
庭というところは、不思議な場所ですね。当たり前のことですが、自分の家の中なのに、外の空間と混じり合って、囲まれているけれども、開かれてもいる、そんな場所です。
こうして、毎朝、庭に出したデッキの上で勉強しながら、春の陽の光を浴びている草木や花々、飛んでくる蝶々、水の中を泳ぐメダカなどを観ていますと、小学生だった頃の自分を想い起こすのです。
そのとき、本当に小さい小さい、庭ともいえない庭に面した廊下に座り込んで、籠の中に飼っている虫たちや亀などの動物を見つめながら、図鑑のページをめくって、飽きることがなかったのでした。
それは、今でもよく憶えているのですが、本当に至福の時間で、流れる時間と空間の中に何か我が王国を建設しているかのように感じていたのでした。
この感覚は、庭に面している時だけでなく、家のすぐ近くにあった野原の深い草むらを掻き分けて地べたに這いつくばって土の匂いを存分に嗅ぎながらバッタやカマキリ、コオロギなどの虫を追いかけていたときや、ひとりで電車やバスに乗って行き、山の中の渓流でキラキラ光る川魚を朝から夕方まで釣っていたときにも、その感覚を存分に味わっていたのでした。そういうことが、ここ最近、よく想い起こされるのです。
小学生の子どもの頃にそういう味わいを存分に体験していたからこそ、六十の歳になった今、そのみずみずしい時間と空間を俺は求めていたんだなあと気づきます。
感官を存分に使って遊ぶという子ども時代が、どれほど、後年の人生を彩ってくれることでしょう。
そんなことを想っていますと、目の前に、光に輝きながら、くるくると風に舞うように、三羽の揚羽蝶がわたしの眼の前にやって来てくれます。
その三羽に語りかけていますと、何度も去っては、また来て、そして、ようやくして舞い去ったあと、その羽の羽ばたきによって揺らいだ風と光の中に、目には見えませんがフォルムが描かれ、わたしのこころの情を膨らませてくれます。
そうでした。蝶とは、陽からやって来た、光と風の化身でした。また、亡き方々の靈(ひ)の顕われでした。
光と風。土と水。その靈(ひ)に親しむ。春から夏にかけて、わたしたち人にありとあらゆるものが語りかけて来てくれます。
ここ数日、毎朝、一羽の揚羽蝶がやって来てくれるのですが、今朝は三羽揃って来てくれたのでした。
そうでした。今日、4月24日はわが父の命日でした。三日前に墓参りをし、そこに眠っている父と父の弟、そして祖母に挨拶をしたのでした。
※蝶を数えるのに、「頭」を使うそうですが、なんだか、無粋な気がして、漱石の『草枕』に倣って「羽」を使いました。
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