萩原碌山『女』
「人の肉体の中で一番裸の部分は、肉声である」と書いたのは、小林秀雄でした。
生の声。
それは、その人の裸体を示します。
しかし、通常、ことばが見せかけの衣装になってしまい、その裸体を覆ってしまっています。
ことばで、なんとか、かんとか、裸体の自分を隠そうとします。
いや、こう言った方がいいかもしれません。
いくらことばで誤魔化そうとしても、生の声がその人の裸体を透けて見させる。
しかし、こころとからだの奥底から響いてはいない表層的なことばでは、取り繕って己れの裸体を隠そうとしているために、聴いている者は、なんとも言い難い違和感を感じる。
その違和感に違和感が重なって来ますと、人と人とが信頼し合うことが難しくなって来るばかりか、自分自身を信頼することも難しくなってきます。
そういう取り繕いをやめてゆく「道」があります。
そういう違和感から解き放たれてゆく「道」があります。
表層的なことばのまやかしから、人は己れを自由にし、自分でも思ってもみなかった自分自身の声とこころに出会うことができる「道」があるのです。
それは、ことばを芸術的に造形すること、「ことばづくり(言語造形)」によつて、なしえることなのです。
不可思議に思えますが、ことばとは、息づかいに満たされ、かたちを整えられて発声されることによって、人のまごころ、そして、ことばの靈(ひ)たるところを顕わにしてくれます。
そのようにかたちづくられたことばは、人のまことの裸体をまざまざと示してくれます。
まことの裸体は、すべて美しい。
こわばり節くれだつた裸体から、磨かれ輝くやうな裸体まで。
音楽のような、絵画のような、彫刻のような、線描のような、舞踊のような、建築のような、ことばのすがた。
造形されたことばとは、造形されたその人のこころと靈(ひ)のすがたであります。
人とは、本来、そのような、風と光からかたちづくられ、目には見えない粒子のやうなものが時に集合し、時に拡散する、「物の怪(け)」ならぬ、「人の怪(け)」なのです。
ことばのすがたが造形されることによつて、その光と風からできた「人の怪」がかたちをとつて一瞬一瞬立ち顕れる。
そのような、「人の怪」「人のこころのすがた」「ことばの靈(ひ)」「言霊(ことだま)」に触れることによって、人はすこやかさを取り戻すことができます。
ことばをかたちづくろうとするその芸術的行為が、ふたたび、その人をその人たらしめるのです。
ことばと人とは、存在することの根底でむすびあわされている、まこと不可思議なものなのです。
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