今日の午前中、『人と世を知るということ テオゾフィー』(ルドルフ・シュタイナー著 鈴木一博訳)を明日の講座に備へて読んでゐました。
この本も、やはり、数へ切れないほど読んでゐるのですが、そのたびごとに、こころが整へられることを覚えます。からだのこと、こころのこと、さらには精神・靈(ひ)のことにいたるまで、ひたすらに論理的に書かれてゐるので、読むうちに我がこころが浄められて来るのです。
さらに言ふなら、通常のこころのモードでは足りず、ずいぶんとこころのアクセルを踏んで馬力を出し、胆力を籠めて一文一文を舐めるやうに読んでゆく意志の力、欲する働きをもつて読むことで、この本がまこと愛することのできる本になるのです。
そのとき、読んでゐるわたしがわたし自身を見つめながら読むことにおのづからなり、本の中にわたしが入つてゆくやうな感覚が生まれます。
序文にかうあります。
●わたしたちの時代において習いとなっている読み方では、この本を読むことができない。それなりの重なりにおいて、どの頁にしても、多くの文にしても、読む人がその人のする働きによって、その人のものにすることを要するようになる。そもそも、そのようにしてこそ、この本は、読む人にとり、その人にとってなるべきところとなりうる。この本のまことのかずかずは、生きられることを要する。精神の学が値を有するのは、ひとえにその意味においてである。
惚れぼれとする文章です。
読む人が己れを見てとり、験(ため)すことによつて、本が本としてなりたつて来る。
さらに、その本を内において生きることによつて、その本がまことの本としてつくられていく。
そして、重要なこととして次のことが言へるやうに思ひます。
それは、そのやうに本と自分自身との関わりを親しく深めていくことによつて、そこに書かれてある内容に逆に縛られなくなつて来る。
いい加減に上つ面だけで読んでゐると、「シュタイナーはこう言つてゐる、ああ言つてゐる」と言ひ募るやうになり、なんらかの権威主義に陥り、自分自身を見失ひ、借り物のことばを喋々するやうになる。
何かを学び取らうとするときは、本の著者とその本の精神を真つ向から信頼して、腰を据ゑて対象に取り組み続けることによつてのみ、きつと、人は自由になりうる。その人自身にますますなつてゆく。
不思議な逆説ですが、このことは真実だとわたしは実感してゐます。
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