わたしはこれまで写真というものに関心を寄せることがほとんどなかった。精確に言うと、写真を芸術作品として観るための前もっての知識をほとんど持っていなかった。もっと精確に言うと、ものを観ることにおけるこころの深みにほとんど目覚めていなかった。ものを観ること、その感官の営みに精魂を籠めることの喜びを根本的に知らなかったのだ。
わたしたちの暮らしの中で、冷暖房が効いた部屋で過ごすことや、電車やバスに乗ったり、インターネットで遠くに住む人と顔を見合わせながら会話ができたりするのと同じ程度に、いやそれ以上に、写真というものが暮らしの中にあることがあまりにも当たり前のことであった。それゆえ、写真を観ることへの意識が全くといっていい程、眠っていたのだ。
この日高 優氏の著作は、根底からそういった、現代人特有のと言ってもいい意識を眠りから呼び覚ます。
物が、ここに、あるということ。この「物」をあえてここでは「ぶつ」と言いたい。そして、それを観るということ。
写真を撮るということは、目の前の物(ぶつ)を見ることから始まり、さらにファインダーを通して、物の物たるところ、「もの」を観ることへと、こころの射程距離を伸ばしてゆくことであった。
写真家は、生(なま)の眼によって得る知覚と、カメラという「機械による知覚」とを、シャッターを押すことを通して結び合わせ、生みだす映像に「もの」が写し出されるのを待つ。
そして、写真を視るわたしたちは、「ものを観ることの深み」に目覚めるための機会を与えられる。ものを、ものものしく観るレッスンの始まりである。その練習の継続は、こころの開眼への道を歩きゆくことである。それは、写真家当人が歩いた道のりでもある。
この本を読み、まず驚いたのは、写真を撮ることと写真を観ることは、共に、信仰にまで届くこころの修練をもって、どこまでもその質を深められるということ。その感官の営みの深まりは、人生を生きるということそのことが豊かな稔りを得ることへと繋がってゆく。
深みを観る。ものがここに在ることの深みを観る。「在ること」の神秘に目覚める。それは世の深みとその持続を生きるということであり、誰もが啓いてゆくことのできるこころの技量である。
写真を撮る人は、深みと持続を生きる人、靈(ひ)にカメラで触れる人であった。
さらに、この本の題名は『日本写真論』である。
写真という存在がもたらす神秘、その写真を撮るという営み、そのことを愚直なまでに深めたのが、「日本人」であったということ。読んでいて、そのことに刮目させられるのである。
この書では、昭和を生きた三人の写真家、木村伊兵衛、土門拳、濱谷浩のそれぞれの仕事の、まこと内なる質が静かに、かつ情熱を込めて語られている。三人は、三人それぞれの魂の曲率をもって、それぞれの仕事をなし、かつ、自分たちが生きているこの日本という風土の底に流れ続けている共通の歴史感覚に降りて行っている。そう、日本をこそ、彼らは撮り続けたのだ。
西洋近代文明から生まれたカメラという機械による写真術。それが、日本人によって、靈(ひ)の営みへと深められ、高められた。
そのことが、わたしには、とりわけ、感銘が深い。
わたしも日本人のはしくれとして、ものを観ることを始めることができる。ものへの道を歩き始めることができる。
著者の「未生の写真家たち」ということばは、わたしをはじめとして、未来の多くも多くの日本人たちへの応援と覚醒と奮起への呼びかけではないだろうか。
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