[こころのこよみ(魂の暦)]の記事一覧

2017年12月14日

こころのこよみ(第36週) 〜汝は何を怖がつてゐるのか〜

 
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わたしといふものの深みにおいて
 
いま、目覚めよ、と
 
密(ひめ)やかに世のことばが語る。
 
  汝の仕事の目当てを
 
  我が精神の光で満たせ、
 
  我を通して、汝を捧げるべく。

 
      ルドルフ・シュタイナー
 
 
In meines Wesen Tiefen spricht
Zur Offenbarung draengend
Geheimnisvoll das Weltenwort ;
Erfuelle deiner Arbeit Ziele
Mit meinem Geisteslichte
Zu opfern dich durch mich
 

 
わたしといふものの深みにおいて、「いま、目覚めよ」と、世のことばが密やかに響く。
 
「世のことば」とは、キリスト。
キリストがささやくように「いま、目覚めよ」と言ふ。
 
「目覚めよ」とは、恐れや不安を乗り越えよ、といふこと。
 
世のことばがささやいてゐる。
 
汝は何を怖がつてゐるのか。何も怖がることはない。己れの内に隠されてゐる恐怖から、他者を罵り、責めることは、もうやめよ。汝を捧げよ。汝の仕事に。我(キリスト)を通して。
 
仕事をするといふことは、さういふことではないか。
 

 
わたしといふものの深みにおいて
いま、目覚めよ、と
密(ひめ)やかに世のことばが語る。
  汝の仕事の目当てを
  我が精神の光で満たせ、
  我を通して、汝を捧げるべく。

 

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2017年12月08日

こころのこよみ(第35週) 〜<わたしはある>そして<愼ましく生き抜いていく>〜


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「渡頭(とたう)の夕暮」和田英作


<ある>とは何かを、わたしは知りえるのか、
 
それを再び見いだしえるのか、
 
こころが活き活きと働くならば。
 
わたしは感じる、わたしに力が与へられてゐるのを。
 
それは、己れみづからが手足となつて、
 
世を愼ましく生き抜いていく力だ。

 
 
 
Kann ich das Sein erkennen,
Daß es sich wiederfindet   
Im Seelenschaffensdrange ?   
Ich fühle, daß mir Macht verlieh'n, 
Das eigne Selbst dem Weltenselbst   
Als Glied bescheiden einzuleben.
 
 
 
この週の『こよみ』の<ある>といふことばから、言語造形家の鈴木一博さんが以前、シュタイナーの『礎のことば』について書かれてゐた文章を想ひ起こした。
 
そもそも、<わたし>は、氣づいたときには、まうすでに、ここに<あつた>。ものごころがついたときから、<わたし>がすでに<あらしめられてある>ことに、氣づきだした。
 
この<わたし>は、わたしが氣づく前から<ある>。
 
そして、いま、<わたしはある>といふ事態をありありと感じることができる時といふのは、わたしのこころが活き活きと生きて、働いてゐた後、そのことをその活き活きとした感覺を失はずに想ひ起こす時ではないか。
 
だから、そのやうに、こころにおいて活き活きと何かを想ひ起こすことで、<わたしがある>といふことを、より深く、より親しく感じ、より明らかに知つていくことができる。
 
何を想ひ起こすのか。
 
内に蘇つてくる、ものごころがついてからの想ひ出。
 
また、ふだんは想ひ起こされないものの、故郷の道などを歩くときに、その場その場で想ひ出される実に多くのこと。
 
当時あつたことが、ありありと想ひ出されるとき、そのときのものごとだけでなく、そのときの<わたし>といふ人もが、みづみづしく深みを湛えて蘇つてくる。
 
それらを頭で想ひ描くのでなく、胸でメロディアスに波立つかのやうに想ひ描くならば、その想ひ出の繰りなしは、みづみづしい深みを湛えて波立ついのちの織りなしと言つてもいいし、「精神の海」と呼ぶこともできる。
 
その「精神の海」に行きつくことによつて、人は「みづからがある」ことに対する親しさを得ることができはしないだらうか。
 
そして、その「精神の海」には、わたしが憶えてゐるこころの憶いだけではなく、からだが憶えてゐるものも波打つてゐる。
 
たとへば、この足で立つこと、歩くこと。ことばを話すこと。子どもの頃に憶えたたくさんの歌。自轉車に乘ること。字を書くこと。筆遣ひ。疱丁遣ひ。などなど。
 
身についたこと、技量、それはどのやうに身につけたかを頭で想ひ出すことはできなくても、手足で憶えてゐる。
 
手足といふもの、からだといふものは、賢いものだ。
 
それらの手足で憶えてゐることごとへの信頼、からだの賢さへの信頼があるほどに、人は、<わたしがある>といふことに対する確かな支へを持てるのではないだらうか。
 
また、パーソナルな次元を超えて、人といふ人が持つてゐる、からだといふなりたち、こころといふなりたち、果ては、世といふもの、神といふもの、それらも人によつて想ひ起こされてこそ、初めて、ありありと、みづみづしく、その人の内に生き始める。
 
だからこそ、<わたしはある>といふ想ひを人は深めることができる。<神の内に、わたしはある><わたしの内に、神はある>といふ想ひにまで深めることができる。
 
想ひ出をみづみづしく蘇らせること。手足の闊達な動きに祕められてゐる技量といふ技量を発揮すること。それらすべてを司つてゐる世の生みなし手にまで遡る想ひを稼いで得ること。
 
それらが、<わたしがある>といふことの意味の解き明かし、わたしがある>といふことへの信頼を生みはしないか。
 
それらが、人のこころを活き活きと生かしはしないか。
 
そのやうにわたしのこころが活き活きと生きたことを想ひ起こすことと、<わたしはある>とが響きあふ。
 
<ある>といふことを知つていくことは、<ある>といふことを想ひ起こしていくことだ。
 
世の中において、こころが<生きた>こと、手足が<生きた>こと、わたしまるごとが<生きた>ことを、活き活きとわたしが想ひ起こす時、<わたし>も、世も、ありありと共にあつたのであり、いまも共にあるのであり、これからも共にありつづける。わたしと世は、きつと、ひとつだ。
 
そして、いまも、これからも、精神からの想ひ起こしをすることで、こころを活き活きと働かせつつ、力が与へられてゐるのを感じつつ、手足を使つて、地道に、愼ましく、世を生きてゆくほどに、<ある>といふことを、つまりは、<わたしがある>といふことを、わたしは知りゆき、何度でも見いだしていくだらう。
 
ここで、クリスマス会議でシュタイナーにより発せられた『礎のことば』のはじめの一部を載せておきます。
 
 
    人のこころ!
 
   あなたは手足に生き
 
   手足に支へられつつ、場を経て
 
   精神の海へと行きつく。
 
   行はれたし、精神の想ひ起こしを
 
   こころの深みにて。
 
   そこにては
 
   世の生みなし手が司り
 
   あなたの<わたし>が
 
   神の<わたし>のうちに
 
   ありありとある。
 
   もつて、あなたは真に生きるやうになる
 
   まこと人として、世のうちに。

 
              (鈴木一博さん訳)
 
 
<ある>とは何かを、わたしは知りえるのか、
それを再び見いだしえるのか、
こころが活き活きと働くならば。
わたしは感じる、わたしに力が与へられてゐるのを。
それは、己れみづからが手足となつて、
世を愼ましく生き抜いていく力だ。

 
 

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2017年12月02日

こころのこよみ(第34週) 〜ありありとしてくる<わたし>〜


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密やかに古くから保たれてきたものが
 
新しく生まれてくる己れのありやうと共に
 
内において活き活きとするのを感じる。
 
きつと目覺めた世の數々の力が
 
わたしの人生の外なる仕事に注ぎ込まれ
 
そしてだんだんとわたしをありありと刻み込んでいくだらう。
 
                ルドルフ・シュタイナー

 
 
Geheimnisvoll das Alt-Bewahrte
Mit neu erstandnem Eigensein
Im Innern sich belebend fühlen:
Es soll erweckend Weltenkräfte
In meines Lebens Außenwerk ergießen
Und werdend mich ins Dasein prägen.          
 
 
 
まづ、あなたにとつて、わたしにとつて、一行目の「密やかに、古くから保たれてきたもの」とは、何だらう。
 
それは、みづからのこころといふものの核のことである。こころの相(すがた)は刻一刻と変はるが、こころといふものの核は、変はらずに留まり続ける。
 
その核を「わたしのわたしたるところ」、<わたし>、もしくは精神と言つてもよく、それを意識の上に育てていくために、メディテーションといふこころの練習がある。
 
この『こころのこよみ 第34週』では、そのこころといふものの核を「密やかに、古くから保たれてきたもの」と言ひ表してゐる。
 
 
 
さらに、この肉をもつたからだは、なんのためにあるのだらう。
 
この世で仕事をし、この世に仕へ、自分の周りの世をほんの少しづつでも善きものにしていくために、このからだをわたしは授かつてゐるのではないだらうか。
 
そして、そのやうに、「からだを使つて、今日も生きていかう」といふ意氣込みはどこから生まれてくるのだらう。
 
日々、寝床から、起き上がれるといふこと。手を動かして、洗顏できるといふこと。ものを食べられるといふこと。歩いて、行きたいところへ行くことができるといふこと。子どもと遊ぶことができるといふこと。そして、仕事ができるといふこと・・・。
 
これらすべてのことをするためには、からだが健康であることは勿論だが、さらに意氣込みが要る。
 
その意氣込みは、自分自身で生み出すといふよりも、朝起きて、眠りから覺めて、おのづとゐただいてゐる。それは本當に恩寵だと感じる。
 
これこそが、世の數々の力からの恵みではないか。
 
この恩寵への感謝の日々を毎日生き續けていくことが、この季節、きつと、わたしたちの外なる仕事に生きた力を吹き込んでくれる。
 
感謝の念ひこそが、わたしたちの心意氣を日々目覺めさせてくれる。
 
そして、この目覺めは毎日を新しくする。わたし自身を新しくしてくれる。
 
感謝できないときが、人にはあるものだ。しかし、そんなとき、人は意識の上で夢見てゐる状態か、眠り込んでゐる状態だ。
 
さあ、當たり前にできてゐることに、あらためて目を注いでみよう。からだを當たり前に使へることの恩寵にあらためて驚くことができるだらうか。
 
そのやうに、毎日の感謝から生まれるものが、二行目にある「新しく生まれてくる己れのありやう」である。
 
 
 
無理をせず、どこまでも自分自身であること(精神からの光・一行目)。そして、日々新鮮に自分自身を感じること(からだからの恩寵・二行目)。このふたつが重なつて、こころそのものが、活き活きと動き出す(三行目)。
 
活き活きと動き出して、いよいよ、わたしは、<わたし>として、ますます、「ありありと」あるやうになつてくる。外の仕事に「ありありと」<わたし>が刻み込まれていく(四・五・六行目)。
 
わたしが、<わたしはある>といふありように、なりゆくこと。これこそが、豐かさである。
 
ひとりひとりの<わたしはある>といふありやうこそが、世を豐かにする。
 
 
 
密やかに古くから保たれてきたものが
新しく生まれてくる己れのありやうと共に
内において活き活きとするのを感じる。
きつと目覺めた世の數々の力が
わたしの人生の外なる仕事に注ぎ込まれ
そしてだんだんとわたしをありありと刻み込んでいくだらう。


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2017年11月21日

こころのこよみ第32週 〜世の力の源は決して枯れない〜

 
わたしは稔りゆく己れの力を感じる。
その力は強められたわたしを世に委ねる。
わたしのわたしたるところを力強く感じる、
明るみへと向かふべく、
生きることの仕合はせが織りなされる中で。

             ルドルフ・シュタイナー
 
 
Ich fühle fruchtend eigne Kraft
Sich stärkend mich der Welt verleihn;
Mein Eigenwesen fühl ich kraftend
Zur Klarheit sich zu wenden
Im Lebensschicksalsweben.
 
 

この秋といふ季節に、稔りゆく<わたし>の力は、どこから得られるか。
 
わたしがわたしみづからを支へ引き上げていくための力は、どこから得られるか。
 
「稔りゆく己れの力」
「強められたわたし」
「わたしのわたしたるところ」
 
これらは、みな、己れから己れを解き放ち、己れの小なる力を諦め、大なるものに己れを委ね、任せられるとき、感じられるものではないだらうか。
 
大いなるもの、それを「世」と言ふのなら、世の力の源は決して枯れることがない。
 
その源から、<わたし>は常に力を頂いてゐる。
 
その繋がりを信頼して、今日も仕事をしていかう。
今日といふ一日、明日、あさつて・・・
 
「生きることの仕合はせ(運命)が織りなされる中で」、何が待つてゐるのだらう。
 
小さなわたしがあれこれと采配していくのではなく、大いなるものがわたしの生を織りなしてくれていることへの信頼を育みつつ、勇気をもつて、今日も仕事をしていかう。
 
そのときこそ、「わたしのわたしたるところ」「強められたわたし」が、きつと顕れてくる。
 
今日も、丁寧に、牛のやうにひたすら押しながら、「明るみへと向かふべく」仕事をしていかう。
 
 
わたしは稔りゆく己れの力を感じる。
その力は強められたわたしを世に委ねる。
わたしのわたしたるところを力強く感じる、
明るみへと向かふべく、
生きることの仕合はせが織りなされる中で。
 

 

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2017年11月09日

こころのこよみ第31週 〜「事」と「言」と「心」〜

 
精神の深みからの光が、
まるで太陽のやうに輝きだす。
それは生きる意欲の力になり、
そして、おぼろな感官に輝き入り、
力を解き放ち、
こころから創らうとする力を
人の仕事に於いて、熟させる。

          (ルドルフ・シュタイナー)
 
Das Licht aus Geistestiefen,
Nach außen strebt es sonnenhaft.
Es wird zur Lebenswillenskraft
Und leuchtet in der Sinne Dumpfheit,
Um Kräfte zu entbinden,
Die Schaffensmächte aus Seelentrieben
Im Menschenwerke reifen lassen.
 
 
 
「精神の深みからの光が、まるで太陽のやうに輝きだす」
わたしたちは、太陽の輝きには馴染みがある。しかし、上の文を読んで、「まるで太陽のやうに輝きだす精神の深みからの光」をどう捉へていいものか、途方に暮れはしないだらうか。
 
この文、これらのことばの連なりから、どのやうなリアリティーを摑むことができるだらうか。
 
ことばのリアリティーを摑むために、何度もこころの内に唱へ、口ずさんでみると、どうだらうか。
 
水が集つて流れるやうに聲に出すことを「詠む」と云ふさうだが(白川靜『字訓』)、そのやうな活き活きとした息遣ひで味はつてみる。また、その川底に光るひとつひとつの石を見るやうに、一音一音、味はふやうにしてみる。
 
そのやうにことばを味はひ、ことばの響きに耳を澄まさうとすることにより、こころの靜けさとアクティビティーを通して、「精神の深みからの光」が、「事」として、だんだんと顯れてくる。
 
ここで言はれてゐる「事」と「言」が重なつてくる。
 
また、過去に幾度か経験した内側が「輝きだす」瞬間を想ひ起こし始める。
 
そのやうにして、リアリティーの糸口が見いだされてくるにつれて、いまこの瞬間において、「精神の深みからの光」が、こころに降りてくるのを感じ、覺える。
 
そのやうにして、「事(こと)」と「言(ことば)」と「心(こころ)」が、光の内に重なつてくる。
 
その重なりが、こころの内なる化學反応のやうに生じてくるのを待つ。
 
「精神の深みからの光」。
 
その「光」こそが、「生きる意欲の力になり」、「こころから
創ろうとする力を、人の仕事において熟させる」。
 
意欲をもつて生きるとは、どういふことなのか。
 
自分の仕事において創造力が熟してくるとは、どう云ふことなのか。
 
まづ、内なる「光」と云ふもののリアリティーを得ることで、それらのことが分かる道が開けてくる。
 
こころを暖め、熱くさせながら。光だけを生きるのではなく、熱をもつて仕事に向かひ始める。
 
「事」と「言」と「心」が、さらに幾重にも重なつてくる。
 
今週、精神の光が、生きる意欲の力になり、仕事を熟させていく。
 
その「事」を、ことばとこころで辿つていかう。
 
 
精神の深みからの光が、
まるで太陽のやうに輝きだす。
それは生きる意欲の力になり、
そして、おぼろな感官に輝き入り、
力を解き放ち、
こころから創らうとする力を
人の仕事に於いて、熟させる。

 

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2017年10月30日

こころのこよみ(第30週) 〜秋の喜び、垂直性〜

 
こころの太陽の光の中でわたしに生じる、
考へることの豐かな実り。
みづからを意識することの確かさにおいて、
すべての感じ方が変はる。
わたしは喜びに滿ちて感覺することができる、
秋の精神の目覺めを。
「冬はわたしの内に、
こころの夏を目覺めさせるだらう」
        (ルドルフ・シュタイナー)

 
Es sprießen mir im Seelensonnenlicht
Des Denkens reife Früchte,
In Selbstbewußtseins Sicherheit
Verwandelt alles Fühlen sich.
Empfinden kann ich freudevoll
Des Herbstes Geisterwachen:
Der Winter wird in mir
Den Seelensommer wecken.
 
 
想ひ起こせば、この夏の日々、何を考へて生きてゐるかと、あらためてわたし自身に問ふたとき、大概は下らないことを考へてゐたことに氣づき、やつてきては過ぎ去つていく毎日をただなんとか凌いでゐるだけぢやないかと、自分に言つてしまひさうになつた。
 
しかし、季節の巡りといふものはしつかりとあり、その巡りにつれて、こころの巡りといふものもあつて、夏の頃は、考へや情が、あちらこちらに引きずり囘されて、しんどい思ひをしてゐたにも関はらず、秋がかうして深まつてくると、それまでの曖昧で不安定だつた考へる力の焦点が定まつてきて、本当にこころから考へたいことを考へられるやうになつてくる。
 
それは、自分の場合、本当に喜ばしいことで、考へる力に濁りがなくなつてくると、感情も清明になり、意欲にも火がついてくるのだ。
 
そして、いい本、いい文章、いいテキストにも出会へるやうになつてくる。
 
生きることの意味。理想。それらの考へが、わたしにとつて何よりも氣力を育んでくれることを実感できる日々はありがたいものだ。
 
見えるものについてただ無自覺に考へ、なんとなく思ひ続けてゐるよりも、見えないものへの信を深めるやうな考へを育んでいくことが、どれだけ、こころを目覺めさせることか!
 
ものがただ竝んでゐる平面を生きることよりも、ものといふものにおける垂直を生きること。
 
秋から冬への生活とは、そのやうな「ものへゆく道」「深みを見いだす生活」になりえる。
 
日々のアップ・アンド・ダウンといふものではなく、週を經るごとに、こころが織りなされていくことを実感できるのは、「わたしであること」の安らかさと確かさをもたらしてくれる。
 
ありがたいことだと思ふ。
 
 
こころの太陽の光の中でわたしに生じる、
考へることの豐かな実り。
みづからを意識することの確かさにおいて、
すべての感じ方が変はる。
わたしは喜びに滿ちて感覺することができる、
秋の精神の目覺めを。
「冬はわたしの内に、
こころの夏を目覺めさせるだらう」

 

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2017年10月23日

こころのこよみ(第29週) 〜コトバ第一ナリ〜

 
みづから考へることの光が、
内にをいて力強く輝く。
世の精神の力の源から、
意味深く示される数々の験し。
それらはいま、わたしへの夏の贈りもの、
秋の静けさ、そしてまた、冬の希み。

           (ルドルフ・シュタイナー)
 
 
Sich selbst des Denkens Leuchten
Im Innern kraftvoll zu entfachen,
Erlebtes sinnvoll deutend
Aus Weltengeistes Kräftequell,
Ist mir nun Sommererbe,
Ist Herbstesruhe und auch Winterhoffnung.
 
 
 
改めてこの夏を振り返つて、夏という季節を生きたことによつて、世から、わたしは、何を、贈られたか。
 
それは、「ことば」であつた。
 
「わたしはひとりである」といふ「ことば」だつた。
 
いま、秋になり、外なる静けさの中で、その「ことば」を活発に消化する時であることをわたしは感じてゐる。
 
そして、来たる冬において、その「ことば」は、血となり、肉となって、生まれ出る。
 
夏に受けとられ、秋に消化された「ことば」が、冬には、「己れのことば」、「わたしの内なるひとり生みの子」、「ことに仕へる(わたしの仕事)」として世へと発信される。
 
そんなクリスマスへの希みがある。
 
夏に贈られた「ことば」があるからこそ、この秋、わたしは、その「ことば」を基点にして、自分の情を鎮めることができる。
 
自分の考へを導いていくことができる。
 
自分の意欲を強めていくことができる。
 
そして、冬へと、クリスマスへと、備へるのだ。
 
 
メディテーションをする上にも、余計なことを考へないようにするために、飛び回る鬼火のやうな考へや情を鎮めようとする。
 
しかし、いくら頑張つてみたところで、どうにも鎮まらない時がよくある。
 
そんな時、メディテーションのために与へられてゐる「ことば」に沿ひ、その「ことば」に考へを集中させていくと、だんだん、おのづと、静かで安らかなこころもちに至ることができる。
 
「ことば」を先にこころに据えるのだ。
 
その「ことば」に沿ふことによつて得られる感覚。
 
日本人に於いては、特に、萬葉の歌を歌ふ頃から時代を経て、「古今和歌集」の頃もさらに経て、「新古今和歌集」が編まれた頃、その「ことば」の感覚が、意識的に、先鋭的に、磨かれてゐたやうだ。
 
歌を詠むこと、詠歌に於いて、「題」を先に出して、その「題」を基にして、まづ、こころを鎮め、こころを整へて、その後、歌を詠んだのである。
 
こころの想ふままに歌を歌へた時代は、だんだんと、過ぎ去つていつたのだ。
 
こころには、あまりにも、複雑なものが行き来してゐて、それが、必ずしも、歌を詠むに適した状態であるとは限らない。
 
 
「詠歌ノ第一義ハ、心ヲシヅメテ、妄念ヲヤムルニアリ」
 
「トカク歌ハ、心サハガシクテハ、ヨマレヌモノナリ」
 
「コトバ第一ナリ」

 
(本居宣長『あしわけ小舟』より)
 
 
「ことば」がこころの内に据えられてあるからこそ、「ことば」という手がかりがあるからこそ、わたしたちは、みづからのこころのありやうを手の内に置くことができるようになる。
 
わたしたち日本人は、長い時を経て、歌を詠むことを通して、「ことば」の世界に直接入り、「ことば」の力に預かりながら、己れのこころを整へ、情を晴らし、問ひを立て、明日を迎へるべく意欲をたぎらしてゐた。
 
秋になり、わたしたちは夏に贈られた「ことば」を通して、妄念を鎮め、こころを明らかにしていくことができる。
 
さうして初めて、「みづから考えることの光が、内にをいて力強く輝く」。
 
歌を何度も何度も口ずさむやうに、メディテーシヨンを深めていくことが、来たる冬への備へになるだらう。
 
 
みづから考へることの光が、
内にをいて力強く輝く。
世の精神の力の源から、
意味深く示される数々の験し。
それらはいま、わたしへの夏の贈りもの、
秋の静けさ、そしてまた、冬の希み。

 
 
 

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2017年04月22日

こころのこよみ(第2週) 〜こころの農作業〜 (再掲)


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こころのこよみ (第2週) を再掲します。
 
眼、耳、その他、十二のすべての感官を活発に働かせる。それは、せわしなく動かないこと、小賢しく考へないこととひとつです。
 
自分のしてゐること、しようとしてゐることの実り(結果)が、すぐに目の前に現れはしなくても、この春に耕した土からは、秋の終わりに実りをもたらしてくれます。
 
耕されることを待つてゐる土とは、わたしたちのこころです。
 
春、龍は天に昇り、わたしたち人を世の広やかさ、高さ、奥行きの深さへといざなつてくれようとしてゐます。
 
その龍は大空に雲となつて姿を垣間見せてくれることもありますが、人のこころの内側の天空に向かつて昇りゆく存在です。
 
その内なる存在を感じながら、小賢しく考へず、ただただ、花を觀るとき、わたしたちはその花の精神に触れ、自分自身の精神が芽吹いてくることを感じるのです。
 
ひとつの花には、その奥、その向かうがあるのです。
 
この春、その奥、向かうへの感覚を育むほどに、半年後の秋には、龍がこの地へと降りてくるに従つて考へる力が冴えわたり、頭が澄み切つてくるでせう。
 

 

  
 
こころのこよみ(第2週) 〜こころの農作業〜 (再掲)
 
 
外なるすべての感官のなかで、
 
考への力はみづからのあり方を見失ふ。
 
精神の世は見いだす、
 
再び、人が芽吹いてくるのを。
 
その萌しを、精神の世に、
 
しかし、そのこころの実りを、
 
人の内に、きつと、見いだす。
 
 
Ins Äußre des Sinnesalls
Verliert Gedankenmacht ihr Eigensein;
Es finden Geisteswelten
Den Menschensprossen wieder,
Der seinen Keim in ihnen,
Doch seine Seelenfrucht
In sich muß finden.
 
