秋深まりたる箕面山
何年も前になるのですが、「百人一首の歌をいまやつてるねん」と言ひながら、小学生の次女が、国語の教科書を持つてきました。
奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の
声聞く時ぞ秋は悲しき
猿丸大夫
秋風にたなびく雲の絶え間より
もれ出づる月の影のさやけさ
左京大夫顕輔
嵐吹く三室の山のもみぢ葉は
龍田の川の錦なりけり
能因法師
鹿の鳴き声が悲しいといふこと。
雲からもれ出づる月の光をうち見るときの感覚を「さやけさ」といふことばで言ひ表すといふこと。
川面に落ちたたくさんのもみぢの葉の流れる様を「錦」と見立てること。
子どもにとつては、いまだ経験したことのない景色と感情かもしれません。
しかし、まづ、このやうに、日本人は、詩人によつて「選ばれたことば」で、世を観ることを習つてきたのです。
さうして、鳴く鹿の声は悲しく哀れだ、と感じてきたのです。
そのやうに詩に、歌に、ことばで誰かによつて言ひ表されてゐなければ、ただ、鹿が鳴いてゐるだけであり、ただ、月が出てゐるだけであり、ただ、川に葉っぱが流れてゐるだけとしか、人は感じられないはずです。
国語とは、価値観であり、世界観であり、人生観であり、歴史観です。
世は美しい。
その情を最も豊かに育むことができるのは、小学生のころ。
国語の風雅(みやび)を謳歌してゐる古い詩歌が、そんな教育を助けてくれます。
その時、その高い情は、決して先生や大人から押し付けられるのではなく、子どもひとりひとりの内側でおのづから生まれてくるのを待たれる情です。
しかし、その高い情を、大人がまづ真実、心底、感じてゐなければ話になりません。
そのやうな、子どものうちにことばの芸術を通して生まれてくる情を待つこと、それが国語教育です。決して、決まり切つた情、決めつけられた作者の意図などを教え込むことが国語教育ではありません。
作者の意図を汲み取らせることなど、特に小学校時代には意味がありません。知性で意図されたものなど、たかが知れてゐます。ことばといふものは、それを話す人、それを書く人にも、意識できないところを含んでゐて、その意識できないところに潜んでゐる豊かな世界を、それぞれひとりひとりの人が汲み上げて行く喜び。それこそが国語芸術の存在意義です。そのやうな含む所豊かな本物の文章しか、時代を超えて残りません。どんな小さな子にも本物を与えることが、大人に課せられてゐる課題です。
この世がどんな世であらうとも(いま!)、子どもたちのこころの根底に、「世は美しい」といふ情が脈々と流れ続けるやうに、わたしたちができることは何だらう。
そんなことを念ひます。