
秋の奈良。春日大社をはじめ摂社を巡り、こころの内に敬虔さが降りて来る恩恵を深く感じさせてもらった後、参道で一匹の鹿と目が合いました。
他の鹿たちは、餌を求めてうろつき回っているのに、その鹿は静かに脚を曲げて座っているのでした。
わたしは立ち止まらざるを得なくて、数秒間、その鹿の眼をじっと視ていました。そして、「優しい目をしているね。ありがとう」とこころの内に呼びかけると、明らかにその鹿は、微笑み始めたのでした。
動物が微笑むなどと言いますと、一笑にふされるかもしれないのですが、そうとしか言いようのない光景だったのです。
そして、その眼差しに、なんとも言えない、慈愛、慈しみを湛える光を宿し始めたのです。
その光に照らされ、包まれて、わたしはこう感じざるを得ませんでした。「神が、いま、ここに、おられる」と。
ここで、わたしがお伝えしたいと思うことは、日本語における「神」ということばのことなのです。それは、英語における「God」ではないということなのです。
神々しいものすべて、靈(ひ)の通うものすべてを、日本では、古来、「神」と呼んでいました。
ですので、山にも風にも海にも、狐にも牛にも鹿にも一木一草にも、そして、自分自身の奥様にも幼い子どもにも、神々しいもの、普段のありようを超える何かを感じるものには、「神」と呼んだのでした。
そうして、それらの「神々」は、観る人にとって観えるところの光を放っており、また同時に、その光で神々は人のこころの営みを見通し、見晴るかし、見守られる、ということなのです。
先にも述べましたように、我が国では、人も「神」となるのであります。それは、人であることの理想を体した存在のことであり、いにしえにおいては、そのための修練を積み重ね、その意識をもって毎日を生きることをおのれに課し、しかるべき儀式を経て、内に「靈(ひ)がともる、靈(ひ)がとどまる」ことによって、まことの「ひ・と」になり変わるのです。
「神」ということばは、西洋の観点で捉えるべきものではない、本当に古くからの日本のことばなのですね。
日本人は、その意味での、「神」を観ていました。こころに敬虔さ、敬いの情が満ちているとき、外の世の様々なものが、思いも寄らぬ秘密を打ち明けてくれたのでした。そのとき、日本人は、ものというものに「靈(ひ)の光」を、「神」を、観ていたのです。
敬わざるを得ない人、こうべを垂れざるを得ないものに対して、わたしたちは、「神」と呼んでいたのです。
※写真の鹿は、ここで述べさせてもらった鹿ではなく、春日大社にたどり着く前にカメラに収めさせてもらった鹿です。ここで述べさせてもらいました当の神々しい鹿を、わたしは写真に撮ることは到底できませんでした。
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