人と人との集まりの中で、いわゆる人間関係における世代間や性差、個人と個人の間の違和、不調和、断絶というようなものがあります。
理想を求めて集まった人たちの中でも、そういったものから生まれる情のせめぎ合ひが激しくきしむことがあります。
100年前のルードルフ・シュタイナーは、学びに集まった人たちに対して、若い世代には「もっと謙虚になって、これまでに古い世代が積み重ねてきたものを敬いつつ認めることを学んではどうか」と呼びかけ、古い世代には「変に若ぶらずに、しっかりと精神において老いるように、こころにおいて熟するように」と諭しました。
しかし、そのように世代間の断絶と見えるようなことも、おおもとの問題は、よくみて、よく考えている人たちと、よくみず、よく考えていない人たちとが、いつの代にも存在していて、争いは、よくみず、よく考えない人たち同士の間で起こっているということです。
よくみず、よく考えない古い世代と、よくみず、よく考えない若い世代とがぶつかり合っていたということです。
さらには、人と人との間のやりとりは、すべて、ものの言い方、ことばの用い方の問題であることをわたしは念います。
つまり、人と人とがぶつかり合うとき、いま、何が本質的に大切なことで、何が非本質的なことであるかをみずからで、よくみることができていなかったり、よく考えることができなかったりしているのではないでしょうか。
さらに見落とされがちなこととしてわたしが思うのは、人はものの言い方を学ぶ機会をもってはいないということです。
自分の立場や、自分にとってこれまでのお決まりの思い方、感じ方、考え方にしがみついたまま、そこからものを言ってしまう。
それは、文学や舞台芸術から、もっと素朴なものでは親や祖父・祖母からの言い伝えによることばづかいの芸術的なありように触れ、親しむ修練を積んでいないことによって、ことばがその人のまるごとを顕わにしてしまうことへの畏れをもっていないことから、どうしても生じてしまうことです。
そうして、わたしたちは、万人が万人の敵となる、あの黙示録に予言されているあり方へと突き進んで行くのでしょう。
ことばの用い方をもって、人はものの考え方、感じ方を織りなしてゆきます。
決して、思想や理念がことばに先立って醸成され、それがことばとして表現されるのではありません。
人は、いくつになっても、ことばの用い方に、その都度その都度、新たに新たに、意を注いでいかねばならない存在なのです。
そのためには、ことばの芸術、芸術としてのことばづかいに触れていることがとても大切なことなのです。
賢者のことばであったとしても、それを一言一句厳格に捉えることをもって足れりとしている老人も、自由にものを言うことこそが人であることの証だと思い込んでいる若者も、新たに新たに、みずからを律すること、みずからを研ぐこと、みずからを磨くことによつてのみ、「ことば」は人と人とを繋ぐ自由な何かになりうる、ということを学ぶ必要がある。
そういう、ことばの教育、国語教育、これは、わたしたち大人が真剣に取り組んでいくべきものですが、そのためには、日教組や国語審議会の人たちでなく、真の文学者、真の詩人という存在がおのおのの民には要ります。つまり、まごころをもって世界のこと、この国のこと、人や子どもたちのことを念うことばの力が要ります。
それらの文学者、詩人という存在は、時の流れの速さなどには決して負けない、しずしずと地下を流れる清水のような精神の力をことばに湛えて仕事をします。
ですので、昨今、売れている作家などではなく、わたしたちで言うと、祖父の世代の文学作品を落ち着いたこころもちで若い人たちが読み深めることを奨励するような雰囲気が学校や家庭にあることが大切なことです。
そういうものに触れることによって、若いこころをもつ人ならば、必ず、靈(ひ)においてこころといのちが甦ることを覚えるはずです。
ひとりひとりの人が、そういうありようを生きることこそが、すべてのはじまりです。
人と人との間の断絶をわたしたちは積極的に超えてゆくことが、きっと、できるはずです。