[こころのこよみ(魂の暦)]の記事一覧

2019年11月13日

こころのこよみ(第32週) 〜世の力の源は決して枯れない〜



林武「花」.jpg
林武「花」

 
 
わたしは稔りゆく己れの力を感じる。
 
その力は強められたわたしを世に委ねる。
 
わたしのわたしたるところを力強く感じる、
 
明るみへと向かふべく、
 
生きることの仕合はせが織りなされる中で。
 
 
  
 
Ich fühle fruchtend eigne Kraft
Sich stärkend mich der Welt verleihn;      
Mein Eigenwesen fühl ich kraftend        
Zur Klarheit sich zu wenden             
Im Lebensschicksalsweben.              
 
 
 
 
この秋といふ季節に、
稔りゆく<わたし>の力は、
どこから得られるか。
 
 
わたしがわたしみづからを
支へ引き上げていくための力は、
どこから得られるか。
 
 
「稔りゆく己れの力」
「強められたわたし」
「わたしのわたしたるところ」
 
 
これらは、みな、
己れから己れを解き放ち、
己れの小なる力を諦め、
大なるものに己を委ね、任せられるとき、
感じられるものではないだらうか。
 
 
大いなるもの、それを「世」と言ふのなら、
世の力の源は決して枯れることがない。
 
 
その源から、
<わたし>は常に力をiいただいてゐる。
 
 
その繋がりを信頼して、
今日も仕事をしていかう。
 
 
今日といふ一日、明日、あさつて・・・
「生きることの仕合はせ(運命)が
 織りなされる中で」何が待つてゐるのだらう。
 
 
小さなわたしが
あれこれと采配していくのではなく、
大いなるものがわたしの生を
織りなしてくれてゐることへの
信頼を育みつつ、
勇気をもつて、今日も仕事をしていかう。
 
 
そのときこそ、
「わたしのわたしたるところ」
「強められたわたし」が、
きつと顕れてくる。
 
 
今日も、ていねいに、
牛のやうにひたすら押しながら、
「明るみへと向かふべく」仕事をしていかう。
 
 
 
 
わたしは稔りゆく己れの力を感じる。
その力は強められたわたしを世に委ねる。
わたしのわたしたるところを力強く感じる、
明るみへと向かふべく、
生きることの仕合はせが織りなされる中で。
 
 
 

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2019年11月01日

こころのこよみ(第31週) 〜「事」と「言」と「心」〜


本居宣長.jpg
本居宣長像
 
 
 
精神の深みからの光が、
 
まるで太陽のやうに輝きだす。
 
それは生きる意欲の力になり、
 
そして、おぼろな感官に輝きいり、
 
力を解き放ち、
 
こころから創らうとする力を
 
人の仕事において、熟させる。
 
  
 
Das Licht aus Geistestiefen, 
Nach außen strebt es sonnenhaft.
Es wird zur Lebenswillenskraft
Und leuchtet in der Sinne Dumpfheit, 
Um Kräfte zu entbinden, 
Die Schaffensmächte aus Seelentrieben 
Im Menschenwerke reifen lassen.           
 
  
 
  
「精神の深みからの光が、
 まるで太陽のやうに輝きだす」
 
 
わたしたちは、太陽の輝きには馴染みがある。
 
 
しかし、上の文を読んで、
「まるで太陽のやうに輝きだす
 精神の深みからの光」
をどう捉へていいものか、
途方に暮れはしないだらうか。
 
 
この文、これらのことばの連なりから、
どのやうなリアリティーを
摑むことができるだらうか。
 
 
ことばのリアリティーを摑むために、
何度もこころの内に唱へ、
口ずさんでみると、
どうだらうか。
 
 
水が集つて流れるやうに声に出すことを
「詠む」といふさうだが(白川静『字訓』)、
そのやうな活き活きとした息遣ひで味はつてみる。
 
 
また、
その川底に光るひとつひとつの石を見るやうに、
一音一音、味はふやうにしてみる。
 
 
そのやうにことばを味ひ、
ことばの響きに耳を澄まさうとすることにより、
こころの静けさとアクティビティーを通して、
「精神の深みからの光」が、
「事」として、だんだんと顕れてくる。
 
 
ここで言はれてゐる
「事」と「言」が重なつてくる。
 
 
「考へる」が「感じる」とかさなつてくる。
 
 
また、過去に幾度か経験した
「輝きだす」瞬間を想ひ起こし始める。
 
 
そのやうにして、
リアリティーの糸口が見いだされてくるにつれて、
いまこの瞬間において、
「精神の深みからの光」が、
こころに降りてくるのを感じ、覚える。
 
 
そのやうにして、
「事(こと)」と
「言(ことば)」と
「心(こころ)」が、
光の内に重なつてくる。
 
 
その重なりが、
こころの内なる化学反応のやうに
生じてくるのを待つ。
 
 
 
  
 

「精神の深みからの光」
 
 
その「光」こそが、
「生きる意欲の力になり」、
「こころから創ろうとする力を、
 人の仕事において熟させる」。
 
 
意欲をもつて生きるとは、
どういふことなのか。
自分の仕事において創造力が熟してくるとは、
どういふことなのか。
 
 
まづ、
内なる「光」といふもののリアリティーを得ることで、
それらのことが分かる道が開けてくる。
こころを暖め、熱くさせながら。
 
 
光だけを生きるのではなく、
熱をもつて仕事に向かい始める。
 
 
「考へる」「感じる」が、
さらに「欲する」とかさなつてくる。
 
 
「事」と「言」と「心」が、
さらに幾重にもかさなつてくる。
 
 
今週、
精神の光・考へる働きが、
活き活きと感じる力となり、
生きる意欲の力になり、
仕事を熟させていく。
 
 
その「事」を、
ことばとこころで辿つていかう。
 
 
 
 
 
精神の深みからの光が、
まるで太陽のやうに輝きだす。
それは生きる意欲の力になり、
そして、おぼろな感官に輝きいり、
力を解き放ち、
こころから創らうとする力を
人の仕事において、熟させる。
 
  
 



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2019年10月28日

こころのこよみ(第30週) 〜秋の喜び、垂直性〜


384438469.jpg
 
 
 
こころの太陽の光の中でわたしに生じる、
 
考へることの豊かな実り。
 
みづからを意識することの確かさにおいて、
 
すべての感じ方が変はる。
 
わたしは喜びに満ちて感覚することができる、
 
秋の精神の目覚めを。
 
「冬はわたしの内に、
 
こころの夏を目覚めさせるだらう」
 
 
 
Es sprießen mir im Seelensonnenlicht  
Des Denkens reife Früchte, 
In Selbstbewußtseins Sicherheit
Verwandelt alles Fühlen sich.
Empfinden kann ich freudevoll
Des Herbstes Geisterwachen:
Der Winter wird in mir
Den Seelensommer wecken.  
 
 
 
 
秋が深まつてきた。
 
 
それまでの曖昧で不安定だつた
考へる力の焦点が定まつてきて、
本当にこころから考へたいことを
考へられるやうになつてくる。
 
 
考へたいことを考へる。
 
 
その内なる行為こそが、
こころに太陽の光をもたらす。
 
 
それは、わたしの場合、
本当に喜ばしいことで、
考へる力に濁りがなくなつてくると、
感情も清明になり、
意欲にも火がついてくるのだ。
 
 
そして、本、文章、テキスト、さらには、
人とのいい出逢ひに恵まれるやうになつてくる。
 
 
生きることの意味。理想。希望。
 
 
それらの考へと情が、
わたしにとつて何よりも気力と意欲、
そして喜びを起こしてくれる。
 
 
そのことを実感できる日々はありがたいものだ。
 
 
見えるものについてただ無自覚に考へ、
なんとなく思ひ続けてゐるよりも、
見えないものへの信を深めるやうな、
考へと情を育んでいくことが、
どれだけ、こころを目覚めさせることか!
 
 
ものがただ並んでゐる平面を生きることよりも、
ものといふものにおける垂直を生きること。
 
 
秋から冬への生活とは、
そのやうな「ものへゆく道」
「深みを見いだす生活」になりえる。
 
 
日々のアップ・アンド・ダウンはある。
 
 
しかし、週を経るごとに、
こころが織り目正しく織りなされていく。
 
 
そして、「わたしがあること」の
安らかさと確かさをもたらしてくれる。
 
 
ありがたいことだと思ふ。
 
 
 
 
こころの太陽の光の中でわたしに生じる、
考へることの豊かな実り。
みづからを意識することの確かさにおいて、
すべての感じ方が変はる。
わたしは喜びに満ちて感覚することができる、
秋の精神の目覚めを。
「冬はわたしの内に、
こころの夏を目覚めさせるだらう」
 
 
 

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2019年10月20日

こころのこよみ(第29週) 〜コトバ第一ナリ〜



Marina Fernandes Calache詩.jpg
Marina Fernandes Calache「詩」

 
  
みづから考へることの光が、

内において力強く輝く。

世の精神の力の源から、

意味深く示される数々の験し。

それらはいま、わたしへの夏の贈りもの、

秋の静けさ、そしてまた、冬の希み。
 
 
 
 
Sich selbst des Denkens Leuchten 
Im Innern kraftvoll zu entfachen, 
Erlebtes sinnvoll deutend
Aus Weltengeistes Kräftequell,
Ist mir nun Sommererbe,
Ist Herbstesruhe und auch Winterhoffnung.  
 
 
 
 

改めてこの夏を振り返つて、
夏といふ季節からの贈り物は、何だらう、
さう問ふてみる。
 
 
それは、「ことば」であつた。
 
 
「わたしはひとりである」といふ「ことば」だつた。
 
 
いま、秋になり、外なる静けさの中で、
その「ことば」を活発に消化する時であることを
わたしは感じてゐる。
 
 
そして、来たる冬において、
その「ことば」は、血となり、
肉となつて、
生まれ出る。
 
 
夏に受けとられ、
秋に消化された「ことば」が、
冬には、
「己れのことば」、
「わたしの内なるひとり生みの子」、
「わたしの仕事(ことに仕へる)」として、
世へと発信される。
 
 
そんなクリスマスへの希みがある。
 
 
夏に贈られた「ことば」があるからこそ、
この秋、その「ことば」を基点にして、
自分の情を鎮めることができる。
自分の考へを導いていくことができる。
自分の意欲を強めていくことができる。
そして、冬へと、クリスマスへと、備へるのだ。
 
 
 
 
 
メディテーションをする上にも、
余計なことを考へないやうにするために、
飛び回る鬼火のやうな考へや情を鎮めようとする。
 
 
しかし、いくら頑張つてみたところで、
どうにも鎮まらない時がよくある。
 
 
そんな時、
メディテーションのために
与へられてゐる「ことば」に沿ひ、
その「ことば」に考へを集中させていくと、
だんだん、おのづと、
静かで安らかなこころもちに至ることができる。
 
 
「ことば」を先にこころに据えるのだ。
 
 
その「ことば」に沿ふことによつて得られる感覚。
 
 
日本人においては、
特に、万葉の歌を歌ふ頃から時代を経て、
「古今和歌集」の頃もさらに経て、
「新古今和歌集」が編まれた頃、
その「ことば」の感覚が、
意識的に、尖鋭的に、磨かれてゐたやうだ。
 
 
歌を詠むこと、詠歌において、
「題」を先に出して、
その「題」を基にして、
まづ、こころを鎮め、こころを整へて、
その後、歌を詠んだのである。
 
 
こころの想ふままに歌を歌へた時代は、
だんだんと、過ぎ去つていつたのだ。
 
 
こころには、あまりにも、
複雑なものが行き来してゐて、
それが、必ずしも、
歌を詠むに適した状態であるとは限らない。
 
 
 
ーーーーーー
 
 
詠歌ノ第一義ハ、心ヲシヅメテ、妄念ヲヤムルニアリ
 
 
トカク歌ハ、心サハガシクテハ、ヨマレヌモノナリ
 
 
コトバ第一ナリ
 
 
(本居宣長『あしわけ小舟』より)
 
 
 
ーーーーーーー
 
 

「ことば」が、
こころの内に据えられてあるからこそ、
「ことば」といふ手がかりがあるからこそ、
わたしたちはみづからのこころのありやうを、
手の内に置くことができるやうになる。
 
 
わたしたち日本人は、長い時を経て、
歌を詠むことを通して、
「ことば」の世界に直接入り、
「ことば」の力に預かりながら、
己れのこころを整へ、
情を晴らし、
問ひを立て、
明日を迎へるべく意欲をたぎらしてゐた。
 
 
秋になり、
わたしたちは夏に贈られた「ことば」を通して、
妄念を鎮め、
こころを明らかにしていくことができる。
さうして初めて、
「みづから考へることの光が、
 内において力強く輝く」。
 
 
歌を何度も何度も口ずさむやうに、
メディテーションを深めていくことが、
来たる冬への備へになるだらう。
 
 
 
 
 
みづから考へることの光が、
内において力強く輝く。
世の精神の力の源から、
意味深く示される数々の験し。
それらはいま、わたしへの夏の贈りもの、
秋の静けさ、そしてまた、冬の希み。
 
 
 
 
諏訪耕志記

 
 


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2019年10月15日

こころのこよみ(第28週) 〜こころの太陽の力〜


104_7.jpg
棟方志功『R火頌(かぎろひしやう)』より
保田與重郎の和歌「火の國の阿蘇の神山神の火の魂依りしづか燃えていませり」


 

わたしは、内において、新しく甦ることができる。
 
己れであることの拡がりを感じる。
 
そして、力に満ちた考への輝きが、
 
こころの太陽の力から、
 
生きることの謎を解いてくれる。
 
いくつもの願ひを満たしてくれる。
 
これまで希みのつばさは、弱められてゐたのに。
 
 
 
Ich kann im Innern neu belebt          
Erfühlen eignen Wesens Weiten         
Und krafterfüllt Gedankenstrahlen        
Aus Seelensonnenmacht             
Den Lebensrätseln lösend spenden,        
Erfüllung manchem Wunsche leihen,       
Dem Hoffnung schon die Schwingen lähmte.   
 
 
 
わたしたちひとりひとりは、こころにおいて、アクティブになれる。
 
それは、影のやうな様々な死んだ考へを漠然と抱くのを止めて、積極的に、こころの熱くなるやうな考へをリアルに持つときだ。
 
自分自身が本当に考へたいことのみを考へるときだ。
 
そのとき、考へが、干からびた枠組みだけのものから、こころを熱く息づかせるいのちを持ち始め、こころは新しく甦る。
 
太陽は夏の間、外側に照り輝いてゐたけれども、秋からは、こころの内に輝き始めることができる。
 
そして15世紀から始まつてゐる新しい時代において、人が抱く考へがどんどん干からびたものになつてきたのも、ちやんとした理由がある。
 
それは、わたしたちが生きてゐる20世紀から21世紀にかけて、その死んだ考へを、ひとりひとりが意識的に、アクティブに、こころの内でいのちあるものに変容させるためだ。
 
考へを活き活きとしたみずみずしいものに。
 
その変容は、秋といふ季節において起こり得ることであり、またわたしたちの時代において起こし得ることである。
 
「内において、新しく甦る」
「己れであることの拡がり」
「力に満ちた考への輝き」
「こころの太陽の力」
 
なんと、力強い、いのちのみずみずしさを湛えたことばたちだらう。
 
ことばを繰り返し繰り返し詠むことで、ことばに湛えられてゐるいのちを汲み出さう。
 
声に出すことで、考へを活き活きと深めていかう。
 
考へがいのちを得て、こころが熱く息づく。
 
こころに太陽が輝き始める。
 
 
 
わたしは、内において、新しく甦ることができる。
己れであることの拡がりを感じる。
そして、力に満ちた考への輝きが、
こころの太陽の力から、
生きることの謎を解いてくれる。
いくつもの願ひを満たしてくれる。
これまで希みのつばさは、弱められてゐたのに。
 
 
 
 


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2019年10月06日

こころのこよみ(第27週) 〜世を信頼する〜


セザンヌ「庭師 ヴァリエ」.jpg
セザンヌ「庭師 ヴァリエ」

 
わたしといふものの深みへと進みゆくほどに、
 
予感に満ちた憧れが呼び起こされる。
 
わたしはわたしを見いだす、みづからを見てとりつつ、
 
夏の太陽から贈られた萌しとして。
 
秋の調べの中で熱く息づく、
 
こころの力として。
 
 
In meines Wesens Tiefen dringen:
Erregt ein ahnungsvolles Sehnen,      
Daß ich mich selbstbetrachtend finde,     
Als Sommersonnengabe, die als Keim
In Herbstesstimmung wärmend lebt    
Als meiner Seele Kräftetrieb.  
 
 
 
自然はリズムを刻んでゐる。世はリズムを刻んでゐる。
 
わたしもリズムを刻んで生きていくことができる。
 
この『こころのこよみ』は、そのことを助けるひとつの「道」だ。
 
道といふものは、先人が歩んでくれたからこそ、いま、そこにある。
 
先人への信頼が、その道への信頼となり、それが更に、人といふものへの信頼、世といふものへの信頼へと育つてゆく。
 
このメディテーションの道を歩んでいくことで、世のリズムと我がこころのリズムとを重ね合はせる練習ができる。
 
それは、大いなる世の生命と己れの生命とを重ね合はせていく作業だ。
 
この『こころのこよみ』に沿つて、夏から秋へと歩んでくると、この秋から冬にかけて、新しい「わたし」にきつと出逢ふといふ予感に満ちた憧れに満たされるのを感じる。
 
その新しいわたしは、熱く息づくこころの力として、新しいアイデアと新しい意欲に通はれようとしてゐるのだ。
 
わたしは、何も力んで、何かをしようといふのではない。
 
世のリズムが、わたしにその新しいわたしを授けてくれるのを、待つことを習へばいい。
 
世を信頼するのだ。
 
 
 
 
わたしといふものの深みへと進みゆくほどに、
予感に満ちた憧れが呼び起こされる。
わたしはわたしを見いだす、みづからを見てとりつつ、
夏の太陽から贈られた萌しとして。
秋の調べの中で熱く息づく、
こころの力として。
 
 


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2019年10月03日

こころのこよみ(第26週) 〜ミヒャエル祭の調べ〜



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月岡芳年 『素戔嗚尊出雲の簸川上に八頭蛇を退治したまふ図』
 


自然、その母のやうなありやう、
 
わたしは、それを、意欲において担ふ。
 
そして、わたしの意欲の火の力、
 
それが、わたしの精神の萌しのかずかずを鍛へる。
 
その萌しのかずかずが、みづからの情を生む、
 
わたしをわたしにおいて担ふべく。   (鈴木一博訳)
 
  
 
Natur, dein mütterliches Sein,
Ich trage es in meinem Willenswesen;      
Und meines Willens Feuermacht,         
Sie stählet meines Geistes Triebe,         
Daß sie gebären Selbstgefühl           
Zu tragen mich in mir.             
 
 
 
 
先週の『こころのこよみ』で、「内なるこころの光と熱。これほど、頼りになるものがあるだらうか。」と書いた。
 
この頼りになるものを、わたしたちひとりひとりの人にもたらさうとしてくれてゐる精神存在がゐる。さうシュタイナーは語つてゐる。
 
大いなる精神存在、ミヒャエル。
 
この存在は、どのやうにして、この時期に、わたしたちのこころとからだに働きかけて下さつてゐるのだらうか。
 
今週の『こよみ』を読んでみる。口ずさんでみる。
 
息遣ひも活き活きと、声を解き放ちながら唱へてみる。
 
何度もこころとからだで味わつてみる。
 
意欲をもつて、ことばとつきあつてみる。
 
さうすると、普段以上の意欲をもつてしなければ、何も感じられないことに気づく。
 
そして、積極的にことばを唱へるほどに、わたしはこころへと立ち上つてくる意欲といふ熱があればこそ、我がこころとからだが活き活きとしてくるのを感じる。
 
その熱をもつてこそ、もつとも近く親しい「自然」である我がからだとこころを担つてゐると感じることができる。
 
意欲とは、わたしのからだへと、こころへと、下から、足元から、立ち上がつてくる熱である。
 
それは熱心さであり、こころざしの顕れである。
 
その「意欲の火の力」があつてこそ、その火を、わたしが、燃やすからこそ、わたしのからだとこころに、上から、天から、降り注いでくる「考へ・想ひ・こころざし・精神の萌しのかずかず」である光が、だんだんと暖められ、鍛へられる。
 
わたしたちは、この時期、上からの光(考へ)と、下からの熱(意欲)とを、織りなしあわせる。
 
その織りなしあいが、こころに「みづからの情」を生む。
 
その情とは、「わたしは、わたしだ」「わたしは、ひとりだ」といふこころの真ん中に生まれる情だ。
 
その情をもつて、わたしといふ「ひとりの人」は活き活きと甦つてくる。
 
恐れや不安や物思ひなどを凌いで、「ひとりの人」として、この世に立ち、目の前にあることにこころから向かつていくことができる。
 
光としての考へが、こころを暖め熱くするものへと練られ、実行可能なものへと鍛へられていく。
 
 
 
 
そのやうに、自分のこころとからだで、『こころのこよみ』のことばをひとつひとつ味はつていくと、シュタイナーが多くの著書や講演で語つた精神存在を、リアルに親しく感じることができる通路が開かれていくし、さうしていくことによつて、実人生を安らかに確かに積極的に歩んでいくことができると実感する。
 
 
 
これからの秋から冬にかけて、外なる闇と寒さがだんだんと深まつてくる。
 
そしてややもすれば、闇と冷たさがこころにまで侵蝕してくる。
 
そんな時に、内なるこころの光と熱を、ひとりひとりの人がみづからの力で稼ぐことができるやうにと、共に一生懸命働いて下さつてゐるのが、ミヒャエルだ。
 
一方、闇と寒さを人にもたらす者、それがミヒャエルの当面の相手、アーリマンだ。
 
人を闇と寒さの中に封じ込めようとしてゐるそのアーリマンの力の中に、剣の力をもつて、鉄の力をもつて、切り込み、光と熱を人のこころにもたらす助けを、秋から冬の間にし、毎年毎年、ひとりひとりの人が、キリスト・イエスが生まれるクリスマスを、こころに清く備へ、整へるのを助けて下さるのが、ミヒャエルだ。
 
シュタイナーは『こころのこよみ』を通して、ことばの精神の力を四季の巡る世に打ち樹てようとした。
 
祝祭を、世における大いなる時のしるしとして、ひとりひとりの人がみづからのこころにおいて新しく意識的に創つていくことができるやうにと、『こころのこよみ』を書いた。
 
「こよみ」とは、
事(こと)をよむことであり、
言(ことば)をよむことであり、
心(こころ)をよむことである。
 
意識的に四季を生きること。
 
四季を『こころのこよみ』とともに生きること。
 
それは、地球をも含みこむ大いなる世とともに精神的に生きるといふ新しい生き方を、わたしたちが摑む手立てになつてくれるだらう。
 
また、みづからの狭い枠を乗り越えて、こころの安らかさと確かさと積極さを取り戻す手立てにもなつてくれるだらう。
 
 
 
 
自然、その母のやうなありやう、
わたしは、それを、意欲において担ふ。
そして、わたしの意欲の火の力、
それが、わたしの精神の萌しのかずかずを鍛へる。
その萌しのかずかずが、みづからの情を生む、
わたしをわたしにおいて担ふべく。
 
 


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2019年09月30日

こころのこよみ(第25週) 〜仕事の季節〜


「《受難》1 受難」1935年.jpg
ルオー「《受難》1 受難」1935年


昨日はミヒャエル祭の日でしたが、毎年『こころのこよみ』の週ごとに進むペースを、祝祭日ごとに、緩やかにですが速めたり遅くしたりします。
 
と、いふことで、先日、第24週を掲載したばかりですが、今日、第25週を掲載し、また後日、引き続き「ミヒャエル祭の調べ」である第26週も掲載していきたいと思ひます。
 
 
 

 
 
わたしはいま、わたしを取り戻し、
 
そして、輝きつつ、内なる光が拡がりゆく、
 
空間と時の闇の中へと。
 
眠りへと自然がせきたてられるとき、
 
こころの深みはきつと目覚めてゐる。
 
そして、目覚めつつ、太陽の熱を担ひゆく、
 
寒い冬のさなかへと。
 
  
 
Ich darf nun mir gehören          
Und leuchtend breiten Innenlicht          
In Raumes- und in Zeitenfinsternis.   
Zum Schlafe drängt natürlich Wesen,        
Der Seele Tiefen sollen wachen           
Und wachend tragen Sonnengluten      
In kalte Winterfluten.   
 
  
 
 
陽の光と熱を浴びながら歩き回る夏の彷徨が終はつて、静かに立ち止まり、内なるこころの光と熱を生きていく秋が始まつてゐる。
 
内なるこころの光と熱によつて、こころが目覚めてゐるといふこと。

「わたしがわたしである」ことに目覚めてゐるといふこと。
 
そして、こころが生きる情熱を感じてゐるといふこと。
 
これほど、頼りになるものがあるだらうか。
 
これがあれば、秋から冬にかけて、たとへ外の世が生命力を失つていき、枯れていつても、内なるこころは、きつと、「ひとりのわたし」として、活き活きと目覚めてゐることができる。
 
夏にいただいた太陽の光と熱の大いなる働きを、内なるこころの光と熱としていく。
 
そして、来たる冬の寒さのさなかへと意欲的にそのこころの光と熱を注ぎ込んでいくことができる。
 
光と熱。
 
それはいまやわたしのこころの内から発しやうとしてゐる。
 
そしてこれからやつてくる冬の闇と寒さとのコントラストを際立たせようとしてゐる。
 
太陽の光と熱と共にあの夏をからだ一杯で生きたからこそ、この秋があるのだ、そして、この秋が、冬へと引き続いていく。
 
そのやうな季節のつながり、くりなし、なりかはりをていねいに、確かに、感じること。それが、内なるこころのつながり、くりなし、なりかはりをも自覚することへと繋がつていく。
 
四季を生きること、一年のいのちを生きることが、みづからを知ることへとわたしを導いていく。
 
この『こころのこよみ』に沿ひつつ、四季それぞれに息づいてゐる「ことば」を聴く。
 
ならば、それらの「ことば」が、生命ある連続としてこころにしずしずと流れてくる。
 
夏、外なる光と熱の中にわたしは溶け込み、ある意味、わたしはわたしを見失つてゐた。
 
秋、わたしはわたしを取り戻し、萌してゐた希みが羽を拡げようとしてゐる。
 
さあ、これからが、稔りの季節、粛々とした仕事の季節だ。
 
 
 
 
 
わたしはいま、わたしを取り戻し、
そして、輝きつつ、内なる光が拡がりゆく、
空間と時の闇の中へと。
眠りへと自然がせきたてられるとき、
こころの深みはきつと目覚めてゐる。
そして、目覚めつつ、太陽の熱を担ひゆく、
寒い冬のさなかへと。
 
 
 


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2019年09月27日

こころのこよみ(第24週) 〜生産的であるもののみがまことである〜



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みづからを絶えず創り上げつつ、
 
こころは己れのありやうに気づく。
 
世の精神、それは勤しみ続ける。
 
みづからを知ることにおいて、新しく甦り、
 
そして、こころの闇から汲み上げる、
 
己れであることの意欲の稔りを。
 
 
 
Sich selbst erschaffend stets,         
Wird Seelensein sich selbst gewahr;      
Der Weltengeist, er strebet fort        
In Selbsterkenntnis neu belebt        
Und schafft aus Seelenfinsternis       
Des Selbstsinns Willensfrucht.     
 
 
 
創る人は幸ひだ。生み出す人は幸ひだ。育てる人は幸ひだ。
 
金と引き換へにものを買ひ続け、サービスを消費し続ける現代人特有の生活のありやうから、一歩でも踏み出せたら、その人は幸ひだ。
 
その一歩は、料理を作ることや、手紙や日記を書いてみることや、花に水をやることや、ゴミを拾ふことや、そんなほんの小さな行ひからでもいいかもしれない。
 
この手と脚を動かし、世と触れ合ふ。
 
そのやうな行為によつてこそ、みづからを創り上げることができ、その行為からこそ、こころは己れのありやうに気づく。
 
そして、「世の精神」。
 
それは、一刻も休まず、勤しみ、生み出してゐるからこそ、「世の精神」であり、だからこそ、太陽や月は周期を持ち、四季は巡る。
 
「世の精神」はそのやうにして絶えず勤しみながら、人に働きかけ、また人からの働きかけを受けて、絶えず己れを知りゆかうとしてゐる。
 
「世の精神」は、人にみづからを捧げ、愛を与へようとし、人から愛を受け取る。

その交流を通して、より確かに己れといふものを知りゆき、己れを知れば知るほど、そのつど新たに新たに「世の精神」は甦る。
 
「世の精神」には、人が必要なのだ。人の働きを待つてゐるのだ。
 
同じく、わたしたち人は、そんな「世の精神」に倣ひつつ、地球上のものといふものに働きかけ、ものを愛し、ものに通じていくことをもつて、みづからを新たに新たに知りつつ、たとへ、肉体は年老いても、そのつどそのつどこころは甦り、精神的に若返ることができる。
 
我が国、江戸時代中期を生きた稀代の国学者、本居宣長(1730-1801)も、そして、ゲーテ(1749-1832)といふ人も、その「世の精神」に倣ひ続け、「ものにゆく道」を歩き通した人であり、両人の残された仕事の跡を顧みれば、晩年に至るまでのその若々しい生産力・創造力に驚かされる。
 
シュタイナーは、そのゲーテのありかたをかう言ひ当ててゐる。
 
 
ーーーーー
 
ゲーテは、ひとたび、こんな意味深いことばを語りました。
 
「生産的であるもののみが、まことである」
 
それは、かういふことです。
 
人は、きつと、みづからを、まことの有するところとなします。
 
そして、まことは働きかけます。
 
そして、人が生きて歩むとき、まことは、まことであることの証を、生産的であることを通して見いだします。
 
これが、彼にとつて、まことの試金石でした。
 
すなはち、生産的であるもののみが、まことです。
 
(1908年10月22日 於ベルリン 講演「ゲーテの密やかなしるし」より)
  
ーーーーー
 
 
 
秋には、「己れの力」が「意欲の稔り」として発露してくる。
 
創ること、生み出すこと、育てることなどの行為は、わたしたち人にこころの確かさ、安らかさ、活発さを取り戻させてくれる。
 
そして、行為し、ものと交はり、人と交はる時に、各々人は初めて、己れのこころの闇に直面する。壁に突き当たる。
 
しかしながら、その己れの闇を認め、赦すことからこそ、「わたしはある」「わたしはわたしである」といふ、こころの真ん中の礎である情に目覚め、己れであることの意欲の稔りを、汲み上げていく。
 
「ものにゆくこと」「生産的・創造的であること」、それがまことへの道だ。
 
 
 
 
みづからを絶えず創り上げつつ、
こころは己れのありやうに気づく。
世の精神、それは勤しみ続ける。
みづからを知ることにおいて、新しく甦り、
そして、こころの闇から汲み上げる、
己れであることの意欲の稔りを。
 
 

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2019年09月25日

こころのこよみ(第23週) 〜霧のとばり〜


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秋めいて、和らぐ、
 
感官へのそそり。
 
光の顕れの中に混じる、
 
ぼんやりとした霧のとばり。
 
わたしは空間の拡がりの中で観る、
 
秋、そして冬の眠り。
 
夏はわたしに、
 
みづからを捧げてくれた。
 
 
 
Es dämpfet herbstlich sich            
Der Sinne Reizesstreben;            
In Lichtesoffenbarung mischen          
Der Nebel dumpfe Schleier sich.         
Ich selber schau in Raumesweiten         
Des Herbstes Winterschlaf.           
Der Sommer hat an mich            
Sich selber hingegeben.       
 
 

 
ゆつくりと和らいでくる陽の光。
 
それとともに、感官へのそそりも和らいでくる。
 
そして、秋が日一日と深まりゆくにつれて、過ぎ去つた夏と、これからやつてくる冬とのあひだに、立ちかかるかのやうな、霧のとばり、「秋霧」。
 
その「とばり」によつて、戸の向かう側とこちら側にわたしたちは改めてこころを向けることができる。
 
戸の向かう側において、過ぎ去つた夏における世の大いなる働きの残照をわたしたちは憶ひ起こす。
 
夏における外なる世の輝き。
 
そして夏における内なるこころの闇。
 
その外と内のありようを憶ひ起こす。
 
そして、戸のこちら側において、だんだんと深まつてくる秋における生命の衰へと、来たるべき冬における生命の死とを、わたしたちは予感する。
 
これからの冬における外なる世の闇。
 
そしてクリスマスに向かう内なるこころの輝き。
 
その外と内のありやうを予感する。
 
夏を憶ひ起こすことと、冬を予感すること。
 
こころのアクティブな働きをもつて、その間に、わたしたちは、いま、立つことができる。
 
さうすることで、きつと、こころが和らげられ、静かでありながらも、意欲を滾らせてゆくことができる。
 
 
 
秋めいて、和らぐ、
感官へのそそり。
光の顕れの中に混じる、
ぼんやりとした霧のとばり。
わたしは空間の拡がりの中で観る、
秋、そして冬の眠り。
夏はわたしに、
みづからを捧げてくれた。
 
 
 

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2019年09月21日

こころのこよみ(第22週) 〜深まりゆく感謝の念ひ〜


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世の拡がりから来る光が、
 
内において力強く生き続ける。
 
それはこころの光となり、
 
そして、精神の深みにおいて輝く。
 
稔りをもたらすべく、
 
世の己れから生まれる人の己れが、
 
時の流れに沿つて熟していく。
 
       ルドルフ・シュタイナー
 
 

Das Licht aus Weltenweiten,
Im Innern lebt es kräftig fort:          
Es wird zum Seelenlichte            
Und leuchtet in die Geistestiefen,        
Um Früchte zu entbinden,            
Die Menschenselbst aus Weltenselbst       
Im Zeitenlaufe reifen lassen.    
 
 
 
 
夏の間、外に輝いてゐた陽の光が、いつしか、こころの光になつてゐる。
 
そのこころの光は、萌しであり、これから、だんだんと、長けゆく。
 
そのこころの光は、感謝の念ひであり、だんだんと深まり、秋から来たるべき冬に向けて、だんだんと、熟してゆく。
 
その成熟は、冬のさなかに訪れる新しい年の精神の誕生を我がこころに迎へるための、なんらかの備へになる。
 
それは、太陽の輝きの甦りに向けての備へである。
 
むかし、我が国では、そもそも、その冬至の頃(旧暦の十一月の終わり頃)に、新嘗祭(にいなへのまつり)を毎年行つて来た。
 
一年の米の収穫には、いい年もあれば、悪い年もある。
 
しかし、どんな年であれ、米(むかしは米のことを「とし」と言つた)を授けて下さつた神に対する感謝の念ひを育みつつ、日本人は生きて来た。
 
この感謝の念ひが、秋から冬への移り行きの中に生まれる寂しさ、孤独、侘しさといつた情を凌ぐ、静かな元手となつてゐた。
 
それが、また、こころの光であつた。
 
 
 

西の国々では、冬至の直後にイエス・キリストの誕生を祝ふクリスマスがある。
 
そして、キリストの誕生とは、「ひとり生みの子ども」「神の子」「ひとりであることのもたらし手」「世の己れから生まれる人の己れ」の誕生であつた。
 
西洋では、一年の稔りへの感謝の念ひを年の終はりにすることに代はつて、キリストの誕生を寿いだのだ。
 
それは、「ひとりであること」の稔りであつた。
 
その「ひとりであること」の自覚の光が、秋から冬に向けて熟して行く。
 
 
 憂きわれをさびしがらせよ閑古鳥   芭蕉
 
 
人は、「ひとりであることの自覚」から生まれる寂しさといふ情にまで徹してみることで、鬱々としたもの思ひを突き抜けることができる。そして、この「ひとりであること」の自覚の上にこそ、キリストは寄り添つてくださるのかもしれない。
 
そして、「ひとりであること」の自覚を持つひとりの人とひとりの人が出会ふところにこそ、精神は息づく。
 
芭蕉は、また、この「閑古鳥」も「ひとり」であり、その閑古鳥との精神の交流、閑古鳥への感謝をも感じてゐる。
 
 
 
世の拡がりから来る光が、 
内において力強く生き続ける。 
それはこころの光となり、 
そして、精神の深みにおいて輝く。 
稔りをもたらすべく、 
世の己れから生まれる人の己れが、 
時の流れに沿つて熟していく。



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2019年09月15日

こころのこよみ(第21週) 〜問ひを立てる力〜


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わたしはこれまでにない稔りの力を感じる。
 
その力はしつかりとわたしにわたしみづからを与へてくれる。
 
わたしは感覚する、萌しが熟し、
 
そして予感が光に満ちて織りなされるのを。
 
内において、己れの力として。
 
         ルドルフ・シュタイナー
 
 
Ich fühle fruchtend fremde Macht      
Sich stärkend mir mich selbst verleihn,    
Den Keim empfind ich reifend        
Und Ahnung lichtvoll weben         
Im Innern an der Selbstheit Macht.     
 
 
 
 
「これまでにない稔りの力」とは。
 
それは、夏、こころにおいて稼がれた、新しい感じ方、考へ方、ものの捉へ方を、その後何度も繰り返し自分自身に引き続き、問ふて、問ふて、問ひ続けることから生まれる力のことである。
 
夏は、豊かな自然の輝きが人に語りかけてくるときであつたし、人と人とが出会ひ、交はる季節だつた。
 
しかし、そのやうに外の世が輝いてゐるとき、人と人とが交はる、そんなときこそ、みづからが孤独であることに思はず出くはしてしまふこともあるのではないだらうか。
 
みづからが孤独であることに出くはして、初めて人は孤独であることの意味を見いださうと葛藤し始める。
 
そして葛藤するといふことは、「わたしは、いつたい、どのやうに生きていきたいのか」といふ問ひをみづからに問ふといふことでもある。
 
みづからに問ひ続ける。そして答へを探し求める。
 
その自問自答の繰り返しが、何を育てるか。
 
己れみづからに問ひを立てる力を育てるのだ。
 
その「問ひを立てる力」が、「わたしみづからの力」「己れの力」としての「稔りの力」をわたしにもたらしてくれる。
 
ふさはしく問ひを立てることこそが、手前勝手な答へを作りだして満足することへと自分を導くのではなく、精神といふ高い次元に耳を澄ませる力になりゆくからだ。
 
その力は、己れが生まれ変はることへの予感を、ゆつくりと、こころの内に光に満ちて織りなしていく。
 
それは、秋といふ季節ならではのこころの織りなしである。
 
そのやうにして、秋とは内なる意識が明るんでいく季節だ。
 
意識が明るむ、とは何とありがたく、幸ひなことだらう。
 
 
 
 
わたしはこれまでにない稔りの力を感じる。 
その力はしつかりとわたしにわたしみづからを与へてくれる。 
わたしは感覚する、萌しが熟し、 
そして予感が光に満ちて織りなされるのを。 
内において、己れの力として。
 
 
 

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2019年09月08日

こころのこよみ(第20週) 〜外の世との交渉を絶たないこと〜


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わたしはいま、わたしのありやうをかう感じる、
 
世にあるものから遠ざかれば、
 
みづからにおいてみづからが消え失せ、
 
そして、己れの基の上にのみ立つならば、
 
みづからにおいてみづからをきつと殺してしまう。
 
         ルドルフ・シュタイナー
 
 

So fühl ich erst mein Sein,
Das fern vom Welten-Dasein
In sich sich selbst erlöschen
Und bauend nur auf eignem GrundeIn
sich sich selbst ertöten müßte.
 
 
 
秋へと歩みを進めていくうちに、わたしたちは、夏の憶ひを何度も反芻し、辿りなほす作業に勤しむことができる。
 
暑かつたこの夏、何を想ひ、何を考へ、何を感じ、何を欲したか・・・。
 
さう想ひ起こし、辿り直すことによつて、人はみづからの内でだんだんと己れの力が強まつてきてゐるのを感じる。
 
それは、<わたし>の目覚めの時期が秋の訪れとともに再び巡つてきたといふことでもある。
 
<わたし>の目覚め、己れの力の強まり。
 
しかし、今週の『こよみ』においては、そのことから生まれる危ふさに対して、バランスを取ることが述べられてゐる。
 
 
世にあるものから遠ざかれば、
みづからにおいてみづからが消え失せ、
そして、己れの基の上にのみ立つならば、
みづからにおいてみづからをきつと殺してしまう
 
 
『いかにして人が高い世を知るにゐたるか』(鈴木一博訳)の「条件」の章において、「人がだんだんにみづからを外の世に沿はせなくして、そのかはりに、いきいきとした内の生を育むこと」の大切さが書かれてあるが、それはこれからの季節にわたしたちが勤しむこととして、意識されていいところだ。
 
しかし、その内の生を育むことが、みづからの内に閉ぢこもることではないことも述べられてゐる。
 
 
 
ーーーーーーーー
 

●(静かに、ひとりきりで、みづからを深める一時一時)には、みづからが生きたこと、外の世が語りかけてきたことを、まさしく静かに、ありのままに想つてみてほしい。どの花も、どの動物も、どの振る舞ひも、そのやうな一時において、思ひもよらない秘密をあかすやうになる。
 
 
●享受した後に、その享受したことからなにかが顕れるやうにする人が、みづからの知る才を培ひ、育てる。その人が、きつと、享受することだけをありのままに想ふとかではなく、享受しつづけることを諦めて、その享受したことを内なる働きによつて消化するといふことをこそ習ひとするやうになる。
 
 
ーーーーーーーー
  
 
 
過ぎ行く現象の中で、何が過ぎ行かず、留まるものか、さう問ふ練習。
 
外の世との交渉の中で、みづからの共感・反感そのものを見つめる練習。
 
あのときの喜び、痛み、快、不快が、何をわたしに教へてくれようとしてゐるのか。さう問ふ練習。
 
それは、享受したこと、感覚したことを、消化するといふこと。
 
そのやうな一時一時において、「思ひもよらない秘密」があかされる道がだんだんと啓かれてくる。
 
そして、もう一度、享受するといふこと、外の世に己れを開くことの大切さが述べられる。
 
 

ーーーーーーーー
 
 

●<わたし>を世にむけて開いてほしい。その人は、きつと、享受しようとする。そもそも、享受すればこそ、外の世がその人へとやつてくる。その人が享受することに対してみづからを鈍らせるなら、周りから糧となるものを取り込むことができなくなつた植物のごとくになる。しかし、その人が享受することにとどまれば、みづからをみづからの内に閉ざす。その人は、その人にとつてはなにがしかであつても、世にとつては意味をもたない。その人がみづからの内においていかほど生きようとも、みづからの<わたし>をすこぶる強く培はうとも、世はその人を閉め出す。世にとつてその人は死んでゐる。
 
 
●密やかに学ぶ人は、享受するといふことを、ただみづからを世にむけて気高くする手立てと見てとる。その人にとつては、享受するといふことが、世について教へてくれる教へ手である。しかし、その人は享受することで教へを受けたのちに、仕事へと進む。その人が習ふのは、習つたことをみづからの智識の富として貯へるためではなく、習つたことを世に仕へることのうちへと据ゑるためである。
 
 
 
ーーーーーーーー
 
 

秋から冬へと、<わたし>を目覚めさせていくこと。
 
しかし、それは、「仕事」をすること、「世に仕へること」へと繋げていくことによつてこそ、その人の本当の糧、本当の力になつていく。
 
外の世との交渉を絶たないこと。
 
内において、メディテーションにおいて、外の世のことを深めること。
 
そして、その深まりから、外の世に働きかけていくこと。
 
それが、秋から冬にかけての密やかな学びにおける筋道だ。
 
 
 
 
わたしはいま、わたしのありやうをかう感じる、
世にあるものから遠ざかれば、
みづからにおいてみづからが消え失せ、
そして、己れの基の上にのみ立つならば、
みづからにおいてみづからをきつと殺してしまう。
 
 

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2019年09月04日

こころのこよみ(第19週) 〜繰り返し勤しむ〜


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秘めやかさに満ちて新しく受けとめたものを
 
想ひ起こしつつ、包み込む。
 
それがわたしの勤しみの、さらなる意味となれ。
 
それは強められた己れの力を
 
わたしの内において目覚めさせ、
 
そして、だんだんとわたしをわたしみづからに与へていくだらう。
 
          ルドルフ・シュタイナー
 
 
 
Geheimnisvoll das Neu-Empfang'ne
Mit der Erinn'rung zu umschließen,
Sei meines Strebens weitrer Sinn: 
Er soll erstarkend Eigenkräfte
In meinem Innern wecken 
Und werdend mich mir selber geben.  
 
 
 
先週の『こころのこよみ』にあつた「世のきざしのことば」。
 
それは、まさに、秘めやかさに満ちて、内において、その人その人が、受け取るもの。
 
その「きざしのことば」は、真夏の暑さの中で、これまでの感じ方、考へ方を、拡げ、深め、壊してくれるやうなもの。
 
皆さんは、この夏、どのやうな「きざしのことば」を受けとめられただらうか。
 
どのやうな「秘めやかなことば」を聴き取られたであらうか。
 
もし、それを、この週、何度も何度も、意識の上に想ひ起こしつつ、こころのまんなかに、置いてみるなら。
 
その「ことば」を何度もこころに包み込んでみるなら。
 
その繰り返し勤しむことが、その「ことば」と、<わたし>を、だんだんと、ひとつにしていく。    
 
「世のことば」が、「わたしのことば」になつていく。    
 
地味だけれども、そのやうな繰り返しの行為こそが、<わたし>の力を強めてくれる。
 
わたしのわたしたるところが、だんだんと、目覚めてくる。
 
今週の「こころのこよみ」に沿つて練習すること。
 
それは、秋からの、新しい<わたし>への、備へとなるだらう。
 
  
 
秘めやかさに満ちて新しく受けとめたものを
想ひ起こしつつ、包み込む。
それがわたしの勤しみの、さらなる意味となれ。
それは強められた己れの力を
わたしの内において目覚めさせ、
そして、だんだんとわたしをわたしみづからに与へていくだらう。
 
 

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2019年08月27日

こころのこよみ(第18週) 〜新しい衣(ころも)〜


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藤島武二『蝶』

 
わたしはこころを拡げることができるのか、
 
受けとつた世のきざしのことばを
 
己れと結びつけつつ。
 
わたしは予感する、きつと力を見いだすことを。
 
こころをふさはしくかたちづくり、
 
精神の衣へと織りなすべく。
 
          ルドルフ・シュタイナー
 
 
 
Kann ich die Seele weiten,               
Daß sie sich selbst verbindet               
Empfangnem Welten-Keimesworte ?           
Ich ahne, daß ich Kraft muß finden,           
Die Seele würdig zu gestalten,              
Zum Geisteskleide sich zu bilden. 
 
 
 
 
前の週の『こよみ』において、世のことばが語りかけてきた。
 
「わたしの世のひろがりをもつて、あなたの精神の深みを満たしなさい」と。
 
夏の世の大いなるひろがり、それに沿ふことができたなら、
それは沿ふ人に、これまでの生き方、考へ方、感じ方を越えるやうなものを、「贈りもの」として与へてくれる。
 
これを読んでくださつてゐる皆さんには、どのやうな「夏の贈りもの」が贈られただらうか。
 
その「贈り物」を受け入れる器。
 
その器が「こころ」であるならば、わたしはみづからにあらためてかう問ふことになる。
 
「わたしはこころを拡げることができるのか」
 
その問ひに応へていくことが、この夏から秋へと移つていく時期のテーマだと感じる。
 
新しい考へ、価値観、ライフスタイル、人生観、世界観、それらを「己れと結びつけつつ」。
 
しかし、その結びつけは、きつと、外からの結びつけではなく、内からおのづと生じてくる結びつきになるのではないだらうか。
 
夏といふ季節を精神的に生きる。
 
そのとき、外なる季節の移り変はりに応じるやうな、内なる移り変はり、成熟へのおのづさがだんだんと身についてきてゐるのを感じるかもしれない。
 
「わたしは予感する、きつと力を見いだすことを」
 
それは、こころを拡げ、こころを、精神から織られた衣(ころも)にする力。
 
衣(ころも)とは、万葉の昔から、「恋衣」「旅衣」「染衣」のやうに、深く、活き活きと、しみじみと息づく生活感情を言ふことばとしてよく使はれてゐたさうだ。
(白川静『字訓』より)
 
「ころも」も「こころ」も、三つの o の母音から成り立つ、やまとことば。
 
それは、本来、精神から凝(こご)るものとしての動き、わたしたちのからだにまとふものとしての動きを、音韻として顕はにしてはゐないだらうか。
 
こころといふものが、精神といふわたしのわたしたるところ・わたしの芯〈わたしはある〉から、織りなされる。
 
そして、からだにまとふ衣となつて、身のこなし、振る舞ひのひとつひとつに顕はれる。しなやかに、柔らかく、輝きつつ。
 
そんな内なる力をきつと見いだす。
 
この夏から秋の初めにかけてのテーマであり、学び続けてゐる人への励ましでもあるだらう。
 
 
 

わたしはこころを拡げることができるのか、
受けとつた世のきざしのことばを
己れと結びつけつつ。
わたしは予感する、きつと力を見いだすことを。
こころをふさはしくかたちづくり、
精神の衣へと織りなすべく。
 
  

諏訪耕志記
 
 


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2019年08月20日

こころのこよみ(第17週) 〜ざわめきが止む〜


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世のことばが語る、
 
そのことばをわたしは感官の扉を通して
 
こころの基にまでたづさへることを許された。
 
「あなたの精神の深みを満たしなさい、
 
わたしの世のひろがりをもつて。
 
いつかきつとあなたの内にわたしを見いだすために」
 
  

Es spricht das Weltenwort,
Das ich durch Sinnestore
In Seelengründe durfte führen:
Erfülle deine Geistestiefen
Mit meinen Weltenweiten,
Zu finden einstens mich in dir.  
 
 
 
閑さや岩にしみ入る蝉の声  松尾芭蕉
 
「蝉の声」は耳に聞こえる。時に、聴く人の全身を圧するやうに鳴り響く。
 
「閑さ」はどうだらうか。「閑さ」は、耳を傾けることによつて、聞き耳を立てることによつて、初めて聴くことができるものではないだらうか。
 
「閑さ」とは、本来、耳といふ感官を超えた「感官」によつて受け止められるものではないだらうか。
 
芭蕉は、「蝉の声」を通して「閑さ」を聴いたのだらうか。「閑さ」を通してあらためて「蝉の声」が聞こえてきたのだらうか。
 
そして、芭蕉は、「蝉の声」の向かうに、「閑さ」の向かうに、何を聴いたのだらうか。
 
芭蕉は、旅しながらメディテーションをする中で、そのふたつの聴覚の重なりの向かうに、己れが全身全霊で何かを受けとめるありさまを「おくのほそ道」に記した。
 
それは、芭蕉によるひとつの精神のドキュメントであり、心象スケッチであり、春から秋にかけての「こころのこよみ」であつた。
 
 
この週の『こころのこよみ』に、「世のことばが語る」とある。
 
わたしもことばを語る。
 
しかし、世がことばを語るとはどういふことだらうか。「世のことば」が語るとはどういふことだらうか。
 
その「ことば」は、この肉の耳には聞こえないものである。耳といふ感官を超えた「感官」によつて受け止められるものである。メディテーションを通して、「こころの基にまでたづさへることを許された」ことばである。
 
 
『いかにして人が高い世を知るに至るか』より
  
 人が人といふものの中心をいよいよ人の内へと移す。
 人が安らかさの一時(ひととき)に
 内において語りかけてくる声に耳を傾ける。
 人が内において精神の世とのつきあひを培ふ。
 人が日々のものごとから遠のいてゐる。
 日々のざわめきが、その人にとつては止んでゐる。
 その人の周りが静かになつてゐる。
 その人がその人の周りにあるすべてを遠のける。
 その人が、また、
 そのやうな外の印象を想ひ起こさせるところをも
 遠のける。
 内において安らかに見遣るありよう、
 紛れのない精神の世との語らいが、
 その人のこころのまるごとを満たす。
  
 静けさからその人への語りかけがはじまる。
 それまでは、
 その人の耳を通して響きくるのみであつたが、
 いまや、その人のこころを通して響きくる。
 内なる言語が ―内なることばが― 
 その人に開けてゐる。
 
 
この夏の季節にメディテーションをする中で、精神の世が語りかけてくることば。
 
 あなたの精神の深みを満たしなさい、
 わたしの世のひろがりをもつて。
 いつかきつとあなたの内に
 わたしを見いだすために。
 
この「いつか」とは、クリスマスの頃であらう。この週の対のこよみが、第36週である。http://kotobanoie.seesaa.net/article/410652960.html
 
そこでは、「世のことば」キリストが、人のこころの深みにおいて密やかに語る。
 
芭蕉は、俳諧といふことばの芸術を通して、四季の巡りと共に深まりゆくこころの巡りを詠つた人である。
 
彼はいまも、夏の蝉の声といふ生命が漲り溢れてゐる響きの向かうに、静けさを聴き取り、その静けさの向かうに、「世のことば」を聴いてゐるのではないか。
 
 
 
世のことばが語る、
そのことばをわたしは感官の扉を通して
こころの基にまでたづさへることを許された。
「あなたの精神の深みを満たしなさい、
わたしの世のひろがりをもつて。
いつかきつとあなたの内にわたしを見いだすために」
 

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2019年08月12日

こころのこよみ(第16週) 〜黙ることのアクティビティー〜


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精神からの贈りものを内に秘めよと、
 
我が予感がわたしに厳しく求める。
 
それによつて、神の恵みが熟し、
 
こころの基において豊かに、
 
己れであることの実りがもたらされる。
 
       ルドルフ・シュタイナー
 
 

Zu bergen Geistgeschenk im Innern,   
Gebietet strenge mir mein Ahnen,
Daß reifend Gottesgaben
In Seelengründen fruchtend
Der Selbstheit Früchte bringen.  
 
 

 
ことばを話すことよりも、さらにこころのアクティビティーを使ふのは、黙ること。
 
沈黙を生きることを大切にすることによつて生がだんだんと深まつていく。
 
この沈黙とは、こころが滞つてゐるがゆゑではなく、アクティブにこころを慎むところから生まれる沈黙である。
 
話すことをやめるのではない。
 
ことばと、そのことばを話さうとしてゐる己れと、そのことばを聴かうとしてゐる人を、大切にしたいからこそ、ことばを迎へ、ことばを選び、ことばを運ぶのである。
 
ことば。ことばを話す人。ことばを聴く人。
 
その三者の間に世の秘密が隠れてゐて、そこにこそ、精神からの贈りもの(神の恵み)が降りてくる。
 
そこにこそ、豊かさと貧しさの根源がある。 
 
 
 
精神からの贈りものを内に秘めよと、
我が予感がわたしに厳しく求める。
それによつて、神の恵みが熟し、
こころの基において豊かに、
己れであることの実りがもたらされる。
 
 

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2019年08月05日

こころのこよみ(第15週) 〜子どものやうに生きる〜


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わたしは感じる、
 
まるで、世の輝きの中に、精神が魔法にかけられて織り込まれてゐるやうだ。
 
それはぼんやりとした感官において、
 
わたしのわたしなりであるところを包む。
 
わたしに力を贈るべく、
 
その力を力無き己れに授けるのは、
 
囲ひの中にある、わたしの<わたし>。
 
         ルドルフ・シュタイナー
 
 
Ich fühle wie verzaubert          
Im Weltenschein des Geistes Weben.    
Es hat in Sinnesdumpfheit        
Gehüllt mein Eigenwesen,        
Zu schenken mir die Kraft,        
Die, ohnmächtig sich selbst zu geben,   
Mein Ich in seinen Schranken ist.     
 
 
 
子どもの頃や若者である頃と違つて、わたしたちは歳をとるにしたがつて、自分自身といふもの、わたしの意識といふもの、自意識といふものを、大事にするやうになる。
 
だから、夏になると、それらが魔法にかかつたやうに包まれ、力無く眠りこまされてゐるやうな感覚に陥り、困惑してしまう。
 
わたしのわたしたるところ、わたしの<わたし>が、囲ひの中にあるやうだ。
 
しかし、かうしたありようが、この季節特有の、かりそめのものだといふことを知つてゐるならば、わたしたちは困惑から抜け出ることができる。
 
このぼんやりとしたありやう、焦点が絞られてゐないありやう、それは、大きく広がりをもつた意識であるからこそ、そのやうなありやうなのだ。
 
そして、この意識の大きさ、拡がりからこそ、力が授けられようとしてゐる。
 
だから、ぼんやりとした感官のありようを、思ふ存分、生きればいいのではないか。
 
夏のこの季節、頭ではなく、手足を使ふことで、大いなる世と繋がることに勤しむこと。
 
ある意味、子どものやうに生きること。
 
さうすることで、ぼんやりとしたありやうではあるが、人は大いなる世から力を授かる。
 
たとへ、いま、その力の贈り手であるわたしの<わたし>が、魔法にかけられ、囲ひの中にあるとしても、そのやうに手足をもつて生きることが、来たる秋から冬に向けての備へとなる。
 
わたしの<わたし>が力に満ちたものになりゆく、秋から冬への。
 
 
 
わたしは感じる、
まるで、世の輝きの中に、精神が魔法にかけられて織り込まれてゐるやうだ。
それはぼんやりとした感官において、
わたしのわたしなりであるところを包む。
わたしに力を贈るべく、
その力を力無き己れに授けるのは、
囲ひの中にある、わたしの<わたし>。
 

 
※絵は、「シュタイナー絵画教室 福岡」さんのページから頂きました。

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2019年07月24日

こころのこよみ(第14週) 〜「世の考へる」に任せてみる〜



参議院議員選挙期間中、そして選挙のあとも、今週のこの「こころのこよみ」に支へられました。
  


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クロード・モネ《霧の中の太陽》

 
 
感官の啓けに沿ひつつ、
 
わたしはみづからを駆り立てるものを失つた。
 
夢のやうな考へ、それは輝いた、
 
己れを奪ひ去るかのやうにわたしを眠らせながら。
 
しかし、すでに目覚めさせつつわたしに迫つてゐる、
 
感官の輝きの中に、世の考へるが。
 
           ルドルフ・シュタイナー
 
 
An Sinnesoffenbarung hingegeben  
Verlor ich Eigenwesens Trieb,
Gedankentraum, er schien
Betäubend mir das Selbst zu rauben,
Doch weckend nahet schon
Im Sinnenschein mir Weltendenken. 
 
 
 
この季節、考へる力が、本当に鈍つてくる。
 
「考へる力」こそが、人を本来的に駆り立てる力なのに、その力が失はれてゐるのを感じる。
 
夏の美しさが目や耳などを支配して、美をたつぷりと味はふこともできる反面、その情報量の多さに混乱してしまう危険性があるのも、この季節の特徴かもしれない。
 
内なる統一を与へる「わたしの考へる力」が失はれて、そのかはりに、もの想ひに支配される時間が増えてゐる。
 
その「もの想ひ(夢のやうな考へ)」とは、ものごとや人に沿つて考へることではなくて、ものごとや人について、手前勝手に想像してしまつたり、その想像にこころが支配されてしまつて、その想ひの中で行つたり来たりを繰り返すありやうだ。
 
もの想ひは、めくるめくやうにわたしのこころの中を巡り、輝きわたり、「己れを奪ひ去るかのやうにわたしを眠らせる」。
 
本当に自分の考へたいことを考へることで、人は目覚めることができる。けれども、もの想ひにふけることで、人は夢を見てゐるやうな、あるいは、眠り込むやうなありように陥つてしまう。
 
そんなありようを、どう受け止めたらいいだらう。
 
「人が考へる」よりも、「わたしが考へる」よりも、「世が考へる」、そのことに己れを任せてみないか。
 
世は、まごうことなく、秩序と法則に従つて時を生きてゐる。
 
そして自分は、すでにゐるべき場所にゐて、すでに出会ふべき人に出会つてをり、すでにするべきことに向かつてをり、すでに生きるべき人生を生きてゐる。
 
さう、見直してみないか。
 
「わたしが考へる」ことの力が失はれてしまつた、この時期だからこそ、その「世の考へる」「(恣意を挟まず)おのづからまぎれなく考へる」に任せてみる。
 
夏のこの時期における、そのこころのモードチェンジは、自分自身を統一する考へる力がいつたんは眠つてしまい、見失はれたからこそ、来たる秋から冬にかけて新しく鮮やかに自分自身で考へる力が目覚めることへと、わたしたちを導いてくれるだらう。
 
 
「見る」をもつと深めていくことを通して、からだをもつと動かしていくことを通して、感官を通して、だんだんと輝きが見えてくる。
 
頭であれこれ考へるよりも、手足を動かすことを通して、手足で考へる。
 
その手足の動きこそが、「世の考へる」との親和性は高い。 
 
それは感官を超えたものを見いだし、感じ始めることでもあり、理屈抜きで、この世のものといふもの、ことといふことをなりたたせてゐる基のところを垣間見ることでもある。
 
密やかなところを見いだせば見いだすほどに、また顕わなところも、よりくつきり、はつきりと見えてくる。
 
そして、その見えてくるところが、ものを言ひ出す。
 
夏ならではのこころの練習として、ものがものを言ひ出すまで、からだを使つてみよう。そして、からだをもつて「見る」に徹してみよう。
 
その「動く」「見る」から聴きだされることば、伝へられる考へ、それらは、こころに直接響いてくる。小賢しく考へる必要がなく、それらのことばと考へが、こころに直接「訪れる」。
 
その訪れるものを「世の考へる」と、ここでは言つてゐる。
 
 
この『こよみ』を追つてゐると、まるで「いまの自分の生活、こころ模様そのものを記してゐるのではないか」と感じることがよくある。
 
もの想ひから抜け出す道を、わたしも、いま、探りつつ、汗を流して稽古をしつつ、歩いてゐる。
 
 
 
感官の啓けに沿ひつつ、
わたしはみづからを駆り立てるものを失つた。
夢のやうな考へ、それは輝いた、
己れを奪ひ去るかのやうにわたしを眠らせながら。
しかし、すでに目覚めさせつつわたしに迫つてゐる、
感官の輝きの中に、世の考へるが。
 
 
 
 


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2019年07月16日

こころのこよみ(第13週) 〜金色の輝きの中、歌ひ、踊る〜


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大阪市住吉区の生根神社の夏祭り 

 
そして、我あり、感官の高みに。
 
ならば、燃え上がる、我がこころの深みにおいて、
 
精神の火の世から、
 
神々のまことのことばが。
 
「精神の基にて、予感しつつ、探し求めよ、
 
あなたを精神の縁(えにし)とともに見いだすべく」
 
          ルドルフ・シュタイナー
 
 

Und bin ich in den Sinneshöhen,             
So flammt in meinen Seelentiefen            
Aus Geistes Feuerwelten                 
Der Götter Wahrheitswort:                
In Geistesgründen suche ahnend     
Dich geistverwandt zu finden.
 
 

 
これから始まる夏、草木の緑、色とりどりの花々、空の青、太陽の光と熱、活き活きと働いてゐるその自然のいちいちから、客観的な精神が人に語りかけてくる。
 
一行目の「我あり、感官の高みに」とは、ものといふもの、そのいちいちを、じつくりと見、聴き、触れ、味はふことを通して、普段見過ごし、聞き過ごしてゐるものが、よりものものしく、より明らかに、より動きを伴つて、見えてくる、聴こえてくるといふことと通じてゐる。
 
感官の高み。それは、こころの、細やかな、密やかな深まりとして、育まれるもの。
 
自然のいちいちに静かに眼差しを向け、その息遣ひに耳を傾けてみよう。
 
その密やかさのうちに、ことばが燃え上がるやうに響いてくる。
 
こころの深みにおいて、精神の火の世から、神々のまことのことばが。
 
「精神の基にて、予感しつつ、探し求めよ、
あなたを精神の縁とともに見いだすべく」
 
まことのことばを燃えるやうに人間に語りかけてゐる神々。
 
客観的な精神。
 
その外なる精神は、この季節、金色に輝いてゐる。
 
わたしたち人に燃え立つ炎のやうに語りかけてゐる金色の精神。
 
この夏の外なる精神の方々が発する金色の輝きを浴びるわたしたちは、冬、クリスマスの頃、みづからのこころの奥底、精神の基に、内なる金色を輝かせることができよう。
 
来たる冬に、精神に縁のある、金色に輝く己れみづからをしつかりと見いだすことができよう。
 
夏のいまは、外なる金色の光に応じるやうに、眼差しを注ぎ、耳を傾け、さらには、踊り、歌を歌ひながら音楽と詩を奏でることで、冬に見いだすものを予感しつつ、探し求めるのだ。
 
 
 
そして、我あり、感官の高みに。
ならば、燃え上がる、我がこころの深みにおいて、
精神の火の世から、
神々のまことのことばが。
「精神の基にて、予感しつつ、探し求めよ、
あなたを精神の縁(えにし)とともに見いだすべく」
 
 
 
諏訪耕志記
 
 


posted by koji at 21:25 | 大阪 ☁ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする