クリスマスの日の空から観た富士山
「いま、何時だろう」「今日は何を食べようか」「あそこに行くまでには、どの電車に乗り継いでいったらいいだろうか」「車のローンの返済を今月の末までにちゃんと済ませなきゃ」・・・。
わたしたちのふだんの考える力は、そのように、目に見えるもの、物質的な事柄に対して、使われることが多いのではないでしょうか。
そのときの考える力は、特に意志の力を要せず、事柄と事柄を頭の中で結び付けるぐらいで、外からやってきたものを内に受けとり、適度に消化し、あとはすぐに外へと流していくことに仕えている、とも言えます。
また、目に美しいもの、心地よいもの、快をもたらしてくれるものが周りにある時、それらを味わい、享受するのに、取り立てて考えるまでにも及ばず、特に努力は要りません。
しかし、この冬のとき。
たとえば、葉がすべて落ちてしまった木の枝。目に美しい花や紅葉などが消え去った冬の裸の枝。それらをじっと見つめながら、こころの内で、考える力にみずからの意欲・意志を注ぎ込んでみます。
来たる春や夏に咲きいずるはずの、目には見えない鮮やかな花や緑滴る葉を想い描きつつ、その木というものの命に精神の眼差しを向けてみます。そうすると、その寒々しかった冬の裸の枝の先に、何か活き活きとした光のようなものが感じられてこないでしょうか。
植物存在に限らず、わたしたちは、何かを失ってしまったとき、何かが自分の前から往き去ってしまったとき、目を逸らさずにその空隙をじっと見つめながら、新しく訪れるもののことを考え、想い描くことによって、我がこころに新しく清らかな息吹きを感じることができはしないでしょうか。
そういう、考える練習をしていますと、やがて、自分の内に、決して失われることのない〈わたしがあること〉への情、「己れであること」の情が育って来るのです。自分自身への信頼が育って来るのです。
アントロポゾフィーの眼目が、ここにあります。このクリスマスの時期に集約的にこのような内なる練習することが、アントロポゾフィーの本質を自分自身の内に打ち樹てていくことになるように思います。
それぐらい、考える力を、見えるものにではなく、見えないものに、活き活きと意欲を働かせつつ向けてみますと、その考えられた考えが、それまでの外のものごとを単になぞるだけ、コピーするだけの死んだものから、ものや事柄の内に通っているかのような、活き活きと命を漲らせたものになって来ます。
考える力を、そのように、感官を超えたもの(目に見えないもの)に意志をもって向けていくことによって、わたしたちは内において、ひとつひとつの考えを、自然界に写る死んだ影の像から、精神における命ある像に転換できるのです。
死を生に転換できる。
そして、その考える力によって、わたしたちみずからも活き活きとして参ります。その活き活きとして来るわたしに、「わたしがあること」「己れであること」の情が、呼び覚まされて来ます。
この情は、おのずから生まれるのではなく、このようにして、ひとりひとりの人がみずから勤しんでこそ稼ぐことのできる高くて尊い情です。
「わたしがあること」「己れであること」の情とは、みずからに由るという情、「自由」の情です。
その情が我がこころに育っているからこそ、きっと、見返りを求めない、その人のその人たるところからの自由な愛からのふるまいが生まれはしないでしょうか。家族との語らいの中や、店先でのちょっとした受け答えの中などで・・・。
たとえ闇に覆われているように見える中にも、輝いているものや、輝いている人、そして輝いている「わたし」を見いだすことができないでしょうか。
「わたしがある」「己れである」という情、「おさな子」の情を育みつづけるならば。
この冬、年末年始にかけて、そのことをメディテーションする(追って繰り返しアクティブに考える)ことができ、生活の中で確かめて行くことができます。
【アントロポゾフィーの最新記事】
- 我がこころのこよみ
- 「分かる」の深まり
- ヨハネの祭り 夏、地を踏みつつ天へと羽ば..
- 夏至考
- 幼な子の夢見る意識を守ること
- メディテーションのことばと言語造形
- 音楽家ツェルターに宛てた手紙から ゲーテ..
- 『神秘劇』(シュタイナー作)より
- 日本における聖き靈(ひ)の降り給ふ祭り(..
- 教員養成講座 受講生のことば
- アントロポゾフィーを分かち合う場
- アントロポゾフィーという練習の道
- ことばが甦るとき
- 破壊のかまど
- 本を通して自由になるといふこと
- クリスマス・新嘗祭への備え 〜いのちの営..
- むすんでひらいて
- ヨハネの祭り 夏、地を踏みつつ天へと羽ば..
- 促成栽培的でない自己教育の道
- 聖き靈(ひ)の降り給ふ祭