 
わたしは、目を、耳を、もつと働かせることができるはずだ。全身全靈で、ものごとにもつと集中して向かひ合ふことができるはずだ。身といふものは、使へば使ふほどに、活き活きと働くことができるやうになつてくる。
 
たとへば、自然に向かひ合ふときにも、たとへば、音樂に耳を傾けるときにも、この外なるすべての感官を通して意欲的に見ること、聽くことで、まつたく新たな經驗がわたしの中で生まれる。
 
ときに、からだとこころを貫かれるやうな、ときに、浮遊感を伴ふやうな、ときに、もののかたちがデフォルメされて突出してくるやうな、そのやうな感覺を明るい意識の中で生きることができる。
 
「外なるすべての感官の中で、考への力はみづからのあり方を見失ふ」とは、感覺を全身全靈で生きることができれば、あれこれ、小賢しい考へを弄することなどできない状態を言ふのではないか。
 
このやうないのちの力に滿ちたみづみづしい人のあり方。それは、精神の世における「萌し」「芽吹き」だらう。
 
春になると、地球は息を天空に向かつて吐き出す。だからこそ、大地から植物が萌えはじめる。
 
そして、地球の吐く息に合はせるかのやうに、人のこころの深みからも、意欲が芽吹いてくる。
 
春における、そんな人の意欲の萌し、芽吹きは、秋になるころには、ある結実をきつと見いだすだらう。
 
春、天に昇る龍は、秋、地に下り行く。
 
中國では、その龍を聖龍とするさうだ。
 
それは、きつと、この時代を導かうとしてゐる精神ミヒャエルに貫かれた龍だらう。
 
秋から冬にかけてキリストと地球のためにたつぷりと仕事をしたミヒャエルは、その力を再び蓄へるために、春から夏にかけて、キリストと地球のこころとともに、大いなる世へと、天へと、歸りゆく。そしてまた、秋になると、ミヒャエルは力を蓄へて、この地の煤拂ひに降りてきてくれるのだ。
 
わたしたちの意欲もミヒャエルの動きに沿ふならば、春に、下から萌え出てき、感官を通して、ものを觀て、聽いて、世の精神と結びつかうとする。
 
そして、秋には、上の精神からの力をもらひつつ再び降りてきて、地に実りをもたらすべく、方向性の定まつた活きた働きをすることができる。
 
だから、春には春で意識してやつておくことがあるし、その実りをきつと秋には迎へることができる。
 
それは、こころの農作業のやうなものだ。
 
 
 
外なるすべての感官のなかで、
考への力はみづからのあり方を見失ふ。
精神の世は見いだす、
再び、人が芽吹いてくるのを。
その萌しを、精神の世に、
しかし、そのこころの実りを、
人の内に、きつと、見いだす。

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2017年04月14日

こころのこよみ(第1週) (再掲)


CIMG2479.JPG

 
今日は、「ことばの家」生誕劇クラス第一日目でした。
 
そして今日は、キリスト・イエスが磔刑に処されし日です。
 
お話しを伺つてゐるうちに、この日に集ふことが必然であるかのやうな方々が集ふたこと、そしてこのプロジェクトは、わたしの個人的な想ひを遥かに超えるやうな計らひの下に始まつてゐるのだといふことが「おぼろげに」分かつてきました。
 
真冬のクリスマスに向けて、わたしたちの歩みが始まりました。
 
あさつての復活祭はキリストの甦りを祝ふ大祝祭日です。
 
そして、キリストはみづからを「世のことば」と呼ばれました。
 
復活祭の日とは「世のことば」が墓から甦りし日です。
 
わたしたち「ことばの家」は、死んでゐる文字からことばが響きとなつて活き活きと息を吹き返すこと、「ことばの復活」を、「日本語の甦り」を、希求してゐます。

磯城島の 大和の国は 言霊の 助くる国ぞ 真幸くありこそ
(萬葉集 三二五四) 
 
以前掲載した『こころのこよみ 第一週』です。
 
 
・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
 
『こころのこよみ(第1週) 〜復活祭の調べ〜』
 
 
世の廣がりから、
 
陽が人の感官に語りかけ、
 
そして喜びがこころの深みから、
 
光とひとつになる、觀ることのうちに。
 
ならば、己れであることの被ひから廣がり渡る、
 
考へが空間の彼方へと。
 
そしておぼろげに結びつける、
 
人といふものをありありとした精神へと。

 
 
 
Wenn aus den Weltenweiten
Die Sonne spricht zum Menschensinn
Und Freude aus den Seelentiefen
Dem Licht sich eint im Schauen,
Dann ziehen aus der Selbstheit Hülle
Gedanken in die Raumesfernen
Und binden dumpf
Des Menschen Wesen an des Geistes Sein.
 
 
 
自分自身のこころが、光とひとつになり、喜びに溢れだす。
 
陽の光(外なる自然)と、こころの光(内なる自然)が、ひとつになる。
 
この春、わたしは、そんなおのれのありようを觀てゐる。
 
ものをぢつと見る。ものもぢつとわたしを見てゐる。
 
ものをぢつと、見つめるほどに、ものもわたしに応へようとでもしてくれるかのやうに、樣々な表情を見せてくれるやうになる。
 
そんな、わたしとものとの關係。
 
それは、意欲と意欲の交はりだ。
 
その交はりのなかからこそ、喜びが生まれる。
 
そして、喜びこそが、わたしのこころを空間の彼方へと擴げてくれる。
 
とかく、狹いところで右往左往しがちな、わたしの考へ。
 
だが、觀ることによつて生まれてくる喜びが、わたしによつて考へられる考へを、自分なりの考へ方、感じ方といふいつものおのれの被ひを越えて擴げてゆく。
 
それによつて、新しく、生まれ變はつたやうなこころもち。こころの甦り。わたしだけが行ふわたしだけの復活祭。
 
そして、ありありとした精神は、そこに。生活を新しく開く鍵は、まうすぐ、そこに。
 
しかし、まだ、しつかりとは、その精神とは結びつくことができない。ことばといふ精神が降りてくるまでには、聖靈降臨祭(復活祭の50日後、七週間後)を待つこと。
 
いまは、おぼろげに、結びつくことができるだけだ。そんなおのれのありようを觀てゐる。
 
 
 
世の廣がりから、
陽が人の感官に語りかけ、
そして喜びがこころの深みから、
光とひとつになる、觀ることのうちに。
ならば、己れであることの被ひから廣がり渡る、
考へが空間の彼方へと。
そしておぼろげに結びつける、
人といふものをありありとした精神へと。

  
 
※写真は、桜の花の下で酒に酔ひつつ。

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2017年04月08日

こころのこよみ(第52週)〜十字を生きる〜 (再掲)


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来週の日曜日に今年の復活祭が巡ってきますので、この日曜日からの週が『こころのこよみ』全52週の最終週になります。
 
眼といふものは、実は腕であり手なのです。
 
何かを觀るといふ行為は、実は手を伸ばしてその何かに触れる、もしくはその何かを摑むといふことなのです。そのやうな見えない腕、見えない手が人にはあるのです。何かをぢつと觀る、それはとても能動的な行為です。おほもとに、愛があるからこそ、する行為です。 
 
 
見れど飽かぬ吉野の河の常滑(とこなめ)の絶ゆることなくまた還り見む
柿本人麻呂 (萬葉集0037)

 
 
 
『こころのこよみ(第52週)〜十字を生きる〜』
 
こころの深みから
 
精神がみづからありありとした世へと向かひ、
 
美が空間の擴がりから溢れ出るとき、
 
天の彼方から流れ込む、
 
生きる力が人のからだへと。
 
そして、力強く働きながら、ひとつにする、
 
精神といふものと人であることを。

 
 
Wenn aus den Seelentiefen 
Der Geist sich wendet zu dem Weltensein 
Und Schönheit quillt aus Raumesweiten,
Dann zieht aus Himmelsfernen
Des Lebens Kraft in Menschenleiber
Und einet, machtvoll wirkend,
Des Geistes Wesen mit dem Menschensein.
 
 
ものをぢつと觀る。ものがありありとしてくるまで、ぢつと觀る。そのとき、こころの深みが動く。こころの力を振り絞つて、そのものとひとつにならうとするとき、わたしの精神とものの精神との交流が始まる。
 
そして、また、そのときに、方向で言へば、まさに上から、天から、そのつどそのつど、フレッシュな光、息吹き、啓けがやつてくる。
 
言語造形をしてゐるときも、同じだ。
 
みづから稽古してゐるとき、うまくいかなくても、それでも繰り返し、繰り返し、ことばがありありとしたものになるまで、美が立ち上がつてくるまで、ことばに取り組んでゐるうちに、また、他者のことばをこころの力を振り絞りながら聽いてゐるときに、「これだ!」といふ上からの啓けに見舞はれる。
 
そのたびごとに、わたしは、力をもらへる。喜びと安らかさと確かさをもつて生きる力だ。
 
精神である人は、みづからのこころとからだを使つて、ぢつと觀る。聽く。働く。美を追ひ求める。
 
そのとき、世の精神は、力強く、天から働きかけてくれる。
 
そして、精神と人とをひとつにしようとしてくれてゐる。
 
人と世が美を通して出會ひ(横の出會ひ)、人と天が生きる力を通して出會ひ(縱の出會ひ)、その横と縱の出會ひが十字でクロスするところで、『こころのこよみ』は、この第52週をもつて一年を終へる。
 
 
 
こころの深みから
精神がみづからありありとした世へと向かひ、
美が空間の擴がりから溢れ出るとき、
天の彼方から流れ込む、
生きる力が人のからだへと。
そして、力強く働きながら、ひとつにする、
精神といふものと人であることを。


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2015年09月29日

「こころのこよみ」pdf版 アップしました


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嬉しいことに、色々な所で、何人かの方が声をかけて下さって、
「ブログでの『こころのこよみ』の連載はどうなっているのか」と訊いて下さいます。

これまで三年続けて書き続けてきたのですが、ここでひとつまとまったかたちにしてみました。

『こころのこよみ』http://www.kotobanoie.net/data/koyomi.pdf
( pdf版です。ダウンロードして、見開きの仕様にしていただくと、読みやすくなります

今日9月29日は、ミヒャエルの祭りの日。

この日を機に、また新しく一年のこよみを、こころと重ね合わせながら詠んでいただき、メディテーションの糧にしていただければ幸いです。


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2015年08月12日

こころのこよみ(第19週) 〜繰り返される勤しみ〜 (再掲)



密(ひめ)やかさに満ちて新しく受けとめたものを

想い起こしつつ、包み込む。

それがわたしの勤しみの、さらなる意味となれ。

それは強められた己れの力を

わたしの内において目覚めさせ、

そして、だんだんとわたしをわたしみずからに与えていくだろう。




Geheimnisvoll das Neu-Empfang'ne             
Mit der Erinn'rung zu umschließen,            
Sei meines Strebens weitrer Sinn:             
Er soll erstarkend Eigenkräfte                
In meinem Innern wecken                  
Und werdend mich mir selber geben.  



先週の『こころのこよみ』にあった「世のきざしのことば」。

それは、まさに、密(ひめ)やかさに満ちて、内において、その人その人が、受け取るもの。

その「きざしのことば」は、
真夏の暑さの中で、
これまでの感じ方、考え方を、
拡げ、深め、壊してくれるようなもの。

そのような「きざしのことば」は、どの人にも、訪れていたのではないか。
それを聴こうとするならば、どの人の内においても、密やかながら、聴こえたのではないか。

もし、それを、この週、何度も何度も、意識の上に想い起こしつつ、
こころのまんなかに、置いてみるなら。

その「ことば」を何度もこころに包み込んでみるなら。

その繰り返される勤しみが、
その「ことば」と、<わたし>を、
だんだんと、
ひとつにしていく。    

「世のことば」が、「わたしのことば」になっていく。    

そんな、地味だけれども、繰り返しの行為こそが、
<わたし>の力を強めてくれる。

わたしのわたしたるところが、だんだんと、目覚めてくる。

今週の「こころのこよみ」に沿って練習すること。
それは、秋からの、新しい<わたし>への、備えとなるだろう。



密(ひめ)やかさに満ちて新しく受けとめたものを
想い起こしつつ、包み込む。
それがわたしの勤しみの、さらなる意味となれ。
それは強められた己れの力を
わたしの内において目覚めさせ、
そして、だんだんとわたしをわたしみずからに与えていくだろう。



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2015年08月03日

こころのこよみ(第18週) 〜新しい衣(ころも)〜 (再掲)


わたしはこころを拡げることができるのか、

受けとった世のきざしのことばを

己と結びつけつつ。

わたしは予感する、きっと力を見いだすことを。

こころをふさわしくかたちづくり、

精神の衣へと織りなすべく。



Kann ich die Seele weiten,                  
Daß sie sich selbst verbindet                 
Empfangnem Welten-Keimesworte ?           
Ich ahne, daß ich Kraft muß finden,           
Die Seele würdig zu gestalten,               
Zum Geisteskleide sich zu bilden. 



前の週の『こよみ』において、
世のことばが語りかけてきた。
「わたしの世のひろがりをもって、
あなたの精神の深みを満たしなさい」と。

夏の世の大いなるひろがり、
それに沿うことができたなら、
それは沿うた人に、
これまでの生き方、考え方、感じ方を越えるようなものを、
「贈りもの」として与えてくれる。

これを読んでくださっている皆さんには、
どのような「夏の贈りもの」が贈られただろうか。

その「贈り物」を受け入れる器。

その器が「こころ」であるならば、
わたしはみずからにあらためてこう問うことになる。

「わたしはこころを拡げることができるのか」

その問いに応えていくことが、
この夏から秋へと移っていく時期のテーマだと感じる。

新しい考え、価値観、ライフスタイル、人生観、世界観、
それらを「己と結びつけつつ」。

しかし、その結びつけは、きっと、外からの結びつけではなく、
内からおのずと生じてくる結びつきになるのではないだろうか。

夏という季節を精神的に生きる。
そのとき、外なる季節の移り変わりに応じるような、
内なる移り変わり、成熟へのおのずさがだんだんと身についてきているのを感じるかもしれない。

「わたしは予感する、きっと力を見いだすことを」

それは、
こころを拡げ、
こころを、精神から織られた衣(ころも)にする力。

衣(ころも)とは、万葉の昔から、
「恋衣」「旅衣」「染衣」のように、
深く、活き活きと、しみじみと息づく生活感情を言うことばとしてよく使われていたそうだ。
(白川静『字訓』より)

「ころも」も「こころ」も、
三つの o の母音から成り立つ、やまとことば。

それは、本来、
精神から凝(こご)るものとしての動き、
わたしたちのからだにまとうものとしての動きを、
音韻として顕わにしてはいないだろうか。

こころというものが、
精神というわたしのわたしたるところ・わたしの芯から、織りなされる。
そして、からだにまとう衣となって、
身のこなし、振る舞いのひとつひとつに顕れる。
しなやかに、柔らかく、輝きつつ。

そんな内なる力をきっと見いだす。

この夏から秋のはじめにかけてのテーマであり、
学び続けている人への励ましでもあるだろう。


わたしはこころを拡げることができるのか、
受けとった世のきざしのことばを
己と結びつけつつ。
わたしは予感する、きっと力を見いだすことを。
こころをふさわしくかたちづくり、
精神の衣へと織りなすべく。


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2015年07月26日

こころのこよみ(第17週) 〜閑さや岩にしみ入る蝉の声〜 (再掲)


世のことばが語る、

そのことばをわたしは感官の扉を通して

こころの基にまでたずさえることを許された。

「あなたの精神の深みを満たしなさい、

わたしの世のひろがりをもって。

いつかきっとあなたの内にわたしを見いだすために」



Es spricht das Weltenwort,          
Das ich durch Sinnestore                
In Seelengründe durfte führen:            
Erfülle deine Geistestiefen              
Mit meinen Weltenweiten,               
Zu finden einstens mich in dir.  



閑さや岩にしみ入る蝉の声  松尾芭蕉

「蝉の声」は耳に聞こえる。
時に、聴く人の全身を圧するように鳴り響く。

「閑さ」はどうだろうか。 
「閑さ」は、耳を傾けることによって、聞き耳を立てることによって、
初めて聴くことができるものではないだろうか。

「閑さ」とは、本来、耳という感官を超えた「感官」によって受け止められるものではないだろうか。

芭蕉は、「蝉の声」を通して「閑さ」を聴いたのだろうか。
「閑さ」を通してあらためて「蝉の声」が聞こえてきたのだろうか。

そして、芭蕉は、「蝉の声」の向こうに、「閑さ」の向こうに、何を聴いたのだろうか。

芭蕉は、旅しながらメディテーションをする中で、
そのふたつの聴覚の重なりの向こうに、
己が全身全霊で何かを受けとめるありさまを「おくのほそ道」に記した。

それは、芭蕉によるひとつの精神のドキュメントであり、
心象スケッチであり、
春から秋にかけての「こころのこよみ」であった。


この週の『こころのこよみ』に、
「世のことばが語る」とある。
わたしもことばを語る。
しかし、世がことばを語るとはどういうことだろうか。
「世のことば」が語るとはどういうことだろうか。

その「ことば」は、この肉の耳には聞こえないものである。
耳という感官を超えた「感官」によって受け止められるものである。
メディテーションを通して、
「こころの基にまでたずさえることを許された」ことばである。


    人が人というものの中心をいよいよ人の内へと移す。
   人が安らかさの一時(ひととき)に内において語りかけてくる声に耳を傾ける。
   人が内において精神の世とのつきあいを培う。
   人が日々のものごとから遠のいている。
   日々のざわめきが、その人にとっては止んでいる。
   その人の周りが静かになっている。
   その人がその人の周りにあるすべてを遠のける。
   その人が、また、そのような外の印象を想い起こさせるところをも遠のける。
   内において安らかに見遣るありよう、紛れのない精神の世との語らいが、
   その人のこころのまるごとを満たす。
   (中略)
   静けさからその人への語りかけがはじまる。
   それまでは、その人の耳を通して響きくるのみであったが、いまや、
   その人のこころを通して響きくる。
   内なる言語が ―内なることばが― その人に開けている。

        (『いかにして人が高い世を知るにいたるか』「内なる安らかさ」の章より)


この夏の季節にメディテーションをする中で、
精神の世が語りかけてくることば。

    あなたの精神の深みを満たしなさい、
   わたしの世のひろがりをもって。
   いつかきっとあなたの内にわたしを見いだすために。


この「いつか」とは、クリスマスの頃であろう。
この週の対のこよみが、第36週である。
http://kotobanoie.seesaa.net/article/410652960.html
そこでは、「世のことば」キリストが、
人のこころの深みにおいて密やかに語る。

芭蕉は、俳諧ということばの芸術を通して、四季の巡りと共に深まりゆくこころの巡りを詠った人である。

彼はいまも、夏の蝉の声という生命が漲り溢れている響きの向こうに、静けさを聴き取り、
その静けさの向こうに、「世のことば」を聴いているのではないか。



世のことばが語る、
そのことばをわたしは感官の扉を通して
こころの基にまでたずさえることを許された。
「あなたの精神の深みを満たしなさい、
わたしの世のひろがりをもって。
いつかきっとあなたの内にわたしを見いだすために」




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2015年07月23日

こころのこよみ(第16週) 〜黙ることのアクティビティー〜 (再掲)


精神からの贈りものを内に秘めよと、

我が予感がわたしに厳しく求める。

それによって、神の恵みが熟し、

こころの基にて、豊かに、

己であることの実りがもたらされる。




Zu bergen Geistgeschenk im Innern,   
Gebietet strenge mir mein Ahnen,               
Daß reifend Gottesgaben                     
In Seelengründen fruchtend                   
Der Selbstheit Früchte bringen.  



ことばを話すこと以上によりこころのアクティビティーを使うのは、黙ること。
沈黙を生きることを大切にすることによって生がだんだんと深まっていく。

この沈黙とは、
こころが滞っているがゆえではなくて、
アクティブにこころを慎むところから生まれる沈黙である。

話すことをやめるのではない。
ことばと、
そのことばを話そうとしている己と、
そのことばを聴こうとしている人を、
大切にしたいからこそ、
ことばを迎え、ことばを選び、ことばを運ぶのである。

ことば。
ことばを話す人。
ことばを聴く人。

その三者の間に世の秘密が隠れていて、
そこにこそ、精神からの贈りもの(神の恵み)が降りてくる。
そこにこそ、豊かさと貧しさの根源がある。 


精神からの贈りものを内に秘めよと、
我が予感がわたしに厳しく求める。
それによって、神の恵みが熟し、
こころの基にて、豊かに、
己であることの実りがもたらされる。


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2015年07月11日

こころのこよみ(第15週) 〜子どものように生きる〜


わたしは感じる、

まるで、世の輝きの中に、精神が魔法にかけられて織り込まれているようだ。

それはぼんやりとした感官において、

わたしのわたしなりであるところを包む。

わたしに力を贈るべく、

その力を力無き己れに授けるのは、

囲いの中にある、わたしの<わたし>。




Ich fühle wie verzaubert          
Im Weltenschein des Geistes Weben.    
Es hat in Sinnesdumpfheit        
Gehüllt mein Eigenwesen,        
Zu schenken mir die Kraft,        
Die, ohnmächtig sich selbst zu geben,   
Mein Ich in seinen Schranken ist.     



子どもの頃と違って、
若者である頃と違って、
わたしたちは歳をとるにしたがって、
自分自身というもの、
わたしの意識というもの、
自意識というものを、
大事にするようになるので、
夏になると、
それらが魔法にかかったように包まれ、力無く眠りこまされているような感覚に陥り、
困惑してしまう。

わたしのわたしたるところ、わたしの<わたし>が、
囲いの中にあるようだ。

しかし、こうしたありようが、
この季節特有の、かりそめのものだということを知っているならば、
わたしたちは困惑から抜け出ることができる。

このぼんやりとしたありよう、焦点が絞られていないありよう、
それは、大きく広がりをもった意識であるからこそ、そのようなありようなのだ。

そして、この意識の大きさ、拡がりからこそ、力が授けられようとしている。

だから、ぼんやりとした感官のありようを、思う存分、生きればいいのではないか。

夏のこの季節、
頭ではなく、手足を使うことで、大いなる世と繋がることに勤しむこと。
ある意味、子どものように生きること。
そうすることで、ぼんやりとしたありようではあるが、人は大いなる世から力を授かる。

たたとえ、いま、その力の贈り手であるわたしの<わたし>が、
魔法にかけられ、囲いの中にあるとしても、
そのように手足をもって生きることが、
来たる秋から冬に向けての備えとなる。
 
わたしの<わたし>が力に満ちたものになりゆく、秋から冬への。



わたしは感じる、
まるで、世の輝きの中に、精神が魔法にかけられて織り込まれているようだ。
それはぼんやりとした感官において、
わたしのわたしなりであるところを包む。
わたしに力を贈るべく、
その力を力無き己れに授けるのは、
囲いの中にある、わたしの<わたし>。



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2015年07月06日

こころのこよみ(第14週) 〜「世の考える」に任せてみる〜 (再掲)


感官の啓けに沿いつつ、

わたしはみずからを駆り立てるものを失った。

夢のような考え、それは輝いた、

己を奪い去るかのようにわたしを眠らせながら。

しかし、すでに目覚めさせつつわたしに迫っている、

感官の輝きの中に、世の考えるが。




An Sinnesoffenbarung hingegeben  
Verlor ich Eigenwesens Trieb,             
Gedankentraum, er schien                
Betäubend mir das Selbst zu rauben,         
Doch weckend nahet schon                
Im Sinnenschein mir Weltendenken. 



この季節、考える力が、本当に鈍ってくる。

「考える力」こそが、人を本来的に駆り立てる力なのに、
その力が失われているのを感じる。

夏の美しさが目や耳などを支配して、
美をたっぷりと味わうこともできる反面、
その情報量の多さに混乱してしまう危険性があるのも、この季節の特徴かもしれない。

内なる統一を与える「わたしの考える力」が失われて、
そのかわりに、もの想いに支配される時間が増えている。

その「もの想い(夢のような考え)」とは、
ものごとや人に沿って考えることではなくて、
ものごとや人について、手前勝手に想像してしまったり、
その想像にこころが支配されてしまって、その想いの中で行ったり来たりを繰り返すありようだ。

もの想いは、めくるめくようにわたしのこころの中を巡り、輝きわたり、
「己を奪い去るかのようにわたしを眠らせる」。

本当に自分の考えたいことを考えることで、人は目覚めることができる。
けれども、もの想いにふけることで、
人は夢を見ているような、あるいは、眠り込むようなありように陥ってしまう。

そんなありようを、どう受け止めたらいいだろう。

「人が考える」よりも、
「わたしが考える」よりも、
「世が考える」、そのことに己れを任せてみないか。

世は、
まごうことなく、
秩序と法則に従って時を生きている。

そして自分は、
すでにいるべき場所にいて、
すでに出会うべき人に出会っており、
すでにするべきことに向かっており、
すでに生きるべき人生を生きている。

そう、見直してみないか。

「わたしが考える」ことの力が失われてしまった、この時期だからこそ、
その「世の考える」「(恣意を挟まず)おのずからまぎれなく考える」に任せてみる。

夏のこの時期における、そのこころのモードチェンジは、
自分自身を統一する考える力がいったんは眠ってしまい、見失われたからこそ、
来たる秋から冬にかけて新しく鮮やかに自分自身で考える力が目覚めることへと、
わたしたちを導いてくれるだろう。



「見る」をもっと深めていくことを通して、
からだをもっと動かしていくことを通して、
感官を通して、だんだんと輝きが見えてくる。

頭であれこれ考えるよりも、
手足を動かすことを通して、手足で考える。
 
その手足の動きこそが、「世の考える」との親和性は高い。 
 
それは感官を超えたものを見いだし、感じ始めることでもあり、
理屈抜きで、この世のものというもの、ことということをなりたたせている基のところを垣間見ることでもある。
 
密やかなところを見いだせば見いだすほどに、
また顕わなところも、よりくっきり、はっきりと見えてくる。
 
そして、その見えてくるところが、ものを言い出す。
 
夏ならではのこころの練習として、
ものがものを言い出すまで、
からだを使ってみよう。
そして、からだをもって「見る」に徹してみよう。
 
その「動く」「見る」から聴きだされることば、伝えられる考え、
それらは、こころに直接響いてくる。
小賢しく考える必要がなく、
それらのことばと考えが、こころに直接「訪れる」。
 
その訪れるものを「世の考える」と、ここでは言っている。
 
 
この『こよみ』を追っていると、
まるで「いまの自分の生活、こころ模様そのものを記しているじゃないか」と感じることがよくある。
 
もの想いから抜け出す道を、わたしも、いま、探りつつ、汗を流して稽古をしつつ、歩いている。




感官の啓けに沿いつつ、
わたしはみずからを駆り立てるものを失った。
夢のような考え、それは輝いた、
己を奪い去るかのようにわたしを眠らせながら。
しかし、すでに目覚めさせつつわたしに迫っている、
感官の輝きの中に、世の考えるが。




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2015年06月28日

こころのこよみ(第13週) 〜金色の輝きの中、歌い、踊る〜


そして、我あり、感官の高みに。

ならば、燃え上がる、我がこころの深みにおいて、

精神の火の世から、

神々のまことのことばが。

「精神の基にて、予感しつつ、探し求めよ、

あなたを精神の縁とともに見いだすべく」



Und bin ich in den Sinneshöhen,             
So flammt in meinen Seelentiefen            
Aus Geistes Feuerwelten                  
Der Götter Wahrheitswort:                 
In Geistesgründen suche ahnend     
Dich geistverwandt zu finden.



これから始まる夏、
草木の緑、色とりどりの花々、空の青、太陽の光と熱、
活き活きと働いているその自然のいちいちから、
客観的な精神が人に語りかけてくる。

一行目の「我あり、感官の高みに」とは、
ものというもの、そのいちいちを、
じっくりと見、聴き、触れ、味わうことを通して、
普段見過ごし、聞き過ごしているものが、
よりものものしく、より明らかに、より動きを伴って、
見えてくる、聴こえてくるということと通じている。

感官の高み。
それは、こころの、細やかな、密やかな深まりとして、育まれるもの。

自然のいちいちに静かに眼差しを向け、その息遣いに耳を傾けてみよう。

その密やかさのうちに、
ことばが燃え上がるように響いてくる。

こころの深みにおいて、精神の火の世から、神々のまことのことばが。

「精神の基にて、予感しつつ、探し求めよ、
あなたを精神の縁とともに見いだすべく」


1922年ドルナッハでの講演録『四季の宇宙的イマジネーション』(水声社)を紐解いてみると、
夏に、そのような我がこころの深みに燃え上がることばのなんたるかが、
誰によって話されているかが、
シュタイナーによって指して説かれているのを読むことができる。

まことのことばを燃えるように人間に語りかけている神々。

客観的な精神。
 
その外なる精神は、この季節、金色に輝いている。

わたしたち人に燃え立つ炎のように語りかけている金色の精神。

この夏の外なる精神の方々が発する金色の輝きを浴びるわたしたちは、
冬、クリスマスの頃、みずからのこころの奥底、精神の基に、
内なる金色を輝かせることができよう。

来たる冬に、精神に縁のある、金色に輝く己自身をしっかりと見いだすことができよう。

夏のいまは、外なる金色の光に応じるように、
眼差しを注ぎ、耳を傾け、
さらには、踊り、歌を歌いながら音楽と詩を奏でることで、
冬に見いだすものを予感しつつ、探し求めるのだ。


そして、我あり、感官の高みに。
ならば、燃え上がる、我がこころの深みにおいて、
精神の火の世から、
神々のまことのことばが。
「精神の基にて、予感しつつ、探し求めよ、
あなたを精神の縁とともに見いだすべく」


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2015年06月21日

こころのこよみ(第12週) ヨハネ祭の調べ 〜子どもたちの歌声〜 (再掲)


世の美しい輝き、

それは、わたしをこころの深みから切に誘う、

内に生きる神々の力を

世の彼方へと解き放つようにと。

わたしは己から離れ、

信じつつ、ただみずからを探し求める、

世の光と世の熱の中に。



Johanni-Stimmung
Der Welten Schönheitsglanz,                   
Er zwinget mich aus Seelentiefen              
Des Eigenlebens Götterkräfte               
Zum Weltenfluge zu entbinden;            
Mich selber zu verlassen,            
Vertrauend nur mich suchend           
In Weltenlicht und Weltenwärme.        


今週のこよみには「ヨハネ祭の調べ」という副題がついている。

キリスト教が生まれる以前、古代諸宗教においては、
夏至を一年の頂点とするお祭りが熱狂的に行われていた。

人というものを導く神は、太陽におられる。

その信仰が人びとの生活を支えていた。

太陽が最も高いところに位置するこの時期に、
太陽におられる神に向かって、
人々は我を忘れて、
祈祷をし、捧げものをし、踊り、歌いながら、
その祭りを執り行っていた。

洗礼者ヨハネは、
その古代的宗教・古代的世界観から、
まったく新しい宗教・新しい世界観へと、
橋渡しをした人であった。

彼は、夏に生まれたというだけでなく、
いにしえの宗教における夏の熱狂を取り戻すべく、
まさしく、炎のような情熱をもって、
ヨルダン川のほとりにおいて、
全国から集まってくる人々に水をもって洗礼を授けていた。

しかし、彼は、これまでは太陽にあられた神が、
もうすぐこの地上に降りてこられることを知っていた。 

  「汝ら、悔い改めよ、天の国は近づけり」 (マタイ3.2)

そして、みずからの役目がそこで終わることをも知っていた。

  「わが後に来たる者は我に勝(まさ)れり、
  我よりさきにありし故なり」 (ヨハネ1.15)

  「我は水にて汝らに洗礼を施す、
  されど我よりも力ある者きたらん、
  我はそのくつの紐を解くにも足らず。
  彼は聖霊と火とにて汝らに洗礼を施さん」 (ルカ3.16)

  「彼は必ず盛んになり、我は衰ふべし」 (ヨハネ3.30)

ヨハネはイエスに洗礼を授け、
イエスのこころとからだに、
太陽の精神であるキリストが降り来たった。

それは、太陽の精神が、その高みから降りて、
地という深みへと降りたということであり、
ひとりひとりの人の内へと降り、
ひとりひとりの人の内において活き活きと働き始める、
その大いなる始まりでもあった。

「内に生きる神々しい力」とは、
人の内にこそ生きようとしている、
キリストのこころざし(Christ Impuls)。

ヨハネがそのことに仕え、みずからを恣意なく捧げたことが、
四つの新約の文章から熱く伝わってくる。

そのときからずっと、キリストは、この地球にあられる。

そのことをわたしたちは実感できるだろうか。

しかし、シュタイナーは、その実感のためには、
ひとりひとりの人からのアクティビティーが要ると言っている。

みずからの内において、
キリストがあられるのを感じることは、
おのずからは生じない。

人が世に生きるにおいて、
みずからを自覚し、自律し、自立させ、自由に己から求めない限りは、
その実感は生まれ得ない。

ヨハネ祭は、もはや、古代の夏至祭りではなく、
熱狂的に、我を忘れて祝うものではなく、
意識的に、我に目覚めて、キリストを探し求める祝い。

それは、この世を離れるのではなく、
この世を踏まえつつ、羽ばたくという、
わたしたち現代に意識的に生きる人という人の求めることでもある。

この夏の季節、
キリストは息を吐くかのように、
みずからのからだである地球から離れ、
世の彼方にまで拡がっていこうとしている。

わたしたち人も、
キリストのそのような動き・呼吸に沿うならば、
己から離れ、
己のからだとこころを越えて、
精神である「みずから」を見いだすことができる。

生活の中で、
わたしたちはそのことをどう理解していくことができるだろうか。

からだを使って働き、
汗を流し、
学び、
歌い、
遊ぶ、
それらの動きの中でこそ、
からだを一杯使うことによってこそ、
からだから離れることができ、
こころを一杯使うことによってこそ、
こころから離れることができ、
「世の光と世の熱の中に」みずからという精神を見いだすことができる。

そして、この夏において、
意識的に、子どもに、習うこと。

いまも、子どもたちは、わたしの目の前で、笹の葉にたんざくを吊るしながら、
けらけら笑い、歌い、踊っている。

ヨハネ祭のとき。
古代の人々は、鳥たちが歌うことから学びつつ、
その歌声を人間的に洗練させて音楽と詩を奏で、歌い、踊ったという。

鳥たちの声の響きは、大いなる世の彼方にまで響き渡り、
そしてその響きに応じて天から地球に精神豊かなこだまのようなものが下ってくる。

このヨハネ祭の季節に、
人は、鳥たちに学びつつ、歌い、踊ることによって、
己から離れ、
いまだ天に見守られている<わたし>を当時の夢のような意識の中に見いだすことができた。

いまも、
子どもたちは、幾分、古代の人たちの夢のような意識のありようを生きている。

そんな夏の子どもたちの笑い声と歌声をさえぎりたくない。
その響きはいまも彼方の世にまで届くのだから。

そして、わたしたちが己から離れ、
大いなる世、コスモスをより精神的に理解するほどに、
子どもたちの歌声に対するエコーのように、
ひとりひとりの<わたし>、「神々しい力」が、
天に見守られているのを見いだし、響き返してくれているのを聴き取ることができ、
この世の様々な状況に対応していく道を見いだしていくことができるのではないか。

言語造形をしていても、そう、実感している。

夏至の頃に、キリストは世の高みと拡がりに至ることによって、
毎年繰り返して、高揚感を覚えていると言う。

ヨハネ祭の調べ。

それは、ひとりひとりが外の世に働きかけることによって、
意識的に、目覚めつつ、みずからを高めつつ、
みずからという精神を見いだすこと。

そこから、地上的なキリスト教ではなく、
夏に拡がりゆくキリストの高揚を通して、
より大いなる世のキリストを見いだしていくこと。

そのことがキリスト以降、
改められた夏の祭りとしての、
ヨハネ祭の調べだと感じる。


世の美しい輝き、
それは、わたしをこころの深みから切に誘う、
内に生きる神々の力を
世の彼方へと解き放つようにと。
わたしは己から離れ、
信じつつ、ただみずからを探し求める、
世の光と世の熱の中に。



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2015年06月13日

こころのこよみ(第11週) 〜白日の下の美しさ〜 (再掲)


この太陽の時の中で、

あなたは、賢き知を得る。

世の美しさに沿いつつ、

あなたの内にいきいきとあなたを感じ切る。

<人のわたし>は、みずからを失い、

そして、<世のわたし>の内に、みずからを見いだすことができる。



Es ist in dieser Sonnenstunde   
An dir, die weise Kunde zu erkennen:      
An Weltenschönheit hingegeben,       
In dir dich fühlend zu durchleben:       
Verlieren kann das Menschen-Ich        
Und finden sich im Welten-Ich.        



世の美しさ」とは、決して表側だけの美しさを言っているのではないだろう。
この太陽の時の中で」は、
美しさも醜さも、素晴らしさも馬鹿馬鹿しさも、すべてが白日の下に晒される。
それらすべてが白日の下に晒され、光が当てられるからこそ、「世の美しさ」なのだ。

その晒されたものがなんであれ、
人はそれを経験し、生きなければならない。
そのような、のっぴきならないものが「世の美しさ」として感じられるだろうか。
そして、それに沿うことができるだろうか。

どんな単純なものごとであれ、複雑なものごとであれ、
どんな素晴らしいこと、酷いことであれ、
わたしたちは、そのものごと、できごとを見くびらずに、
その深みを見てとることができるだろうか。

ものごとは、なんであれ、
付き合い続けて、沿い続けて、
初めて、密やかに、その深さを打ち明け始める。

子どもの立てている寝息や家族の笑顔。
草木や花々の健気ないのちの営み。
日々つきあっている者同士の関係、愛、いさかい、葛藤。
毎日移り変わっていく世の動向。
人びとの集団的意識の移り行き。

それらひとつひとつが、その深みを顕してくれるのは、
はやばやと見くびってしまわずに、
こころをこめてそれに向き合い続け、沿い続けるときだ。

そして、ものごとに沿うという行為の、
肝心要(かなめ)は、
ものごとと<わたし>との関係において、
何が過ぎ去らず、留まるものなのか、
いったい何が本質的なことなのか、という問いをもつこと。

それが精神を通わせつつものごとに沿うことの糸口になる。
からだをもって振る舞い、こころから行為していくことの糸口になる。

その時、
捨てようとしなくても、
人は狭く小さなわたしを捨てることができるかもしれない。
 
そして、より広やかで深みをもった<世のわたし>の内に、
賢き知」と、
他の誰のでもない、
自分自身のこころざしが、
立ち上がってきはしないか。



この太陽の時の中で、
あなたは、賢き知を得る。
世の美しさに沿いつつ、
あなたの内にいきいきとあなたを感じ切る。
<人のわたし>は、みずからを失い、
そして、<世のわたし>の内に、みずからを見いだすことができる。



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