[こころのこよみ(魂の暦)]の記事一覧

2019年09月15日

こころのこよみ(第21週) 〜問ひを立てる力〜


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わたしはこれまでにない稔りの力を感じる。
 
その力はしつかりとわたしにわたしみづからを与へてくれる。
 
わたしは感覚する、萌しが熟し、
 
そして予感が光に満ちて織りなされるのを。
 
内において、己れの力として。
 
         ルドルフ・シュタイナー
 
 
Ich fühle fruchtend fremde Macht      
Sich stärkend mir mich selbst verleihn,    
Den Keim empfind ich reifend        
Und Ahnung lichtvoll weben         
Im Innern an der Selbstheit Macht.     
 
 
 
 
「これまでにない稔りの力」とは。
 
それは、夏、こころにおいて稼がれた、新しい感じ方、考へ方、ものの捉へ方を、その後何度も繰り返し自分自身に引き続き、問ふて、問ふて、問ひ続けることから生まれる力のことである。
 
夏は、豊かな自然の輝きが人に語りかけてくるときであつたし、人と人とが出会ひ、交はる季節だつた。
 
しかし、そのやうに外の世が輝いてゐるとき、人と人とが交はる、そんなときこそ、みづからが孤独であることに思はず出くはしてしまふこともあるのではないだらうか。
 
みづからが孤独であることに出くはして、初めて人は孤独であることの意味を見いださうと葛藤し始める。
 
そして葛藤するといふことは、「わたしは、いつたい、どのやうに生きていきたいのか」といふ問ひをみづからに問ふといふことでもある。
 
みづからに問ひ続ける。そして答へを探し求める。
 
その自問自答の繰り返しが、何を育てるか。
 
己れみづからに問ひを立てる力を育てるのだ。
 
その「問ひを立てる力」が、「わたしみづからの力」「己れの力」としての「稔りの力」をわたしにもたらしてくれる。
 
ふさはしく問ひを立てることこそが、手前勝手な答へを作りだして満足することへと自分を導くのではなく、精神といふ高い次元に耳を澄ませる力になりゆくからだ。
 
その力は、己れが生まれ変はることへの予感を、ゆつくりと、こころの内に光に満ちて織りなしていく。
 
それは、秋といふ季節ならではのこころの織りなしである。
 
そのやうにして、秋とは内なる意識が明るんでいく季節だ。
 
意識が明るむ、とは何とありがたく、幸ひなことだらう。
 
 
 
 
わたしはこれまでにない稔りの力を感じる。 
その力はしつかりとわたしにわたしみづからを与へてくれる。 
わたしは感覚する、萌しが熟し、 
そして予感が光に満ちて織りなされるのを。 
内において、己れの力として。
 
 
 

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2019年09月08日

こころのこよみ(第20週) 〜外の世との交渉を絶たないこと〜


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わたしはいま、わたしのありやうをかう感じる、
 
世にあるものから遠ざかれば、
 
みづからにおいてみづからが消え失せ、
 
そして、己れの基の上にのみ立つならば、
 
みづからにおいてみづからをきつと殺してしまう。
 
         ルドルフ・シュタイナー
 
 

So fühl ich erst mein Sein,
Das fern vom Welten-Dasein
In sich sich selbst erlöschen
Und bauend nur auf eignem GrundeIn
sich sich selbst ertöten müßte.
 
 
 
秋へと歩みを進めていくうちに、わたしたちは、夏の憶ひを何度も反芻し、辿りなほす作業に勤しむことができる。
 
暑かつたこの夏、何を想ひ、何を考へ、何を感じ、何を欲したか・・・。
 
さう想ひ起こし、辿り直すことによつて、人はみづからの内でだんだんと己れの力が強まつてきてゐるのを感じる。
 
それは、<わたし>の目覚めの時期が秋の訪れとともに再び巡つてきたといふことでもある。
 
<わたし>の目覚め、己れの力の強まり。
 
しかし、今週の『こよみ』においては、そのことから生まれる危ふさに対して、バランスを取ることが述べられてゐる。
 
 
世にあるものから遠ざかれば、
みづからにおいてみづからが消え失せ、
そして、己れの基の上にのみ立つならば、
みづからにおいてみづからをきつと殺してしまう
 
 
『いかにして人が高い世を知るにゐたるか』(鈴木一博訳)の「条件」の章において、「人がだんだんにみづからを外の世に沿はせなくして、そのかはりに、いきいきとした内の生を育むこと」の大切さが書かれてあるが、それはこれからの季節にわたしたちが勤しむこととして、意識されていいところだ。
 
しかし、その内の生を育むことが、みづからの内に閉ぢこもることではないことも述べられてゐる。
 
 
 
ーーーーーーーー
 

●(静かに、ひとりきりで、みづからを深める一時一時)には、みづからが生きたこと、外の世が語りかけてきたことを、まさしく静かに、ありのままに想つてみてほしい。どの花も、どの動物も、どの振る舞ひも、そのやうな一時において、思ひもよらない秘密をあかすやうになる。
 
 
●享受した後に、その享受したことからなにかが顕れるやうにする人が、みづからの知る才を培ひ、育てる。その人が、きつと、享受することだけをありのままに想ふとかではなく、享受しつづけることを諦めて、その享受したことを内なる働きによつて消化するといふことをこそ習ひとするやうになる。
 
 
ーーーーーーーー
  
 
 
過ぎ行く現象の中で、何が過ぎ行かず、留まるものか、さう問ふ練習。
 
外の世との交渉の中で、みづからの共感・反感そのものを見つめる練習。
 
あのときの喜び、痛み、快、不快が、何をわたしに教へてくれようとしてゐるのか。さう問ふ練習。
 
それは、享受したこと、感覚したことを、消化するといふこと。
 
そのやうな一時一時において、「思ひもよらない秘密」があかされる道がだんだんと啓かれてくる。
 
そして、もう一度、享受するといふこと、外の世に己れを開くことの大切さが述べられる。
 
 

ーーーーーーーー
 
 

●<わたし>を世にむけて開いてほしい。その人は、きつと、享受しようとする。そもそも、享受すればこそ、外の世がその人へとやつてくる。その人が享受することに対してみづからを鈍らせるなら、周りから糧となるものを取り込むことができなくなつた植物のごとくになる。しかし、その人が享受することにとどまれば、みづからをみづからの内に閉ざす。その人は、その人にとつてはなにがしかであつても、世にとつては意味をもたない。その人がみづからの内においていかほど生きようとも、みづからの<わたし>をすこぶる強く培はうとも、世はその人を閉め出す。世にとつてその人は死んでゐる。
 
 
●密やかに学ぶ人は、享受するといふことを、ただみづからを世にむけて気高くする手立てと見てとる。その人にとつては、享受するといふことが、世について教へてくれる教へ手である。しかし、その人は享受することで教へを受けたのちに、仕事へと進む。その人が習ふのは、習つたことをみづからの智識の富として貯へるためではなく、習つたことを世に仕へることのうちへと据ゑるためである。
 
 
 
ーーーーーーーー
 
 

秋から冬へと、<わたし>を目覚めさせていくこと。
 
しかし、それは、「仕事」をすること、「世に仕へること」へと繋げていくことによつてこそ、その人の本当の糧、本当の力になつていく。
 
外の世との交渉を絶たないこと。
 
内において、メディテーションにおいて、外の世のことを深めること。
 
そして、その深まりから、外の世に働きかけていくこと。
 
それが、秋から冬にかけての密やかな学びにおける筋道だ。
 
 
 
 
わたしはいま、わたしのありやうをかう感じる、
世にあるものから遠ざかれば、
みづからにおいてみづからが消え失せ、
そして、己れの基の上にのみ立つならば、
みづからにおいてみづからをきつと殺してしまう。
 
 

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2019年09月04日

こころのこよみ(第19週) 〜繰り返し勤しむ〜


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秘めやかさに満ちて新しく受けとめたものを
 
想ひ起こしつつ、包み込む。
 
それがわたしの勤しみの、さらなる意味となれ。
 
それは強められた己れの力を
 
わたしの内において目覚めさせ、
 
そして、だんだんとわたしをわたしみづからに与へていくだらう。
 
          ルドルフ・シュタイナー
 
 
 
Geheimnisvoll das Neu-Empfang'ne
Mit der Erinn'rung zu umschließen,
Sei meines Strebens weitrer Sinn: 
Er soll erstarkend Eigenkräfte
In meinem Innern wecken 
Und werdend mich mir selber geben.  
 
