
参政党の内紛を観てゐて、あらためて分かつて来たことがある。
人の世は、つまるところ、政治では埒が明かない。いや、むしろ、近代政治は、人の世をとことん貶めるところまで貶めるだらう。
そして、近代政治が行はれ続けてゐるかぎり、世はますます混乱を来たし、破局が訪れるかもしれない。そして外なるものの支へが失はれるやうな惨状を呈するときが来るかもしれない。
しかし、それらやつて来るすべてには意味がある。
それは、さうなるからこそ、物質的なものへではなく、靈(ひ)・精神の方へと、初めて人の眼差しを向けさせ、こころに水平の次元ではなく、垂直の光の柱を樹てさせる。
さうなるからこそ、人の靈(ひ)・精神が、漸く目覚める。人は、そこからこそ、初めて、奮ひ立つ。
世に、外なる支へを求めることができなくなつて初めて、自分自身から世に光と熱を放つてゆかねばならないことを悟る。
それは、生き方の大転換だ。
人と人とが諍ひ、罵り合ひ、傷つけ合ひ、果ては殺し合つて、悲しいことだが、漸く、人はまことの観点に立つことができるのだらう。
争ひには、勝者と敗者が生まれるが、もしくは、どちらも、敗者となりうるが、とりわけ、敗者の内にこそ、偉大なる靈の目覚めが生まれうる。
人は、敗れて、心底打ちのめされて、初めて、気がつく。
だから、人生の中で、敗れ去ることを恐れてはいけない。
敗れても敗れても、何度でも立ち上がるのだ。
この世の力に敗れるからこそ、あの世の光をへりくだりつつ求める。そして、神なるものに我が身が通はれることを、心底、乞ひ求める。
神と共にあり、神と共に働きつつ、生きてゆくことを至上の喜びとするやうになる。
それは、靈(ひ)と共に生きることであり、この身がだんだんと靈(ひ)に浸され、通はれ、貫かれ、透き通つた明るさを勝ち取つてゆくことである。
神への無言の直観。 靈(ひ)の訪れ。 大地の底から立ち上がつて来る倫理の原液。
多くの人が叩く減らず口に惑はされず、そこに決して同調せず、我がこころの内こそを清浄に整へる。
そして、目の前のもの、人、すべてと、自分自身との間に流れてゐる透き通つたものを観る訓練をしていくこと。
この生き方を、我が国では「神(かむ)ながらの道」といつて来たし、パウロが告げ続けたキリストのこころざしを生きることでもある。
ちはやぶる神代もきかず竜田川からくれなゐに水くくるとは
在原朝臣業平 (百人一首17)