まさに汗牛充棟、ごっそりとあるが、
1978年、53歳で亡くなった観世流シテ方、観世寿夫(ひさお)氏の文章は、
身体を使った目からの観察であり、身体を使ったことばであると感じる。
『観世寿夫 世阿弥を読む』(平凡社ライブラリー)を日頃、愛読している。

そこには、「道」というものを明確に意識した人のことばが連ねられてある。
道を道たらしめているのは、意識的な稽古の積み重ね以外になく、
そのような稽古が深まってゆく中で紡ぎ出されたことばこそ、
言語造形の道を歩くわたしが欲しているものである。
いまだ彼の全集を手に入れられずにいるが、
このアンソロジーだけでも、舞台に立つ者にとっての宝のようなことばに満ちている。
(能は)本質的には、からだ全体を用いて表現しなければ駄目なものです。
能はまずすべての演技を、音も動きも抽象的なものに還元して造形しようとします。
それが世阿弥にいわせれば幽玄な舞台を創り出すもとだというのです。
ですから能役者にとっては、音すなわち声・調子・リズムといったものと、
からだのカマエ、足のハコビ、つまり歩くことが常に重大な要素です。
能は面をかけることでも明らかなように、すべての恣意的な動作を否定するところから
はじまりますが、究極においては、精神的にも肉体的にもいかに自然にいられるかを
求められます。
ですから上手な人の場合は、その演者のからだがそのまま大きな実在感となって
訴えてきます。下手のころにはよくからだが見えすぎるというダメを出される。
それはその人の個人としての肉体がじゃまになるということです。 (P.42)
ここでの「能」ということばを、
そのまま「言語造形」ということばに換えても、いっこう差支えがない。
世阿弥、そして観世寿夫、
彼らが残してくれた稽古論をこれから一層実践的に研究していきたい。
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人間によってこそずっと引き継がれていて、
人から人へと大切な事柄が手渡しで伝えられ、分かち合われているのだと感じています。
これから、言語造形の道においても私自身もっともっと磨きをかけて、
師から受け取ったものを人へ伝えていくことができるように精進していきたいと思います。
なお、稽古の「稽」という字は、「かんがえる」とも訓じるそうです。
いにしえを考える。
「考える」は、「か(処)+むかふ(向かう)」で、
その処(ところ)は、やはり神、もしくは神が降りたもうところ、
そこに向かうことが、そもそも「考える」の原義かもしれませんね。
「古道を考える」
それが稽古なのでしょうか。
全部、白川静さんからのものです。
また「稽古」という字の「古」の方なのですが、
道元の『正法眼蔵』の第九「古仏心」の巻を読んでいましたら、次のことばに当たりました。
いはゆる古仏は、新古の古に一斉なりといへども、
さらに古今を超出せり
「古」は、たんに「新」に対する「古」ではなく、
新しい、古い、という相対性を突き抜けた絶対普遍としての「古」。
それ以上、「古い」もののない「古さ」。
そういう「古」を稽(かんがえる)こと。
稽古とは、そもそもそういうものなのでしょうか。