そもそも、和歌(うた)は読むものではなく、声に出して歌うものです。
なぜか。
和歌とは、そもそも、なげきであったからです。
なげきとは、長く息を吸い、長く息を吐くことだからです。
息遣いから、声が発せられ、ことばの響きが宙に拡がってゆく。
そうして虚空に拡がりゆく響きと調べが、人の乱れに乱れていたこころを鎮め、落ち着くべきところに落ち着かせるのです。
この声の作用は、頭で考えられるだけのことばよりも、いつそう、深く、強く、人のこころとからだに降りて行きます。
なぜなら、考えは過去に根差すものですが、声は現在にあるものだからです。
ひたすらに、声を出す人の「いま」を響かせます。
よって、声あることばの力によって、情が慰められ、思いが整えられ、動揺に耐えることができ、己れを建て直す機縁が得られます。
何千年前から日本人は、そのようにして、激しい情の渦に巻き込まれそうになる己れのこころを律し、こころの解放と自由を生きるために、和歌を声に出して歌いつづけてきました。
その声は誰に聴かれたでしょうか。
もちろん、人に聴かれました。
人に聴いてもらうべく、ことばを整えました。
より上手く、より深く、我がこころのありゃうを人に聴き取ってもらえるようにことばを整えました。
しかし、本質的なこととして、まずもって、他でもない自分自身によって聴かれるべく、その声は発せられたのです。
己れの声を己れが聴く。
これほどに、ことばの持つ力が実感されるときはありません。
己れの声は、己れの「いま」であります。
嘘をつくことのできない「いま」であります。
己れの「いま」を、己れが見いだし、己れが深く受け取り、己れが己れを消化するため、人は、和歌を歌ったのです。
『万葉集』『古今和歌集』『新古今和歌集』・・・それらは、ことばの芸術に通じるわたしたちの御先祖様たちが、なんとかこころの悶えを抑えようとして抑ええた、ことばの事績の集積なのです。
そういう声による自己陶冶の道を、いまに甦らせるのが、言語造形の道です。
ことばに鋳直され、造形された、先人のこころの振幅を、わたしたちは、言語造形をもって、いま一度、追体験してみます。
そのとき、わたしたち現代人と、古(いにしえ)の人とが、一挙に、こころを通わすことが生まれ得る。
それは、国語の、さらには歴史・国史の最善の学びようだと、わたしは思います。
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