2024年04月23日
己れの道を独自に歩いて行くべき時代
四年前、外出して街に出たり、電車に乗るたびに、「なぜだ」「なぜだ」という煩悶に満ちた苦しみを本当に感じていたことを思い出します。
そして、子どもたちが通う学校という場で当時なされていたことに対して、わたしはいまも全く納得がいかない。
だからこそ、他のみんながそうしているから自分もそうするのだというような生き方ではなく、それぞれの家庭や、ひとりひとりの人が、自分たち自身のこころの声をしずかに聴くことから判断をゆっくりと下していき、己れの道を独自に歩いて行くべき時代が明らかに始まっているのだと思わずにはいられません。
それは、己れという人を裏切らない、自分自身に嘘をつかない、ということであり、これからの時代が求めていることです。
三年前の文章です。
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中学一年生になったばかりの次女、果たして来週からの登校事情はどうなるのだろうか。
大阪市からの要請で、午前中は、自宅でオンライン授業になり、昼食は学校に行って食べ、午後の二時間だけ授業を受け、クラブ活動は原則中止となるかもしれないとのことです。
オンラインによる授業が毎日続くことの、子どもたちへの弊害についてはいろいろと想うところがあります。
ひとりの先生、そして大勢の友だちが集う教室という空間において、何が営まれるか。
人は、知性だけを育てればいいのではなく、なまの世界を生きること、他者とつきあうこと、ものを受け取ること、活きた息遣いのやりとりの中で生きること、つまりは感官を育てるということが、人にとって、とりわけ、若者にとって、たいせつなことなのです。
笑い合ったり、けんかしたり、瞳を交わし合ったり、しかとしたり、そんな人と人との間の複雑な営みすべてが、感官の育みに資するはずです。
人には、十二の感官があります。その十二の感官を養うことにおいて、空間を共にするということの必要性はとても大きい。
感官の働きは十二通りであり、それらの働きが人の内側で複雑に、かつ繊細に、織りなし合わされて、その人にパーソナリティ(人となり)の豊かさ、インディヴィジュアリティー(その人のその人たるところ)の尊さをもたらします。
なぜなら、十二通りの感官の働きを内において、織りなし合わせ、繋ぎ合わせることによって、人は、判断力を養うことができ、その判断力は、実は、情の力、感じる働きを土台にしているからです。
ものごとを判断する、その力は、実は、健やかな情の力が礎になるのです。
いくら頭が良くても、健やかな情が育っていなければ、その人が下す判断という判断は、非人間的なものとなる嫌いがあります。
毎日、午前中一杯、パソコンやスマホの前に座り続けさせることで、十二の感官の育みに障りと害いと偏りが生じて来ることを思うと、これが運命とは言え、子どもたちがこの2020年から2021年を生きること(今年でなんとか終わらせたい・・・!)の過酷さに、その意味を問わずにはいられません。
家でのなにげない会話ややりとりが、とても大事になって来ます。
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