[こころのこよみ(魂の暦)]の記事一覧

2020年12月03日

こころのこよみ(第34週) 〜ありありとしてくる<わたし>〜



o2470349414338657128.jpg
ルオー「聖顔」



密やかに古くから保たれてきたものが
 
新しく生まれてくる己れのありやうと共に
 
内において活き活きとするのを感じる。
 
きつと目覚めた世の数々の力が
 
わたしの人生の外なる仕事に注ぎ込まれ
 
そしてだんだんと、ありありと、わたしを刻み込んでいくだらう。
 

 
 
Geheimnisvoll das Alt-Bewahrte
Mit neu erstandnem Eigensein 
Im Innern sich belebend fühlen:  
Es soll erweckend Weltenkräfte 
In meines Lebens Außenwerk ergießen 
Und werdend mich ins Dasein prägen.          
 
 
 

 
この肉をもつたからだは、なんのためにあるのだらう。
 
 
この世で仕事をし、この世に仕へ、自分の周りの世をほんの少しづつでも善きものにしていくために、このからだをわたしは授かつてゐるのではないだらうか。
 
 
そして、そのやうに、「からだを使つて、今日も生きていかう」といふ意気込みはどこから生まれてくるのだらう。
 
 
日々、寝床から、起き上がれるといふこと。手を動かして、洗顔できるといふこと。ものを食べられるといふこと。歩いて、行きたいところへ
行くことができるといふこと。子どもと遊ぶことができるといふこと。そして、仕事ができるといふこと・・・。
 
 
これらすべてのことをするためには、からだが健康であることは勿論だが、さらに意気込みが要る。
 
 
その意気込みは、自分自身で生み出すといふよりも、朝起きて、眠りから覚めて、おのづといただいてゐる。それは本当に恩寵だと感じる。
 
 
これこそが、世の数々の力からの恵みではないか。
 
 
この恩寵への感謝の日々を毎日生き続けていくことが、わたしたちの外なる仕事に生きた力を吹き込んでくれる。
 
 
感謝の念ひこそが、わたしたちの心意気を日々目覚めさせてくれる。
 
 
そして、この目覚めは毎日を新しくする。わたし自身を新しくしてくれる。
 
 
感謝できないときが、人にはあるものだ。しかし、そんなとき、人は意識の上で夢見てゐる状態か、眠り込んでゐる状態だ。
 
 
さあ、当たり前にできてゐることに、あらためて目を注いでみよう。
 
 
からだを当たり前に使へることの恩寵にあらためて驚くことができるだらうか。
 
 
さらに、あなたにとつて、わたしにとつて、「密やかに、古くから保たれてきたもの」とは、何か。
 
 
それは、みづからのこころといふものの核のこと。
 
 
こころの相(すがた)は刻一刻と変はるが、こころといふものの核は、変はらずに留まり続ける。
 
 
その核を「わたしのわたしたるところ」、<わたし>、もしくは精神と言つてもよく、それを意識の上に育てていくために、メディテーションといふこころの練習がある。
 
 
この『こころのこよみ 第34週』では、そのこころといふものの核を「密やかに、古くから保たれてきたもの」と言ひ表してゐる。それは、無理をせず、どこまでも自分自身であること(精神からの光)。
 
 
そして、毎日の感謝から生まれる、「新しく生まれてくる己れのありやう」。それは、日々新鮮に自分自身を感じること(からだからの恩寵)。
 
 
このふたつが重なつて、こころそのものが、活き活きと動き出す。
 
 
活き活きと動き出して、いよいよ、わたしは、<わたし>として、ますます、「ありありと」あるやうになつてくる。
 
 
外の仕事に「ありありと」<わたし>が刻み込まれていく。
 
 
わたしが、仕事を通して、<わたしはある>といふありやうに、なりゆくこと。
 
 
これこそが、豊かさである。
 
 
ひとりひとりの<わたしはある>といふありようこそが、世を豊かにする。
 
 
  

密やかに古くから保たれてきたものが
新しく生まれてくる己れのありやうと共に
内において活き活きとするのを感じる。
きつと目覚めた世の数々の力が
わたしの人生の外なる仕事に注ぎ込まれ
そしてだんだんと、ありありと、わたしを刻み込んでいくだらう。
 
 

posted by koji at 09:24 | 大阪 ☀ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年11月25日

こころのこよみ(第33週) 〜人に任されてゐる仕事〜



126938656_5368275853197957_2129900042970457424_n.jpg



わたしはいま、世をかう感じる。

それは、わたしのこころがともに生きることなしには、

そこにはただ凍りついた虚しいいのちのみ、

そして、力が啓かれることもない。

人のこころにおいて、世は新しく創りなす。

世そのものにおいては、死を見いだすのみ。


So fühl ich erst die Welt,
Die außer meiner Seele Miterleben
An sich nur frostig leeres Leben
Und ohne Macht sich offenbarend, 
In Seelen sich von neuem schaffend, 
In sich den Tod nur finden könnte.           


世とは、この地球を含む宇宙まるごとのことであり、四季折々に織りなしてゐる自然のいちいちのことであり、このわたしをも含む人といふ人のことでもあり、そして、物質の域だけでなく、こころの域、精神の域にまで及ぶものであるだらう。


その「世」といふものに、この「わたし」が働きかけることによつて、何が生じるだらうか。


たとへば、こころを籠めて世の何かを、世話する、面倒をみる、手塩にかけて育てる、などなど・・・。人が、さうするとき、その何かはどのやうな変化を見せてくれるだらうか。


人がこころを注ぎつつ手入れしてゐる庭と、ほつたらかしの庭とでは、何かが違ふ。


人が大事に、感謝をもつて住んでゐる家と、家のあちこちに対して文句を言ひつつ、手入れが行き届かない家と、また、誰も住んでゐない家とでは、それぞれ、趣きを異にする。


対象が、庭や家だけでなく、動物や人ならば、その違ひもより明らかに見られるのではないだらうか。


それは、決して、気のせいではない、明らかな趣の違ひとしてしつかりと感じられる。


今週の『こよみ』では、かう記されてある。


 わたしのこころが共に生きることなしには、
 そこにはただ、凍りついた虚しいいのちのみ


世は、人によつてこころから意を注がれることを待つてゐるのではないだらうか。


花も、動物も、水や風やあらゆる自然のものも、人が創り出したあらゆるものといふもの、機械類までも、そして、もちろん、人や、目には見えないが世に存在してゐる者たちも、人から、こころを向けられるのを、待つてゐるのではないだらうか。


人がこころを注ぐところに、新しいいのちが宿る。


いのち、それは人が、その人みづからのこころの力をもつて、世に新しく与へることのできる愛、と言つてもいいかもしれない。


人からの愛が注がれるところに、新しく、世そのものがもつてゐる力が啓かれる。


さうして、世は、人とともに、時とともに、更新されていく。


世は、人からの積極的な行為を、愛を、待つてゐる。


人とは、なんと大きな仕事を任されてゐることだらう。



わたしはいま、世をかう感じる。
それは、わたしのこころがともに生きることなしには、
そこにはただ凍りついた虚しいいのちのみ、
そして、力が啓かれることもない。
人のこころにおいて世は新しく創りなす。
世そのものにおいては死を見いだすのみ。

posted by koji at 23:25 | 大阪 ☀ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年11月16日

こころのこよみ(第32週) 〜世の力の源は決して枯れない〜



E69E97E6ADA6E3808CE88AB1E3808D.jpg
林武[花」



わたしは稔りゆく己れの力を感じる。
 
その力は強められたわたしを世に委ねる。
 
わたしのわたしたるところを力強く感じる、
 
明るみへと向かふべく、
 
生きることの仕合はせが織りなされる中で。
 
 
  
 
Ich fühle fruchtend eigne Kraft
Sich stärkend mich der Welt verleihn;      
Mein Eigenwesen fühl ich kraftend        
Zur Klarheit sich zu wenden             
Im Lebensschicksalsweben.              
 
 
 
 
この秋といふ季節に、
稔りゆく<わたし>の力は、
どこから得られるか。
 
 
わたしがわたしみづからを
支へ引き上げていくための力は、
どこから得られるか。
 
 
「稔りゆく己れの力」
「強められたわたし」
「わたしのわたしたるところ」
 
 
これらは、みな、
己れから己れを解き放ち、
己れの小なる力を諦め、
大なるものに己れを委ね、任せられるとき、
感じられるものではないだらうか。
 
 
大いなるもの、それを「世」と言ふのなら、
世の力の源は決して枯れることがない。
 
 
その源から、
<わたし>は常に力をiいただいてゐる。
 
 
その繋がりを信頼して、
今日も仕事をしていかう。
 
 
今日といふ一日、明日、あさつて・・・
「生きることの仕合はせ(運命)が
 織りなされる中で」何が待つてゐるのだらう。
 
 
小さなわたしが
あれこれと采配していくのではなく、
大いなるものがわたしの生を
織りなしてくれてゐることへの
信頼を育みつつ、
勇気をもつて、今日も仕事をしていかう。
 
 
そのときこそ、
「わたしのわたしたるところ」
「強められたわたし」が、
きつと顕れてくる。
 
 
今日も、ていねいに、
牛のやうにひたすら押しながら、
「明るみへと向かふべく」仕事をしていかう。
 
 
 
 
わたしは稔りゆく己れの力を感じる。
その力は強められたわたしを世に委ねる。
わたしのわたしたるところを力強く感じる、
明るみへと向かふべく、
生きることの仕合はせが織りなされる中で。
 
 
 

posted by koji at 10:25 | 大阪 ☁ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年11月11日

こころのこよみ(第31週) 〜「事」と「言」と「心」〜



E69CACE5B185E5AEA3E995B7.jpg
本居宣長自画像



精神の深みからの光が、

まるで太陽のやうに輝きだす。

それは生きる意欲の力になり、

そして、おぼろな感官に輝きいり、

力を解き放ち、

こころから創らうとする力を

人の仕事において、熟させる。


Das Licht aus Geistestiefen, 
Nach außen strebt es sonnenhaft.
Es wird zur Lebenswillenskraft
Und leuchtet in der Sinne Dumpfheit, 
Um Kräfte zu entbinden, 
Die Schaffensmächte aus Seelentrieben 
Im Menschenwerke reifen lassen.           



「精神の深みからの光が、
 まるで太陽のやうに輝きだす」


わたしたちは、太陽の輝きには馴染みがある。


しかし、上の文を読んで、
「まるで太陽のやうに輝きだす
 精神の深みからの光」
をどう捉へていいものか、
途方に暮れはしないだらうか。


この文、これらのことばの連なりから、
どのやうなリアリティーを
摑むことができるだらうか。


ことばのリアリティーを摑むために、
何度もこころの内に唱へ、
口ずさんでみると、
どうだらうか。
 
 
水が集つて流れるやうに声に出すことを
「詠む」といふさうだが(白川静『字訓』)、
そのやうな活き活きとした息遣ひで味はつてみる。
 
 
また、
その川底に光るひとつひとつの石を見るやうに、
一音一音、味はふやうにしてみる。
 
 
そのやうにことばを味ひ、
ことばの響きに耳を澄まさうとすることにより、
こころの静けさとアクティビティーを通して、
「精神の深みからの光」が、
「事」として、だんだんと顕れてくる。
 
 
ここで言はれてゐる
「事」と「言」が重なつてくる。
 
 
「考へる」が「感じる」とかさなつてくる。
 
 
また、過去に幾度か経験した
「輝きだす」瞬間を想ひ起こし始める。
 
 
そのやうにして、
リアリティーの糸口が見いだされてくるにつれて、
いまこの瞬間において、
「精神の深みからの光」が、
こころに降りてくるのを感じ、覚える。
 
 
そのやうにして、
「事(こと)」と
「言(ことば)」と
「心(こころ)」が、
光の内に重なつてくる。
 
 
その重なりが、
こころの内なる化学反応のやうに
生じてくるのを待つ。
 
 
 
  
 

「精神の深みからの光」
 
 
その「光」こそが、
「生きる意欲の力になり」、
「こころから創ろうとする力を、
 人の仕事において熟させる」。
 
 
意欲をもつて生きるとは、
どういふことなのか。
自分の仕事において創造力が熟してくるとは、
どういふことなのか。
 
 
まづ、
内なる「光」といふもののリアリティーを得ることで、
それらのことが分かる道が開けてくる。
こころを暖め、熱くさせながら。
 
 
光だけを生きるのではなく、
熱をもつて仕事に向かい始める。
 
 
「考へる」「感じる」が、
さらに「欲する」とかさなつてくる。
 
 
「事」と「言」と「心」が、
さらに幾重にもかさなつてくる。
 
 
今週、
精神の光・考へる働きが、
活き活きと感じる力となり、
生きる意欲の力になり、
仕事を熟させていく。
 
 
その「事」を、
ことばとこころで辿つていかう。
 
 
 
 
 
精神の深みからの光が、
まるで太陽のやうに輝きだす。
それは生きる意欲の力になり、
そして、おぼろな感官に輝きいり、
力を解き放ち、
こころから創らうとする力を
人の仕事において、熟させる。
 

posted by koji at 13:51 | 大阪 ☀ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年11月02日

こころのこよみ(第30週) 〜秋の喜び、垂直性〜



IMGP0303.JPG



こころの太陽の光の中でわたしに生じる、
 
考へることの豊かな実り。
 
みづからを意識することの確かさにおいて、
 
すべての感じ方が変はる。
 
わたしは喜びに満ちて感覚することができる、
 
秋の精神の目覚めを。
 
「冬はわたしの内に、
 
こころの夏を目覚めさせるだらう」
 
 
 
Es sprießen mir im Seelensonnenlicht  
Des Denkens reife Früchte, 
In Selbstbewußtseins Sicherheit
Verwandelt alles Fühlen sich.
Empfinden kann ich freudevoll
Des Herbstes Geisterwachen:
Der Winter wird in mir
Den Seelensommer wecken.  
 
 
 
 
秋が深まつてきた。
 
 
それまでの曖昧で不安定だつた
考へる力の焦点が定まつてきて、
本当にこころから考へたいことを
考へられるやうになつてくる。
 
 
考へたいことを考へる。
 
 
その内なる行為こそが、
こころに太陽の光をもたらす。
 
 
それは、わたしの場合、
本当に喜ばしいことで、
考へる力に濁りがなくなつてくると、
感情も清明になり、
意欲にも火がついてくるのだ。
 
 
そして、本、文章、テキスト、さらには、
人とのいい出逢ひに恵まれるやうになつてくる。
 
 
生きることの意味。理想。希望。
 
 
それらの考へと情が、
わたしにとつて何よりも気力と意欲、
そして喜びを起こしてくれる。
 
 
そのことを実感できる日々はありがたいものだ。
 
 
見えるものについてただ無自覚に考へ、
なんとなく思ひ続けてゐるよりも、
見えないものへの信を深めるやうな、
考へと情を育んでいくことが、
どれだけ、こころを目覚めさせることだらう。
 
 
ものがただ並んでゐる平面を生きることよりも、
ものといふものにおける垂直を生きること。
 
 
秋から冬への生活とは、
そのやうな「ものへゆく道」
「深みを見いだす生活」になりえる。
 
 
日々のアップ・アンド・ダウンはある。
 
 
しかし、週を経るごとに、
こころが織り目正しく織りなされていく。
 
 
そして、「わたしがあること」の
安らかさと確かさをもたらしてくれる。
 
 
ありがたいことだと思ふ。
 
 
 
 
こころの太陽の光の中でわたしに生じる、
考へることの豊かな実り。
みづからを意識することの確かさにおいて、
すべての感じ方が変はる。
わたしは喜びに満ちて感覚することができる、
秋の精神の目覚めを。
「冬はわたしの内に、
こころの夏を目覚めさせるだらう」

posted by koji at 07:00 | 大阪 | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年10月25日

こころのこよみ(第29週) 〜コトバ第一ナリ〜



Marina20Fernandes20CalacheE8A9A9.jpg
Marina Fernandes Calache「詩」



みづから考へることの光を、

内において力強く灯す。

世の精神の力の源から、

意味深く示される数々の験し。

それらはいま、わたしへの夏の贈りもの、

秋の静けさ、そしてまた、冬の希み。


Sich selbst des Denkens Leuchten 
Im Innern kraftvoll zu entfachen, 
Erlebtes sinnvoll deutend
Aus Weltengeistes Kräftequell,
Ist mir nun Sommererbe,
Ist Herbstesruhe und auch Winterhoffnung.  



改めてこの夏を振り返つて、
夏といふ季節からの贈り物は、何だらう、
さう問ふてみる。


それは、「ことば」であつた。
 

「わたしはひとりである」といふ「ことば」だつた。


いま、秋になり、外なる静けさの中で、
その「ことば」を活発に消化する時であることを
わたしは感じてゐる。


そして、来たる冬において、
その「ことば」は、血となり、
肉となつて、
生まれ出る。


夏に受けとられ、
秋に消化された「ことば」が、
冬には、
「己れのことば」、
「わたしの内なるひとり生みの子」、
「わたしの仕事(ことに仕へる)」として、
世へと発信される。


そんなクリスマスへの希みがある。


夏に贈られた「ことば」があるからこそ、
この秋、その「ことば」を基点にして、
自分の情を鎮めることができる。
自分の考へを導いていくことができる。
自分の意欲を強めていくことができる。
そして、冬へと、クリスマスへと、備へるのだ。


メディテーションをする上にも、
余計なことを考へないやうにするために、
飛び回る鬼火のやうな考へや情を鎮めようとする。


しかし、いくら頑張つてみたところで、
どうにも鎮まらない時がよくある。


そんな時、
メディテーションのために
与へられてゐる「ことば」に沿ひ、
その「ことば」に考へを集中させていくと、
だんだん、おのづと、
静かで安らかなこころもちに至ることができる。


「ことば」を先にこころに据ゑるのだ。


その「ことば」に沿ふことによつて得られる感覚。


日本人においては、
特に、万葉の歌を歌ふ頃から時代を経て、
「古今和歌集」の頃もさらに経て、
「新古今和歌集」が編まれた頃、
その「ことば」の感覚が、
意識的に、尖鋭的に、磨かれてゐたやうだ。


歌を詠むこと、詠歌において、
「題」を先に出して、
その「題」を基にして、
まづ、こころを鎮め、こころを整へて、
その後、歌を詠んだのである。


こころの想ふままに歌を歌へた時代は、
だんだんと、過ぎ去つていつたのだ。


こころには、あまりにも、
複雑なものが行き来してゐて、
それが、必ずしも、
歌を詠むに適した状態であるとは限らない。



ーーーーー


詠歌ノ第一義ハ、心ヲシヅメテ、妄念ヲヤムルニアリ

トカク歌ハ、心サハガシクテハ、ヨマレヌモノナリ

コトバ第一ナリ

(本居宣長『あしわけ小舟』より)


ーーーーーーー


「ことば」が、
こころの内に据ゑられてあるからこそ、
「ことば」といふ手がかりがあるからこそ、
わたしたちはみづからのこころのありやうを、
手の内に置くことができるやうになる。


わたしたち日本人は、長い時を経て、
歌を詠むことを通して、
「ことば」の世界に直接入り、
「ことば」の力に預かりながら、
己れのこころを整へ、
情を晴らし、
問ひを立て、
明日を迎へるべく意欲をたぎらしてゐた。


秋になり、
わたしたちは夏に贈られた「ことば」を通して、
妄念を鎮め、
こころを明らかにしていくことができる。
さうして初めて、
「みづから考へることの光を、
 内において力強く灯す」。


歌を何度も何度も口ずさむやうに、
メディテーションを深めていくことが、
来たる冬への備へになるだらう。



みづから考へることの光を、
内において力強く灯す。
世の精神の力の源から、
意味深く示される数々の験し。
それらはいま、わたしへの夏の贈りもの、
秋の静けさ、そしてまた、冬の希み。





posted by koji at 07:39 | 大阪 ☀ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年10月19日

こころのこよみ(第28週) 〜こころの太陽の力〜



104_7.jpg
棟方志功『R火頌(かぎろひしやう)』より
span style="font-size:x-small;">
保田與重郎の和歌「火の國の阿蘇の神山神の火の魂依りしづか燃えていませり」


わたしは、内において、新しく甦ることができる。
 
己れであることの拡がりを感じる。
 
そして、力に満ちた考への輝きが、
 
こころの太陽の力から、
 
生きることの謎を解いてくれる。
 
いくつもの願ひを満たしてくれる。
 
これまで希みのつばさは、弱められてゐたのに。
 
 
 
Ich kann im Innern neu belebt          
Erfühlen eignen Wesens Weiten         
Und krafterfüllt Gedankenstrahlen        
Aus Seelensonnenmacht             
Den Lebensrätseln lösend spenden,        
Erfüllung manchem Wunsche leihen,       
Dem Hoffnung schon die Schwingen lähmte.   
 
 
 
わたしたちひとりひとりは、
こころにおいて、アクティブになれる。
 

それは、
影のやうな様々な死んだ考へを漠然と抱くのを止めて、
積極的に、こころの熱くなるやうな考へをリアルに持つときだ。
 

自分自身が本当に考へたいことのみを考へるときだ。
 

そのとき、考へが、干からびた枠組みだけのものから、
こころを熱く息づかせるいのちを持ち始め、こころは新しく甦る。
 

太陽は夏の間、外側に照り輝いてゐたけれども、
秋からは、こころの内に輝き始めることができる。
 

そして15世紀から始まつてゐる新しい時代において、
人が抱く考へがどんどん干からびたものになつてきたのも、
ちやんとした理由がある。
 

それは、わたしたちが生きてゐる20世紀から21世紀にかけて、
その死んだ考へを、ひとりひとりが意識的に、アクティブに、
こころの内でいのちあるものに変容させるためだ。
 

考へを活き活きとしたみずみずしいものに。
 

その変容は、秋といふ季節において起こり得ることであり、
またわたしたちの時代において起こし得ることである。
 

「内において、新しく甦る」
「己れであることの拡がり」
「力に満ちた考への輝き」
「こころの太陽の力」
 

なんと、力強い、
いのちのみずみずしさを湛えたことばたちだらう。
 

ことばを繰り返し繰り返し詠むことで、
ことばに湛えられてゐるいのちを汲み出さう。
 

声に出すことで、考へを活き活きと深めていかう。
 

考へがいのちを得て、こころが熱く息づく。
 

こころに太陽が輝き始める。
 
 

 
わたしは、内において、新しく甦ることができる。
己れであることの拡がりを感じる。
そして、力に満ちた考への輝きが、
こころの太陽の力から、
生きることの謎を解いてくれる。
いくつもの願ひを満たしてくれる。
これまで希みのつばさは、弱められてゐたのに。
 

posted by koji at 07:12 | 大阪 | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年10月11日

こころのこよみ(第27週) 〜世を信頼する〜



E382BBE382B6E383B3E3838CE3808CE5BAADE5B8ABE38080E383B4E382A1E383AAE382A8E3808D.jpg
セザンヌ「庭師 ヴァリエ」


わたしといふものの深みへと進みゆくほどに、
 
予感に満ちた憧れが呼び起こされる。
 
わたしはわたしを見いだす、みづからを見てとりつつ、
 
夏の太陽から贈られた萌しとして。
 
秋の調べの中で熱く息づく、
 
こころの力として。
 
 
In meines Wesens Tiefen dringen:
Erregt ein ahnungsvolles Sehnen,      
Daß ich mich selbstbetrachtend finde,     
Als Sommersonnengabe, die als Keim
In Herbstesstimmung wärmend lebt    
Als meiner Seele Kräftetrieb.  
 
 
 
自然はリズムを刻んでゐる。
世はリズムを刻んでゐる。
 

わたしもリズムを刻んで生きていくことができる。
 

この『こころのこよみ』は、
そのことを助けるひとつの「道」だ。
 

道といふものは、
先人が歩んでくれたからこそ、いま、そこにある。
 

先人への信頼が、その道への信頼となり、
それが更に、
人といふもの、世といふものへの信頼へと育つてゆく。
 

このメディテーションの道を歩んでいくことで、
世のリズムと我がこころのリズムとを重ね合はせる練習ができる。
 

それは、大いなる世の生命と己れの生命とを
重ね合はせていく作業だ。
 

この『こころのこよみ』に沿つて、
夏から秋へと歩んでくると、
この秋から冬にかけて、
新しい「わたし」にきつと出逢ふといふ予感に満ちた憧れに満たされるのを感じる。
 

その新しいわたしは、熱く息づくこころの力として、
新しいアイデアと新しい意欲に通はれようとしてゐるのだ。
 

わたしは、何も力んで、何かをしようといふのではない。
 

世のリズムが、
わたしにその新しいわたしを授けてくれるのを、
待つことを習へばいい。
 

世を信頼するのだ。
 
 
 
 
わたしといふものの深みへと進みゆくほどに、
予感に満ちた憧れが呼び起こされる。
わたしはわたしを見いだす、みづからを見てとりつつ、
夏の太陽から贈られた萌しとして。
秋の調べの中で熱く息づく、
こころの力として。


posted by koji at 00:15 | 大阪 ☁ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年09月30日

こころのこよみ(第26週) 〜ミヒャエル祭の調べ〜



57568326.jpg
ラファエロ「大天使ミヒャエルと竜」



自然、その母なるありやう、
 
わたしは、それを、意欲において担ふ。
 
そして、わたしの意欲の火の力、
 
それが、わたしの精神の萌しのかずかずを鍛へる。
 
その萌しのかずかずが、みづからの情を生む、
 
わたしをわたしにおいて担ふべく。   
 
  
 
Natur, dein mütterliches Sein,
Ich trage es in meinem Willenswesen;      
Und meines Willens Feuermacht,         
Sie stählet meines Geistes Triebe,         
Daß sie gebären Selbstgefühl           
Zu tragen mich in mir.             
 
 
 
 
先週の『こころのこよみ』で、
「内なるこころの光と熱。
 これほど、頼りになるものがあるだらうか。」
と書いた。
 

この頼りになるものを、
わたしたちひとりひとりの人に
もたらさうとしてくれてゐる精神存在がゐる。
さうシュタイナーは語つてゐる。
 

大いなる精神存在、ミヒャエル。
 

この存在は、どのやうにして、この時期に、
わたしたちのこころとからだに
働きかけて下さつてゐるのだらうか。
 

今週の『こよみ』を読んでみる。
口ずさんでみる。
 

息遣ひも活き活きと、
声を解き放ちながら唱へてみる。
何度もこころとからだで味わつてみる。
意欲をもつて、ことばとつきあつてみる。
 

さうすると、普段以上の意欲をもつてしなければ、
何も感じられないことに気づく。
 

そして、積極的にことばを唱へるほどに、
こころへと立ち上つてくる意欲といふ熱があればこそ、
我がこころとからだが活き活きとしてくるのを感じる。
 

我がからだもこころも、
「自然」の内のひとつである。


その熱をもつてこそ、
最も近く親しい「自然」を担つてゐると感じることができる。
 

意欲とは、わたしのからだへと、こころへと、
下から、足元から、立ち上がつてくる熱である。
それは熱心さであり、こころざしの顕れである。
 

その「意欲の火の力」があつてこそ、
その火を、わたしが、燃やすからこそ、
わたしのからだとこころに、
上から、天から、降り注いでくる
「考へ・想ひ・こころざし・精神の萌しのかずかず」
である光がだんだんと暖められ、鍛へられる。
 

わたしたちは、この時期、
上からの光(考へ)と、
下からの熱(意欲)とを、
織りなしあわせる。
その織りなしあいが、
こころに「みづからの情」を生む。
 

その情とは、
「わたしは、わたしだ」「わたしは、ひとりだ」といふ
こころの真ん中に生まれる情だ。
その情をもつて、
わたしといふ「ひとりの人」は活き活きと甦つてくる。
恐れや不安や物思ひなどを凌いで、
「ひとりの人」としてこの世に立ち、
目の前にあることにこころから向かつていくことができる。
光としての考へが、
こころを暖め熱くするものへと練られ、
実行可能なものへと鍛へられていく。
 
 
 
 
そのやうに、自分のこころとからだで、
『こころのこよみ』のことばをひとつひとつ味はつていくと、
シュタイナーが多くの著書や講演で語つた精神存在を、
リアルに親しく感じることができる通路が開かれていくし、
さうしていくことによつて、
実人生を安らかに確かに積極的に歩んでいくことができると実感する。
 
 
 
これからの秋から冬にかけて、
外なる闇と寒さがだんだんと深まつてくる。
そしてややもすれば、
闇と冷たさがこころにまで侵蝕してくる。
 

そんな時に、内なるこころの光と熱を、
ひとりひとりの人が
みづからの力で稼ぐことができるやうにと、
共に一生懸命働いて下さつてゐるのが、ミヒャエルだ。
 

一方、闇と寒さを人にもたらす者、
それがミヒャエルの当面の相手、アーリマンだ。
 

人を闇と寒さの中に封じ込めようとしてゐる
そのアーリマンの力の中に、
剣の力をもつて、鉄の力をもつて、切り込み、
光と熱を人のこころにもたらす助けを、秋から冬の間にし、
毎年毎年、ひとりひとりの人が、
キリスト・イエスが生まれるクリスマスを、
こころに清く備へ、整へるのを助けて下さるのが、
ミヒャエルだ。
 

シュタイナーは『こころのこよみ』を通して、
ことばの精神の力を四季の巡る世に打ち樹てようとした。
 

祝祭を、世における大いなる時のしるしとして、
ひとりひとりの人がみづからのこころにおいて
新しく意識的に創つていくことができるやうにと、
『こころのこよみ』を書いた。
 

キリスト者共同体司祭であつた
ミヒャエル・デーブス氏が語つたこととして、
以下のことばがある。


大天使ミヒャエルといふ大いなる方が、精神の世から、
すべてのイニシアティブを持つ人に力を贈り始めたのは、
1879年だつた。
その年、シュタイナーは18歳で、
「人における知ることの秘密(認識論)」に取り組み始めた。
そして、33年経た1912年に、
シュタイナーはアントロポゾフィー協会を立ち上げ、
この『こころのこよみ』を世に贈り出した。


33年といふ時間は、
イエスがこの世に
フィジカルなからだを持つて存在した時間であり、
その誕生から十字架の死を経て、
甦るまでに要した時間だ。


シュタイナーは語つたといふ。
「いま、起こつてゐることは、
 ひとつのクリスマスのありやうだ。
 これから33年後に、その甦りの祭り、
 復活祭がやつて来るだらう」と。
精神のことがらが、地上において成就するには、
その仕事が着手されてから33年かかるのだ。
(ミヒャエル・デーブス『魂の暦について』からの要約)


このシュタイナーによる『こころのこよみ』とは、
大天使ミヒャエルとの共同作業によるひとつの結実と言へるかもしれない。


『アントロポゾフィーのこころのこよみ』。


「こよみ」とは、
事(こと)をよむことであり、
言(ことば)をよむことであり、
心(こころ)をよむことである。
 

意識的に四季を生きること。
四季を『こころのこよみ』とともに生きること。
それは、地球をも含みこむ大いなる世(宇宙)と共に、
精神的に生きるといふ新しい生き方を、
わたしたちが摑む手立てになつてくれるだらう。
また、みづからの狭い枠を乗り越えて、
こころの安らかさと確かさと積極さを取り戻す
手立てにもなつてくれるだらう。
 
 
 
 
自然、その母なるありやう、
わたしは、それを、意欲において担ふ。
そして、わたしの意欲の火の力、
それが、わたしの精神の萌しのかずかずを鍛へる。
その萌しのかずかずが、みづからの情を生む、
わたしをわたしにおいて担ふべく。


posted by koji at 08:45 | 大阪 ☁ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年09月29日

こころのこよみ(第25週) 〜仕事の季節〜



E3808CE3808AE58F97E99BA3E3808BEFBC91E38080E58F97E99BA3E3808DEFBC91EFBC99EFBC93EFBC95E5B9B4.jpg
ルオー「《受難》1 受難」1935年



わたしはいま、わたしを取り戻し、
 
そして、輝きつつ、内なる光が拡がりゆく、
 
空間と時の闇の中へと。
 
眠りへと自然がせきたてられるとき、
 
こころの深みはきつと目覚めてゐる。
 
そして、目覚めつつ、太陽の熱を担ひゆく、
 
寒い冬のさなかへと。
 
  
 
Ich darf nun mir gehören          
Und leuchtend breiten Innenlicht          
In Raumes- und in Zeitenfinsternis.   
Zum Schlafe drängt natürlich Wesen,        
Der Seele Tiefen sollen wachen           
Und wachend tragen Sonnengluten      
In kalte Winterfluten.   
 
  
 
 
陽の光と熱を浴びながら
歩き回る夏の彷徨が終はつて、
静かに立ち止まり、
内なるこころの光と熱を生きていく秋が始まつてゐる。
 

内なるこころの光と熱によつて、
こころが目覚めてゐるといふこと。


「わたしがわたしである」ことに
目覚めてゐるといふこと。
 

そして、こころが生きる情熱を感じてゐるといふこと。
 

これほど、頼りになるものがあるだらうか。
 

これがあれば、秋から冬にかけて、
たとへ外の世が生命力を失つていき、枯れていつても、
内なるこころは、きつと、「ひとりのわたし」として、
活き活きと目覚めてゐることができる。
 

夏にいただいた太陽の光と熱の大いなる働きを、
内なるこころの光と熱としていく。
 

そして、来たる冬の寒さのさなかへと
意欲的にそのこころの光と熱を注ぎ込んでいくことができる。
 

光と熱。
 

それはいまや
わたしのこころの内から発しようとしてゐる。
 

そしてこれからやつてくる冬の闇と寒さとの
コントラストを際立たせようとしてゐる。
 

太陽の光と熱と共にあの夏をからだ一杯で生きたからこそ、
この秋があるのだ。
そして、この秋が、冬へと引き続いていく。
 

そのやうな季節のつながり、くりなし、なりかはりを
ていねいに、確かに、感じること。
それが、
内なるこころのつながり、くりなし、なりかはりをも
自覚することへと繋がつていく。
 

四季を生きること、一年のいのちを生きることが、
みづからを知ることへとわたしを導いていく。
 

この『こころのこよみ』に沿ひつつ、
四季それぞれに息づいてゐる「ことば」を聴く。
 

ならば、それらの「ことば」が、
生命ある連続としてこころにしずしずと流れてくる。
 

夏、外なる光と熱の中にわたしは溶け込み、
ある意味、わたしはわたしを見失つてゐた。
 

秋、わたしはわたしを取り戻し、
萌してゐた希みが羽を拡げようとしてゐる。
 

さあ、これからが、稔りの季節、
粛々とした仕事の季節だ。
 
 
 
  
わたしはいま、わたしを取り戻し、
そして、輝きつつ、内なる光が拡がりゆく、
空間と時の闇の中へと。
眠りへと自然がせきたてられるとき、
こころの深みはきつと目覚めてゐる。
そして、目覚めつつ、太陽の熱を担ひゆく、
寒い冬のさなかへと。

posted by koji at 06:36 | 大阪 ☀ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年09月21日

こころのこよみ(第24週) 〜生産的であるもののみがまことである〜



51692Bfn7dL.jpg


みづからを絶えず創り上げつつ、
 
こころは己れのありやうに気づく。
 
世の精神、それは勤しみ続ける。
 
みづからを知ることにおいて、新しく甦り、
 
そして、こころの闇から汲み上げる、
 
己れであることの意欲の稔りを。
 
 
 
Sich selbst erschaffend stets,         
Wird Seelensein sich selbst gewahr;      
Der Weltengeist, er strebet fort        
In Selbsterkenntnis neu belebt        
Und schafft aus Seelenfinsternis       
Des Selbstsinns Willensfrucht.     
 
 
 
創る人は幸ひだ。
生み出す人は幸ひだ。
育てる人は幸ひだ。
 

金と引き換へにものを買ひ続け、
サービスを消費し続ける現代人特有の生活のありやうから、
一歩でも踏み出せたら、その人は幸ひだ。
 

その一歩は、料理を作ることや、
手紙や日記を書いてみることや、
花に水をやることや、ゴミを拾ふことや、
そんなほんの小さな行ひからでもいいかもしれない。
 

この手と脚を動かし、世と触れ合ふ。
 

そのやうな行為によつてこそ、
みづからを創り上げることができ、
その行為からこそ、
こころは己れのありやうに気づく。
 

そして、「世の精神」。
 

それは、一刻も休まず、勤しみ、生み出してゐるからこそ、
「世の精神」であり、だからこそ、
太陽や月は周期を持ち、四季は巡る。
 

「世の精神」はそのやうにして絶えず勤しみながら、
人に働きかけ、
また人からの働きかけを受けて、
絶えず己れを知りゆかうとしてゐる。
 

「世の精神」みづからが、人との交流を通して、
己れを知らうとしてゐる。
「世の精神」は、人の働きを待つてゐる。


そして更に「世の精神」は、
人といふものにみづからを捧げようとし、
人といふものから愛を受け取ることを通して、
より確かに己れといふものを知りゆき、
己れを知れば知るほど、
そのつど新たに新たに「世の精神」は甦る。
 

同じく、わたしたち人は、
そんな「世の精神」に倣ひつつ、
地球上のものといふものに働きかけ、
ものを愛し、ものに通じていくことをもつて、
みづからを新たに新たに知りつつ、
たとへ、肉体は年老いても、
そのつどそのつどこころは甦り、
精神的に若返ることができる。
 

「世の精神」には、人が必要であり、
人には「世の精神」が必要なのだ。


我が国、江戸時代中期を生きた稀代の国学者、
本居宣長(1730-1801)も、
そして、ゲーテ(1749-1832)といふ人も、
その「世の精神」に倣ひ続け、
「ものにゆく道」を歩き通した人であり、
両人の残された仕事の跡を顧みれば、
晩年に至るまでのその若々しい生産力・創造力に驚かされる。
 

シュタイナーは、そのゲーテのありかたをかう言ひ当ててゐる。
 
 

ーーーーー
 

ゲーテは、ひとたび、こんな意味深いことばを語りました。
 
「生産的であるもののみが、まことである」
 
それは、かういふことです。
 
人は、きつと、みづからを、まことの有するところとなします。
 
そして、まことは働きかけます。
 
そして、人が生きて歩むとき、まことは、まことであることの証を、生産的であることを通して見いだします。
 
これが、彼にとつて、まことの試金石でした。
 
すなはち、生産的であるもののみが、まことです。
 
(1908年10月22日 於ベルリン 講演「ゲーテの密やかなしるし」より)
  

ーーーーー
 
 
 
秋には、
「己れの力」が「意欲の稔り」として発露してくる。
 

創ること、生み出すこと、育てることなどの行為は、
わたしたち人にこころの確かさ、安らかさ、活発さを取り戻させてくれる。
 

そして、行為し、ものと交はり、人と交はる時に、
各々人は初めて、己れのこころの闇に直面する。
壁に突き当たる。
 

しかしながら、その己れの闇を認め、赦すことからこそ、
「わたしはある」「わたしはわたしである」といふ、
こころの真ん中の礎である情に目覚め、
己れであることの意欲の稔りを、汲み上げていく。
 

「ものにゆくこと」「生産的・創造的であること」、
それがまことへの道だ。
 
 
 
 
みづからを絶えず創り上げつつ、
こころは己れのありやうに気づく。
世の精神、それは勤しみ続ける。
みづからを知ることにおいて、新しく甦り、
そして、こころの闇から汲み上げる、
己れであることの意欲の稔りを。


posted by koji at 06:45 | 大阪 | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年09月13日

こころのこよみ(第23週) 〜霧のとばり〜



9c08cdaa.jpg


秋めいて、和らぐ、

感官へのそそり。

光の顕れの中に混じる、

ぼんやりとした霧のとばり。

わたしは空間の拡がりの中で観る、

秋、そして冬の眠り。

夏はわたしに、

みづからを捧げてくれた。



Es dämpfet herbstlich sich            
Der Sinne Reizesstreben;            
In Lichtesoffenbarung mischen          
Der Nebel dumpfe Schleier sich.         
Ich selber schau in Raumesweiten         
Des Herbstes Winterschlaf.           
Der Sommer hat an mich            
Sich selber hingegeben.       



ゆつくりと和らいでくる陽の光。

 
それとともに、感官へのそそりも和らいでくる。


そして、秋が日一日と深まりゆくにつれて、
過ぎ去つた夏と、
これからやつてくる冬とのあひだに、
立ちかかるかのやうな、霧のとばり、「秋霧」。


その「とばり」によつて、
戸の向かう側とこちら側に
わたしたちは改めてこころを向けることができる。


戸の向かう側において、
過ぎ去つた夏における世の大いなる働きの残照を
わたしたちは憶ひ起こす。


夏における外なる世の輝き。


そして夏における内なるこころの闇。


その外と内のありやうを憶ひ起こす。


そして、戸のこちら側において、
だんだんと深まつてくる秋における生命の衰へと、
来たるべき冬における生命の死とを、
わたしたちは予感する。


これからの冬における外なる世の闇。


そしてクリスマスに向かふ内なるこころの輝き。


その外と内のありやうを予感する。


夏を憶ひ起こすことと、冬を予感すること。


こころのアクティブな働きをもつて、
その間に、わたしたちは、いま、立つことができる。


さうすることで、きつと、
こころが和らげられ、静かでありながらも、
意欲を滾らせてゆくことができる。



 
秋めいて、和らぐ、
感官へのそそり。
光の顕れの中に混じる、
ぼんやりとした霧のとばり。
わたしは空間の拡がりの中で観る、
秋、そして冬の眠り。
夏はわたしに、
みづからを捧げてくれた。



posted by koji at 19:14 | 大阪 ☁ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年09月06日

こころのこよみ(第22週) 〜深まりゆく感謝の念ひ〜



31175622_2046635698919174_438985124105682944_n.jpg



世の拡がりから来る光が、
 
内において力強く生き続ける。
 
それはこころの光となり、
 
そして、精神の深みにおいて輝く。
 
稔りをもたらすべく、
 
世の己れから生まれる人の己れが、
 
時の流れに沿つて熟していく。
 
       
 

Das Licht aus Weltenweiten,
Im Innern lebt es kräftig fort:          
Es wird zum Seelenlichte            
Und leuchtet in die Geistestiefen,        
Um Früchte zu entbinden,            
Die Menschenselbst aus Weltenselbst       
Im Zeitenlaufe reifen lassen.    
 
 
 
 
鈴木一博氏が「こころのこよみ」の解説されてゐて、
この週のこよみにこのやうな文章を記してをられる。


そもそもひとつであるところが、
外にあつて「光」と呼ばれ、
内にあつて「意識」と呼ばれる。
内と外はひとつの対であり、
リアルなところは、内と外のあはひにある。
ゲーテのことばにかうある。
「なにひとつ内にあらず、
 なにひとつ外にあらず /
 そも、内にあるは外にあるなり」
(Nichits ist drinnen,nichits ist draußen;/ 
 Denn was innen,das ist außen.「Epirrhema」)


夏の間、外に輝いてゐた陽の光が、
いつしか、こころの光になつてゐる。
 

そのこころの光は、萌しであり、
これから、だんだんと、長けゆく。
 

そのこころの光は、感謝の念ひであり、
だんだんと深まり、秋から来たるべき冬に向けて、
だんだんと、熟してゆく。
 

その成熟は、
冬のさなかに訪れる新しい年の精神の誕生を
我がこころに迎へるための、なんらかの備へになる。
 

それは、太陽の輝きの甦りに向けての備へである。
 

むかし、我が国では、そもそも、
その冬至の頃(旧暦の十一月の終わり頃)に、
新嘗祭(にいなへのまつり)を毎年行つて来た。
 

一年の米の収穫には、いい年もあれば、悪い年もある。
 

しかし、どんな年であれ、
米(むかしは米のことを「とし」と言つた)を
授けて下さつた神に対する感謝の念ひを育みつつ、
日本人は生きて来た。
 

この感謝の念ひが、
秋から冬への移り行きの中に生まれる
寂しさ、孤独、侘しさといつた情を凌ぐ、
静かな元手となつてゐた。

 
それが、また、こころの光であつた。
 
 
 
西の国々では、
冬至の直後にイエス・キリストの誕生を祝ふクリスマスがある。
 

そして、キリストの誕生とは、
「ひとり生みの子ども」
「神の子」
「ひとりであることのもたらし手」
「世の己れから生まれる人の己れ」の誕生であつた。
 

西洋では、
一年の稔りへの感謝の念ひを年の終はりにすることに代はつて、
キリストの誕生を寿いだのだ。
 

それは、「ひとりであること」の稔りであつた。
 

その「ひとりであること」の自覚の光が、
秋から冬に向けて熟して行く。
 
 
憂きわれをさびしがらせよ閑古鳥   芭蕉
 
 
人は、
「ひとりであることの自覚」から生まれる
寂しさといふ情にまで徹してみることで、
鬱々としたもの思ひを突き抜けることができる。
そして、この「ひとりであること」の自覚の上にこそ、
キリストは寄り添つてくださるのかもしれない。
 

そして、「ひとりであること」の自覚を持つ
ひとりの人とひとりの人が出会ふところにこそ、
精神は息づく。
 

他を否むところからではなく、
他に感謝することからこそ、
人のうちに己れが生まれる。


他に感謝するとは、
ひとりの人としてのわたしが、
世の己れを世の己れとして
しつかりと認めることであり、
その他の己れを認める力が、
わたしの己れをひとり立ちさせるのだ。


芭蕉は、また、
この「閑古鳥」も「ひとり」であることを認め、
ひとりであるもの同志として、
その閑古鳥との精神の交流、
閑古鳥への感謝をも感じてゐる。
 
 

 
世の拡がりから来る光が、 
内において力強く生き続ける。 
それはこころの光となり、 
そして、精神の深みにおいて輝く。 
稔りをもたらすべく、 
世の己れから生まれる人の己れが、 
時の流れに沿つて熟していく。



posted by koji at 08:02 | 大阪 | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年08月27日

「こころのこよみ」とともに生きる B



51+223DtUoL._SY360_BO1,204,203,200_.jpg


シュタイナーによる、
この『Anthroposophischer Seelenkalender』を、
本当に拙いながらも『こころのこよみ』として、
日本語に訳し、
声に出しながら、時にこころの深みに沈めながら、
一文一文、一語一語、一音一音、
味はひつつ一年を辿つてゐる。


こよみとは、
「事(こと)をよむ」ことであり、
「言(ことば)をよむ」ことであり、
「心(こころ)をよむ」こと。


『こよみ』に刻み付けられてゐることばを通して、
自然のリズム、「年といふもののいのち」を
共に感じ、生きる。

 
その芸術的であり、瞑想的でもある行為を
生活に根付かせていくことで、
だんだんとこころにハーモニーが育ち、
健やかさと安らかさと確かさを実感できるやうになつてくる。
.
. 
それは、やはりありがたいことだ。


そして、その毎日の行為は、
頭で考へるこれまでのありやうから、
心臓で考へる新しいありやうへと、
みづからを育て上げていく道でもある。


頭でなく、心臓で考へるのだ!
血の暖かさに満ちた、
情のたつぷりと通ふ考へを人は持つやうになる。


そして、わたしは、
この地球の上にひとりの人として立つ。


『こころのこよみ』の発刊が、
アントロポゾフィー協会の創設と時を同じくしてゐること。
(1913年)


またその十年後に、
『四つの世のイマジネーションにより四季を共に生きる』
といふ講演がなされ、
一年の巡りを意識的に生きることで、
精神の善き位にある方々を意識し、
その方々と共に働いていくことが、
本当に大事なことなのだ、
さうシュタイナーが訴へたのは、
新しい普遍アントロポゾフィー協会の創設(1923年)に向けてのことだつた。


「年のいのちを生きる」といふことと、
アントロポゾフィー協会の創設といふこととが、
時を同じくしてゐること、
それは偶然ではない。
(ヨハネス・キュール氏による2006年度、
 普遍アントロポゾフィー協会の年次テーマより)


いま、時代の要請から、
目に見える外的な行為を
ひとりひとりが己れの分に応じてなしていく必要があるのは
言を俟たない。


しかし、わたしは、まづは、
アントロポゾフィーが示唆してくれてゐる、
地球と共に感じ、大いなる世とともに心臓で考へる、
精神の世の方々との共同作業を育んでいく、
そのやうな内なる道を真摯に捉へ、
その内なる練習を生活の中でしていくことの重要性を念ふ。


内(目にみえないところ)こそが変へられる。
そこからこそ、
外(目に見えるところ)が変はつていく。


その確かな道を、示してゐるのが、
アントロポゾフィーだ。


わたしたち日本人は、
昔からのことばの芸術、
和歌や俳句などを通して、
ことばの美を通して、
四季の巡りを生きるこころの感覚を、
年のいのちを生きる精神の感覚を、
ひたすらに培つてきた民族。


この感覚をこれからは、
意識的に培ひ始めていかう。


(終はり)


posted by koji at 14:31 | 大阪 ☀ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「こころのこよみ」とともに生きる A



41pW0hDQsiL._SY360_BO1,204,203,200_.jpg


昔の人は、
四季の移りゆきに沿つた暮らしを
無意識の内にも営んでゐた。
.
.
地球の大きな呼吸に合はせるかのやうに、
季節を生きてゐた。
.
. 
春から夏にかけて、
こころを外の世に向かつて解き放ち、
秋から冬にかけては、
自分自身に向き合つてゐた。
. 
. 
現代に生きるわたしたちは、
季節に関はりなく、一年を通して、
快適に暮らすことができるやうになり、
昔とは比べやうもないほどの快適さ、
便利さを享受してゐる。
.
. 
しかし、その代償として、
昔の人が営んでゐたやうな、
自然に沿ふ生き方を失つてしまひ、
大いなる世の移り行きと、
みづからのこころの移り行きとの間に、
ハーモニーを見いだせなくなつてしまつた。
.
. 
自然と人とがバラバラになつてしまつた。
.
.
人のこころは、安らかでなくなつてしまつた。
.
.
恐れ、不安、不信、
穏やかならざるものに苛まれがちになつてしまつた。
.
. 
わたしたちは、いま一度、
自然とのハーモニーを取り戻せるだらうか。
. 
. 
春から夏にかけて、
よおくものを見るのだ。
よおく耳を澄ますのだ。
よおく動いて、働いて、汗を流すのだ。
.
.
意識的に感官(目や耳など)をより活き活きと働かせて、
覚えといふ覚えに沿ふこと。
意識的に外の世とひとつにならうとすること。
意識的に外の光とひとつにならうとすること。
.
. 
秋から冬にかけては、
ひとりきりになる。
.
.
意欲的にひとりで考へることで、
意識的に孤独の内側へと入つていく。
意識的に内の光とひとつにならうとすること。
.
. 
四季の巡りとして現れる地球の大きな呼吸プロセス。
.
.
自分自身のこころにおける精神の呼吸。
.
.
光を呼吸する。
.
.
地球と自分とのハーモニー。
.
. 
その練習の重なりが、
シュタイナーがいふ「年といふもののいのち」を
親しく感じることへと繋がつていく・・・。
.
. 
そして、そのハーモニーがなりたつていくほどに、
こころは甦る!
.
. 
そのハーモニーは、
一週一週の『こころのこよみ』と共に深められていく。
.
. 
その深める作業を、
わたしはメディテーションと呼んでゐる。
.
.
(つづく)

posted by koji at 13:12 | 大阪 ☀ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「こころのこよみ」とともに生きる @



import-5228-converted_1280x1280.jpg



1913年に、ルドルフ・シュタイナーは、
『こころのこよみ
(Anthroposophischer Seelenkalender)』
を出版した。
.
.
テオゾフィー協会を出て、
新しくアントロポゾフィー協会を創立した、
同じ年に。
.
. 
わたしは、この『こころのこよみ』に魅力を感じ、
その内容に取り組み続けてゐる。
.
. 
はじめは、一週一週のこよみの味はひと意味を
そこはかとなく感じてゐるに過ぎなかつた。
.
.
しかし、一年、また、一年、と時を重ねていくにつれ、
序文の中の「年といふものに、いのちがある」といふ、
シュタイナーのことばに感じ入るやうになつた。
.
.
随分と、ここに記されてゐる毎週のことばに、
感じ入るやうになつた。
.
.
年といふものに、いのちがある。
時間といふものに、いのちがある。
四季の巡りを通して、
その「いのち」を生きることのできる喜びを
感じ始めたのだ。
.
. 
「年といふもののいのち」とは、なんだらう。
.
.
一年といふ周期は、
地球と太陽との関係で定まつてゐて、
この地球は、太陽に見守られながら、
「お天道様に見守られながら」
毎年規則正しくその動きを営んでゐる。      
.
.
シュタイナーは感官を凌ぐ意識をもつて、
そのことをさらに次のやうに捉えてゐる。
.
. 
人と同じやうに、
地球は、その球形の物質的な「からだ」だけでなく、
みづからのこころをもつてゐる。
みづからのいのちを営んでゐる。
.
.
そして、人と同じやうに、
精神に憧れ、
精神を宿さうとすべく、
一年一年を生きてゐる。
.
. 
地球は、太陽とのかかはりの中で、
一年ごとに大きな呼吸のプロセスを営んでゐる。
.
.
その地球のプロセスとは、春から夏にかけて、
みづからのこころを、
大いなる世、精神の世に向かつて、
息を吐き出すかのやうに、拡げていく。
それに応じて、
植物は太陽に向かつて長け始め、
花を咲かせ、緑と様々な色で地球を彩る。
.
. 
そして、地球は、夏の間、
大いなる世・宇宙に拡がり、
そこで受け取つた精神の叡智に満たされたこころを、
秋から冬にかけて、息を吸い込むかのやうに、
みづからのからだの内に納めていく。
それに応じて、
地球上の植物は枯れ始め、
彩りを失つていく。
.
. 
そのやうに、四季の巡りを通して地球は、
大きな呼吸プロセスを営んでゐる。
.
. 
「年といふもののいのち」とは、なんだらうといふ問ひ。
.
.
年とは時間の一区切りでありながら、
そこに呼吸がある。
息遣ひがある。
その伸縮、開閉、交錯を促しつつ、
リズミカルに脈打ついのちがある。
.
.
(つづく)

posted by koji at 06:56 | 大阪 ☁ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年08月23日

こころのこよみ(第20週) 〜享受し、消化し、仕事すること〜


 
s-241.jpg
松本 竣介《男の横顔》

 

わたしはいま、わたしのありやうをかう感じる、
 
世にあるものから遠ざかれば、
 
みづからにおいてみづからが消え失せ、
 
そして、己れの基の上にのみ立つならば、
 
みづからにおいてみづからをきつと殺してしまふ。
 
          
 

So fühl ich erst mein Sein,
Das fern vom Welten-Dasein
In sich sich selbst erlöschen
Und bauend nur auf eignem GrundeIn
sich sich selbst ertöten müßte.
 
 
 

秋へと少しづつ歩みを進めていくうちに、
わたしたちは、夏の憶ひを何度も反芻し、
辿りなほす作業に勤しむことができる。
 
 
暑かつたこの夏、
何を想ひ、何を考へ、何を感じ、何を欲したか・・・。
 
 
さう想ひ起こし、辿り直すことによつて、
人はみづからの内で、
だんだんと己れの力が強まつてきてゐるのを感じる。
 
 
それは、
<わたし>の目覚めの時期が
秋の訪れとともに再び巡つてくるといふことでもある。
 
 
<わたし>の目覚め、己れの力の強まり。
 
 
しかし、今週の『こよみ』においては、
その<わたし>の目覚め、
己れの力の強まりから生まれてしまふ危うさに対して、
バランスを取ることが述べられてゐる。

 
世にあるものから遠ざかれば、
みづからにおいてみづからが消え失せ、
そして、己れの基の上にのみ立つならば、
みづからにおいてみづからをきつと殺してしまふ
 
 
『いかにして人が高い世を知るにいたるか』
(鈴木一博訳)の「条件」の章において、
「人がだんだんに
 みづからを外の世に沿はせなくして、
 そのかはりに、
 いきいきとした内の生を育むこと」
の大切さが書かれてあるが、
それはこれからの季節に
わたしたちが勤しむこととして、
意識されていいところだ。
 
 
しかし、その内の生を育むことが、
みづからの内に閉ぢこもることではないことも
述べられてゐる。
 
 
 
ーーーーーーーー
 
 
●静かに、ひとりきりで、
みづからを深める一時一時には、
みづからが生きたこと、
外の世が語りかけてきたことを、
まさしく静かに、ありのままに想つてみてほしい。
どの花も、どの動物も、どの振る舞ひも、
そのやうな一時において、
思ひもよらない秘密をあかすやうになる。
 
 
●享受した後に、
その享受したことから
なにかが顕れるやうにする人が、
みづからの知る才を培ひ、育てる。
その人が、きつと、
享受することだけをありのままに想ふとかではなく、
享受しつづけることを諦めて、
その享受したことを内なる働きによつて
消化するといふことをこそ習ひとするやうになる。
 
 
ーーーーーーーー
  
 
 
過ぎ行く現象の中で、
何が過ぎ行かず、留まるものか、さう問ふ練習。
 
 
外の世との交渉の中で、
みづからの共感・反感そのものを見つめる練習。
 
 
あのときの喜び、痛み、快、不快が、
何をわたしに教へてくれようとしてゐるのか。
さう問ふ練習。
 
 
それは、享受したこと、感覚したことを、
消化するといふこと。
 
 
そのやうな一時一時において、
「思ひもよらない秘密」があかされる道が
だんだんと啓かれてくる。
 
 
そして、もう一度、享受するといふこと、
外の世に己れを開くことの大切さが述べられる。
 
 
 
ーーーーーーーー
 
 
 
●<わたし>を世にむけて開いてほしい。
その人は、きつと、享受しようとする。
そもそも、享受すればこそ、
外の世がその人へとやつてくる。
その人が享受することに対して
みづからを鈍らせるなら、
周りから糧となるものを
取り込むことができなくなつた植物のごとくになる。
しかし、その人が享受することにとどまれば、
みづからをみづからの内に閉ざす。
その人は、その人にとつてはなにがしかであつても、
世にとつては意味をもたない。
その人がみづからの内においていかほど生きようとも、
みづからの<わたし>をすこぶる強く培はうとも、
世はその人を閉め出す。
世にとつてその人は死んでゐる。
 
 
●密やかに学ぶ人は、享受するといふことを、
ただみづからを世にむけて気高くする手立てと見てとる。
その人にとつては、享受するといふことが、
世について教へてくれる教へ手である。
しかし、その人は享受することで教へを受けたのちに、
仕事へと進む。
その人が習ふのは、習つたことを
みづからの智識の富として貯へるためではなく、
習つたことを世に仕へることのうちへと据ゑるためである。
 
 
 
ーーーーーーーー
 
 
 
夏から秋へ、そして来たる冬へと、
<わたし>を目覚めさせていくこと。
 
 
しかし、それは、「仕事」をすること、
「世に仕へること」へと繋げていくことによつてこそ、
その人の本当の糧、本当の力になつていく。
 
 
外の世との交渉を絶たないこと。
 
 
内において、メディテーションにおいて、
外の世のことを深めること。
 
 
そして、その深まりから、
外の世に働きかけていくこと。
 
 
それが、
密やかな学びにおける筋道だ。
 
 
 
 
わたしはいま、わたしのありやうをかう感じる、
世にあるものから遠ざかれば、
みづからにおいてみづからが消え失せ、
そして、己れの基の上にのみ立つならば、
みづからにおいてみづからをきつと殺してしまふ。
 
 
 
 

posted by koji at 17:49 | 大阪 ☁ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年08月16日

こころのこよみ(第19週) 〜繰り返し勤しむ〜



小磯良平「斉唱」.jpg
小磯良平「斉唱」
 
 

秘めやかさに満ちて新しく受けとめたものを
 
想ひ起こしつつ、包み込む。
 
それがわたしの勤しみの、さらなる意味となれ。
 
それは強められた己れの力を
 
わたしの内において目覚めさせ、
 
そして、
だんだんとわたしをわたしみづからに与へていくだらう。
 
          
 
 
Geheimnisvoll das Neu-Empfang'ne
Mit der Erinn'rung zu umschließen,
Sei meines Strebens weitrer Sinn: 
Er soll erstarkend Eigenkräfte
In meinem Innern wecken 
Und werdend mich mir selber geben.  
 

 
 
先週の『こころのこよみ』にあつた
「世のきざしのことば」。
 
 
それは、まさに、秘めやかさに満ちて、
内において、その人その人が、受け取るもの。
 
 
その「きざしのことば」は、真夏の暑さの中で、
これまでの感じ方、考へ方を、
拡げ、深め、壊してくれるやうなもの。
 
 
皆さんは、この夏、
どのやうな「きざしのことば」を
受けとめられただらうか。
 
 
どのやうな「秘めやかなことば」を
聴き取られたであらうか。
 
 
もし、それを、この週、何度も何度も、
意識の上に想ひ起こしつつ、
こころのまんなかに置いてみるなら。
 
 
その「ことば」を何度もこころに包み込んでみるなら。
 
 
その繰り返し勤しむことが、
その「ことば」と、<わたし>を、
だんだんと、ひとつにしていく。    
 
 
「世のことば」が、
「わたしのことば」になつていく。    
 
 
地味だけれども、
そのやうな繰り返しの行為こそが、
<わたし>の力を強めてくれる。
 
 
わたしのわたしたるところが、
だんだんと、目覚めてくる。
 
 
今週の「こころのこよみ」に沿つて練習すること。
 
 
それは、秋からの、
新しい<わたし>への、
備へとなるだらう。
 
  

 
秘めやかさに満ちて新しく受けとめたものを
想ひ起こしつつ、包み込む。
それがわたしの勤しみの、さらなる意味となれ。
それは強められた己れの力を
わたしの内において目覚めさせ、
そして、
だんだんとわたしをわたしみづからに与へていくだらう。
 
 

posted by koji at 08:34 | 大阪 ☀ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年08月09日

こころのこよみ(第18週) 〜新しい衣(ころも)〜


 
20100226091019.jpg
藤島武二『蝶』


 
わたしはこころを拡げることができるのか、
 
受けとつた世のきざしのことばを
 
己れと結びつけつつ。
 
わたしは予感する、きつと力を見いだすことを。
 
こころをふさはしくかたちづくり、
 
精神の衣へと織りなすべく。
 
           
 
 
Kann ich die Seele weiten,               
Daß sie sich selbst verbindet               
Empfangnem Welten-Keimesworte ?           
Ich ahne, daß ich Kraft muß finden,           
Die Seele würdig zu gestalten,              
Zum Geisteskleide sich zu bilden. 
 
 
 
 
前の週の『こよみ』において、
世のことばが語りかけてきた。
 
 
「わたしの世のひろがりをもつて、
 あなたの精神の深みを満たしなさい」と。
 
 
夏の世の大いなるひろがり、
それに沿ふことができたなら、
それは沿ふ人に、
これまでの生き方、考へ方、感じ方を
越えるやうなものを、
「贈りもの」として与へてくれる。
 
 
これを読んでくださつてゐる皆さんには、
どのやうな「夏の贈りもの」が贈られただらうか。
 
 
その「贈り物」を受け入れる器。
 
 
その器が「こころ」であるならば、
わたしはみづからにあらためてかう問ふことになる。
 
 
「わたしはこころを拡げることができるのか」
 
 
その問ひに応へていくことが、
この夏から秋へと移つていく時期のテーマだと感じる。
 
 
新しい考へ、価値観、ライフスタイル、
人生観、世界観、それらを「己れと結びつけつつ」。
 
 
しかし、その結びつけは、きつと、
外からの結びつけではなく、
内からおのづと生じてくる結びつきになる。
 
 
夏といふ季節を精神的に生きる。
 
 
それは、
こころをこれまでよりも拡げることである。
 
 
「わたしは予感する、きつと力を見いだすことを」
 
 
それは、こころを拡げ、
こころを、精神から織られた衣(ころも)にする力。
 
 
衣(ころも)とは、万葉の昔から、
「恋衣」「旅衣」「染衣」のやうに、
深く、活き活きと、しみじみと息づく、
生活感情を言ふことばとしてよく使はれてゐたさうだ。
(白川静『字訓』より)
 
 
「ころも」も「こころ」も、
三つの o の母音から成り立つ、やまとことば。
 
 
それは、本来、精神から凝(こご)るものとしての動き、
わたしたちのからだにまとふものとしての動きを、
音韻として顕はにしてはゐないだらうか。
 
 
こころといふものが、
精神といふわたしのわたしたるところ・
わたしの芯〈わたしはある〉から、織りなされる。
 
 
そして、からだにまとふ衣となつて、
身のこなし、振る舞ひのひとつひとつに顕はれる。
しなやかに、柔らかく、輝きつつ。
 
 
そんな内なる力をきつと見いだす。
 
 
この夏から秋の初めにかけてのテーマであり、
学び続けてゐる人への励ましでもあるだらう。
 
 
 

わたしはこころを拡げることができるのか、
受けとつた世のきざしのことばを
己れと結びつけつつ。
わたしは予感する、きつと力を見いだすことを。
こころをふさはしくかたちづくり、
精神の衣へと織りなすべく。
 
  
 
 

 
 
 



posted by koji at 07:51 | 大阪 | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年08月02日

こころのこよみ(第17週) 〜ざわめきが止む〜


IMGP0162-ab123.JPG


 
世のことばが語る、
 
そのことばをわたしは感官の扉を通して
 
こころの基にまでたづさへることを許された。
 
「あなたの精神の深みを満たしなさい、
 
 わたしの世のひろがりをもつて。
 
 いつかきつとあなたの内にわたしを見いだすために」
 
  

Es spricht das Weltenwort,
Das ich durch Sinnestore
In Seelengründe durfte führen:
Erfülle deine Geistestiefen
Mit meinen Weltenweiten,
Zu finden einstens mich in dir.  
 
 

 
閑さや岩にしみ入る蝉の声  松尾芭蕉
 
 
「蝉の声」は耳に聞こえる。
時に、聴く人の全身を圧するやうに鳴り響く。
  
 
「閑さ」はどうだらうか。
「閑さ」は、耳を傾けることによつて、
聞き耳を立てることによつて、
初めて聴くことができるものではないだらうか。
 
 
「閑さ」とは、本来、
耳といふ感官を超えた「感官」によつて
受け止められるものではないだらうか。
 
 
芭蕉は、「蝉の声」を通して、
「閑さ」を聴いたのだらうか。
「閑さ」を通してあらためて、
「蝉の声」が聞こえてきたのだらうか。
 
 
そして、芭蕉は、
「蝉の声」の向かうに、
「閑さ」の向かうに、
何を聴いたのだらうか。
 
 
芭蕉は、旅しながらメディテーションをする中で、
そのふたつの聴覚の重なりの向かうに、
己れが全身全霊で何かを受けとめるありさまを
「おくのほそ道」に記した。
 
 
それは、
芭蕉によるひとつの精神のドキュメントであり、
心象スケッチであり、
春から秋にかけての「こころのこよみ」であつた。
 
 
 
 
この週の『こころのこよみ』に、
「世のことばが語る」とある。
 
 
わたしもことばを語る。
 
 
しかし、世がことばを語るとはどういふことだらうか。
「世のことば」が語るとはどういふことだらうか。
 
 
その「ことば」は、
この肉の耳には聞こえないものである。
耳といふ感官を超えた「感官」によつて
受け止められるものである。
メディテーションを通して、
「こころの基にまでたづさへることを許された」
ことばである。
 
 
 

『いかにして人が高い世を知るにいたるか』より
  
 
 人が人といふものの中心を
 いよいよ人の内へと移す。
 
 
 人が安らかさの一時(ひととき)に
 内において語りかけてくる声に耳を傾ける。
 
 
 人が内において精神の世とのつきあひを培ふ。
  
  
 人が日々のものごとから遠のいてゐる。
  
  
 日々のざわめきが、その人にとつては止んでゐる。
  
 
 その人の周りが静かになつてゐる。
  
 
 その人がその人の周りにあるすべてを遠のける。
  
 
 その人が、また、
 そのやうな外の印象を想ひ起こさせるところをも
 遠のける。
  
 
 内において安らかに見遣るありやう、
 紛れのない精神の世との語らひが、
 その人のこころのまるごとを満たす。
  
 
 静けさからその人への語りかけがはじまる。
  
 
 それまでは、
 その人の耳を通して響きくるのみであつたが、
 いまや、その人のこころを通して響きくる。
  
 
 内なる言語が ―内なることばが― 
 その人に開けてゐる。
  
 

 
この夏の季節にメディテーションをする中で、
精神の世が語りかけてくることば。
 
 
 あなたの精神の深みを満たしなさい、
 わたしの世のひろがりをもつて。
 いつかきつとあなたの内に
 わたしを見いだすために。
 
 
この「いつか」とは、クリスマスの頃であらう。
この週の対のこよみが、第36週である。http://kotobanoie.seesaa.net/article/472735195.html
 
 
そこでは、「世のことば」キリストが、
人のこころの深みにおいて密やかに語る。
 
 
芭蕉は、俳諧といふことばの芸術を通して、
四季の巡りと共に深まりゆくこころの巡りを
詠つた人である。
 
 
彼はいまも、
夏の蝉の声といふ生命が漲り溢れてゐる響きの向かうに、
静けさを聴き取り、
その静けさの向かうに、
「世のことば」を聴いてゐるのではないか。
 
 
 
 

世のことばが語る、
そのことばをわたしは感官の扉を通して
こころの基にまでたづさへることを許された。
「あなたの精神の深みを満たしなさい、
わたしの世のひろがりをもつて。
いつかきつとあなたの内にわたしを見いだすために」
 
 
 

posted by koji at 10:07 | 大阪 ☁ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
■ 新着記事
民族の精神・こころ・からだ (12/04)
こころのこよみ(第35週) (11/29)
「母の国 滋賀」でのことばづくり (11/28)
目に見えない方々へお返しをして行くとき (11/26)
コトノハ農園のサツマイモ 紅はるか (11/24)
こころのこよみ(第34週) (11/22)
教師は歌いましょう! (11/22)
こころのこよみ(第33週) (11/16)
瞑想 それは幼児期の三年間の力を甦らせる営み (11/13)
昔話や神話を信じること (11/10)
■ カテゴリ
クリックすると一覧が表示されます。
ことばづくり(言語造形)(240)
アントロポゾフィー(180)
断想(565)
講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告(446)
こころのこよみ(魂の暦)(479)
動画(317)
農のいとなみ(1)
うたの學び(88)
神の社を訪ねて(37)
アントロポゾフィーハウス(92)
声の贈りもの(5)
読書ノート(71)
絵・彫刻・美術・映画・音楽・演劇・写真(40)
ことばと子どもの育ち(13)
「ことよさしの会」〜言語造形に取り組む仲間たち〜(11)
■ 最近のコメント
待ち望まれてゐることばの靈(ひ)〜「こころのこよみ」オンラインクラスのご案内〜 by 諏訪耕志 (04/03)
こころのこよみ(第1週) 〜甦りの祭り(復活祭)の調べ〜 by (04/09)
12/10(土・夜)12/11(日・朝)オンライン講座「星の銀貨」を通して〜人への無理解と憎しみについて〜 by アントロポゾフィーハウス (12/07)
穏やかで安らかなこころを持ち続けること、しかし、目覚めること by 諏訪耕志 (04/23)
教育の根本 by 諏訪耕志 (06/21)
■ 記事検索
 
RDF Site Summary
RSS 2.0