
冬本番になって来て、山の上に拡がる空の美しさを毎朝仰ぎながら生きています。
昨年暮れのクリスマスからお正月を超えて、ひとり、部屋にいるとき、どこか透き通るような考えに恵まれるような日々を過ごしているように思えます。本当にありがたいことです。
どこにいようとも、いつであろうとも、自然はわたしを包み込み、貫いてくれている。そして、最も豊かで密やかな自然が一番近くにある。それが、自分のからだです。このからだを、こころをこめて用いれば用いるほど、その働きは豊かなものをこころにもたらしてくれる。
こころをこめて目を用いれば、神からいただいた目という自然がこころに密やかに「徳」という靈(ひ)の質をもたらしてくれる。
こころをこめて耳を用いれば、神からいただいた耳という自然がこころに密やかに「聖」という靈(ひ)の質をもたらしてくれる。
「徳」は目の働きに順(したが)い、「聖」は耳の働きに順う。
漢字という文字が人に教えようとしてくれていることにも、耳を澄ますことができます。
目という自然も、耳という自然も、唯物的感覚に裏打ちされた情報を仕入れるためだけに使われるのではなく、そのようにこころをこめて用いられることで、人のこころに、深く、豊かで、澄んだ情と考えを育むことができます。
からだという自然は、偉いものです。その自然は、こころを込めて使われるほど、靈(ひ)から働かせられるほど、その機能を深化させます。
我が身を包み、通い、貫いてくれている光や風や水といった自然。そして、自分自身のからだという自然。さらには、それらすべてを内において支えている靈(ひ)という目には見えない自然。
それらすべての自然に包まれてあることを感じ、すべての自然とこころからつきあい、すべての自然をていねいに用いることで、わたしたちに与えられている感官という感官を養うことができます。そのような感官の養いは、こころを整え、律し、靈(ひ)の拡がりと高みへと導きます。からだの感官を超えて、こころの感官、靈の感官を養うことへと道が続きゆきます。
冬のさなか、そのことを感じています。