[こころのこよみ(魂の暦)]の記事一覧

2020年01月19日

こころのこよみ(第41週)〜心臓からほとばしりでる力〜



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こころから生み出す力、
 
それは心(臓)の基からほとばしりでる。
 
人の生きる中で、神々の力を、
 
ふさはしい働きへと燃え上がらせるべく、
 
おのれみづからを形づくるべく、
 
人の愛において、人の仕事において。
 
 
 
 
Der Seele Schaffensmacht
Sie strebet aus dem Herzensgrunde
Im Menshenleben Götterkräfte
Zu rechtem Wirken zu entflammen,
Sich selber zu gestalten 
In Menschenliebe und im Menschenwerke.
  

 
 
人は、善きこと、素晴らしいことを、
大いに考へることはできても、
それを行為にまで移していくことには、
難しさを感じるのではないだらうか。
 
 
考へることや思ひ描くこと。
そして、実際に、すること。
 
 
この間には、人それぞれにそれぞれの距離がある。
 
 
 
 
「血のエーテル化」(1911年10月1日 バーゼル)
と題された講演で
シュタイナーが語つてゐることを要約して、
今週の『こよみ』をメディテーションする上での
助けにしてみる。
 
 
 
―――――――
  
 
人は、昼間、目覚めつつ考へてゐるとき、
心臓からエーテル化した血が
光となつてほとばしりでて、
頭の松果体にまで昇つていき、輝く。
 
 
そして、
人は、夜眠つてゐるあひだ、
考へる力が眠り込み、
逆に意志・意欲が目覚め、活発に働く。
そのとき、
大いなる世(マクロコスモス)から
人の頭の松果体を通り、
心臓に向かつて、
「いかに生きるべきか」
「いかに人として振舞ふべきか」
といつた道徳的な力が、
その人に朝起きたときに
新しく生きる力を与へるべく、
色彩豊かに流れ込んでくる。
 
 
それは、神々が、
その人を励ますために夜毎贈つてくれてゐる力だ。
 
 
だから、人は夜眠らなければならない。
 
 
人が少しでも振る舞ひにおいて
成長していくためには、
眠りの時間に神々から助けをもらう必要がある。
 
 
昼間、人において、
「こころから生み出す力」、考へる力が、
「心(臓)の基」から、
エーテル化した血が光となつてほとばしりでる。
 
 
その下から上へのエーテルの流れは、
頭の松果体のところで、
夜、上から下への神々の力と出会ひ、
そこで光が色彩をもつて渦巻く。
 
 
その光の輝きは心臓あたりにまで拡がつていく。
 
 
それが、
人といふミクロコスモスで毎日起こつてゐることがらだ。
 
 
そして、
マクロコスモス、大いなる世からの視野には、
キリスト・イエスが
ゴルゴタの丘で血を流したとき以来、
そのキリストの血がエーテル化し、
地球まるごとを中心から輝かせてゐるのが視える。
 
 
そのとき以来、
ひとりひとりの人が、
キリストのゴルゴタのことを親しく知るほどに、
みづからの内なるエーテル化した血の流れが、
キリストのエーテル化した血とひとつになつて、
昼間、人を輝かせ、力づけてゐる。
 
 
そのキリスト化したエーテルの血と、
マクロコスモスから夜毎やつてくる
神々の力とが出会ふことで、
人は、さらに昼間、
愛において、
仕事において、
その神々の力をふさわしい働きへと燃え上がらせる。
 
 
考へ、思ひ描くこと。
(心臓から上つていくエーテル化した血の流れ)
 
 
そして、
実際に、すること。
(高い世から心臓に降りてくる力)
 
 
その間を、人みづからが埋めていく。
 
 
そのふたつを、人みづからが重ねていく。 
 
 
それが時代のテーマだ。
 
 
―――――――
 
 
 
 
 
シュタイナーによつて語られた
これらの精神科学からのことばを、
何度も繰り返して自分の考へで辿つてみる。
鵜呑みにするのではなく、
折に触れて、何度も考へてみる。
 
 
キリストのゴルゴタのことを親しく知るといふことは、
自分自身が生まれ育つた文化風土において、
どういふ意味を持つのか、
考へてみる。
 
 
キリストのゴルゴダのことの意味は、
自分以外の人や物事を念ふて死ぬことができる、
といふことではないだらうか。
 
 
むかしの日本に、
さういふ文化が根付いてゐたこと。
大いなる理想を考へ、
そしてその通りに
実行してゐた人が数多ゐたこと。
 
 
わたしたちの先祖の方々が
当り前のやうに歩いてゐたそのやうな道を、
わたしたち現代人が想ひ起こすとき、
そのやうな道があつたことを、
ありありと念ふとき、
本当に自分のこころが、
輝き、力づけられるかどうか、
感じつつ、確かめていく。
 
 
そして、
そのやうに輝き、力づけられた自分のこころと、
神々の力が、交はつてゐること。
 
 
その交はりがあることによつて、
自分の仕事が、充実して、
まるで自分以上の力、神々の力が
燃え上がるやうな瞬間を迎へることができること。
 
 
そのことを感じつつ、確かめていく。
 
 
 
こころから生み出す力、
それは心(臓)の基からほとばしりでる。
人の生きる中で、神々の力を、
ふさはしい働きへと燃え上がらせるべく、
おのれみづからを形づくるべく、
人の愛において、人の仕事において。 
 
 

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2020年01月11日

こころのこよみ(第40週)〜虚しい想ひ込みを焼き尽くす世のことば〜



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そして、わたしはある、精神の深みに。
 
わたしのこころの基において、
 
心(臓)に満ちる愛の世から、
 
己れであることの虚しい想ひ込みが、
 
世のことばの火の力によつて、焼き尽くされる。
 
 
 
Und bin ich in den Geistestiefen,
Erfüllt in meinen Seelengründen
Aus Herzens Liebewelten
Der Eigenheiten leerer Wahn
Sich mit des Weltenwortes Feuerkraft.
 
 
 
「わたしは、いる」
「わたしは、いま、ここに、いる」
といふ響きから生まれてくる情よりも、
 
 
「わたしは、ある」
といふ響きから生まれてくる、
「いま」「ここ」さへも越えた、
「わたし」といふものそのもの、
「ある」といふことそのことの、
限りのない広やかさと深さと豊かさの情。
 
 
何度も声に出してゐる内に、その情を感じる。
 
 
「わたしは、ある」。
 
 
それは、その人が、
どんな能力があるとか、
どんな地位に就いてゐるとか、
からだの状態が、健やかであらうが、
さうでなからうが、
そのやうな
外側のありやうからのことばではなく、
ただ、ただ、
その人が、その人として、ある、といふこと。
そのことだけをその人自身が見つめて、
出てきたことば。
 
 
そのときの「わたし」は、
目には見えない<わたし>だ。
 
 
 
 
そして、
シュタイナーの『精神の世の境』といふ本から
要約したかたちだが、
「愛」についてのことばを引いてみる。
 
 
―――――
 
 
精神科学の学び手は、考へる力を通して、
「わたしがあることの情」を
育んでいくことに重きを置いてゐる。
 
 
その情が、
こころに強さと確かさと安らかさを
与へてくれるからだ。
 
 
そして、学び手は、
この感官(物質)の世を生きるにおいては、
その強められた「わたしがあることの情」を
抑へることを通して、
愛を生きる。
 
 
愛とは、
みづからのこころにおいて、
他者の喜びと苦しみを生きることである。
 
 
感官を凌ぐ意識によつて
人は精神の世に目覚めるが、
感官の世においては、
精神は愛の中で目覚め、
愛として甦る。
  
 
ーーーーーー
  
 
 
「世のことばの火の力」
1月6日、ヨルダン川におけるヨハネの洗礼によつて、
30歳のイエスは、
「世のことば」キリストを受け入れた。
その「世のことば」は火の力にまでなつてゐる。
 
 
その火の力は、
わたしたちひとりひとりのこころの基において
「己れであることの虚しい思ひ込み」を焼き尽くす。
 
 
そして、心(臓)に、他者への愛が息づき始める。
 
 
わたしによつて強められた
「わたしがあることの情」が、
わたしによつて抑へられることによつて、
「己れであることの虚しい想ひ込み」
が焼き尽くされる。
心(臓)に愛(インスピレーション)が満ちる。
 
 
そして、わたしはある、精神の深みに。
 
 
 
 
そして、わたしはある、精神の深みに。
わたしのこころの基において、
心(臓)に満ちる愛の世から、
己れであることの虚しい想ひ込みが、
世のことばの火の力によつて、焼き尽くされる。


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2020年01月03日

こころのこよみ(第39週)〜<わたしがあること>の情〜


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精神の啓けに身を捧げ、
 
わたしは世といふものの光を得る。
 
考へる力、それは長ける、
 
わたしにわたしみづからを明かしながら。
 
そしてわたしに呼び覚ます、
 
考へる力を通して、わたしがあることの情を。
 
 

An Geistesoffenbarung hingegeben
Gewinne ich des Weltenwesens Licht.
Gedankenkraft, sie wächst
Sich klärend mir mich selbst zu geben,
Und weckend löst sich mir
Aus Denkermacht das Selbstgefühl.
 

 
「精神の啓け」。
 
 
それは、「わたしがある」といふことを
実感すること。
 
 
それこそが、
すべての現代人における、
もつとも深い願ひなのではないだらうか。
 

どんなときでも、どんな場所でも、
誰と会つてゐても、誰に会つてゐなくても、
「わたしがある」といふことへの
情、信頼、確かさが己れに根付いてゐるほどに、
人は健やかさに恵まれはしないだらうか。
 
 
その「わたしがある」といふ情が、この時期に、
イエスの誕生によつて、人にもたらされた。
 
 
それを「精神の啓け」と、ここでは言つてゐる。
 
 
では、
「わたしのわたしたるところ」「わたしがある」
といふ情はどのやうに稼がれるだらうか。
 
 
それは、
「考へる力が長ける」ことによつて稼がれる。
 
 
普段、わたしたちの考へる力は、
目に見えるもの、手に触れるものなど、
物質的なものについて考へることに、
尽きてしまつてゐる。
 
 
「いま、何時だらう」
「今日は何を食べようか」
「あそこに行くまでには、
 どの電車に乗り継いでいつたらいいだらうか」
「ローンの返済を今月ちやんと済ませることが
 できるだらうか」
などなど・・・。
 
 
わたしたちのふだんの考へる力は、
そのやうに特に意志の力を要せず、
やつてきたものを受けとり、適度に消化し、
あとはすぐに流していくことに仕へてゐる。
 

しかし、たとへば、
葉がすべて落ちてしまつた木の枝や、
目に美しい花や紅葉などが消え去つた冬の裸の枝。
 

それらをぢつと見つめながら、こころの内で、
次のやうなことを
みづからの意欲・意志を注ぎ込みながら、
考へてみる。
 
 
その寒々しい冬の裸の枝に、
やがて来たる春や夏には
鮮やかな花が咲き、
緑滴る葉が生い茂る。
 
 
そのいまは目には見えない花や葉を想ひ描きつつ、
その木に脈々と通ふ生命について、
熱く考へてみる。
 
 
さうすると、
その寒々しかつた冬の裸の枝の先に、
何か活き活きとした光のやうなものが
感じられてくる。
 
 
それぐらゐ、考へる力を、見えるものにではなく、
見えないものに、
活き活きと意欲を働かせつつ向けてみる。
 
 
すると、その考へられた考へが、
それまでの外のものごとを
単になぞるだけ、コピーするだけの死んだものから、
ものやことがらの内に通つてゐるかのやうな、
活き活きと命を漲らせたものになる。
 
 
考へる力を、そのやうに、
感官を超えたものに、
意志をもつて向けていくことによつて、
死んでゐた考へを命ある考へに転換できる。
 
 
死を生に転換できる。
 
 
そして、その考へる力によつて、
わたしたちみづからも活き活きとしてくる。
 
 
その考へる力によつて、
わたしにわたしみづからが明かされる。
 
 
わたしに、
「わたしがあること」の情を、呼び覚ます。
 
 
それは、おのづから生まれるのではなく、
ひとりひとりの人がみづから勤しんでこそ
稼ぐことのできる高くて尊い情だ。
 
 
「わたしがあること」の情とは、
みづからに由るといふ情、
「自由」の情でもある。
 
 
その内なる自由からこそ、
「わたしを捧げる」意欲、つまり、
愛する道を歩いていくことができる。
 
 
そして、
「わたしがある」といふことをもつて
「身を捧げる」。
 
 
ならば、「わたしは世といふものの光を得る」。
 
 
それは、どこまでも、
この「わたしのわたしたるところ」、
「わたしがある」への信頼から、
人との対話へと、仕事へと、
一歩踏み出していくこと。
 
 
それは、きつと、見返りを求めない、
その人のその人たるところからの
自由な愛からのふるまいだ。
 
 
その勇気をもつて踏み出した一歩の先には、
きつと、「世といふものの光」が見いだされる。
 
 
たとへ闇に覆はれてゐるやうに見える中にも、
輝いてゐるもの、輝いてゐる人、
そして輝いてゐる「わたし」を
見いだすことができる。
 
 
「わたしがある」といふ情を育みつづけるならば。
 
 
 
 
 
精神の啓けに身を捧げ、
わたしは世といふものの光を得る。
考へる力、それは長ける、
わたしにわたしみづからを明かしながら。
そしてわたしに呼び覚ます、
考へる力を通して、わたしがあることの情を。

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2019年12月27日

こころのこよみ(第38週) 聖き夜の調べ


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わたしは感じる、
 
まるでこころの奥で、
精神の子が魔法から解かれたやうだ。
 
その子は心の晴れやかさの中で、
 
聖き、世のことばとして、
 
希みに満ちた天の実りとして、生まれた。
 
それが喜びの声を上げて世の彼方へと拡がりゆく、
 
わたしのわたしたるところ、神の基から。
 
 
 
Weihe-Nacht-Stimmung   
Ich fuehle wie entzaubert
Das Geisteskind im Seelenschoss,
Es hat in Herzenshelligkeit
Gezeugt das heil'ge Weltenwort
Der Hoffnung Himmelsfrucht,
Die jubelnd wächst in Weltenfernen
Aus meines Wesens Gottesgrund.
 
 
 
 
クリスマス、それは、をさな子の誕生を寿ぐ日。
 
 
どの人のこころの奥にも眠つてゐる、
をさな子のをさな子たるところの生まれを祝ふ日。
 
 
をさな子、それは、
子ども時代の内でもとりわけ、
記憶の境の向かう、
三歳以前のわたしたちのありやう。
 
 
いまこそ、この時代こそ、
世の男たちの(このわたしの)
内なるをさな子が目覚めますやうに。
さう祈らずにはゐられない。
 
 
なぜなら、をさな子のをさな子たる力とは、
世のすべての争ひ、分け隔て、エゴ、
それらを越える、創造する力、愛する力だから。
 
 
わたしたちは、この世に生まれてから、
おほよそ三年かけて、
歩く力、話す力、考へる力を育み始める。
 
 
その三つの力は、
人のからだを創つていく力でもある。
 
 
歩く力によつて脚が、
話す力によつて胸が、
考へる力によつて頭が、
だんだんと創られていく。
 
 
歩く力、話す力、考へる力は、
当然その子によつて、
意識的に身につけられたものでもなければ、
大人によつて教へ込まれたものでもなく、
そのをさな子の内から、
まるで神々しい力が繰り出してくるかのやうに、
地上的な力を超えたところから、生まれてくる。
 
 
そのおのづと生まれてくる神々しい力は、
しかし、三年間しかこの世にはない。
 
 
をさな子のをさな子たるところが輝く三年間から後は、
その子の内に、
少しづつ地上を生きていくための知性と共に、
エゴがだんだんと育ち始める。
 
 
しかし、きつと、それも、
人の育ちにはなくてはならないもの。
 
 
三年の間のみ、人の内に、
からだを創るための神々しい力が通ふ。
 
 
その地を越えた神々しい力は、
この地を生きていくための基の力である。
 
 
「聖き、世のことば」キリストも、
この世に、三年間しか生きることができなかつた。
 
 
イエス、三十歳から三十三歳の間だ。
 
 
そのイエスにキリストとして三年間通つた力は、
をさな子のをさな子たるところからの力であつた。
 
 
キリストは、
世のすべての争ひ、分け隔て、エゴを越え、
人のこころとこころに橋を架ける愛する力として、
この地上に受肉した。
 
 
後にキリストを宿すイエスが
母マリアから生まれたとされてゐる、
24日から25日の間の聖き夜。
 
 
その夜から、
キリストがイエスに受肉した1月6日までを
クリスマスとして祝ふ。
 
 
そして、このクリスマスは、
二千年以上前のおほもとの聖き夜に
起こつたことを想ひ起こすことを通して、
わたしたちの内なるをさな子たるところを
想ひ起こす時だ。
 
 
そして、いまから三千年以上あとに、
すべての人がみづからのこころに
精神のをさな子(生命の精神 Lebens Geist)、
キリストを見いだすことを、
予め想ひ起こして祝ふ時だ、
さうシュタイナーは語つてゐる。
 
 
三歳以前のわたしたちの内に、確かに、
その神々しい力が通つてゐた。
 
 
そして、実は、いまも、通つてゐる。
 
 
しかし、そのことを人は知らない。
 
 
わたしが、
その神々しい力を想ひ起こせばこそ、
いまもその力が通つてゐることに
目覚めることができる。
 
 
このクリスマスの日々に、
その力を自分の内にも認めればこそ、
来る年への希みが羽ばたき始める。
 
 
争ひ、闘ひ疲れてゐる男たちが、
みづからの内なるをさな子を
想ひ起こしてゆくならば、
世はおのづから刻一刻となりかはつていくだらう。
 
 
 
 
  
『聖き夜の調べ』

わたしは感じる、
まるでこころの奥で、
精神の子が魔法から解かれたやうだ。
その子は心の晴れやかさの中で、
聖き、世のことばとして、
希みに満ちた天の実りとして、生まれた。
それが喜びの声を上げて世の彼方へと拡がりゆく、
わたしのわたしたるところ、神の基から。
 
 

 
※シュタイナーが、
 Seele といふことばを使ふときは、
 からだと繋がるところでありながらも、
 からだからは独立した働きを荷ふ
 「こころ」を言つてゐますが、
 Herzen といふことばを使ふときは、
 物質の心臓といふ意味合ひも持ち、
 またその物質の心臓の働きを支えている
 エーテルの心臓をも指すやうです。
 ここでは、
 Herzen を「心(臓)」と書き表しています。


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2019年12月24日

こころのこよみ(第37週) 〜歌へ、冬の夜に〜


 
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世の冬の夜に精神の光を荷ひゆくべく、
 
恵みに満ちたわたしは心底追ひ求める。
 
輝くこころの萌しが、
 
世の基に根をおろすことを。
 
そして神のことばが、感官を覆ふ闇の中で、
 
ありとあらゆるものを輝かせ、貫いて響くことを。
 
 
 
Zu tragen Geisteslicht in Weltenwinternacht
Erstrebet selig meines Herzens Trieb
Dass leuchtend Seelenkeime
In Weltengruenden wurzeln
Und Gotteswort im Sinnesdunkel
Verklaerend alles Sein durchtoent.
 
 
 
 
わたしは、既に十分な恵みに満たされてゐる。
この世に生かされてゐる、といふことの中に、
どれほどの豊かな恵みが既に潜んでゐるか。
 
 
そのことを想ひ起こすたびごとに、
わたしのこころは明るく暖かくなる。
こころが精神の光に照らされてゐるのを感じる。
 
 
でも、そんな恵みに満ちてゐるわたしが、
心底追ひ求めることがある。
それは、自分の力を最大限に使ひ尽くして、
仕事をすることだ。
 
 
この恵みに満ちたからだとこころを
フルに使つて仕事をすることだ。
 
 
輝くこころの萌しを世の基に根づかせることだ。
天から戴いてゐる恩恵を大地にお返しするのだ。
照らされてゐるだけではなく、
自分自身から照らしていくのだ。
 
 
さうして、そのやうに仕事をしていくうちに、
この恵みに満ちたからだとこころを使つてゐるのが、
わたしのわたしたるところ、
「精神」だといふことが感じられてくる。
 
 
実は、精神こそが隠れた主役で、
わたしの人生の一コマ一コマを進めてゐたことに気づく。
 
 
その精神は、からだを基にしながら、
からだの制約を超える。
 
 
こころに足場を見いだしながら、
こころを、豊かに、大きく、広くしていく。
 
 
精神が主役である。
 
 
その精神が奏でようとしてゐる音楽がある。
 
 
その音楽を奏でることに、
このからだとこころが
いかに仕へていくことができるか。
 
 
仕事をすることによつてこそ、
ますます精神が主役になつていくのを、
日一日と感じることができる。
 
 
身の回りが暗く寒くなつてくるほど、
身の内に宿つてゐる<わたし>こと精神が、
ますます明るさ・暖かさ・熱さを滾らすことができる。
 
 
<わたし>こと精神。
 
 
「神のことば」と和して響くところをこそ、
<わたし>といふのではないだらうか。
 
 
「神のことば」はありとあらゆるものを輝かせ、
貫いて響いてゐる。
 
 
だからこそ、<わたし>よ、歌へ。
 
 
もつと高らかに。
 
 
そしてもつと優しく。
 
 
 
 
世の冬の夜に精神の光を荷ひゆくべく、
恵みに満ちたわたしは心底追ひ求める。
輝くこころの萌しが、
世の基に根をおろすことを。
そして神のことばが、感官を覆ふ闇の中で、
ありとあらゆるものを輝かせ、貫いて響くことを。


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2019年12月19日

こころのこよみ(第36週)〜汝は何を怖がつてゐるのか〜


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レオナルド・ダヴィンチ『サルヴァトール・ムンディ』


 
わたしといふものの深みにおいて
 
いま、目覚めよ、と
 
密(ひめ)やかに世のことばが語る。
 
  汝の仕事の目当てを
 
  我が精神の光で満たせ、
 
  我を通して、汝を捧げるべく。
 
 
 
 
In meines Wesen Tiefen spricht
Zur Offenbarung draengend
Geheimnisvoll das Weltenwort ;
Erfuelle deiner Arbeit Ziele
Mit meinem Geisteslichte
Zu opfern dich durch mich
 
 
 
 
わたしといふものの深みにおいて、
「いま、目覚めよ」と、
世のことばが密やかに響く。
 
 
「世のことば」とは、キリスト。
キリストがささやくやうに
「いま、目覚めよ」と言ふ。
 
 
「目覚めよ」とは、
恐れや不安を乗り越えよ、といふこと。
 
 
世のことばがささやいてゐる。
 
 
汝は何を怖がつてゐるのか。
何も怖がることはない。
己れの内に隠されてゐる恐怖から、
他者を罵り、責め、他者に期待することは、
もうやめよ。
 
 
汝を捧げよ。
汝の仕事に。
我・キリスト・汝の〈わたし〉を通して。
 
 
仕事をするといふこと、
生きるといふことは、
さういふことであつた。
 

 
わたしといふものの深みにおいて
いま、目覚めよ、と
密(ひめ)やかに世のことばが語る。
  汝の仕事の目当てを
  我が精神の光で満たせ、
  我を通して、汝を捧げるべく。
 
 
 



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2019年12月14日

こころのこよみ(第35週) 〜<わたしはある>そして<慎ましく生き抜いていく>〜


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<ある>とは何かを、わたしは知りえるのか、
 
それを再び見いだしえるのか、
 
こころが活き活きと働くならば。
 
わたしは感じる、わたしに力が与へられてゐるのを。
 
それは、己みづからが手足となつて、
 
世を慎ましく生き抜いていく力だ。
 
 
  

Kann ich das Sein erkennen,
Daß es sich wiederfindet   
Im Seelenschaffensdrange ?   
Ich fühle, daß mir Macht verlieh'n, 
Das eigne Selbst dem Weltenselbst   
Als Glied bescheiden einzuleben.
 
 
 
 
この『こよみ』の<ある>といふことばから、
言語造形家の鈴木一博さんが以前、
シュタイナーの『礎のことば』について
書かれてゐた文章を想ひ起こした。
 
  
そもそも、<わたし>は、気づいたときには、
もう既に、ここに<あつた>。
 
 
ものごころがついたときから、
<わたし>が既に<あらしめられてある>ことに、
気づきだした。
 
 
この<わたし>は、
わたしが気づく前から<ある>。
 
  
そして、いま、<わたしはある>といふ事態を
ありありと感じることができる時といふのは、
わたしのこころが活き活きと生きて働いた後、
そのことをその活き活きとした感覚を失はずに
想ひ起こす時ではないか。
 
 
だから、そのやうに、
こころにおいて活き活きと何かを想ひ起こすことで、
<わたしがある>といふことを、
より深く、より親しく感じ、
より明らかに知つていくことができる。
 
 
何を想ひ起こすのか。
 
 
内に蘇つてくる、ものごころがついてからの想ひ出。
 
 
また、ふだんは想ひ起こされないものの、
故郷の道などを歩くときに、
その場その場で想ひ出される実に多くのこと。
 
 
当時あつたことが、ありありと想ひ出されるとき、
そのときのものごとだけでなく、
そのときの<わたし>といふ人もが、
みずみずしく深みを湛えて蘇つてくる。
 
 
それらを頭で想ひ描くのでなく、
胸でメロディアスに波立つかのやうに想ひ描くならば、
その想ひ出の繰りなしは、
みずみずしい深みを湛えて波立つ
いのちの織りなしと言つてもいいし、
「精神の海」と呼ぶこともできる。
 
 
その「精神の海」に行きつくことによつて、
人は「みづからがある」ことに対する
親しさを得ることができはしないだらうか。
 
 
そして、その「精神の海」には、
わたしが憶えてゐるこころの憶ひだけではなく、
からだが憶えてゐるものも波打つてゐる。
 
 
たとへば、
この足で立つこと、歩くこと。
ことばを話すこと。
子どもの頃に憶えたたくさんの歌。
自転車に乗ること。
字を書くこと。筆遣ひ。
包丁遣ひ。
などなど。
 
 
身についたこと、技量、
それはどのやうに身につけたかを
頭で想ひ出すことはできなくても、
手足が憶えてゐる。
 
 
手足といふもの、からだといふものは、
賢いものだ。
 
 
それらの手足が憶えてゐることごとへの信頼、
からだの賢さへの信頼があるほどに、
人は、
<わたしがある>といふことに対する
確かな支へを持てるのではないだらうか。
 
 
また、パーソナルな次元を超えて、
人といふ人が持つてゐる、
からだといふなりたち、
こころといふなりたち、
果ては、
世といふもの、
神といふもの、
それらも人によつて想ひ起こされてこそ、
初めて、ありありと、みずみずしく、
その人の内に生き始める。
 
 
だからこそ、
<わたしはある>といふ想ひを
人は深めることができる。
 
 
<神の内に、わたしはある>
<わたしの内に、神はある>
といふ想ひにまで深まることができる。
 
 
想ひ出をみづみづしく蘇らせること。
 
 
手足の闊達な動きに秘められてゐる
技量といふ技量を発揮すること。
 
 
それらすべてを司つてゐる
世の生みなし手にまで遡る想ひを稼いで得ること。
 
 
それらが、
<わたしがある>といふことの意味の解き明かし、
<わたしがある>といふことへの信頼を生みはしないか。
 
 
それらが、人のこころを活き活きと生かしはしないか。
 
 
わたしのこころが
活き活きと生きたことを想ひ起こすことと、
<わたしはある>とが響きあふ。
 
 
<ある>といふことを知つていくことは、
<ある>といふことを想ひ起こしていくことだ。
 
 
世の中において、
こころが<生きた>こと、
手足が<生きた>こと、
わたしまるごとが<生きた>ことを、
活き活きとわたしが想ひ起こす時、
<わたし>も、世も、
ありありと共にあつたのであり、
いまも共にあるのであり、
これからも共にありつづける。
 
 
わたしと世は、きつと、ひとつだ。
 
 
そして、いまも、これからも、
精神からの想ひ起こしをすることで、
こころを活き活きと働かせつつ、
力が与へられてゐるのを感じつつ、
手足を使つて、
地道に、
慎ましく、
世を生きてゆくほどに、
<ある>といふことを、
つまりは、
<わたしがある>といふことを、
わたしは知りゆき、何度でも見いだしていくだらう。
 
 
ここで、
クリスマス会議でシュタイナーにより発せられた
『礎のことば』のはじめの一部を載せておきます。
 
 
 
 
   人のこころ!
  
   あなたは手足に生き
 
   手足に支へられつつ、場を経て
 
   精神の海へと行きつく。
 
   行はれたし、精神の想ひ起こしを
 
   こころの深みにて。
  
   そこにては
 
   世の生みなし手が司り
 
   あなたの<わたし>が
 
   神の<わたし>のうちに
 
   ありありとある。
 
   もつて、あなたは真に生きるやうになる
 
   まこと人として、世のうちに。
 
 
              (鈴木一博さん訳)
 
 
 
 
<ある>とは何かを、わたしは知りえるのか、
それを再び見いだしえるのか、
こころが活き活きと働くならば。
わたしは感じる、わたしに力が与へられてゐるのを。
それは、己みづからが手足となつて、
世を慎ましく生き抜いていく力だ。



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2019年12月07日

こころのこよみ(第34週) 〜ありありとしてくる<わたし>〜


 
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ルオー「聖顔」
 
 
密やかに古くから保たれてきたものが
 
新しく生まれてくる己れのありやうと共に
 
内において活き活きとするのを感じる。
 
きつと目覚めた世の数々の力が
 
わたしの人生の外なる仕事に注ぎ込まれ
 
そしてだんだんと、ありありと、わたしを刻み込んでいくだらう。
 

 
 
Geheimnisvoll das Alt-Bewahrte
Mit neu erstandnem Eigensein 
Im Innern sich belebend fühlen:  
Es soll erweckend Weltenkräfte 
In meines Lebens Außenwerk ergießen 
Und werdend mich ins Dasein prägen.          
 
 
 

 
この肉をもつたからだは、
なんのためにあるのだらう。
 
 
この世で仕事をし、この世に仕へ、
自分の周りの世をほんの少しづつでも
善きものにしていくために、
このからだをわたしは授かつてゐるのではないだらうか。
 
 
そして、そのやうに、
「からだを使つて、今日も生きていかう」
といふ意気込みはどこから生まれてくるのだらう。
 
 
日々、寝床から、起き上がれるといふこと。
手を動かして、洗顔できるといふこと。
ものを食べられるといふこと。
歩いて、行きたいところへ
行くことができるといふこと。
子どもと遊ぶことができるといふこと。
そして、仕事ができるといふこと・・・。
 
 
これらすべてのことをするためには、
からだが健康であることは勿論だが、
さらに意気込みが要る。
 
 
その意気込みは、
自分自身で生み出すといふよりも、
朝起きて、眠りから覚めて、
おのづといただいてゐる。
それは本当に恩寵だと感じる。
 
 
これこそが、
世の数々の力からの恵みではないか。
 
 
この恩寵への感謝の日々を
毎日生き続けていくことが、
この季節、きつと、
わたしたちの外なる仕事に
生きた力を吹き込んでくれる。
 
 
感謝の念ひこそが、
わたしたちの心意気を日々目覚めさせてくれる。
 
 
そして、この目覚めは毎日を新しくする。
わたし自身を新しくしてくれる。
 
 
感謝できないときが、人にはあるものだ。
しかし、そんなとき、
人は意識の上で夢見てゐる状態か、
眠り込んでゐる状態だ。
 
 
さあ、当たり前にできてゐることに、
あらためて目を注いでみよう。
 
 
からだを当たり前に使へることの恩寵に
あらためて驚くことができるだらうか。
 
 
さらに、あなたにとつて、わたしにとつて、
「密やかに、古くから保たれてきたもの」とは、何か。
 
 
それは、みづからのこころといふものの核のこと。
 
 
こころの相(すがた)は刻一刻と変はるが、
こころといふものの核は、変はらずに留まり続ける。
 
 
その核を「わたしのわたしたるところ」、<わたし>、
もしくは精神と言つてもよく、
それを意識の上に育てていくために、
メディテーションといふこころの練習がある。
 
 
この『こころのこよみ 第34週』では、
そのこころといふものの核を
「密やかに、古くから保たれてきたもの」
と言ひ表してゐる。
それは、無理をせず、
どこまでも自分自身であること
(精神からの光)。
 
 
そして、毎日の感謝から生まれる、
「新しく生まれてくる己れのありやう」。
それは、日々新鮮に自分自身を感じること
(からだからの恩寵)。
 
 
このふたつが重なつて、
こころそのものが、活き活きと動き出す。
 
 
活き活きと動き出して、いよいよ、わたしは、
<わたし>として、ますます、
「ありありと」あるやうになつてくる。
 
 
外の仕事に「ありありと」<わたし>が刻み込まれていく。
 
 
わたしが、仕事を通して、
<わたしはある>といふありやうに、なりゆくこと。
 
 
これこそが、豊かさである。
 
 
ひとりひとりの<わたしはある>
といふありようこそが、世を豊かにする。
 
 
  

密やかに古くから保たれてきたものが
新しく生まれてくる己れのありやうと共に
内において活き活きとするのを感じる。
きつと目覚めた世の数々の力が
わたしの人生の外なる仕事に注ぎ込まれ
そしてだんだんと、ありありと、わたしを刻み込んでいくだらう。
 
 
 


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2019年11月29日

こころのこよみ(第33週) 〜人に任されてゐる仕事〜



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わたしはいま、世をかう感じる。
 
それは、わたしのこころがともに生きることなしには、
 
そこにはただ凍りついた虚しいいのちのみ、
 
そして、力が啓かれることもない。
 
人のこころにおいて、世は新しく創りなす。
 
世そのものにおいては、死を見いだすのみ。
 
 

 
So fühl ich erst die Welt,
Die außer meiner Seele Miterleben
An sich nur frostig leeres Leben
Und ohne Macht sich offenbarend, 
In Seelen sich von neuem schaffend, 
In sich den Tod nur finden könnte.           
 
  
  
 
世とは、
この地球を含む
宇宙まるごとのことであり、
四季折々に織りなしてゐる自然の
いちいちのことであり、
このわたしをも含む
人といふ人のことでもあり、
そして、物質の域だけでなく、
こころの域、精神の域にまで及ぶものであるだらう。
 
 
その「世」といふものに、
この「わたし」が働きかけることによつて、
何が生じるだらうか。
 
 
たとへば、
こころを籠めて世の何かを、
世話する、
面倒をみる、
手塩にかけて育てる、などなど・・・。
人が、さうするとき、
その何かはどのやうな変化を見せてくれるだらうか。
 
 
人がこころを注ぎつつ手入れしてゐる庭と、
ほつたらかしの庭とでは、
何かが違ふ。
 
 
人が大事に、感謝をもつて住んでゐる家と、
家のあちこちに対して文句を言ひつつ、
手入れが行き届かない家と、
また、誰も住んでゐない家とでは、
それぞれ、趣きを異にする。
 
 
対象が、
庭や家だけでなく、
動物や人ならば、
その違ひもより明らかに見られるのではないだらうか。
 
 
それは、決して、気のせゐではない、
明らかな趣の違ひとしてしつかりと感じられる。
 
 
今週の『こよみ』では、かう記されてある。

 わたしのこころが共に生きることなしには、
 そこにはただ、凍りついた虚しいいのちのみ
 
 
世は、
人によつてこころから意を注がれることを
待つてゐるのではないだらうか。
 
 
花も、動物も、
水や風やあらゆる自然のものも、
人が創り出したあらゆるものといふもの、
機械類までも、
そして、
もちろん、人や、
目には見えないが世に存在してゐる者たちも、
人から、こころを向けられるのを、
待つてゐるのではないだらうか。
 
 
人がこころを注ぐところに、
新しいいのちが宿る。
 
 
いのち、
それは人が、
その人みづからのこころの力をもつて、
世に新しく与へることのできる愛、
と言つてもいいかもしれない。
 
  
人からの愛が注がれるところに、
新しく、世そのものがもつてゐる力が啓かれる。
 
 
さうして、世は、
人とともに、時とともに、更新されていく。
 
 
世は、
人からの積極的な行為、愛を、
待つてゐる。
 
 
人とは、
なんと大きな仕事を任されてゐることだらう。
 
 
 
 
わたしはいま、世をかう感じる。
それは、わたしのこころがともに生きることなしには、
そこにはただ凍りついた虚しいいのちのみ、
そして、力が啓かれることもない。
人のこころにおいて世は新しく創りなす。
世そのものにおいては死を見いだすのみ。
 
  
 

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2019年11月13日

こころのこよみ(第32週) 〜世の力の源は決して枯れない〜



林武「花」.jpg
林武「花」

 
 
わたしは稔りゆく己れの力を感じる。
 
その力は強められたわたしを世に委ねる。
 
わたしのわたしたるところを力強く感じる、
 
明るみへと向かふべく、
 
生きることの仕合はせが織りなされる中で。
 
 
  
 
Ich fühle fruchtend eigne Kraft
Sich stärkend mich der Welt verleihn;      
Mein Eigenwesen fühl ich kraftend        
Zur Klarheit sich zu wenden             
Im Lebensschicksalsweben.              
 
 
 
 
この秋といふ季節に、
稔りゆく<わたし>の力は、
どこから得られるか。
 
 
わたしがわたしみづからを
支へ引き上げていくための力は、
どこから得られるか。
 
 
「稔りゆく己れの力」
「強められたわたし」
「わたしのわたしたるところ」
 
 
これらは、みな、
己れから己れを解き放ち、
己れの小なる力を諦め、
大なるものに己を委ね、任せられるとき、
感じられるものではないだらうか。
 
 
大いなるもの、それを「世」と言ふのなら、
世の力の源は決して枯れることがない。
 
 
その源から、
<わたし>は常に力をiいただいてゐる。
 
 
その繋がりを信頼して、
今日も仕事をしていかう。
 
 
今日といふ一日、明日、あさつて・・・
「生きることの仕合はせ(運命)が
 織りなされる中で」何が待つてゐるのだらう。
 
 
小さなわたしが
あれこれと采配していくのではなく、
大いなるものがわたしの生を
織りなしてくれてゐることへの
信頼を育みつつ、
勇気をもつて、今日も仕事をしていかう。
 
 
そのときこそ、
「わたしのわたしたるところ」
「強められたわたし」が、
きつと顕れてくる。
 
 
今日も、ていねいに、
牛のやうにひたすら押しながら、
「明るみへと向かふべく」仕事をしていかう。
 
 
 
 
わたしは稔りゆく己れの力を感じる。
その力は強められたわたしを世に委ねる。
わたしのわたしたるところを力強く感じる、
明るみへと向かふべく、
生きることの仕合はせが織りなされる中で。
 
 
 

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2019年11月01日

こころのこよみ(第31週) 〜「事」と「言」と「心」〜


本居宣長.jpg
本居宣長像
 
 
 
精神の深みからの光が、
 
まるで太陽のやうに輝きだす。
 
それは生きる意欲の力になり、
 
そして、おぼろな感官に輝きいり、
 
力を解き放ち、
 
こころから創らうとする力を
 
人の仕事において、熟させる。
 
  
 
Das Licht aus Geistestiefen, 
Nach außen strebt es sonnenhaft.
Es wird zur Lebenswillenskraft
Und leuchtet in der Sinne Dumpfheit, 
Um Kräfte zu entbinden, 
Die Schaffensmächte aus Seelentrieben 
Im Menschenwerke reifen lassen.           
 
  
 
  
「精神の深みからの光が、
 まるで太陽のやうに輝きだす」
 
 
わたしたちは、太陽の輝きには馴染みがある。
 
 
しかし、上の文を読んで、
「まるで太陽のやうに輝きだす
 精神の深みからの光」
をどう捉へていいものか、
途方に暮れはしないだらうか。
 
 
この文、これらのことばの連なりから、
どのやうなリアリティーを
摑むことができるだらうか。
 
 
ことばのリアリティーを摑むために、
何度もこころの内に唱へ、
口ずさんでみると、
どうだらうか。
 
 
水が集つて流れるやうに声に出すことを
「詠む」といふさうだが(白川静『字訓』)、
そのやうな活き活きとした息遣ひで味はつてみる。
 
 
また、
その川底に光るひとつひとつの石を見るやうに、
一音一音、味はふやうにしてみる。
 
 
そのやうにことばを味ひ、
ことばの響きに耳を澄まさうとすることにより、
こころの静けさとアクティビティーを通して、
「精神の深みからの光」が、
「事」として、だんだんと顕れてくる。
 
 
ここで言はれてゐる
「事」と「言」が重なつてくる。
 
 
「考へる」が「感じる」とかさなつてくる。
 
 
また、過去に幾度か経験した
「輝きだす」瞬間を想ひ起こし始める。
 
 
そのやうにして、
リアリティーの糸口が見いだされてくるにつれて、
いまこの瞬間において、
「精神の深みからの光」が、
こころに降りてくるのを感じ、覚える。
 
 
そのやうにして、
「事(こと)」と
「言(ことば)」と
「心(こころ)」が、
光の内に重なつてくる。
 
 
その重なりが、
こころの内なる化学反応のやうに
生じてくるのを待つ。
 
 
 
  
 

「精神の深みからの光」
 
 
その「光」こそが、
「生きる意欲の力になり」、
「こころから創ろうとする力を、
 人の仕事において熟させる」。
 
 
意欲をもつて生きるとは、
どういふことなのか。
自分の仕事において創造力が熟してくるとは、
どういふことなのか。
 
 
まづ、
内なる「光」といふもののリアリティーを得ることで、
それらのことが分かる道が開けてくる。
こころを暖め、熱くさせながら。
 
 
光だけを生きるのではなく、
熱をもつて仕事に向かい始める。
 
 
「考へる」「感じる」が、
さらに「欲する」とかさなつてくる。
 
 
「事」と「言」と「心」が、
さらに幾重にもかさなつてくる。
 
 
今週、
精神の光・考へる働きが、
活き活きと感じる力となり、
生きる意欲の力になり、
仕事を熟させていく。
 
 
その「事」を、
ことばとこころで辿つていかう。
 
 
 
 
 
精神の深みからの光が、
まるで太陽のやうに輝きだす。
それは生きる意欲の力になり、
そして、おぼろな感官に輝きいり、
力を解き放ち、
こころから創らうとする力を
人の仕事において、熟させる。
 
  
 



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2019年10月28日

こころのこよみ(第30週) 〜秋の喜び、垂直性〜


384438469.jpg
 
 
 
こころの太陽の光の中でわたしに生じる、
 
考へることの豊かな実り。
 
みづからを意識することの確かさにおいて、
 
すべての感じ方が変はる。
 
わたしは喜びに満ちて感覚することができる、
 
秋の精神の目覚めを。
 
「冬はわたしの内に、
 
こころの夏を目覚めさせるだらう」
 
 
 
Es sprießen mir im Seelensonnenlicht  
Des Denkens reife Früchte, 
In Selbstbewußtseins Sicherheit
Verwandelt alles Fühlen sich.
Empfinden kann ich freudevoll
Des Herbstes Geisterwachen:
Der Winter wird in mir
Den Seelensommer wecken.  
 
 
 
 
秋が深まつてきた。
 
 
それまでの曖昧で不安定だつた
考へる力の焦点が定まつてきて、
本当にこころから考へたいことを
考へられるやうになつてくる。
 
 
考へたいことを考へる。
 
 
その内なる行為こそが、
こころに太陽の光をもたらす。
 
 
それは、わたしの場合、
本当に喜ばしいことで、
考へる力に濁りがなくなつてくると、
感情も清明になり、
意欲にも火がついてくるのだ。
 
 
そして、本、文章、テキスト、さらには、
人とのいい出逢ひに恵まれるやうになつてくる。
 
 
生きることの意味。理想。希望。
 
 
それらの考へと情が、
わたしにとつて何よりも気力と意欲、
そして喜びを起こしてくれる。
 
 
そのことを実感できる日々はありがたいものだ。
 
 
見えるものについてただ無自覚に考へ、
なんとなく思ひ続けてゐるよりも、
見えないものへの信を深めるやうな、
考へと情を育んでいくことが、
どれだけ、こころを目覚めさせることか!
 
 
ものがただ並んでゐる平面を生きることよりも、
ものといふものにおける垂直を生きること。
 
 
秋から冬への生活とは、
そのやうな「ものへゆく道」
「深みを見いだす生活」になりえる。
 
 
日々のアップ・アンド・ダウンはある。
 
 
しかし、週を経るごとに、
こころが織り目正しく織りなされていく。
 
 
そして、「わたしがあること」の
安らかさと確かさをもたらしてくれる。
 
 
ありがたいことだと思ふ。
 
 
 
 
こころの太陽の光の中でわたしに生じる、
考へることの豊かな実り。
みづからを意識することの確かさにおいて、
すべての感じ方が変はる。
わたしは喜びに満ちて感覚することができる、
秋の精神の目覚めを。
「冬はわたしの内に、
こころの夏を目覚めさせるだらう」
 
 
 

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2019年10月20日

こころのこよみ(第29週) 〜コトバ第一ナリ〜



Marina Fernandes Calache詩.jpg
Marina Fernandes Calache「詩」

 
  
みづから考へることの光が、

内において力強く輝く。

世の精神の力の源から、

意味深く示される数々の験し。

それらはいま、わたしへの夏の贈りもの、

秋の静けさ、そしてまた、冬の希み。
 
 
 
 
Sich selbst des Denkens Leuchten 
Im Innern kraftvoll zu entfachen, 
Erlebtes sinnvoll deutend
Aus Weltengeistes Kräftequell,
Ist mir nun Sommererbe,
Ist Herbstesruhe und auch Winterhoffnung.  
 
 
 
 

改めてこの夏を振り返つて、
夏といふ季節からの贈り物は、何だらう、
さう問ふてみる。
 
 
それは、「ことば」であつた。
 
 
「わたしはひとりである」といふ「ことば」だつた。
 
 
いま、秋になり、外なる静けさの中で、
その「ことば」を活発に消化する時であることを
わたしは感じてゐる。
 
 
そして、来たる冬において、
その「ことば」は、血となり、
肉となつて、
生まれ出る。
 
 
夏に受けとられ、
秋に消化された「ことば」が、
冬には、
「己れのことば」、
「わたしの内なるひとり生みの子」、
「わたしの仕事(ことに仕へる)」として、
世へと発信される。
 
 
そんなクリスマスへの希みがある。
 
 
夏に贈られた「ことば」があるからこそ、
この秋、その「ことば」を基点にして、
自分の情を鎮めることができる。
自分の考へを導いていくことができる。
自分の意欲を強めていくことができる。
そして、冬へと、クリスマスへと、備へるのだ。
 
 
 
 
 
メディテーションをする上にも、
余計なことを考へないやうにするために、
飛び回る鬼火のやうな考へや情を鎮めようとする。
 
 
しかし、いくら頑張つてみたところで、
どうにも鎮まらない時がよくある。
 
 
そんな時、
メディテーションのために
与へられてゐる「ことば」に沿ひ、
その「ことば」に考へを集中させていくと、
だんだん、おのづと、
静かで安らかなこころもちに至ることができる。
 
 
「ことば」を先にこころに据えるのだ。
 
 
その「ことば」に沿ふことによつて得られる感覚。
 
 
日本人においては、
特に、万葉の歌を歌ふ頃から時代を経て、
「古今和歌集」の頃もさらに経て、
「新古今和歌集」が編まれた頃、
その「ことば」の感覚が、
意識的に、尖鋭的に、磨かれてゐたやうだ。
 
 
歌を詠むこと、詠歌において、
「題」を先に出して、
その「題」を基にして、
まづ、こころを鎮め、こころを整へて、
その後、歌を詠んだのである。
 
 
こころの想ふままに歌を歌へた時代は、
だんだんと、過ぎ去つていつたのだ。
 
 
こころには、あまりにも、
複雑なものが行き来してゐて、
それが、必ずしも、
歌を詠むに適した状態であるとは限らない。
 
 
 
ーーーーーー
 
 
詠歌ノ第一義ハ、心ヲシヅメテ、妄念ヲヤムルニアリ
 
 
トカク歌ハ、心サハガシクテハ、ヨマレヌモノナリ
 
 
コトバ第一ナリ
 
 
(本居宣長『あしわけ小舟』より)
 
 
 
ーーーーーーー
 
 

「ことば」が、
こころの内に据えられてあるからこそ、
「ことば」といふ手がかりがあるからこそ、
わたしたちはみづからのこころのありやうを、
手の内に置くことができるやうになる。
 
 
わたしたち日本人は、長い時を経て、
歌を詠むことを通して、
「ことば」の世界に直接入り、
「ことば」の力に預かりながら、
己れのこころを整へ、
情を晴らし、
問ひを立て、
明日を迎へるべく意欲をたぎらしてゐた。
 
 
秋になり、
わたしたちは夏に贈られた「ことば」を通して、
妄念を鎮め、
こころを明らかにしていくことができる。
さうして初めて、
「みづから考へることの光が、
 内において力強く輝く」。
 
 
歌を何度も何度も口ずさむやうに、
メディテーションを深めていくことが、
来たる冬への備へになるだらう。
 
 
 
 
 
みづから考へることの光が、
内において力強く輝く。
世の精神の力の源から、
意味深く示される数々の験し。
それらはいま、わたしへの夏の贈りもの、
秋の静けさ、そしてまた、冬の希み。
 
 
 
 
諏訪耕志記

 
 


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2019年10月15日

こころのこよみ(第28週) 〜こころの太陽の力〜


104_7.jpg
棟方志功『R火頌(かぎろひしやう)』より
保田與重郎の和歌「火の國の阿蘇の神山神の火の魂依りしづか燃えていませり」


 

わたしは、内において、新しく甦ることができる。
 
己れであることの拡がりを感じる。
 
そして、力に満ちた考への輝きが、
 
こころの太陽の力から、
 
生きることの謎を解いてくれる。
 
いくつもの願ひを満たしてくれる。
 
これまで希みのつばさは、弱められてゐたのに。
 
 
 
Ich kann im Innern neu belebt          
Erfühlen eignen Wesens Weiten         
Und krafterfüllt Gedankenstrahlen        
Aus Seelensonnenmacht             
Den Lebensrätseln lösend spenden,        
Erfüllung manchem Wunsche leihen,       
Dem Hoffnung schon die Schwingen lähmte.   
 
 
 
わたしたちひとりひとりは、こころにおいて、アクティブになれる。
 
それは、影のやうな様々な死んだ考へを漠然と抱くのを止めて、積極的に、こころの熱くなるやうな考へをリアルに持つときだ。
 
自分自身が本当に考へたいことのみを考へるときだ。
 
そのとき、考へが、干からびた枠組みだけのものから、こころを熱く息づかせるいのちを持ち始め、こころは新しく甦る。
 
太陽は夏の間、外側に照り輝いてゐたけれども、秋からは、こころの内に輝き始めることができる。
 
そして15世紀から始まつてゐる新しい時代において、人が抱く考へがどんどん干からびたものになつてきたのも、ちやんとした理由がある。
 
それは、わたしたちが生きてゐる20世紀から21世紀にかけて、その死んだ考へを、ひとりひとりが意識的に、アクティブに、こころの内でいのちあるものに変容させるためだ。
 
考へを活き活きとしたみずみずしいものに。
 
その変容は、秋といふ季節において起こり得ることであり、またわたしたちの時代において起こし得ることである。
 
「内において、新しく甦る」
「己れであることの拡がり」
「力に満ちた考への輝き」
「こころの太陽の力」
 
なんと、力強い、いのちのみずみずしさを湛えたことばたちだらう。
 
ことばを繰り返し繰り返し詠むことで、ことばに湛えられてゐるいのちを汲み出さう。
 
声に出すことで、考へを活き活きと深めていかう。
 
考へがいのちを得て、こころが熱く息づく。
 
こころに太陽が輝き始める。
 
 
 
わたしは、内において、新しく甦ることができる。
己れであることの拡がりを感じる。
そして、力に満ちた考への輝きが、
こころの太陽の力から、
生きることの謎を解いてくれる。
いくつもの願ひを満たしてくれる。
これまで希みのつばさは、弱められてゐたのに。
 
 
 
 


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2019年10月06日

こころのこよみ(第27週) 〜世を信頼する〜


セザンヌ「庭師 ヴァリエ」.jpg
セザンヌ「庭師 ヴァリエ」

 
わたしといふものの深みへと進みゆくほどに、
 
予感に満ちた憧れが呼び起こされる。
 
わたしはわたしを見いだす、みづからを見てとりつつ、
 
夏の太陽から贈られた萌しとして。
 
秋の調べの中で熱く息づく、
 
こころの力として。
 
 
In meines Wesens Tiefen dringen:
Erregt ein ahnungsvolles Sehnen,      
Daß ich mich selbstbetrachtend finde,     
Als Sommersonnengabe, die als Keim
In Herbstesstimmung wärmend lebt    
Als meiner Seele Kräftetrieb.  
 
 
 
自然はリズムを刻んでゐる。世はリズムを刻んでゐる。
 
わたしもリズムを刻んで生きていくことができる。
 
この『こころのこよみ』は、そのことを助けるひとつの「道」だ。
 
道といふものは、先人が歩んでくれたからこそ、いま、そこにある。
 
先人への信頼が、その道への信頼となり、それが更に、人といふものへの信頼、世といふものへの信頼へと育つてゆく。
 
このメディテーションの道を歩んでいくことで、世のリズムと我がこころのリズムとを重ね合はせる練習ができる。
 
それは、大いなる世の生命と己れの生命とを重ね合はせていく作業だ。
 
この『こころのこよみ』に沿つて、夏から秋へと歩んでくると、この秋から冬にかけて、新しい「わたし」にきつと出逢ふといふ予感に満ちた憧れに満たされるのを感じる。
 
その新しいわたしは、熱く息づくこころの力として、新しいアイデアと新しい意欲に通はれようとしてゐるのだ。
 
わたしは、何も力んで、何かをしようといふのではない。
 
世のリズムが、わたしにその新しいわたしを授けてくれるのを、待つことを習へばいい。
 
世を信頼するのだ。
 
 
 
 
わたしといふものの深みへと進みゆくほどに、
予感に満ちた憧れが呼び起こされる。
わたしはわたしを見いだす、みづからを見てとりつつ、
夏の太陽から贈られた萌しとして。
秋の調べの中で熱く息づく、
こころの力として。
 
 


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2019年10月03日

こころのこよみ(第26週) 〜ミヒャエル祭の調べ〜



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月岡芳年 『素戔嗚尊出雲の簸川上に八頭蛇を退治したまふ図』
 


自然、その母のやうなありやう、
 
わたしは、それを、意欲において担ふ。
 
そして、わたしの意欲の火の力、
 
それが、わたしの精神の萌しのかずかずを鍛へる。
 
その萌しのかずかずが、みづからの情を生む、
 
わたしをわたしにおいて担ふべく。   (鈴木一博訳)
 
  
 
Natur, dein mütterliches Sein,
Ich trage es in meinem Willenswesen;      
Und meines Willens Feuermacht,         
Sie stählet meines Geistes Triebe,         
Daß sie gebären Selbstgefühl           
Zu tragen mich in mir.             
 
 
 
 
先週の『こころのこよみ』で、「内なるこころの光と熱。これほど、頼りになるものがあるだらうか。」と書いた。
 
この頼りになるものを、わたしたちひとりひとりの人にもたらさうとしてくれてゐる精神存在がゐる。さうシュタイナーは語つてゐる。
 
大いなる精神存在、ミヒャエル。
 
この存在は、どのやうにして、この時期に、わたしたちのこころとからだに働きかけて下さつてゐるのだらうか。
 
今週の『こよみ』を読んでみる。口ずさんでみる。
 
息遣ひも活き活きと、声を解き放ちながら唱へてみる。
 
何度もこころとからだで味わつてみる。
 
意欲をもつて、ことばとつきあつてみる。
 
さうすると、普段以上の意欲をもつてしなければ、何も感じられないことに気づく。
 
そして、積極的にことばを唱へるほどに、わたしはこころへと立ち上つてくる意欲といふ熱があればこそ、我がこころとからだが活き活きとしてくるのを感じる。
 
その熱をもつてこそ、もつとも近く親しい「自然」である我がからだとこころを担つてゐると感じることができる。
 
意欲とは、わたしのからだへと、こころへと、下から、足元から、立ち上がつてくる熱である。
 
それは熱心さであり、こころざしの顕れである。
 
その「意欲の火の力」があつてこそ、その火を、わたしが、燃やすからこそ、わたしのからだとこころに、上から、天から、降り注いでくる「考へ・想ひ・こころざし・精神の萌しのかずかず」である光が、だんだんと暖められ、鍛へられる。
 
わたしたちは、この時期、上からの光(考へ)と、下からの熱(意欲)とを、織りなしあわせる。
 
その織りなしあいが、こころに「みづからの情」を生む。
 
その情とは、「わたしは、わたしだ」「わたしは、ひとりだ」といふこころの真ん中に生まれる情だ。
 
その情をもつて、わたしといふ「ひとりの人」は活き活きと甦つてくる。
 
恐れや不安や物思ひなどを凌いで、「ひとりの人」として、この世に立ち、目の前にあることにこころから向かつていくことができる。
 
光としての考へが、こころを暖め熱くするものへと練られ、実行可能なものへと鍛へられていく。
 
 
 
 
そのやうに、自分のこころとからだで、『こころのこよみ』のことばをひとつひとつ味はつていくと、シュタイナーが多くの著書や講演で語つた精神存在を、リアルに親しく感じることができる通路が開かれていくし、さうしていくことによつて、実人生を安らかに確かに積極的に歩んでいくことができると実感する。
 
 
 
これからの秋から冬にかけて、外なる闇と寒さがだんだんと深まつてくる。
 
そしてややもすれば、闇と冷たさがこころにまで侵蝕してくる。
 
そんな時に、内なるこころの光と熱を、ひとりひとりの人がみづからの力で稼ぐことができるやうにと、共に一生懸命働いて下さつてゐるのが、ミヒャエルだ。
 
一方、闇と寒さを人にもたらす者、それがミヒャエルの当面の相手、アーリマンだ。
 
人を闇と寒さの中に封じ込めようとしてゐるそのアーリマンの力の中に、剣の力をもつて、鉄の力をもつて、切り込み、光と熱を人のこころにもたらす助けを、秋から冬の間にし、毎年毎年、ひとりひとりの人が、キリスト・イエスが生まれるクリスマスを、こころに清く備へ、整へるのを助けて下さるのが、ミヒャエルだ。
 
シュタイナーは『こころのこよみ』を通して、ことばの精神の力を四季の巡る世に打ち樹てようとした。
 
祝祭を、世における大いなる時のしるしとして、ひとりひとりの人がみづからのこころにおいて新しく意識的に創つていくことができるやうにと、『こころのこよみ』を書いた。
 
「こよみ」とは、
事(こと)をよむことであり、
言(ことば)をよむことであり、
心(こころ)をよむことである。
 
意識的に四季を生きること。
 
四季を『こころのこよみ』とともに生きること。
 
それは、地球をも含みこむ大いなる世とともに精神的に生きるといふ新しい生き方を、わたしたちが摑む手立てになつてくれるだらう。
 
また、みづからの狭い枠を乗り越えて、こころの安らかさと確かさと積極さを取り戻す手立てにもなつてくれるだらう。
 
 
 
 
自然、その母のやうなありやう、
わたしは、それを、意欲において担ふ。
そして、わたしの意欲の火の力、
それが、わたしの精神の萌しのかずかずを鍛へる。
その萌しのかずかずが、みづからの情を生む、
わたしをわたしにおいて担ふべく。
 
 


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2019年09月30日

こころのこよみ(第25週) 〜仕事の季節〜


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ルオー「《受難》1 受難」1935年


昨日はミヒャエル祭の日でしたが、毎年『こころのこよみ』の週ごとに進むペースを、祝祭日ごとに、緩やかにですが速めたり遅くしたりします。
 
と、いふことで、先日、第24週を掲載したばかりですが、今日、第25週を掲載し、また後日、引き続き「ミヒャエル祭の調べ」である第26週も掲載していきたいと思ひます。
 
 
 

 
 
わたしはいま、わたしを取り戻し、
 
そして、輝きつつ、内なる光が拡がりゆく、
 
空間と時の闇の中へと。
 
眠りへと自然がせきたてられるとき、
 
こころの深みはきつと目覚めてゐる。
 
そして、目覚めつつ、太陽の熱を担ひゆく、
 
寒い冬のさなかへと。
 
  
 
Ich darf nun mir gehören          
Und leuchtend breiten Innenlicht          
In Raumes- und in Zeitenfinsternis.   
Zum Schlafe drängt natürlich Wesen,        
Der Seele Tiefen sollen wachen           
Und wachend tragen Sonnengluten      
In kalte Winterfluten.   
 
  
 
 
陽の光と熱を浴びながら歩き回る夏の彷徨が終はつて、静かに立ち止まり、内なるこころの光と熱を生きていく秋が始まつてゐる。
 
内なるこころの光と熱によつて、こころが目覚めてゐるといふこと。

「わたしがわたしである」ことに目覚めてゐるといふこと。
 
そして、こころが生きる情熱を感じてゐるといふこと。
 
これほど、頼りになるものがあるだらうか。
 
これがあれば、秋から冬にかけて、たとへ外の世が生命力を失つていき、枯れていつても、内なるこころは、きつと、「ひとりのわたし」として、活き活きと目覚めてゐることができる。
 
夏にいただいた太陽の光と熱の大いなる働きを、内なるこころの光と熱としていく。
 
そして、来たる冬の寒さのさなかへと意欲的にそのこころの光と熱を注ぎ込んでいくことができる。
 
光と熱。
 
それはいまやわたしのこころの内から発しやうとしてゐる。
 
そしてこれからやつてくる冬の闇と寒さとのコントラストを際立たせようとしてゐる。
 
太陽の光と熱と共にあの夏をからだ一杯で生きたからこそ、この秋があるのだ、そして、この秋が、冬へと引き続いていく。
 
そのやうな季節のつながり、くりなし、なりかはりをていねいに、確かに、感じること。それが、内なるこころのつながり、くりなし、なりかはりをも自覚することへと繋がつていく。
 
四季を生きること、一年のいのちを生きることが、みづからを知ることへとわたしを導いていく。
 
この『こころのこよみ』に沿ひつつ、四季それぞれに息づいてゐる「ことば」を聴く。
 
ならば、それらの「ことば」が、生命ある連続としてこころにしずしずと流れてくる。
 
夏、外なる光と熱の中にわたしは溶け込み、ある意味、わたしはわたしを見失つてゐた。
 
秋、わたしはわたしを取り戻し、萌してゐた希みが羽を拡げようとしてゐる。
 
さあ、これからが、稔りの季節、粛々とした仕事の季節だ。
 
 
 
 
 
わたしはいま、わたしを取り戻し、
そして、輝きつつ、内なる光が拡がりゆく、
空間と時の闇の中へと。
眠りへと自然がせきたてられるとき、
こころの深みはきつと目覚めてゐる。
そして、目覚めつつ、太陽の熱を担ひゆく、
寒い冬のさなかへと。
 
 
 


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2019年09月27日

こころのこよみ(第24週) 〜生産的であるもののみがまことである〜



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みづからを絶えず創り上げつつ、
 
こころは己れのありやうに気づく。
 
世の精神、それは勤しみ続ける。
 
みづからを知ることにおいて、新しく甦り、
 
そして、こころの闇から汲み上げる、
 
己れであることの意欲の稔りを。
 
 
 
Sich selbst erschaffend stets,         
Wird Seelensein sich selbst gewahr;      
Der Weltengeist, er strebet fort        
In Selbsterkenntnis neu belebt        
Und schafft aus Seelenfinsternis       
Des Selbstsinns Willensfrucht.     
 
 
 
創る人は幸ひだ。生み出す人は幸ひだ。育てる人は幸ひだ。
 
金と引き換へにものを買ひ続け、サービスを消費し続ける現代人特有の生活のありやうから、一歩でも踏み出せたら、その人は幸ひだ。
 
その一歩は、料理を作ることや、手紙や日記を書いてみることや、花に水をやることや、ゴミを拾ふことや、そんなほんの小さな行ひからでもいいかもしれない。
 
この手と脚を動かし、世と触れ合ふ。
 
そのやうな行為によつてこそ、みづからを創り上げることができ、その行為からこそ、こころは己れのありやうに気づく。
 
そして、「世の精神」。
 
それは、一刻も休まず、勤しみ、生み出してゐるからこそ、「世の精神」であり、だからこそ、太陽や月は周期を持ち、四季は巡る。
 
「世の精神」はそのやうにして絶えず勤しみながら、人に働きかけ、また人からの働きかけを受けて、絶えず己れを知りゆかうとしてゐる。
 
「世の精神」は、人にみづからを捧げ、愛を与へようとし、人から愛を受け取る。

その交流を通して、より確かに己れといふものを知りゆき、己れを知れば知るほど、そのつど新たに新たに「世の精神」は甦る。
 
「世の精神」には、人が必要なのだ。人の働きを待つてゐるのだ。
 
同じく、わたしたち人は、そんな「世の精神」に倣ひつつ、地球上のものといふものに働きかけ、ものを愛し、ものに通じていくことをもつて、みづからを新たに新たに知りつつ、たとへ、肉体は年老いても、そのつどそのつどこころは甦り、精神的に若返ることができる。
 
我が国、江戸時代中期を生きた稀代の国学者、本居宣長(1730-1801)も、そして、ゲーテ(1749-1832)といふ人も、その「世の精神」に倣ひ続け、「ものにゆく道」を歩き通した人であり、両人の残された仕事の跡を顧みれば、晩年に至るまでのその若々しい生産力・創造力に驚かされる。
 
シュタイナーは、そのゲーテのありかたをかう言ひ当ててゐる。
 
 
ーーーーー
 
ゲーテは、ひとたび、こんな意味深いことばを語りました。
 
「生産的であるもののみが、まことである」
 
それは、かういふことです。
 
人は、きつと、みづからを、まことの有するところとなします。
 
そして、まことは働きかけます。
 
そして、人が生きて歩むとき、まことは、まことであることの証を、生産的であることを通して見いだします。
 
これが、彼にとつて、まことの試金石でした。
 
すなはち、生産的であるもののみが、まことです。
 
(1908年10月22日 於ベルリン 講演「ゲーテの密やかなしるし」より)
  
ーーーーー
 
 
 
秋には、「己れの力」が「意欲の稔り」として発露してくる。
 
創ること、生み出すこと、育てることなどの行為は、わたしたち人にこころの確かさ、安らかさ、活発さを取り戻させてくれる。
 
そして、行為し、ものと交はり、人と交はる時に、各々人は初めて、己れのこころの闇に直面する。壁に突き当たる。
 
しかしながら、その己れの闇を認め、赦すことからこそ、「わたしはある」「わたしはわたしである」といふ、こころの真ん中の礎である情に目覚め、己れであることの意欲の稔りを、汲み上げていく。
 
「ものにゆくこと」「生産的・創造的であること」、それがまことへの道だ。
 
 
 
 
みづからを絶えず創り上げつつ、
こころは己れのありやうに気づく。
世の精神、それは勤しみ続ける。
みづからを知ることにおいて、新しく甦り、
そして、こころの闇から汲み上げる、
己れであることの意欲の稔りを。
 
 

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2019年09月25日

こころのこよみ(第23週) 〜霧のとばり〜


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秋めいて、和らぐ、
 
感官へのそそり。
 
光の顕れの中に混じる、
 
ぼんやりとした霧のとばり。
 
わたしは空間の拡がりの中で観る、
 
秋、そして冬の眠り。
 
夏はわたしに、
 
みづからを捧げてくれた。
 
 
 
Es dämpfet herbstlich sich            
Der Sinne Reizesstreben;            
In Lichtesoffenbarung mischen          
Der Nebel dumpfe Schleier sich.         
Ich selber schau in Raumesweiten         
Des Herbstes Winterschlaf.           
Der Sommer hat an mich            
Sich selber hingegeben.       
 
 

 
ゆつくりと和らいでくる陽の光。
 
それとともに、感官へのそそりも和らいでくる。
 
そして、秋が日一日と深まりゆくにつれて、過ぎ去つた夏と、これからやつてくる冬とのあひだに、立ちかかるかのやうな、霧のとばり、「秋霧」。
 
その「とばり」によつて、戸の向かう側とこちら側にわたしたちは改めてこころを向けることができる。
 
戸の向かう側において、過ぎ去つた夏における世の大いなる働きの残照をわたしたちは憶ひ起こす。
 
夏における外なる世の輝き。
 
そして夏における内なるこころの闇。
 
その外と内のありようを憶ひ起こす。
 
そして、戸のこちら側において、だんだんと深まつてくる秋における生命の衰へと、来たるべき冬における生命の死とを、わたしたちは予感する。
 
これからの冬における外なる世の闇。
 
そしてクリスマスに向かう内なるこころの輝き。
 
その外と内のありやうを予感する。
 
夏を憶ひ起こすことと、冬を予感すること。
 
こころのアクティブな働きをもつて、その間に、わたしたちは、いま、立つことができる。
 
さうすることで、きつと、こころが和らげられ、静かでありながらも、意欲を滾らせてゆくことができる。
 
 
 
秋めいて、和らぐ、
感官へのそそり。
光の顕れの中に混じる、
ぼんやりとした霧のとばり。
わたしは空間の拡がりの中で観る、
秋、そして冬の眠り。
夏はわたしに、
みづからを捧げてくれた。
 
 
 

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2019年09月21日

こころのこよみ(第22週) 〜深まりゆく感謝の念ひ〜


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世の拡がりから来る光が、
 
内において力強く生き続ける。
 
それはこころの光となり、
 
そして、精神の深みにおいて輝く。
 
稔りをもたらすべく、
 
世の己れから生まれる人の己れが、
 
時の流れに沿つて熟していく。
 
       ルドルフ・シュタイナー
 
 

Das Licht aus Weltenweiten,
Im Innern lebt es kräftig fort:          
Es wird zum Seelenlichte            
Und leuchtet in die Geistestiefen,        
Um Früchte zu entbinden,            
Die Menschenselbst aus Weltenselbst       
Im Zeitenlaufe reifen lassen.    
 
 
 
 
夏の間、外に輝いてゐた陽の光が、いつしか、こころの光になつてゐる。
 
そのこころの光は、萌しであり、これから、だんだんと、長けゆく。
 
そのこころの光は、感謝の念ひであり、だんだんと深まり、秋から来たるべき冬に向けて、だんだんと、熟してゆく。
 
その成熟は、冬のさなかに訪れる新しい年の精神の誕生を我がこころに迎へるための、なんらかの備へになる。
 
それは、太陽の輝きの甦りに向けての備へである。
 
むかし、我が国では、そもそも、その冬至の頃(旧暦の十一月の終わり頃)に、新嘗祭(にいなへのまつり)を毎年行つて来た。
 
一年の米の収穫には、いい年もあれば、悪い年もある。
 
しかし、どんな年であれ、米(むかしは米のことを「とし」と言つた)を授けて下さつた神に対する感謝の念ひを育みつつ、日本人は生きて来た。
 
この感謝の念ひが、秋から冬への移り行きの中に生まれる寂しさ、孤独、侘しさといつた情を凌ぐ、静かな元手となつてゐた。
 
それが、また、こころの光であつた。
 
 
 

西の国々では、冬至の直後にイエス・キリストの誕生を祝ふクリスマスがある。
 
そして、キリストの誕生とは、「ひとり生みの子ども」「神の子」「ひとりであることのもたらし手」「世の己れから生まれる人の己れ」の誕生であつた。
 
西洋では、一年の稔りへの感謝の念ひを年の終はりにすることに代はつて、キリストの誕生を寿いだのだ。
 
それは、「ひとりであること」の稔りであつた。
 
その「ひとりであること」の自覚の光が、秋から冬に向けて熟して行く。
 
 
 憂きわれをさびしがらせよ閑古鳥   芭蕉
 
 
人は、「ひとりであることの自覚」から生まれる寂しさといふ情にまで徹してみることで、鬱々としたもの思ひを突き抜けることができる。そして、この「ひとりであること」の自覚の上にこそ、キリストは寄り添つてくださるのかもしれない。
 
そして、「ひとりであること」の自覚を持つひとりの人とひとりの人が出会ふところにこそ、精神は息づく。
 
芭蕉は、また、この「閑古鳥」も「ひとり」であり、その閑古鳥との精神の交流、閑古鳥への感謝をも感じてゐる。
 
 
 
世の拡がりから来る光が、 
内において力強く生き続ける。 
それはこころの光となり、 
そして、精神の深みにおいて輝く。 
稔りをもたらすべく、 
世の己れから生まれる人の己れが、 
時の流れに沿つて熟していく。



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