[こころのこよみ(魂の暦)]の記事一覧

2020年09月13日

こころのこよみ(第23週) 〜霧のとばり〜



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秋めいて、和らぐ、

感官へのそそり。

光の顕れの中に混じる、

ぼんやりとした霧のとばり。

わたしは空間の拡がりの中で観る、

秋、そして冬の眠り。

夏はわたしに、

みづからを捧げてくれた。



Es dämpfet herbstlich sich            
Der Sinne Reizesstreben;            
In Lichtesoffenbarung mischen          
Der Nebel dumpfe Schleier sich.         
Ich selber schau in Raumesweiten         
Des Herbstes Winterschlaf.           
Der Sommer hat an mich            
Sich selber hingegeben.       



ゆつくりと和らいでくる陽の光。

 
それとともに、感官へのそそりも和らいでくる。


そして、秋が日一日と深まりゆくにつれて、
過ぎ去つた夏と、
これからやつてくる冬とのあひだに、
立ちかかるかのやうな、霧のとばり、「秋霧」。


その「とばり」によつて、
戸の向かう側とこちら側に
わたしたちは改めてこころを向けることができる。


戸の向かう側において、
過ぎ去つた夏における世の大いなる働きの残照を
わたしたちは憶ひ起こす。


夏における外なる世の輝き。


そして夏における内なるこころの闇。


その外と内のありやうを憶ひ起こす。


そして、戸のこちら側において、
だんだんと深まつてくる秋における生命の衰へと、
来たるべき冬における生命の死とを、
わたしたちは予感する。


これからの冬における外なる世の闇。


そしてクリスマスに向かふ内なるこころの輝き。


その外と内のありやうを予感する。


夏を憶ひ起こすことと、冬を予感すること。


こころのアクティブな働きをもつて、
その間に、わたしたちは、いま、立つことができる。


さうすることで、きつと、
こころが和らげられ、静かでありながらも、
意欲を滾らせてゆくことができる。



 
秋めいて、和らぐ、
感官へのそそり。
光の顕れの中に混じる、
ぼんやりとした霧のとばり。
わたしは空間の拡がりの中で観る、
秋、そして冬の眠り。
夏はわたしに、
みづからを捧げてくれた。



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2020年09月06日

こころのこよみ(第22週) 〜深まりゆく感謝の念ひ〜



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世の拡がりから来る光が、
 
内において力強く生き続ける。
 
それはこころの光となり、
 
そして、精神の深みにおいて輝く。
 
稔りをもたらすべく、
 
世の己れから生まれる人の己れが、
 
時の流れに沿つて熟していく。
 
       
 

Das Licht aus Weltenweiten,
Im Innern lebt es kräftig fort:          
Es wird zum Seelenlichte            
Und leuchtet in die Geistestiefen,        
Um Früchte zu entbinden,            
Die Menschenselbst aus Weltenselbst       
Im Zeitenlaufe reifen lassen.    
 
 
 
 
鈴木一博氏が「こころのこよみ」の解説されてゐて、
この週のこよみにこのやうな文章を記してをられる。


そもそもひとつであるところが、
外にあつて「光」と呼ばれ、
内にあつて「意識」と呼ばれる。
内と外はひとつの対であり、
リアルなところは、内と外のあはひにある。
ゲーテのことばにかうある。
「なにひとつ内にあらず、
 なにひとつ外にあらず /
 そも、内にあるは外にあるなり」
(Nichits ist drinnen,nichits ist draußen;/ 
 Denn was innen,das ist außen.「Epirrhema」)


夏の間、外に輝いてゐた陽の光が、
いつしか、こころの光になつてゐる。
 

そのこころの光は、萌しであり、
これから、だんだんと、長けゆく。
 

そのこころの光は、感謝の念ひであり、
だんだんと深まり、秋から来たるべき冬に向けて、
だんだんと、熟してゆく。
 

その成熟は、
冬のさなかに訪れる新しい年の精神の誕生を
我がこころに迎へるための、なんらかの備へになる。
 

それは、太陽の輝きの甦りに向けての備へである。
 

むかし、我が国では、そもそも、
その冬至の頃(旧暦の十一月の終わり頃)に、
新嘗祭(にいなへのまつり)を毎年行つて来た。
 

一年の米の収穫には、いい年もあれば、悪い年もある。
 

しかし、どんな年であれ、
米(むかしは米のことを「とし」と言つた)を
授けて下さつた神に対する感謝の念ひを育みつつ、
日本人は生きて来た。
 

この感謝の念ひが、
秋から冬への移り行きの中に生まれる
寂しさ、孤独、侘しさといつた情を凌ぐ、
静かな元手となつてゐた。

 
それが、また、こころの光であつた。
 
 
 
西の国々では、
冬至の直後にイエス・キリストの誕生を祝ふクリスマスがある。
 

そして、キリストの誕生とは、
「ひとり生みの子ども」
「神の子」
「ひとりであることのもたらし手」
「世の己れから生まれる人の己れ」の誕生であつた。
 

西洋では、
一年の稔りへの感謝の念ひを年の終はりにすることに代はつて、
キリストの誕生を寿いだのだ。
 

それは、「ひとりであること」の稔りであつた。
 

その「ひとりであること」の自覚の光が、
秋から冬に向けて熟して行く。
 
 
憂きわれをさびしがらせよ閑古鳥   芭蕉
 
 
人は、
「ひとりであることの自覚」から生まれる
寂しさといふ情にまで徹してみることで、
鬱々としたもの思ひを突き抜けることができる。
そして、この「ひとりであること」の自覚の上にこそ、
キリストは寄り添つてくださるのかもしれない。
 

そして、「ひとりであること」の自覚を持つ
ひとりの人とひとりの人が出会ふところにこそ、
精神は息づく。
 

他を否むところからではなく、
他に感謝することからこそ、
人のうちに己れが生まれる。


他に感謝するとは、
ひとりの人としてのわたしが、
世の己れを世の己れとして
しつかりと認めることであり、
その他の己れを認める力が、
わたしの己れをひとり立ちさせるのだ。


芭蕉は、また、
この「閑古鳥」も「ひとり」であることを認め、
ひとりであるもの同志として、
その閑古鳥との精神の交流、
閑古鳥への感謝をも感じてゐる。
 
 

 
世の拡がりから来る光が、 
内において力強く生き続ける。 
それはこころの光となり、 
そして、精神の深みにおいて輝く。 
稔りをもたらすべく、 
世の己れから生まれる人の己れが、 
時の流れに沿つて熟していく。



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2020年09月01日

こころのこよみ(第21週) 〜問ひを立てる力〜



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.
.
わたしはこれまでにない稔りの力を感じる。
.
その力はしつかりとわたしにわたしみづからを与へてくれる。
.
わたしは感覚する、萌しが熟し、
.
そして予感が光に満ちて織りなされるのを。
.
内において、己れの力として。
.
.
. 
Ich fühle fruchtend fremde Macht      
Sich stärkend mir mich selbst verleihn,    
Den Keim empfind ich reifend        
Und Ahnung lichtvoll weben         
Im Innern an der Selbstheit Macht.     
.
.
.
「これまでにない稔りの力」とは。
.
.
それは、夏、こころにおいて稼がれた、
新しい感じ方、考へ方、ものの捉へ方を、
その後何度も繰り返し自分自身に引き続き、
問ふて、問ふて、問ひ続けることから生まれる力のことである。
.
.
夏は、
豊かな自然の輝きが
人に語りかけてくるときであつたし、
人と人とが出会ひ、交はる季節だつた。
.
.
しかし、そのやうに外の世が輝いてゐるとき、
人と人とが交はる、そんなときこそ、
みづからが孤独であることに
思はず出くはしてしまふこともあるのではないだらうか。
.
.
みづからが孤独であることに出くはして、
初めて人は孤独であることの意味を
見いださうと葛藤し始める。
.
.
そして葛藤するといふことは、
「わたしは、いつたい、どのやうに生きていきたいのか」
といふ問ひをみづからに問ふといふことでもある。
.
.
みづからに問ひ続ける。
そして答へを探し求める。
.
.
その自問自答の繰り返しが、何を育てるか。
.
.
己れみづからに問ひを立てる力を育てるのだ。
.
.
その「問ひを立てる力」が、
「わたしみづからの力」「己れの力」としての
「稔りの力」をわたしにもたらしてくれる。
.
.
ふさはしく問ひを立てることこそが、
手前勝手な答へを作りだして
満足することへと自分を導くのではなく、
精神といふ高い次元に耳を澄ませる力になりゆくからだ。
.
.
その力は、己れが生まれ変はることへの予感を、
ゆつくりと、こころの内に光に満ちて織りなしていく。
.
.
それは、
秋といふ季節ならではのこころの織りなしである。
.
.
そのやうにして、
秋とは内なる意識が明るんでいく季節だ。
.
.
意識が明るむ、
とは何とありがたく、幸ひなことだらう。
.
.
.
.
わたしはこれまでにない稔りの力を感じる。 
その力はしつかりとわたしにわたしみづからを与へてくれる。
わたしは感覚する、萌しが熟し、 
そして予感が光に満ちて織りなされるのを。 
内において、己れの力として。
.
.
.

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2020年08月27日

「こころのこよみ」とともに生きる B



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シュタイナーによる、
この『Anthroposophischer Seelenkalender』を、
本当に拙いながらも『こころのこよみ』として、
日本語に訳し、
声に出しながら、時にこころの深みに沈めながら、
一文一文、一語一語、一音一音、
味はひつつ一年を辿つてゐる。


こよみとは、
「事(こと)をよむ」ことであり、
「言(ことば)をよむ」ことであり、
「心(こころ)をよむ」こと。


『こよみ』に刻み付けられてゐることばを通して、
自然のリズム、「年といふもののいのち」を
共に感じ、生きる。

 
その芸術的であり、瞑想的でもある行為を
生活に根付かせていくことで、
だんだんとこころにハーモニーが育ち、
健やかさと安らかさと確かさを実感できるやうになつてくる。
.
. 
それは、やはりありがたいことだ。


そして、その毎日の行為は、
頭で考へるこれまでのありやうから、
心臓で考へる新しいありやうへと、
みづからを育て上げていく道でもある。


頭でなく、心臓で考へるのだ!
血の暖かさに満ちた、
情のたつぷりと通ふ考へを人は持つやうになる。


そして、わたしは、
この地球の上にひとりの人として立つ。


『こころのこよみ』の発刊が、
アントロポゾフィー協会の創設と時を同じくしてゐること。
(1913年)


またその十年後に、
『四つの世のイマジネーションにより四季を共に生きる』
といふ講演がなされ、
一年の巡りを意識的に生きることで、
精神の善き位にある方々を意識し、
その方々と共に働いていくことが、
本当に大事なことなのだ、
さうシュタイナーが訴へたのは、
新しい普遍アントロポゾフィー協会の創設(1923年)に向けてのことだつた。


「年のいのちを生きる」といふことと、
アントロポゾフィー協会の創設といふこととが、
時を同じくしてゐること、
それは偶然ではない。
(ヨハネス・キュール氏による2006年度、
 普遍アントロポゾフィー協会の年次テーマより)


いま、時代の要請から、
目に見える外的な行為を
ひとりひとりが己れの分に応じてなしていく必要があるのは
言を俟たない。


しかし、わたしは、まづは、
アントロポゾフィーが示唆してくれてゐる、
地球と共に感じ、大いなる世とともに心臓で考へる、
精神の世の方々との共同作業を育んでいく、
そのやうな内なる道を真摯に捉へ、
その内なる練習を生活の中でしていくことの重要性を念ふ。


内(目にみえないところ)こそが変へられる。
そこからこそ、
外(目に見えるところ)が変はつていく。


その確かな道を、示してゐるのが、
アントロポゾフィーだ。


わたしたち日本人は、
昔からのことばの芸術、
和歌や俳句などを通して、
ことばの美を通して、
四季の巡りを生きるこころの感覚を、
年のいのちを生きる精神の感覚を、
ひたすらに培つてきた民族。


この感覚をこれからは、
意識的に培ひ始めていかう。


(終はり)


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「こころのこよみ」とともに生きる A



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昔の人は、
四季の移りゆきに沿つた暮らしを
無意識の内にも営んでゐた。
.
.
地球の大きな呼吸に合はせるかのやうに、
季節を生きてゐた。
.
. 
春から夏にかけて、
こころを外の世に向かつて解き放ち、
秋から冬にかけては、
自分自身に向き合つてゐた。
. 
. 
現代に生きるわたしたちは、
季節に関はりなく、一年を通して、
快適に暮らすことができるやうになり、
昔とは比べやうもないほどの快適さ、
便利さを享受してゐる。
.
. 
しかし、その代償として、
昔の人が営んでゐたやうな、
自然に沿ふ生き方を失つてしまひ、
大いなる世の移り行きと、
みづからのこころの移り行きとの間に、
ハーモニーを見いだせなくなつてしまつた。
.
. 
自然と人とがバラバラになつてしまつた。
.
.
人のこころは、安らかでなくなつてしまつた。
.
.
恐れ、不安、不信、
穏やかならざるものに苛まれがちになつてしまつた。
.
. 
わたしたちは、いま一度、
自然とのハーモニーを取り戻せるだらうか。
. 
. 
春から夏にかけて、
よおくものを見るのだ。
よおく耳を澄ますのだ。
よおく動いて、働いて、汗を流すのだ。
.
.
意識的に感官(目や耳など)をより活き活きと働かせて、
覚えといふ覚えに沿ふこと。
意識的に外の世とひとつにならうとすること。
意識的に外の光とひとつにならうとすること。
.
. 
秋から冬にかけては、
ひとりきりになる。
.
.
意欲的にひとりで考へることで、
意識的に孤独の内側へと入つていく。
意識的に内の光とひとつにならうとすること。
.
. 
四季の巡りとして現れる地球の大きな呼吸プロセス。
.
.
自分自身のこころにおける精神の呼吸。
.
.
光を呼吸する。
.
.
地球と自分とのハーモニー。
.
. 
その練習の重なりが、
シュタイナーがいふ「年といふもののいのち」を
親しく感じることへと繋がつていく・・・。
.
. 
そして、そのハーモニーがなりたつていくほどに、
こころは甦る!
.
. 
そのハーモニーは、
一週一週の『こころのこよみ』と共に深められていく。
.
. 
その深める作業を、
わたしはメディテーションと呼んでゐる。
.
.
(つづく)

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「こころのこよみ」とともに生きる @



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1913年に、ルドルフ・シュタイナーは、
『こころのこよみ
(Anthroposophischer Seelenkalender)』
を出版した。
.
.
テオゾフィー協会を出て、
新しくアントロポゾフィー協会を創立した、
同じ年に。
.
. 
わたしは、この『こころのこよみ』に魅力を感じ、
その内容に取り組み続けてゐる。
.
. 
はじめは、一週一週のこよみの味はひと意味を
そこはかとなく感じてゐるに過ぎなかつた。
.
.
しかし、一年、また、一年、と時を重ねていくにつれ、
序文の中の「年といふものに、いのちがある」といふ、
シュタイナーのことばに感じ入るやうになつた。
.
.
随分と、ここに記されてゐる毎週のことばに、
感じ入るやうになつた。
.
.
年といふものに、いのちがある。
時間といふものに、いのちがある。
四季の巡りを通して、
その「いのち」を生きることのできる喜びを
感じ始めたのだ。
.
. 
「年といふもののいのち」とは、なんだらう。
.
.
一年といふ周期は、
地球と太陽との関係で定まつてゐて、
この地球は、太陽に見守られながら、
「お天道様に見守られながら」
毎年規則正しくその動きを営んでゐる。      
.
.
シュタイナーは感官を凌ぐ意識をもつて、
そのことをさらに次のやうに捉えてゐる。
.
. 
人と同じやうに、
地球は、その球形の物質的な「からだ」だけでなく、
みづからのこころをもつてゐる。
みづからのいのちを営んでゐる。
.
.
そして、人と同じやうに、
精神に憧れ、
精神を宿さうとすべく、
一年一年を生きてゐる。
.
. 
地球は、太陽とのかかはりの中で、
一年ごとに大きな呼吸のプロセスを営んでゐる。
.
.
その地球のプロセスとは、春から夏にかけて、
みづからのこころを、
大いなる世、精神の世に向かつて、
息を吐き出すかのやうに、拡げていく。
それに応じて、
植物は太陽に向かつて長け始め、
花を咲かせ、緑と様々な色で地球を彩る。
.
. 
そして、地球は、夏の間、
大いなる世・宇宙に拡がり、
そこで受け取つた精神の叡智に満たされたこころを、
秋から冬にかけて、息を吸い込むかのやうに、
みづからのからだの内に納めていく。
それに応じて、
地球上の植物は枯れ始め、
彩りを失つていく。
.
. 
そのやうに、四季の巡りを通して地球は、
大きな呼吸プロセスを営んでゐる。
.
. 
「年といふもののいのち」とは、なんだらうといふ問ひ。
.
.
年とは時間の一区切りでありながら、
そこに呼吸がある。
息遣ひがある。
その伸縮、開閉、交錯を促しつつ、
リズミカルに脈打ついのちがある。
.
.
(つづく)

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2020年08月23日

こころのこよみ(第20週) 〜享受し、消化し、仕事すること〜


 
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松本 竣介《男の横顔》

 

わたしはいま、わたしのありやうをかう感じる、
 
世にあるものから遠ざかれば、
 
みづからにおいてみづからが消え失せ、
 
そして、己れの基の上にのみ立つならば、
 
みづからにおいてみづからをきつと殺してしまふ。
 
          
 

So fühl ich erst mein Sein,
Das fern vom Welten-Dasein
In sich sich selbst erlöschen
Und bauend nur auf eignem GrundeIn
sich sich selbst ertöten müßte.
 
 
 

秋へと少しづつ歩みを進めていくうちに、
わたしたちは、夏の憶ひを何度も反芻し、
辿りなほす作業に勤しむことができる。
 
 
暑かつたこの夏、
何を想ひ、何を考へ、何を感じ、何を欲したか・・・。
 
 
さう想ひ起こし、辿り直すことによつて、
人はみづからの内で、
だんだんと己れの力が強まつてきてゐるのを感じる。
 
 
それは、
<わたし>の目覚めの時期が
秋の訪れとともに再び巡つてくるといふことでもある。
 
 
<わたし>の目覚め、己れの力の強まり。
 
 
しかし、今週の『こよみ』においては、
その<わたし>の目覚め、
己れの力の強まりから生まれてしまふ危うさに対して、
バランスを取ることが述べられてゐる。

 
世にあるものから遠ざかれば、
みづからにおいてみづからが消え失せ、
そして、己れの基の上にのみ立つならば、
みづからにおいてみづからをきつと殺してしまふ
 
 
『いかにして人が高い世を知るにいたるか』
(鈴木一博訳)の「条件」の章において、
「人がだんだんに
 みづからを外の世に沿はせなくして、
 そのかはりに、
 いきいきとした内の生を育むこと」
の大切さが書かれてあるが、
それはこれからの季節に
わたしたちが勤しむこととして、
意識されていいところだ。
 
 
しかし、その内の生を育むことが、
みづからの内に閉ぢこもることではないことも
述べられてゐる。
 
 
 
ーーーーーーーー
 
 
●静かに、ひとりきりで、
みづからを深める一時一時には、
みづからが生きたこと、
外の世が語りかけてきたことを、
まさしく静かに、ありのままに想つてみてほしい。
どの花も、どの動物も、どの振る舞ひも、
そのやうな一時において、
思ひもよらない秘密をあかすやうになる。
 
 
●享受した後に、
その享受したことから
なにかが顕れるやうにする人が、
みづからの知る才を培ひ、育てる。
その人が、きつと、
享受することだけをありのままに想ふとかではなく、
享受しつづけることを諦めて、
その享受したことを内なる働きによつて
消化するといふことをこそ習ひとするやうになる。
 
 
ーーーーーーーー
  
 
 
過ぎ行く現象の中で、
何が過ぎ行かず、留まるものか、さう問ふ練習。
 
 
外の世との交渉の中で、
みづからの共感・反感そのものを見つめる練習。
 
 
あのときの喜び、痛み、快、不快が、
何をわたしに教へてくれようとしてゐるのか。
さう問ふ練習。
 
 
それは、享受したこと、感覚したことを、
消化するといふこと。
 
 
そのやうな一時一時において、
「思ひもよらない秘密」があかされる道が
だんだんと啓かれてくる。
 
 
そして、もう一度、享受するといふこと、
外の世に己れを開くことの大切さが述べられる。
 
 
 
ーーーーーーーー
 
 
 
●<わたし>を世にむけて開いてほしい。
その人は、きつと、享受しようとする。
そもそも、享受すればこそ、
外の世がその人へとやつてくる。
その人が享受することに対して
みづからを鈍らせるなら、
周りから糧となるものを
取り込むことができなくなつた植物のごとくになる。
しかし、その人が享受することにとどまれば、
みづからをみづからの内に閉ざす。
その人は、その人にとつてはなにがしかであつても、
世にとつては意味をもたない。
その人がみづからの内においていかほど生きようとも、
みづからの<わたし>をすこぶる強く培はうとも、
世はその人を閉め出す。
世にとつてその人は死んでゐる。
 
 
●密やかに学ぶ人は、享受するといふことを、
ただみづからを世にむけて気高くする手立てと見てとる。
その人にとつては、享受するといふことが、
世について教へてくれる教へ手である。
しかし、その人は享受することで教へを受けたのちに、
仕事へと進む。
その人が習ふのは、習つたことを
みづからの智識の富として貯へるためではなく、
習つたことを世に仕へることのうちへと据ゑるためである。
 
 
 
ーーーーーーーー
 
 
 
夏から秋へ、そして来たる冬へと、
<わたし>を目覚めさせていくこと。
 
 
しかし、それは、「仕事」をすること、
「世に仕へること」へと繋げていくことによつてこそ、
その人の本当の糧、本当の力になつていく。
 
 
外の世との交渉を絶たないこと。
 
 
内において、メディテーションにおいて、
外の世のことを深めること。
 
 
そして、その深まりから、
外の世に働きかけていくこと。
 
 
それが、
密やかな学びにおける筋道だ。
 
 
 
 
わたしはいま、わたしのありやうをかう感じる、
世にあるものから遠ざかれば、
みづからにおいてみづからが消え失せ、
そして、己れの基の上にのみ立つならば、
みづからにおいてみづからをきつと殺してしまふ。
 
 
 
 

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2020年08月16日

こころのこよみ(第19週) 〜繰り返し勤しむ〜



小磯良平「斉唱」.jpg
小磯良平「斉唱」
 
 

秘めやかさに満ちて新しく受けとめたものを
 
想ひ起こしつつ、包み込む。
 
それがわたしの勤しみの、さらなる意味となれ。
 
それは強められた己れの力を
 
わたしの内において目覚めさせ、
 
そして、
だんだんとわたしをわたしみづからに与へていくだらう。
 
          
 
 
Geheimnisvoll das Neu-Empfang'ne
Mit der Erinn'rung zu umschließen,
Sei meines Strebens weitrer Sinn: 
Er soll erstarkend Eigenkräfte
In meinem Innern wecken 
Und werdend mich mir selber geben.  
 

 
 
先週の『こころのこよみ』にあつた
「世のきざしのことば」。
 
 
それは、まさに、秘めやかさに満ちて、
内において、その人その人が、受け取るもの。
 
 
その「きざしのことば」は、真夏の暑さの中で、
これまでの感じ方、考へ方を、
拡げ、深め、壊してくれるやうなもの。
 
 
皆さんは、この夏、
どのやうな「きざしのことば」を
受けとめられただらうか。
 
 
どのやうな「秘めやかなことば」を
聴き取られたであらうか。
 
 
もし、それを、この週、何度も何度も、
意識の上に想ひ起こしつつ、
こころのまんなかに置いてみるなら。
 
 
その「ことば」を何度もこころに包み込んでみるなら。
 
 
その繰り返し勤しむことが、
その「ことば」と、<わたし>を、
だんだんと、ひとつにしていく。    
 
 
「世のことば」が、
「わたしのことば」になつていく。    
 
 
地味だけれども、
そのやうな繰り返しの行為こそが、
<わたし>の力を強めてくれる。
 
 
わたしのわたしたるところが、
だんだんと、目覚めてくる。
 
 
今週の「こころのこよみ」に沿つて練習すること。
 
 
それは、秋からの、
新しい<わたし>への、
備へとなるだらう。
 
  

 
秘めやかさに満ちて新しく受けとめたものを
想ひ起こしつつ、包み込む。
それがわたしの勤しみの、さらなる意味となれ。
それは強められた己れの力を
わたしの内において目覚めさせ、
そして、
だんだんとわたしをわたしみづからに与へていくだらう。
 
 

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2020年08月09日

こころのこよみ(第18週) 〜新しい衣(ころも)〜


 
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藤島武二『蝶』


 
わたしはこころを拡げることができるのか、
 
受けとつた世のきざしのことばを
 
己れと結びつけつつ。
 
わたしは予感する、きつと力を見いだすことを。
 
こころをふさはしくかたちづくり、
 
精神の衣へと織りなすべく。
 
           
 
 
Kann ich die Seele weiten,               
Daß sie sich selbst verbindet               
Empfangnem Welten-Keimesworte ?           
Ich ahne, daß ich Kraft muß finden,           
Die Seele würdig zu gestalten,              
Zum Geisteskleide sich zu bilden. 
 
 
 
 
前の週の『こよみ』において、
世のことばが語りかけてきた。
 
 
「わたしの世のひろがりをもつて、
 あなたの精神の深みを満たしなさい」と。
 
 
夏の世の大いなるひろがり、
それに沿ふことができたなら、
それは沿ふ人に、
これまでの生き方、考へ方、感じ方を
越えるやうなものを、
「贈りもの」として与へてくれる。
 
 
これを読んでくださつてゐる皆さんには、
どのやうな「夏の贈りもの」が贈られただらうか。
 
 
その「贈り物」を受け入れる器。
 
 
その器が「こころ」であるならば、
わたしはみづからにあらためてかう問ふことになる。
 
 
「わたしはこころを拡げることができるのか」
 
 
その問ひに応へていくことが、
この夏から秋へと移つていく時期のテーマだと感じる。
 
 
新しい考へ、価値観、ライフスタイル、
人生観、世界観、それらを「己れと結びつけつつ」。
 
 
しかし、その結びつけは、きつと、
外からの結びつけではなく、
内からおのづと生じてくる結びつきになる。
 
 
夏といふ季節を精神的に生きる。
 
 
それは、
こころをこれまでよりも拡げることである。
 
 
「わたしは予感する、きつと力を見いだすことを」
 
 
それは、こころを拡げ、
こころを、精神から織られた衣(ころも)にする力。
 
 
衣(ころも)とは、万葉の昔から、
「恋衣」「旅衣」「染衣」のやうに、
深く、活き活きと、しみじみと息づく、
生活感情を言ふことばとしてよく使はれてゐたさうだ。
(白川静『字訓』より)
 
 
「ころも」も「こころ」も、
三つの o の母音から成り立つ、やまとことば。
 
 
それは、本来、精神から凝(こご)るものとしての動き、
わたしたちのからだにまとふものとしての動きを、
音韻として顕はにしてはゐないだらうか。
 
 
こころといふものが、
精神といふわたしのわたしたるところ・
わたしの芯〈わたしはある〉から、織りなされる。
 
 
そして、からだにまとふ衣となつて、
身のこなし、振る舞ひのひとつひとつに顕はれる。
しなやかに、柔らかく、輝きつつ。
 
 
そんな内なる力をきつと見いだす。
 
 
この夏から秋の初めにかけてのテーマであり、
学び続けてゐる人への励ましでもあるだらう。
 
 
 

わたしはこころを拡げることができるのか、
受けとつた世のきざしのことばを
己れと結びつけつつ。
わたしは予感する、きつと力を見いだすことを。
こころをふさはしくかたちづくり、
精神の衣へと織りなすべく。
 
  
 
 

 
 
 



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2020年08月02日

こころのこよみ(第17週) 〜ざわめきが止む〜


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世のことばが語る、
 
そのことばをわたしは感官の扉を通して
 
こころの基にまでたづさへることを許された。
 
「あなたの精神の深みを満たしなさい、
 
 わたしの世のひろがりをもつて。
 
 いつかきつとあなたの内にわたしを見いだすために」
 
  

Es spricht das Weltenwort,
Das ich durch Sinnestore
In Seelengründe durfte führen:
Erfülle deine Geistestiefen
Mit meinen Weltenweiten,
Zu finden einstens mich in dir.  
 
 

 
閑さや岩にしみ入る蝉の声  松尾芭蕉
 
 
「蝉の声」は耳に聞こえる。
時に、聴く人の全身を圧するやうに鳴り響く。
  
 
「閑さ」はどうだらうか。
「閑さ」は、耳を傾けることによつて、
聞き耳を立てることによつて、
初めて聴くことができるものではないだらうか。
 
 
「閑さ」とは、本来、
耳といふ感官を超えた「感官」によつて
受け止められるものではないだらうか。
 
 
芭蕉は、「蝉の声」を通して、
「閑さ」を聴いたのだらうか。
「閑さ」を通してあらためて、
「蝉の声」が聞こえてきたのだらうか。
 
 
そして、芭蕉は、
「蝉の声」の向かうに、
「閑さ」の向かうに、
何を聴いたのだらうか。
 
 
芭蕉は、旅しながらメディテーションをする中で、
そのふたつの聴覚の重なりの向かうに、
己れが全身全霊で何かを受けとめるありさまを
「おくのほそ道」に記した。
 
 
それは、
芭蕉によるひとつの精神のドキュメントであり、
心象スケッチであり、
春から秋にかけての「こころのこよみ」であつた。
 
 
 
 
この週の『こころのこよみ』に、
「世のことばが語る」とある。
 
 
わたしもことばを語る。
 
 
しかし、世がことばを語るとはどういふことだらうか。
「世のことば」が語るとはどういふことだらうか。
 
 
その「ことば」は、
この肉の耳には聞こえないものである。
耳といふ感官を超えた「感官」によつて
受け止められるものである。
メディテーションを通して、
「こころの基にまでたづさへることを許された」
ことばである。
 
 
 

『いかにして人が高い世を知るにいたるか』より
  
 
 人が人といふものの中心を
 いよいよ人の内へと移す。
 
 
 人が安らかさの一時(ひととき)に
 内において語りかけてくる声に耳を傾ける。
 
 
 人が内において精神の世とのつきあひを培ふ。
  
  
 人が日々のものごとから遠のいてゐる。
  
  
 日々のざわめきが、その人にとつては止んでゐる。
  
 
 その人の周りが静かになつてゐる。
  
 
 その人がその人の周りにあるすべてを遠のける。
  
 
 その人が、また、
 そのやうな外の印象を想ひ起こさせるところをも
 遠のける。
  
 
 内において安らかに見遣るありやう、
 紛れのない精神の世との語らひが、
 その人のこころのまるごとを満たす。
  
 
 静けさからその人への語りかけがはじまる。
  
 
 それまでは、
 その人の耳を通して響きくるのみであつたが、
 いまや、その人のこころを通して響きくる。
  
 
 内なる言語が ―内なることばが― 
 その人に開けてゐる。
  
 

 
この夏の季節にメディテーションをする中で、
精神の世が語りかけてくることば。
 
 
 あなたの精神の深みを満たしなさい、
 わたしの世のひろがりをもつて。
 いつかきつとあなたの内に
 わたしを見いだすために。
 
 
この「いつか」とは、クリスマスの頃であらう。
この週の対のこよみが、第36週である。http://kotobanoie.seesaa.net/article/472735195.html
 
 
そこでは、「世のことば」キリストが、
人のこころの深みにおいて密やかに語る。
 
 
芭蕉は、俳諧といふことばの芸術を通して、
四季の巡りと共に深まりゆくこころの巡りを
詠つた人である。
 
 
彼はいまも、
夏の蝉の声といふ生命が漲り溢れてゐる響きの向かうに、
静けさを聴き取り、
その静けさの向かうに、
「世のことば」を聴いてゐるのではないか。
 
 
 
 

世のことばが語る、
そのことばをわたしは感官の扉を通して
こころの基にまでたづさへることを許された。
「あなたの精神の深みを満たしなさい、
わたしの世のひろがりをもつて。
いつかきつとあなたの内にわたしを見いだすために」
 
 
 

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2020年07月26日

こころのこよみ(第16週) 〜黙ることのアクティビティー〜


 
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精神からの贈りものを内に秘めよと、
 
我が予感がわたしに厳しく求める。
 
それによつて、神の恵みが熟し、
 
こころの基において豊かに、
 
己れであることの実りがもたらされる。
 
        
 

Zu bergen Geistgeschenk im Innern,   
Gebietet strenge mir mein Ahnen,
Daß reifend Gottesgaben
In Seelengründen fruchtend
Der Selbstheit Früchte bringen.  
 
 

 
ことばを話すことよりも、
さらにこころのアクティビティーを使ふのは、
黙ること。
 
 
沈黙を生きることを大切にすることによつて、
生がだんだんと深まつていく。
 
 
この沈黙とは、
こころが滞つてゐるがゆゑではなく、
アクティブにこころを慎むところから生まれる沈黙である。
 
 
話すことをやめるのではない。
 
 
ことばと、
そのことばを話さうとしてゐる己れと、
そのことばを聴かうとしてゐる人を、
大切にしたいからこそ、
ことばを迎へ、
ことばを選び、
ことばを運ぶのである。
 
 
ことば。
ことばを話す人。
ことばを聴く人。
 
 
その三者の間に世の秘密が隠れてゐて、
そこにこそ、
精神からの贈りもの(神の恵み)が降りてくる。
 
 
そこにこそ、
豊かさと貧しさの根源がある。 
 
 

 
 
精神からの贈りものを内に秘めよと、
我が予感がわたしに厳しく求める。
それによつて、神の恵みが熟し、
こころの基において豊かに、
己れであることの実りがもたらされる。
 
 
 

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2020年07月19日

こころのこよみ(第15週)〜子どものやうに生きる〜


 
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わたしは感じる、
 
まるで、世の輝きの中に、
精神が魔法にかけられて織り込まれてゐるやうだ。
 
それはぼんやりとした感官において、
 
わたしのわたしなりであるところを包む。
 
わたしに力を贈るべく、
 
その力を力無き己れに授けるのは、
 
囲ひの中にある、わたしの<わたし>。
 
 
 
Ich fühle wie verzaubert          
Im Weltenschein des Geistes Weben.    
Es hat in Sinnesdumpfheit        
Gehüllt mein Eigenwesen,        
Zu schenken mir die Kraft,        
Die, ohnmächtig sich selbst zu geben,   
Mein Ich in seinen Schranken ist.     
 
 
 
子どもの頃や若者である頃と違つて、
わたしたちは歳をとるにしたがつて、
自分自身といふもの、
わたしの意識といふもの、
自意識といふものを、
大事にするやうになるので、
夏になると、それらが魔法にかかつたやうに包まれ、
力無く眠りこまされてゐるやうな感覚に陥り、
困惑してしまふ。
わたしのわたしたるところ、
わたしの<わたし>が、
囲ひの中にあるやうに感じてしまふのだ。
 
 
しかし、かうしたありようが、
この季節特有の、
かりそめのものだといふことを知つてゐるならば、
わたしたちは困惑から抜け出ることができる。
 
 
このぼんやりとしたありやう、
焦点が絞られてゐないありやう、
それは、大きく広がりをもつた意識であるからこそ、
そのやうなありやうであり、
この意識の大きさ、拡がりからこそ、
力が授けられようとしてゐる。
だから、ぼんやりとした感官のありやうを、
思ふ存分、生きればいい。
 
 
夏のこの季節、頭ではなく、手足を使ふことで、
大いなる世と繋がることに勤しむこと。
ある意味、子どものやうに生きること。
さうすることで、
ぼんやりとしたありやうであるかもしれないが、
人は大いなる世から力を授かる。
 
 
たとへ、いま、
その力の贈り手であるわたしの<わたし>が、
魔法にかけられ、囲ひの中にあるとしても、
そのやうに手足をもつて生きることが、
来たる秋から冬に向けての備へとなる。
 
 
わたしの<わたし>が力に満ちたものになりゆく、
来たる秋から冬へと。

 
 
 
わたしは感じる、
まるで、世の輝きの中に、
精神が魔法にかけられて織り込まれてゐるやうだ。
それはぼんやりとした感官において、
わたしのわたしなりであるところを包む。
わたしに力を贈るべく、
その力を力無き己れに授けるのは、
囲ひの中にある、わたしの<わたし>。
 
 
 
 

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2020年07月07日

こころのこよみ(第14週) 〜「世の考へる」に任せてみる〜


 
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クロード・モネ《霧の中の太陽》




感官の啓けに沿ひつつ、
 
わたしはみづからを駆り立てるものを失つた。
 
夢のやうな考へ、それは輝いた、
 
己れを奪ひ去るかのやうにわたしを眠らせながら。
 
しかし、すでに目覚めさせつつわたしに迫つてゐる、
 
感官の輝きの中に、世の考へるが。
 
 
 
An Sinnesoffenbarung hingegeben  
Verlor ich Eigenwesens Trieb,
Gedankentraum, er schien
Betäubend mir das Selbst zu rauben,
Doch weckend nahet schon
Im Sinnenschein mir Weltendenken. 
 
 
 
 
夏のこの季節、考へる力が、本当に鈍つてくる。
 
 
「考へる力」こそが、
人を本来的に駆り立てる力なのに、
その力が失はれてゐるのを感じる。
 
 
外の世の美しさが目や耳などを支配して、
美をたつぷりと味はふこともできる反面、
その情報量の多さに混乱してしまふ危険性があるのも、
この季節の特徴かもしれない。
 
 
内なる統一を与へる「わたしの考へる力」が失はれて、
そのかはりに、
もの想ひに支配される時間が増えてゐる。
 
 
その「もの想ひ(夢のやうな考へ)」とは、
ものごとや人に沿つて考へることではなくて、
ものごとや人について、
手前勝手に想像してしまつたり、
その想像にこころが支配されてしまつて、
その想ひの中で行つたり来たりを繰り返すありやうだ。
もの想ひは、めくるめくやうに、
わたしのこころの中を巡り、にぶく輝き、
「己れを奪ひ去るかのやうにわたしを眠らせる」。
 
 
本当に自分の考へたいことを考へることで、
人は目覚めることができる。
けれども、もの想ひにふけることで、
人は夢を見てゐるやうな、あるいは、
眠り込むやうなありように陥つてしまふ。
そんなありやうを、どう受け止めたらいいだらう。
 
 
「人が考へる」よりも、「わたしが考へる」よりも、
「世が考へる」、そのことに己れを任せてみないか。
 
 
世は、まがふことなく、
秩序と法則に従つて時を生きてゐる。
そして自分は、すでにゐるべき場所にゐて、
すでに出会ふべき人に出会つてをり、
すでにするべきことに向かつてをり、
すでに生きるべき人生を生きてゐる。
さう、見直してみないか。
 
 
「わたしが考へる」ことの力が失はれてしまつた、
この時期だからこそ、
その「世の考へる」
「(恣意を挟まず)おのづからまぎれなく考へる」
に任せてみる。
 
 
夏のこの時期における、
そのこころのモードチェンジは、
自分自身を統一する考へる力がいつたんは眠つてしまひ、
見失はれたからこそ、
来たる秋から冬にかけて、
新しく鮮やかに自分自身で考へる力が目覚めることへと、
わたしたちを導いてくれるだらう。
 
 
「見る」をもつと深めていくことを通して、
からだをもつと動かしていくことを通して、
感官を通して、だんだんと輝きが見えてくる。
 
 
頭であれこれ考へるよりも、
手足を動かすことを通して、手足で考へる。
 
 
その手足の動きこそが、
「世の考へる」との親和性は高い。
 
 
それは感官を超えるものを見いだし、
感じ始めることでもあり、
理屈抜きで、
この世のものといふもの、
ことといふことをなりたたせてゐる基のところを
垣間見ることでもある。 
 
 
密やかなところを見いだせば見いだすほどに、
また顕はなところも、
よりくつきり、はつきりと見えてくる。
 
 
そして、その見えてくるところが、ものを言ひ出す。
 
 
夏ならではのこころの練習として、
ものがものを言ひ出すまで、からだを使つてみよう。
そして、からだをもつて「見る」に徹してみよう。
 
 
その「動く」「見る」から聴きだされることば、
伝へられる考へ、
それらは、こころに直接響いてくる。
 
 
小賢しく考へる必要がなく、
それらのことばと考へが、
こころに直接「訪れる」。
その訪れるものを、
「世の考へる」とここでは言つてゐる。
 
 
この『こよみ』を追つてゐると、まるで
「いまの自分の生活、
 こころ模様そのものが記されてゐるぢやないか」
と感じることがよくある。 
 
 
もの想ひから抜け出す道を、探りつつ、
汗を流して稽古をしつつ、
歩いていくことができる。
 
 
  
 
感官の啓けに沿ひつつ、
わたしはみづからを駆り立てるものを失つた。
夢のやうな考へ、それは輝いた、
己れを奪ひ去るかのやうにわたしを眠らせながら。
しかし、すでに目覚めさせつつわたしに迫つてゐる、
感官の輝きの中に、世の考へるが。
 
 
 
 

 
 
 

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2020年07月02日

こころのこよみ(第13週) 〜金色の輝きの中、歌ひ、踊る〜



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大阪市住吉区の生根神社の夏越の大祓ひ
 
 
 
そして、わたしはある、感官の高みに。
 
ならば、燃え上がる、我がこころの深みにおいて、
 
精神の火の世から、
 
神々のまことのことばが。
 
「精神の基にて、予感しつつ、探し求めよ、
 
 あなたを精神の縁(えにし)とともに見いだすべく」
 
 
 
 
Und bin ich in den Sinneshöhen,
So flammt in meinen Seelentiefen
Aus Geistes Feuerwelten
Der Götter Wahrheitswort:
In Geistesgründen suche ahnend     
Dich geistverwandt zu finden.
 
 
 
これから始まる夏、
草木の緑、色とりどりの花々、
空の青、太陽の光と熱、
活き活きと働いてゐるその自然のいちいちから、
客観的な精神が人に語りかけてくる。
 
 
一行目の「わたしはある、感官の高みに」とは、
ものといふもの、そのいちいちを、
じつくりと見、聴き、触れ、味はふことを通して、
普段見過ごし、聞き過ごしてゐるものが、
よりものものしく、より明らかに、より動きを伴つて、
見えてくる、聴こえてくるといふことと通じてゐる。
 
 
感官の高み。
それは、こころの細やかな密やかな深まりとして、
育まれるもの。
自然のいちいちに静かに眼差しを向け、
その息遣ひに耳を傾けてみよう。
その密やかさのうちに、
ことばが燃え上がるやうに響いてくる。
こころの深みにおいて、
精神の火の世から、神々のまことのことばが。
 
 
 「精神の基にて、予感しつつ、探し求めよ、
  あなたを精神の縁とともに見いだすべく」
 
 
1922年ドルナッハでの講演録
『四季の宇宙的イマジネーション』(水声社)
を紐解いてみると、
夏に、そのやうな、
我がこころの深みに燃え上がることばのなんたるかが、
誰によつて話されてゐるかが、
シュタイナーによつて
指して説かれてゐるのを読むことができる。
まことのことばを燃えるやうに人に語りかけてゐる神々。
客観的な精神。
その外なる精神は、この季節、金色に輝いてゐる。
わたしたち人に、
燃え立つ炎のやうに語りかけてゐる金色の精神。
 
 
この夏の外なる精神の方々が発する、
金色の輝きを浴びるわたしたちは、
冬、クリスマスの頃、
みずからのこころの奥底、精神の基に、
内なる金色を輝かせることができよう。
 
 
来たる冬に、精神に縁のある、
金色に輝く己れみづからを
しつかりと見いだすことができよう。
 
 
夏のいまは、外なる金色の光に応じるやうに、
眼差しを注ぎ、耳を傾け、
さらには、踊り、歌を歌ひながら、
音楽と詩を奏でることで、
冬に見いだすものを予感しつつ、探し求めるのだ。
 
 
金色の精神が語ることばを聴くのだ。
 
 
 
 

そして、わたしはある、感官の高みに。
ならば、燃え上がる、我がこころの深みにおいて、
精神の火の世から、
神々のまことのことばが。
「精神の基にて、予感しつつ、探し求めよ、
 あなたを精神の縁(えにし)とともに見いだすべく」
 
 
 
 

 
 

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2020年06月23日

こころのこよみ(第12週) ヨハネ祭の調べ 〜子どもたちの歌声〜


 
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帝塚山古墳

 
 
世の美しい輝き、

それは、わたしをこころの深みから切に誘(いざな)ふ、

内に生きる神々の力を

世の彼方へと解き放つやうにと。

わたしは己れから離れ、

ただ信じつつ、みづからを探し求める、

世の光と世の熱の中に。
 
 

Johanni-Stimmung
 
Der Welten Schönheitsglanz,
Er zwinget mich aus Seelentiefen
Des Eigenlebens Götterkräfte
Zum Weltenfluge zu entbinden;
Mich selber zu verlassen,
Vertrauend nur mich suchend  
In Weltenlicht und Weltenwärme.
 
 
 
 
今週のこよみには、
「ヨハネ祭の調べ」といふ副題がついてゐる。
 
 
キリスト教が生まれる以前、古代諸宗教においては、
夏至を一年の頂点とするお祭りが熱狂的に行はれてゐた。
 
 
人といふものを導く神は、太陽にをられる。
その信仰が人びとの生活を支へてゐた。
太陽がもつとも高いところに位置するこの時期に、
太陽にをられる神に向かつて、人々は我を忘れて、
祈祷をし、捧げものをし、踊り、歌ひながら、
その祭りを執り行つてゐた。
 
 
洗礼者ヨハネは、その古代的宗教・古代的世界観から、
まつたく新しい宗教・新しい世界観へと、
橋渡しをした人であつた。
 
 
彼は、夏に生まれたといふだけでなく、
いにしへの宗教における夏の熱狂を取り戻すべく、
まさしく、炎のやうな情熱をもつて、
ヨルダン川のほとりにおいて、
全国から集まつてくる人々に水をもつて洗礼を授けてゐた。 
 
 
しかし、彼は、これまでは太陽にあられた神が、
まうすぐこの地上に降りてこられることを知つてゐた。 
 
 
 
 汝ら、悔い改めよ、天の国は近づけり(マタイ3.2)
 

そして、みづからの役目がそこで終はることをも知つてゐた。
 
 
 わが後に来たる者は我に勝れり、
 我よりさきにありし故なり(ヨハネ1.15)
 
 
 我は水にて汝らに洗礼を施す、
 されど我よりも力ある者きたらん、
 我はそのくつの紐を解くにも足らず。
 彼は聖霊と火とにて汝らに洗礼を施さん (ルカ3.16)
 
 
 彼は必ず盛んになり、我は衰ふべし(ヨハネ3.30)
 
 
 
ヨハネはイエスに洗礼を授け、
イエスのこころとからだに、
太陽の精神であるキリストが降り来たつた。
それは、太陽の精神が、その高みから降りて、
地といふ深みへと降りたといふことであり、
ひとりひとりの人の内へと降り、
ひとりひとりの人の内において活き活きと働き始める、
その大いなる始まりでもあつた。
 
 
「内に生きる神々の力」とは、
人の内にこそ生きようとしてゐる、
キリストのこころざし(Christ Impuls)だ。
ヨハネがそのことに仕へ、
みづからを恣意なく捧げたことが、
四つの新約の文章から熱く伝はつてくる。
そのときからずつと、キリストは、この地球にあられる。
そのことをわたしたちは実感できるだらうか。
 
 
しかし、シュタイナーは、その実感のためには、
ひとりひとりの人からのアクティビティーが要る
と言つてゐる。
みづからの内において、
キリストがあられるのを感じることは、
おのづからは生じない。
人が世に生きるにおいて、
みづからを自覚し、自律し、自立させ、
自由に己れから求めない限りは、
「内に生きる神々の力」という実感は生まれ得ない。
 
 
ヨハネ祭は、もはや、古代の夏至祭りではなく、
熱狂的に、我を忘れて祝ふものではなく、
意識的に、我に目覚めて、キリストを探し求める祝ひ。
 
 
それは、この世を離れるのではなく、
この世を踏まえつつ、羽ばたくといふ、
わたしたち現代に意識的に生きる人といふ人の
求めることでもある。
 
 
この夏の季節、地球の精神・キリストは、
息を吐くかのやうに、
みづからのからだである地球から離れ、
世の彼方にまで拡がつていかうとしてゐる。
わたしたち人も、
キリストのそのやうな動き・呼吸に沿ふならば、
己れから離れ、己れのからだとこころを越えて、
精神である「みづから」を見いだすことができる。
 
 
生活の中で、わたしたちはそのことを
どう理解していくことができるだらうか。
からだを使つて働き、汗を流し、学び、歌ひ、遊ぶ、
それらの動きの中でこそ、
からだを一杯使ふことによつてこそ、
からだから離れることができ、
こころを一杯使ふことによつてこそ、
こころから離れることができ、
「世の光と世の熱の中に」
みづからといふ精神を見いだすことができる。
 
 
そして、この夏において、意識的に、
子どもに、習ふこと。
 
 
わたしの目の前で、笹の葉にたんざくを吊るしながら、
けらけら笑ひ、歌ひ、踊つてゐる子どもたち。
 
 
ヨハネ祭のとき、古代の人々は、
鳥たちが歌ふことから学びつつ、
その歌声を人間的に洗練させて、
音楽と詩を奏で、歌ひ、踊つたといふ。
 
 
鳥たちの声の響きは大いなる世の彼方にまで響き渡り、
そしてその響きに応じて、
天から地球に精神豊かなこだまのやうなものが降りてくる。 
 
このヨハネ祭の季節に、人は、夢のやうな意識の中で、
鳥たちに学びつつ、歌ひ、踊ることによつて、
己れから離れ、
いまだ天に見守られてゐる<わたし>を
見いだすことができた。
 
 
いまも、子どもたちは、幾分、
古代の人たちの夢のやうな意識のありやうを生きてゐる。
そんな夏の子どもたちの笑ひ声と歌声をさへぎりたくない。
その響きはいまも彼方の世にまで届くのだから。
 
 
そして、わたしたちが己れから離れ、
大いなる世、コスモスをより精神的に理解するほどに、
天が、ひとりひとりの<わたし>、
「内に生きる神々の力」を
見守つてくれてゐるのを感じることができる。
 
 
そして、子どもたちの歌声に対するエコーのやうに、
天が響き返してくれてゐるのを聴き取ることができる。
 
 
さらには、この世の様々な状況に対応していく道を、
きつと、見いだしていくことができる。
 
 
とりわけ、芸術行為は、そのことを実感させてくれる。
 
 
夏至の頃に、
キリストは世の高みと拡がりに至ることによつて、
毎年繰り返して、昂揚感を覚えてゐると言ふ。
 
 
ヨハネ祭の調べ。
 
 
それは、ひとりひとりが外の世に働きかけることによつて、
意識的に、目覚めつつ、みづからを高めつつ、
みづからといふ精神を見いだすこと。
 
 
そこから、地上的なキリスト教ではなく、
夏に拡がりゆくキリストの昂揚を通して、
より大いなる世のキリストを見いだしていくこと。
 
 
そのことがキリスト以降、
改められた夏の祭りとしての、
ヨハネ祭の調べだと感じる。
 
 
 

 
世の美しい輝き、
それは、わたしをこころの深みから切に誘(いざな)ふ、
内に生きる神々の力を
世の彼方へと解き放つやうにと。
わたしは己れから離れ、
ただ信じつつ、みづからを探し求める、
世の光と世の熱の中に。
 


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2020年06月19日

こころのこよみ(第11週)〜白日の下の美しさ〜


 
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この太陽の時の中で、
 
あなたは、賢き知を得る。
 
世の美しさに沿ひつつ、
 
あなたの内にいきいきとあなたを感じ切る。
 
「人の<わたし>は、みづからを失ひ、
 
 そして、世の<わたし>の内に、

 みづからを見いだすことができる」
 
 
 
Es ist in dieser Sonnenstunde   
An dir, die weise Kunde zu erkennen:      
An Weltenschönheit hingegeben,       
In dir dich fühlend zu durchleben:       
Verlieren kann das Menschen-Ich        
Und finden sich im Welten-Ich.    
 
 
 
 
 
「世の美しさ」とは、
決して表側だけの美しさを言つてゐるのではないだらう。
 
 
「この太陽の時の中で」は、
美しさも醜さも、素晴らしさも馬鹿馬鹿しさも、
すべてが白日の下に晒される。
 
 
それらすべてが白日の下に晒され、
光が当てられるからこそ、
「世の美しさ」なのだ。
 
 
その晒されたものがなんであれ、
人はそれを経験し、生きなければならない。
 
 
善と悪、美と醜、真と偽、喜びと悲しみ、
それぞれがひとつのもののうらおもてだといふこと。
 
 
そのやうな、のつぴきならなさが、
「世の美しさ」として感じられるだらうか。
そして、それに沿ふことができるだらうか。
 
 
どんな単純なものごとであれ、複雑なものごとであれ、
どんな素晴らしいことであれ、酷いことであれ、
わたしたちは、そのものごと、できごとを見くびらずに、
その深みを見てとることができるだらうか。
 
 
ものごとは、なんであれ、
付き合ひ続けて、沿ひ続けて、
初めて、密やかに、その深さを打ち明け始める。
 
 
子どもの立ててゐる寝息や家族の笑顔。
草木や花々の健気ないのちの営み。
日々つきあつてゐる者同士の関係、愛、いさかひ、葛藤。
毎日移り変はつていく世の動向。
人びとの集団的意識の移り行き。
それらひとつひとつが、その深みを顕してくれるのは、
はやばやと見くびつてしまはずに、
こころをこめてそれに向き合ひ続け、
沿ひ続けるときだ。
  
 
そして、ものごとに沿ふといふ行為の、
肝腎要(かなめ)は、
ものごとと<わたし>との関係において、
何が過ぎ去らず、留まるものなのか、
いつたい何が本質的なことなのか、
といふ問ひをもつこと。
 
 
それが精神を通はせつつ、
ものごとに沿ふことの糸口になる。
からだをもつて振る舞ひ、
こころから行為していくことの糸口になる。
 
 
その時、捨てようとしなくても、
人は狭く小さなわたしを捨てることができるかもしれない。
 
 
そして、はるかに広やかで、
はるかに深みをもつた<世のわたし>の内に、
「賢き知」と、他の誰のでもない、
自分自身のこころざしが、
立ち上がつてきはしないか。
 
 
人の<わたし>は、みづからを失ひ、
そして、世の<わたし>の内に、
みづからを見いだすことができる。
 
 
 
 
 

この太陽の時の中で、
あなたは、賢き知を得る。
世の美しさに沿ひつつ、
あなたの内にいきいきとあなたを感じ切る。
「人の<わたし>は、みづからを失ひ、
 そして、世の<わたし>の内に、
 みづからを見いだすことができる」
 
 
 
 
 

posted by koji at 19:04 | 大阪 ☁ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月13日

こころのこよみ(第10週) 〜お天道様が見てゐるよ〜



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堺の宿院の上空
 
 

夏の高みへと
 
太陽が、輝くものが、のぼる。
 
それはわたしの人としての情を連れゆく、
 
広やかなところへと。
 
予感しつつ、内にて動く、
 
感覚。おぼろにわたしに知らせつつ。
 
あなたはいつか知るだらう、
 
「神なるものが、今、あなたを感じてゐる」
 
        
 
 
Zu sommerlichen Höhen            
Erhebt der Sonne leuchtend Wesen sich;     
Es nimmt mein menschlich Fühlen       
In seine Raumesweiten mit.           
Erahnend regt im Innern sich          
Empfindung, dumpf mir kündend,        
Erkennen wirst du einst:            
Dich fühlte jetzt ein Gotteswesen.       
 
 
 
 
これから来たる夏の太陽の光と熱によつて、
植物の緑が、花のとりどりの色となつて、
上へ上へと燃え上がる。
 
 
鳥たちが、虫たちが、
いよいよ高らかに、軽やかに、
夏の青空の高みに向かつて、鳴き声を響かせ、
大いなる世、宇宙にその響きが拡がつていく。
 
 
太陽によつて引き起こされる、
そんな植物と動物たちの働きが、
夏の空気に働きかけてゐるのを、
わたしたちは感じることができるだらうか。
 
 
もし、さういふことごとを人が感じつつ、
来たる夏を生きることができるならば、
みづからの、人ならではのところ、
人であること、わたしであることもが、
ここよりも、さらに、高いところに、
さらに広やかなところにのぼりゆき、
天によつて見守られることを、
情として感じることができるだらうか。
 
 
「お天道様が見てゐるよ」
幼い頃、このことばを親たちからよく聞いた。
 
 
おそらく、そのことばは、古来、
日本人がずつと我が子どもたちに
言ひ伝へてきたものだらう。
 
 
「お天道様」それは、太陽の神様であり、
わたしたちに警告を発しつつ、
わたしたちを見守つてゐる存在として、
常に高みにあるものとして
感じてゐたものだつたのだらう。
 
 
そして、いま、わたしたちは、
その「お天道様」を、人の人たるところ、
<わたし>であるところとして、
感じてゐるのではないだらうか。
 
 
「神なるものが、いま、あなたを感じてゐる」とは、
「高い<わたし>こそが、
いま、低い、普段の、わたしを見守つてくれてゐる」
「お天道様が、いま、あなたを見てゐる」
といふことかもしれない。
 
 
天照大御神のみことば。
「これの鏡はもはら我(わ)が御魂として
 吾(あ)が前を拝(いつ)くがごと拝き奉れ」
 
 
わたしたちは、
自分自身のこれまでの見方や感じ方や考へ方から離れて、
改めて、この季節だからこそ、
「お天道様」に見守られてゐることを感じ、
「お天道様」からの視点、
「おのづから」なありかたで、
生きていくことができるだらうか。
 
 
見る眼を磨き、耳を澄ますなら、
きつと、予感と感覚が、教へてくれるだらう。
 
 
 
 
 
 
夏の高みへと
太陽が、輝くものが、のぼる。
それはわたしの人としての情を連れゆく、
広やかなところへと。
予感しつつ、内にて動く、
感覚。おぼろにわたしに知らせつつ。
あなたはいつか知るだらう、
「神なるものが、今、あなたを感じてゐる」
 
 
 
 

 
 

posted by koji at 05:33 | 大阪 🌁 | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月07日

こころのこよみ(第9週) 〜大いなる父なるもの〜



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我が意欲のこだわりを忘れ、
 
夏を知らせる世の熱が、満ちる、
 
精神とこころのものとしてのわたしに。
 
光の中でわたしを失くすやうにと、
 
精神において観ることがわたしに求める。
 
そして強く、予感がわたしに知らせる、
 
「あなたを失ひなさい、あなたを見いだすために」
 
 
 
Vergessend meine Willenseigenheit,
Erfüllet Weltenwärme sommerkündend
Mir Geist und Seelenwesen;
Im Licht mich zu verlieren
Gebietet mir das Geistesschauen,
Und kraftvoll kündet Ahnung mir:
Verliere dich, um dich zu finden.  
 
 
 
「わたしは、
 これをしたい、
 あれをやりたい、
 これをしなければ、
 あれをしなければ・・・」
 
 
そのやうな意欲といふものも、
内なる「熱」と言つていいのだけれども、
その意欲の中にある
「こだわり」を忘れることができるだらうか。
「・・・しなければ」といふやうな
「恐れ」を忘れることができるだらうか。
 
 
朝、陽の光が輝き出すと、その熱が、
来たる夏を知らせてくれてゐるやうに感じる。
 
 
そして、「熱いなあ」と感じるだけにせずに、
ずつと、その熱に問ひかけるやうにしてゐると、
その陽の光から発せられてゐる熱は、
自分が抱いてゐる意欲の熱よりも、
はるかに、はるかに、巨大で、
太陽の意欲は、わたしの意欲よりも、
はるかに、はるかに、
強く、深く、遠くを見通してゐるかのやうな
豊かさであると感じる。
 
 
そのやうな意欲の大いなる力は、
太陽を通して、どこから来るのだらう。
 
 
シュタイナーは、
『世と人のなりかはり』(全集175巻)の中で、
「父なるもの」からだと話してゐる。
 
 
その「父なるもの」
「そもそも世を創りし方、
 そしていまも創り続けてゐる方」
と人との出会ひは、
ひとりひとりの生涯の内に一度はきつとある。
 
 
人生の中で、
己れといふもののこだはりが脱ぎ捨てられた時、
夏の太陽のやうな巨大な輝きと熱、
感動と驚きと畏敬の念いに満たされる時、
その出会ひは生じる。
 
 
だから、子どもの頃、丁度、
これから始まる夏にかけて、
大いなる天空を仰ぎ、
そこに拡がる青空や夜の星々に想ひを重ね、
感情と意欲を大いなる叡智に沿はせていくことは、
人生にきつと一度は生じる
「父なるもの」との出会ひに向けた良き備へになる。
 
 
人生の中で、このことばが、
予感として、響くときが、きつとある。
 
 
光の中で、
あなたを失ひなさい、
あなたを見いだすために
 
 
 
 
 
我が意欲のこだわりを忘れ、
夏を知らせる世の熱が、満ちる、
精神とこころのものとしてのわたしに。
光の中でわたしを失くすやうにと、
精神において観ることがわたしに求める。
そして強く、予感がわたしに知らせる、
「あなたを失ひなさい、あなたを見いだすために」
 
 
 

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2020年05月30日

こころのこよみ(第8週)〜聖霊が降り給ふ日々〜


 

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ギュスターブ・ドレ「ペンテコステ」


 
感官の力が長けゆく、
 
神々の創り給ふものに結びつけられて。
 
それは考へる力を沈める、
 
夢のまどろみへと。
 
神々しいものが、
 
わたしのこころとひとつにならうとする時、
 
きつと人の考へるは、
 
夢のやうなありやうの中で、静かに慎んでゐる。
 
 
 
Es wächst der Sinne Macht          
Im Bunde mit der Götter Schaffen, 
Sie drückt des Denkens Kraft           
Zur Traumes Dumpfheit mir herab.
Wenn göttlich Wesen           
Sich meiner Seele einen will,
Muß menschlich Denken  
Im Traumessein sich still bescheiden. 
 
 
 
※ Denken といふ名詞を「思考」とは訳さずに、
「考へる」としてゐます。
denken といふ動詞(考へる)から生まれてゐるがゆゑ、
その活き活きとした働きを殺さないやう、
名詞でありながら、動詞的に訳してゐます。
 
 

 
感官の力(見る力や聴く力など)が、
ものに吸ひ寄せられてしまふこともあるだらう。
たとへば、
テレビやこのコンピューターの画面などに。
 
 
しかし、ものに吸ひ寄せられたままではなく、
感官の力を、もつと意識的に、意欲的に、働かせ、
じつくりと腰を据ゑて、何かを見る、
何かに耳を澄ませてみる・・・。
 
 
考へる力が鎮められ、沈められる位、
見てみる、聴いてみる。
 
 
見れど飽かぬも、
まさに、見てとればいよいよ飽かぬも。
なぜ、飽かぬのだらうか。
それは、見てとる、見る、見ゆ、に先立つて、
愛するがあるからだ・・・。
 
 
そのとき、そのときの、「愛する」から、
からだの大いさ、
からだを使ふことの大事さが披かれる。
 
 
その時のこころのありやうは、むしろ、
「考へるは、夢のやうなありやうの中で、
 静かに慎んでゐる」
と表現することがぴつたりとする。
 
 
さうすると、わたしたちは、何を受け取り、
どのやうに感じるだらう。
 
 
この週は、聖霊降臨祭の週でもある。
 
 
約二千年前、
十字架刑の三日後にキリストは甦り(復活)、
その後四十日間に渡つて、
キリストは精神のからだをもつて現はれ、
当時の弟子たちに親しく語りかけたといふ。
 
 
しかし、キリストはその後十日間、
弟子たちの前からその姿を消したといふ(昇天)。
 
 
その十日の間、
弟子たちは
「夢のやうなありやうの中で静かに慎んで」いた。
 
 
ひとところに集まつて、
静かに熱く、
しかし夢にまどろんでゐるやうなありかたで祈つてゐた。
 
 
そして、聖霊降臨の日、
それは聖霊(聖き精神)が、
ともに集つてゐる弟子たちに初めて降りてきて、
弟子たちがさまざまな言語をもつて
(ひとりひとりがおのおの自分のことばで)、
そのキリストのことばとしての聖き精神を
語り始めた日だつた。
 
 
前週において、
「さあ、来たれ、わたしの予感よ、
 考へる力に代はつて」
とみづからの精神に呼びかけた。
 
 
その「予感」への呼びかけとは、
こざかしく考へることを止めて、
より大いなるものからの流れ
(世の考へ・キリストのことば)に
耳を傾けるといふ行為だつた。
 
 
それは、「静かに慎む」「傾聴する」
ありやうをもつて、
みづからを浄めつつ待つといふ行為でもある。
 
 
二千年後のわたしたちは、
考へる力が失はれてくるこの季節においても、
そのやうな備へをしようと
アクティブにみづからをもつていくならば、
「神々しいものが、わたしのこころとひとつになる」
聖霊降臨祭を、
自分たちのいまゐる場所で、
きつと打ち樹てていくことができる。
 
 
「すべては神々の創り給ふものである」
「神々しいものとこころがひとつになる」
といつたことを読んだり、
言つたりするにとどまらず、
予感し、実感し、見て、
そのことを生きていくために、
からだを通して、
実際の練習を意識的にしつづけていくことの
大切さを感じる。
 
 
教育であれ、芸術であれ、そこにこそ、
アントロポゾフィーの社会性が育つていく
基盤があるのではないだらうか。
 
 
 
 

感官の力が長けゆく、
神々の創り給ふものに結びつけられて。
それは考へる力を沈める、
夢のまどろみへと。
神々しいものが、
わたしのこころとひとつにならうとする時、
きつと人の考へるは、
夢のやうなありやうの中で、静かに慎んでゐる。



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2020年05月22日

こころのこよみ(第7週)〜さあ、来たれ、わたしの予感よ〜


 
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わたしのわたしたるところ、
  
それはいまにも離れ去らうとしてゐる、
 
世の光に強く引き寄せられて。
 
さあ、来たれ、わたしの予感よ、
 
あなたの力に満ちたふさはしさの中に、
 
考へる力に代はつて。
 
考へる力は感官の輝きの中で、
 
みづからを見失はうとしてゐる。
 
     
    
 
Mein Selbst, es drohet zu entfliehen,
Vom Weltenlichte mächtig angezogen.
Nun trete du mein Ahnen
In deine Rechte kräftig ein,
Ersetze mir des Denkens Macht,
Das in der Sinne Schein
Sich selbst verlieren will.
 
  
 

人は、芸術に取り組むとき、
ある種の息吹きを受ける。
 
 
シュタイナーは、そのやうな、
芸術をする人に大いなる世から吹き込まれる息吹きを、
インスピレーションと呼んだ。 
(Inspiration は、ラテン語の
  insprare (吹き込む)から来てゐる)
 
 
一年の巡りで言へば、わたしたちは、
秋から冬の間に吸ひ込んだ精神の息、精神の風、
「インスピレーション」を、
春から夏の間に芸術行為をもつて解き放たうとしてゐる。
 
 
秋から冬の間、
「わたしのわたしたるところ」「考へる力」は
そのインスピレーションを孕むことができたのだ。
 
 
その「わたしのわたしたるところ」「考へる力」が、
変容して、春から夏の間のこの時期、
意欲の力として、からだを通して息が吐かれるやうに、
大いなる世へと拡がつていかうとしてゐる。
 
 
「わたしのわたしたるところ、
 それはいまにも離れ去らうとしてゐる」
 
 
その精神の吐く息に連れられて、
芸術行為を通して
「わたしのわたしたるところ」「考へる力」は、
外の世に拡がつてゆく。働きかけてゆく。
 
 
芸術をするとは、頭で考へることを止めて、
みづから頭が空つぽになるまで
手足を働かせることである。
 
 
それは、世の光に引き寄せられることであり、
自分のからだの外にこころが出て行くことである。
 
 
「世の光に強く引き寄せられて」
 
 
さうして、外へと出て行くほどに、
光の贈りものをいただける。 
 
 
その光の贈りものとは、
「予感」といふ、より高いものからの恵みである。
 
 
「さあ、来たれ、わたしの予感よ、
 あなたの力に満ちたふさはしさの中に、
 考へる力に代はつて」
 
 
芸術とは、
インスピレーションといふ世の風に吹き込まれつつ、
予感といふ世の光に従ふことである。
 
 
練習を通して初めてやつてくる
予感に沿つていくことである。
練習とは、身を使ふことである。
 
 
秋から冬、インスピレーションを孕んだ考へる力が、
まづは頭から全身に働きかける。
 
 
その精神の息吹きを、
春から夏、練習によつて、解き放つていく。
 
 
その息吹きが練習によつて解き放たれるその都度その都度、予感が、光として、
ある種の法則をもつたものとしてやつてくる。
 
 
インスピレーションが、
胸、腕、手の先、腰、脚、足の裏を通して、
息遣ひを通して、芸術として世に供され、
供するたびに、芸術をする人はその都度、
予感をもらえるのだ。
 
 
この小さな頭でこざかしく考へることを止めて、
やがて己れに来たるべきものを感じ取らうとすること。
 
 
「さあ、来たれ、わたしの予感よ」
と精神に向かつて呼びかけつつ、動きつつ、待つこと。
 
 
それは、秋から冬の間、
明らかに紛れなく考へる働きとは趣きがまるで違ふが、
アクティビティーにおいては、
それに負けないぐらゐの強さがゐる。
 
 
世から流れてくるものを信頼すること。
  
 
そして、そのやうな、身の働きの中で、芸術行為の中で、
予感が恩寵のやうにやつてくる。
 
 
だから、この季節において、考へる力は、
感官の輝きの中で、
手足の働きの中で、
意欲の漲りの中で、
見失はれていいのだ。
 
 
「考へる力は感官の輝きの中で、
 みづからを見失はうとしてゐる」
 
 
そして、積極的に手足を使つて、
息を解き放ち、力を揮つて、感官の輝きの中で、
創造に勤しむのだ。
 
 
 
わたしのわたしたるところ、
それはいまにも離れ去らうとしてゐる、
世の光に強く引き寄せられて。
さあ、来たれ、わたしの予感よ、
あなたの力に満ちたふさはしさの中に、
考へる力に代はつて。
考へる力は感官の輝きの中で、
みづからを見失はうとしてゐる。
 
 

posted by koji at 18:06 | 大阪 ☁ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする