
ひととせのはじめに音楽の美しさに触れたい。
そんな願いから、小西 収さん率いるトリカード・ムジーカの「第三回 楽藝の会」に足を運びました。大阪北部の箕面です。山があり、とても空気のいいところです。
少しの休憩を挟んでの二時間強に及ぶプログラムでしたが、わたしにはあっという間の二時間でした。
以下、音楽の門外漢による拙い感想・「体験」記を記させていただきたく思います。
山崎淳子さんによるライアー演奏でプログラムがはじまり、わたしはひとつひとつの音(ね)に導かれるように、いま、ここにしかないひとつの世、音楽の世にいざなわれて行ったのでした。
その後、メンバーの皆さんおひとりずつの独奏や二重奏によって、聴き手のわたしのこころもちはやわらぎ、昂り、ほどかれ、その時点ですでに音楽の美しさが肌の内側に浸透して来ているのをありありと感じていました。
しかし、少しの休憩の後、指揮者の小西さんと十一人の演奏者によるモーツァルトの交響曲40番ト短調が鳴りだした途端、わたしは自分のからだの下の方から何かが湧き上がって来るのを感じ、まぶたに涙が溢れ出て来たのです。そして、大地から揺さぶられているような感覚でその第一楽章と第四楽章を聴き終えたのでした。この曲をこんな風に感じたことは、これまでにないことでした。
その後も、ベートーヴェンの交響曲第九の第一楽章と第一の全楽章を聴きながら、わたしはその空間に、山のような、川のような、風のような、光のような、「自然」が繰り出すのを観るのでした。
そして、小西さんの指揮と演奏者の方々の演奏の織りなし合いに、「人と世があることの意味」が建築物のように一瞬一瞬打ち樹てられて行きます。
ことばでおのれが観たものを表現することはとても難しいものですね。しかし、わたしは、ここ数日かけてあの音楽体験をなんとかことばにしたいと願っていました。しかし、このように拙く述べるしかありません。
プログラムパンフレットに小西さんが記された「楽藝の会に寄せて」という文章(下にコピペさせてもらっています)は、いくたびも読むほどに感を深くさせられるのですが、そこに「彼(柳宗悦)のいう民藝の音楽版のような活動ができれば・・・」とあります。
「柳が日本民藝館に無名の美の宿る多くの工藝品/民藝品を陳列したように、私はそばに咲く「楽の花/美の声」の担い手に参集してもらい、いわば“音楽の園芸家”として“楽藝館”内に“楽音の園”を整えんとしてみた、と私からは言えます。」
この「無名の美」というもの。
それは、どこから生まれ出づるのでしょう。
わたしは、そのことをここ数日、自分自身に問うていました。
そして、こう応えが返ってくるのです。「それはただひたすらに長いときをかけての、その人の成熟からだ」と。
俗にいう有名無名を超えて、すべての人に、美しさは宿りえる。その美しさは、きっと、その人の生き方であります。その生き方からおのずと生まれ出づるもの。そういうものに従って、わたしも生きて行きたい。
そんな念いを胸に、新しい年のはじまりを迎えることができました。
以下、シェアができなかったので、小西さんの上げられた文章をコピペして載せさせていただきます。
小西さんはじめ演奏された皆様、本当に美しき善きめでたき時間をありがとうございました。
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2025年1月4日(土)
第3回 楽藝の会。
今回も、私の敬愛する奏者たちの演奏を聴き、彼ら彼女らとの演奏を共にする、至福のひとときとなりました。
──と、前回は上のように書いたのみでしたが、今回はやや饒舌モードで。
打ち上げでは「速い!」「長い!」と責められ…って、もちろん談笑が伴いつつのものです😆が、「速い」も「長い」もその通りであり、ぐうの音も出ないわけでして…。
「(普段よりも)速い」について。リアルタイムに自覚できていた部分とそうでもない部分とがあり…(頭掻)。当方、年男でありますが、還暦というのは指揮者としてはまだまだひよっ子とも言え、ご容赦のほどを…という気持ちです。よりいっそう精進して参る次第です。
「長い」について。物理的に長時間だったのと、曲目によっては「普段の集いでの演奏回数/熟成」との比のギャップ(すなわち、巷の言い方ですと「練習不足」)がやや大きく、奏者に無用な負担をかけた部分があっただろう…ということです。
新年早々の開催ながら、前回よりも多くの、それでいて“質の高さ”は不変の、温かな観客の皆様に恵まれ、この点も嬉しく、とても感謝しています。ありがとうございました。こちらの方は細かくは休憩時間の設定の拙さなどあり…次は気をつけます。「“来たるべき”楽藝の会」へ向けての応援も、どうぞよろしくお願い申し上げます。
以下に、プログラムに掲載した「楽藝の会に寄せて」の全文を引いておきます。トリカード・ムジーカ指揮者・“始動”者の自分を園芸家に喩えた所は我ながらやや強引かとも思いますが、柳宗悦の文章に心打たれて始めたのがトリカード・ムジーカであるということを短く伝えるための拙い凝縮と受け取ってもらえればありがたいです。
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柳宗悦(やなぎむねよし 1889─1961)は、「ものの見極め」のために、何よりも「直観」を重視していました。彼のいう民藝(運動)の音楽版のような活動ができれば…という(まさにこれも直観的?)発想のもとに「トリカード・ムジーカ(音楽の編み物)」を私は始めたのでした。当会を「楽藝の会」と名付けたのも、もちろん「民藝」にあやかってのことです。
私のような者でも、幸い、音楽の美を美と受け取る直観力は授かったように思います。その私が日々受け取ってきた身近の音楽美を一日に集結させたのが本日の「楽藝の会」だといえます。柳が日本民藝館に無名の美の宿る多くの工藝品/民藝品を陳列したように、私はそばに咲く「楽の花/美の声」の担い手に参集してもらい、いわば“音楽の園芸家”として“楽藝館”内に“楽音の園”を整えんとしてみた、と私からは言えます。“園芸家”=指揮者自身の腕の方は稚拙?で、tuttiではときに柳のいう「絣」のような「擦れ」たものになるとすれば、それはすべて私の至らなさに依るものです。いや、柳は「絣美について」で、そうした絣の「擦れ」をまさに讃えていたのでもありました(微笑)。いずれにしても、「楽の花」=「奏者の楽音の美」自体は確かに在る。そしてその美は、観客のみなさまを含めここに集ったすべての人がともに耳を澄ませ同じ時間を過ごす中で、より良く醸成されていくものでもあると考えます。
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