2023年12月08日
当たり前に思つてゐた近代的生活からの脱却
自主独立とは、本当のところ、どういふ状態を言ふのだらうか。そんなことを我が身で考へ続けてゐる。
そして、保田與重郎の全集二十四巻に収録されてゐる『農村記』を丹念に読み続けてゐる。
「農村生活の改良を云ふ人々は多少とも農民生活を快適にし、負担を軽くしてやらうと思ふ人々である。農村の父たちはさういふ文化的都会生活的動向を、家のため、村のため、さらに国のためにおそれてゐるのである。・・・ある農家の青年に、君らが毎日重い荷物を運ぶ時これを馬車に一鞭あてて運ぶと云つたことを想像しないかと問うたところ、彼は言下に自分らはもつと大事なことを考へてゐると一蹴した・・・。」
「農村に於て誰の目にも自明な改良策をこばむものは、固陋でもなく、無智でもなかつた。それはアジアの自衛そのものであつた。」
「血気軽率の人は、必ず欺瞞に立脚した扇動者に奉仕するに到るだらう。かの扇動者らは、己の祭る幽霊や悪魔を、軽率な善人の祭る神とすりかへ、彼らに幽霊や悪魔を祭らせ、扇動して犠牲となす技術を了知してゐるのである。故に多事の日にこそ文学を深く学んで、美辞麗句の欺瞞性を見破らねばならぬ。困苦欠乏と貧乏を固守すると見える古い百姓の、その心持と考へ方を、その原因に於てさまざまに考へることは、今日の文學の緊急の課題の一つである。」
令和の代において、もはや、農民だけでなく、都会に住む大多数の日本人が「困苦欠乏」の中で生きてゐる。
しかし、ここに言ふ「農村生活」を「令和の代の市民生活」と言ひ換へたとしても、「生活の改良をこばむ父」は、どこにゐるだらう。
そして、日本中、「血気軽率の人」ばかりになつてしまつてゐて、扇動者が言ひ募る「時間がない!」といふことばに見事に煽られてゐはしないか。
快適さ、効率性、利便性、それらよりも「もつと大事なこと」とは何だらう。
「家のため、村のため、さらには国のため」に護らねばならない「もつと大事なこと」とは何だらう。
それらのことを、扇動者に動かされず、ぢつと立ち止まつて、ひとり考へる力。
2023年、令和五年の終はりに近づき、わたしたちは、ますます、この力の重要性を痛感せざるをえない状況ではないか。
どうしても、立ち上がつて来る問ひがある。
果たして、これまで当たり前に思ひ込んでゐた「経済を盛んにして、国民を豊かにするべく、我々から富を奪ひ盗つてゐるこの社会の仕組みを変へていかねばならない!」といふことは、本当に真実なのだらうか。
悪事を働いてゐる者を制することは当然のことだとして、しかし、搾取してゐる一部の者たちからその富を奪ひ返すといふ考へ方そのものに、近代を生きて来たわたしたち現代人の大いなる強欲さがすでにどこかに潜んではゐないだらうか。
本当に、難しい議論である。この近代的な生活を二十世紀から変はらずにさらに二十一世紀においても追ひ続けて行くことが、人の「みち」なのであらうか。いまさらと多くの人は思ひ、そんなこと、出来るはずがないと多くの人が鼻であざ笑ふだらうが、近代的生活のあり方を止めることができないかといふことである。
しかし、丁寧に、礼儀正しく、しかし、情熱を持つて、考へ続ける人と人とが出会ひ、語り合ひ、「もつと大事なこと」を確かめ合ひ、創り出すことが、きつと、できる。
そんな2024年、令和六年にするべく、いまから、ひとりひとり、各々、何かを始めることができる。
この記事へのコメント
コメントを書く