「シュタイナー教育はやはりドイツという西洋文化の中で生まれたものであるから、
ここ日本での実践には難しいものがあるのではないか」
というような意見がある人から出されていたのを聴いていて、
改めて考えた。
確かに、その国、その国、その土地、その土地で、
お国柄、土地柄は随分と違っていたりもする。
世界のいわゆるグローバル化・文化の画一化が進んではいるとはいうが、
人の生きる世界のところどころでは、
随分と違うものがまだまだ残っている。
そもそも世界は、違う文化と文化が無数に隣り合い、重なり合って、その歴史的時間を進行させている。
話しを一般化させずに、シュタイナー教育ということにあえて意識を絞って考えてみると、
ここ日本で、シュタイナー教育を実践していくにあたって、
まず意識したいことはなんだろう。
それは、おのれのものも含めそれぞれの民族・国・人が培ってきた文化に対する敬意を持つことがとても大切だということ。
それが、西洋と東洋との違いであれ、国と国との違いであれ、人と人との違いであれ、
その間に違うものがあるからこそ、学ぶべきこともごっそりあるのだということ。
ドイツで生まれたシュタイナー教育が、
その民族性や宗教的信条のゆえに、独特のものがあるならば、
わたしたち日本に生きる者も、
世界中の多くの国でこの教育を実践している者たちと同様、
そこから学んでいく意味はおおいにあると思う。
それは、よそのものを無批判に取り込んでいくこととは違い、
おのれの文化をよく知り、おのれの文化に敬意を抱くがゆえに、
他者の文化に接し、交わり、そこに学んでいこうとする積極的・意識的な行為である。
そして、より本質的な側面として、
洋の東西、国と国、人と人の間に通底している「普遍的なもの」こそを、
わたしたちはこれからの時代、
鋭く求めていくのだろうし、学んでいくのだろう。
もし、シュタイナー教育にその文化の独自性を越えて普遍的なもの、
つまり「人間の教育」を見出すことができるなら、
わたしたちはそこにこそ、これからの教育へのおおいなる示唆を得、
自分の中から現代の人間によりふさわしい教育をそのつどそのつど創造していくことができる。
なぜなら、わたしは、日本人であるまえに、地球に生きるひとりの者で、
その意識からそのような世界観を求める者だから。
シュタイナー教育の運動に何らかの形で参与していく者は、
とどのつまり、
「ひとりの人間として自分はどう生きるのか」
という一点から、ものを見、感じ、考え、行動していくことに意識的になっていくだろう。
秋深し隣は何をする人ぞ 松尾芭蕉
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