大阪の住吉大社の太鼓橋
今年の仕事納めに、仙台での教員養成講座をさせていただいたのですが、一年の最後だからこそ、とりわけ、鮮やかに、自分自身にとって最も大切なことに気づかせてもらえたように感じています。
それは、法則に沿うことの尊さ、美しさです。
今回、演劇創りで参加された受講生のおひとりの方が、とりわけ、ご自身の内側において葛藤されていました。誰に不平を言うでもなく、ひたすらに自分自身の内側で、葛藤されていました。
その葛藤とは、これまでの自分自身の生き方の中ではさほど意識の上にのぼって来なかった、あることが、この言語造形という芸術に取り組むことで浮かび上がって来るのだということ。
そう、その方自身が静かに語ってくれたのです。
そのあることとは、己れみずからの偽りない情を偽りなく表現することへの恐れでありました。
演劇は、役を演じることを通して、様々な情に通われることであり、そして、その訪れて来た客としての情を、嘘偽りなく全身全霊で表現していくことに取り組んで行く芸術です。
その嘘偽りなく全身全霊で表現するという芸術、ことばの本質に取り組むという芸術を体験することで、浮かび上がって来た、恐れでありました。
恐れとは、現代を生きているすべての人におのおののすがたで巣食っているものですが、すべての人がそのことを自覚しているとは限りません。
そのことに気づくことは、意識の上で、情の上で、「揺れ」「動揺」「取り乱し」を生じさせます。ですので、多くの人は、取り乱したくないので、巣食っている恐れの上にふたをしてできうる限り自分自身で見ないようにしています。
しかし、その方は、この三日間の内に、ご自身の中で、そのような闇の中での葛藤を経たのちに、「わたしが何を求めているのかではなくて、ことばそのものがどうわたしに表現されたがっているのかに思い至る」、その気づきに至られたのでした。
個人的なわたしの満足ではなく、ことばというものが精神としてどう人によって表現されたがっているか、というところにまでその方の意識は至られたのです。
法則とは、そもそも、堅苦しいものではなく、精神からの靈(ひ)なる道筋なのです。
しかし、人は、たやすくその道筋を見いだすには、あまりにも幼い。だからこそ、何度ものこの世への生まれ変わりを経る必要がある。
そして、何度もの生まれ変わりを経て、その生きることにおける闇をくぐりゆくからこそ、光を見いだす道の端緒に就くことができる。
闇を経るからこそ、光を見いだす。
わたしは、そのことが、「まこと」であることを痛感しています。
その端緒に就かれた方の表現は、まこと、まこと、めざましいものでありました。
すべての仕事、すべての技術、すべての芸術は、それぞれに固有の法則を持っています。
そして、舞台の上での表現、さらには、ことばというもの、ことばづかいというものにも、固有の法則が通っているのです。
その方は、その固有の法則があることに、ある苦しみを通して実感として気づかれたのでした。
さて、わたしは、わたしに与えられた仕事を貫く法則に則ることができているだろうか。
その問いを一晩かかって問い続けておりますと、答えが朝やって来てくれたのでした。
わたしは、まだ、その法則に則れていない。
まだまだ、自分自身の考え方、想い方、感じ方の癖に引きずられて、これまでの自分に巣食っている宿痾のようなものを完全に自覚するに至っていない。
そのことを、受講しておられる方のこころのありようを拝見させてもらい、気づかせてもらえたのです。
これは、一年の終わりに至って、これ以上ないほどの本当にありがたい気づきでありました。
馬鹿は死ぬまで治らない、と言いますが、来年、もっと、その馬鹿の治癒、精神の健やかさの回復、そこから、世へ仕えることへと勤しんで行きたいと強く念願します😌