる。


そのこころの揺れ動き、そしてバランスは、
からだにおける心臓と肺の張りと緩みのリズムとも織りなしあっている。

こころのシンパシー、アンチパシーとともに、
心拍は高まりもしますし、低まりもする。
また、呼吸というものも、そのこころのふたつの動きに左右される。
吐く息、吸う息のリズムが整ったり、乱れたりする。

そして、心拍の脈打ちと脈打ちの間、
吐く息、吸う息の間に、
静かな間(ま)をわたしたちは感じとることができる。

その静かな間(ま)を感じとってこそ、わたしたちは、
リズムというもの、時というものをリアルにとらえることができる。


そして更に、
こころにおいて、シンパシーとアンチパシーとの間で生きつつ、
からだにおいて、心と肺のリズムの間で生きつつ、
わたしたちは、世というものとの間においても、
リズミカルに、ハーモニックに、調和して生きていく道を探っていくことができる。

荒れた冬の海を前にしているときと、
茫洋として、のたりのたりと静かに波打っている春の海を前にしているとき。

峨々たる山を前にしているときと、
穏やかな草原を前にしているとき。

いまにも雨が降り出しそうな、どんよりとした曇り空の下にいるときと、
晴れ晴れとした雲ひとつない青空を仰ぐとき。

しかめ面をしている人の前にいるときと、
にっこりしている人の前にいるとき。

そして、春夏秋冬という四季の巡りにおいて、
それぞれの季節におけるからだとこころのありようの移りゆき。

世というものと、
わたしたちとの間においても、
ハーモニーを奏でることができるには、
そのふたつが、
ひとりひとりの人によって、
はからわれ、釣り合わされ、ひとつに響き合ってこそ。

世とわたし。
そのふたつの間を思いつつ、はかりつつ、響き合わせる。
その精神の慮(おもんぱか)りを積極的にすることによって、
人は、世に、和やかに受け入れられる。

人と世は、ひとつに合わさる。

そして、人は、歌う。
春夏秋冬、それぞれの歌を歌う。

慮る(besinnen)は、歌う(singen)と語源を同じくするそうだ。

こころにおける精神の慮り、それは歌心だ、と鈴木さんは述べている。

    人のこころ!
   あなたは心と肺のときめきに生き
   心と肺に導かれつつ、時のリズムを経て
   あなたそのものを感じるにいたる。
   行われたし、精神の慮りを
   こころの釣り合いにおいて。
   そこにては波打つ世の
   成りつ為しつが
   あなたの<わたし>を
   世の<わたし>と
   ひとつに合わせる。
   もって、あなたは真に生きるようになる
   人のこころの働きとして。         『礎のことば』より



春の訪れとともに世のふところから、
下のからだを通して、感官への輝きを通して、
こころに、繰りなす喜び。

そして、
上の精神からの考える力。
その考える力は、
冬のクリスマスの時期を意識的に生きることによって、
神々しい力によって備えられている。
その考える力によって、
こころにもたらされる力強い<わたし>。

世とからだを通しての下からの繰りなしによって、
こころに生まれる喜びという情を、
上の精神からやってくる考える力が支えてくれている。

この下からと上からのハーモニックな働きかけによって、
真ん中のこころに、
喜びが生まれ、育っていく。


世のふところから蘇ってくるだろう、
感官への輝きを息づかせる繰りなす喜びが。
その喜びは見いだす。わたしの考える力が、
神々しい力を通して備えられ、
内において力強いわたしとして生きていることを。



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2015年03月11日

こころのこよみ(第46週)〜行われたし、精神の想い起こしを〜 (再掲)


世、それはいまにもぼやかそうとする、

こころのひとり生みの力を。

だからこそ、想い起こせ、

精神の深みから輝きつつ。

そして観ることを強めよ、

意欲の力を通して、

おのれを保つことができるように。




Die Welt, sie drohet zu betäuben 
Der Seele eingeborne Kraft;
Nun trete du, Erinnerung,
Aus Geistestiefen leuchtend auf 
Und stärke mir das Schauen,
Das nur durch Willenskräfte 
Sich selbst erhalten kann.






「ひとり生み」とは、何か。

シュタイナーのヨハネ福音書講義の第四講にそのことばが出てくる。

かつて福音書が書かれた頃、
「ふたり生み」とは、父と母の血の混じりあいから生まれた者のこと、
「ひとり生み」とは、そのような血の混じりあいから生まれた者でなく、
神の光を受け入れることによって、
精神とひとつになった者、
精神として生まれた者、
神の子、こうごうしい子のことだった。

人びとの多くは、「わたし」という人のための下地をすでに備えながらも、
聖書に記されるところの「光」をまだ受け入れることができなかった。

「群れとしてのわたし」のところにまでは「光」は降りてきていたが、
いちいちの人はその「光」をまだ受け入れていなかった。

「ひとりのわたし」という意識はまだなく、
おらが国、おらが村、おれんち、そのような「ふたり生みの子」としての意識が、
ひとりひとりの人のこころを満たしていた。

しかし、少数ではあるが、「光」を受け入れた者たちは、
その「光」を通してみずからを神の子、「ひとり生みの子」となした。

物の人がふたり生み、
精神の人がひとり生みだ。

そして、キリスト・イエスこそは、
その「光そのもの」、
もしくは「光」のおおもとである「ことばそのもの」として、
「父のひとり生みの息子」として、
肉のつくりをもってこの世の歴史の上に現れた。

  ことば(ロゴス)、肉となれり(ヨハネ書一章十四節)

彼こそは、
ひとりひとりの人に、こよなく高く、ひとりの人であることの意識、「わたしはある」を、
もたらすことを使命とする者だった。

わたしたちが、その「ひとり生みの力」を想い起こすこと、
それは、キリスト・イエスの誕生と死を想い起こすということ。

そして、わたしたちひとりひとりの内なる「わたしはある」を想い起こすこと。

それは、日々のメディテーションによって生まれる、
精神との結びつきを想い起こすことであり、
目で見、耳で聞いたことを想い起こすことに尽きず、
精神の覚え「わたしはある」を想い起こすことだ。

その想い起こしがそのようにだんだんと深まっていくことによって、
人は、
「わたしはある」ということ、
「みずからが神と結ばれてある」ということ、
みずからの「わたし」が、神の「わたし」の内にあるということ、
そのことを確かさと安らかさをもってありありと知る道が開けてくる。

「想い起こす」という精神の行為は、
意欲をもって、考えつつ、いにしえを追っていくということだ。

普段の想い起こすことにおいても、
頭でするのみでは、その想いは精彩のないものになりがちだが、
胸をもって想い起こされるとき、
それはメロディアスに波打つかのようにこころに甦ってくる。

さらに手足をもって場に立ちつつ、振舞うことで、
より活き活きと、みずみずしく、深みをもって、想いが甦ってくる。

故郷に足を運んだ時だとか、
手足を通して自分のものにしたもの、技量となったものを、いまいちどやってみる時だとか、
そのように手足でもって憶えていることを手足を通して想い起こすかのようにする時、
想いが深みをもって甦る。

そして、そのような手足をもっての想い起こしは、
その人をその人のみなもとへと誘う。

その人が、その人であることを、想い起こす。

その人のその人らしさを、その人はみずから想い起こす。

例えば、
この足で立ち、歩くことを憶えたのは、生まれてから一年目辺りの頃だった。
その憶えは、生涯、足で立つこと、歩くことを通して、
頭でではなく、両脚をもって想い起こされている。
その人が、その人の足で立ち、歩くことを通して、
その人の意識は目覚め、その人らしさが保たれている。

だから、
年をとって、足が利かなくなることによって、
その人のその人らしさ、こころの張り、意識の目覚めまでもが、
だんだんと失われていくことになりがちだ。

手足を通しての想い起こし、
それは、意欲の力をもってすることであり、
人を活き活きと甦らせる行為でもある。

そして、それはメディテーションにも言える。

  行われたし、精神の想い起こしを
 もって、あなたは真に生きるようになる、まこと人として、世のうちに
                   (シュタイナー『礎のことば』1923年12月25日)



メディテーションによる想い起こしは、
手足による想い起こしに等しいもの。

メディテーションとは、意欲をもっての厳かで真摯な行為。

毎日の行為である。

「ひとり生みの力」を想い起こすこと、
それは、わたしの「わたし」が、
神の「わたし」の内に、
ありありとあること、
「わたしのわたしたるところ」、
「わたし」のみなもと、
それを想い起こすことだ。

世に生きていると、
その「ひとり生みの力」をぼやかそうとする機会にいくらでも遭う。

世は、ふたり生みであることから生まれる惑いという惑いをもたらそうとする。

だからこそ、勤しみをもって、想い起こせ」。

惑いという惑いを払って、想い起こせ」。

想い起こされたものをしっかりとこころの目で観ること、
もしくは想い起こすという精神の行為そのものをもしっかりと観ること、
それがつまり、
「観ることを強める」ということだ。

それはきっと、手足に生きることに等しいような、
意欲の力を通してなされることで、
その意欲の力があってこそ、
人は、「おのれを保つことができる」、
おのれのみなもとにあることを想い起こすことができる。



世、それはいまにもぼやかそうとする、
こころのひとり生みの力を。
だからこそ、想い起こせ、
精神の深みから輝きつつ。
そして観ることを強めよ、
意欲の力を通して、
おのれを保つことができるように。



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2015年03月02日

こころのこよみ(第45週) 〜明るく灯される光〜 (再掲)


考える力が強まる、

精神の生まれとの結びつきの中で。

それは感官へのおぼろげなそそりを

まったき明らかさへともたらす。

こころの満ち足りが

世の繰りなしとひとつになりたいのなら、

きっと感官への啓けは、

考える光を受けとめる。




Es festigt sich Gedankenmacht
Im Bunde mit der Geistgeburt,
Sie hellt der Sinne dumpfe Reize
Zur vollen Klarheit auf.
Wenn Seelenfülle
Sich mit dem Weltenwerden einen will,
Muß Sinnesoffenbarung       
Des Denkens Licht empfangen.



ここで言われている「考える力」とは、
余計なことを考えない力のことである。
そして、この時、この場で、何が一番大事なことかを考える力のことだ。 

その力を持つためには、練習が要る。
その練習のことを、シュタイナーはメディテーションと言った。             

普段に感じる共感(シンパシー)にも反感(アンチパシー)にも左右されずに、
浮かんでくる闇雲な考えを退けて、
明らかで、鋭く、定かなつくりをもった考えに焦点を絞る。
ひたすらに、そのような考えを安らかに精力的に考える練習だ。

強い意欲をもって考えることで、
他の考えが混じり込んだり、
シンパシーやアンチパシーに巻き込まれて、
行くべき考えの筋道から逸れて行ってしまわないようにするのだ。

その繰り返すメディテーションによって、「考える力」が強く鍛えられる。

この時期に、メディテーションによって強められる考える力が、
こころにそそりが及んできているのを、
おぼろげに感じるようにわたしたちを導き、
さらに、だんだんとそのそそりを明らかなものにしてゆく。
それが明らかになるほどに、こころは満ち足りを感じる。
こころのなかに精神が生まれるからだ。

そして、そのこころの満ち足りは、
自分だけの満ち足りに尽きずに、
人との関わり、世との関わりにおいてこそ、
本当の満ち足りになるはずだ。

こころの満ち足りは、やがて、
ことばとなって羽ばたき、
人と人とのあいだに生きはじめ、
精神となって、
人と世のあいだに生きはじめる。

こころの満ち足りが世の繰りなしとひとつになってゆく。

ひとりで考える力は考える光となって、
人と人のあいだで、
人と世のあいだで、
明るく灯されるのだ。


考える力が強まる、
精神の生まれとの結びつきの中で。
それは感官へのおぼろげなそそりを
まったき明らかさへともたらす。
こころの満ち足りが
世の繰りなしとひとつになりたいのなら、
きっと感官への啓けは、
考える光を受けとめる。




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2015年02月14日

こころのこよみ(第44週) 〜ひとりの人〜 (再掲)


新しい感官へのそそりに捉えられ、

こころに明らかさが満ちる。

満を持して精神が生まれたことを念う。

世の繰りなしが、絡みあいながら芽生える、

わたしの考えつつ創りなす意欲とともに。




Ergreifend neue Sinnesreize
Erfüllet Seelenklarheit,
Eingedenk vollzogner Geistgeburt,
Verwirrend sprossend Weltenwerden
Mit meines Denkens Schöpferwillen.




2月も半ばになり、空気の冷たさはいっそう厳しくなってきているが、陽の光の明るさが増してきていることが感じられる。

わたしたちの感官に、まず、訴えてくるのは、その陽の光だ。

冬から春への兆しを、わたしたちは何よりもまず、陽の光のありように感じ取っている。

しかし、現代を生きているわたしたちは、その外なる陽の光が明るさを増してきていることを感じはしても、それ以上の何かを感じることはほとんどないのではないだろうか。



昔の人は、その陽の光に、あるものを感じ取っていた。

それは、ひとりひとりを、神の力と結ぶことによって、まさしく精神としての『人』とする力だ。

太陽を見上げたときに、次のような情を強く感じた。

「この天の存在から、
 光とともにわたしたちの内に、
 わたしたちを暖め、
 わたしたちを照らしながら、
 わたしたちに染み渡り、
 わたしたちひとりひとりを『人』とするものが流れ込んでくる」

(『人の生きることにおける、引き続くことと繰りなすこと 1918年10月5日ドルナッハ』より)



しかし、だんだんと、そのような情と感覚は失われてきた。

陽の光を通して感じていた神からの叡智がだんだんと失われてきた。

そして人は、自分の周りの事柄に対しては知識を増やしてはいったが、ますます、自分は何者か、自分はどこからやってき、どこへ行くのかが、分からなくなってきた。

人というものが、そして自分自身こそが、ひとつの謎になってきたのだ。

そのとき、ゴルゴタのこと、イエス・キリストの十字架における死と、墓からの甦りが起こった。

もはや、物質としての太陽の光からは、わたしたちを『人』とする力を感じ、意識することはできない。

しかし、キリストがこの世にやってき、さらにゴルゴタのことが起こることによって、もはや外の道ではやってくることができない力、人の最も内なる深みから、精神から、自分を『ひとりの人』とする力が立ち上がってくる可能性が開けた。

イエス・キリストはみずからをこう言った。「わたしは、世の光である」。

ふたたび、ひとりひとりの人に、みずからを『ひとりの人』として捉えうる力がもたらされた。
その力は物質の太陽の光からでなく、精神の光から、もたらされている。

わたしたちは、2月の明るくなりゆく陽の光からのそそりとともに、精神的な観点からも、内なる陽の光からのそそりを捉えてみよう。

そうすることから、きっと、わたしたちは、みずからの出自を改めて明らかさとともに想い起こすことができる。
「わたしは、ひとりの<わたし>である」と。
「わたしは、そもそも、精神の人である」と。
「<わたし>は、ある」と。

キリスト、そしてゴルゴタのことの意味。

わたしたちは、そのことを、「いま、想い起こす」「念う」ことができる。

「新しい感官へのそそりに捉えられ、
 こころに明らかさが満ちる。
 満を持して精神が生まれたことを念う」

そして、明るさを増してきている陽の光によって、外の世において、命が、植物や動物たちの中で繰りなしてくる。
絡みあいながら、芽生えながら。

さらに、わたしたち人は、秋から冬の間に、まぎれなき考える力を内において繰りなしてきた。

考える力には、意欲の力が注ぎ込まれてこそ、まぎれなき考える力となる。

考える力に、創りなす意欲が注ぎ込まれてこそ、人はまぎれなき考える力において、自由になりうる。

外の世の命の繰りなし、出来事の繰りなしに、内の世の繰りなし、意欲的に考えることを重ねることによってこそ、わたしたちは、みずから自由への道を開いていくことができる。
 
日々、自分に向かってやってくるものごとのひとつひとつを、自分に対してのメッセージとして受けとり、考えていくそして振舞っていくことによって、開けてくる道がある。
 
その道は、『ひとりの人』としてのわたしを、自由へと、導いていくだろう。



新しい感官へのそそりに捉えられ、
こころに明らかさが満ちる。
満を持して精神が生まれたことを念う。
世の繰りなしが、絡みあいながら芽生える、
わたしの考えつつ創りなす意欲とともに。


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2015年02月04日

こころのこよみ(第43週) 〜天に向かうこころの炎〜(再掲)


冬の深みにおいて、

精神のまことのありようが暖められ、

世の現われに、

心(臓)の力を通してありありと力が与えられる。

「世の冷たさに力強く立ち向かうのは、

人の内なるこころの炎」




In winterlichen Tiefen
Erwarmt des Geistes wahres Sein,
Es gibt dem Weltenschine
Durch Herzenskräfte Daseinsmächte;
Der Weltenkälte trotzt erstarkend
Das Seelenfeuer im Menscheninnern.




いま、人と人は、どれほど分かり合えているだろうか。

人と人との間に、無関心が、行き違いが、無理解が、そして憎しみまでもが立ちはだかっている。

自分自身のこととしても、そのことを痛切に感じる。

わたしたちは、そのようなあり方を「世の冷たさ」として、密かに、ときにひどく辛く感じている。

その冷たさから自分を守ろうとして、こころを閉ざす。

こころを閉ざした者同士がいくら出会っても、求めている暖かさは得られそうにない。

しかし、このあり方が時代の必然であることを知ることができれば、何かを自分から変えていくことができるのではないだろうか。

15世紀以降、人のこころのあり方が変わってきている。

意識のこころの時代だ。

この時代において、まず、人のこころは冷たく、硬い知性に満たされる。

その知性は、すべてを、人までをも、物質として、計量できるものとして、扱おうとする。

この時代において、この冷たく、硬い知性が人のこころに満ちてきたからこそ、現代の文明がここまで発達してきた。

そして、文明が発達すればするほど、人は、己が分からなくなってくる。
人というものが分からなくなってくる。
人というものは、からだだけでなく、こころと精神からもなりたっているからだ。

だから、その冷たく、硬い知性を己のものにすることによって、人は、人というものがわからなくなり、他者との繋がりを見失ってしまう。

己の己たるところとの繋がりさえも見失ってしまうにいたる。

文明の発達を支える冷たい知性が、冷たい人間観、人間関係を生み出した。

そして、そのように繋がりが断たれることによって、人は、自分が「ひとりであること」を痛みと共に感じざるをえない。

以前の時代には無意識に繋がっていた人と人との関係。人と自然との関係。人と世との関係。
それらが断たれていく中で、人はひとりであることに初めて意識的になり、改めて、自分の意志で繋がりを創っていく力を育んでいく必要に迫られている。

しかし、むしろ、こう言った方がいいかもしれない。
ひとりになれたからこそ、そのような力を育んでいくことができるのだと。

ひとりになることによって、初めて、人と繋がることの大切さにしっかりと意識的になることができる。

だから、このような人と人との関係が冷たいものになってしまうことは、時代の必然なのだ。


そして、この時代の必然を見やる、ひとり立ちしたひとりひとりの人がみずから天(精神)と繋がり、垂直の繋がりをアクティブに創り出すならば・・・。

そのとき、至極精妙な天からの配剤で、横にいる人との繋がり、水平の繋がりが与えられる。

垂直の繋がりがひとりひとりの人によって育まれるがゆえに、水平の繋がりが天から与えられる。

その中で、人と人とが分かち合い、語り合い、愛し合うことができる。

地上的な知性で、地上的なこころで、地上的なことばで、人と人とが分かり合えるのではない。

そのような意識のこころの時代が始まって、すでに500〜600年経っている。

わたしたち人は、そのように、いったん他者との関係を断たれることによって、痛みと共に、冷たく、硬い知性と共に、ひとりで立つことを習ってきた。

そして、そろそろ、ひとりで立つところから、意識のこころの本来の力、「熱に満ちた、暖かい知性」「頭ではなく、心臓において考える力」「ひとり立ちして愛する力」を育んでいく時代に入ってきている。

他者への無関心、無理解、憎しみは、実は、人が、からだを持つことから必然的に生じてきている。

硬いからだを持つところから、人は冷たく、硬い知性を持つことができるようになり、からだという潜在意識が働くところに居座っている他者への無理解、憎しみが、こころに持ち込まれるのだ。

だから、これからの時代のテーマは、そのような、からだから来るものを凌いで、こころにおいて、暖かさ、熱、人というものの理解、愛を、意識的に育んでいくことだ。

「世の冷たさに力強く立ち向うのは、人の内なるこころの炎」だ。

その「内なるこころの炎」は、天に向かって燃え上がる。精神に向かう意志の炎となる。
日常生活を送るうえで、日々の忙しさにかまけつつも、なおかつ求めざるを得ないこころの糧。
それは、精神である。

地上に生きる人にとって、なくてはならないこころの糧としての精神。
その精神の具象的なもののうち、代表的なもののひとつは、キリストであろう。

キリストのこと、クリスマスにおさな子としてこの世に生まれたこと、春を迎えようとする頃ゴルゴタの丘の上で起こったこと、そのことを深みで感じつつ、深みで知りゆくことによって、ますます意識的にこころを精神に向かって燃え上がらせることができる。

そして、人と人との間に吹きすさんでいる無理解と憎しみという「世の冷たさ」に、立ち向かう(ひとりで立って、ひとりで向かい合う)ことができる。

キリストのことを考えないまま信じるのではなく、キリストのことを考えて、想い、そして知りゆくこと。

意識のこころの時代において、人は、そのようなキリスト理解をもって、みずからのこころに炎を灯すことができる。

なぜなら、キリストの別の名は、「わたしは、ある」だからだ。

「わたしは、ある」。

そう、こころに銘じるとき、わたしたちは、こころに炎を感じないだろうか。

そして、キリスト教徒であるなしにかかわらず、キリストと繋がる。



冬の深みにおいて、
精神のまことのありようが暖められ、
世の現われに、
心(臓)の力を通してありありと力が与えられる。
「世の冷たさに力強く立ち向かうのは、
人の内なるこころの炎」


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2015年01月22日

こころのこよみ(第42週) 〜こころをこめてする仕事〜 (再掲)


この冬の闇に

みずからの力の啓けがある。

こころからの強い求めがある。

暗闇にそれらをもたらし、

そして予感する。

心(臓)の熱を通して、感官が啓くことを。





Es ist in diesem Winterdunkel
Die Offenbarung eigner Kraft
Der Seele starker Trieb,
In Finsternisse sie zu lenken
Und ahnend vorzufühlen
Durch Herzenswärme Sinnesoffenbarung.





毎週、この『こころのこよみ』を生きていく。
毎週、ここに記されてある詩句を繰り返しこころの内で味わってみる。
そうすると、ここに記されてあることばが、それを読んでいる自分自身のこころの歩みと、重なってくるのを感じることができる。

そのこころに重なってきている力は、さらに、心(物質の心臓とエーテルの心臓の重なりあい)の働きを活性化させるように感じる。

そのことは、この詩句に沈潜するほどに感じられる、体内に流れ出す熱い血をもって確かめられる。

物質の心臓は、物質のからだの中心を司る器官で、血液の巡りによって活き活きと脈打っている。

エーテルの心臓は、人のエーテルのからだの中心を司る器官だが、愛の巡りによって活き活きと脈打ち、そこから光が発し、熱が生まれる。

内に抱く考えが、愛を基にしたものならば、その考えはエーテルの心臓を活き活きと脈打たせる。

そうでないならば、その考えはその心臓を締め付ける。

活き活きと脈打つエーテルの心臓が光と熱をもって、物質の心臓の働きを促し、熱い血の巡りを促し、さらに、こころの働きという働きを促しだす。

その活性化されだしたこころの働きを通して、ものが、よく見えだし、よく聴こえはじめる。

そして、肉の目や耳には映らない、こころのもの、他者の情や他者の考えがリアリティーをもって、心臓で感じられるようになってくる。

きっと、その道は、人の情や考えだけでなく、
ものというもの、
例えば、
植物や動物の情、
地水風火の情や考えなどをも感じられることへと繋がっていくだろう。

頭の脳で理解するのではなく、心臓で感じ、考えることができるようになっていくだろう。

外なる感官だけでなく、そのような内なる感官もが啓きはじめ、働きはじめる。
 
  そして予感する
 心(臓)の熱を通して、感官が啓くことを


そして、その啓かれるものを受けとることを通して、わたしたちはどう振舞うことができるだろうか。

  みずからの力の啓け
 こころからの強い求め
 それらを冬の暗闇にもたらす


その振る舞いは、きっと、その人その人の仕事として、世の冬の暗闇に光をもたらすものになるはずだ。

お金を稼ぐことが仕事をすることだという意味ではなく、
その人がこころをこめてすることこそが仕事であるとするならば、
わたしたちは、いま、いる場所で、その仕事を始めることができる。
 
  
この冬の闇に
みずからの力の啓けがある。
こころからの強い求めがある。
暗闇にそれらをもたらし、
そして予感する。
心(臓)の熱を通して、感官が啓くことを。

 




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2015年01月11日

こころのこよみ(第41週) 〜考えつつ、感じつつ、確かめていく〜 (再掲)


こころから生み出す力、

それは心(臓)の基からほとばしりでる。

人の生きる中で、神々の力を、

ふさわしい働きへと燃え上がらせるべく、

おのれみずからを形づくるべく、

人の愛において、人の仕事において。


Der Seele Schaffensmacht
Sie strebet aus dem Herzensgrunde
Im Menshenleben Götterkräfte
Zu rechtem Wirken zu entflammen,
Sich selber zu gestalten 
In Menschenliebe und im Menschenwerke.



人は、善きこと、素晴らしいことを、大いに考えることはできても、
それを行為にまで移していくことには、難しさを感じるのではないだろうか。

考えることや思いえがくこと。
そして、実際に、すること。

この間には、人それぞれにそれぞれの距離がある。


「血のエーテル化」(1911年10月1日 バーゼル)と題された講演でシュタイナーが語っていることを要約して、今週の『こよみ』をメディテーションする上での助けにしてみる。


   人は、昼間、目覚めつつ考えているとき、
  心臓からエーテル化した血が光となってほとばしりでて、
  頭の松果体にまで昇っていき、輝く。

  そして、
  人は、夜眠っているあいだ、考える力が眠り込み、
  逆に意志・意欲が目覚め、活発に働く。
  そのとき、
  大いなる世(マクロコスモス)から人の頭の松果体を通り、心臓に向かって、
  「いかに生きるべきか」
  「いかに人として振舞うべきか」といった道徳的な力が、
  その人に朝起きたときに新しく生きる力を与えるべく、
  色彩豊かに流れ込んでくる。

  それは、神々が、その人を励ますために夜毎贈ってくれている力だ。

  だから、人は夜眠らなければならない。

  人が少しでも振る舞いにおいて成長していくためには、
  眠りの時間に神々から助けをもらう必要がある。

  昼間、人において、
  「こころから生み出す力」、考える力が、
  「心(臓)の基」から、エーテル化した血が光となってほとばしりでる。

  その下から上へのエーテルの流れは、
  頭の松果体のところで、
  夜、上から下への神々の力と出会い、
  そこで光が色彩をもって渦巻く。

  その光の輝きは心臓あたりにまで拡がっていく。

  それが、人というミクロコスモスで毎日起こっていることがらだ。

  そして、マクロコスモス、大いなる世からの視野には、
  キリスト・イエスがゴルゴタの丘で血を流したとき以来、
  そのキリストの血がエーテル化し、
  地球まるごとを中心から輝かせているのが視える。

  そのとき以来、
  ひとりひとりの人が、
  キリストのゴルゴタのことを親しく知るほどに、
  みずからの内なるエーテル化した血の流れが、
  キリストのエーテル化した血とひとつになって、
  昼間、人を輝かせ、力づけている。

  そのキリスト化したエーテルの血と、
  マクロコスモスから夜毎やってくる神々の力とが出会うことで、
  人は、さらに昼間、
  愛において、
  仕事において、
  その神々の力をふさわしい働きへと燃え上がらせる。

  考えることや思いえがくこと。(心臓から上っていくエーテル化した血の流れ)
  そして、
  実際に、すること。(高い世から心臓に降りてくる力)

  その間を、人みずからが埋めていく。
  そのふたつを、人みずからが重ねていく。 

  それが時代のテーマだ。



シュタイナーによって語られたこれらの精神科学からのことばを、
何度も繰り返して自分の考えで辿ってみる。
鵜呑みにするのではなく、
折に触れて、何度も考えてみる。

キリストのゴルゴタのことを親しく知るほどに、
本当に自分のこころが、輝き、力づけられているかどうか、
感じつつ、確かめていく。

そして、
そのように輝き、力づけられた自分のこころと、
神々の力が、交わっているのかどうか。

その交わりがあることによって、
自分の仕事が、充実して、
まるで自分以上の力、神々の力が燃え上がるような瞬間を迎えることができるのかどうか。

そのことを感じつつ、確かめていく。


こころから生み出す力、
それは心(臓)の基からほとばしりでる。
人の生きる中で、神々の力を、
ふさわしい働きへと燃え上がらせるべく、
おのれみずからを形づくるべく、
人の愛において、人の仕事において。



   なお、
   シュタイナーが、Seele ということばを使うときは、
   からだと繋がるところでありながらも、
   からだからは独立した働きを荷う「こころ」を言っていますが、
   Herzen ということばを使うときは、
   物質の素材でできている心臓のありようをも含む意味合いを指し、
   またその物質の心臓の働きを支えているエーテルの心臓を指すようです。
   そこで、Herzen を「心(臓)」と書き表しています。




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2015年01月07日

こころのこよみ(第40週) 〜虚しい想い込みを焼き尽くす世のことば〜 (再掲)



そして、わたしはある、精神の深みに。

わたしのこころの基において、

心に満ちる愛の世から、

己であることの虚しい想い込みが、

世のことばの火の力によって、焼き尽くされる。




Und bin ich in den Geistestiefen,
Erfüllt in meinen Seelengründen
Aus Herzens Liebewelten
Der Eigenheiten leerer Wahn
Sich mit des Weltenwortes Feuerkraft.




「わたしは、いる」
「わたしは、いま、ここに、いる」という響きから生まれてくる情よりも、

「わたしは、ある」という響きから生まれてくる、
「いま」「ここ」さえも越えた、
「わたし」というものそのもの、
「ある」ということそのことの、
限りのない広やかさと深さと豊かさの情。

何度も声に出している内に、その情を感じる。

わたしは、ある」。

それは、その人が、
どんな能力があるとか、
どんな地位に就いているとか、
からだの状態が、健やかであろうが、そうでなかろうが、
そのような外側のありようからのことばではなく、
ただ、ただ、
その人が、その人として、ある、ということ。
そのことだけをその人自身が見つめて、出てきたことば。

そのときの「わたし」は、目には見えない<わたし>だ。


そして、
シュタイナーの『精神の世の境』という本から要約したかたちだが、
「愛」についてのことばを引いてみる。

    精神科学の学び手は、
   考える力を通して「わたしがあることの情」を育んでいくことに重きを置いている。
   その情が、こころに強さと確かさと安らかさを与えてくれるからだ。

   そして、学び手は、
   この感官の(物質の)世を生きるにおいて、
   その強められた「わたしがあることの情」を抑えることを通して、
   愛を生きる。
   愛とは、
   みずからのこころにおいて、
   他者の喜びと苦しみを生きることである。
   感官を凌ぐ意識によって人は精神の世に目覚めるが、
   感官の世においては、精神は愛の中で目覚め、愛として甦る。



「世のことばの火の力」
1月6日、ヨルダン川におけるヨハネの洗礼によって、30歳のイエスは、
「世のことば」キリストを受け入れた。
その「世のことば」は火の力にまでなっている。

その火の力は、わたしたちひとりひとりのこころの基において「己であることの虚しい思い込み」を焼き尽くす。

そして、心に、他者への愛が息づき始める。

わたしによって強められた「わたしがあることの情」が、
わたしによって抑えられることによって、
己であることの虚しい想い込みが焼き尽くされる。
心に愛(インスピレーション)が満ちる。

そして、わたしはある、精神の深みに。



そして、わたしはある、精神の深みに。
わたしのこころの基において、
心に満ちる愛の世から、
己であることの虚しい想い込みが、
世のことばの火の力によって、焼き尽くされる。



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2015年01月03日

こころのこよみ(第39週) 〜<わたしがあること>の情〜 (再掲)


精神の啓けに身を捧げ、

わたしは世というものの光を得る。

考える力、それは長ける、

わたしにわたしみずからを明かしながら。

そしてわたしに呼び覚ます、

考える力を通して、わたしがあることの情を。



An Geistesoffenbarung hingegeben
Gewinne ich des Weltenwesens Licht.
Gedankenkraft, sie wächst
Sich klärend mir mich selbst zu geben,
Und weckend löst sich mir
Aus Denkermacht das Selbstgefühl.


「精神の啓け」。
それは、イエスというおさな子が、こころの深みに生まれること。
イエスとは、のちに、キリストとなる方。

キリストとは、「わたしこと」「われあり」のもたらし手。

「わたしがある」ということをひとりひとりの人にもたらそうとする方。
それがキリストだと、密のキリスト教では認められ、人から人へと密(ひめ)やかに伝えられてきた。

いまやもはや、この「わたしがある」ということを実感することこそが、限られた人たちだけではなく、すべての現代人における、もっとも深い願いなのではないだろうか。

どんなときでも、どんな場所でも、誰と会っていても、誰に会っていなくても、「わたしがある」ということへの情、信頼、確かさが己に根付いているほどに、人は健やかさに恵まれはしないだろうか。

その「わたしがある」という情が、この時期に、イエスの誕生によって、人にもたらされた。

それを「精神の啓け」と、ここでは言っている。

では、「わたしのわたしたるところ」「わたしがある」という情はどのように稼がれるだろうか。

それは、「考える力が長ける」ことによって稼がれる。

普段、わたしたちの考える力は、目に見えるもの、手に触れるものなどに、張り付いてしまっている。
物質的な感官を通して入ってくるものに対して考えることに尽きてしまっている。

「いま、何時だろう」
「今日は何を食べようか」
「あそこに行くまでには、どの電車に乗り継いでいったらいいだろうか」
「ローンの返済を今月ちゃんと済ませることができるだろうか」
などなど・・・。

また、目に美しいもの、ここちよいもの、快をもたらしてくれるものには、それらを享受するのに、特に努力はいらない。

わたしたちのふだんの考える力は、そのように特に意志の力を要せず、やってきたものを受けとり、適度に消化し、あとはすぐに流していくことに仕えている。

しかし、たとえば、葉がすべて落ちてしまった木の枝。
目に美しい花や紅葉などが消え去った冬の裸の枝。

それらをじっと見つめながら、こころの内で、考える力にみずからの意欲・意志を注ぎ込んでみる。
 
来たる春や夏に咲きいずるはずの、目には見えない鮮やかな花や緑滴る葉を想い描きつつ、その木というものの命に精神の眼差しを向けてみる。
 
そうすると、その寒々しかった冬の裸の枝の先に、何か活き活きとした光のようなものが感じられてこないだろうか。

それぐらい、考える力を、見えるものにではなく、見えないものに、活き活きと意欲を働かせつつ向けてみる。
 
すると、その考えられた考えが、それまでの外のものごとを単になぞるだけ、コピーするだけの死んだものから、ものやことがらの内に通っているかのような、活き活きと命を漲らせたものになる。

考える力を、そのように、感官を超えたものに意志をもって向けていくことによって、わたしたちは内において、自然界に写る影の像を命ある像に転換できる。

死を生に転換できる。

そして、その考える力によって、わたしたちみずからも活き活きとしてくる。

わたしにわたしみずからを明かす。

わたしに、「わたしがあること」の情を、呼び覚ます。

この情は、このように、おのずから生まれるのではなく、ひとりひとりの人がみずから勤しんでこそ稼ぐことのできる高くて尊い情だ。

「わたしがあること」の情とは、みずからに由るという情、「自由」の情でもある。

キリストとは、「わたしがある」「わたしこと」を人にもたらした方。

現代において、わたしたちひとりひとりが、キリストによってもたらされたみずから考える力を長けさせることができる。
 
その考える力によって「わたしがある」ことの情、つまり、内なる自由を稼ぐことができる。
 
その内なる自由からこそ、「わたしを捧げる」意欲、つまり、愛する道を歩いていくことができる。
 
そのことを、キリストは応援している。

そして、「わたしがある」ということをもって「身を捧げる」。
ならば、「わたしは世というものの光を得る」。

それは、どこまでも、この「わたしのわたしたるところ」「わたしがある」への信頼から、人との対話へと、仕事へと、一歩踏み出していくこと。

それは、きっと、見返りを求めない、その人のその人たるところからの自由な愛からのふるまいだ。

その勇気をもって踏み出した一歩の先には、きっと、「世というものの光」が見いだされる。

たとえ闇に覆われているように見える中にも、輝いているものや、輝いている人、そして輝いている「わたし」を見いだすことができないだろうか。
「わたしがある」という情、「おさな子」の情を育みつづけるならば。

この『こころのこよみ』を読みながら、そのことをメディテーションする(追って繰り返しアクティブに考える)ことができる。


精神の啓けに身を捧げ、
わたしは世というものの光を得る。
考える力、それは長ける、
わたしにわたしみずからを明かしながら。
そしてわたしに呼び覚ます、
考える力を通して、わたしがあることの情を。


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2014年12月29日

こころのこよみ(第38週) 〜目覚めよ、男たちの内なるおさな子〜 (再掲)


『聖き夜の調べ』

わたしは感じる、

まるでこころの奥で、精神の子が魔法から解かれたようだ。

その子は心の晴れやかさの中で、

聖き、世のことばとして、
 
希みに満ちた天の実りとして、生まれた。
 
それが喜びの声を上げて世の彼方へと拡がりゆく、

わたしのわたしたるところ、神の基から。




Weihe-Nacht-Stimmung   
Ich fuehle wie entzaubert
Das Geisteskind im Seelenschoss,
Es hat in Herzenshelligkeit
Gezeugt das heil'ge Weltenwort
Der Hoffnung Himmelsfrucht,
Die jubelnd wächst in Weltenfernen
Aus meines Wesens Gottesgrund.

   


クリスマス、それは、おさな子の誕生を寿ぐ日。

どの人のこころの奥にも眠っているおさな子のおさな子たるところの生まれを祝う日。

おさな子、それは、子ども時代の内でもとりわけ、記憶の境の向こう、三歳以前のわたしたちのありよう。

いまこそ、この時代こそ、世の男たちの(このわたしの)内なるおさな子が目覚めますように。
そう祈らずにはいられない。

なぜなら、おさな子のおさな子たる力とは、世のすべての争い、分け隔て、エゴ、それらを越える、創造する力、愛する力だから。

わたしたちは、そのおさな子の時に、おおよそ三年かけて、歩く力、話す力、考える力を育み始める。

その三つの力は、人のからだを創っていく力でもある。
歩く力によって脚が、
話す力によって胸が、
考える力によって頭が、
だんだんと創られていく。

歩く力、話す力、考える力は、当然その子によって意識的に身につけられたものでもなければ、大人によって教え込まれたものでもなく、そのおさな子の内から、まるでこうごうしい力が繰り出してくるかのように、地上的な力を超えたところから、生まれてきた。

そのおのずと生まれてきたこうごうしい力は、しかし、三年間しかこの世にはない。

おさな子のおさな子たるところが輝く三年間から後は、その子の内に、少しずつ地上を生きていくための知性と共に、エゴがだんだんと育ち始める。

きっと、それも、人の育ちにはなくてはならないもの。

しかし、おおよそ、三年の間のみ、人の内に、からだを創るためにそのこうごうしい力は通う。

この地を生きていくための基の力であり、かつ、この地を越えたこうごうしいところからの力は、三年の間のみ、おさな子に通う。

「聖き、世のことば」キリストも、この世に、三年間しか生きることができなかった。
イエス、三十歳から三十三歳の間だ。

そのイエスにキリストとして三年間通った力は、おさな子のおさな子たるところからの力であった。
キリストは、世のすべての争い、分け隔て、エゴを越え、人のこころとこころに橋を架ける、愛する力として、この地上に受肉した。

後にキリストを宿すイエスが母マリアから生まれたとされている、24日から25日の間の聖き夜。
その夜から、キリストがイエスに受肉した1月6日までをクリスマスとして祝う。

そして、このクリスマスは、二千年以上前のおおもとの聖き夜に起こったことを想い起こすことを通して、わたしたちの内なるおさな子たるところを想い起こす時だ。

そして、いまから三千年以上あとに、すべての人がみずからのこころに精神のおさな子(生命の精神 Lebens Geist)・キリストを見いだすことを、予め想い起こして祝う時だ。

三歳以前のわたしたちの内に、確かに、そのこうごうしい力が通っていた。

そして、いまも、通っている。

しかし、わたしが、そのこうごうしい力を想い起こせばこそ、いまもその力が通っていることに目覚めることができる。

このクリスマスの日々に、その力を自分の内にも認めればこそ、来る年への希みが羽ばたき始める。

争い、闘い疲れている男たちが、みずからの内なるおさな子を想い起こしてゆくならば、世はおのずから刻一刻となりかわっていくだろう。

  
『聖き夜の調べ』

わたしは感じる、
まるでこころの奥で、精神の子が魔法から解かれたようだ。
その子は心の晴れやかさの中で、
聖き、世のことばとして、
希みに満ちた天の実りとして、生まれた。
それが喜びの声を上げて世の彼方へと拡がりゆく、
わたしのわたしたるところ、神の基から。


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2014年12月19日

こころのこよみ(第37週) 〜歌え、冬の夜に〜


世の冬の夜に精神の光を荷いゆくべく、

恵みに満ちたわたしは心底追い求める。

輝くこころの萌しが、

世の基に根をおろすことを。

そして神のことばが、感官を覆う闇の中で、

ありとあらゆるものを輝かせ、貫いて響くことを。



Zu tragen Geisteslicht in Weltenwinternacht
Erstrebet selig meines Herzens Trieb
Dass leuchtend Seelenkeime
In Weltengruenden wurzeln
Und Gotteswort im Sinnesdunkel
Verklaerend alles Sein durchtoent.


わたしは、すでに十分な恵みに満たされている。
この世に生かされている、ということの中に、どれほどの豊かな恵みがすでに潜んでいるか。
そのことを想い起こすたびごとに、わたしのこころは明るく暖かくなる。
こころが精神の光に照らされているのを感じる。

でも、そんな恵みに満ちているわたしが、心底追い求めることがある。
それは、自分の力を最大限に使い尽くして仕事をすることだ。
この恵みに満ちたからだとこころをフルに使って仕事をすることだ。
輝くこころの萌しを世の基に根づかせることだ。
天から頂いている恩恵を大地にお返しするのだ。
照らされているだけではなく、自分自身から照らしていくのだ。

そうして、そのように仕事をしていくうちに、この恵みに満ちたからだとこころを使っているのが、わたしのわたしたるところ、「精神」だということが感じられてくる。
実は、精神こそが隠れた主役で、わたしの人生の一コマ一コマを進めていたことに気づく。

その精神は、からだを基にしながら、からだの制約を超える。
こころに足場を見いだしながら、こころを、豊かに、大きく、広くしていく。

主役である精神が奏でようとしている音楽を奏でることに、このからだとこころがいかに仕えていくことができるか。

仕事をしつつ、わたしは、ますます精神が主役になっていくのを、日一日と感じている。

身の回りが暗く寒くなってくるほどに、身の内に宿っている<わたし>こと精神が、ますます明るさ・暖かさ・熱さをたぎらしてくる。

<わたし>こと精神。
「神のことば」と和して響くところをこそ、<わたし>というのではないだろうか。
「神のことば」はありとあらゆるものを輝かせ、貫いて響いている。
だからこそ、<わたし>よ、歌え。
もっと高らかに。
そしてもっと優しく。


世の冬の夜に精神の光を荷いゆくべく、
恵みに満ちたわたしは心底追い求める。
輝くこころの萌しが、
世の基に根をおろすことを。
そして神のことばが、感官を覆う闇の中で、
ありとあらゆるものを輝かせ、貫いて響くことを。



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2014年12月14日

こころのこよみ(第36週) 〜汝は何を怖がっているのか〜


わたしというものの深みにおいて

いま、目覚めよ、と

密(ひめ)やかに世のことばが語る。

  汝の仕事の目当てを

  我が精神の光で満たせ、

  我を通して、汝を捧げるべく。 



In meines Wesen Tiefen spricht
Zur Offenbarung draengend
Geheimnisvoll das Weltenwort ;
Erfuelle deiner Arbeit Ziele
Mit meinem Geisteslichte
Zu opfern dich durch mich



わたしというものの深みにおいて、「いま、目覚めよ」と、世のことばが密やかに響く。

「世のことば」とは、キリスト。
キリストがささやくように「いま、目覚めよ」と言う。

「目覚めよ」とは、恐れや不安を乗り越えよ、ということ。

世のことばがささやいている。

汝は何を怖がっているのか。
何も怖がることはない。
己の内に隠されている恐怖から、他者を罵り、責めることは、もうやめよ。
汝を捧げよ。
汝の仕事に。
我(キリスト)を通して。

仕事をするということは、そういうことではないか。


わたしというものの深みにおいて
いま、目覚めよ、と
密(ひめ)やかに世のことばが語る。
  汝の仕事の目当てを
  我が精神の光で満たせ、
  我を通して、汝を捧げるべく。 



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2014年12月08日

こころのこよみ(第35週) 〜<わたしはある>そして<慎ましく生き抜いていく>〜 (再掲)


<ある>とは何かを、わたしは知りえるのか、

それを再び見いだしえるのか、

こころが活き活きと働くならば。

わたしは感じる、わたしに力が与えられているのを。

それは、己みずからが手足となって、

世を慎ましく生き抜いていく力だ。




Kann ich das Sein erkennen,
Daß es sich wiederfindet   
Im Seelenschaffensdrange ?   
Ich fühle, daß mir Macht verlieh'n, 
Das eigne Selbst dem Weltenselbst   
Als Glied bescheiden einzuleben.



この週の『こよみ』の<ある>ということばから、言語造形家の鈴木一博さんが以前、シュタイナーの『礎のことば』について書かれていた文章を想い起こした。
 
そもそも、<わたし>は、気づいたときには、もうすでに、ここに<あった>。ものごころがついたときから、<わたし>がすでに<あらしめられてある>ことに、気づきだした。
 
この<わたし>は、わたしが気づく前から<ある>。
 
そして、いま、<わたしはある>という事態をありありと感じることができる時というのは、わたしのこころが活き活きと生きて、働いていた後、そのことをその活き活きとした感覚を失わずに想い起こす時ではないか。
 
だから、そのように、こころにおいて活き活きと何かを想い起こすことで、<わたしがある>ということを、より深く、より親しく感じ、より明らかに知っていくことができる。
 
何を想い起こすのか。
 
内に蘇ってくる、ものごころがついてからの想い出。
 
また、ふだんは想い起こされないものの、故郷の道などを歩くときに、その場その場で想い出される実に多くのこと。
 
当時あったことが、ありありと想い出されるとき、そのときのものごとだけでなく、そのときの<わたし>という人もが、みずみずしく深みを湛えて蘇ってくる。
 
それらを頭で想い描くのでなく、胸でメロディアスに波立つかのように想い描くならば、その想い出の繰りなしは、みずみずしい深みを湛えて波立ついのちの織りなしと言ってもいいし、「精神の海」と呼ぶこともできる。
 
その「精神の海」に行きつくことによって、人は「みずからがある」ことに対する親しさを得ることができはしないだろうか。
 
そして、その「精神の海」には、わたしが憶えているこころの憶いだけではなく、からだが憶えているものも波打っている。
 
たとえば、
この足で立つこと、歩くこと。
ことばを話すこと。
子どもの頃に憶えたたくさんの歌。
自転車に乗ること。
字を書くこと。筆遣い。
包丁遣い。
などなど。
 
身についたこと、技量、それはどのように身につけたかを頭で想い出すことはできなくても、手足で憶えている。
 
手足というもの、からだというものは、賢いものだ。
 
それらの手足で憶えていることごとへの信頼、からだの賢さへの信頼があるほどに、人は、<わたしがある>ということに対する確かな支えを持てるのではないだろうか。
 
また、パーソナルな次元を超えて、人という人が持っている、
からだというなりたち、
こころというなりたち、
果ては、
世というもの、
神というもの、
それらも人によって想い起こされてこそ、
初めて、ありありと、みずみずしく、その人の内に生き始める。
 
だからこそ、<わたしはある>という想いを人は深めることができる。
<神の内に、わたしはある>
<わたしの内に、神はある>
という想いにまで深めることができる。
 
想い出をみずみずしく蘇らせること。
手足の闊達な動きに秘められている技量という技量を発揮すること。
それらすべてを司っている世の生みなし手にまで遡る想いを稼いで得ること。
 
それらが、<わたしがある>ということの意味の解き明かし、<わたしがある>ということへの信頼を生みはしないか。
 
それらが、人のこころを活き活きと生かしはしないか。
 
そのようにわたしのこころが活き活きと生きたことを想い起こすことと、<わたしはある>とが響きあう。
 
<ある>ということを知っていくことは、
<ある>ということを想い起こしていくことだ。
 
世の中において、
こころが<生きた>こと、
手足が<生きた>こと、
わたしまるごとが<生きた>ことを、
活き活きとわたしが想い起こす時、
<わたし>も、世も、ありありと共にあったのであり、
いまも共にあるのであり、
これからも共にありつづける。
わたしと世は、きっと、ひとつだ。

そして、いまも、これからも、精神からの想い起こしをすることで、
こころを活き活きと働かせつつ、
力が与えられているのを感じつつ、
手足を使って、
地道に、
慎ましく、
世を生きてゆくほどに、
<ある>ということを、
つまりは、
<わたしがある>ということを、
わたしは知りゆき、何度でも見いだしていくだろう。
 
ここで、クリスマス会議でシュタイナーにより発せられた『礎のことば』のはじめの一部を載せておきます。

    人のこころ!

   あなたは手足に生き

   手足に支えられつつ、場を経て

   精神の海へと行きつく。

   行われたし、精神の想い起こしを

   こころの深みにて。

   そこにては

   世の生みなし手が司り

   あなたの<わたし>が

   神の<わたし>のうちに

   ありありとある。

   もって、あなたは真に生きるようになる

   まこと人として、世のうちに。

              (鈴木一博さん訳)



<ある>とは何かを、わたしは知りえるのか、
それを再び見いだしえるのか、
こころが活き活きと働くならば。
わたしは感じる、わたしに力が与えられているのを。
それは、己みずからが手足となって、
世を慎ましく生き抜いていく力だ。



posted by koji at 21:43 | 大阪 ☔ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする