[こころのこよみ(魂の暦)]の記事一覧

2019年05月19日

こころのこよみ(第5週) 〜セザンヌ 画家の仕事とは〜


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精神の深みからの光の中で、
 
その場その場で実り豊かに織りなしつつ、
 
神々の創りたまふものが啓かれる。
 
その中に、こころそのものが顕れる、
 
ありありとした世へと広がりつつ、
 
そして立ち上がりつつ、
 
狭い己れの内なる力から。
 
        ルドルフ・シュタイナー
 
 
 
Im Lichte, das aus Geistestiefen
Im Räume fruchtbar webend
Der Götter Schaffen offenbart:
In ihm erscheint der Seele Wesen
Geweitet zu dem Weltensein
Und auferstanden
Aus enger Selbstheit Innenmacht.
 
 
 
画家とは、何をする人なんだらう。セザンヌの絵を観て、そのことを考へさせられる。
 
道楽で絵を描くのではなく、「仕事」として絵を描くとは、どういふことか。
 
セザンヌのことばによると、「感覚を実現すること」、それが彼にとつて絵を描くことによつてなしていきたいことであり、彼の「仕事」だつた。
 
彼が強い意欲をもつて、ものを見ようとすればするほど、ものの方が、彼をぢつと見つめる、自然が自然そのものの内に秘めてゐる持続的な、強い、時に巨大な「もの」を彼に流し込んでくる。それはすでに感官(目や耳などの感覚器官)を超えて受信される「もの」である。
 
そして、自然からのそのやうな「もの」の流れに応じるかのやうに、あまりにも巨大なセザンヌ自身の「こころそのもの」が顕れる。
 
その場その場の自然から流れ込んでくる「もの」。そして、立ち顕れてくる彼自身の「こころそのもの」。
 
そのふたつが出会ふとき、そこに、垂直の世が立ち顕れる。
 
なじみの眼の前に拡がるのは、どこまでも、水平の世であるが、画家がそのやうに見つめるその場その場において、精神の光が豊かに流れ込んでくる垂直の世が立ち顕れるのだ。
 
その垂直の光景を、キャンバスの上に、色彩で顕わにしろと、彼は自然そのものに求められる。
 
その求めに応へるのが、「感覚の実現」であらうし、彼の仕事であつた。その求めに応へ続けたのが、彼の生涯だつた。
 
世は、人に、「その場その場で実り豊かに織りなしつつ神々が創りたまふもの」を啓いてほしいと、希つてゐる。
 
なぜなら、それによつて、人は、「 狭い己れの内なる力から、ありありとした世へと広がりつつ、自分の足で立ち上がりつつ、自分自身のこころそのものを顕わにする」ことができるからなのだらう。
 
セザンヌは、そのことを、意識的になさうとした人だと感じる。
 
 
 
精神の深みからの光の中で、
その場その場で実り豊かに織りなしつつ、
神々の創りたまふものが啓かれる。
その中に、こころそのものが顕れる、
ありありとした世へと広がりつつ、
そして立ち上がりつつ、
狭い己れの内なる力から。
 
 

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2019年05月14日

こころのこよみ(第4週) 〜主と客、重ねてあわせて「わたし」〜


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平櫛田中作「蕉翁像」

 
「わたしは、わたしのわたしたるところを感じる」
 
さう感覚が語る。
 
それは陽のあたる明るい世の内で、
 
光の流れとひとつになる。
 
それは「考へる」に、
 
明るくなるやうにと、暖かさを贈り、
 
そして人と世を、
 
ひとつに固く結びつけようとする。
 
      ルドルフ・シュタイナー
 
 
Ich fühle Wesen meines Wesens:
So spricht Empfindung,
Die in der sonnerhellten Welt
Mit Lichtesfluten sich vereint;
Sie will dem Denken
Zur Klarheit Wärme schenken
Und Mensch und Welt
In Einheit fest verbinden.
 
 
 
シュタイナーがここで使つてゐる「感覚(Empfindung)」といふことばは、「受けて(emp)見いだす(finden)」からできてゐることばだ。
 
感覚には、人によつて受けて見いだされた光、色、響き、熱、味、触などがある。
 
これらは、外から人に向かつてやつてくるものである。
 
しかし、感覚は人の内からもやつてくる。
 
からだの内からやつてくる空腹感や疲労感、こころの内からやつてくる意欲や感情や考へも、感覚なのだ。
 
なぜなら、みづからのからだもこころも、世の一部だからだ。
 
色や響きなど、外からのものを、人は感覚する(受けて見いだす)し、情や意欲や考へといふ内からのものをも、人は感覚する(受けて見いだす)。
 
しかし、外からの感覚は、外からのものとして客として迎へやすいのだが、内からの感覚は、内からのものであるゆゑに、客として迎へにくい。
 
主(あるじ)としてのみづからと、客である情や意欲や考へとを一緒くたにしてしまいがちだ。
 
主と客をしつかりと分けること、それは客を客としてしつかりと観ることである。
 
みづからの情や意欲や考へを、まるで他人の情や意欲や考へとして観る練習。
 
明確に主(あるじ)と客を分ける練習を重ねることで、分けられた主と客を再びひとつにしていく力をも見いだしていくことができる。
 
その力が、こころを健やかにしてくれる。
 
主と客を明らかに分けるといふことは、主によつて、客が客として意識的に迎へられる、といふことでもあらう。
 
そして、やつてくる客に巻き込まれるのではなく、その客をその都度ふさわしく迎へていくことに習熟していくことで、主は、ますます、主として、ふさわしく立つていく力を身につけていくことだらう。
 
人が、外からのものであれ、内からのものであれ、その客を客として意欲的に迎へようとすればするほど、客はいよいよみづからの秘密を明かしてくれる。
 
感覚といふ感覚が、語りかけてくる。
 
客のことばを聴くこと。それが主(あるじ)の仕事である。
 
外の世からの感覚だけでなく、考へ、感じ、意欲など、内に湧き起つてくる感覚を、しつかりと客として迎へる仕事をするほど、その客が語りかけてきてゐることばを聴かうとすればするほど、わたしは「わたしのわたしたるところ」を日々、少しずつ、太く、深く、大きく、成長させていく。
 
その仕事によつて、わたしは、みづからの狭い限りを越えて、「わたしのわたしたるところ」をだんだんと解き明かしていくことができる。
 
主によつて客が客として迎へられるといふのは、客によつて主が主として迎へられるといふことであるだらう。
 
またそれは、主と客が心理的にまぜこぜになるといふことではなく、精神的にひとつになるといふ、人と世との、もしくは人と人との、出会ひの秘儀とも言つていいものではないだらうか。
 
そして、主と客がひとつになるときに、「わたし」(わたしのわたしたるところ)がいよいよ明らかなものになつていく。
 
つまり、主=「わたし」ではなく、主+客=「わたし」なのだ。
 
たとへば、セザンヌの絵や彼の残したことば、もしくは、芭蕉の俳諧などに接し続けてゐると、ものとひとつになることを目指して彼らがどれほど苦闘したか、だんだんと窺ひ知ることができるやうになつてくる。
 
彼らは、世といふもの、こころといふものの内に潜んでゐる大きな何かを捉へることに挑み、そのプロセスの中で壊され、研がれ、磨かれ、その果てにだんだんと立ち顕れてくる「人のわたし」といふものへと辿りつかうとした。
 
彼らは、色彩といふもの、こころといふもの、さらに風雅(みやび)といふものと、どこまでも辛抱強く向き合ひ、その上で、ひとつにならうとする仕事を死ぬまでやり通した人たちだ。
 
ものとひとつになるときこそ、「人のわたし」ははつきりと立ち顕れてくることを彼らは知つてゐた。
 
感覚を客としてふさわしく迎へれば迎へるほど、それは、「わたしのわたしたるところ」の拡がりと深みを語つてくれる。
 
また、わたしはそのことばを情で聴き取るにつれて、わたしは、客について、己れについて、さらには「わたし」について、明るく、確かに、考へることができる。
 
そして、わたしと世がひとつであることへの信頼感をだんだんと得ていくことができる。
 
 
 
「わたしは、わたしのわたしたるところを感じる」
さう感覚が語る。
それは陽のあたる明るい世の内で、
光の流れとひとつになる。
それは「考へる」に、
明るくなるやうにと、暖かさを贈り、
そして人と世を、
ひとつに固く結びつけようとする。
 



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2019年05月05日

こころのこよみ(第3週) 〜「語る」とは「聴く」こと〜


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ナショナル ジオグラフィック協会の「世界の美しい鳥たちより」

世のすべてに語りかける、
 
己れを忘れ、
 
かつ、己れのおほもとを肝に銘じながら、
 
人の育ちゆく<わたし>が、語りかける。
 
「あなたの内に、わたしは解き放たれる、
 
わたし自身であることの鎖から。
 
そして、わたしはまことわたしたるところを解き明かす」
 
          ルドルフ・シュタイナー
 
 
Es spricht zum Weltenall,
Sich selbst vergessend 
Und seines Urstands eingedenk,
Des Menschen wachsend Ich:
In dir befreiend mich
Aus meiner Eigenheiten Fessel,
Ergründe ich mein echtes Wesen.
 
 
 
「語る」とは、「聴く」ことである。
 
そのことが、言語造形をしてゐるとリアルに感じられてくる。
 
語り手みづからが聴き手となること。
 
頭で考へないで、聴き耳を立てながら、語るやうにしていく。ひらめきが語りを導いてくれるやうに。
 
「ひらめき」とは、語り手の己が空つぽになり、その空つぽになつたところに流れ込んでくる「ことばの精神」。それはまるで、からだにまで流れ込んでくる生きる力のやうだ。
 
その「ひらめき」「ことばの精神」は、聴き耳を立てるかのやうにして待つことによつて、語り手に降りてくる。
 
「語る」とき、自分が、かう語りたい、ああ語りたい、といふことよりも、「ことばといふもの」「ことばの精神」に、耳を傾け、接近し、沿つていきつつ語る。
 
己れを忘れて、かつ、己れのおほもと(ことばの精神)を頼りにしながら、語り、語り合ふことができる。
 
そのやうに、語り手が「ことばの精神」に聴き耳を立てながら語ることによつて、聴き手も「ことばの精神」に聴き耳を立てる。
 
そのやうな「ことばの精神」と親しくなりゆくほどに、語り手、聴き手、双方の内なる<わたし>が育ちゆく。
 
 
だから、今週の「ことばのこよみ」での、「世のすべてに語りかける」とは、世のすべてから流れてくる「ことばの精神」に耳を傾けることでもある。
 
そのときに流れ込んでくる「ものものしい精神」「ありありとした精神」を感じることによつて、わたしは解き放たれる。みづからにこだはつてゐたところから解き放たれる。
 
だから、たとへば、「他者に語りかける」時には、こちらから必ずしもことばを出さなくてもよく、むしろ、「他者をよく観る、他者の声に聴き耳を立てる」といふこと。
 
そのやうな「語り合ひ」「聴き合ひ」においてこそ、人は、みづからを知りゆく。「ああつ、さうか、さうだつたのか!」といふやうな、ものごとについての、他者についての、みづからについての、解き明かしが訪れる。
 
互ひがよき聴き手であるときほど、対話が楽しくなり、豊かなものになる。
 
特に、この季節、自然といふものをよく観ることによつて、聴き耳を立てることによつて、他者をよく観ることによつて、他者のことばに聴き耳を立てることによつて、自然との対話の内に、他者との対話の内に、わたしは、わたし自身であることの鎖から解き放たれる。そして、わたしは、まことわたしたるところを解き明かす。
 
芽吹き、花開くものたちにたつぷりと沿ふ喜びを積極的に見いだしていきたい。
 
 
 
世のすべてに語りかける、
己れを忘れ、
かつ、己れのおほもとを肝に銘じながら、
人の育ちゆく<わたし>が、語りかける。
「あなたの内に、わたしは解き放たれる、
わたし自身であることの鎖から。
そして、わたしはまことわたしたるところを解き明かす」
 
 


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2019年04月27日

こころのこよみ(第2週) 〜こころの農作業〜


こころのこよみ (第2週) です。
 
眼、耳、その他、十二のすべての感官を活発に働かせる。それは、せわしなく動かないこと、小賢しく考へないことと、ひとつです。
 
自分のしてゐること、しようとしてゐることの実り(結果)が、すぐに目の前に現れはしなくても、この春に耕した土からは、秋の終わりに実りをもたらしてくれます。
 
耕されることを待つてゐる土とは、わたしたちのこころです。
 
春、龍は天に昇り、わたしたち人を世の広やかさ、高さ、奥行きの深さへといざなつてくれようとしてゐます。
 
その龍は大空に雲となつて姿を垣間見せてくれることもありますが、人のこころの内側の天空に向かつて昇りゆく存在です。
 
その内なる存在を感じながら、小賢しく考へず、ただただ、花を觀るとき、わたしたちはその花の精神に触れ、自分自身の精神が芽吹いてくることを感じるのです。
 
ひとつの花には、その奥、その向かうがあるのです。
 
この春、その奥、向かうへの感覚を育むほどに、半年後の秋には、龍がこの地へと降りてくるに従つて考へる力が冴えわたり、頭が澄み切つてくるでせう。
 
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外なるすべての感官のなかで、
 
考への力はみづからのあり方を見失ふ。
 
精神の世は見いだす、
 
再び、人が芽吹いてくるのを。
 
その萌しを、精神の世に、
 
しかし、そのこころの実りを、
 
人の内に、きつと、見いだす。
 
        ルドルフ・シュタイナー
 
 
Ins Äußre des Sinnesalls
Verliert Gedankenmacht ihr Eigensein;
Es finden Geisteswelten
Den Menschensprossen wieder,
Der seinen Keim in ihnen,
Doch seine Seelenfrucht
In sich muß finden.
 
 
わたしは、目を、耳を、もつと働かせることができるはずだ。全身全靈で、ものごとにもつと集中して向かひ合ふことができるはずだ。身といふものは、使へば使ふほどに、活き活きと働くことができるやうになつてくる。
 
たとへば、自然に向かひ合ふときにも、たとへば、音樂に耳を傾けるときにも、この外なるすべての感官を通して意欲的に見ること、聴くことで、まつたく新たな経験がわたしの中で生まれる。
 
ときに、からだとこころを貫かれるやうな、ときに、浮遊感を伴ふやうな、ときに、もののかたちがデフォルメされて突出してくるやうな、そのやうな感覺を明るい意識の中で生きることができる。
 
「外なるすべての感官の中で、考への力はみづからのあり方を見失ふ」とは、感覺を全身全靈で生きることができれば、あれこれ、小賢しい考へを弄することなどできない状態を言ふのではないか。
 
このやうないのちの力に滿ちたみづみづしい人のあり方。それは、精神の世における「萌し」「芽吹き」だらう。
 
春になると、地球は息を天空に向かつて吐き出す。だからこそ、大地から植物が萌えはじめる。
 
そして、地球の吐く息に合はせるかのやうに、人のこころの深みからも、意欲が芽吹いてくる。
 
春における、そんな人の意欲の萌し、芽吹きは、秋になるころには、ある結実をきつと見いだすだらう。
 
春、天に昇る龍は、秋、地に下り行く。
 
その龍は聖なる龍だ。
 
それは、きつと、この時代を導かうとしてゐる精神ミヒャエルに貫かれた龍だらう。
 
秋から冬にかけてキリストと地球のためにたつぷりと仕事をしたミヒャエルは、その力を再び蓄へるために、春から夏にかけて、キリストと地球のこころとともに、大いなる世へと、天へと、帰りゆく。そしてまた、秋になると、ミヒャエルは力を蓄へて、この地の煤拂ひに降りてきてくれるのだ。
 
わたしたちの意欲もミヒャエルの動きに沿ふならば、春に、下から萌え出てき、感官を通して、ものを觀て、聴いて、世の精神と結びつかうとする。
 
そして、秋には、上の精神からの力をもらひつつ再び降りてきて、地に実りをもたらすべく、方向性の定まつた活きた働きをすることができる。
 
だから、春には春で意識してやつておくことがあるし、その実りをきつと秋には迎へることができる。
 
それは、こころの農作業のやうなものだ。
 
 
 
外なるすべての感官のなかで、
考への力はみづからのあり方を見失ふ。
精神の世は見いだす、
再び、人が芽吹いてくるのを。
その萌しを、精神の世に、
しかし、そのこころの実りを、
人の内に、きつと、見いだす。
 
 

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2019年04月22日

こころのこよみ(第1週) 〜復活祭の調べ〜


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世の広がりから、
 
陽が人の感官に語りかけ、
 
そして喜びがこころの深みから、
 
光とひとつになる、観ることのうちに。
 
ならば、己れであることの被ひから広がり渡る、
 
考へが空間の彼方へと。
 
そしておぼろげに結びつける、
 
人といふものをありありとした精神へと。
 
         ルドルフ・シュタイナー
 
 
 
Wenn aus den Weltenweiten
Die Sonne spricht zum Menschensinn
Und Freude aus den Seelentiefen
Dem Licht sich eint im Schauen,
Dann ziehen aus der Selbstheit Hülle
Gedanken in die Raumesfernen
Und binden dumpf
Des Menschen Wesen an des Geistes Sein.
 
 
  
自分自身のこころが、光とひとつになり、喜びに溢れだす。
 
陽の光(外なる自然)と、こころの光(内なる自然)が、ひとつになる。
 
そんな己れのありようを観る。
 
ものをぢつと見る。ものも、ぢつとわたしを見てゐる。
 
ものをぢつと、見つめるほどに、ものもわたしに応へようとでもしてくれるかのやうに、様々な表情を見せてくれるやうになる。
 
そんな、わたしとものとの関係。それは、意欲と意欲の交はりだ。
 
その交はりのなかからこそ、喜びが生まれる。
 
そして、喜びこそが、わたしのこころを空間の彼方へと拡げてくれる。
 
とかく、狭いところで右往左往しがちな、わたしの考へ。
 
だが、観ることによつて生まれてくる喜びが、わたしによつて考へられる考へを、自分なりの考へ方、感じ方といふいつもの己れの被ひを越えて拡げてゆく。
 
それによつて、新しく、生まれ変はつたやうなこころもち。こころの甦り。わたしだけが行ふわたしだけの復活祭。
 
そして、ありありとした精神は、そこに。生活を新しく開く鍵は、まうすぐ、そこに。
 
しかし、まだ、しつかりとは、その精神とは結びつくことができない。ことばといふ精神が降りてくるまでには、聖霊降臨祭(復活祭の50日後)を待つこと。
 
いまは、おぼろげに、結びつくことができるだけだ。
 
そんな己れのありようを観てゐる。
 
 
 
世の広がりから、
陽が人の感官に語りかけ、
そして喜びがこころの深みから、
光とひとつになる、観ることのうちに。
ならば、己れであることの被ひから広がり渡る、
考へが空間の彼方へと。
そしておぼろげに結びつける、
人といふものをありありとした精神へと。
 
 

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2019年04月17日

こころのこよみ(第52週)〜十字を生きる〜


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こころの深みから
 
精神がみづからありありとした世へと向かい、
 
美が空間の拡がりから溢れ出るとき、
 
天の彼方から流れ込む、
 
生きる力が人のからだへと。
 
そして、力強く働きながら、ひとつにする、
 
精神といふものと人であることを。
 
          ルドルフ・シュタイナー
 
 
Wenn aus den Seelentiefen 
Der Geist sich wendet zu dem Weltensein 
Und Schönheit quillt aus Raumesweiten,
Dann zieht aus Himmelsfernen
Des Lebens Kraft in Menschenleiber
Und einet, machtvoll wirkend,
Des Geistes Wesen mit dem Menschensein.
 
 
 
ものをぢつと観る。ものがありありとしてくるまで、ぢつと観る。そのとき、こころの深みが動く。こころの力を振り絞つて、そのものとひとつにならうとするとき、わたしの精神とものの精神との交流が始まる。
 
そして、また、そのときに、方向で言へば、まさに上から、天から、そのつどそのつど、フレッシュな光、息吹き、啓けがやつてくる。
 
言語造形をしてゐるときも、同じだ。
 
みづから稽古してゐるとき、うまくいかなくても、それでも繰り返し、繰り返し、ことばがありありとしたものになるまで、美が立ち上がつてくるまで、ことばに取り組んでゐるうちに、また、他者のことばをこころの力を振り絞りながら聴いてゐるときに、「これだ!」といふ上からの啓けに見舞はれる。
 
そのたびごとに、わたしは、力をもらえる。喜びと安らかさと確かさをもつて生きる力だ。
 
精神である人は、みづからのこころとからだを使つて、ぢつと観る。聴く。働く。美を追ひ求める。
 
そのとき、世の精神は、力強く、天から働きかけてくれる。
 
そして、精神と人とをひとつにしようとしてくれてゐる。
 
人と世が、美を通して出会ひ、(横の出会ひ)
人と天が、生きる力を通して出会ひ、(縦の出会ひ)
 
その横と縦の出会ひが十字でクロスするところで、『こころのこよみ』は、この第52週をもつて一年を終へる。
 
 
 
こころの深みから
精神がみづからありありとした世へと向かい、
美が空間の拡がりから溢れ出るとき、
天の彼方から流れ込む、
生きる力が人のからだへと。
そして、力強く働きながら、ひとつにする、
精神といふものと人であることを。
 
 

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2019年04月07日

こころのこよみ(第51週) 〜花が待つてゐる〜


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人といふものの内へと
 
感官を通して豊かさが流れ込む。
 
世の精神はおのれを見いだす、
 
人のまなこに映る相(すがた)の中に。
 
その相(すがた)から力が、
 
きつと新たに汲み上げられる。
 
       ルドルフ・シュタイナー

 
 
Ins Innre des Menschenwesens
Ergießt der Sinne Reichtum sich,
Es findet sich der Weltengeist
Im Spiegelbild des Menschenauges,
Das seine Kraft aus ihm
Sich neu erschaffen muß.
 
 
 
より目を開いて、より耳を澄まして、ものごとといふものごとにぢつと向かいあつてみれば、ものごとは、より活き活きとした相(すがた)をわたしに顕はしてくれる。
 
わたしが花をそのやうに観てゐるとき、花もわたしを観てゐる。
 
そして、わたしの瞳の中に映る相(すがた)は、もはや死んだものではなく、ますます活きたものになりゆく。
 
また、その活きたものになりゆく相を映すわたしの瞳も、だんだんとそのありようを深めていく。物理的なものの内に精神的なものを宿すやうになる。
 
花へのそのやうなアクティブな向かいようによつて、わたしみづからが精神として甦る。
 
そして、その深まりゆくわたしの内において、花の精神(世の精神)が甦る。花の精神は、さういふ人のアクトを待つてゐる。
 
「待つ」とは、そもそも、神が降りてこられるのを待つことを言つたさうだ。
 
松の木は、だから、神の依り代として、特別なものであつたし、祭りとは、その「待つ」ことであつた。
 
中世以前、古代においては、人が神を待つてゐた。
 
しかし、いま、神が、世の精神が、人を待つてゐる。
 
世の精神が、おのれを見いだすために、わたしたち人がまなこを開くのを待つてゐる。
 
 
 
人といふものの内へと
感官を通して豊かさが流れ込む。
世の精神はおのれを見いだす、
人のまなこに映る相(すがた)の中に。
その相(すがた)から力が、
きつと新たに汲み上げられる。

 
 
 

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2019年03月30日

こころのこよみ(第50週)〜願はくば、人が聴くことを!〜


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奈良の三輪山の辺に開花し始めた桜 

この時期の、目の前に繰り拡がつてくる現象に酔ふのも人生の喜びであり、悲しみでもある。
 
しかし、その現象の奥にあるものをしかと見つめるとき、何が見えてくるか。何が聴こえてくるか。
 
さういふ「ものを観」「ことばを聴く」ためには、まづ、己れみづからの奥にあるものをしかと見つめ、己れみづからの声に耳を澄ます必要がある。  

 
 
人の<わたし>に語りかける。
 
みづから力強く立ち上がりつつ、
 
そしてものものしい力を解き放ちつつ、
 
世のありありとした繰りなす喜びが語りかける。
 
「あなたの内に、わたしのいのちを担ひなさい。
 
魔法の縛りを解いて。
 
ならば、わたしは、まことの目当てに行きつく」
 
           ルドルフ・シュタイナー

 
 
Es spricht zum Menschen-Ich,
Sich machtvoll offenbarend
Und seines Wesens Kraefte loesend,
Des Weltendaseins Werdelust:
In dich mein Leben tragend
Aus seinem Zauberbanne
Erreiche ich mein wahres Ziel.
 
 
 
咲きはじめた桜。他の木々や草花たちのたたずまひ。なんと「ものものしい」までに、活き活きとしてゐることだらう。
 
明るく暖かな日差しの中で、それぞれの植物が歓声を上げてゐるのが聴こえてくるやうな気がする。
 
この週の「こよみ」において、「世のありありとした繰りなす喜びが、人の<わたし>に語りかける」とある。
 
この語りかけを人は聴くことができるだらうか。
 
2行目に「offenbarend」といふことばがあつて、それを「立ち上がりつつ」と訳してみたが、鈴木一博さんによると、この「offenbaren」は、「春たてる霞の空」や、「風たちぬ」などの「たつ」だと解いてをられる。
 
「たつ」とはもともと、目に見えないものがなんらかの趣きで開かれる、耳に聴こえないものがなんらかの趣きで顕わに示される、といふ日本語ださうだ。
 
「春がたつ」のも、「秋がたつ」のも、目には見えないことだが、昔の人は、それを敏感に感じ、いまの大方の人は、それをこよみで知る。
 
いま、植物から何かが「力強く」「ものものしく」立ち上がつてきてゐる。
 
人の<わたし>に向かつて、<ことば>を語りかけてきてゐる!
 
わたしは、それらの<ことば>に耳を傾け、聴くことができるだらうか。
 
喜びの声、励ましの声、時に悲しみの声、嘆きの声、それらをわたしたち人は聴くことができるだらうか。
 
それらを人が聴くときに、世は「まことの目当てに行きつく」。
 
「聴いてもらえた!」といふ喜びだ。
 
世が、自然が、宇宙が、喜ぶ。
 
シュタイナーは、「願はくば、人が聴くことを!」といふことばで、晩年の『礎(いしずえ)のことば』といふ作品を終へてゐる。
 
願はくば、人が、
世の<ことば>を、
生きとし生けるものたちの<ことば>を、
海の<ことば>を、
風の<ことば>を、
大地の<ことば>を、
星の<ことば>を、
子どもたちの<ことば>を、
聴くことを!
 
 
人の<わたし>に語りかける。
みづから力強く立ち上がりつつ、
そしてものものしい力を解き放ちつつ、
世のありありとした繰りなす喜びが語りかける。
「あなたの内に、わたしのいのちを担ひなさい。
魔法の縛りを解いて。
ならば、わたしは、まことの目当てに行きつく」

 
 
諏訪耕志記
 

 


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2019年03月24日

こころのこよみ(第49週) 〜夜と昼〜


雲海を見下ろすさすらい人 .jpg
Friedrich 「雲海を見下ろすさすらひ人」
 

「わたしは世のありありとした力を感じる」
 
さう、考への明らかさが語る。
 
考へつつ、みづからの精神が長けゆく、
 
暗い世の夜の中で。
 
そして世の昼に近づきゆく、
 
内なる希みの光をもつて。
 

       ルドルフ・シュタイナー

 
 
 
Ich fühle Kraft des Weltenseins:
So spricht Gedankenklarheit,
Gedenkend eignen Geistes Wachsen
In finstern Weltennächten,
Und neigt dem nahen Weltentage
Des Innern Hoffnungsstrahlen.
 
 
  
今週の『こころのこよみ』について、以前書いたもののうちのひとつに、2011年3月11日のことがあつてすぐのものがある。
http://kotobanoie.seesaa.net/article/191122893.html
 
地震と津波と原発事故から遠く離れた大阪に生きてゐる自分にとつてさへも、この『こよみ』で言はれてゐることが、あの当時、リアリティーをもつて強く迫つてきた。
 
今年、この週の『こよみ』に、精神のありやうから、もう一度、向かひ合ふ中で、シュタイナーの1923年2月3日、4日のドルナッハでの講演『夜の人と昼の人』の内容と、今週の『こよみ』が響き合つてきた。
 
春が近づいてくる中で感じる、ありありとした世の力。
 
たとへ、その力を感じることができても、わたしが考へつつ、その感じを考へで捉へなければ、わたしはそれをことばにして言ひ表すことはできない。
 
世のありありとした力も、それに対して湧きあがつてくる感じも、<わたし>といふ人からすれば、外側からやつてくるもの。
 
それらに対して、人は、考へることによつて、初めて、内側から、<わたし>から、応へることができる。
 
そのやうにして外側からのものと内側からのものが合はさつて、知るといふこと(認識)がなりたち、ことばにして言ひ表すこともできる。
 
2011年の3月11日以来の月日の中で、わたしたちの外側からあまりにもたくさんの世の力がありありと迫つてきた。
 
そんな外側からの力に対し、わたしたちの内側からの考へる力が追ひつかない、そんな脅威と焦慮にわたしたちは見舞はれた。
 
そして、たくさんの、たくさんの、ことばが行き交つた。
 
わたしたちの考へる力は、その都度その都度、外の世からやつてくる力に対して応じていかざるをえないが、しかし、そのことに尽きてしまはざるをえないのだらうか。
 
対応していくにしても、その考へる力が、明らかな一点、確かな一点に根ざさないのならば、その対応は、とかくその場限りの、外の世に振り回されつぱなしのものになりはしないだらうか。
 
その確かな一点、明らかな一点とは、「わたしはある」といふことを想ひ起こすこと、考へることであり、また、その考へるを見るといふこと。
 
他の誰かがかう言つてゐるから、かう考へる、ああ言つてゐるから、ああ考へるのではなく、他の誰でもないこの「わたしはある」といふ一点に立ち戻り、その一点から「わたしが考へる」といふ内からの力をもつて、外の出来事に向かつていくことができる。
 
それは、外の出来事に振り回されて、考へるのではなく、内なる意欲の力をもつて、みづから考へるを発し、みづから考へるを導いていくとき、考へは、それまでの死んだものから生きてゐるものとして活き活きと甦つてくる。
 
そのとき、人は、考へるに<わたし>を注ぎ込むこと、意欲を注ぎ込むことによつて、「まぎれなく考へる」をしてゐる。(この「まぎれなく考へる」が、よく「純粋思考」と訳されてゐるが、「いはゆる純粋なこと」を考へることではない)
 
わたしたちが日々抱く考へといふ考へは、死んでゐる。
 
それは、考へるに、<わたし>を注ぎ込んでゐないからだ。みづからの意欲をほとんど注ぎ込まずに、外の世に応じて「考へさせられてゐる」からだ。そのやうな、外のものごとから刺戟を受けて考へる考へ、なほかつ、ものごとの表面をなぞるだけの考へは、死んでゐる。
 
多くの人が、よく、感覚がすべて、感じる感情がすべてだと言ふ。実は、その多くの人は、そのやうな死んだ考へをやりくりすることに対するアンチパシーから、ものを言つてゐるのではないだらうか。
 
ところが、そのやうな受動的なこころのあり方から脱して、能動的に、エネルギッシュに、考へるに意欲を注ぎ込んでいくことで、考へは死から甦り、生命あるものとして、人に生きる力を与へるものになる。
 
その人に、軸ができてくる。
 
世からありとあらゆる力がやつてくるが、だんだんと、その軸がぶれることも少なくなつてくるだらう。
 
その軸を創る力、それは、みづからが、考へる、そして、その考へるを、みづからが見る。この一点に立ち戻る力だ。
 
この一点から、外の世に向かつて、その都度その都度、考へるを向けていくこと、それは、腰を据ゑて、その外のものごとに沿ひ、交はつていくことだ。
 
では、その力を人はどうやつて育んでいくことができるのだらうか。また、そのやうに、考へるに意欲を注ぎ込んでいく力は、どこからやつてくるのだらうか。
 
それは、夜、眠つてゐる間に、人といふ人に与へられてゐる。
 
ただし、昼の間、その人が意欲を注ぎつつ考へるほどに応じてである。
 
夜の眠りの間に、人はただ休息してゐるのではない。
 
意識は完全に閉ぢられてゐるが、考へるは、意識が閉ぢられてゐる分、まつたく外の世に応じることをせずにすみ、よりまぎれなく考へる力を長けさせていく。
 
それは、眠りの間にこそ、意欲が強まるからだ。ただ、意欲によつて強められてゐる考へる力は、まつたく意識できない。
 
眠りの間に、わたしたちは、わたしたちの故郷であるこころと精神の世へと戻り、次の一日の中でフレッシュに力強く考へる力をその世の方々から戴いて、朝、目覚める。
 
要は、夜の眠りの間に長けさせてゐる精神の力を、どれだけ昼の間にみづからに注ぎこませられるかだ。
 
そのため、ひとつに、本を読むときに、もつと、もつと、エネルギッシュに、意欲の力を注ぎ込んでいい。
 
それは、人のこころを育てる。
 
現代人にもつとも欠けてゐる意欲の力を奮ひ起こすことで、死んだ考へを生きた考へに甦らせることこそが、こころの育みになる。
 
文といふ文を、意欲的に、深めること。
 
ことばを通して、述べられてゐる考へに読む人が生命を吹き込むこと。
 
その力は、夜の眠りの間に、高い世の方々との交はりによつてすべての人が贈られてゐる。
 
夜盛んだつた意欲を、昼の間に、どれだけ人が目覚めつつ、意識的に、考へるに注ぎ込むか。
 
その内なる能動性、主体性、エネルギーこそが、「内なる希みの光」。
 
外の世へのなんらかの希みではなく、<わたし>への信頼、<わたし>があることから生まれる希みだ。
 
その内なる希みの光こそが、昼のあひだに、人を活き活きとさせ、また夜の眠りのあひだに、精神を長けさせる。
 
その夜と昼との循環を意識的に育んでいくこと、「内なる希みの光」を各々育んでいくこと、それが復活祭を前にした、こころの仕事であり、2011年3月11日以降の日本に生きるわたしたちにとつて、実はとても大切なこころの仕事なのだと思ふ。
 
 
 
「わたしは世のありありとした力を感じる」
さう、考への明らかさが語る。
考へつつ、みづからの精神が長けゆく、
暗い世の夜の中で。
そして世の昼に近づきゆく、
内なる希みの光をもつて。

 
  
 


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2019年03月16日

こころのこよみ(第48週)〜行はれたし、精神の見はるかしを〜


IMGP0181.JPG
熱田神宮にて

毎週、こころのこよみに寄り沿ふことで、季節の巡りに秘められてゐる規範がこころの中に樹木のやうに育つていきます。
 
 
世の高みから
 
力に滿ちてこころに流れてくる光の中で
 
現はれよ、こころの謎を解きながら、
 
世の考への確かさよ。
 
その光り輝く力を集め、
 
人の心(臟)の中に愛を呼び覺ますべく。
 
           ルドルフ・シュタイナー

 
 
 
Im Lichte das aus Weltenhöhen
Der Seele machtvoll fliessen will
Erscheine, lösend Seelenrätsel
Des Weltendenkens Sicherheit
Versammelnd seiner Strahlen Macht
Im Menschenherzen Liebe weckend.
 
 
 
考へる力といふものについて、人はよく誤解する。
 
考へるとは、あれこれ自分勝手にものごとの意味を探ることでもなく、浮かんでくる考へに次から次へとこころをさまよはせることでもなく、何かを求めて思ひわづらふことでもなく、ものごとや人を裁くことへと導くものでもない。
 
考へるとは、本來、みづからを置いてものごとに沿ふこと、思ひわづらふことをきつぱりと止めて、考へが開けるのをアクティブに待つこと、そして、ものごととひとつになりゆくことで、愛を生みだすこと。
 
今囘、鈴木一博さんの『礎のことば』の読み説きから多くの示唆を得てゐる。
 
人が考へるとは、考へといふ光が降りてくるのを待つこと、人に考へが開けることだ。
 
考へが開けるきつかけは、人の話を聴く、本を読む、考へに考へ拔く、道を歩いてゐて、ふと・・・など、人によりけり、時と場によりけり、様々あるだらうが、どんな場合であつても、人が頭を安らかに澄ませたときにこそ、考へは開ける。たとへ、身体は忙しく、活発に、動き回つてゐても、頭のみは、靜かさを湛えてゐるほどに、考へは開ける。
 
そして、頭での考への開けと共に、こころに光が当たる。考へが開けることによつて、こころにおいて、ものごとが明るむ。そして、こころそのものも明るむ。
 
「ああ、さうか、さうだつたのか!」といふときのこころに差し込む光の明るさ、暖かさ。誰しも、覚えがあるのではないだらうか。
 
明るめられたこころにおいて、降りてきたその考へは、その人にとつて、隈なく見通しがきくものだ。
 
また、見通しがきく考へは、他の人にとつても見通しがきき、その人の考へにもなりうる。
 
そもそも、考へは誰の考へであつても、考へは考へだから。
 
人に降りてくる考へは、その人の考へになる前に、そもそも世の考へである。
 
自然法則といふものも、自然に祕められてゐる世の考へだ。
 
人が考へることによつて、自然がその祕密「世の考へ」を打ち明ける。
 
その自然とは、ものといふものでもあり、人といふ人でもある。
 
目の前にゐる人が、どういふ人なのか、我が子が、どういふ人になつていくのか、もしくは、自分自身がどういふ人なのか、それは、まづもつては、謎だ。
 
その謎を謎として、長い時間をかけて、ものごとと、その人と、もしくはみづからと、腰を据えてつきあひつつ、その都度その都度、こころに開けてくる考へを摑んでいくことによつてのみ、だんだんと、そのものごとについて、その人について、もしくは、わたしといふ人について、考へが頭に開け、光がこころに明るんでくる。
 
それはだんだんと明るんでくる「世の高みからの考へ」でもある。
 
わたしなりの考へでやりくりしてしまふのではなく、からだとこころをもつて対象に沿ひ続けることによつて、「世の考へ」といふ光が頭に降りてくるのを待つのだ。
 
すぐに光が降りてくる力を持つ人もゐる。長い時間をかけて、ゆつくりと光が降りてくるのを待つ人もゐる。
 
どちらにしても、そのやうに、考へと共にこころにやつてくる光とは、世からわたしたちへと流れるやうに贈られる贈り物といつてもいいかもしれない。
 
さらに言へば、それは、わたしの<わたし>が、わたしの<わたし>に、自由に、本当に考へたいことを、考へとして、光として、贈る贈り物なのだ。
 
____________________________________________
 
人のこころ!
あなたは安らふ頭に生き
頭は、あなたに、とわの基から
世の考へを打ち明ける。
行はれたし、精神の見はるかしを
考への安らかさのうちに。
そこにては神々の目指すことが
世とものとの光を
あなたの<わたし>に
あなたの<わたし>が自由に欲すべく
贈る。
もつて、あなたは真に考へるやうになる
人と精神との基にて。         
(『礎のことば』より)  

 
_____________________________________________

 
その贈り物があるからこそ、わたしたちは、また、世の考へが贈られるのを待ちつつ考へることができるし、考への光が降りてくればこそ、わたしたちは、こころの明るさと共に、その考へを見通し、見はるかすことができ、その見はるかしからこそ、こころに愛が目覚めうる。
 
ある人の長所にあるとき、はつと氣づいて、その人をあらためてつくづくと見つめ、その人のことを見直したり、好ましく思つたりもする。
 
長所にはつと氣づく、それこそが、考への光が降りてきたといふことだらうし、その人について光をもつて考へられるからこそ、こころに愛が呼び覚まされるのだらう。
 
人を愛する時とは、世の高みから、力に滿ちて流れてくる「世の考へ」が、こころに開ける時。
 
考へが開けるとき、そこには、きつと、愛がある。
 
愛が生まれないときは、考へてゐるやうで、実は考へてゐない。自分勝手に考へや思ひをいぢくりまはしてゐるか、巡り巡る考へや思ひに飜弄されてゐるときだ。
 
考へることによつて愛が生まれることと、愛をもつて考へることとは、きつと、ひとつの流れとして、人の内側で循環してゐる。
 
  
 
世の高みから
力に滿ちてこころに流れてくる光の中で
現はれよ、こころの謎を解きながら、
世の考への確かさよ。
その光り輝く力を集め、
人の心(臟)の中に愛を呼び覺ますべく。

  

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2019年03月07日

こころのこよみ(第47週) 〜揺れ動く感情の向かう側〜


IMGP0301.JPG 
写真は、奈良県桜井市の等禰神社



世のふところから甦つてくるだらう、
 
感官への輝きを息づかせる繰りなす喜びが。
 
その喜びは見いだす。わたしの考へる力が、
 
神々しい力を通して備へられ、
 
力強いわたしとして内に生きてゐることを。
 
ルドルフ・シュタイナー
 
 
 
Es will erstehen aus dem Weltenschosse,
Den Sinnenschein erquickend Werdelust,
Sie finde meines Denkens Kraft
Gerüstet durch die Gotteskräfte
Die kräftig mir im Innern leben.
 
 
 
喜び、哀しみ、安らぎ、恐れ、慈しみ、怒り・・・・。
 
わたしたちは、いま、近づいて来る春に備へて、様々な感情を味はつてゐます。
 
感情といふものは、人のこころをときめかしもするし、落ち着かせてくれたりもしますが、時に、ざわつかせ、掻き乱しもします。
 
わたしたちのこころは、シンパシーとアンチパシーの間で、常に揺れ動いてゐます。
 
しかし、人は、そのシンパシー、アンチパシーのままにこころを動かされるだけでなく、その間に立つて、そのふたつの間合ひをはかり、そのふたつを引き合はせつつ、バランスを保ちつつ、静かなこころでゐることもできるのです。
 
立ち止まつて、息を深くしてみませう。
 
さらに、ものをじつと、見つめてみませう。
 
乱れてゐた呼吸と心拍も整つて来ます。
 
さうして、静かな一点に立つことができたら、それまでこころを支配してゐた感情そのものが、このわたしに何を教へようとしてゐたのかに気づくことができます。
 
喜びであれ、悲しみであれ、感情こそが、実は、わたしたちの導き手です。
 
感情こそが、そのさらに内側に、「考へる力」としての〈わたし〉が控えてゐたことを教へるきつかけを与へてくれます。
 
その〈わたし〉を見いだすには、シンパシーとアンチパシーとの間に静かに立つ練習が要ります。
 
その練習を通して見いだされる〈わたし〉は、神々しい力と共にある、これまでよりも力強い〈わたし〉です。
 
 

 
世のふところから甦つてくるだらう、
感官への輝きを息づかせる繰りなす喜びが。
その喜びは見いだす。わたしの考へる力が、
神々しい力を通して備へられ、
力強いわたしとして内に生きてゐることを。
 
 
 


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2019年03月01日

こころのこよみ(第46週) 〜想ひ起こす 源を〜


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世、それはいまにもぼやかさうとする、
 
こころのひとり生みの力を。
 
だからこそ、想ひ起こせ、
 
精神の深みから輝きつつ。
 
そして観ることを強め、
 
意欲の力を通して、
 
己れを保つことができるやうに。
 
ルドルフ・シュタイナー
 
 
 
Die Welt, sie drohet zu betäuben
Der Seele eingeborne Kraft;
Nun trete du, Erinnerung,
Aus Geistestiefen leuchtend auf
Und stärke mir das Schauen,
Das nur durch Willenskräfte
Sich selbst erhalten kann.
 
 
 
「ひとり生み( eingeborne )」とは、何でせうか。
 
同じくシュタイナーのヨハネ福音書講義の第四講にそのことばが出てきます。

かつて福音書が書かれた頃、「ふたり生み」といふのは、父と母の血の混じりあひから生まれた者のこと、「ひとり生み」といふのは、そのやうな血の混じりあひから生まれた者でなく、神の光を受け入れることによつて、精神とひとつになつた者、精神として生まれた者、神の子、かうごうしい子のことだつたと。
 
ここで、この「ひとり生み」といふことばを深める必要があるやうに思ひます。
 
「ひとり生み」などといふことが本当にあり得るのか。
 
男と女が交はらずに、子どもが生まれて來ることなどあり得るのか。
 
キリスト・イエス伝説では、そのことが母マリアの処女懐胎として諾はれてゐます。
 
同じヨハネ福音書の冒頭に、こんなことばがあります。
 
「 ことば(ロゴス)、肉となれり 」
 
マリアに、「ことば」が宿つたのでした。
 
ことばとは、そもそも精神であります。
 
精神の伝へであります。
 
言霊(ことだま)であります。
 
精神が宿る場所は、人のこころです。
 
マリアは、精神を受け入れることのできる、清らかなこころの持ち主でありました。
 
さうして、実際に、肉体を持つた幼な子が、その精神を受け入れた女から生まれるといふことが、あり得る。
 
降りて來る精神が、あまりにも尊く強い力を持つものであればこそ、そんな常とは異なる化学反応に類するやうなことが起こり得る。
 
さういふ奇跡としか言ひやうがないことが、この世には起こり得る。
 
そのやうな「ひとり生み」によつて生まれて来た人のことを、我が国では何と呼んだのでせうか。

「覚者」、「善智識」でせうか。これらはきつと仏教からのことばですね。

柳田国男の『新たなる太陽』といふ文章の中で、「大子(おほいこ)、すなはち神の長子」といふことばも読むことができます。
 
または、逆に、「小さ子(ちいさこ)」と呼ばれる子どものことも、神の子として「桃太郎」や「つぶ長者」や「竹取物語」などのお話しでわたしたちに伝へられてきましたね。
 
きつと、我が国においても、「ひとり生みの子」「大い子」「小さ子」は、その存在を神秘の内に認められて来たのではないでせうか。
 
また、わたしたち凡庸なる者は、当たり前に、男と女の交はりによつて肉として生まれて来ます。
 
しかし、この「ひとり生み」は、精神的に、わたしたちの内において、わたしたちのこころにおいて、起こり得ないでせうか。
 
ある日、「ことば」を孕み、その「ことば」を出産するがごとく、外へと発する、そんな日が、ありはしないでせうか。
 
「ことば」とは、己れの清められたこころ(マリア)に、外なる太陽の精神(キリスト)が訪れ(※)、出会ひ、結びつき、新たな子(イエス)を産むがごとくして、世に放たれるものです。
 
「ことば」とは、そもそも、人をひとり立ちさせようとするものです。
 
そのひとり立ちする力が、春が近づいて來るこの時期、ぼやかされようとしてゐる。
 
己れを保つて、ひとり立ちできるやう、わたしたちは、意欲的に想ひ起こすことがたいせつな作業になつて来ます。
 
何を想ひ起こすのか。
 
それは、精神の深み、です。
 
精神の深みとは何か。
 
それは、自分よりも大きな存在があられるといふことです。
 
わたしたちは、想ひ起こすのです。
 
こざかしく、考へを弄するのではなく、自分よりも大きな存在と共に毎日を歩いていく、そのありがたさを。
 
そして、わたしたちは、みな、いつでも、己れのこころの内から新しくひとり生みの子を生み出すことができるといふことを。
 
 
 
世、それはいまにもぼやかさうとする、
こころのひとり生みの力を。
だからこそ、想ひ起こせ、
精神の深みから輝きつつ。
そして観ることを強め、
意欲の力を通して、
己れを保つことができるやうに。
 
 
 
 
※マリアに宿つた精神のことについては、より精確に述べなければなりませんが、ここでは、記述が更に多量になることをはばかり、このやうな書き方をしてゐます。

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2019年02月24日

こころのこよみ(第45週) 〜明るく灯される光〜


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平櫛田中作『活人箭』 

 
考へる力が強まる、
 
精神の生まれとの結びつきの中で。
 
それは感官へのおぼろげなそそりを
 
まつたき明らかさへともたらす。
 
こころの満ち足りが
 
世の繰りなしとひとつになりたいのなら、
 
きつと感官への啓けは、
 
考へる光を受けとめる。
 
ルドルフ・シュタイナー 
 

Es festigt sich Gedankenmacht
Im Bunde mit der Geistgeburt,
Sie hellt der Sinne dumpfe Reize
Zur vollen Klarheit auf.
Wenn Seelenfülle
Sich mit dem Weltenwerden einen will,
Muß Sinnesoffenbarung       
Des Denkens Licht empfangen.
 
 
 
ここで言はれてゐる「考へる力」とは、余計なことを考へない力のことである。
 
そして、この時、この場で、何が一番大事なことかを考へる力のことだ。 
 
その力を持つためには、練習が要る。その練習のことを、シュタイナーはメディテーションと言つた。  
 
普段に感じる共感(シンパシー)にも反感(アンチパシー)にも左右されずに、浮かんでくる闇雲な考へを退けて、明らかで、鋭く、定かなつくりをもつた考へに焦点を絞る。
 
ひたすらに、そのやうな考へを安らかに精力的に考へる練習だ。
 
強い意欲をもつて考へることで、他の考へが混じり込んだり、シンパシーやアンチパシーに巻き込まれて、行くべき考への筋道から逸れて行つてしまはないやうにするのだ。
 
その繰り返すメディテーションによつて、「考へる力」が強く鍛へられる。
 
その強められた考へる力によつて、己れのこころにそそりが及んできてゐるのがおぼろげに感じられるやうになる。
 
そしてさらに、だんだんとそのそそりがこころの中の何をそそつてゐるのか、明らかになつてゆく。
 
それが明らかになるほどに、こころは満ち足りを感じる。こころのなかに精神が生まれるからだ。
 
そして、そのこころの満ち足りは、自分だけの満ち足りに尽きずに、人との関はり、世との関はりにおいてこそ、本当の満ち足りになるはずだ。
 
こころの満ち足りは、やがて、ことばとなつて羽ばたき、人と人とのあひだに生きはじめ、精神となつて、人と世のあひだに生きはじめる。
 
こころの満ち足りが世の繰りなしとひとつになつてゆく。
 
ひとりで考へる力は考へる光となつて、人と人のあひだで、人と世のあひだで、明るく灯されるのだ。
 
 
 
考へる力が強まる、
精神の生まれとの結びつきの中で。
それは感官へのおぼろげなそそりを
まつたき明らかさへともたらす。
こころの満ち足りが
世の繰りなしとひとつになりたいのなら、
きつと感官への啓けは、
考へる光を受けとめる。
 
 


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2019年02月09日

こころのこよみ(第44週) 〜考へつつ創りなす意欲〜


IMG_1078.JPG 

 
新しい感官へのそそりに捉へられ、
 
こころに明らかさが満ちる。
 
満を持して精神が生まれたことを念ふ。
 
世の繰りなしが、絡みあひながら芽生える、
 
わたしの考へつつ創りなす意欲とともに。
 
ルドルフ・シュタイナー
 
 
Ergreifend neue Sinnesreize
Erfüllet Seelenklarheit,
Eingedenk vollzogner Geistgeburt,
Verwirrend sprossend Weltenwerden
Mit meines Denkens Schöpferwillen.
 
 
 
2月もだんだんと半ば近くになり、空気の冷たさはいつさう厳しくなつてきてゐるが、陽の光の明るさが増してきてゐることが感じられる。
 
わたしたちの感官に、まづ、訴へてくるのは、その陽の光だ。
 
冬から春への兆しを、わたしたちは何よりもまず、陽の光のありやうに感じ取つてゐる。
 
しかし、現代を生きてゐるわたしたちは、その外なる陽の光が明るさを増してきてゐることを感じはしても、それ以上の何かを感じることはほとんどないのではないだらうか。
 
昔の人は、その陽の光に、あるものを感じ取つてゐた。
 
それは、ひとりひとりを、神の力と結ぶことによつて、まさしく精神としての『人』とする力だ。
 
太陽を見上げたときに、次のやうな情を強く感じた。
 
 
「この天の存在から、
 光とともにわたしたちの内に、
 わたしたちを暖め、
 わたしたちを照らしながら、
 わたしたちに染み渡り、
 わたしたちひとりひとりを
 『人』とするものが流れ込んでくる」
 
(『人の生きることにおける、
  引き続くことと繰りなすこと
  1918年10月5日ドルナッハ』より)
 
 
しかし、だんだんと、そのやうな情と感覚は失はれてきた。
 
陽の光を通して感じてゐた神からの叡智がだんだんと失はれてきた。
 
そして人は、自分の周りの事柄に対しては智識を増やしてはいつたが、ますます、自分は何者か、自分はどこからやつてき、どこへ行くのかが、分からなくなつてきた。
 
人といふものが、そして自分自身こそが、ひとつの謎になつてきたのだ。
 
そのとき、ゴルゴタのこと、イエス・キリストの十字架における死と、墓からの甦りが起こつた。
 
もはや、物質としての太陽の光からは、わたしたちを『人』とする力を感じ、意識することはできない。
 
しかし、キリストがこの世にやつてき、さらにゴルゴタのことが起こることによつて、もはや外の道ではやつてくることができない力、人のもつとも内なる深みから、精神から、自分を『ひとりの人』とする力が立ち上がつてくる可能性が開けた。
 
イエス・キリストはみづからをかう言つた。「わたしは、世の光である」。
 
ふたたび、ひとりひとりの人に、みづからを『ひとりの人』として捉へうる力がもたらされた。
 
その力は物質の太陽の光からでなく、精神の光から、もたらされてゐる。
 
わたしたちは、2月の明るくなりゆく陽の光からのそそりとともに、精神的な観点からも、内なる陽の光からのそそりを捉へてみよう。
 
さうすることから、きつと、わたしたちは、みづからの出自を改めて明らかさとともに想ひ起こすことができる。
「わたしは、ひとりの<わたし>である」と。
「わたしは、そもそも、精神の人である」と。
「<わたし>は、ある」と。
 
キリスト、そしてゴルゴタのことの意味。
 
わたしたちは、そのことを、「いま、想ひ起こす」「念ふ」ことができる。
 
「新しい感官へのそそりに捉へられ、
 こころに明らかさが満ちる。
 満を持して精神が生まれたことを念ふ」
 
そして、明るさを増してきてゐる陽の光によつて、外の世において、命が、植物や動物たちの中で繰りなしてくる。絡みあひながら、芽生えながら。
 
さらに、わたしたち人は、秋から冬の間に、まぎれなき考へる力を内において繰りなしてきた。
 
考へる力には、意欲の力が注ぎ込まれてこそ、まぎれなき考へる力となる。
 
考へる力に、創りなす意欲が注ぎ込まれてこそ、人はまぎれなき考へる力において、自由になりうる。
 
外の世の命の繰りなし、出来事の繰りなしに、内の世の繰りなし、意欲的に考へることを重ねることによつてこそ、わたしたちは、みづから自由への道を開いていくことができる。
 
日々、自分に向かつてやつてくるものごとのひとつひとつを、自分に対してのメッセージとして受けとり、考へていき、そして振舞つていくことによつて、開けてくる道がある。
 
その道は、『ひとりの人』としてのわたしを、自由へと、導いていくだらう。
 
 
 
新しい感官へのそそりに捉へられ、
こころに明らかさが満ちる。
満を持して精神が生まれたことを念ふ。
世の繰りなしが、絡みあひながら芽生える、
わたしの考へつつ創りなす意欲とともに。
 

 
写真は、上賀茂神社内

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2019年01月31日

こころのこよみ(第43週) 〜考へる力から内なる炎へ〜


abtei-im-eichwald.jpg
カスパー・ダヴィット・フリードリッヒ「Abtei im Eichwald」

 
冬の深みにおいて、
 
精神のまことのありやうが暖められ、
 
世の現はれに、
 
心(臓)の力を通してありありと力が与へられる。
 
「世の冷たさに力強く立ち向かふのは、
 
人の内なるこころの炎だ」
 
ルドルフ・シュタイナー
 
 
In winterlichen Tiefen
Erwarmt des Geistes wahres Sein,
Es gibt dem Weltenschine
Durch Herzenskräfte Daseinsmächte;
Der Weltenkälte trotzt erstarkend
Das Seelenfeuer im Menscheninnern.
  
 
 
「世の冷たさ」とは、つまるところ、「己れの冷たさ」ではないか。
 
己れの内なる利己主義、寂しさ、悲しみ、怒り、それら様々の感情から必然的に織りなされてきた、我がこころの冷たさではないか。
 
我がこころの冷たさが、おのづと、その合はせ鏡のやうに世の冷たさとして外から己れに向かつて迫つて來る。
 
「世の冷たさに力強く立ち向かふのは、人の内なるこころの炎だ」と今週の『こころのこよみ』にある。
 
この『こよみ』に沿つて生きてみようとするならば、要(かなめ)は、己れの内なるこころの炎をどのやうにしたら燃え上がらせることができるか、といふことになる。
 
わたしの個人的な感覚だが、他者に期待し続けてばかりゐるやうなあり方では、いつまで経つても、こころの炎は燃え上がらない。
 
この冬の深みにおいて、わたしたちは、他の季節におけるより、ずつと深く、熱く、考へることができる。
 
己れだけが知つてゐる、己れだけが信じてゐる、理想といふ考へを、いま一度、熱く、想ひ起こすのだ。
 
さうすることで、こころの炎が燃え上がりはしないか。
 
その炎こそが、己れの内なる冷たさを溶かしはしないだらうか。
 
ためいきや諦めや失望が、霧消していかないだらうか。
 
寂しさや悲しみや怒りが、暖かな希みと熱い念ひに、生まれ変はらないだらうか。
 
わたしは、己れの考へる力を、信じてゐる。
 

 
冬の深みにおいて、
精神のまことのありやうが暖められ、
世の現はれに、
心(臓)の力を通してありありと力が与へられる。
「世の冷たさに力強く立ち向かふのは、
人の内なるこころの炎だ」
 

 
 


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2018年12月09日

こころのこよみ(第35週) 〜〈ある〉〜


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平櫛田中作「森の仙人」


<ある>とは何かを、わたしは知りえるのか、
 
それを再び見いだしえるのか、
 
こころが活き活きと働くならば。
 
わたしは感じる、わたしに力が与へられてゐるのを。
 
それは、己れみづからが手足となつて、
 
世を慎ましく生き抜いていく力だ。
 
ルドルフ・シュタイナー
 
 
 
Kann ich das Sein erkennen,
Daß es sich wiederfindet   
Im Seelenschaffensdrange ?   
Ich fühle, daß mir Macht verlieh'n, 
Das eigne Selbst dem Weltenselbst   
Als Glied bescheiden einzuleben.
 
 
 
手足を使つて、地道に、慎ましく、世を生きてゐる人を何人か知つてゐる。
 
わたしの子どもの頃から変はらず、同じ場所で、同じ仕事をし続けてをられる。
 
それゆゑ、もう四十年から五十年の間、その同じ仕事をし続けてをられることになると思ふ。
 
その人たちとは、口をきいたことがない。
 
しかし、わたしは、彼らの姿を目にするたびに、なぜか子どもの頃から変はらぬ、畏敬とでも言ふしかない念ひを抱いてきた。
 
黙つて無駄口を叩かず、ひたすらに手を動かしながら仕事をし続けてゐる彼らの姿。
 
わたしは、その姿に、まさに「人」を感じて来た。
 
何の説明も注釈も要らない「人そのもの」を感じて来た。
 
「人」が「ある」といふことを、その人たちにぢかに感じるのだ。
 
このわたしも、「人」として「ある」だらうか。
 
わたしは、〈わたし〉として「ある」だらうか。
 
様々な「ある」の中でも、とりわけ、「人がある」「〈わたし〉がある」こそが、最もリアルな「ある」ではなからうか。
 
 
 

こころを活き活きと働かせ、己れみづからが手足とひとつになつて、それゆゑ、慎ましく世を生きてゐるとき、実は、わたしたち人は、過去の想ひ出に基づいて生きてゐる。 
 
その想ひ出とは、このこころに、このからだに刻み込まれてゐる想ひ出だ。
 
手足を使つて精一杯働いてゐるとき、わたしたちは、それまでの人生で培つた技量をほとんど無意識に元手にしながら生きてゐる。
 
わたしたち人は、この世に生まれてからこの方、ずつと、手足の技量を培つて来た。 
 
その技量といふ技量に基づいて、わたしたちは日々の生活を営んでゐる。
 
字の書き方、お箸の使ひ方、自転車の乗り方から始まつて、様々な技量をこの人生の中で身につけてきた。
 
さうして、わたしたちは、からだに刻み込まれた記憶を頼りに自分の手足を使つて、仕事に勤しんでゐる。
 
人の手仕事といふものは、美しい。
 
その仕事によつて産みだされるものも、その仕事に従事してゐるその人自身も美しい。
 
なぜなら、手足を通しての仕事といふものは、その人その人の過去のすべてが反映してゐるからだ。
 
さらに言へば、すべての人の、人類の記憶が反映してゐるからだ。
 
もつと言へば、神の意識が反映してゐるからだ。
 
そもそも、人のこころもからだも、すべてが神の創造物であり、神の技量の成果ではないか。
 
それら過去に積み重ねられて来たすべてを想ひ起こすことで、人は、思ひもよらぬ安定感をこころに抱くことができはしないか。
 
字を書くことのできる自分、歩くことのできる自分、話すことのできる自分、すべて、あまりにも当たり前であるがゆゑに、それらが培はれて来た技量だといふことを想ひ起こすことは滅多にない。
 
しかし、それらはこころにばかりか、からだにまで刻み込まれてゐる記憶なのだ。想ひ出なのだ。
 
それらの記憶は、子どもの頃から変はらずずつと、〈わたし〉があつたことを知らしめてくれる。
 
そして、〈わたし〉は、時を貫いて、ありつづけてゐる。
 
その〈わたし〉が生きて来た無数の様々な出来事。
 
それらを想ひ起こさうとするとき、いはば、精神の海に波打つみづみづしい無数の想ひ出が、〈わたし〉を支へてくれてゐることに気づく。
 
〈わたし〉はありありとあつた。
 
そして、いまも、〈わたし〉はあり、これからも、あり続ける。
 
 
 
手足を使つて生きて行く。
 
その慎ましい生き方は、「人がある」「〈わたし〉がある」といふ最も大切な想ひ出を呼び起こしてくれるがゆゑに、安らかで、確かで、かつ、美しいのだ。 
 
 
 
 

<ある>とは何かを、わたしは知りえるのか、
それを再び見いだしえるのか、
こころが活き活きと働くならば。
わたしは感じる、わたしに力が与へられてゐるのを。
それは、己みづからが手足となつて、
世を慎ましく生き抜いていく力だ。
 
 
 

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2018年05月27日

こころのこよみ(第8週) 〜聖霊が降り給ふ日々〜

 
 
感官の力が長けゆく、
 
神々の創り給ふものに結びつけられて。
 
それは考へる力を沈める、
 
夢のまどろみへと。
 
神々しいものが、
 
わたしのこころとひとつにならうとする時、
 
きつと人の「考へる」は、
 
夢のやうなありやうの中で、静かに慎んでゐる。
 
           ルドルフ:シュタイナー

 
 
Es wächst der Sinne Macht          
Im Bunde mit der Götter Schaffen, 
Sie drückt des Denkens Kraft           
Zur Traumes Dumpfheit mir herab.
Wenn göttlich Wesen           
Sich meiner Seele einen will,
Muß menschlich Denken  
Im Traumessein sich still bescheiden. 
 
 
 
 
感官の力(見る力や聴く力など)は、ものに吸ひ寄せられてしまふこともあるだらう。たとへば、テレビやこのコンピューターの画面などに。
 
しかし、ものに吸ひ寄せられたままではなく、感官の力を、もつと意識的に、意欲的に、働かせ、じつくりと腰を据ゑて、何かを見る、何かに耳を澄ませてみる・・・。
 
考へる力が鎮められ、沈められる位、見てみる、聴いてみる。
 
見れど飽かぬも、まさに、見てとればいよいよ飽かぬも。なぜ、飽かぬのだらうか。それは、見てとる、見る、見ゆ、に先立つて、愛するがあるから・・・。そのとき、そのときの、「愛する」から、からだのおほいさ、実用の大事さが披かれる。
 
その時のこころのありやうは、むしろ、「『考へる』は、夢のやうなありやうの中で、静かに慎んでゐる」と表現することがぴつたりとする。
 
さうすると、わたしたちは、何を受け取り、どのやうに感じるだらう。
 
一週間前から、聖霊降臨祭の週であつた。
 
約二千年前、十字架刑の三日後にキリストは甦り(復活)、その後四十日間に渡つてキリストは精神のからだをもつて現はれ、当時の弟子たちに親しく語りかけたといふ。
 
しかし、キリストはその後十日間、弟子たちの前からその姿を消したといふ(昇天)。
 
その十日の間、弟子たちは「夢のやうなありやうの中で静かに慎んで」ゐた。
 
ひとところに集まつて、静かに熱く、しかし夢にまどろんでゐるやうなありかたで祈つてゐた。
 
そして、聖霊降臨の日、それは聖霊(聖き精神)が、ともに集つてゐる弟子たちに初めて降りてきて、弟子たちがさまざまな言語をもつて(個人個人がおのおの自分のことばで)、そのキリストのことばとしての聖き精神を語り始めた日だつた。
 
前週において、「さあ、来たれ、わたしの予感よ、考へる力に代はつて」とみづからの精神に呼びかけた。
 
その「予感」への呼びかけとは、こざかしく考へることを止めて、より大いなるものからの流れ(世の考へ・キリストのことば)に耳を傾けるといふ行為だつた。
 
それは、「静かに慎む」ありやうをもつて、みづからを浄めつつ待つといふ行為でもある。
 
二千年後のわたしたちは、考へる力が失はれてくる春から夏へのこの季節においても、そのやうな備へをしようとアクティブにみづからをもつていくならば、「神々しいものが、わたしのこころとひとつになる」聖霊降臨祭を、自分たちのいまゐる場所で立てていくことができるかもしれない。
 
「すべては神々の創り給ふものである」「神々しいものとこころがひとつになる」といつたことを、読む、言ふにとどまらず、予感し、実感し、見て、そのことを生きていくために、からだを通して、実際の練習を意識的にしつづけていくことの大切さを感じる。
 

 
 
感官の力が長けゆく、
神々の創り給ふものに結びつけられて。
それは考へる力を沈める、
夢のまどろみへと。
神々しいものが、
わたしのこころとひとつにならうとする時、
きつと人の「考へる」は、
夢のやうなありやうの中で、静かに慎んでゐる。


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2018年05月22日

こころのこよみ(第7週)〜吹き込まれ、そして解き放たれる息〜

  
わたしのわたしたるところ、
  
それはいまにも離れ去らうとしてゐる、
 
世の光に強く引き寄せられて。
 
さあ、来たれ、わたしの予感よ、
 
あなたの力に満ちたふさわしさの中に、
 
考へる力に代はつて。
 
考へる力は感官の輝きの中で、
 
みづからを見失はうとしてゐる。

      ルドルフ・シュタイナー

 
 
 
Mein Selbst, es drohet zu entfliehen,
Vom Weltenlichte mächtig angezogen.
Nun trete du mein Ahnen
In deine Rechte kräftig ein,
Ersetze mir des Denkens Macht,
Das in der Sinne Schein
Sich selbst verlieren will.
 
 
 
芸術への感覚、芸術を生きる感覚といふものは、どの人の内側にもある。

ただ、それは意識して育まれることによつて、だんだんとその人のものになり、表に顕れてくるものだらう。
 
その感覚を育むほどに、この『こころのこよみ』を通しての密(ひめ)やかな学びにもリアリティーが生まれてくる。
 
人は、芸術に取り組むとき、ある種の息吹きを受け、それを自分の中で響かせ、そしてその息吹きを解き放つていく。大きな呼吸のやうな動き、風の動きの中に入つていく。

そのやうな大きな息遣ひと自分自身の小さな息遣ひとがひとつに合はさつていくプロセスが、芸術における創造行為だと感じる。

言語造形をしてゐて、そのことをリアルに感じるのだが、きつと、どの芸術のジャンルでも、さうではないだらうか。そして、つまるところ、人が意識してする行為といふ行為が、きつと、芸術になりえる。
 
シュタイナーは、そのやうな、芸術をする人に吹き込まれる息吹きを、インスピレーションと呼んだ。
 
そしてそのインスピレーションから、今度は息を吐き出すやうに何かを創ることが芸術である。
 
わたしたちの地球期以前の、月期からさらに太陽期に遡るときにおいて、世に、物質の萌しとして、熱だけでなく、光と風が生じた頃に、人は、インスピレーションを生きてゐた。(Inspiration は、ラテン語の insprare (吹き込む)から来てゐる)
 
人は芸術を生きるとき、その太陽期からの贈りものとして、光と風を、いまや物質のものとしてではなく、精神のものとして、インスピレーションとして、感じる。
 
 わたしのわたしたるところ、
 それはいまにも離れ去らうとしてゐる

 
一年の巡りで言へば、わたしたちは、秋から冬の間に吸ひ込んだ精神の息、精神の風、「インスピレーション」を、春から夏の間に解き放たうとしてゐる。
 
秋から冬の間、「わたしのわたしたるところ」「考へる力」はそのインスピレーションを孕(はら)むことができたのだ。
 
「いまにも離れ去らうとしてゐる」とは、春から夏の間のこの時期、インスピレーションを孕んだ「わたしのわたしたるところ」「考へる力」が変容して、意欲の力として、からだを通して表に顕れ出ようとしてゐる、大いなる世へと拡がつていかうとしてゐるといふことでもあるだらう。
 
  世の光に強く引き寄せられて
 
その精神の吐く息に連れられて、拡がりゆく「わたしのわたしたるところ」「考へる力」は、外の世においてみづから空つぽになるほどに、光の贈りものをいただける。
 
その光の贈りものとは、「予感」といふ、より高いものからの恵みである。
 
  さあ、来たれ、わたしの予感よ、
  あなたの力に満ちたふさわしさの中に、
  考へる力に代はつて。

 

芸術とは、インスピレーションといふ世の風に吹き込まれることであり、予感といふ世の光に従ふことである。練習を通して初めてやつてくる予感に沿つていくことである。練習とは、身を使ふことである。
 
インスピレーションを孕んだ考へる力が、まづは頭から全身に働きかける。その精神の息吹きを、練習によつて、解き放つていく。その息吹きが練習によつて解き放たれるその都度その都度、予感が、光として、ある種の法則をもつたものとしてやつてくる。
 
インスピレーションが、胸、腕、手の先、腰、脚、足の裏を通して、息遣ひを通して、芸術として世に供され、供するたびに、芸術をする人はその都度、予感をもらえるのだ。
 
この小さな頭でこざかしく考へることを止めて、やがて己に来たるべきものを感じ取らうとすること。
 
こざかしく考へることを止めること。「さあ、来たれ、わたしの予感よ」と精神に向かつて呼びかけつつ、動きつつ、待つこと。それは、秋から冬の間、明らかに紛れなく考へる働きとは趣きがまるで違ふが、アクティビティーにおいては、それに負けないぐらゐの強さがゐる。
 
世から流れてくるものを信頼すること。
 
そして、そのやうな、身の働きの中で、芸術行為の中で、予感が恩寵のやうにやつてくる。
 
だから、この季節において、考へる力は、感官の輝きの中で、手足の働きの中で、意欲の漲りの中で、見失はれていいのだ。
 
  考へる力は感官の輝きの中で、
  みづからを見失はうとしてゐる。

 
 
 
わたしのわたしたるところ、
それはいまにも離れ去らうとしてゐる、
世の光に強く引き寄せられて。
さあ、来たれ、わたしの予感よ、
あなたの力に満ちたふさわしさの中に、
考へる力に代はつて。
考へる力は感官の輝きの中で、
みづからを見失はうとしてゐる。


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2018年05月12日

こころのこよみ(第6週) 〜生活の中に根付いてゐる信仰〜


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己れであることから蘇る、
 
わたしのわたしたるところ。そしてみづからを見いだす、
 
世の啓けとして、
 
時と場の力の中で。
 
世、それはいたるところでわたしに示す、
 
神々しいもとの相(すがた)として、
 
わたしの末の相(すがた)のまことたるところを。
 
ルドルフ・シュタイナー

 
 
Es ist erstanden aus der Eigenheit  
Mein Selbst und findet sich
Als Weltenoffenbarung             
In Zeit- und Raumeskräften;         
Die Welt, sie zeigt mir überall
Als göttlich Urbild
Des eignen Abbilds Wahrheit.

 

じつくりと見る。
じつくりと聴く。
じつくりと受けとる。
 
そのやうに世に向かつて、人に向かつて、意識的に感官を開くほどに、世も人も、ものものしく語りだす。
 
そして、世と人に向かつて我が身を披けば披くほど、我がこころが起き上がつてくる、立ち上がつてくる、蘇つてくる。
 
たとへば、幼い子どもを育ててゐるとき、大人の忙しさについつい子どもを巻き込んでしまうことがある。
 
そんな時、よく子どもは大人の意嚮にことごとく反発して、ぐずつたり、泣きわめいたりする。
 
しかし、この「忙しさ」といふこころの焦りに、大人であるわたしみづからが気づけた時、目の前の子どもにじつくりと眼を注ぐことができた時、子どもの息遣ひに耳をじつくりと傾けることができた時、子どもが落ちつくことが、よくある。
 
そんな時、子どもがいつさう子どもらしく輝いてくる。その子が、その子として、啓けてくる。
 
そして、さうなればなるほど、眼を注いでゐるわたし自身のこころも喜びと愛に啓けてくる。わたしが、わたしのこころを取り戻してゐる。
 
子どもを育ててゐる毎日は、そんなことの連続。
 
きつと、子どもだけでなく、お米その他の作物をつくつたり、育てたりすることにおいても、それを毎日してゐる人には、同じやうなことが感じられてゐるのではないだらうか。
 
子どもがゐてくれてゐるお陰で、他者がゐてくれてゐるお陰で、ものがあつてくれるお陰で、わたしはわたしのわたしたるところ、わたしのまことたるところを見いだすことができる。
 
他者といふ世、それはこちらが眼を注ぎさへすれば、いたるところでわたしにわたしのまことたるところを示してくれる。
 
他者に、世に、わたしのまことたるところが顕れる。
 
そのことも、不思議で、密やかで、かつリアルなことだが、そのわたしのまことたるところが、神々しい元の相(すがた)に相通じてゐることに気づいていくことは、あらためて、信仰といふことに対する親しさをわたしたちに与へてくれる。
 
生活の中に根付いてゐる信仰。
 
日々、つきあつてゐるものといふものや他者を通してこそ、啓いていくことができる信仰。
 
我が国の信仰は、昔からさうであつた。
 
 
 
己れであることから蘇る、
わたしのわたしたるところ。そしてみづからを見いだす、
世の啓けとして、
時と場の力の中で。
世、それはいたるところでわたしに示す、
神々しいもとの相(すがた)として、
わたしの末の相(すがた)のまことたるところを。

 

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2018年04月27日

こころのこよみ(第4週) 〜主と客、重ねて合はせて「わたし」〜

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「わたしは、わたしのわたしたるところを感じる」
 
さう感覚が語る。
 
それは陽のあたる明るい世の内で、
 
光の流れとひとつになる。
 
それは考へる働きに、
 
明るさと暖かさを贈り、
 
そして人と世をひとつにするべく、
 
固く結びつけようとする。

ルドルフ・シュタイナー

 
 
 
Ich fühle Wesen meines Wesens:
So spricht Empfindung,
Die in der sonnerhellten Welt
Mit Lichtesfluten sich vereint;
Sie will dem Denken
Zur Klarheit Wärme schenken
Und Mensch und Welt
In Einheit fest verbinden.
 
 
 
幼児は、たとへば、ことばといふものに、一心に、全身全霊で、耳を傾ける。
 
からだまるごとを感覚器官にして、聴くといふ仕事を一心にしてゐる。
 
そのことによつて、誰に手ほどきを受けるでなく、かうごうしい力、精神によつて、ことばを習得していく。
 
からだは「ことば」の器になつていく。
 
幼児の内に、そのやうに、からだをことばの器にするべく、おのづと力が働いてくれてゐた。
 
わたしたち大人は、意識的に、その人から、仕事をしてこそ、育まれるべきものが育まれ、満たされるべきものが満たされる。
 
このからだは、何歳になつても、まだまだ、育まれて、育まれて、おのれの感覚を深めていくことができる。
 
ものごとに対して判断しなければならないとき、データや数値なども、なんらかの判断材料を提供してくれるが、それに頼り切らず、もつと、おのれのからだを通しての感覚を育んでいくことが、おのれへの、人間への、信頼を取り戻していく上で、大切な指針になつていくのではないだらうか。
 
その、感覚とは、そもそも、わたしたちに何を語つてくれてゐるのか、何を教へようとしてくれてゐるのだらうか。
 
シュタイナーがここで使つてゐる「感覚(Empfindung)」といふことばは、「受けて(emp)見いだす(finden)」からできてゐることばだ。
 
人によつて受けて見いだされた光、色、響き、熱、味、触など。

それらが感覚であるし、また、それらだけでなく、(これまでの生理学や心理学では、さうは言はないらしいが)それらによつて起こつてきた情、意欲、考へも、感覚なのだ。なぜなら、みづからのこころといふものも、世の一部だからだ。
 
色や響きなど、外からのものを、人は感覚する(受けて見いだす)し、情や意欲や考へといふ内からのものをも、人は感覚する(受けて見いだす)。
 
しかし、外からの感覚は、外からのものとして客として迎へやすいのだが、内からの感覚は、内からのものであるゆゑに、客として迎へにくい。主(あるじ)としてのみづからと、客である情や意欲や考へとを一緒くたにしてしまいがちだ。
 
主と客をしつかりと分けること、それは客を客としてしつかりと観ることである。
 
みづからの情や意欲や考へを、まるで他人の情や意欲や考へとして観る練習。
 
明確に主(あるじ)と客を分ける練習を重ねることで、分けられた主と客を再びひとつにしていく力をも見いだしていくことができる。その力が、こころを健やかにしてくれる。
 
主と客を明らかに分けるといふことは、主によつて、客が客として意識的に迎へられる、といふことでもあらう。
 
そして、やつてくる客に巻き込まれるのではなく、その客をその都度ふさわしく迎へていくことに習熟していくことで、主は、ますます、主として、ふさわしく立つていく力を身につけていくことだらう。
 
人が、外からのものであれ、内からのものであれ、その客を客として意欲的に迎へようとすればするほど、客はいよいよみづからの秘密を明かしてくれる。感覚といふ感覚が、語りかけてくる。
 
外の世からの感覚だけでなく、考へ、感じ、意欲など、内に湧き起つてくる感覚を、しつかりと客として迎へるほど、その客が語りかけてきてゐることばを聴かうとすればするほど、わたしは「わたしのわたしたるところ」を日々、太く、深く、成長させていく。
 
客のことばを聴くこと。それが主(あるじ)の仕事である。
 
その仕事によつて、わたしは、みづからの狭い限りを越えて、「わたしのわたしたるところ」をだんだんと解き明かしていくことができる。
 
主によつて客が客として迎へられるといふのは、客によつて主が主として迎へられるといふことであるだらうし、それは、主と客がひとつになるといふ、人と世との、もしくは人と人との、出会ひの秘儀とも言つていいものではないだらうか。
 
そして、主と客がひとつになるときに、「わたし」がいよいよ明らかなものになつていく。

つまり、主=「わたし」ではなく、主+客=「わたし」なのだ。
 
たとへば、セザンヌの絵や彼の残したことば、もしくは、芭蕉の俳諧などに接し続けてゐると、ものとひとつになることを目指して彼らがどれほど苦闘したか、だんだんと窺ひ知ることができるやうになつてくる。
 
彼らは、世といふもの、こころといふものの内に潜んでゐる大きな何かを捉へることに挑み、そのプロセスの中で壊され、研がれ、磨かれ、その果てにだんだんと立ち顕れてくる「人のわたし」といふものへと辿りつかうとした。
 
彼らは、色彩といふもの、さらに風雅(みやび)といふものと、ひとつにならうとする仕事を死ぬまでやり通した人たちだと感じる。
 
ものとひとつになるときこそ、「人のわたし」ははつきりと立ち顕れてくることを彼らは知つてゐた。
 
感覚を客としてふさわしく迎へれば迎へるほど、それは、「わたしのわたしたるところ」の拡がりと深みを語つてくれるし、また、わたしはそのことばを情で聴き取るにつれて、わたしは、客について、おのれについて、「わたし」について、明るく、確かに、考へることができる。そして、わたしと世がひとつであることへの信頼感をだんだんと得ていくことができる。
 
 
 
「わたしは、わたしのわたしたるところを感じる」
さう感覚が語る。
それは陽のあたる明るい世の内で、
光の流れとひとつになる。
それは考へる働きに、
明るさと暖かさを贈り、
そして人と世をひとつにするべく、
固く結びつけようとする。

 
 

posted by koji at 09:51 | 大阪 ☁ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする