
冬のさなか。こころの内なる空間が、濁りをだんだんと去って、澄みわたる季節。こころの内の透明度が増してゆくように感じるのですが、皆さんいかがでしょうか。
今年の五月から始めます「宮城蔵王 ひのみやこ主催 日本文化に根ざすシュタイナー教員養成講座」。
わたしは、シュタイナー教育の基礎となる人間学「アントロポゾフィー」、そしてことばの芸術「ことばづくり(言語造形)」を担当させてもらいます。
さらに、この教員養成講座は「日本文化に根ざす」という副題を冠しています。
そのことの意味を述べることをしますと、本当に、多くのことばを費やしてしまわざるをえないのですが、今日は、そのうちのひとつを述べさせていただきたいのです。(それでも、こんなに長いものになってしましました。ごめんなさい!)
それは、人が「ひと」として育ちゆくということが、その人の内にどれほど、「ことば」が育っているかということとひとつであるということなのです。
ことばとは、外側に飾りとして身につけるものではなく、母から与えられた母国語を通して、こころの内側からの生命を生きるものなのです。
日本人ならば、日本語を通して、おのれのいのちを生きるのです。
ことばを飾るのではなく、ことばをどう生きるか。日本語をどれほど深く、豊かに、活き活きと生きるか。
そのことが、人が「ひと」になりゆく上で、実は、欠かせない道なのです。
「ひと」ということばは、靈(ひ)が宿り、留(とど)まり、灯(とも)る存在のことを言う、古い日本語です。
靈(ひ)が灯るとき、初めてその存在は「ひと」になります。つまり、「ひと」とは、わたしたちの理想を言い表すことばなのですね。
そして、シュタイナーから生まれた靈(ひ)の学び(精神科学)「アントロポゾフィー」は、別名、「ひととしての意識」とシュタイナー自身が言っています。つまり、靈(ひ)の灯っているおのれを意識すること、靈(ひ)の灯っているおのれを知りゆくこと、それが、アントロポゾフィーの道なのです。
日本においては、その靈(ひ)を灯すのはことばであるということが、とりわけ、引き立てられたのでした。そして、その灯った靈(ひ)のことを「言霊(ことだま)」と呼びました。
その「言霊」に親しむこと、通われること、結びつくこと、そのことが人生を貫くひとつの道だったことが、歴史に残る文献や芸術作品からはっきりと知ることができます。
そのことを最初に意識的にまとめ上げたのが、江戸時代の本居宣長です。
わたしには、同時代に、ゲルマン精神に靈(ひ)を見いだそうとしたゲーテと相通じるところがあるように思われてなりません。
宣長の歌論『あしわけ小船』や『石上私淑言(いそのかみささめごと)』を読みますと、本当に勉強になるなあ、と今朝もため息をついていました。
そう、この「ため息」。この「ため息」「嘆息」をつくときの人のこころのありようを表すことばをこそ、「あはれ」と言うのだと宣長は説いています。
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阿波礼(あはれ)といふ言葉は、さまざま言ひ方は変はりたれども、その意(こころ)はみな同じ事にて、見る物、聞く事、なすわざにふれて、情(こころ)の深く感ずる事をいふなり。
俗にはただ悲哀をのみあはれと心得たれども、さにあらず。すべてうれしとも、おかしとも、たのしとも、かなしとも、恋しとも、情(こころ)に感ずる事はみな阿波礼(あはれ)なり。
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「あはれ」とは、まさに、なににつれ、「あぁ・・・」と胸から、こころから、息が吐かれるときに湛えられている情のありようです。
その吐息には、どれほど、その人の嘘のない、まごころが籠められていることでしょう。また、籠もってしまうことでしょう。
息を吐いてみる。声に出してみる。ことばにしてみる。
そのように、人は、おのれの内にあるものを外に出して、初めて我がこころを整えることができ、鎮めることができる。そうして、ようやく、自分自身に立ち戻ること、立ち返ることができる。
さらには、外に響くことばの調べをより美しく整えて行く。その吐息に乗って、整えられたことばづかい、それが和歌(うた)です。
不定形だったこころのありさまを、和歌(うた)として整えられた調べへと造形することによって、人は、「もののあはれを知る」ことができるのでした。それは、「おのれを知る」ということへとおのずから繋がってゆき、さらには、「人というものを知る」ことへと、道は続くのです。
その和歌(うた)に習熟していくことによって、人はますます「もののあはれを知る」人になりゆくのだと。
本居宣長は、そのような、この国の歴史の底にしずしずと流れていることばの生命力を、ひとりひとりの人がみずから汲み上げることの大いなる価値を、その生涯の全仕事を通して謡い上げ、語り尽くしたのです。
わたしは、これからますます、この「もののあはれを知りゆく」ことが、子どもから大人にいたるすべての人にとっての最もたいせつな教育目標であると考えています。
日本人が日本人であること、それは、「もののあはれを知る」人であるということなのです。つまり、情の豊かさを生きつつ、その豊かさを豊かさと「知っている」人であるということなのです。世界にも他にあまり例をみない、言語化された人間観です。そして、これからの世界をある意味、新たな次元へと導いて行く世界観ではないでしょうか。
そのためには、国語教育、文学教育が、どれほど重きをなすことでしょう。
小学校へ上がる前は、たっぷりと、昔話やわらべ歌、美しい詩歌や和歌を全身で聴くことができるように、そばで大人が語り、詠ってあげる。
小学校へ上がってからは、子どもたち自身が全身で詠う和歌(うた)や神話の朗唱から授業を始めるのです。ことばの意味は措いておいてもいい。まずは、ことばの流れるような調べを、先生の声、自分自身の声の響き、震えを通して、全身で味わうところから。そうして、国語の授業だけでなく、色々な授業を通して、ゆっくり、だんだんと、自分自身のことばを整えてゆくことを学んで行く。
ことばを整えてゆくことによって、子どもたちは、自分自身のこころを整えてゆくことを学んで行くことができるのです。
こころとことばとが、ひとつに重なること。これは、本当にたいせつなことです。
なぜなら、人は、ことばによってこそ、ものを考え、「もののあはれ」を感じ、自分自身のこころを決めること、意志の遂行をなしとげるからです。
吐かれる息づかいに、顔に表れる表情に、することなすことに、その人のこころのありようが写しだされます。
しかし、とりわけ、こころのありようは、すべて、ことばに表れます。選択されることばの趣きに、発せられることばの響きの後ろに、表れます。
小学校時代には、知識を詰め込むのでもなく、知識に取り組むのでもなく、外なる世に現に向き合っている自分のこころに豊かな情が育ってゆくことこそを、子どもたちは求めています。その情の育みのためには、こころとことばが美しく重なった言語生活が最もものを言うのです。
これまで、国語教育では、正しいことばづかいは教えられてきたのかもしれません。しかし、これからは、靈(ひ)に通われた美しいことばづかいを学んでゆくことに、人としての教育の如何が懸かっています。
重ねて言いますが、その美しさは、表面的なものではなく、こころとことばがひとつに重なる美しさです。
和歌(うた)をはじめとすることばの芸術から学びを始めること。美しいハーモニー。調べをもったことばづかい。
宣長は、その日本人が古来たいせつにして来た精神の伝統を意識的に甦らせてくれた人なのです。
わたしたちのシュタイナー教員養成講座は、「ひと」の成長は、ことばの成長と軌を一にしているという、そのことを主眼のひとつとして打ち樹てています。
日本語ということばを守り、日本語を受け繋いで来た歴史を貫く縦の糸と、日本の大地に根ざす農の営みという横の糸とを、共に織りなし合わせ、広くて深い意味での「自然」と繋がる人の生き方を提示して行く、それが、わたしたちのシュタイナー教員養成講座の眼目で、だからこそ、「日本文化にねざす」という副題をつけたのでした。
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1月17日(金)20:30~ オンライントークライブ
(ゲスト:設楽清和 /パーマカルチャーセンタージャパン代表)
1月22日(水)20:30~ オンライン説明会
1月29日(水)20:30~22:00 プレ講座『講義「世は美しい」 & 声のワークショップ・ことばづくり(言語造形)』(講師:諏訪耕志 /ひのみやこ コースリーダー)
2月5日(水)20:30~ オンライントークライブ
(ゲスト:岸 英光 /コミュニケーショントレーニングネットワーク統括責任者)
ご関心をお持ちの方、ぜひ、お気軽に、ご参加下さい。お申し込みをお待ちしておりますね。
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