2014年10月31日

『昔の国語教育』柳田國男 9

四、遊戯と語り物

子どもたちはものごころもつかぬ前から、
大人たちが歌ってくれた幾つもの歌、語ってくれた幾つもの物語によって、
知らず知らずのうちに、ことばの芸術に触れる経験を積み重ねてこられた。

その時に大人たちから発せられていた声とことばには、
活き活きとしたリズムやメロディーが過去の文体を通して息づいていた。


   家庭や路傍の切れぎれの小さな会話に比べると、
  こちらは改まった声と節、もしくは一定の律語をもって、
  何度でも飽きてしまうまで繰り返され、
  自分がすんでもまた次の児のためにも唱えられる。
  しかも内容は平凡でなく、初めから聴かせる目的だけに綴られている。
  理解した限りは全部が印象となって、永く心の裡に留まり、
  何かの折には外形の類似からも、また感覚の一致からも、
  相互に聯想を促し起こすようにできているのである。



こうして、子どものこころの内にファンタジーが拡がり育ってゆくのを、
ことばの芸術が後押ししていた。


   日本ばかりの特長ではないかも知らぬが、
  我々の中にはこの幼い言語芸術の、実に莫大なる貯蔵があった。
  それが中断なしに児童の群によって管理せられ、
  また彼等の間において成長もしていたのである。



愛ある大人たちによる歌い聴かせ、語り聴かせを通して、
子どもたちは、とうてい、ことばの味わい深さに、よそごころではいられなかった。
そして、少しずつ大きくなってくるにつれ、
だんだんと自分たちの遊びの中に、
大人たちから聴いたすべてのことばから自分たちが選んだ語をもって、
羽ばたき始める。
ことばの自由な活用というものを、からだとこころの動きを通して経験していく。


   算え年の二つ三つという緑児期に、最初の選択から漏れたもの、
  すなわち耳ではしばしば聴き知っておりながら、口では一度も使う折のなかった語が、
  時を隔てて活用されるものも必ずあろうが、
  それよりもはるかに大きな経験は屋外の遊戯時代において手近に得られ、
  それを右から左へ移し用いることが、
  児童の働きでもあればまた大いなる楽しみでもあったのかと思われる。
  果たしてこの推測に大いなる誤りがないならば、
  この方面の供給も近世は次第に枯渇せんとしている。



明治時代になり、学校制度が始まってから、
すべての子どもたちは、まず、学校に行く年齢になった子と、まだ行かない子に、二分される。
それまで一緒になって遊んでいた長幼の群れが二分される。

そうしていつしか、
大人による歌い聴かせ、語り聴かせを、
子どもたちが繰り返したっぷりと飽きるまで聴く機会が著しく減ってきた。
子どもたちの自治による群れの中での遊戯の機会が著しく減ってきた。
遊びの中で自由に活き活きとことばを右から左へ繰りなしていく機会が著しく減っているのだ。

「この方面の供給」、
つまり、ことばの芸術に触れる経験、生きる経験が、枯渇しようとしている。


このあとの論で、
子どもにとってなくてはならない活動として、共にからだを動かしながら遊ぶことが、
いかに古くからの高貴な行いに淵源をもっているのか、
そして、そもそもその高貴さからこそ、ことばの芸術は生まれてきているがゆえに、
ことばと人は、芸術作品として、
共に培われ、育てられ、なりかわらせていく必要があることを、柳田は説いている。


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2014年10月30日

『昔の国語教育』柳田國男 8


生まれてから七つ八つの齢ごろまでの子どもたちにとっては、
大人のように目や耳などだけが感官として働いているのではなくて、
全身が感覚器官である。
全身が目や耳や鼻や口である。
全身が頭である。

そして、九つ十と年齢が進んでゆくにつれて、子どもは胸の領域をアクティブに使い始める。
それは、感覚器官という、からだとしてのあり方を育むことから、
考える、感じる、欲する、こころとしてのあり方を育むことへの、移りゆきである。

その年頃の子どもたちの健やかな育ちにとって何よりも大切なことは、
からだの健やかさの上に、こころを育んでいくことであり、
そのためには、こころに抱かれるものがいかに活き活きとしているか、ということである。


   今のように外部の刺戟が多くなかった時代にも、
  子供は子供だけで手短な意味の深い言葉をいろいろとこしらえていた。
  (中略)
  これは国語の発達史の上からも、大きな参考になる事実であるが、
  新しい単語や句法は、多くは共同の遊戯の純一境から発生している。
  才能ある一人の考案というよりも、群の意向の誰とも知れぬ者の代表、
  すなわち模倣というよりも承認がこれを流布させる。



様々な年齢の子どもたちが集まって遊ぶ群れの中では、何がものをいうか。

生きた思考である。
活き活きとした考えである。
その考えはじっとしていながら頭で捻りだされるものではなく、
手足を動かし遊んでいる中からこそ、生まれてくる生きた思考である。
その「純一境」から生まれる考えは、子どもの頭に宿るのではなく、
活動する手足に、解き放たれた胸の働きに、宿る。

そこから、新しいことばも生み出される。
新しい創造力が羽ばたき始める。

その生きた考え、生きたことばが、群れを活性化し、リードする。

そもそも、子どもにとっては、
生きた考えでないと捉えることができないし、
活き活きとしたことばでないと悟ることができない。

生きた考え。
活き活きとしたことば遣い。

それらはいずれも、精神とこころとからだを共に働かせ、遊ぶことから生まれてくるのだ。

今の小学校二年生や三年生の子どもたちが、もっと、もっと、外で共に遊ぶことができるように。

もっと、もっと、生きた考えの恩恵を享受し、
生きたことばの使い手、国語の主(あるじ)になることができるように。

わたしたち大人は、考えを講じ、こころを拡げ、できることをしていきたい。

意識を少しでも変えることで、何かができるはずだ。

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2011年06月30日

『昔の国語教育』柳田國男 7

三、群(むれ)の力

親たちの周到な幼な子への国語教育が、
その周到さは変わらずに、
だんだんと子どもが成長してくるにつれて、
その趣きを変容させていたことに目を向けてみる。

   やがて第二の緑児が家の裡で啼き、
  または老人が衰えていって、抱きかかえが物憂くなってくる。
  その前にその児(第一子)を近隣の子供の群に、
  引き渡してしまわなければならなかったのである。


この「子供の群」に本来備わっていた「子どもがみずから育つ活きた力」を取り上げてみたい。

七歳までの幼児にとって、
「群」とは、すなわち、感覚共同体を意味する。

つまり、そこにおいては、
全身の感覚器官、特に目と耳を全力で使わざるを得ないのだ。

群に「いあわせる」ことによって、
見る、聴く、話す、
を徹底的に学ぶのである。

人生における最初の修行である。

   児童ばかりでできた群の中では、
  不自然によけいな言葉を口真似するといった試みは絶対になく、
  むしろ入用もないのに人の口を模倣する者を憎もうとさえする。
  新入の小児は全心を耳と目に打ち入れて、
  じっと場合と言葉との吻合を観察しているのである。
  そうして十分にその心持を会得してしまうまでは、
  何度でも聴いて覚えて、口にはこれを言わぬのである。
  時として言い損ないをすることもあるが、
  そういう場合にはかなり残酷に笑われる。
  これがまた相応の年齢に達するまで、
  正しく国語を覚えさせる唯一の推進機ともなっているので、
  親や先生の親切な介助に比べると、この点が最も著しい相違であるが、
  しかも、日本人を日本語の達人とする効果において、
  いずれが有力であったかはまだ容易に決定し得ない問題である。


群の力を利用した、日本人を日本語の達人とするこの旧式の教育法が崩れ始めるのは、
六、七歳以上の子どもを小学校へ送り出すようになってからであろう。

学校教育の是非は様々あろうが、
このような「長幼の連絡」がおのずから生ずるこの群の中では、
子どもひとりひとりが、
自分からよく気をつけて兄姉たちの様子を見て、聴かざるをえないといった、
かなりのアクティビティー・能動性がおのずと育まれていたのである。

兄姉たちは、
なんでも親切、丁寧に教え諭してくれる大人たちとは異なるのである。

学校教育の開始による「長幼の連絡」が途絶えがちな今日において、
幼い子どもがだんだんとひとりで自分で覚えるといった、
生きていく上での能動性・アクティビティーが多少なりとも殺がれているならば、
それを守り、育てていくために、
わたしたちは新しく考えていきたい。

アントロポゾフィーから生まれた教育(いわゆる「シュタイナー教育」)において、
7歳までの第1七年期の子どもの内に、
「見る」「聴く」「触れる」「味わう」などの「感覚」を育てること、
そこから意志を育てること、
からだを育むことの大切さが説かれている。

子どもたちに目と耳を全力で使わせていた、
わたしたちの「昔の国語教育」と、
アントロポゾフィーからの教育との重なりを見いだすことも、
わたしたち日本人がこの国で新しく教育を創っていく上で、
大切なことに思う。

   以前も算え年の七歳が、智恵のつく一つの区切りのように認められていた。
  ここで第一回の生活態度の転向が行われ、
  子供は急に口数が多くなり、 
  またきかず坊になるのもこの頃であり、
  始めて参加してくる幼童に対して、
  よくも悪くも感化を与えるのはこの階級であった。


七歳を過ぎ、九歳あたりまでの子どもは、
それまでのあり方からだんだんと変容していき、
感覚器官からの恩恵に与れなくなる。

その代わりにひとつひとつの経験を、
考えること、思うこと、分別することを通して自分のものにしていくようになる。

   忘れたのではなくても、いっさいの幼言葉は避けて使わず、
  誰にも教えてはもらわずに入用の語はすぐ覚えて使い、
  その数が急に増加する。
  しかもこういう方がよいなどという選択はまるでなく、
  どんな場合にも一色しか言い方は知らない。
  つまりは思うことと言うことと、最も相近い言語生活をしているのである。
  

七歳から九歳までの子どもというのは、
おおよそ、精神(思うこと)と物質(言うこと)とが一対一で釣り合っている頃である。
(人というものの歴史におけるギリシャ・ローマ時代にあたる。)

その第二七年期の初期において、
ことばの練習をすることの大事さへの認識をもっと私たち自身深めていきたい。

   この練習が後々の世渡りの上に、どの程度に役立っているかは、
  知ろうとせぬから判らぬので、
  船や一軒家の中に育った子供と、
  比べて試験をしてみたらあらましは測定し得ると思う。


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2011年05月23日

『昔の国語教育』柳田國男 6

『お月さん、いくつ』

  お月さん、いくつ
  じゅうさん、ななつ
  まだ年ゃ若いな
  あの子を産んで
  この子を産んで
  誰に抱かしょ
  お万に抱かしょ
  お万どこ行った
  油買いに茶買いに
  油屋のかどで
  すべってころんで
  油一升こぼした
  その油どうした
  太郎どんの犬と
  次郎どんの犬と
  みんな舐めてしもた
  その犬どうした
  太鼓にはって
  あっち向いちゃどんどこどん
  こっち向いちゃどんどこどん
  叩きつぶしてしもた


お月さん幾つ、など、これらがある事実を語ろうとしたものでないことは、
単語をくさりにして次から次へ、
俳諧のように別の場面を繋ぎ附け、
それをまた歩調に合せて興多く揺動させていたのを見てもわかる。
つまりは物を見て名を言い、
名によって想像を馳せる、
言語の活用を練習させようとしたのである。



芸術的なことばのつらなりを歩きながら歌い、語って聞かせる。

それは、ファンタジーの世界にある法則を、
実際の歩調の中で聴かせ、体験させることであり、
ことばの精神をこの地に降ろす練習でもある。



かつて我々の幼年を育んだ無数の自然、虫や小鳥や様々の草の花、
または朝夕の天象の類は、(中略)
たいていは今も憶えている遊戯だとか、これに伴う唱えごととかの中に活きている。

・・・幾つかの形容詞や動詞、またはやや高尚なる社交上の用語などが、
その時は格別の必要もないのでただ貯蔵せられ、
後日青年のいよいよ世の中に出て行く際に、
改めてしみじみとその味わいを反芻してみる・・・。

懐旧の情は今でも詩歌であり、
人は幼少の日を思慕せずにはいないけれども、
これが国語の昔から未来への、大切な一筋の連鎖であったことに、
心づく機会のみはおいおい稀になろうとしている。

・・・嬰児が辛うじて人の言うことを聴き分け、
自身はまだろくに口のきけぬ頃から、
外へ連れ出しては長短いろいろの面白い文句を取り替え引き換え、
唱えて聴かせていた慣習が効を奏したのである。


子どもたちは、慌てさせられず、焦らされず、時間をかけて、
聴いたことばを噛み締め、味わい、
そしてだんだんと選択しつつ、自分のことばとして口に上せていった。

かつての大人たちのそうした企てを、
これからわたしたちは、その意図を汲んで改めて学び、
そして子どもたちとともに実行していきたい。


とにかく常の生活では聴く機会もないような言葉ばかりがきれいに並べられて、
次から次へ変化していくことは、
今日の紙芝居などよりもさらに自由であった。
児童がこの青空夕焼けの下の学校へ、
喜んで行き、楽しんで帰り、
永くその教科を覚えていたことは、
もともと親たちの深い計画だったのである。


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2011年05月19日

『昔の国語教育』柳田國男 5

二、遊ばせ唄


何といっても稚児の天地は狭い。
ことに彼らを中心として語りかわされる話題は凡庸である。
これが生涯の国語教育の大切な準備期間であり、
しかも今日のような自信に満ちた教育家の手ぐすねを引いて待ち構えている時代でなかったとすれば、
人が安閑としてただ子供の自然に智恵づくのを眺めて楽しんでいなかったのは当たり前で、
すなわちまた社会共同の意識によって、
金こそは掛けないが熱心に支持していた、
古来の慣行のあったことを推測しなければならぬゆえんである。





昔の大人たちは、教育ということの本質を見抜いていたのではないかと思う。

子どもがこの地で生きる当たり前さ、凡庸さと、
その同じ子どもの内に輝く精神の活発さ、非凡さとの間に、
橋を掛けること。

それは、大人の役割であった。

それこそが教育であり、
金こそは掛けないが、
リズムとメロディーに満ちた唄、活きたことば、お話し、
そしてそこから生まれるモラルが子どもたちに必要であることを本能的に知っていた。

いま、わたしたち大人によって、
凡庸なもの、手軽なだけのもの、商業主義的なもの、非芸術的なものばかりが、
子どもたちに大量に与えられてしまっている危惧がある。

人から人へ何をいかに伝えるか。
その本能的な智恵を失ってしまったわたしたちは、
今度は意識的にもう一度、その智恵を取り戻し、創り直してみることができる。



(赤ん坊に眠りを勧める歌でも)
よく見て行くと、一章の語句のうちにも、幼い者の成長が用意せられている。
『あの山こうえて』と遠くの空を胸に描かせて、
それでもまだ起きている児には里のみやげ、でんでん太鼓だの笙の笛だのと、
またひとしきり空想の世界に遊ばせて、
それからさらにその笛を持って来いと、
静かに待っているような気分を誘致するのである。
この歌の作者は、(中略)親でなければわからぬ子供の能力を認め、
またその要求を知ってこれに応じようとしている。




素朴な子守唄の中にも、
「空想(ファンタジー)」と「祈り」が織り込まれてある。

それらは、子どもらにとっては、
「いかにもついこのごろに近くの村で、実際あったことのように思われて仕方がない」
リアルなファンタジーでもあり、
また、
この世に生まれてくる前の世、
こころの故郷である精神の世を、
無意識のうちに想い出すような、
意識せられざる祈りなのである。

このファンタジーと祈りから生まれる歌やお話しを通して、
子どもたちの胸に「恍惚境の印象」が抱かれる。

この「恍惚境」こそが、
子どもにとっての故郷なのだ。

それは、歌い手、語り手の息遣い、
ことばとことばの間(ま)から生まれてくる境(さかい)でもある。






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2009年06月20日

『昔の国語教育』柳田國男 4

柳田は、無論弱みもあり、誤謬もあっただだろうが、
昔の国語教育に理想的なものを見出している。

まず、人は生涯を通じて、
聴いてオボエタことばの中からみずから選択して、
口にことばをのせる。

そしてその模倣と選択は特に幼児において活発になされている。

六、七歳ぐらいまでは、
どんなことばを模倣し、選択し、どれだけ覚えていくのかは、
子どもに任せていた。

幼児における聴く力、見る力、受け取る力の精確さ、敏捷さといった特異性に人は気づいていたし、
その気づきの上に国語教育が始められていた。

子どもを愛する人々は、子どもがまるごと感覚器官であることを確信して、
一言の受答えがなくても終日談り暮らし、
この特殊の会話のための聴かせるためだけの芸術的な句や単語をふんだんに子どもに供給していた。

そのように、人間というものへの直感的な認識・信頼から国語教育が企てられ、実行されていた。

昔の国語教育の何が効を奏していたかというと、
それが時には大人たちの「やや乱雑でまた投げやりな感化法」であったにも関わらず、
そのことばが常に生きたことばであったことにその故がある。

昔の人は、そういうことばを使わなかっただろうが、
活きた息遣いと身振りを伴なって話される味わい深いことば、
すなわち「芸術としてのことば遣い」を人の生活の中に育てていた。

子どもたちにそのようなことばをふんだんに与えることによって、
みずからつかみ取り、選択していくというアクティブな力が、
子どもの内側で育ってくるのを直感的に知っていた。

それが、「一人前にものを言う力」になっていくのであろうし、
自分の脚で立つ力にもなっていくのだろう。

他人に対する悪口、罵声にしても、
そこにはリズムがあり、活きのよさがあった。

今、何が人の中で弱まっているか、
それは、世の中がどんなことになろうとも、
自分からつかみ取っていく力、
自分の道を切り開いていく力、
内的なアクティビティだと感じる。

そんな人のアクティビティは、
幼児期の教育のあり方と随分関係があって、
昔の日本人は、
そのみずからを信頼する力・そしてアクティビティを豊かに持っていたのではないかと想像する。

今や、メディアからの映像や音声が人のまわりに溢れかえっていて、
何もかもが、仕上がり済みで人に供給されている。

人が自分でアクティブに創って行くということがとてもしにくい。

機械から流れる映像や音声をシャットアウトしてしまうことは、
現代の生活においては、無理だし、また逆に不自然にも感じてしまう。

ただ、人のなまの息遣いと声で、ことばが語られるときにこそ、
人の内側からのアクティビティが起こされるということを知っていることは、
いいことだと思う。

これは、司馬遼太郎のことば。

 ・・・人間は、言語こそこの世の魅力の最高のものだと、
 たれもが意識の底で思っている。
 乳幼児は言語こそ発せられないが、
 たえず母親の言葉によって、
 聴覚を通し、
 大脳に快く刺激を受け続けている。
 人間が最初に出会う“芸術”は絵画でも音楽でもなく、
 言語なのである。                   (『風塵抄』より)


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2009年06月18日

『昔の国語教育』柳田國男 3

一 最初の選択

 とにかく耳に聴いてよく分かるということと、
 口にその語を上せるということとは、
 本来は深い関係のある二つの働きであったように考えられる。
 日本はこのけじめのかなり久しい間、
 明瞭に立っていた国である。

「耳に聴いてよく分かる」ことばが、
裏のことば(精神)だとするならば、
「口に上せ」られることばが、
表のことば(からだ)だとして、
そのことばの運用における裏と表のけじめを、
人は直感的に知っていたと言う。

ことばを聴いて分かるということは、
その子の精神がことばの精神を捉えるということであり、

ことばを口に上せるということは、
その子の精神からこころを通ってからだにまで、ことばが下りてくるということだ。


 幼児の目と耳の力は、
 よその民族のことは何とも言えないが、
 少なくとも近世以後の日本においては、
 我々が普通想像している以上に、
 時としては成熟した人々よりも精密に、
 よくその役目を果たしていたらしいのである。
 それをただ彼等が口にし得る言葉の量のみによって測定しようとすれば、
 ひとり智能の幅、深みを究めがたいのみならず、
 絶えずその間に行われている用語の選択に、
 どういう本然の理性が働いているかを明らかにして、
 後々の参考に資することもできぬわけである。


幼児期における精神の力の柔軟性たるや、
大人にはとてもかなわない。


 口の言葉の数というものは、
 おしゃべりと言われる児でもいたって少ない。
 これが彼等の国語知識の全部でないだけは証明がいと容易である。
 愛する人々はこれを確信して、
 一言の受答えがなくても終日談り暮らし、
 一方にはまたこの特殊の会話の用に、聴かせるためだけの句や単語が、
 いくらともなく地方ごとに伝わり行われている。

 耳に快く、聴いたらすぐ覚えられる面白い言葉が、
 彼等のためだけに数多く設けられている。
 こういう親たちの計画を国語教育でないという人は、
 もうたいていはなくなっていると思うがどうだろう。

 この練習はおいおいに成人と共通の言葉を覚えるために、
 大きな準備となっていることは疑いない。


将来、活き活きと自分のことばをもって生きていくための大きな準備として、
「聴かせるためだけの」
「耳に快く、聴いたらすぐに覚えられる面白い言葉」
を子どもたちのために用意し、与えていくことは、
言語造形家が始めることのできる仕事のひとつである。

活きたことばによって、昔の子どもは育てられた。
この活きたことばには、必ずはっきりとした身振りが伴なっているはずである。
それは外的な表情やしぐさだけではない、
時に、内的な動きそのものである。

ことば遊びの文句やおまじない、子守唄、
もしくは警告のための「めぇ〜」や「アップ」「バブ」という極めて端的なことばには、
すべて活きたリズムと身振りが込められて子どもに与えられたのである。

大人よりも遥かに優れた幼児の耳と目の力を信頼して、
子どもの前で、子どもと一緒に全部やってみる。
それが、就学前の子どもへのことばの教育だ。

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2009年06月16日

『昔の国語教育』柳田國男 2

このインターネットの画面を見ていても、
わたしたちは、ことば、ことば、ことば、に取り囲まれている、と感じる。

また、周りに文字が見当たらなくても、ことばとして外に発せられていなくても、
内側においてことばを綴っていることがよくある。

そのように、人間の内にも外にも、
まるで呼吸のように動いていることば。

人間を取り巻いていることば。

それらを活き活きとしたものにするのは、ひとりひとりの人次第。
ことばを活かすことによって、
またその人自身を活き活きとさせ、
その人をますますその人らしくさせる。

そのようにわたしたちの生涯に付き添っていることば。
それを活かすこと、
国語の主人になること、
それは、教育ということや人の成長を考えていく上で、
ひとつの大きなテーマになりえると思う。

さて、人がこの世に生まれて最初の約六、七年間において、
国語教育はどのような発足点を持てるだろうか。


 我々が児童を学校の国語教育に、委託する以前の六年有余は、
 今でも決して空々寂々には過ぎていない。
 この期間の指導法は、
 乱雑無意識のようで実は目標があり、熱意があり、
 また個々の社会の系統への遵依(じゅんい)があり、
 その統一には世に伴なう拡大さえ見られる。



昔から、人は、金こそはかけなくても、
目標と熱意をもって、子どもたちへの国語教育に意を払っていたと言う。

「個々の社会の系統への遵依(じゅんい)」とは、
我が母国語、我が地域語、おらが国さのことばに沿って、ということであり、

「世に伴なう拡大」とは、
時代の移り変わりに応じて、
地域性の変容・崩壊に応じて、
国語教育にも変遷があったということだろう。

人の第一七年期における指導法とは、
どのようなものだったのか。

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2009年06月12日

『昔の国語教育』柳田國男 1

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『昔の国語教育』。
これは、民俗学者、柳田國男が昭和十二年に書いたものだ。

わたし自身はこの本を随分前に読んだのだが、
我が家に三歳と一歳の娘がいて、
日々、彼女たちがことばに敏く反応し、
ことばを覚え、
ことばを正しく使い込んでいく様子を目の当たりにして、
今一度、頁を開いて読んでみたくなった。

 言語のごときは呼吸飲食と同列に、
 人の生活の実態をなしているものである。
 これを正常にかつできるだけ有効に活用させようとするのが、
 『育てる』ということの目的であったはずである。
 もとより時代によって要望の精粗はあろうが、
 根本の目的は千古を一貫している。


教育ということ、
育てるということ、
それは、おそらく、
それぞれの人の中の、
人間的な力、人間として生きていく力を引き出す作業だろう。

それは、昔も今も変わっていないのではないか。

ただ、昔と違って、きっと今は、
ひとりの人に要求するものが複雑多岐になりすぎているような気がする。

昔は、とてもシンプルで、
あまり多くを若い人に望まないが、
とにかく、人前に出て、一人前に口が利けるようにする。
それが、教育の大きな目標だった、と柳田は言う。

そのとき、そのときで、
余計なことは言わず、
考えていることとずれたことを言わず、
自分が考えていることをピタリと、過不足なく、
ものごとに即してことばを話すことができるように、
若い者を教育しようと、
昔の人たちは考えていたそうだ。

『言語のごときは呼吸飲食と同列に人の生活の実態をなしているもの』
まさしく、そうだと自分も実感している。
わたし自身、娘たちを見ていて、この子たちは、将来、どういう人になるのだろう、どういう女性になるのだろう、と思いを馳せる。
そして、こころの籠もったことばを話す人、ことばを大事にする人になれよ、と思う。


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