幼い子どもたちの夢見るような意識。
そんな夢見るような幼な子の意識をできるかぎりそのままにしてあげたい。
早急に意識の目覚めをさせてしまうことは、知性の早すぎる目覚めを同時に促してしまいます。
知性の早すぎる目覚めは、幼い子どもたちに特有の手足の動きをもって大人の振る舞いやことばを見よう見まねで習得していく力、すなわち、真似る力を失わせ、はやばやと自分の頭で考えさせるようになってしまいます。
「下手の考え、休むに似たり」と昔から言います。
小さな頭でこざかしく考えることなど、なにほどのことでもない、ということを子どもや若い人たちに教えることは大切なことです。そのこざかしさは、生涯にわたる禍根を残し、世に災いを与えてしまいます。そのこざかしさは、悪知恵になるからです。
むしろ、考える力が本来出て来るべき9、10歳あたりまでは、周りを真似る力、手足を用いて行う力をふんだんに育んでやることが大切です。
そうして、そのあとから、ふさわしい導きによって子どもたちの考える力を育んでやることができるなら、その力は子どもたちの中で、やがて、活き活きと育つ植物のように健やかに育ち、本質的なことを明瞭に考えることのできる、こころの強い芯、高く太い樹木となるでしょう。
自分自身が考えることに信頼のおけることほど、大切なことはありません。
その考える力には、促成栽培にはない、自然な成長の力、いのちの力、意欲の力が通っていることを実感するからこそ、その生命に対して信頼を置くことができるのです。にせものではなく、本物のいのちに対するおのずからな信頼です。
その考えに通う生命の力こそが、幼児期における夢見るような意識の保護によって育つのです。
また、幼児期に、夢見るような意識が守られ、だからこそ、見えないものを観る力を大切に暖め続けることができた子は、きっと、小学生や中学生になって行っても、意志や意欲の強い子になります。そして、大人になって、自分自身でみずからのこころを決めることのできる力を持つ人になりゆきます。
いま、「何が正しいことか分からない」と言う大人の声をこれほど多く聞くことになるとは、という忸怩たる思いでいます。
それは、自分自身で考えて、自分自身でみずからのこころを決められない大人の嘆きの声のように思えるのです。
それは、多くの国民の受けて来た幼児期から始まる教育からの、必然的な帰結です。
もう、これ以上、このような教育を続けて行っては、社会そのものが立ちゆかないことをはっきりと意識していい時が来ています。学校の先生だけに教育を任せていていい時代は過ぎ去っています。
だから、この2020年代からは、ひとりひとりの大人が、未来の社会を担う子どもたちや若者たちを育てて行くために、自分自身が何ができるのかを考えて行くべき時だとわたしは考えています。
本当に、考えて、何か、実際に、始めて行きたいと思います。
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