 
 
先週の『こころのこよみ』にあつた「世のきざしのことば」。
 
それは、まさに、秘めやかさに満ちて、内において、その人その人が、受け取るもの。
 
その「きざしのことば」は、真夏の暑さの中で、これまでの感じ方、考へ方を、拡げ、深め、壊してくれるやうなもの。
 
皆さんは、この夏、どのやうな「きざしのことば」を受けとめられただらうか。
 
どのやうな「秘めやかなことば」を聴き取られたであらうか。
 
もし、それを、この週、何度も何度も、意識の上に想ひ起こしつつ、こころのまんなかに、置いてみるなら。
 
その「ことば」を何度もこころに包み込んでみるなら。
 
その繰り返し勤しむことが、その「ことば」と、<わたし>を、だんだんと、ひとつにしていく。    
 
「世のことば」が、「わたしのことば」になつていく。    
 
地味だけれども、そのやうな繰り返しの行為こそが、<わたし>の力を強めてくれる。
 
わたしのわたしたるところが、だんだんと、目覚めてくる。
 
今週の「こころのこよみ」に沿つて練習すること。
 
それは、秋からの、新しい<わたし>への、備へとなるだらう。
 
  
 
秘めやかさに満ちて新しく受けとめたものを
想ひ起こしつつ、包み込む。
それがわたしの勤しみの、さらなる意味となれ。
それは強められた己れの力を
わたしの内において目覚めさせ、
そして、だんだんとわたしをわたしみづからに与へていくだらう。
 
 

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2019年08月27日

こころのこよみ(第18週) 〜新しい衣(ころも)〜


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藤島武二『蝶』

 
わたしはこころを拡げることができるのか、
 
受けとつた世のきざしのことばを
 
己れと結びつけつつ。
 
わたしは予感する、きつと力を見いだすことを。
 
こころをふさはしくかたちづくり、
 
精神の衣へと織りなすべく。
 
          ルドルフ・シュタイナー
 
 
 
Kann ich die Seele weiten,               
Daß sie sich selbst verbindet               
Empfangnem Welten-Keimesworte ?           
Ich ahne, daß ich Kraft muß finden,           
Die Seele würdig zu gestalten,              
Zum Geisteskleide sich zu bilden. 
 
 
 
 
前の週の『こよみ』において、世のことばが語りかけてきた。
 
「わたしの世のひろがりをもつて、あなたの精神の深みを満たしなさい」と。
 
夏の世の大いなるひろがり、それに沿ふことができたなら、
それは沿ふ人に、これまでの生き方、考へ方、感じ方を越えるやうなものを、「贈りもの」として与へてくれる。
 
これを読んでくださつてゐる皆さんには、どのやうな「夏の贈りもの」が贈られただらうか。
 
その「贈り物」を受け入れる器。
 
その器が「こころ」であるならば、わたしはみづからにあらためてかう問ふことになる。
 
「わたしはこころを拡げることができるのか」
 
その問ひに応へていくことが、この夏から秋へと移つていく時期のテーマだと感じる。
 
新しい考へ、価値観、ライフスタイル、人生観、世界観、それらを「己れと結びつけつつ」。
 
しかし、その結びつけは、きつと、外からの結びつけではなく、内からおのづと生じてくる結びつきになるのではないだらうか。
 
夏といふ季節を精神的に生きる。
 
そのとき、外なる季節の移り変はりに応じるやうな、内なる移り変はり、成熟へのおのづさがだんだんと身についてきてゐるのを感じるかもしれない。
 
「わたしは予感する、きつと力を見いだすことを」
 
それは、こころを拡げ、こころを、精神から織られた衣(ころも)にする力。
 
衣(ころも)とは、万葉の昔から、「恋衣」「旅衣」「染衣」のやうに、深く、活き活きと、しみじみと息づく生活感情を言ふことばとしてよく使はれてゐたさうだ。
(白川静『字訓』より)
 
「ころも」も「こころ」も、三つの o の母音から成り立つ、やまとことば。
 
それは、本来、精神から凝(こご)るものとしての動き、わたしたちのからだにまとふものとしての動きを、音韻として顕はにしてはゐないだらうか。
 
こころといふものが、精神といふわたしのわたしたるところ・わたしの芯〈わたしはある〉から、織りなされる。
 
そして、からだにまとふ衣となつて、身のこなし、振る舞ひのひとつひとつに顕はれる。しなやかに、柔らかく、輝きつつ。
 
そんな内なる力をきつと見いだす。
 
この夏から秋の初めにかけてのテーマであり、学び続けてゐる人への励ましでもあるだらう。
 
 
 

わたしはこころを拡げることができるのか、
受けとつた世のきざしのことばを
己れと結びつけつつ。
わたしは予感する、きつと力を見いだすことを。
こころをふさはしくかたちづくり、
精神の衣へと織りなすべく。
 
  

諏訪耕志記
 
 


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2019年08月20日

こころのこよみ(第17週) 〜ざわめきが止む〜


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世のことばが語る、
 
そのことばをわたしは感官の扉を通して
 
こころの基にまでたづさへることを許された。
 
「あなたの精神の深みを満たしなさい、
 
わたしの世のひろがりをもつて。
 
いつかきつとあなたの内にわたしを見いだすために」
 
  

Es spricht das Weltenwort,
Das ich durch Sinnestore
In Seelengründe durfte führen:
Erfülle deine Geistestiefen
Mit meinen Weltenweiten,
Zu finden einstens mich in dir.  
 
 
 
閑さや岩にしみ入る蝉の声  松尾芭蕉
 
「蝉の声」は耳に聞こえる。時に、聴く人の全身を圧するやうに鳴り響く。
 
「閑さ」はどうだらうか。「閑さ」は、耳を傾けることによつて、聞き耳を立てることによつて、初めて聴くことができるものではないだらうか。
 
「閑さ」とは、本来、耳といふ感官を超えた「感官」によつて受け止められるものではないだらうか。
 
芭蕉は、「蝉の声」を通して「閑さ」を聴いたのだらうか。「閑さ」を通してあらためて「蝉の声」が聞こえてきたのだらうか。
 
そして、芭蕉は、「蝉の声」の向かうに、「閑さ」の向かうに、何を聴いたのだらうか。
 
芭蕉は、旅しながらメディテーションをする中で、そのふたつの聴覚の重なりの向かうに、己れが全身全霊で何かを受けとめるありさまを「おくのほそ道」に記した。
 
それは、芭蕉によるひとつの精神のドキュメントであり、心象スケッチであり、春から秋にかけての「こころのこよみ」であつた。
 
 
この週の『こころのこよみ』に、「世のことばが語る」とある。
 
わたしもことばを語る。
 
しかし、世がことばを語るとはどういふことだらうか。「世のことば」が語るとはどういふことだらうか。
 
その「ことば」は、この肉の耳には聞こえないものである。耳といふ感官を超えた「感官」によつて受け止められるものである。メディテーションを通して、「こころの基にまでたづさへることを許された」ことばである。
 
 
『いかにして人が高い世を知るに至るか』より
  
 人が人といふものの中心をいよいよ人の内へと移す。
 人が安らかさの一時(ひととき)に
 内において語りかけてくる声に耳を傾ける。
 人が内において精神の世とのつきあひを培ふ。
 人が日々のものごとから遠のいてゐる。
 日々のざわめきが、その人にとつては止んでゐる。
 その人の周りが静かになつてゐる。
 その人がその人の周りにあるすべてを遠のける。
 その人が、また、
 そのやうな外の印象を想ひ起こさせるところをも
 遠のける。
 内において安らかに見遣るありよう、
 紛れのない精神の世との語らいが、
 その人のこころのまるごとを満たす。
  
 静けさからその人への語りかけがはじまる。
 それまでは、
 その人の耳を通して響きくるのみであつたが、
 いまや、その人のこころを通して響きくる。
 内なる言語が ―内なることばが― 
 その人に開けてゐる。
 
 
この夏の季節にメディテーションをする中で、精神の世が語りかけてくることば。
 
 あなたの精神の深みを満たしなさい、
 わたしの世のひろがりをもつて。
 いつかきつとあなたの内に
 わたしを見いだすために。
 
この「いつか」とは、クリスマスの頃であらう。この週の対のこよみが、第36週である。http://kotobanoie.seesaa.net/article/410652960.html
 
そこでは、「世のことば」キリストが、人のこころの深みにおいて密やかに語る。
 
芭蕉は、俳諧といふことばの芸術を通して、四季の巡りと共に深まりゆくこころの巡りを詠つた人である。
 
彼はいまも、夏の蝉の声といふ生命が漲り溢れてゐる響きの向かうに、静けさを聴き取り、その静けさの向かうに、「世のことば」を聴いてゐるのではないか。
 
 
 
世のことばが語る、
そのことばをわたしは感官の扉を通して
こころの基にまでたづさへることを許された。
「あなたの精神の深みを満たしなさい、
わたしの世のひろがりをもつて。
いつかきつとあなたの内にわたしを見いだすために」
 

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2019年08月12日

こころのこよみ(第16週) 〜黙ることのアクティビティー〜


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精神からの贈りものを内に秘めよと、
 
我が予感がわたしに厳しく求める。
 
それによつて、神の恵みが熟し、
 
こころの基において豊かに、
 
己れであることの実りがもたらされる。
 
       ルドルフ・シュタイナー
 
 

Zu bergen Geistgeschenk im Innern,   
Gebietet strenge mir mein Ahnen,
Daß reifend Gottesgaben
In Seelengründen fruchtend
Der Selbstheit Früchte bringen.  
 
 

 
ことばを話すことよりも、さらにこころのアクティビティーを使ふのは、黙ること。
 
沈黙を生きることを大切にすることによつて生がだんだんと深まつていく。
 
この沈黙とは、こころが滞つてゐるがゆゑではなく、アクティブにこころを慎むところから生まれる沈黙である。
 
話すことをやめるのではない。
 
ことばと、そのことばを話さうとしてゐる己れと、そのことばを聴かうとしてゐる人を、大切にしたいからこそ、ことばを迎へ、ことばを選び、ことばを運ぶのである。
 
ことば。ことばを話す人。ことばを聴く人。
 
その三者の間に世の秘密が隠れてゐて、そこにこそ、精神からの贈りもの(神の恵み)が降りてくる。
 
そこにこそ、豊かさと貧しさの根源がある。 
 
 
 
精神からの贈りものを内に秘めよと、
我が予感がわたしに厳しく求める。
それによつて、神の恵みが熟し、
こころの基において豊かに、
己れであることの実りがもたらされる。
 
 

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2019年08月05日

こころのこよみ(第15週) 〜子どものやうに生きる〜


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わたしは感じる、
 
まるで、世の輝きの中に、精神が魔法にかけられて織り込まれてゐるやうだ。
 
それはぼんやりとした感官において、
 
わたしのわたしなりであるところを包む。
 
わたしに力を贈るべく、
 
その力を力無き己れに授けるのは、
 
囲ひの中にある、わたしの<わたし>。
 
         ルドルフ・シュタイナー
 
 
Ich fühle wie verzaubert          
Im Weltenschein des Geistes Weben.    
Es hat in Sinnesdumpfheit        
Gehüllt mein Eigenwesen,        
Zu schenken mir die Kraft,        
Die, ohnmächtig sich selbst zu geben,   
Mein Ich in seinen Schranken ist.     
 
 
 
子どもの頃や若者である頃と違つて、わたしたちは歳をとるにしたがつて、自分自身といふもの、わたしの意識といふもの、自意識といふものを、大事にするやうになる。
 
だから、夏になると、それらが魔法にかかつたやうに包まれ、力無く眠りこまされてゐるやうな感覚に陥り、困惑してしまう。
 
わたしのわたしたるところ、わたしの<わたし>が、囲ひの中にあるやうだ。
 
しかし、かうしたありようが、この季節特有の、かりそめのものだといふことを知つてゐるならば、わたしたちは困惑から抜け出ることができる。
 
このぼんやりとしたありやう、焦点が絞られてゐないありやう、それは、大きく広がりをもつた意識であるからこそ、そのやうなありやうなのだ。
 
そして、この意識の大きさ、拡がりからこそ、力が授けられようとしてゐる。
 
だから、ぼんやりとした感官のありようを、思ふ存分、生きればいいのではないか。
 
夏のこの季節、頭ではなく、手足を使ふことで、大いなる世と繋がることに勤しむこと。
 
ある意味、子どものやうに生きること。
 
さうすることで、ぼんやりとしたありやうではあるが、人は大いなる世から力を授かる。
 
たとへ、いま、その力の贈り手であるわたしの<わたし>が、魔法にかけられ、囲ひの中にあるとしても、そのやうに手足をもつて生きることが、来たる秋から冬に向けての備へとなる。
 
わたしの<わたし>が力に満ちたものになりゆく、秋から冬への。
 
 
 
わたしは感じる、
まるで、世の輝きの中に、精神が魔法にかけられて織り込まれてゐるやうだ。
それはぼんやりとした感官において、
わたしのわたしなりであるところを包む。
わたしに力を贈るべく、
その力を力無き己れに授けるのは、
囲ひの中にある、わたしの<わたし>。
 

 
※絵は、「シュタイナー絵画教室 福岡」さんのページから頂きました。

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2019年07月24日

こころのこよみ(第14週) 〜「世の考へる」に任せてみる〜



参議院議員選挙期間中、そして選挙のあとも、今週のこの「こころのこよみ」に支へられました。
  


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クロード・モネ《霧の中の太陽》

 
 
感官の啓けに沿ひつつ、
 
わたしはみづからを駆り立てるものを失つた。
 
夢のやうな考へ、それは輝いた、
 
己れを奪ひ去るかのやうにわたしを眠らせながら。
 
しかし、すでに目覚めさせつつわたしに迫つてゐる、
 
感官の輝きの中に、世の考へるが。
 
           ルドルフ・シュタイナー
 
 
An Sinnesoffenbarung hingegeben  
Verlor ich Eigenwesens Trieb,
Gedankentraum, er schien
Betäubend mir das Selbst zu rauben,
Doch weckend nahet schon
Im Sinnenschein mir Weltendenken. 
 
 
 
この季節、考へる力が、本当に鈍つてくる。
 
「考へる力」こそが、人を本来的に駆り立てる力なのに、その力が失はれてゐるのを感じる。
 
夏の美しさが目や耳などを支配して、美をたつぷりと味はふこともできる反面、その情報量の多さに混乱してしまう危険性があるのも、この季節の特徴かもしれない。
 
内なる統一を与へる「わたしの考へる力」が失はれて、そのかはりに、もの想ひに支配される時間が増えてゐる。
 
その「もの想ひ(夢のやうな考へ)」とは、ものごとや人に沿つて考へることではなくて、ものごとや人について、手前勝手に想像してしまつたり、その想像にこころが支配されてしまつて、その想ひの中で行つたり来たりを繰り返すありやうだ。
 
もの想ひは、めくるめくやうにわたしのこころの中を巡り、輝きわたり、「己れを奪ひ去るかのやうにわたしを眠らせる」。
 
本当に自分の考へたいことを考へることで、人は目覚めることができる。けれども、もの想ひにふけることで、人は夢を見てゐるやうな、あるいは、眠り込むやうなありように陥つてしまう。
 
そんなありようを、どう受け止めたらいいだらう。
 
「人が考へる」よりも、「わたしが考へる」よりも、「世が考へる」、そのことに己れを任せてみないか。
 
世は、まごうことなく、秩序と法則に従つて時を生きてゐる。
 
そして自分は、すでにゐるべき場所にゐて、すでに出会ふべき人に出会つてをり、すでにするべきことに向かつてをり、すでに生きるべき人生を生きてゐる。
 
さう、見直してみないか。
 
「わたしが考へる」ことの力が失はれてしまつた、この時期だからこそ、その「世の考へる」「(恣意を挟まず)おのづからまぎれなく考へる」に任せてみる。
 
夏のこの時期における、そのこころのモードチェンジは、自分自身を統一する考へる力がいつたんは眠つてしまい、見失はれたからこそ、来たる秋から冬にかけて新しく鮮やかに自分自身で考へる力が目覚めることへと、わたしたちを導いてくれるだらう。
 
 
「見る」をもつと深めていくことを通して、からだをもつと動かしていくことを通して、感官を通して、だんだんと輝きが見えてくる。
 
頭であれこれ考へるよりも、手足を動かすことを通して、手足で考へる。
 
その手足の動きこそが、「世の考へる」との親和性は高い。 
 
それは感官を超えたものを見いだし、感じ始めることでもあり、理屈抜きで、この世のものといふもの、ことといふことをなりたたせてゐる基のところを垣間見ることでもある。
 
密やかなところを見いだせば見いだすほどに、また顕わなところも、よりくつきり、はつきりと見えてくる。
 
そして、その見えてくるところが、ものを言ひ出す。
 
夏ならではのこころの練習として、ものがものを言ひ出すまで、からだを使つてみよう。そして、からだをもつて「見る」に徹してみよう。
 
その「動く」「見る」から聴きだされることば、伝へられる考へ、それらは、こころに直接響いてくる。小賢しく考へる必要がなく、それらのことばと考へが、こころに直接「訪れる」。
 
その訪れるものを「世の考へる」と、ここでは言つてゐる。
 
 
この『こよみ』を追つてゐると、まるで「いまの自分の生活、こころ模様そのものを記してゐるのではないか」と感じることがよくある。
 
もの想ひから抜け出す道を、わたしも、いま、探りつつ、汗を流して稽古をしつつ、歩いてゐる。
 
 
 
感官の啓けに沿ひつつ、
わたしはみづからを駆り立てるものを失つた。
夢のやうな考へ、それは輝いた、
己れを奪ひ去るかのやうにわたしを眠らせながら。
しかし、すでに目覚めさせつつわたしに迫つてゐる、
感官の輝きの中に、世の考へるが。
 
 
 
 


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2019年07月16日

こころのこよみ(第13週) 〜金色の輝きの中、歌ひ、踊る〜


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大阪市住吉区の生根神社の夏祭り 

 
そして、我あり、感官の高みに。
 
ならば、燃え上がる、我がこころの深みにおいて、
 
精神の火の世から、
 
神々のまことのことばが。
 
「精神の基にて、予感しつつ、探し求めよ、
 
あなたを精神の縁(えにし)とともに見いだすべく」
 
          ルドルフ・シュタイナー
 
 

Und bin ich in den Sinneshöhen,             
So flammt in meinen Seelentiefen            
Aus Geistes Feuerwelten                 
Der Götter Wahrheitswort:                
In Geistesgründen suche ahnend     
Dich geistverwandt zu finden.
 
 

 
これから始まる夏、草木の緑、色とりどりの花々、空の青、太陽の光と熱、活き活きと働いてゐるその自然のいちいちから、客観的な精神が人に語りかけてくる。
 
一行目の「我あり、感官の高みに」とは、ものといふもの、そのいちいちを、じつくりと見、聴き、触れ、味はふことを通して、普段見過ごし、聞き過ごしてゐるものが、よりものものしく、より明らかに、より動きを伴つて、見えてくる、聴こえてくるといふことと通じてゐる。
 
感官の高み。それは、こころの、細やかな、密やかな深まりとして、育まれるもの。
 
自然のいちいちに静かに眼差しを向け、その息遣ひに耳を傾けてみよう。
 
その密やかさのうちに、ことばが燃え上がるやうに響いてくる。
 
こころの深みにおいて、精神の火の世から、神々のまことのことばが。
 
「精神の基にて、予感しつつ、探し求めよ、
あなたを精神の縁とともに見いだすべく」
 
まことのことばを燃えるやうに人間に語りかけてゐる神々。
 
客観的な精神。
 
その外なる精神は、この季節、金色に輝いてゐる。
 
わたしたち人に燃え立つ炎のやうに語りかけてゐる金色の精神。
 
この夏の外なる精神の方々が発する金色の輝きを浴びるわたしたちは、冬、クリスマスの頃、みづからのこころの奥底、精神の基に、内なる金色を輝かせることができよう。
 
来たる冬に、精神に縁のある、金色に輝く己れみづからをしつかりと見いだすことができよう。
 
夏のいまは、外なる金色の光に応じるやうに、眼差しを注ぎ、耳を傾け、さらには、踊り、歌を歌ひながら音楽と詩を奏でることで、冬に見いだすものを予感しつつ、探し求めるのだ。
 
 
 
そして、我あり、感官の高みに。
ならば、燃え上がる、我がこころの深みにおいて、
精神の火の世から、
神々のまことのことばが。
「精神の基にて、予感しつつ、探し求めよ、
あなたを精神の縁(えにし)とともに見いだすべく」
 
 
 
諏訪耕志記
 
 


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2019年07月11日

こころのこよみ(第12週)  ヨハネ祭の調べ 〜子どもたちの歌声〜


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帝塚山古墳 

 
世の美しい輝き、
 
それは、わたしをこころの深みから切に誘ふ、
 
内に生きる神々の力を
 
世の彼方へと解き放つやうにと。
 
わたしは己れから離れ、
 
信じつつ、ただみづからを探し求める、
 
世の光と世の熱の中に。
 
        ルドルフ・シュタイナー
 
 
 
Johanni-Stimmung
Der Welten Schönheitsglanz,   
Er zwinget mich aus Seelentiefen
Des Eigenlebens Götterkräfte
Zum Weltenfluge zu entbinden; 
Mich selber zu verlassen,            
Vertrauend nur mich suchend           
In Weltenlicht und Weltenwärme.        
 
 
 
今週のこよみには「ヨハネ祭の調べ」といふ副題がついてゐる。
 
キリスト教が生まれる以前、古代諸宗教においては、夏至を一年の頂点とするお祭りが熱狂的に行はれてゐた。
 
人といふものを導く神は、太陽にをられる。
 
その信仰が人びとの生活を支へてゐた。
 
太陽がもつとも高いところに位置するこの時期に、太陽にをられる神に向かつて、人々は我を忘れて、祈祷をし、捧げものをし、踊り、歌ひながら、その祭りを執り行つてゐた。
 
洗礼者ヨハネは、その古代的宗教・古代的世界観から、まつたく新しい宗教・新しい世界観へと、橋渡しをした人であつた。
 
彼は、夏に生まれたといふだけでなく、いにしへの宗教における夏の熱狂を取り戻すべく、まさしく、炎のやうな情熱をもつて、ヨルダン川のほとりにおいて、全国から集まつてくる人々に水をもつて洗礼を授けてゐた。
 
しかし、彼は、これまでは太陽にあられた神が、まうすぐこの地上に降りてこられることを知つてゐた。 
  

   汝ら、悔い改めよ、天の国は近づけり
   (マタイ3.2)
 

そして、みづからの役目がそこで終はることをも知つてゐた。
 
 
   わが後に来たる者は我に勝れり、
   我よりさきにありし故なり
   (ヨハネ1.15)
 
   我は水にて汝らに洗礼を施す、
   されど我よりも力ある者きたらん、
   我はそのくつの紐を解くにも足らず。
   彼は聖霊と火とにて汝らに洗礼を施さん
    (ルカ3.16)
 
   彼は必ず盛んになり、我は衰ふべし
   (ヨハネ3.30)
 
 
ヨハネはイエスに洗礼を授け、イエスのこころとからだに、太陽の精神であるキリストが降り来たつた。
 
それは、太陽の精神が、その高みから降りて、地といふ深みへと降りたといふことであり、ひとりひとりの人の内へと降り、ひとりひとりの人の内において活き活きと働き始める、その大いなる始まりでもあつた。
 
「内に生きる神々しい力」とは、人の内にこそ生きようとしてゐる、キリストのこころざし(Christ Impuls)。
 
ヨハネがそのことに仕へ、みづからを恣意なく捧げたことが、四つの新約の文章から熱く伝はつてくる。
 
そのときからずつと、キリストは、この地球にあられる。
 
そのことをわたしたちは実感できるだらうか。
 
 
 

しかし、シュタイナーは、その実感のためには、ひとりひとりの人からのアクティビティーが要ると言つてゐる。
 
みづからの内において、キリストがあられるのを感じることは、おのづからは生じない。
 
人が世に生きるにおいて、みづからを自覚し、自律し、自立させ、自由に己れから求めない限りは、「内に生きる神々しい力」という実感は生まれ得ない。
 
ヨハネ祭は、もはや、古代の夏至祭りではなく、熱狂的に、我を忘れて祝ふものではなく、意識的に、我に目覚めて、キリストを探し求める祝ひ。
 
それは、この世を離れるのではなく、この世を踏まえつつ、羽ばたくといふ、わたしたち現代に意識的に生きる人といふ人の求めることでもある。
 
この夏の季節、キリストは息を吐くかのやうに、みづからのからだである地球から離れ、世の彼方にまで拡がつていかうとしてゐる。
 
わたしたち人も、キリストのそのやうな動き・呼吸に沿ふならば、己れから離れ、己れのからだとこころを越えて、精神である「みづから」を見いだすことができる。
 
 
 

生活の中で、わたしたちはそのことをどう理解していくことができるだらうか。
 
からだを使つて働き、汗を流し、学び、歌ひ、遊ぶ、それらの動きの中でこそ、からだを一杯使ふことによつてこそ、からだから離れることができ、こころを一杯使ふことによつてこそ、こころから離れることができ、「世の光と世の熱の中に」みづからといふ精神を見いだすことができる。
 
 
 

そして、この夏において、意識的に、子どもに、習ふこと。
 
わたしの目の前で、笹の葉にたんざくを吊るしながら、けらけら笑ひ、歌ひ、踊つてゐる子どもたち。
 
ヨハネ祭のとき、古代の人々は、鳥たちが歌ふことから学びつつ、その歌声を人間的に洗煉させて音楽と詩を奏で、歌ひ、踊つたといふ。
 
鳥たちの声の響きは、大いなる世の彼方にまで響き渡り、そしてその響きに応じて天から地球に精神豊かなこだまのやうなものが降りてくる。
 
このヨハネ祭の季節に、人は、夢のやうな意識の中で、鳥たちに学びつつ、歌ひ、踊ることによつて、己れから離れ、いまだ天に見守られてゐる<わたし>を見いだすことができた。
 
いまも、子どもたちは、幾分、古代の人たちの夢のやうな意識のありようを生きてゐる。
 
そんな夏の子どもたちの笑ひ声と歌声をさへぎりたくない。その響きはいまも彼方の世にまで届くのだから。
 
 
  

そして、わたしたちが己れから離れ、大いなる世、コスモスをより精神的に理解するほどに、子どもたちの歌声に対するエコーのやうに、ひとりひとりの<わたし>、「神々しい力」が、天に見守られてゐるのを見いだし、響き返してくれてゐるのを聴き取ることができ、この世の様々な状況に対応していく道を見いだしていくことができるのではないか。
 
言語造形をしてゐても、さう、実感してゐる。
 
夏至の頃に、キリストは世の高みと拡がりに至ることによつて、毎年繰り返して、昂揚感を覚えてゐると言ふ。
 
ヨハネ祭の調べ。
 
それは、ひとりひとりが外の世に働きかけることによつて、意識的に、目覚めつつ、みづからを高めつつ、みづからといふ精神を見いだすこと。
 
そこから、地上的なキリスト教ではなく、夏に拡がりゆくキリストの昂揚を通して、より大いなる世のキリストを見いだしていくこと。
 
そのことがキリスト以降、改められた夏の祭りとしての、ヨハネ祭の調べだと感じる。
 
 
 
世の美しい輝き、
それは、わたしをこころの深みから切に誘ふ、
内に生きる神々の力を
世の彼方へと解き放つやうにと。
わたしは己から離れ、
信じつつ、ただみづからを探し求める、
世の光と世の熱の中に。
 
  
 



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2019年07月07日

こころのこよみ(第11週) 〜白日の下の美しさ〜


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この太陽の時の中で、
 
あなたは、賢き知を得る。
 
世の美しさに沿ひつつ、
 
あなたの内にいきいきとあなたを感じ切る。
 
<人のわたし>は、みづからを失ひ、
 
そして、<世のわたし>の内に、みづからを見いだすことができる。
 
           ルドルフ・シュタイナー
 
 
 
Es ist in dieser Sonnenstunde   
An dir, die weise Kunde zu erkennen:      
An Weltenschönheit hingegeben,       
In dir dich fühlend zu durchleben:       
Verlieren kann das Menschen-Ich        
Und finden sich im Welten-Ich.        
 
 
 
「世の美しさ」とは、決して表側だけの美しさを言つてゐるのではないだらう。
 
「この太陽の時の中で」は、美しさも醜さも、素晴らしさも馬鹿馬鹿しさも、すべてが白日の下に晒される。
 
それらすべてが白日の下に晒され、光が当てられるからこそ、「世の美しさ」なのだ。
 
その晒されたものがなんであれ、人はそれを経験し、生きなければならない。そのやうな、のつぴきならないものが、「世の美しさ」として感じられるだらうか。そして、それに沿ふことができるだらうか。
 
どんな単純なものごとであれ、複雑なものごとであれ、どんな素晴らしいことであれ、酷いことであれ、わたしたちは、そのものごと、できごとを見くびらずに、その深みを見てとることができるだらうか。
 
ものごとは、なんであれ、付き合ひ続けて、沿ひ続けて、初めて、密やかに、その深さを打ち明け始める。
 
子どもの立ててゐる寝息や家族の笑顔。
 
草木や花々の健気ないのちの営み。
 
日々つきあつてゐる者同士の関係、愛、いさかひ、葛藤。
 
毎日移り変はつていく世の動向。
 
人びとの集団的意識の移り行き。
 
それらひとつひとつが、その深みを顕してくれるのは、はやばやと見くびつてしまわずに、こころをこめてそれに向き合ひ続け、沿ひ続けるときだ。
 
そして、ものごとに沿ふといふ行為の、肝腎要(かなめ)は、ものごとと<わたし>との関係において、何が過ぎ去らず、留まるものなのか、いつたい何が本質的なことなのか、といふ問ひをもつこと。
 
それが精神を通はせつつものごとに沿ふことの糸口になる。からだをもつて振る舞ひ、こころから行為していくことの糸口になる。
 
その時、捨てようとしなくても、人は狭く小さなわたしを捨てることができるかもしれない。
 
そして、はるかに広やかではるかに深みをもつた<世のわたし>の内に、「賢き知」と、他の誰のでもない、自分自身のこころざしが、立ち上がつてきはしないか。
 
 
 
この太陽の時の中で、
あなたは、賢き知を得る。
世の美しさに沿ひつつ、
あなたの内にいきいきとあなたを感じ切る。
<人のわたし>は、みづからを失ひ、
そして、<世のわたし>の内に、みづからを見いだすことができる。
 
 

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2019年06月24日

こころのこよみ(第10週) 〜お天道様が見てゐるよ〜


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堺の宿院の上空 

 
夏の高みへと
 
太陽が、輝くものが、のぼる。
 
それはわたしの人としての情を連れゆく、
 
広やかなところへと。
 
予感しつつ、内にて動く、
 
感覚。ぼんやりとわたしに知らせつつ。
 
あなたはいつか知るだらう、
 
「神なるものが、今、あなたを感じてゐる」
 
        ルドルフ・シュタイナー
 
 
Zu sommerlichen Höhen            
Erhebt der Sonne leuchtend Wesen sich;     
Es nimmt mein menschlich Fühlen       
In seine Raumesweiten mit.           
Erahnend regt im Innern sich          
Empfindung, dumpf mir kündend,        
Erkennen wirst du einst:            
Dich fühlte jetzt ein Gotteswesen.       
 
 
 
 
これから来たる夏の太陽の光と熱によつて、植物の緑が、花のとりどりの色となつて、上へ上へと燃え上がる。
 
鳥たちが、虫たちが、いよいよ高らかに、軽やかに、夏の青空の高みに向かつて、鳴き声を響かせ、大いなる世、宇宙にその響きが拡がつていく。
 
太陽によつて引き起こされるそんな植物と動物たちの働きが、わたしたちの周りの夏の空気に働きかけてゐるのを、わたしたちは感じることができるだらうか。
 
もし、さういふことごとを人が感じつつ、来たる夏を生きることができるならば、みづからの、人ならではのところ、人であること、わたしであることもが、ここよりも、さらに、高いところに、さらに広やかなところにのぼりゆき、天によつて見守られることを、情として感じることができるだらうか。
 
 
「お天道様が見てゐるよ」
幼い頃、このことばを親たちからよく聞いた。
 
おそらく、そのことばは、古来、日本人がずつと我が子どもたちに言ひ伝へてきたものだらう。
 
「お天道様」それは、太陽の神様であり、わたしたちに警告を発しつつ、わたしたちを見守つてゐる存在として、常に高みにあるものとして感じてゐたものだつたのだらう。
 
そして、いま、わたしたちは、その「お天道様」を、人の人たるところ、<わたし>であるところとして、感じてゐるのではないだらうか。
 
「神なるものが、いま、あなたを感じてゐる」とは、「高い<わたし>こそが、いま、低い、普段の、わたしを見守つてくれてゐる」「お天道様が、いま、あなたを見てゐる」といふことかもしれない。
 
天照大御神のみことば。
「これの鏡はもはら我(わ)が御魂として吾(あ)が前を拝(いつ)くがごと拝き奉れ」
 
わたしたちは、自分自身のこれまでの見方や感じ方や考へ方から離れて、改めて、この季節だからこそ、「お天道様」に見守られてゐることを感じ、「お天道様」からの視点、「おのづから」なありかたで、生きていくことができるだらうか。
 
見る眼を磨き、耳を澄ますなら、きつと、予感と感覚が、教へてくれるだらう。
 
 
 
夏の高みへと
太陽が、輝くものが、のぼる。
それはわたしの人としての情を連れゆく、
広やかなところへと。
予感しつつ、内にて動く、
感覚。ぼんやりとわたしに知らせつつ。
あなたはいつか知るだらう、
「神なるものが、今、あなたを感じてゐる」
 

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2019年06月17日

こころのこよみ(第9週) 〜大いなる父なるもの〜


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天王寺の茶臼山の上空 

 
我が意欲のこだわりを忘れ、
 
夏を知らせる世の熱が、満ちる、
 
精神とこころのものとしてのわたしに。
 
光の中でわたしを失くすやうにと、
 
精神において観ることがわたしに求める。
 
そして強く、予感がわたしに知らせる、
 
「あなたを失ひなさい、あなたを見いだすために」
 
 
 
Vergessend meine Willenseigenheit,
Erfüllet Weltenwärme sommerkündend
Mir Geist und Seelenwesen;
Im Licht mich zu verlieren
Gebietet mir das Geistesschauen,
Und kraftvoll kündet Ahnung mir:
Verliere dich, um dich zu finden.  
 
 
 
「わたしは、これをしたい、あれをやりたい、これをしなければ、あれをしなければ・・・」
 
そのやうな意欲といふものも、内なる「熱」と言つていいのだけれども、その意欲の中にある「こだわり」を忘れることができるだらうか。「・・・しなければ」といふやうな「恐れ」を忘れることができるだらうか。
 
朝、陽の光が輝き出すと、その熱が、来たる夏を知らせてくれてゐるやうに感じる。
 
そして、「熱いなあ」と感じるだけにせずに、ずつと、その熱に問ひかけるやうに、してゐると、その陽の光から発せられてゐる熱は、自分が抱いてゐる意欲の熱よりも、はるかに、はるかに、巨大で、太陽の意欲は、わたしの意欲よりも、はるかに、はるかに、強く、深く、遠くを見通してゐるかのやうな豊かさであると感じる。
 
そのやうな意欲の大いなる力は、太陽を通して、どこから来るのだらう。
 
シュタイナーは、『世と人のなりかはり』(全集175巻)の中で、「父なるもの」からだと話してゐる。
 
その「父なるもの」「そもそも世を創りし方、そしていまも創り続けてゐる方」と人との出会ひは、ひとりひとりの生涯の内に一度はきつとある。
 
人生の中で、己れといふもののこだはりを脱ぎ捨てられたことで、夏の太陽のやうな巨大な輝きと熱、感動と驚きと畏敬の念いに満たされる時、その出会ひは生じる。
 
だから、子どもの頃、丁度、これから始まる夏にかけて、大いなる天空を仰ぎ、そこに拡がる星ぼしに想ひを重ね、自分の感情と意欲を大いなる叡智に沿はせていくことは、人生にきつと一度は生じる「父なるもの」との出会ひに向けた良き備へになる。
 
人生の中で、このことばが、予感として、響くときが、きつとある。
 
光の中で、あなたを失ひなさい、あなたを見いだすために
 
 
我が意欲のこだわりを忘れ、
夏を知らせる世の熱が、満ちる、
精神とこころのものとしてのわたしに。
光の中でわたしを失くすやうにと、
精神において観ることがわたしに求める。
そして強く、予感がわたしに知らせる、
「あなたを失ひなさい、あなたを見いだすために」
 
 
 


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2019年06月14日

こころのこよみ(第8週) 〜聖霊が降り給ふ日々〜


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感官の力が長けゆく、
 
神々の創り給ふものに結びつけられて。
 
それは考へる力を沈める、
 
夢のまどろみへと。
 
神々しいものが、
 
わたしのこころとひとつにならうとする時、
 
きつと人の考へるは、
 
夢のやうなありやうの中で、静かに慎んでゐる。
 
           ルドルフ・シュタイナー 
 
 
※ Denken といふ名詞を「思考」とは訳さずに、「考へる」としてゐます。 denken といふ動詞(考へる)から生まれてゐるがゆゑ、その活き活きとした働きを殺さないやう、名詞でありながら、動詞的に訳してゐます。
 
 

Es wächst der Sinne Macht          
Im Bunde mit der Götter Schaffen, 
Sie drückt des Denkens Kraft           
Zur Traumes Dumpfheit mir herab.
Wenn göttlich Wesen           
Sich meiner Seele einen will,
Muß menschlich Denken  
Im Traumessein sich still bescheiden. 
 
 
 
 
感官の力(見る力や聴く力など)は、ものに吸ひ寄せられてしまふこともあるだらう。たとへば、テレビやこのコンピューターの画面などに。
 
しかし、ものに吸ひ寄せられたままではなく、感官の力を、もつと意識的に、意欲的に、働かせ、じつくりと腰を据ゑて、何かを見る、何かに耳を澄ませてみる・・・。
 
考へる力が鎮められ、沈められる位、見てみる、聴いてみる。
 
見れど飽かぬも、まさに、見てとればいよいよ飽かぬも。
 
なぜ、飽きないのだらうか。
 
それは、見てとる、見る、見ゆ、とこころの働きを遡つてゆくと、そこに「愛でる」、つまり、「愛する」があるからだ。
 
人は、愛してゐるものしか、実は見てゐない。
 
そのとき、そのときの、「愛する」こころの働きから、ものが初めてものものしく見えてくるのであり、そこに、からだのおほいさ、実用の大事さが披かれる。
 
その時のこころのありやうは、むしろ、「考へるは、夢のやうなありやうの中で、静かに慎んでゐる」と表現することがぴつたりとする。
 
さうすると、わたしたちは、何を受け取り、どのやうに感じるだらう。
 
 
 

復活祭の五十日後は、聖霊降臨祭の週でもある。
 
約二千年前、十字架刑の三日後にキリストは甦り(復活)、その後四十日間に渡つてキリストは精神のからだをもつて現はれ、当時の弟子たちに親しく語りかけたといふ。
 
しかし、キリストはその後十日間、弟子たちの前からその姿を消したといふ(昇天)。
 
その十日の間、弟子たちは「夢のやうなありやうの中で静かに慎んで」ゐた。
 
ひとところに集まつて、静かに熱く、しかし夢にまどろんでゐるやうなありかたで祈つてゐた。
 
そして、聖霊降臨の日、それは聖霊(聖き精神)が、ともに集つてゐる弟子たちに初めて降りてきて、弟子たちがさまざまな言語をもつて(個人個人がおのおの自分のことばで)、そのキリストのことばとしての聖き精神を語り始めた日だつた。
 
前週において、「さあ、来たれ、わたしの予感よ、考へる力に代はつて」とみづからの精神に呼びかけた。
 
その「予感」への呼びかけとは、こざかしく考へることを止めて、より大いなるものからの流れ(世の考へ・キリストのことば)に耳を傾けるといふ行為だつた。
 
それは、「静かに慎む」ありやうをもつて、みづからを浄めつつ大いなるものからの流れを待つといふ行為でもある。
 
二千年後のわたしたちは、考へる力が失はれてくるこの季節においても、そのやうな備へをしようとアクティブにみづからをもつていくならば、「神々しいものが、わたしのこころとひとつになる」聖霊降臨祭を、自分たちのいまゐる場所で創つていくことができるかもしれない。
 
「すべては神々の創り給ふものである」「神々しいものとこころがひとつになる」といつたことを、読む、言ふにとどまらず、予感し、実感し、見て、そのことを生きていくために、からだを通して、実際の練習を意識的にしつづけていくことの大切さを感じる。
 
教育であれ、芸術であれ、そこに、アントロポゾフィーの社会性が育つていく基盤があるのではないだらうか。
 
 
 
感官の力が長けゆく、
神々の創り給ふものに結びつけられて。
それは考へる力を沈める、
夢のまどろみへと。
神々しいものが、
わたしのこころとひとつにならうとする時、
きつと人の考へるは、
夢のやうなありやうの中で、静かに慎んでゐる。
 

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2019年06月01日

こころのこよみ(第7週)〜さあ、来たれ、わたしの予感よ〜


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わたしのわたしたるところ、
  
それはいまにも離れ去らうとしてゐる、
 
世の光に強く引き寄せられて。
 
さあ、来たれ、わたしの予感よ、
 
あなたの力に満ちたふさわしさの中に、
 
考へる力に代はつて。
 
考へる力は感官の輝きの中で、
 
みづからを見失はうとしてゐる。
 
        ルドルフ・シュタイナー
 
 
 
Mein Selbst, es drohet zu entfliehen,
Vom Weltenlichte mächtig angezogen.
Nun trete du mein Ahnen
In deine Rechte kräftig ein,
Ersetze mir des Denkens Macht,
Das in der Sinne Schein
Sich selbst verlieren will.
 
 
 
 
人は、芸術に取り組むとき、ある種の息吹きを受ける。
 
シュタイナーは、そのやうな、芸術をする人に大いなる世から吹き込まれる息吹きを、インスピレーションと呼んだ。
 
(Inspiration は、ラテン語の insprare (吹き込む)から来てゐる)
 
一年の巡りで言へば、わたしたちは、秋から冬の間に吸ひ込んだ精神の息、精神の風、「インスピレーション」を、春から夏の間に芸術行為をもつて解き放たうとしてゐる。
 
秋から冬の間、「わたしのわたしたるところ」「考へる力」はそのインスピレーションを孕(はら)むことができたのだ。
 
その「わたしのわたしたるところ」「考へる力」が、変容して、春から夏の間のこの時期、意欲の力として、からだを通して息が吐かれるやうに、大いなる世へと拡がつていかうとしてゐる。
 
 
「わたしのわたしたるところ、
 それはいまにも離れ去らうとしてゐる」
 
 
その精神の吐く息に連れられて、芸術行為を通して「わたしのわたしたるところ」「考へる力」は、外の世に拡がつてゆく。働きかけてゆく。
 
芸術をするとは、頭で考へることを止めて、みづから頭が空つぽになるまで手足を働かせることである。
 
それは、世の光に引き寄せられることであり、自分のからだの外にこころが出て行くことである。
 
 
「世の光に強く引き寄せられて」
 
 
さうして、外へと出て行くほどに、光の贈りものをいただける。 
 
その光の贈りものとは、「予感」といふ、より高いものからの恵みである。
 
 
「さあ、来たれ、わたしの予感よ、
 あなたの力に満ちたふさわしさの中に、
 考へる力に代はつて」
 
 
芸術とは、インスピレーションといふ世の風に吹き込まれつつ、予感といふ世の光に従ふことである。
 
練習を通して初めてやつてくる予感に沿つていくことである。練習とは、身を使ふことである。
 
秋から冬、インスピレーションを孕んだ考へる力が、まづは頭から全身に働きかける。
 
その精神の息吹きを、春から夏、練習によつて、解き放つていく。
 
その息吹きが練習によつて解き放たれるその都度その都度、予感が、光として、ある種の法則をもつたものとしてやつてくる。
 
インスピレーションが、胸、腕、手の先、腰、脚、足の裏を通して、息遣ひを通して、芸術として世に供され、供するたびに、芸術をする人はその都度、予感をもらえるのだ。
 
この小さな頭でこざかしく考へることを止めて、やがて己れに来たるべきものを感じ取らうとすること。
 
「さあ、来たれ、わたしの予感よ」と精神に向かつて呼びかけつつ、動きつつ、待つこと。
 
それは、秋から冬の間、明らかに紛れなく考へる働きとは趣きがまるで違ふが、アクティビティーにおいては、それに負けないぐらゐの強さがゐる。
 
世から流れてくるものを信頼すること。
 
そして、そのやうな、身の働きの中で、芸術行為の中で、予感が恩寵のやうにやつてくる。
 
だから、この季節において、考へる力は、感官の輝きの中で、手足の働きの中で、意欲の漲りの中で、見失はれていいのだ。
 
 
「考へる力は感官の輝きの中で、
 みづからを見失はうとしてゐる」
 
 
そして、積極的に手足を使つて、息を解き放ち、力を揮つて、感官の輝きの中で、創造に勤しむのだ。
 
 
 
わたしのわたしたるところ、
それはいまにも離れ去らうとしてゐる、
世の光に強く引き寄せられて。
さあ、来たれ、わたしの予感よ、
あなたの力に満ちたふさわしさの中に、
考へる力に代はつて。
考へる力は感官の輝きの中で、
みづからを見失はうとしてゐる。
 
 

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2019年05月26日

こころのこよみ(第6週) 〜何気ない振る舞ひの中の神々しさ〜


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平櫛田中作「幼児狗張子(ようじいぬはりこ)/1911」 

 
己れであることから甦る、
 
わたしのわたしたるところ。そしてみづからを見いだす、
 
世の啓けとして、
 
時と場の力の中で。
 
世、それはゐたるところでわたしに示す、
 
神々しいもとの相(すがた)として、
 
わたしの末の相(すがた)のまことたるところを。
 
          ルドルフ・シュタイナー 
 
 
 
Es ist erstanden aus der Eigenheit  
Mein Selbst und findet sich
Als Weltenoffenbarung             
In Zeit- und Raumeskräften;         
Die Welt, sie zeigt mir überall
Als göttlich Urbild
Des eignen Abbilds Wahrheit.
 
 
 
じつくりと見る。
じつくりと聴く。
じつくりと受けとる。
 
そのやうに世に向かつて、人に向かつて、意識的に感官を開くほどに、世も人も、ものものしく語りだす。
 
そして、世と人に向かつて我が身を披けば披くほど、我がこころが起き上がつてくる、立ち上がつてくる、甦つてくる。
 
たとへば、幼い子どもを育ててゐるとき、大人の忙しさについつい子どもを巻き込んでしまうことがある。
 
そんな時、よく子どもは大人の意向にことごとく反発して、ぐずつたり、泣きわめいたりする。
 
しかし、この「忙しさ」といふこころの焦りに、大人であるわたしみづからが気づけた時、目の前の子どもにじつくりと眼を注ぐことができた時、子どもの息遣ひに耳をじつくりと傾けることができた時、子どもが落ちつくことが、よくある。
 
そんな時、子どもがいつさう子どもらしく輝いてくる。その子が、その子として、啓けてくる。
 
そして、さうなればなるほど、眼を注いでゐるわたし自身のこころも喜びと愛に目覚めてくる。わたしが、わたしのこころを取り戻してゐる。
 
子どもを育ててゐる毎日は、そんなことの連続。
 
きつと、子どもだけでなく、お米その他の作物をつくつたり、育てたりすることにおいても、それを毎日してゐる人には、同じやうなことが感じられてゐるのではないだらうか。
 
子どもがゐてくれてゐるお陰で、他者がゐてくれてゐるお陰で、ものがあつてくれるお陰で、わたしはわたしのわたしたるところ、わたしのまことたるところを見いだすことができる。
 
他者といふ世、それはこちらが眼を注げば注ぐほどに、いたるところでわたしにわたしのまことたるところを示してくれる。
 
他者に、世に、わたしのまことたるところが顕れる。
 
そして、そのわたしのまことたるところが、神々しい元の相(すがた)に相通じてゐる。
 
人は、そもそも、神々しいもの。
 
その神々しさは、日々の何気ない振る舞ひ、ことば遣ひ、眼差しといふ「わたしの末の相(すがた)」の中に、ふと、顕れる。
 
その日々の何気ない相に、神々しいもとの相、人としてのまことたるところが、ふと、示される。
 
生活の中に、他者の中に、己れのふとした振る舞ひの中に、神々しいものが顕れる。
 
そんな、日々、つきあつてゐるものといふものや他者を通してこそ、啓いていくことができる信仰のことを、今週のこよみは歌つてゐる。
 

 
 
己れであることから甦る、
わたしのわたしたるところ。そしてみづからを見いだす、
世の啓けとして、
時と場の力の中で。
世、それはゐたるところでわたしに示す、
神々しいもとの相(すがた)として、
わたしの末の相(すがた)のまことたるところを。
 
 

諏訪耕志記
 
 
 

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2019年05月19日

こころのこよみ(第5週) 〜セザンヌ 画家の仕事とは〜


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精神の深みからの光の中で、
 
その場その場で実り豊かに織りなしつつ、
 
神々の創りたまふものが啓かれる。
 
その中に、こころそのものが顕れる、
 
ありありとした世へと広がりつつ、
 
そして立ち上がりつつ、
 
狭い己れの内なる力から。
 
        ルドルフ・シュタイナー
 
 
 
Im Lichte, das aus Geistestiefen
Im Räume fruchtbar webend
Der Götter Schaffen offenbart:
In ihm erscheint der Seele Wesen
Geweitet zu dem Weltensein
Und auferstanden
Aus enger Selbstheit Innenmacht.
 
 
 
画家とは、何をする人なんだらう。セザンヌの絵を観て、そのことを考へさせられる。
 
道楽で絵を描くのではなく、「仕事」として絵を描くとは、どういふことか。
 
セザンヌのことばによると、「感覚を実現すること」、それが彼にとつて絵を描くことによつてなしていきたいことであり、彼の「仕事」だつた。
 
彼が強い意欲をもつて、ものを見ようとすればするほど、ものの方が、彼をぢつと見つめる、自然が自然そのものの内に秘めてゐる持続的な、強い、時に巨大な「もの」を彼に流し込んでくる。それはすでに感官(目や耳などの感覚器官)を超えて受信される「もの」である。
 
そして、自然からのそのやうな「もの」の流れに応じるかのやうに、あまりにも巨大なセザンヌ自身の「こころそのもの」が顕れる。
 
その場その場の自然から流れ込んでくる「もの」。そして、立ち顕れてくる彼自身の「こころそのもの」。
 
そのふたつが出会ふとき、そこに、垂直の世が立ち顕れる。
 
なじみの眼の前に拡がるのは、どこまでも、水平の世であるが、画家がそのやうに見つめるその場その場において、精神の光が豊かに流れ込んでくる垂直の世が立ち顕れるのだ。
 
その垂直の光景を、キャンバスの上に、色彩で顕わにしろと、彼は自然そのものに求められる。
 
その求めに応へるのが、「感覚の実現」であらうし、彼の仕事であつた。その求めに応へ続けたのが、彼の生涯だつた。
 
世は、人に、「その場その場で実り豊かに織りなしつつ神々が創りたまふもの」を啓いてほしいと、希つてゐる。
 
なぜなら、それによつて、人は、「 狭い己れの内なる力から、ありありとした世へと広がりつつ、自分の足で立ち上がりつつ、自分自身のこころそのものを顕わにする」ことができるからなのだらう。
 
セザンヌは、そのことを、意識的になさうとした人だと感じる。
 
 
 
精神の深みからの光の中で、
その場その場で実り豊かに織りなしつつ、
神々の創りたまふものが啓かれる。
その中に、こころそのものが顕れる、
ありありとした世へと広がりつつ、
そして立ち上がりつつ、
狭い己れの内なる力から。
 
 

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2019年05月14日

こころのこよみ(第4週) 〜主と客、重ねてあわせて「わたし」〜


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平櫛田中作「蕉翁像」

 
「わたしは、わたしのわたしたるところを感じる」
 
さう感覚が語る。
 
それは陽のあたる明るい世の内で、
 
光の流れとひとつになる。
 
それは「考へる」に、
 
明るくなるやうにと、暖かさを贈り、
 
そして人と世を、
 
ひとつに固く結びつけようとする。
 
      ルドルフ・シュタイナー
 
 
Ich fühle Wesen meines Wesens:
So spricht Empfindung,
Die in der sonnerhellten Welt
Mit Lichtesfluten sich vereint;
Sie will dem Denken
Zur Klarheit Wärme schenken
Und Mensch und Welt
In Einheit fest verbinden.
 
 
 
シュタイナーがここで使つてゐる「感覚(Empfindung)」といふことばは、「受けて(emp)見いだす(finden)」からできてゐることばだ。
 
感覚には、人によつて受けて見いだされた光、色、響き、熱、味、触などがある。
 
これらは、外から人に向かつてやつてくるものである。
 
しかし、感覚は人の内からもやつてくる。
 
からだの内からやつてくる空腹感や疲労感、こころの内からやつてくる意欲や感情や考へも、感覚なのだ。
 
なぜなら、みづからのからだもこころも、世の一部だからだ。
 
色や響きなど、外からのものを、人は感覚する(受けて見いだす)し、情や意欲や考へといふ内からのものをも、人は感覚する(受けて見いだす)。
 
しかし、外からの感覚は、外からのものとして客として迎へやすいのだが、内からの感覚は、内からのものであるゆゑに、客として迎へにくい。
 
主(あるじ)としてのみづからと、客である情や意欲や考へとを一緒くたにしてしまいがちだ。
 
主と客をしつかりと分けること、それは客を客としてしつかりと観ることである。
 
みづからの情や意欲や考へを、まるで他人の情や意欲や考へとして観る練習。
 
明確に主(あるじ)と客を分ける練習を重ねることで、分けられた主と客を再びひとつにしていく力をも見いだしていくことができる。
 
その力が、こころを健やかにしてくれる。
 
主と客を明らかに分けるといふことは、主によつて、客が客として意識的に迎へられる、といふことでもあらう。
 
そして、やつてくる客に巻き込まれるのではなく、その客をその都度ふさわしく迎へていくことに習熟していくことで、主は、ますます、主として、ふさわしく立つていく力を身につけていくことだらう。
 
人が、外からのものであれ、内からのものであれ、その客を客として意欲的に迎へようとすればするほど、客はいよいよみづからの秘密を明かしてくれる。
 
感覚といふ感覚が、語りかけてくる。
 
客のことばを聴くこと。それが主(あるじ)の仕事である。
 
外の世からの感覚だけでなく、考へ、感じ、意欲など、内に湧き起つてくる感覚を、しつかりと客として迎へる仕事をするほど、その客が語りかけてきてゐることばを聴かうとすればするほど、わたしは「わたしのわたしたるところ」を日々、少しずつ、太く、深く、大きく、成長させていく。
 
その仕事によつて、わたしは、みづからの狭い限りを越えて、「わたしのわたしたるところ」をだんだんと解き明かしていくことができる。
 
主によつて客が客として迎へられるといふのは、客によつて主が主として迎へられるといふことであるだらう。
 
またそれは、主と客が心理的にまぜこぜになるといふことではなく、精神的にひとつになるといふ、人と世との、もしくは人と人との、出会ひの秘儀とも言つていいものではないだらうか。
 
そして、主と客がひとつになるときに、「わたし」(わたしのわたしたるところ)がいよいよ明らかなものになつていく。
 
つまり、主=「わたし」ではなく、主+客=「わたし」なのだ。
 
たとへば、セザンヌの絵や彼の残したことば、もしくは、芭蕉の俳諧などに接し続けてゐると、ものとひとつになることを目指して彼らがどれほど苦闘したか、だんだんと窺ひ知ることができるやうになつてくる。
 
彼らは、世といふもの、こころといふものの内に潜んでゐる大きな何かを捉へることに挑み、そのプロセスの中で壊され、研がれ、磨かれ、その果てにだんだんと立ち顕れてくる「人のわたし」といふものへと辿りつかうとした。
 
彼らは、色彩といふもの、こころといふもの、さらに風雅(みやび)といふものと、どこまでも辛抱強く向き合ひ、その上で、ひとつにならうとする仕事を死ぬまでやり通した人たちだ。
 
ものとひとつになるときこそ、「人のわたし」ははつきりと立ち顕れてくることを彼らは知つてゐた。
 
感覚を客としてふさわしく迎へれば迎へるほど、それは、「わたしのわたしたるところ」の拡がりと深みを語つてくれる。
 
また、わたしはそのことばを情で聴き取るにつれて、わたしは、客について、己れについて、さらには「わたし」について、明るく、確かに、考へることができる。
 
そして、わたしと世がひとつであることへの信頼感をだんだんと得ていくことができる。
 
 
 
「わたしは、わたしのわたしたるところを感じる」
さう感覚が語る。
それは陽のあたる明るい世の内で、
光の流れとひとつになる。
それは「考へる」に、
明るくなるやうにと、暖かさを贈り、
そして人と世を、
ひとつに固く結びつけようとする。
 



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2019年05月05日

こころのこよみ(第3週) 〜「語る」とは「聴く」こと〜


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ナショナル ジオグラフィック協会の「世界の美しい鳥たちより」

世のすべてに語りかける、
 
己れを忘れ、
 
かつ、己れのおほもとを肝に銘じながら、
 
人の育ちゆく<わたし>が、語りかける。
 
「あなたの内に、わたしは解き放たれる、
 
わたし自身であることの鎖から。
 
そして、わたしはまことわたしたるところを解き明かす」
 
          ルドルフ・シュタイナー
 
 
Es spricht zum Weltenall,
Sich selbst vergessend 
Und seines Urstands eingedenk,
Des Menschen wachsend Ich:
In dir befreiend mich
Aus meiner Eigenheiten Fessel,
Ergründe ich mein echtes Wesen.
 
 
 
「語る」とは、「聴く」ことである。
 
そのことが、言語造形をしてゐるとリアルに感じられてくる。
 
語り手みづからが聴き手となること。
 
頭で考へないで、聴き耳を立てながら、語るやうにしていく。ひらめきが語りを導いてくれるやうに。
 
「ひらめき」とは、語り手の己が空つぽになり、その空つぽになつたところに流れ込んでくる「ことばの精神」。それはまるで、からだにまで流れ込んでくる生きる力のやうだ。
 
その「ひらめき」「ことばの精神」は、聴き耳を立てるかのやうにして待つことによつて、語り手に降りてくる。
 
「語る」とき、自分が、かう語りたい、ああ語りたい、といふことよりも、「ことばといふもの」「ことばの精神」に、耳を傾け、接近し、沿つていきつつ語る。
 
己れを忘れて、かつ、己れのおほもと(ことばの精神)を頼りにしながら、語り、語り合ふことができる。
 
そのやうに、語り手が「ことばの精神」に聴き耳を立てながら語ることによつて、聴き手も「ことばの精神」に聴き耳を立てる。
 
そのやうな「ことばの精神」と親しくなりゆくほどに、語り手、聴き手、双方の内なる<わたし>が育ちゆく。
 
 
だから、今週の「ことばのこよみ」での、「世のすべてに語りかける」とは、世のすべてから流れてくる「ことばの精神」に耳を傾けることでもある。
 
そのときに流れ込んでくる「ものものしい精神」「ありありとした精神」を感じることによつて、わたしは解き放たれる。みづからにこだはつてゐたところから解き放たれる。
 
だから、たとへば、「他者に語りかける」時には、こちらから必ずしもことばを出さなくてもよく、むしろ、「他者をよく観る、他者の声に聴き耳を立てる」といふこと。
 
そのやうな「語り合ひ」「聴き合ひ」においてこそ、人は、みづからを知りゆく。「ああつ、さうか、さうだつたのか!」といふやうな、ものごとについての、他者についての、みづからについての、解き明かしが訪れる。
 
互ひがよき聴き手であるときほど、対話が楽しくなり、豊かなものになる。
 
特に、この季節、自然といふものをよく観ることによつて、聴き耳を立てることによつて、他者をよく観ることによつて、他者のことばに聴き耳を立てることによつて、自然との対話の内に、他者との対話の内に、わたしは、わたし自身であることの鎖から解き放たれる。そして、わたしは、まことわたしたるところを解き明かす。
 
芽吹き、花開くものたちにたつぷりと沿ふ喜びを積極的に見いだしていきたい。
 
 
 
世のすべてに語りかける、
己れを忘れ、
かつ、己れのおほもとを肝に銘じながら、
人の育ちゆく<わたし>が、語りかける。
「あなたの内に、わたしは解き放たれる、
わたし自身であることの鎖から。
そして、わたしはまことわたしたるところを解き明かす」
 
 


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2019年04月27日

こころのこよみ(第2週) 〜こころの農作業〜


こころのこよみ (第2週) です。
 
眼、耳、その他、十二のすべての感官を活発に働かせる。それは、せわしなく動かないこと、小賢しく考へないことと、ひとつです。
 
自分のしてゐること、しようとしてゐることの実り(結果)が、すぐに目の前に現れはしなくても、この春に耕した土からは、秋の終わりに実りをもたらしてくれます。
 
耕されることを待つてゐる土とは、わたしたちのこころです。
 
春、龍は天に昇り、わたしたち人を世の広やかさ、高さ、奥行きの深さへといざなつてくれようとしてゐます。
 
その龍は大空に雲となつて姿を垣間見せてくれることもありますが、人のこころの内側の天空に向かつて昇りゆく存在です。
 
その内なる存在を感じながら、小賢しく考へず、ただただ、花を觀るとき、わたしたちはその花の精神に触れ、自分自身の精神が芽吹いてくることを感じるのです。
 
ひとつの花には、その奥、その向かうがあるのです。
 
この春、その奥、向かうへの感覚を育むほどに、半年後の秋には、龍がこの地へと降りてくるに従つて考へる力が冴えわたり、頭が澄み切つてくるでせう。
 
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外なるすべての感官のなかで、
 
考への力はみづからのあり方を見失ふ。
 
精神の世は見いだす、
 
再び、人が芽吹いてくるのを。
 
その萌しを、精神の世に、
 
しかし、そのこころの実りを、
 
人の内に、きつと、見いだす。
 
        ルドルフ・シュタイナー
 
 
Ins Äußre des Sinnesalls
Verliert Gedankenmacht ihr Eigensein;
Es finden Geisteswelten
Den Menschensprossen wieder,
Der seinen Keim in ihnen,
Doch seine Seelenfrucht
In sich muß finden.
 
 
わたしは、目を、耳を、もつと働かせることができるはずだ。全身全靈で、ものごとにもつと集中して向かひ合ふことができるはずだ。身といふものは、使へば使ふほどに、活き活きと働くことができるやうになつてくる。
 
たとへば、自然に向かひ合ふときにも、たとへば、音樂に耳を傾けるときにも、この外なるすべての感官を通して意欲的に見ること、聴くことで、まつたく新たな経験がわたしの中で生まれる。
 
ときに、からだとこころを貫かれるやうな、ときに、浮遊感を伴ふやうな、ときに、もののかたちがデフォルメされて突出してくるやうな、そのやうな感覺を明るい意識の中で生きることができる。
 
「外なるすべての感官の中で、考への力はみづからのあり方を見失ふ」とは、感覺を全身全靈で生きることができれば、あれこれ、小賢しい考へを弄することなどできない状態を言ふのではないか。
 
このやうないのちの力に滿ちたみづみづしい人のあり方。それは、精神の世における「萌し」「芽吹き」だらう。
 
春になると、地球は息を天空に向かつて吐き出す。だからこそ、大地から植物が萌えはじめる。
 
そして、地球の吐く息に合はせるかのやうに、人のこころの深みからも、意欲が芽吹いてくる。
 
春における、そんな人の意欲の萌し、芽吹きは、秋になるころには、ある結実をきつと見いだすだらう。
 
春、天に昇る龍は、秋、地に下り行く。
 
その龍は聖なる龍だ。
 
それは、きつと、この時代を導かうとしてゐる精神ミヒャエルに貫かれた龍だらう。
 
秋から冬にかけてキリストと地球のためにたつぷりと仕事をしたミヒャエルは、その力を再び蓄へるために、春から夏にかけて、キリストと地球のこころとともに、大いなる世へと、天へと、帰りゆく。そしてまた、秋になると、ミヒャエルは力を蓄へて、この地の煤拂ひに降りてきてくれるのだ。
 
わたしたちの意欲もミヒャエルの動きに沿ふならば、春に、下から萌え出てき、感官を通して、ものを觀て、聴いて、世の精神と結びつかうとする。
 
そして、秋には、上の精神からの力をもらひつつ再び降りてきて、地に実りをもたらすべく、方向性の定まつた活きた働きをすることができる。
 
だから、春には春で意識してやつておくことがあるし、その実りをきつと秋には迎へることができる。
 
それは、こころの農作業のやうなものだ。
 
 
 
外なるすべての感官のなかで、
考への力はみづからのあり方を見失ふ。
精神の世は見いだす、
再び、人が芽吹いてくるのを。
その萌しを、精神の世に、
しかし、そのこころの実りを、
人の内に、きつと、見いだす。
 
 

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