[こころのこよみ(魂の暦)]の記事一覧

2020年06月23日

こころのこよみ 第12週 ヨハネ祭の調べ 〜子どもたちの歌声〜


 
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帝塚山古墳

 
 
世の美しい輝き、

それは、わたしをこころの深みから切に誘(いざな)ふ、

内に生きる神々の力を

世の彼方へと解き放つやうにと。

わたしは己れから離れ、

ただ信じつつ、みづからを探し求める、

世の光と世の熱の中に。
 
 

Johanni-Stimmung
 
Der Welten Schönheitsglanz,
Er zwinget mich aus Seelentiefen
Des Eigenlebens Götterkräfte
Zum Weltenfluge zu entbinden;
Mich selber zu verlassen,
Vertrauend nur mich suchend  
In Weltenlicht und Weltenwärme.
 
 
 
 
今週のこよみには、
「ヨハネ祭の調べ」といふ副題がついてゐる。
 
 
キリスト教が生まれる以前、古代諸宗教においては、
夏至を一年の頂点とするお祭りが熱狂的に行はれてゐた。
 
 
人といふものを導く神は、太陽にをられる。
その信仰が人びとの生活を支へてゐた。
太陽がもつとも高いところに位置するこの時期に、
太陽にをられる神に向かつて、人々は我を忘れて、
祈祷をし、捧げものをし、踊り、歌ひながら、
その祭りを執り行つてゐた。
 
 
洗礼者ヨハネは、その古代的宗教・古代的世界観から、
まつたく新しい宗教・新しい世界観へと、
橋渡しをした人であつた。
 
 
彼は、夏に生まれたといふだけでなく、
いにしへの宗教における夏の熱狂を取り戻すべく、
まさしく、炎のやうな情熱をもつて、
ヨルダン川のほとりにおいて、
全国から集まつてくる人々に水をもつて洗礼を授けてゐた。 
 
 
しかし、彼は、これまでは太陽にあられた神が、
まうすぐこの地上に降りてこられることを知つてゐた。 
 
 
 
 汝ら、悔い改めよ、天の国は近づけり(マタイ3.2)
 

そして、みづからの役目がそこで終はることをも知つてゐた。
 
 
 わが後に来たる者は我に勝れり、
 我よりさきにありし故なり(ヨハネ1.15)
 
 
 我は水にて汝らに洗礼を施す、
 されど我よりも力ある者きたらん、
 我はそのくつの紐を解くにも足らず。
 彼は聖霊と火とにて汝らに洗礼を施さん (ルカ3.16)
 
 
 彼は必ず盛んになり、我は衰ふべし(ヨハネ3.30)
 
 
 
ヨハネはイエスに洗礼を授け、
イエスのこころとからだに、
太陽の精神であるキリストが降り来たつた。
それは、太陽の精神が、その高みから降りて、
地といふ深みへと降りたといふことであり、
ひとりひとりの人の内へと降り、
ひとりひとりの人の内において活き活きと働き始める、
その大いなる始まりでもあつた。
 
 
「内に生きる神々の力」とは、
人の内にこそ生きようとしてゐる、
キリストのこころざし(Christ Impuls)だ。
ヨハネがそのことに仕へ、
みづからを恣意なく捧げたことが、
四つの新約の文章から熱く伝はつてくる。
そのときからずつと、キリストは、この地球にあられる。
そのことをわたしたちは実感できるだらうか。
 
 
しかし、シュタイナーは、その実感のためには、
ひとりひとりの人からのアクティビティーが要る
と言つてゐる。
みづからの内において、
キリストがあられるのを感じることは、
おのづからは生じない。
人が世に生きるにおいて、
みづからを自覚し、自律し、自立させ、
自由に己れから求めない限りは、
「内に生きる神々の力」という実感は生まれ得ない。
 
 
ヨハネ祭は、もはや、古代の夏至祭りではなく、
熱狂的に、我を忘れて祝ふものではなく、
意識的に、我に目覚めて、キリストを探し求める祝ひ。
 
 
それは、この世を離れるのではなく、
この世を踏まえつつ、羽ばたくといふ、
わたしたち現代に意識的に生きる人といふ人の
求めることでもある。
 
 
この夏の季節、地球の精神・キリストは、
息を吐くかのやうに、
みづからのからだである地球から離れ、
世の彼方にまで拡がつていかうとしてゐる。
わたしたち人も、
キリストのそのやうな動き・呼吸に沿ふならば、
己れから離れ、己れのからだとこころを越えて、
精神である「みづから」を見いだすことができる。
 
 
生活の中で、わたしたちはそのことを
どう理解していくことができるだらうか。
からだを使つて働き、汗を流し、学び、歌ひ、遊ぶ、
それらの動きの中でこそ、
からだを一杯使ふことによつてこそ、
からだから離れることができ、
こころを一杯使ふことによつてこそ、
こころから離れることができ、
「世の光と世の熱の中に」
みづからといふ精神を見いだすことができる。
 
 
そして、この夏において、意識的に、
子どもに、習ふこと。
 
 
わたしの目の前で、笹の葉にたんざくを吊るしながら、
けらけら笑ひ、歌ひ、踊つてゐる子どもたち。
 
 
ヨハネ祭のとき、古代の人々は、
鳥たちが歌ふことから学びつつ、
その歌声を人間的に洗練させて、
音楽と詩を奏で、歌ひ、踊つたといふ。
 
 
鳥たちの声の響きは大いなる世の彼方にまで響き渡り、
そしてその響きに応じて、
天から地球に精神豊かなこだまのやうなものが降りてくる。 
 
このヨハネ祭の季節に、人は、夢のやうな意識の中で、
鳥たちに学びつつ、歌ひ、踊ることによつて、
己れから離れ、
いまだ天に見守られてゐる<わたし>を
見いだすことができた。
 
 
いまも、子どもたちは、幾分、
古代の人たちの夢のやうな意識のありやうを生きてゐる。
そんな夏の子どもたちの笑ひ声と歌声をさへぎりたくない。
その響きはいまも彼方の世にまで届くのだから。
 
 
そして、わたしたちが己れから離れ、
大いなる世、コスモスをより精神的に理解するほどに、
天が、ひとりひとりの<わたし>、
「内に生きる神々の力」を
見守つてくれてゐるのを感じることができる。
 
 
そして、子どもたちの歌声に対するエコーのやうに、
天が響き返してくれてゐるのを聴き取ることができる。
 
 
さらには、この世の様々な状況に対応していく道を、
きつと、見いだしていくことができる。
 
 
とりわけ、芸術行為は、そのことを実感させてくれる。
 
 
夏至の頃に、
キリストは世の高みと拡がりに至ることによつて、
毎年繰り返して、昂揚感を覚えてゐると言ふ。
 
 
ヨハネ祭の調べ。
 
 
それは、ひとりひとりが外の世に働きかけることによつて、
意識的に、目覚めつつ、みづからを高めつつ、
みづからといふ精神を見いだすこと。
 
 
そこから、地上的なキリスト教ではなく、
夏に拡がりゆくキリストの昂揚を通して、
より大いなる世のキリストを見いだしていくこと。
 
 
そのことがキリスト以降、
改められた夏の祭りとしての、
ヨハネ祭の調べだと感じる。
 
 
 

 
世の美しい輝き、
それは、わたしをこころの深みから切に誘(いざな)ふ、
内に生きる神々の力を
世の彼方へと解き放つやうにと。
わたしは己れから離れ、
ただ信じつつ、みづからを探し求める、
世の光と世の熱の中に。
 


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2020年06月19日

こころのこよみ(第11週)〜白日の下の美しさ〜


 
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この太陽の時の中で、
 
あなたは、賢き知を得る。
 
世の美しさに沿ひつつ、
 
あなたの内にいきいきとあなたを感じ切る。
 
「人の<わたし>は、みづからを失ひ、
 
 そして、世の<わたし>の内に、

 みづからを見いだすことができる」
 
 
 
Es ist in dieser Sonnenstunde   
An dir, die weise Kunde zu erkennen:      
An Weltenschönheit hingegeben,       
In dir dich fühlend zu durchleben:       
Verlieren kann das Menschen-Ich        
Und finden sich im Welten-Ich.    
 
 
 
 
 
「世の美しさ」とは、
決して表側だけの美しさを言つてゐるのではないだらう。
 
 
「この太陽の時の中で」は、
美しさも醜さも、素晴らしさも馬鹿馬鹿しさも、
すべてが白日の下に晒される。
 
 
それらすべてが白日の下に晒され、
光が当てられるからこそ、
「世の美しさ」なのだ。
 
 
その晒されたものがなんであれ、
人はそれを経験し、生きなければならない。
 
 
善と悪、美と醜、真と偽、喜びと悲しみ、
それぞれがひとつのもののうらおもてだといふこと。
 
 
そのやうな、のつぴきならなさが、
「世の美しさ」として感じられるだらうか。
そして、それに沿ふことができるだらうか。
 
 
どんな単純なものごとであれ、複雑なものごとであれ、
どんな素晴らしいことであれ、酷いことであれ、
わたしたちは、そのものごと、できごとを見くびらずに、
その深みを見てとることができるだらうか。
 
 
ものごとは、なんであれ、
付き合ひ続けて、沿ひ続けて、
初めて、密やかに、その深さを打ち明け始める。
 
 
子どもの立ててゐる寝息や家族の笑顔。
草木や花々の健気ないのちの営み。
日々つきあつてゐる者同士の関係、愛、いさかひ、葛藤。
毎日移り変はつていく世の動向。
人びとの集団的意識の移り行き。
それらひとつひとつが、その深みを顕してくれるのは、
はやばやと見くびつてしまはずに、
こころをこめてそれに向き合ひ続け、
沿ひ続けるときだ。
  
 
そして、ものごとに沿ふといふ行為の、
肝腎要(かなめ)は、
ものごとと<わたし>との関係において、
何が過ぎ去らず、留まるものなのか、
いつたい何が本質的なことなのか、
といふ問ひをもつこと。
 
 
それが精神を通はせつつ、
ものごとに沿ふことの糸口になる。
からだをもつて振る舞ひ、
こころから行為していくことの糸口になる。
 
 
その時、捨てようとしなくても、
人は狭く小さなわたしを捨てることができるかもしれない。
 
 
そして、はるかに広やかで、
はるかに深みをもつた<世のわたし>の内に、
「賢き知」と、他の誰のでもない、
自分自身のこころざしが、
立ち上がつてきはしないか。
 
 
人の<わたし>は、みづからを失ひ、
そして、世の<わたし>の内に、
みづからを見いだすことができる。
 
 
 
 
 

この太陽の時の中で、
あなたは、賢き知を得る。
世の美しさに沿ひつつ、
あなたの内にいきいきとあなたを感じ切る。
「人の<わたし>は、みづからを失ひ、
 そして、世の<わたし>の内に、
 みづからを見いだすことができる」
 
 
 
 
 

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2020年06月13日

こころのこよみ(第10週) 〜お天道様が見てゐるよ〜



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堺の宿院の上空
 
 

夏の高みへと
 
太陽が、輝くものが、のぼる。
 
それはわたしの人としての情を連れゆく、
 
広やかなところへと。
 
予感しつつ、内にて動く、
 
感覚。おぼろにわたしに知らせつつ。
 
あなたはいつか知るだらう、
 
「神なるものが、今、あなたを感じてゐる」
 
        
 
 
Zu sommerlichen Höhen            
Erhebt der Sonne leuchtend Wesen sich;     
Es nimmt mein menschlich Fühlen       
In seine Raumesweiten mit.           
Erahnend regt im Innern sich          
Empfindung, dumpf mir kündend,        
Erkennen wirst du einst:            
Dich fühlte jetzt ein Gotteswesen.       
 
 
 
 
これから来たる夏の太陽の光と熱によつて、
植物の緑が、花のとりどりの色となつて、
上へ上へと燃え上がる。
 
 
鳥たちが、虫たちが、
いよいよ高らかに、軽やかに、
夏の青空の高みに向かつて、鳴き声を響かせ、
大いなる世、宇宙にその響きが拡がつていく。
 
 
太陽によつて引き起こされる、
そんな植物と動物たちの働きが、
夏の空気に働きかけてゐるのを、
わたしたちは感じることができるだらうか。
 
 
もし、さういふことごとを人が感じつつ、
来たる夏を生きることができるならば、
みづからの、人ならではのところ、
人であること、わたしであることもが、
ここよりも、さらに、高いところに、
さらに広やかなところにのぼりゆき、
天によつて見守られることを、
情として感じることができるだらうか。
 
 
「お天道様が見てゐるよ」
幼い頃、このことばを親たちからよく聞いた。
 
 
おそらく、そのことばは、古来、
日本人がずつと我が子どもたちに
言ひ伝へてきたものだらう。
 
 
「お天道様」それは、太陽の神様であり、
わたしたちに警告を発しつつ、
わたしたちを見守つてゐる存在として、
常に高みにあるものとして
感じてゐたものだつたのだらう。
 
 
そして、いま、わたしたちは、
その「お天道様」を、人の人たるところ、
<わたし>であるところとして、
感じてゐるのではないだらうか。
 
 
「神なるものが、いま、あなたを感じてゐる」とは、
「高い<わたし>こそが、
いま、低い、普段の、わたしを見守つてくれてゐる」
「お天道様が、いま、あなたを見てゐる」
といふことかもしれない。
 
 
天照大御神のみことば。
「これの鏡はもはら我(わ)が御魂として
 吾(あ)が前を拝(いつ)くがごと拝き奉れ」
 
 
わたしたちは、
自分自身のこれまでの見方や感じ方や考へ方から離れて、
改めて、この季節だからこそ、
「お天道様」に見守られてゐることを感じ、
「お天道様」からの視点、
「おのづから」なありかたで、
生きていくことができるだらうか。
 
 
見る眼を磨き、耳を澄ますなら、
きつと、予感と感覚が、教へてくれるだらう。
 
 
 
 
 
 
夏の高みへと
太陽が、輝くものが、のぼる。
それはわたしの人としての情を連れゆく、
広やかなところへと。
予感しつつ、内にて動く、
感覚。おぼろにわたしに知らせつつ。
あなたはいつか知るだらう、
「神なるものが、今、あなたを感じてゐる」
 
 
 
 

 
 

posted by koji at 05:33 | 大阪 🌁 | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月07日

こころのこよみ(第9週) 〜大いなる父なるもの〜



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我が意欲のこだわりを忘れ、
 
夏を知らせる世の熱が、満ちる、
 
精神とこころのものとしてのわたしに。
 
光の中でわたしを失くすやうにと、
 
精神において観ることがわたしに求める。
 
そして強く、予感がわたしに知らせる、
 
「あなたを失ひなさい、あなたを見いだすために」
 
 
 
Vergessend meine Willenseigenheit,
Erfüllet Weltenwärme sommerkündend
Mir Geist und Seelenwesen;
Im Licht mich zu verlieren
Gebietet mir das Geistesschauen,
Und kraftvoll kündet Ahnung mir:
Verliere dich, um dich zu finden.  
 
 
 
「わたしは、
 これをしたい、
 あれをやりたい、
 これをしなければ、
 あれをしなければ・・・」
 
 
そのやうな意欲といふものも、
内なる「熱」と言つていいのだけれども、
その意欲の中にある
「こだわり」を忘れることができるだらうか。
「・・・しなければ」といふやうな
「恐れ」を忘れることができるだらうか。
 
 
朝、陽の光が輝き出すと、その熱が、
来たる夏を知らせてくれてゐるやうに感じる。
 
 
そして、「熱いなあ」と感じるだけにせずに、
ずつと、その熱に問ひかけるやうにしてゐると、
その陽の光から発せられてゐる熱は、
自分が抱いてゐる意欲の熱よりも、
はるかに、はるかに、巨大で、
太陽の意欲は、わたしの意欲よりも、
はるかに、はるかに、
強く、深く、遠くを見通してゐるかのやうな
豊かさであると感じる。
 
 
そのやうな意欲の大いなる力は、
太陽を通して、どこから来るのだらう。
 
 
シュタイナーは、
『世と人のなりかはり』(全集175巻)の中で、
「父なるもの」からだと話してゐる。
 
 
その「父なるもの」
「そもそも世を創りし方、
 そしていまも創り続けてゐる方」
と人との出会ひは、
ひとりひとりの生涯の内に一度はきつとある。
 
 
人生の中で、
己れといふもののこだはりが脱ぎ捨てられた時、
夏の太陽のやうな巨大な輝きと熱、
感動と驚きと畏敬の念いに満たされる時、
その出会ひは生じる。
 
 
だから、子どもの頃、丁度、
これから始まる夏にかけて、
大いなる天空を仰ぎ、
そこに拡がる青空や夜の星々に想ひを重ね、
感情と意欲を大いなる叡智に沿はせていくことは、
人生にきつと一度は生じる
「父なるもの」との出会ひに向けた良き備へになる。
 
 
人生の中で、このことばが、
予感として、響くときが、きつとある。
 
 
光の中で、
あなたを失ひなさい、
あなたを見いだすために
 
 
 
 
 
我が意欲のこだわりを忘れ、
夏を知らせる世の熱が、満ちる、
精神とこころのものとしてのわたしに。
光の中でわたしを失くすやうにと、
精神において観ることがわたしに求める。
そして強く、予感がわたしに知らせる、
「あなたを失ひなさい、あなたを見いだすために」
 
 
 

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2020年05月30日

こころのこよみ(第8週)〜聖霊が降り給ふ日々〜


 

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ギュスターブ・ドレ「ペンテコステ」


 
感官の力が長けゆく、
 
神々の創り給ふものに結びつけられて。
 
それは考へる力を沈める、
 
夢のまどろみへと。
 
神々しいものが、
 
わたしのこころとひとつにならうとする時、
 
きつと人の考へるは、
 
夢のやうなありやうの中で、静かに慎んでゐる。
 
 
 
Es wächst der Sinne Macht          
Im Bunde mit der Götter Schaffen, 
Sie drückt des Denkens Kraft           
Zur Traumes Dumpfheit mir herab.
Wenn göttlich Wesen           
Sich meiner Seele einen will,
Muß menschlich Denken  
Im Traumessein sich still bescheiden. 
 
 
 
※ Denken といふ名詞を「思考」とは訳さずに、
「考へる」としてゐます。
denken といふ動詞(考へる)から生まれてゐるがゆゑ、
その活き活きとした働きを殺さないやう、
名詞でありながら、動詞的に訳してゐます。
 
 

 
感官の力(見る力や聴く力など)が、
ものに吸ひ寄せられてしまふこともあるだらう。
たとへば、
テレビやこのコンピューターの画面などに。
 
 
しかし、ものに吸ひ寄せられたままではなく、
感官の力を、もつと意識的に、意欲的に、働かせ、
じつくりと腰を据ゑて、何かを見る、
何かに耳を澄ませてみる・・・。
 
 
考へる力が鎮められ、沈められる位、
見てみる、聴いてみる。
 
 
見れど飽かぬも、
まさに、見てとればいよいよ飽かぬも。
なぜ、飽かぬのだらうか。
それは、見てとる、見る、見ゆ、に先立つて、
愛するがあるからだ・・・。
 
 
そのとき、そのときの、「愛する」から、
からだの大いさ、
からだを使ふことの大事さが披かれる。
 
 
その時のこころのありやうは、むしろ、
「考へるは、夢のやうなありやうの中で、
 静かに慎んでゐる」
と表現することがぴつたりとする。
 
 
さうすると、わたしたちは、何を受け取り、
どのやうに感じるだらう。
 
 
この週は、聖霊降臨祭の週でもある。
 
 
約二千年前、
十字架刑の三日後にキリストは甦り(復活)、
その後四十日間に渡つて、
キリストは精神のからだをもつて現はれ、
当時の弟子たちに親しく語りかけたといふ。
 
 
しかし、キリストはその後十日間、
弟子たちの前からその姿を消したといふ(昇天)。
 
 
その十日の間、
弟子たちは
「夢のやうなありやうの中で静かに慎んで」いた。
 
 
ひとところに集まつて、
静かに熱く、
しかし夢にまどろんでゐるやうなありかたで祈つてゐた。
 
 
そして、聖霊降臨の日、
それは聖霊(聖き精神)が、
ともに集つてゐる弟子たちに初めて降りてきて、
弟子たちがさまざまな言語をもつて
(ひとりひとりがおのおの自分のことばで)、
そのキリストのことばとしての聖き精神を
語り始めた日だつた。
 
 
前週において、
「さあ、来たれ、わたしの予感よ、
 考へる力に代はつて」
とみづからの精神に呼びかけた。
 
 
その「予感」への呼びかけとは、
こざかしく考へることを止めて、
より大いなるものからの流れ
(世の考へ・キリストのことば)に
耳を傾けるといふ行為だつた。
 
 
それは、「静かに慎む」「傾聴する」
ありやうをもつて、
みづからを浄めつつ待つといふ行為でもある。
 
 
二千年後のわたしたちは、
考へる力が失はれてくるこの季節においても、
そのやうな備へをしようと
アクティブにみづからをもつていくならば、
「神々しいものが、わたしのこころとひとつになる」
聖霊降臨祭を、
自分たちのいまゐる場所で、
きつと打ち樹てていくことができる。
 
 
「すべては神々の創り給ふものである」
「神々しいものとこころがひとつになる」
といつたことを読んだり、
言つたりするにとどまらず、
予感し、実感し、見て、
そのことを生きていくために、
からだを通して、
実際の練習を意識的にしつづけていくことの
大切さを感じる。
 
 
教育であれ、芸術であれ、そこにこそ、
アントロポゾフィーの社会性が育つていく
基盤があるのではないだらうか。
 
 
 
 

感官の力が長けゆく、
神々の創り給ふものに結びつけられて。
それは考へる力を沈める、
夢のまどろみへと。
神々しいものが、
わたしのこころとひとつにならうとする時、
きつと人の考へるは、
夢のやうなありやうの中で、静かに慎んでゐる。



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2020年05月22日

こころのこよみ(第7週)〜さあ、来たれ、わたしの予感よ〜


 
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わたしのわたしたるところ、
  
それはいまにも離れ去らうとしてゐる、
 
世の光に強く引き寄せられて。
 
さあ、来たれ、わたしの予感よ、
 
あなたの力に満ちたふさはしさの中に、
 
考へる力に代はつて。
 
考へる力は感官の輝きの中で、
 
みづからを見失はうとしてゐる。
 
     
    
 
Mein Selbst, es drohet zu entfliehen,
Vom Weltenlichte mächtig angezogen.
Nun trete du mein Ahnen
In deine Rechte kräftig ein,
Ersetze mir des Denkens Macht,
Das in der Sinne Schein
Sich selbst verlieren will.
 
  
 

人は、芸術に取り組むとき、
ある種の息吹きを受ける。
 
 
シュタイナーは、そのやうな、
芸術をする人に大いなる世から吹き込まれる息吹きを、
インスピレーションと呼んだ。 
(Inspiration は、ラテン語の
  insprare (吹き込む)から来てゐる)
 
 
一年の巡りで言へば、わたしたちは、
秋から冬の間に吸ひ込んだ精神の息、精神の風、
「インスピレーション」を、
春から夏の間に芸術行為をもつて解き放たうとしてゐる。
 
 
秋から冬の間、
「わたしのわたしたるところ」「考へる力」は
そのインスピレーションを孕むことができたのだ。
 
 
その「わたしのわたしたるところ」「考へる力」が、
変容して、春から夏の間のこの時期、
意欲の力として、からだを通して息が吐かれるやうに、
大いなる世へと拡がつていかうとしてゐる。
 
 
「わたしのわたしたるところ、
 それはいまにも離れ去らうとしてゐる」
 
 
その精神の吐く息に連れられて、
芸術行為を通して
「わたしのわたしたるところ」「考へる力」は、
外の世に拡がつてゆく。働きかけてゆく。
 
 
芸術をするとは、頭で考へることを止めて、
みづから頭が空つぽになるまで
手足を働かせることである。
 
 
それは、世の光に引き寄せられることであり、
自分のからだの外にこころが出て行くことである。
 
 
「世の光に強く引き寄せられて」
 
 
さうして、外へと出て行くほどに、
光の贈りものをいただける。 
 
 
その光の贈りものとは、
「予感」といふ、より高いものからの恵みである。
 
 
「さあ、来たれ、わたしの予感よ、
 あなたの力に満ちたふさはしさの中に、
 考へる力に代はつて」
 
 
芸術とは、
インスピレーションといふ世の風に吹き込まれつつ、
予感といふ世の光に従ふことである。
 
 
練習を通して初めてやつてくる
予感に沿つていくことである。
練習とは、身を使ふことである。
 
 
秋から冬、インスピレーションを孕んだ考へる力が、
まづは頭から全身に働きかける。
 
 
その精神の息吹きを、
春から夏、練習によつて、解き放つていく。
 
 
その息吹きが練習によつて解き放たれるその都度その都度、予感が、光として、
ある種の法則をもつたものとしてやつてくる。
 
 
インスピレーションが、
胸、腕、手の先、腰、脚、足の裏を通して、
息遣ひを通して、芸術として世に供され、
供するたびに、芸術をする人はその都度、
予感をもらえるのだ。
 
 
この小さな頭でこざかしく考へることを止めて、
やがて己れに来たるべきものを感じ取らうとすること。
 
 
「さあ、来たれ、わたしの予感よ」
と精神に向かつて呼びかけつつ、動きつつ、待つこと。
 
 
それは、秋から冬の間、
明らかに紛れなく考へる働きとは趣きがまるで違ふが、
アクティビティーにおいては、
それに負けないぐらゐの強さがゐる。
 
 
世から流れてくるものを信頼すること。
  
 
そして、そのやうな、身の働きの中で、芸術行為の中で、
予感が恩寵のやうにやつてくる。
 
 
だから、この季節において、考へる力は、
感官の輝きの中で、
手足の働きの中で、
意欲の漲りの中で、
見失はれていいのだ。
 
 
「考へる力は感官の輝きの中で、
 みづからを見失はうとしてゐる」
 
 
そして、積極的に手足を使つて、
息を解き放ち、力を揮つて、感官の輝きの中で、
創造に勤しむのだ。
 
 
 
わたしのわたしたるところ、
それはいまにも離れ去らうとしてゐる、
世の光に強く引き寄せられて。
さあ、来たれ、わたしの予感よ、
あなたの力に満ちたふさはしさの中に、
考へる力に代はつて。
考へる力は感官の輝きの中で、
みづからを見失はうとしてゐる。
 
 

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2020年05月16日

こころのこよみ(第6週) 〜生活の中に根付いてゐる信仰〜



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己れであることから甦る、
 
わたしのわたしたるところ。
 
そしてみづからを見いだす、
 
世の啓けとして、
 
時と場の力の中で。
 
世、それはいたるところでわたしに示す、
 
神々しいもとの相(すがた)として、
 
わたしの末の相(すがた)のまことたるところを。
 
 
 
Es ist erstanden aus der Eigenheit  
Mein Selbst und findet sich
Als Weltenoffenbarung             
In Zeit- und Raumeskräften;         
Die Welt, sie zeigt mir überall
Als göttlich Urbild
Des eignen Abbilds Wahrheit.

 

じつくりと見る。
じつくりと聴く。
じつくりと受けとる。
 
 
そのやうに世に向かつて、人に向かつて、
意識的に感官を開くほどに、
世も人も、ものものしく語りだす。
 
 
そして、
世と人に向かつて我が身を披けば披くほど、
我がこころが起き上がつてくる、
立ち上がつてくる、
甦つてくる。
 
 
たとへば、幼い子どもを育ててゐるとき、
大人の忙しさについつい子どもを
巻き込んでしまふことがある。
 
 
そんな時、
よく子どもは大人の意向にことごとく反発して、
ぐずつたり、泣きわめいたりする。
 
 
しかし、
この「忙しさ」といふこころの焦りに、
大人であるわたしみづからが気づけた時、
目の前の子どもにじつくりと眼を注ぐことができた時、
子どもの息遣ひに耳をじつくりと傾けることができた時、
子どもが落ちつくことが、よくある。
 
 
そんな時、
子どもがいつさう子どもらしく輝いてくる。
その子が、その子として、啓けてくる。
 
 
そして、さうなればなるほど、
眼を注いでゐるわたし自身のこころも
喜びと愛に啓けてくる。
わたしが、わたしのこころを取り戻してゐる。
 
 
子どもを育ててゐる毎日は、そんなことの連続。
 
 
きつと、子どもだけでなく、
お米その他の作物をつくつたり、
育てたりすることにおいても、
それを毎日してゐる人には、
同じやうなことが感じられてゐるのではないだらうか。
 
 
子どもがゐてくれてゐるお陰で、
他者がゐてくれてゐるお陰で、
ものがあつてくれるお陰で、
わたしはわたしのわたしたるところ、
わたしのまことたるところを見いだすことができる。
 
 
他者といふ世、
それはこちらが眼を注ぎさへすれば、
いたるところでわたしに
わたしのまことたるところを示してくれる。
 
 
他者に、世に、
わたしのまことたるところが顕れる。
 
 
そのことも、
不思議で、密やかで、かつリアルなことだが、
そのわたしのまことたるところが、
神々しい元の相(すがた)に
相通じてゐることに気づいていくことは、
あらためて、
信仰といふことに対する親しさを
わたしたちに与へてくれる。
 
 
生活の中に根付いてゐる信仰。
 
 
日々、
つきあつてゐるものといふものや他者を通してこそ、
啓いていくことができる信仰。
 
 
もうすぐ、聖霊降臨祭がやつてくる。
 
 
 
己れであることから甦る、
わたしのわたしたるところ。
そしてみづからを見いだす、
世の啓けとして、
時と場の力の中で。
世、それはいたるところでわたしに示す、
神々しいもとの相(すがた)として、
わたしの末の相(すがた)のまことたるところを。
 
 
 

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2020年05月10日

こころのこよみ(第5週) 〜セザンヌ 画家の仕事とは〜


 
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精神の深みからの光の中で、
 
その場その場で実り豊かに織りなしつつ、
 
神々の創りたまふものが啓かれる。
 
その中に、こころそのものが顕れる、
 
ありありとした世へと広がりつつ、
 
そして立ち上がりつつ、
 
狭い己れの内なる力から。
 
 
 
 
Im Lichte, das aus Geistestiefen
Im Räume fruchtbar webend
Der Götter Schaffen offenbart:
In ihm erscheint der Seele Wesen
Geweitet zu dem Weltensein
Und auferstanden
Aus enger Selbstheit Innenmacht.
 
 
 
 
画家とは、何をする人なのだらう。
セザンヌの絵を観て、
そのことを考へさせられる。
 
 
「仕事」として絵を描くとは、どういふことか。
 
 
セザンヌのことばによると、
「感覚を実現すること」、
それこそが絵を描くといふことであつた。
それこそが、彼の「仕事」だつた。
 
 
彼が強い意欲をもつて、
ものを見ようとすればするほど、
ものの方が、彼をぢつと見つめる。
 
 
自然が自然そのものの内に秘めてゐる持続的な、
強い、時に巨大な「もの」を彼に流し込んでくる。
 
 
それは既に、
感官(目や耳などの感覚器官)を超えて
受信される「もの」である。
 
 
そして、
自然からのそのやうな
「もの」の流れに応じるかのやうに、
あまりにも巨大なセザンヌ自身の
「こころそのもの」が顕れる。
 
 
その場その場の自然から流れ込んでくる「もの」。
そして、立ち顕れてくる彼自身の「こころそのもの」。
 
 
そのふたつの出会ひそのものを、
キャンバスの上に、色彩で顕わにしろと、
彼は自然そのものに求められる。
 
 
その求めに応へるのが、
「感覚の実現」であらうし、彼の仕事であつた。
その求めに応へ続けたのが、彼の生涯だつた。
 
 
世は、人に、
「その場その場で実り豊かに織りなしつつ
 神々が創りたまふもの」
を啓いてほしいと希つてゐる。
 
 
なぜなら、それによつて、人は、
「 狭い己れの内なる力から、
 ありありとした世へと広がりつつ、
 自分の足で立ち上がりつつ、
 自分自身のこころそのものを顕わにする」ことが
できるからなのだらう。
 
 
セザンヌは、そのことを、
意識的になさうとした人だと感じる。
 
 
 
精神の深みからの光の中で、
その場その場で実り豊かに織りなしつつ、
神々の創りたまふものが啓かれる。
その中に、こころそのものが顕れる、
ありありとした世へと広がりつつ、
そして立ち上がりつつ、
狭い己れの内なる力から。
  
 

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2020年05月04日

こころのこよみ(第4週)〜主と客、重ね合はせて「わたし」〜


  
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ボッティチェリ「ヴィーナスの誕生」

 
 
「わたしは、わたしのわたしたるところを感じる」
 
さう感覚が語る。
 
それは陽のあたる明るい世の内で、
 
光の流れとひとつになる。
 
それは考へるに、
 
明るくなるやうにと、暖かさを贈り、
 
そして人と世をひとつにするべく、
 
固く結びつけようとする。
 
 
 
Ich fühle Wesen meines Wesens:
So spricht Empfindung,
Die in der sonnerhellten Welt
Mit Lichtesfluten sich vereint;
Sie will dem Denken
Zur Klarheit Wärme schenken
Und Mensch und Welt
In Einheit fest verbinden.
 

 
※普通、「Denken」といふドイツ語を訳すときには、
 「思考」と訳すことが多いのですが、
 「denken」といふ動詞(考へる)が
 そのまま名詞になつてゐるので、
 その動きを活かすべく、
 「考へる」と動詞的に訳してゐます。



 
幼児は、たとへば、ことばといふものに、
一心に、全身全霊で、耳を傾ける。
 
 
からだまるごとを感覚器官にして、
聴くといふ仕事を一心にしてゐる。
 
 
そのことによつて、誰に手ほどきを受けるでなく、
神々しい力、精神によつて、
ことばを習得していく。
 
 
からだは「ことば」の器になつていく。
 
 
幼児の内に、
そのやうに、からだをことばの器にするべく、
おのづと力が働いてくれてゐた。
 
 
わたしたち大人は、
意識的に、その人から、仕事をしてこそ、
育まれるべきものが育まれ、
満たされるべきものが満たされる。
 
 
このからだは、何歳になつても、
まだまだ、育まれて、育まれて、
おのれの感覚を深めていくことができる。
 
 
ものごとに対して判断しなければならないとき、
データや数値なども、
なんらかの判断材料を提供してくれるが、
それに頼り切らず、
もつと、己れのからだを通しての感覚を
育んでいくことが、
己れへの、人間への、信頼を取り戻していく上で、
大切な指針になつていくのではないだらうか。
 
 
その、感覚とは、そもそも、
わたしたちに何を語つてくれてゐるのか、
何を教へようとしてくれてゐるのだらうか。
 
 
シュタイナーがここで使つてゐる
「感覚(Empfindung)」といふことばは、
「受けて(emp)見いだす(finden)」
からできてゐることばだ。
 
 
人によつて受けて見いだされた、
光、色、響き、熱、味、触など。
それらが感覚であるし、
また、それらだけでなく、
(これまでの生理学や心理学では、
 さうは言はないらしいが)
それらによつて起こつてきた、
情、意欲、考へも、感覚なのだ。
なぜなら、みづからのこころといふものも、
世の一部だからだ。
 
 
色や響きなど、外からのものを、
人は感覚する(受けて見いだす)し、
情や意欲や考へといふ内からのものをも、
人は感覚する(受けて見いだす)。
 
 
しかし、外からの感覚は、
外からのものとして客として迎へやすいのだが、
内からの感覚は、内からのものであるゆゑに、
客として迎へにくい。
主(あるじ)としてのみづからと、
客である情や意欲や考へとを一緒くたにしてしまいがちだ。
 
 
主と客をしつかりと分けること、
それは客を客としてしつかりと観ることである。
 
 
みづからの情や意欲や考へを、
まるで他人の情や意欲や考へとして観る練習。
 
 
明確に主(あるじ)と客を
分ける練習を重ねることで、
分けられた主と客を再び、
ひとつにしていく力をも見いだしていくことができる。
その力が、こころを健やかにしてくれる。
 
 
主と客を明らかに分けるといふことは、
主によつて、客が客として意識的に迎へられる、
といふことでもあらう。
 
 
そして、やつてくる客に巻き込まれるのではなく、
その客をその都度ふさわしく
迎へていくことに習熟していくことで、
主は、ますます、主として、
ふさわしく立つていく力を身につけていくことだらう。
 
 
外からのものであれ、内からのものであれ、
その客を客として
意欲的に迎へようとすればするほど、
客はいよいよみづからの秘密を明かしてくれる。
感覚といふ感覚が、語りかけてくる。
 
 
外の世からの感覚だけでなく、
考へ、感じ、意欲など、
内に湧き起つてくる感覚を、
しつかりと客として迎へるほど、
その客が語りかけてきてゐることばを
聴かうとすればするほど、
わたしは「わたしのわたしたるところ」を日々、
太く、深く、成長させていく。
 
 
客のことばを聴くこと。
それが主(あるじ)の仕事である。
 
 
その仕事によつて、
わたしは、みづからの狭い限りを越えて、
「わたしのわたしたるところ」を
だんだんと解き明かしていくことができる。
 
 
主によつて客が客として迎へられるといふのは、
客によつて主が主として迎へられる
といふことであるだらう。
 
 
迎へるべき客を迎へる。
 
 
そして、これ以上、
お付き合ひしなくてもいい客を、
しつかりと迎へた上で、
愛で抱擁したあと、
去つていただく。
 
 
それは、主と相応しい客がひとつになるといふ、
人と世との、もしくは人と人との、
出会ひの秘儀とも言つていいものではないだらうか。
 
 
そして、主と客がひとつになるときに、
「わたし」がいよいよ明らかなものになつていく。
 
 
つまり、主=「わたし」ではなく、
主+客=「わたし」なのだ。
 
 
たとへば、セザンヌの絵や彼の残したことば、
もしくは、芭蕉の俳諧などに接し続けてゐると、
ものとひとつになることを目指して、
彼らがどれほど苦闘したか、
だんだんと窺ひ知ることができるやうになつてくる。
 
 
彼らは、世といふもの、
こころといふものの内に潜んでゐる
大きな何かを捉へることに挑み、
そのプロセスの中で壊され、研がれ、磨かれ、
その果てにだんだんと立ち顕れてくる
「人のわたし」といふものへと辿りつかうとした。
 
 
彼らは、色彩といふもの、
さらに風雅(みやび)といふものと、
ひとつにならうとする仕事を
死ぬまでやり通した人たちだと感じる。
 
 
ものとひとつになるときこそ、
「人のわたし」が
はつきりと立ち顕れてくることを
彼らは知つてゐた。
 
 
感覚を客としてふさわしく迎へれば迎へるほど、
それは、「わたしのわたしたるところ」の
拡がりと深みを語つてくれるし、
また、わたしはそのことばを情で聴き取るにつれて、
わたしは、
客について、己れについて、「わたし」について、
明るく、確かに、考へることができる。
 
 
そして、わたしと世がひとつであること、
すべてがひとつであることへの
信頼感と確かさをだんだんと得ていくことができる。
 
 
 
「わたしは、わたしのわたしたるところを感じる」
さう感覚が語る。
それは陽のあたる明るい世の内で、
光の流れとひとつになる。
それは考へるに、
明るくなるやうにと、暖かさを贈り、
そして人と世をひとつにするべく、
固く結びつけようとする。
 
 
 

 

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2020年04月25日

こころのこよみ(第3週) 〜「語る」とは「聴く」こと〜


 
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世のすべてに語りかける、
 
己れを忘れ、
 
かつ、己れのおほもとを肝に銘じながら、
 
人の育ちゆく<わたし>が、語りかける。
 
「あなたの内に、わたしは解き放たれる、
 
 わたし自身であることの鎖から。
 
 わたしはまことわたしたるところを解き明かすのだ」
 
 
 
Es spricht zum Weltenall,
Sich selbst vergessend 
Und seines Urstands eingedenk,
Des Menschen wachsend Ich:
In dir befreiend mich
Aus meiner Eigenheiten Fessel,
Ergründe ich mein echtes Wesen.
 
 
 
 
「語る」とは、「聴く」ことである。
  
 
そのことが、
言語造形をしてゐるとリアルに感じられてくる。
 
 
語り手みづからが聴き手となること。
 
 
頭で考へないで、
聴き耳を立てながら、語るやうにしていく。
ひらめきが語りを導いてくれるまで練習する。
 
 
「ひらめき」とは、
語り手の己れが空つぽになり、
その空つぽになつたところに流れ込んでくる
「ことばの精神」。
 
 
それはまるで、
からだにまで流れ込んでくる生きる力のやうだ。
 
 
その「ひらめき」「ことばの精神」は、
聴き耳を立てるかのやうにして待つことによつて、
語り手に降りてくる。
 
 
「語る」とき、
自分が、かう語りたい、ああ語りたい、
といふことよりも、
「ことばといふもの」「ことばの精神」に、
耳を傾け、接近し、沿つていきつつ語る。
 
 
己れを忘れて、
かつ、己れのおほもと(ことばの精神)を
頼りにしながら、
語り、語り合ふことができる。
 
 
そのやうに、語り手が、「ことばの精神」に、
聴き耳を立てながら語ることによつて、
聴き手も「ことばの精神」に聴き耳を立てる。
 
 
その「ことばの精神」と親しくなりゆくほどに、
語り手、聴き手、双方の内なる<わたし>が育ちゆく。
 
 
だから、今週の「ことばのこよみ」での、
「世のすべてに語りかける」とは、
世のすべてから流れてくる
「ことばの精神」に耳を傾けることでもある。
 
 
そのときに流れ込んでくる
「ものものしい精神」「ありありとした精神」を
感じることによつて、
わたしは解き放たれる。
みづからにこだはつてゐたところから解き放たれる。
 
 
だから、たとへば、「他者に語りかける」時には、
こちらから必ずしもことばを出さなくてもよく、
むしろ、
「他者をよく観る、他者の声に聴き耳を立てる」
といふこと。
 
 
そのやうな「語り合ひ」「聴き合ひ」においてこそ、
人は、みづからを知りゆく。
 
 
「ああ、さうか、さうだつたのか!」といふやうな、
ものごとについての、
他者についての、
みづからについての、
解き明かしが訪れる。
 
 
互ひがよき聴き手であるときほど、
対話が楽しくなり、豊かなものになる。
 
 
特に、この季節、
自然といふものにまなざしを注ぐことによつて、
聴き耳を立てることによつて、
他者をよく観ることによつて、
他者のことばに聴き耳を立てることによつて、
自然と対話しながら、
他者と対話しながら、
わたしは、
わたし自身であることの鎖から解き放たれる。
そして、わたしは、
まことわたしたるところを解き明かしていく。
 
 
芽吹き、花開くものたちに、
たつぷりと沿ふ喜びを積極的に見いだしていきたい。
 
 
 
  

 
世のすべてに語りかける、
己れを忘れ、
かつ、己れのおほもとを肝に銘じながら、
人の育ちゆく<わたし>が、語りかける。
「あなたの内に、わたしは解き放たれる、
 わたし自身であることの鎖から。
 わたしはまことわたしたるところを解き明かすのだ」
 
 
 
 

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2020年04月18日

こころのこよみ(第2週) 〜こころの農作業〜



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セザンヌ『庭師ヴァリエ』

 
 
外なるすべての感官のなかで、
 
考への力はみづからのあり方を見失ふ。
 
精神の世は見いだす、
 
再び、人が芽吹いてくるのを。
 
その萌しを、精神の世に、
 
しかし、そのこころの実りを、
 
人の内に、きつと、見いだす。
 
 
 
 
Ins Äußre des Sinnesalls
Verliert Gedankenmacht ihr Eigensein;
Es finden Geisteswelten
Den Menschensprossen wieder,
Der seinen Keim in ihnen,
Doch seine Seelenfrucht
In sich muß finden.
 
 
 
 
わたしは、目を、耳を、
もつと働かせることができるはずだ。
 
 
全身全霊で、ものごとにもつと集中して、
向かひ合ふことができるはずだ。
 
 
身といふものは、使へば使ふほどに、
活き活きと働くことができるやうになつてくる。
 
 
たとへば、自然に向かひ合ふときにも、
たとへば、音楽に耳を傾けるときにも、
この外なるすべての感官を通して、
意欲的に、アクティブに、
見ること、聴くことで、
まつたく新たな経験がわたしの中で生まれる。
 
 
ときに、からだとこころを貫かれるやうな、
ときに、浮遊感を伴ふやうな、
ときに、もののかたちが
デフォルメされて突出してくるやうな、
そのやうな感覚を明るい意識の中で生きることができる。
 
 
「外なるすべての感官の中で、
 考への力はみづからのあり方を見失ふ」とは、
感覚を全身全霊で生きることができれば、
あれこれ小賢しい考へを
弄することなどできない状態を言ふのではないか。
 
 
このやうないのちの力に満ちた、
みずみずしい人のあり方。
それは、精神の世における「萌し」「芽吹き」だらう。
 
 
春になると、
地球は息を天空に向かつて吐き出す。
だからこそ、大地から植物が萌えはじめる。
 
 
そして、地球の吐く息に合はせるかのやうに、
人のこころの深みからも、意欲が芽吹いてくる。
 
 
春における、そんな人の意欲の萌し、芽吹きは、
秋になるころには、
ある結実をきつと見いだすだらう。
 
 
春、天に昇る竜は、
秋、地に下り行く。
 
 
その竜は聖竜であらう。
 
 
それは、きつと、
この時代を導かうとしてゐる精神、
ミヒャエルに貫かれた竜だらう。
 
 
秋から冬にかけて、
キリストと地球のために、
たつぷりと仕事をしたミヒャエルは、
その力を再び蓄へるために、
春から夏にかけて、
キリストと地球のこころとともに、
大いなる世へと、天へと、帰りゆく。
そしてまた、秋になると、
ミヒャエルは力を蓄へて、
この地の煤払ひに降りてきてくれるのだ。
 
 
わたしたちの意欲も
ミヒャエルの動きに沿ふならば、
春に、下から萌え出てき、
感官を通して、ものを観て、聴いて、
世の精神と結びつかうとする。
 
 
そして、秋には、
上の精神からの力をもらいつつ再び降りてきて、
地に実りをもたらすべく、
方向性の定まつた活きた働きをすることができる。
 
 
だからこそ、
春には春で意識してやつておくことがあるし、
その実りをきつと秋には迎へることができる。
 
 
それは、こころの農作業のやうなものだ。
 
 
 
 
外なるすべての感官のなかで、
考への力はみづからのあり方を見失ふ。
精神の世は見いだす、
再び、人が芽吹いてくるのを。
その萌しを、精神の世に、
しかし、そのこころの実りを、
人の内に、きつと、見いだす。
 
  
 

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2020年04月11日

こころのこよみ(第1週) 〜復活祭の調べ〜


 
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滋賀県瀬田の建部大社の前に咲く八重桜

 
世の広がりから、
 
陽が人の感官に語りかけ、
 
そして喜びがこころの深みから、
 
光とひとつになる、観ることのうちに。
 
ならば、己れであることの被ひから広がり渡る、
 
考へが空間の彼方へと。
 
そしておぼろげに結びつける、
 
人といふものをありありとした精神へと。
 
 

 
Wenn aus den Weltenweiten
Die Sonne spricht zum Menschensinn
Und Freude aus den Seelentiefen
Dem Licht sich eint im Schauen,
Dann ziehen aus der Selbstheit Hülle
Gedanken in die Raumesfernen
Und binden dumpf
Des Menschen Wesen an des Geistes Sein.
 
 
 
 
自分自身のこころが、
光とひとつになり、
喜びが溢れだす。
 
 
陽の光(外なる自然)と、
こころの光(内なる自然)が、
ひとつになる。
 
 
春とは、そもそも、
そんな己れのありやうを観ることのできるときだ。
 
 
ものをぢつと見る。
ものもぢつとわたしを見てゐる。
 
 
ものをぢつと、見つめるほどに、
ものもわたしに
応へようとでもしてくれるかのやうに、
様々な表情を見せてくれるやうになる。
 
 
そんな、わたしとものとの関係。
 
 
それは、意欲と意欲の交はりだ。
 
 
その交はりのなかからこそ、
喜びが生まれる。
 
 
そして、喜びこそが、
わたしのこころを空間の彼方へと拡げてくれる。
 
 
とかく、狭いところで右往左往しがちな、
わたしの考へ。
 
 
だが、他人の目でなく、
自分自身の目で
観ることによつて、
喜びが生まれてくる。
 
 
そして、その喜びがあればこそ、
自分なりの考へ方、感じ方といふ、
いつもの己れの被ひを越えて、
こころを拡げてゆくことができる。
 
 
それによつて、新しく、
生まれ変はつたやうなこころもち。
こころの甦り。
わたしだけが行ふわたしだけの復活祭。
 
 
そして、ありありとした精神は、そこに。
 
 
生活を新しく開く鍵は、すぐ、そこに。
 
 
しかし、まだ、こころはしつかりと、
その精神と結びつくことができない。
 
 
ことばといふ精神が降りてくるまでには、
聖霊降臨祭(復活祭の50日後)を待つこと。
 
 
いまは、おぼろげに、
結びつくことができるだけだ。
 
 
そんな己れのありやうを観てゐる。
 
 
 
 
 
世の広がりから、
陽が人の感官に語りかけ、
そして喜びがこころの深みから、
光とひとつになる、観ることのうちに。
ならば、己れであることの被ひから広がり渡る、
考へが空間の彼方へと。
そしておぼろげに結びつける、
人といふものをありありとした精神へと。
 
 
 

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2020年04月08日

こころのこよみ(第52週)〜十字架を生きる〜



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こころの深みから
 
精神がみづからありありとした世へと向かひ、
 
美が空間の広がりから溢れ出るとき、
 
天の彼方から流れ込む、
 
生きる力が人のからだへと。
 
そして、力強く働きながら、ひとつにする、
 
精神といふものと人であることを。
 
 
 
Wenn aus den Seelentiefen 
Der Geist sich wendet zu dem Weltensein 
Und Schönheit quillt aus Raumesweiten,
Dann zieht aus Himmelsfernen
Des Lebens Kraft in Menschenleiber
Und einet, machtvoll wirkend,
Des Geistes Wesen mit dem Menschensein.
 
 
 
ものをぢつと観る。
ものがありありとしてくるまで、ぢつと観る。
そのとき、こころの深みが動く。
こころの力を振り絞つて、
そのものとひとつにならうとするとき、
わたしの精神とものの精神との交流が始まる。
 
 
眼といふものは、実は腕であり手なのだ。
 
何かを観るといふ行為は、
実は手を伸ばしてその何かに触れる、
もしくはその何かを摑むといふことなのだ。
 
 
そのやうな見えない腕、
見えない手が人にはある。
 
 
何かをぢつと觀る、それはとても能動的な行為だ。
 
 
おほもとに、愛があるからこそ、する行為だ。 
 
 
 
見れど飽かぬ 吉野の河の 常滑(とこなめ)の
絶ゆることなく また還り見む
          柿本人麻呂 (萬葉集0037)
 
 
  
そのやうにして、アクティブに、
腕を伸ばすがごとくにものを観、
自然の響き、
音楽やことばの響きに耳を澄ますとき、
方向で言へば、
まさに上から、天から、
そのつどそのつど、
フレッシュな光、息吹き、啓けがやつてくる。
 
 
言語造形をしてゐるときも、同じだ。
 
 
みづから稽古してゐるとき、うまくいかなくても、
それでも繰り返し、繰り返し、
ことばがありありとしたものになるまで、
美が立ち上がつてくるまで、
ことばに取り組んでゐるうちに、
また、他者のことばを
こころの力を振り絞りながら聽いてゐるときに、
「これだ!」といふ上からの啓けに見舞はれる。
 
 
そのたびごとに、わたしは、力をもらへる。
喜びと安らかさと確かさをもつて生きる力だ。
 
 
精神である人は、
みづからのこころとからだを使つて、
ぢつと観る。聽く。働く。美を追ひ求める。
 
 
そのとき、世の精神は、
力強く、天から働きかけてくれる。
 
 
そして、
精神と人とをひとつにしようとしてくれてゐる。
 
 
空間の広がりの中で、
人と世が美を通して出会ひ(横の出会ひ)、
精神との交はりの中で、
人と天が生きる力を通して出会ひ(縱の出会ひ)、
その横と縱の出会ひが十字でクロスする。
十字架を生きる。
 
 
そこで、
『こころのこよみ』は、
この第52週をもつて一年を終へ、
甦りの日(復活祭)に臨む。
 
 

 
 
 
こころの深みから
精神がみづからありありとした世へと向かひ、
美が空間の広がりから溢れ出るとき、
天の彼方から流れ込む、
生きる力が人のからだへと。
そして、力強く働きながら、ひとつにする、
精神といふものと人であることを。
 
 

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2020年04月01日

こころのこよみ(第51週) 〜花が待つてゐる〜


 
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金沢の武家屋敷庭にて。

 
 
人といふものの内へと
 
感官を通して豐かさが流れ込む。
 
世の精神は己れを見いだす、
 
人のまなこに映る相(すがた)の中に。
 
その相(すがた)から力が、
 
きつと新たに汲み上げられる。
 
 
 
Ins Innre des Menschenwesens
Ergießt der Sinne Reichtum sich,
Es findet sich der Weltengeist
Im Spiegelbild des Menschenauges,
Das seine Kraft aus ihm
Sich neu erschaffen muß.
 
 
 
より目を開いて、より耳を澄まして、
ものごとといふものごとに
ぢつと向かひあつてみれば、
ものごとは、
より活き活きとした相(すがた)を
わたしに顯はしてくれる。
 
 
わたしが花をそのやうに觀てゐるとき、
花もわたしを觀てゐる。
 
 
そして、わたしの瞳の中に映る相(すがた)は、
もはや死んだものではなく、
ますます、ものものしく、活きたものになりゆく。
 
 
また、わたしの瞳も、
だんだんとそのありやうを深めていく。
物理的なものの内に精神的なものを宿すやうになる。
 
 
花へのそのやうなアクティブな向かひやうによつて、
わたしみづからが精神として甦る。
 
 
そして、その深まりゆくわたしの内において、
花の精神(世の精神)が甦る。
花の精神は、さういふ人のアクトを待つてゐる。
 
 
「待つ」とは、そもそも、
神が降りてこられるのを待つことを言つたさうだ。
 
 
松の木は、だから、神の依り代として、
特別なものであつたし、
祭りとは、その「待つ」ことであつた。
 
 
中世以前、古代においては、
人が神を待つてゐた。
 
 
しかし、いま、神が人を待つてゐる。
世の精神が人を待つてゐる。
 
 
世の精神が、己れを見いだすために、
わたしたち人がまなこを開くのを待つてゐる。
わたしたち人に、
こころの眼差しを向けてもらふのを待つてゐる。
 
 
植物は、激情から解き放たれて、
いのちをしずしずと、淡々と、
また悠々と営んでゐる存在だ。
 
 
しかし、植物は、
人の問ひかけを待つてゐるのではないだらうか。
 
 
さらには、人のこころもちや情に、
応えようとしてゐるのではないだらうか。
 
 
人と植物とのそのやうな關係は、
古来、洋の東西を問はず営まれてきた。
 
 
とりわけ、日本にをいては、
華道、さらには茶道が、
そのやうな植物と人との關係を
この上なく深いものにしてゐる。
 
 
それは、表だつて言挙げされはしないが、
植物を通しての瞑想の営みとして
深められてきたものだ。
 
 
落(おち)ざまに 水こぼしけり 花椿
松尾芭蕉
 

 
 
 
人といふものの内へと
感官を通して豐かさが流れ込む。
世の精神は己れを見いだす、
人のまなこに映る相(すがた)の中に。
その相(すがた)から力が、
きつと新たに汲み上げられる。
 

  

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2020年03月24日

こころのこよみ(第50週)〜願はくば、人が聴くことを!〜



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人の<わたし>に語りかける。
 
みづから力強く立ち上がりつつ、
 
そしてものものしい力を解き放ちつつ、
 
世のありありとした繰りなす喜びが語りかける。
 
「あなたの内に、
 
 わたしのいのちを担ひなさい。
 
 魔法の縛りを解いて。
 
 ならば、わたしは、
 
 まことの目当てに行きつく」
 
 
 
Es spricht zum Menschen-Ich,
Sich machtvoll offenbarend
Und seines Wesens Kraefte loesend,
Des Weltendaseins Werdelust:
In dich mein Leben tragend
Aus seinem Zauberbanne
Erreiche ich mein wahres Ziel.
 
 
 
 
春が少しづつ近づいて来てゐる。
木々や草花たちのたたずまひ。
なんと「ものものしい」までに、
活き活きとしてゐることだらう。
 
 
明るく暖かな日差しの中で、
それぞれの植物が歓声を上げてゐるのが
聴こえてくるやうな気がする。
 
 
この週の「こよみ」において、
「世のありありとした繰りなす喜びが、
人の<わたし>に語りかける」とある。
 
 
この語りかけを人は聴くことができるだらうか。
 
 
2行目に「offenbarend」といふことばがあつて、
それを「立ち上がりつつ」と訳してみたが、
鈴木一博さんによると、
この「offenbaren」は、
「春たてる霞の空」や、
「風たちぬ」などの
「たつ」だと解いてをられる。
 
 
「たつ」とはもともと、
目に見えないものが
なんらかの趣きで開かれる、
耳に聴こえないものが
なんらかの趣きで顕わに示される、
さういふ日本語ださうだ。
 
 
「春がたつ」のも、「秋がたつ」のも、
目には見えないことだが、
昔の人は、それを敏感に感じ、
いまの大方の人は、それをこよみで知る。
 
 
いま、植物から何かが、
「力強く」「ものものしく」立ち上がつてきてゐる。
 
 
人の<わたし>に向かつて、
<ことば>を語りかけてきてゐる!
 
 
わたしはそれらの<ことば>に耳を傾け、
聴くことができるだらうか。
 
 
喜びの声、励ましの声、
時に悲しみの声、嘆きの声、
それらをわたしたち人は聴くことができるだらうか。
 
 
それらを人が聴くときに、
世は「まことの目当てに行きつく」。
 
 
「聴いてもらへた!」といふ喜びだ。
 
 
世が、自然が、宇宙が、喜ぶ。
 
 
シュタイナーは、
「願はくば、人が聴くことを!」
といふことばで、
晩年の『礎(いしずえ)のことば』
といふ作品を終へてゐる。
 
 
願はくば、人が、
世の<ことば>を、
生きとし生けるものたちの<ことば>を、
海の<ことば>を、
風の<ことば>を、
大地の<ことば>を、
星の<ことば>を、
子どもたちの<ことば>を、
聴くことを!
 
 
 
 
 
人の<わたし>に語りかける。
みづから力強く立ち上がりつつ、
そしてものものしい力を解き放ちつつ、
世のありありとした繰りなす喜びが語りかける。
「あなたの内に、
 わたしのいのちを担ひなさい。
 魔法の縛りを解いて。
 ならば、わたしは、
 まことの目当てに行きつく」
 
 

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2020年03月16日

こころのこよみ(第49週) 〜夜と昼〜



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「わたしは世のありありとした力を感じる」
 
さう、考への明らかさが語る。
 
考へつつ、みづからの精神が長けゆく、
 
暗い世の夜の中で。
 
そして世の昼に近づきゆく、
 
内なる希みの光をもつて。
 
 
 
Ich fühle Kraft des Weltenseins:
So spricht Gedankenklarheit,
Gedenkend eignen Geistes Wachsen
In finstern Weltennächten,
Und neigt dem nahen Weltentage
Des Innern Hoffnungsstrahlen.
 
 
 
今回の『こころのこよみ』について、
以前書いたもののうちのひとつに、
2011年3月11日のことがあつてすぐのものがある。
http://kotobanoie.seesaa.net/article/191122893.html
 
 
地震と津波と原発事故から
遠く離れた大阪に生きてゐる自分にとつてさへも、
この『こよみ』で言はれてゐることが、あの当時、
リアリティーをもつて強く迫つてきた。
 
 
また、いま、世界中に拡大してゐる、
武漢発のウィルスの脅威が、
わたしたちに押し寄せてゐる。
 

この週の『こよみ』に、
もう一度向かひ合ふ中で、
シュタイナーの1923年2月3日、4日の
ドルナッハでの講演『夜の人と昼の人』の内容と、
今週の『こよみ』が響き合つてきた。
 
 
春が近づいてくる中で感じる、
ありありとした世の力。
 
 
たとへ、その力を感じることができても、
わたしが考へつつ、
その感じを考へで捉へなければ、
わたしはそれをことばにして言ひ表すことはできない。
 
 
世のありありとした力も、
それに対して湧きあがつてくる感じも、
<わたし>といふ人からすれば、
外側からやつてくるもの。
 
 
それらに対して、人は、
考へることによつて、
初めて、内側から、
<わたし>から、応へることができる。
 
 
そのやうにして、
外側からのものと内側からのものが合はさつて、
知るといふこと(認識)がなりたち、
ことばにして言ひ表すこともできる。
 
 
2011年の3月11日以来の月日の中で、
わたしたちの外側からあまりにも
たくさんの世の力がありありと迫つてきた。
 
 
そんな外側からの力に対し、
わたしたちの内側からの考へる力が追ひつかない、
そんな脅威と焦慮にわたしたちは見舞はれた。
 
 
そして、たくさんの、たくさんの、
ことばが行き交つた。
 
 
わたしたちの考へる力は、
その都度その都度、
外の世からやつてくる力に対して
応じていかざるをえないが、
しかし、
そのことに尽きてしまはざるをえないのだらうか。
 
 
対応していくにしても、
その考へる力が、
明らかな一点、確かな一点に根ざさないのならば、
その対応は、とかくその場限りの、
外の世に振り回されつぱなしのものに
なりはしないだらうか。
 
 
その確かな一点、明らかな一点とは、
「わたしはある」といふことを
想ひ起こすこと、考へることであり、
また、その考へるを見るといふこと。
 
 
他の誰かがかう言つてゐるから、かう考へる、
ああ言つてゐるから、ああ考へるのではなく、
他の誰でもない、
この「わたしはある」といふ一点に立ち戻り、
その一点から、
「わたしが考へる」といふ内からの力をもつて、
外の出来事に向かつていくことができる。
 
 
それは、
外の出来事に振り回されて考へるのではなく、
内なる意欲の力をもつて、
みづから考へるを発し、
みづから考へるを導いていくとき、
考へは、
それまでの死んだものから
生きてゐるものとして活き活きと甦つてくる。
 
 
そのとき、人は、
考へるに<わたし>を注ぎ込むこと、
意欲を注ぎ込むことによつて、
「まぎれなく考へる」をしてゐる。
(この「まぎれなく考へる」が、
 よく「純粋思考」と訳されてゐるが、
 いはゆる「純粋なこと」を考へることではない)
 
 
わたしたちが日々抱く考へといふ考へは、
死んでゐる。
 
 
それは、考へるに、
<わたし>を注ぎ込んでゐないからだ。
みづからの意欲をほとんど注ぎ込まずに、
外の世に応じて「考へさせられてゐる」からだ。
そのやうな、
外のものごとから刺戟を受けて考へる考へ、
なほかつ、ものごとの表面をなぞるだけの考へは、
死んでゐる。
 
 
多くの人が、よく、
感覚がすべて、感じる感情がすべてだと言ふ。
実は、その多くの人は、そのやうな、
死んだ考へをやりくりすることに対する
アンチパシーからものを言つてゐるのではないだらうか。
 
 
ところが、
そのやうな受動的なこころのあり方から脱して、
能動的に、エネルギッシュに、
考へるに意欲を注ぎ込んでいくことで、
考へは死から甦り、
生命あるものとして、
人に生きる力を与へるものになる。
 
 
その人に、軸ができてくる。
 
 
世からありとあらゆる力がやつてくるが、
だんだんと、
その軸がぶれることも少なくなつてくるだらう。
 
 
その軸を創る力、
それは、みづからが、考へる、
そして、その考へるを、みづからが見る。
この一点に立ち戻る力だ。
 
 
この一点から、外の世に向かつて、
その都度その都度、考へるを向けていくこと、
それは、腰を据ゑて、
その外のものごとに沿ひ、交はつていくことだ。
 
 
では、その力を、
人はどうやつて育んでいくことができるのだらうか。
また、そのやうに、
考へるに意欲を注ぎ込んでいく力は、
どこからやつてくるのだらうか。
 
 
それは、夜、眠つてゐるあひだに、
人といふ人に与へられてゐる。
 
 
ただし、昼のあひだ、
その人が意欲を注ぎつつ考へるほどに応じてである。
 
 
夜の眠りのあひだに、人はただ休息してゐるのではない。
 
 
意識は完全に閉ぢられてゐるが、
考へるは、意識が閉ぢられてゐる分、
まつたく外の世に応じることをせずにすみ、
よりまぎれなく考へる力を長けさせていく。
 
 
それは、眠りのあひだにこそ、
意欲が強まるからだ。
ただ、意欲によつて強められてゐる考へる力は、
まつたく意識できない。
眠つてゐることによつて、
意識の主体である
アストラルのからだと<わたし>が、
エーテルのからだとフィジカルなからだから
離れてゐるのだから。
 
 
眠りのあひだに、わたしたちは、
わたしたちの故郷であるこころと精神の世へと戻り、
次の一日の中でフレッシュに力強く考へる力を
その世の方々から戴いて、
朝、目覚める。
 
 
要は、
夜の眠りのあひだに長けさせてゐる精神の力を、
どれだけ昼のあひだに
みづからに注ぎこませることができるかだ。
 
 
そのために、シュタイナーは、その講演で、
本を読むときに、もつと、もつと、
エネルギッシュに、意欲の力を注ぎ込んでほしい、
さう述べてゐる。
 
 
それは、人のこころを育てる。
 
 
現代人にもつとも欠けてゐる
意欲の力を奮ひ起こすことで、
死んだ考へを生きた考へに甦らせることこそが、
こころの育みになる。
 
 
アントロポゾフィーの本をいくらたくさん読んでも、
いや、シュタイナー本人からいくらいい講演、
いい話を聴いたとしても、
それだけでは駄目なのだと。
 
 
文といふ文を、意欲的に、深めること。
 
 
ことばを通して、
述べられてゐる考へに読む人が生命を吹き込むこと。
 
 
アントロポゾフィーは、そのやうにされないと、
途端に、腰崩れの、中途半端なものになつてしまうと。
 
 
1923年といふ、彼の晩年近くの頃で、
彼の周りに集まる人のこころの受動性を
なんとか奮ひ起こして、
能動的な、主体的な、
エネルギッシュな力に各々が目覚めるやうに、
彼はことばを発してゐた。
 
 
その力は、
夜の眠りのあひだに、
高い世の方々との交はりによつて
すべての人が贈られてゐる。
 
 
夜盛んだつた意欲を、
昼のあひだに、
どれだけ人が目覚めつつ、
意識的に、
考へるに注ぎ込むか。
 
 
その内なる能動性、主体性、エネルギーこそが、
「内なる希みの光」。
 
 
外の世へのなんらかの希みではなく、
<わたし>への信頼、
<わたし>があることから生まれる希みだ。
 
 
その内なる希みの光こそが、
昼のあひだに、人を活き活きとさせ、
また夜の眠りのあひだに、精神を長けさせる。
 
 
その夜と昼との循環を意識的に育んでいくこと、
「内なる希みの光」を各々育んでいくこと、
それが復活祭を前にした、こころの仕事であり、
2011年3月11日以降の日本、
そして、ただいまのウィルスの脅威の下に生きる
わたしたちにとつて、
実はとても大切なこころの仕事なのだと思ふ。
 
 
 
 
 
「わたしは世のありありとした力を感じる」
さう、考への明らかさが語る。
考へつつ、みづからの精神が長けゆく、
暗い世の夜の中で。
そして世の昼に近づきゆく、
内なる希みの光をもつて。

 

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2020年03月08日

こころのこよみ(第48週)〜行はれたし、精神の見はるかしを〜


 
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平櫛田中『養老』


 
 
世の高みから
 
力に満ちてこころに流れてくる光の中で
 
現はれよ、こころの謎を解きながら、
 
世の考への確かさよ。
 
その光り輝く力を集め、
 
人の心(臓)の中に愛を呼び覚ますべく。
 
 
 
Im Lichte das aus Weltenhöhen
Der Seele machtvoll fliessen will
Erscheine, lösend Seelenrätsel
Des Weltendenkens Sicherheit
Versammelnd seiner Strahlen Macht
Im Menschenherzen Liebe weckend.
 
 
 
考へる力といふものについて、
人はよく誤解する。
 
 
考へるとは、
あれこれ自分勝手に
ものごとの意味を探ることでもなく、
浮かんでくる考へに次から次へと
こころをさまよはせることでもなく、
何かを求めて思ひわづらふことでもなく、
ものごとや人を裁くことへと導くものでもない。
 
 
考へるとは、本来、
みづからを措いてものごとに沿ふこと、
思ひわずらふことをきつぱりと止めて、
考へが開けるのをアクティブに待つこと、
そして、ものごととひとつになりゆくことで、
愛を生みだすこと。
 
 
今回もまた、
鈴木一博さんの『礎のことば』の読み説きから
多くの示唆を得てゐる。
 
 
人が考へるとは、
考へといふ光が降りてくるのを待つこと、
人に考へが開けることだ。
 
 
考へが開けるきつかけは、
人の話を聴く、
本を読む、
考へに考へ抜く、
道を歩いてゐて、ふと・・・など、
人によりけり、時と場によりけり、
様々あるだらうが、
どんな場合であつても、
人が頭を安らかに澄ませたときにこそ、
考へは開ける。
たとへ、身体は忙しく、活発に、
動き回つてゐても、
頭のみは、静かさを湛えてゐるほどに、
考へは開ける。
 
 
そして、頭での考への開けと共に、
こころに光が当たる。
考へが開けることによつて、
こころにおいて、ものごとが明るむ。
そして、こころそのものも明るむ。
 
 
「ああ、さうか、さうだつたのか!」
といふときの、
こころに差し込む光の明るさ、暖かさ。
誰しも、覚えがあるのではないだらうか。
 
 
明るめられたこころにおいて、
降りてきたその考へは、その人にとつて、
隈なく見通しがきくものだ。
 
 
また、見通しがきく考へは、
他の人にとつても見通しがきき、
その人の考へにもなりうる。
 
 
そもそも、考へは誰の考へであつても、
考へは考へだから。
 
 
人に降りてくる考へは、
その人の考へになる前に、
そもそも世の考へである。
 
 
自然法則といふものも、
自然に秘められてゐる世の考へだ。
 
 
人が考へることによつて、
自然がその秘密「世の考へ」を打ち明ける。
 
 
その自然とは、ものといふものでもあり、
人といふ人でもある。
 
 
目の前にゐる人が、どういふ人なのか、
我が子が、どういふ人になつていくのか、
もしくは、自分自身がどういふ人なのか、
それは、まづもつては、謎だ。
 
 
その謎を謎として、
長い時間をかけて、
その人と、もしくはみづからと、
腰を据ゑてつきあいつつ、
その都度その都度、
こころに開けてくる考へを
摑んでいくことによつてのみ、
だんだんと、その人について、
もしくは、わたしといふ人について、
考へが頭に開け、光がこころに明るんでくる。
 
 
それはだんだんと明るんでくる
「世の高みからの考へ」でもある。
 
 
わたしなりの考へでやりくりしてしまうのではなく、
からだとこころをもつて対象に沿ひ続けることによつて、
「世の考へ」といふ光が頭に降りてくるのを待つのだ。
 
 
すぐに光が降りてくる力を持つ人もゐる。
長い時間をかけて、
ゆつくりと光が降りてくるのを待つ人もゐる。
 
 
どちらにしても、そのやうに、
考へと共にこころにやつてくる光とは、
世からわたしたちへと
流れるやうに贈られる
贈り物といつてもいいかもしれない。
 
 
さらに言へば、それは、
わたしの<わたし>が、
わたしの<わたし>に、
自由に、
本当に考へたいことを、
考へとして、光として、贈る贈り物なのだ。
 
 
―――――――
 
人のこころ!
あなたは安らう頭に生き
頭は、あなたに、とわの基から
世の考へを打ち明ける。
行はれたし、精神の見はるかしを
考への安らかさのうちに。
そこにては神々の目指すことが
世とものとの光を
あなたの<わたし>に
あなたの<わたし>が自由に欲すべく
贈る。
もつて、あなたは真に考へるやうになる
人と精神との基にて。
 
(『礎のことば』より)  
――――――――
 
 
その贈り物があるからこそ、
わたしたちは、また、
世の考へが贈られるのを
待ちつつ考へることができるし、
考への光が降りてくればこそ、
わたしたちは、こころの明るさと共に、
その考へを見通し、見はるかすことができ、
その見はるかしからこそ、こころに愛が目覚めうる。
 
 
ある人の長所にあるとき、はつと気づいて、
その人をあらためてつくづくと見つめ、
その人のことを見直したり、
好ましく思つたりもする。
 
 
長所にはつと気づく、
それこそが、
考への光が降りてきたといふことだらうし、
その人について光をもつて考へられるからこそ、
こころに愛が呼び覚まされるのだらう。
 
 
人を愛する時とは、
世の高みから、
力に満ちて流れてくる「世の考へ」が、
こころに開ける時。
 
 
考へが開けるとき、
そこには、きつと、愛がある。
 
 
愛が生まれないときは、
考へてゐるやうで、実は考へてゐない。
自分勝手に考へや思ひをいぢくりまはしてゐるか、
巡り巡る考へや思ひに翻弄されてゐるときだ。
 
 
考へることによつて愛が生まれることと、
愛をもつて考へることとは、
きつと、ひとつの流れとして、
人の内側で循環してゐる。
 
 
 
 
 
世の高みから
力に満ちてこころに流れてくる光の中で
現はれよ、こころの謎を解きながら、
世の考への確かさよ。
その光り輝く力を集め、
人の心(臓)の中に愛を呼び覚ますべく。
 
 
 


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2020年03月01日

こころのこよみ(第47週)〜行はれたし、精神の慮りを〜


 
セザンヌ「アヌシー湖」.jpg
セザンヌ「アヌシー湖」

 
 
世のふところから甦つてくるだらう、
 
感官への輝きを息づかせる繰りなす喜びが。
 
その喜びは見いだす。わたしの考へる力が、
 
神々しい力を通して備へられ、
 
内において力強いわたしとして生きてゐることを。
 
 
 
Es will erstehen aus dem Weltenschosse,
Den Sinnenschein erquickend Werdelust,
Sie finde meines Denkens Kraft
Gerüstet durch die Gotteskräfte
Die kräftig mir im Innern leben.
 
 
 
 
以前にも引用させてもらつたが、
鈴木一博さんが以前、
日本アントロポゾフィー協会会報に
掲載された『礎(いしずえ)のことば』から、
ここ二、三週間の『こころのこよみ』への
大きな示唆をもらつてゐる。
 
 
精神
こころ
からだ
 
 
人は、
この三つの次元の違ふありやうからなりたつてゐる。
 
 
自分自身を顧みても、
やはり、どちらかといふと、
精神が上の方に、
からだが下の方にあり、
こころがその間に挟まつてゐることを感じる。
 
 
そして、この『こころのこよみ』は、
その名の通り、
真ん中の「こころ」が、
活き活きと生きることを願つて書き記されてゐる。
 
 
この時期、
陽の光がだんだんと
明るく、暖かく、長く、
わたしたちを照らし出すとともに、
地から、少しづつ少しづつ、
草木の力が繰りなしてきてゐるのを
見てとることができる。
そして、「啓蟄」といはれるやうに、
虫たちをはじめとする動く生き物たちも地の下から、
水の中から這ひ出してきてゐる。
 
 
わたしたち人は、どうだらう。
 
 
人においても、
近づいてきてゐる春の陽気にそそられて、
からだもこころも動き出さうとしてゐないだらうか。
 
 
世の、春に近づいていく繰りなしが、
まづは、下のからだへの蠢(うごめ)き、
繰りなしを誘ひ出し、
感官へのそのやうな働きかけが、
真ん中のこころを動かさうとしてゐないだらうか。
 
 
その動きこそが、喜びにもなりえる。
 
 
以下、鈴木さんの文章からの引き写しだが、
その
精神の想ひ起こし、
精神の慮り、
精神の見はるかしに、
まさにリアリティーを感じる。
 
 
________________
 
 
 
こころといふものは、
常にシンパシーとアンチパシーの間で
揺れ動いてゐる。
 
 
しかし、人は、
そのシンパシー、アンチパシーのままに
こころを動かされるだけでなく、
その間に立つて、
そのふたつの間合ひをはかり、
そのふたつを引き合はせつつ、
バランスを保ちつつ、
静かなこころでゐることもできる。
 
 
むしろ、さうあつてこそ、
こころといふものをわたしたちは感じとることができる。
 
 
そのこころの揺れ動き、そしてバランスは、
からだにおける心臓と肺の張りと緩みのリズムとも
織りなしあつてゐる。
 
 
こころのシンパシー、アンチパシーとともに、
心拍は高まりもするし、低まりもする。
 
 
また、呼吸といふものも、
そのこころのふたつの動きに左右される。
吐く息、吸ふ息のリズムが
整つたり、乱れたりする。
 
 
そして、心拍の脈打ちと脈打ちの間、
吐く息、吸ふ息の間に、
静かな間(ま)を
わたしたちは感じとることができる。
 
 
その静かな間(ま)を感じとつてこそ、
わたしたちは、
リズムといふもの、
時といふものをリアルにとらへることができる。
 
 
そして更に、
こころにおいて、
シンパシーとアンチパシーとの間で生きつつ、
からだにおいて、
心と肺のリズムの間で生きつつ、
わたしたちは、
世といふものとの間においても、
リズミカルに、ハーモニックに、
調和して生きていく道を探つていくことができる。
 
 
荒れた冬の海を前にしてゐるときと、
茫洋として、
のたりのたりと静かに波打つてゐる春の海を
前にしてゐるとき。
 
 
峨々たる山を前にしてゐるときと、
穏やかな草原を前にしてゐるとき。
 
 
いまにも雨が降り出しさうな、
どんよりとした曇り空の下にゐるときと、
晴れ晴れとした雲ひとつない青空を仰ぐとき。
 
 
しかめ面をしてゐる人の前にゐるときと、
につこりしてゐる人の前にゐるとき。
 
 
そして、春夏秋冬といふ四季の巡りにおいて、
それぞれの季節における
からだとこころのありやうの移りゆき。
 
 
世といふものと、
わたしたちとの間においても、
ハーモニーを奏でることができるには、
そのふたつが、
ひとりひとりの人によつて、
はからわれ、釣り合はされ、ひとつに響き合つてこそ。
 
 
世とわたし。
そのふたつの間を思ひつつ、
はかりつつ、響き合はせる。
その精神の慮(おもんぱか)りを
積極的にすることによつて、
人は、世に、和やかに受け入れられる。
 
 
人と世は、ひとつに合はさる。
 
 
そして、人は、歌ふ。
春夏秋冬、それぞれの歌を歌ふ。
 
 
慮る(besinnen)は、
歌ふ(singen)と語源を同じくするさうだ。
 
 
こころにおける精神の慮り、それは歌心だ、
と鈴木さんは述べてゐる。
 

 人のこころ!
 あなたは心と肺のときめきに生き
 心と肺に導かれつつ、時のリズムを経て
 あなたそのものを感じるに至る。
 行はれたし、精神の慮りを
 こころの釣り合ひにおいて。
 そこにては波打つ世の
 成りつ為しつが
 あなたの<わたし>を
 世の<わたし>と
 ひとつに合はせる。
 もつて、あなたは真に生きるやうになる
 人のこころの働きとして。
         (『礎のことば』より)
 
 
春の訪れとともに世のふところから、
下のからだを通して、感官への輝きを通して、
こころに、繰りなす喜び。
 
 
そして、
上の精神からの考へる力。
その考へる力は、
冬のクリスマスの時期を意識的に生きたことによつて、
神々しい力によつて備へられてゐる。
その考へる力によつて、
こころにもたらされる力強い<わたし>。
 
 
世とからだを通しての下からの繰りなしによつて、
こころに生まれる喜びといふ情を、
上の精神からやつてくる考へる力が支へてくれてゐる。
 
 
この下からと上からのハーモニックな働きかけによつて、
真ん中のこころに、
喜びが生まれ、育つていく。
 
 

 
 
世のふところから甦つてくるだらう、
感官への輝きを息づかせる繰りなす喜びが。
その喜びは見いだす。わたしの考へる力が、
神々しい力を通して備へられ、
内において力強いわたしとして生きてゐることを。
 
 
 
※絵は、セザンヌ『アヌシー湖』
 
 


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2020年02月23日

こころのこよみ(第46週)〜行はれたし、精神の想ひ起こしを〜


 
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世、それはいまにもぼやかさうとする、
 
こころのひとり生みの力を。
 
だからこそ、想ひ起こせ、
 
精神の深みから輝きつつ。
 
そして観ることを強めよ、
 
意欲の力を通して、
 
己れを保つことができるやうに。
 
  
 
Die Welt, sie drohet zu betäuben 
Der Seele eingeborne Kraft;
Nun trete du, Erinnerung,
Aus Geistestiefen leuchtend auf 
Und stärke mir das Schauen,
Das nur durch Willenskräfte 
Sich selbst erhalten kann.
 
 
 
 
「ひとり生み」とは、何か。
 
 
シュタイナーのヨハネ福音書講義の第四講に、
そのことばが出てくる。
 
 
かつて福音書が書かれた頃、
「ふたり生み」とは、
父と母の血の混じりあいから生まれた者のこと、
「ひとり生み」とは、
そのやうな血の混じりあいから生まれた者でなく、
神の光を受け入れることによつて、
精神とひとつになつた者、
精神として生まれた者、
神の子、かうがうしい子のことだつた。
 
 
今から二千年以上前には、
人びとの多くは、「わたし」といふ、
人のための下地をすでに備へながらも、
後に聖書に記されるところの「光」を
まだ受け入れることができなかつた。
 
 
「群れとしてのわたし」のところには、
「光」は降りてきてゐたが、
ひとりひとりの人は、
その「光」をまだ受け入れてゐなかつた。
 
 
「ひとりのわたし」といふ意識はまだなく、
おらが国、おらが村、おれんち、
そのやうな「ふたり生みの子」としての意識が、
ひとりひとりの人のこころを満たしてゐた。
 
 
しかし、少数ではあるが、
「光」を受け入れた者たちは、
その「光」を通してみづからを神の子、
「ひとり生みの子」となした。
 
 
物の人がふたり生み、
精神の人がひとり生みだ。
 
 
そして、キリスト・イエスこそは、
その「光そのもの」、
もしくは「光」のおおもとである
「ことばそのもの」として、
「父のひとり生みの息子」として、
肉のつくりをもつてこの世の歴史の上に現れた。
 
 

ことば(ロゴス)、肉となれり
(ヨハネ書一章十四節)
 
 
彼こそは、
ひとりひとりの人に、
こよなく高く、ひとりの人であることの意識、
「わたしはある」をもたらすことを
使命とする者だつた。
 
 
わたしたちが、
その「ひとり生みの力」を想ひ起こすこと、
それは、
キリスト・イエスの誕生と死を想ひ起こすといふこと。
 
 
そして、
わたしたちひとりひとりの内なる、
「わたしはある」を想ひ起こすこと。
 
 
それは、
日々のメディテーションによつて生まれる、
精神との結びつきを想ひ起こすことであり、
目で見、耳で聞いたことを想ひ起こすことに尽きず、
精神の覚え「わたしはある」を想ひ起こすことだ。
 
 
その想ひ起こしが
そのやうにだんだんと深まつていくことによつて、
人は、
「わたしはある」といふこと、
「みづからが神と結ばれてある」といふこと、
みづからの「わたし」が、
神の「わたし」の内にあるといふこと、
そのことを確かさと安らかさをもつて、
ありありと知る道が開けてくる。
 
 
「想ひ起こす」といふ精神の行為は、
意欲をもつて考へつつ、
いにしへを追つていくといふことだ。
 
 
普段の想ひ起こすことにおいても、
頭でするのみでは、
その想ひは精彩のないものになりがちだが、
胸をもつて想ひ起こされるとき、
メロディアスに波打つかのやうに、
想ひがこころに甦つてくる。
 
 
さらに手足をもつて場に立ちつつ、
振舞ふことで、
より活き活きと、みずみずしく、深みをもつて、
想ひが甦つてくる。
 
 
故郷に足を運んだ時だとか、
手足を通して自分のものにしたもの、
技量となつたものを、
いまいちどやつてみる時だとか、
そのやうに手足でもつて憶えてゐることを、
手足を通して想ひ起こすかのやうにする時、
想ひが深みをもつて甦る。
 
 
そして、
そのやうな手足をもつての想ひ起こしは、
その人をその人のみなもとへと誘ふ。
 
 
その人が、その人であることを、想ひ起こす。
 
 
その人のその人らしさを、
その人はみづから想ひ起こす。
 
 
例へば、
この足で立ち、歩くことを憶えたのは、
生まれてから一年目辺りの頃だつた。
その憶えは、
生涯、足で立つこと、歩くことを通して、
頭でではなく、
両脚をもつて想ひ起こされてゐる。
その人が、その人の足で立ち、歩くことを通して、
その人の意識は目覚め、
その人らしさが保たれてゐる。
 
 
だから、
年をとつて、足が利かなくなることによつて、
その人のその人らしさ、
こころの張り、意識の目覚めまでもが、
だんだんと失はれていくことになりがちだ。
 
 
手足を通しての想ひ起こし、
それは、意欲の力をもつてすることであり、
人を活き活きと甦らせる行為でもある。
 
 
そして、それはメディテーションにも言へる。
 
 
行はれたし、精神の想ひ起こしを
もつて、あなたは真に生きるやうになる、
まこと人として、世のうちに
(シュタイナー『礎のことば』1923年12月25日)
 
 
メディテーションによる想ひ起こしは、
手足による想ひ起こしに等しいもの。
 
 
メディテーションとは、
意欲をもつての厳かで真摯な行為。
 
 
毎日の行為である。
 
 
「ひとり生みの力」を想ひ起こすこと、
それは、わたしの「わたし」が、
神の「わたし」の内に、
ありありとあること、
「わたしのわたしたるところ」、
「わたし」のみなもと、
それを想ひ起こすことだ。
 
 
世に生きてゐると、
その「ひとり生みの力」を
ぼやかさうとする機会にいくらでも遭ふ。
 
 
世は、
ふたり生みであることから生まれる、
惑ひといふ惑ひをもたらさうとする。
 
 
「だからこそ、勤しみをもつて、想ひ起こせ」。
 
 
「惑ひといふ惑ひを払つて、想ひ起こせ」。
 
 
想ひ起こされたものを
しつかりとこころの目で観ること、
もしくは想ひ起こすといふ精神の行為そのものをも
しつかりと観ること、
それがつまり、
「観ることを強める」といふことだ。
 
 
その意欲の力があつてこそ、
人は、「己れを保つことができる」、
おのれのみなもとにあることを
想ひ起こすことができる。
 
 
 
 


世、それはいまにもぼやかさうとする、
こころのひとり生みの力を。
だからこそ、想ひ起こせ、
精神の深みから輝きつつ。
そして観ることを強めよ、
意欲の力を通して、
己れを保つことができるやうに。
 
 
 
 

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2020年02月16日

こころのこよみ(第45週)〜余計なことを考へない力〜


 
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東山魁夷 「碧湖」

 
 
考へる力が強まる、
 
精神の生まれとの結びつきの中で。
 
それは感官へのおぼろげなそそりを
 
まつたき明らかさへともたらす。
 
こころの満ち足りが
 
世の繰りなしとひとつになりたいのなら、
 
きつと感官への啓けは、
 
考へる光を受けとめる。
 
 
 

Es festigt sich Gedankenmacht
Im Bunde mit der Geistgeburt,
Sie hellt der Sinne dumpfe Reize
Zur vollen Klarheit auf.
Wenn Seelenfülle
Sich mit dem Weltenwerden einen will,
Muß Sinnesoffenbarung       
Des Denkens Licht empfangen.
 
 
 
 
ここで言はれてゐる「考へる力」とは、
余計なことを考へない力のことである。
 
 
そして、この時、この場で、
何が一番大事なことかを考へる力のことだ。 
 
 
その力を持つためには、練習が要る。
その練習のことを、
シュタイナーはメディテーションと言つた。             
 
普段に感じる共感(シンパシー)にも
反感(アンチパシー)にも左右されずに、
浮かんでくる闇雲な考へを退けて、
明らかで、鋭く、
定かなつくりをもつた考へに焦点を絞る。
ひたすらに、そのやうな考へを、
安らかに精力的に考へる練習だ。
 
 
強い意欲をもつて考へることで、
他の考へが混じり込んだり、
シンパシーやアンチパシーに巻き込まれて、
行くべき考への筋道から
逸れて行つてしまわないやうにするのだ。
 
 
その繰り返すメディテーションによつて、
「考へる力」が強く鍛へられる。
 
 
この時期に、
メディテーションによつて強められる考へる力が、
こころにそそりが及んできてゐるのを、
おぼろげに感じるやうにわたしたちを導き、
さらに、だんだんと、
そのそそりを明らかなものにしてゆく。
 
 
それが明らかになるほどに、
こころは満ち足りを感じる。
こころのなかに精神が生まれるからだ。
 
 
そして、そのこころの満ち足りは、
自分だけの満ち足りに尽きずに、
人との関はり、世との関はりにおいてこそ、
本当の満ち足りになるはずだ。
 
 
こころの満ち足りは、やがて、
ことばとなつて羽ばたき、
人と人とのあひだに生きはじめ、
精神となつて、
人と世のあひだに生きはじめる。
 
 
こころの満ち足りが、
世の繰りなしとひとつになつてゆく。
 
 
ひとりで考へる力は考へる光となつて、
人と人のあひだで、
人と世のあひだで、
明るく灯されるのだ。
 
 
 
 

考へる力が強まる、
精神の生まれとの結びつきの中で。
それは感官へのおぼろげなそそりを
まつたき明らかさへともたらす。
こころの満ち足りが
世の繰りなしとひとつになりたいのなら、
きつと感官への啓けは、
考へる光を受けとめる。
 
 
 

 
 

posted by koji at 07:55 | 大阪 ☁ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする