木村伊兵衛「秋田おばこ」秋田大曲 1953
近頃、印刷術や写真術などに関する本を読んでいます。印刷術はグーテンベルグによって15世紀半ばに、写真術はダゲールによって19世紀初頭にこの世に出現したのでした。それら15世紀のヨーロッパから始まった、時代精神の巨大な変化の中で生まれて来た機械文明による営みは、人の暮らしや仕事における利便性や効率性を著しく増大させましたが、一方で、人の考える力やものを見る力を著しく減退させ続けています。その機械文明によるわたしたちのこころへの働きかけは、どこから生まれて来たのか。それはアーリマンという悪魔からの働きかけであることをシュタイナーは述べています。アーリマンは、考える力や見る力といった人の内なるこころの健やかな営みをひたすらに衰えさせ、人が無機質で機械的で唯物的なものにどっぷりと浸かるように、刹那的、快楽主義的、受動的な存在になるようにしてしまおうとしています。しかし、ルードルフ・シュタイナーは、そのアーリマンからの働きかけが、人の成長にとって必然的なものであること、その功罪の両側面を、深みから捉えていて、わたしたちにその悪魔からの働きかけを知ること、意識することこそが、現代を生きているわたしたちにとって欠くべからざることなのだと述べています。悪の力を知ることによって、この機械文明に靈(ひ)の息吹きを吹き込むことができるのは、21世紀を生きているわたしたちなのですね。
わたしは今、特に写真術に携わって来た20世紀の日本人(木村伊兵衛、土門拳、濱谷浩、入江泰吉)のことを初めて知り始めているのですが、彼らがしていた仕事とは、まさしく、ヨーロッパからの機械文明に靈の息吹きを吹き込むことなのでした。彼らは、機械であること、その無機性を徹底して吟味し、それを全身全霊で愛するところまで、我がこころを機械の内部に通じさせていく道を歩んだのでした。つまり、ここでも、日本人は、「ものへゆく道」を歩もうとしていたのです。近代主義との葛藤を深刻に受け止めざるを得なかった明治、大正、昭和を生きた日本人がなしていた仕事の質を、令和に生きているわたしたちは知る必要があることを思います。それらの仕事は、新しい時代における人の考える力と見る力を養っていくことに向けてのものだったからこそ、西洋近代化の後塵を拝していたこの日本が、実は、密(ひめ)やかにですが、靈(ひ)の文明を創ってゆく新しい時代の先端を行く国であったこと、そしてこれからますますそうであることを知るためにです。