小波(ささなみ)の 波越す畔に 落(ふ)る小雨
間(あひだ)も置きて 吾(あ)が思(も)はなくに
(萬葉集3046)
保田與重郎の最晩年の大著『わが萬葉集』にある、詠み人知らずのこの歌に対する註釈がわたしにとつて、とても印象的だつた。
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「波越す畔に」と訓まれたのは、まことになつかしく心のふかい詩情である。
「小波(ささなみ)の波越す畔に落(ふ)る小雨」といふ叙景は、感情のしめやかにあふれた詩情、忘れ難いあはれが感じられた。
かういふ濃かななつかしさが、萬葉集の詩情にて、その多くは名も無き人たちの作歌である。
しかしさういふ遠世の無名の人の歌を、多くの代々の人々が心にとどめてよみ傳へ、やがて(大伴)家持によつて記し残されたといふことを考へ併せると、私の心はわが無限の遠つ人への感謝で一杯となる。
しかもこの感謝は、自他を一つとするやうな、うれしくなつかしく、よろこばしい気持である。
そして、この日本の國に生まれ、萬葉集をよみ得るといふことに、悠久な感動を味ふのである。
この時、私にとつて、すべての愛國論は雲散霧消し、わが心は遠つ御祖の思ひと一つとなる。
この國に生まれたよろこびと、この國のいとほしさで、わが心は一杯となる。
(『わが萬葉集 第26章』より)
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これが、註釈といふものであり、批評文学といふものであると改めて念ふ。
叙景に重なつた詩情が淡く湛へられてゐる様を、かくも見事に言ひ表し、萬葉集といふわが國に残された古典の意味をかくもしたしみぶかく語る、このやうな文章こそ、われらの文學である。
この和歌が一千三百年前のものとは到底思へぬのは、このやうな萬葉歌への最良の手引きあつてこそである。
このやうに、歌のことば遣ひとそのリズムを身体に響かせることを通して、歌人のこころの襞に分け入り、歌とひとつになりゆく註釈といふ文学の営為が失はれてしまつたのは、明治以来であつた。
吉川幸次郎といふ中国文学者が『古典について』といふ本の中でおほよそこんなことを書いてゐる。
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江戸の代まであつた日本の文明・文化のきめこまかさが、明治の代になつて失はれてしまつた。
そのひとつが「註釈の學」である。
そして、明治は、古典の註釈として、江戸までにあつた名著を生んでゐない。
明治時代が代はりに得たものは、大槻文彦らの辞典の學であり、また歴史の學であつた。
辞典の対象とするものは、単語である。単語は概念の符牒にすぎない。
「いい」といふ単純極まりないことばでさへも、「いい人」「いい男」「人がいい」などでは、意味が変はつて来る。他のことばといかに結びつくかによつて、かくも意味を分裂させ、変化させる。辞典はその平均値を言ひ得るにすぎない。
「しづかさや岩にしみいる蝉の聲」。「しみいる」は日常のことばである。しかし、芭蕉のこの句におけるそれは非凡である。また、しみいるの非凡によつて、しづかさももはや辞典の追跡し得るところでは完全にない。
精緻な註釈の學のみが、その力をもつ。
明治の歴史学は、『古事記』などの書を、もつぱら史料として読んだにすぎなかつた。言語はただ事実を伝達するための媒介と見なされ、言語そのもののもつ心理のきめなどはあまり問題にされなくなつた。
古典をその言語に即して読む場合は、単に何を言ふかが問題ではない。いかに言つてゐるかが問題なのだ。
宣長の言ふ「言(ことば)と事(わざ)と心(こころ)とはそのさま大抵相かなひて」といふ見識からこそ、文章を発したその人のこころと精神を汲み取るといふことこそが、読書といふ行為の眼目なのだ。
それは、つひには、人といふものを見いだすか、見失ふかの、瀬戸際の行為なのである。
明治の近代生活のはじまりによつて、わたしたちは本当に大切なものを失つて来てしまつてゐる。
「古典」といふ語、それがすでに明治漢語のひとつである。それは、クラシックといふ西洋語の翻訳として、明治の時代に生まれたものである。その時代から、かへつて、きめのこまかな古典の學を衰退させてしまつたのだ。
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註釈とは、江戸の代にまで息づいてゐた、ことばの働きそのものに対する尊び、敬ひ、畏れ、そして愛しみの情と念ひからなされる「人の仕事」であつた。
わたし自身も、奇しくも、シュタイナーに出会ふとほぼ同時に、鈴木一博といふ人に出会ひ、彼から、シュタイナーの書を通して、その註釈の仕事とはいかなることかを学んで来れた。
ことばにしたしく、熱をもつて取り組むことによつて、どれほど、活力とよろこびと知の明瞭さを授かつたことだらう。それは、ひとりの人の精神・靈(ひ)のありかをも告げ知らせてくれるものであり、世の靈(ひ)に触れるやうな感覚をももたらしてくれるものだつた。
わたしの内において、アントロポゾフィーの学びが、我が国の「神(かむ)ながらの道」へと伸びて来たこと、戻つて来たことは、まさしくおのづからなことだつた。
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宣長が「言」を尊ぶのは、「言」が「史」を記すからではない。少なくとも、そのためばかりではない。
「言」そのものが「史」であるからである。
言語は事実を記載するがゆゑに尊いのではなく、言語そのものが事実なのである。
(吉川幸次郎『本居宣長 世界的日本人』)
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言語そのものが事実である、言語そのものが人の歴史である、その認識を元手にして生きて行くとき、人は、どのやうな生き方をすることになるのか。
わたしは、ずつとそのことを問ふて来た。
おそらく、鈴木一博氏もそのことを問ふてをられ、シュタイナーも、ゲーテも、宣長も、そのことを問ふてをられた。
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