2023年10月31日
もののあはれを知る人を育てる教育
ほとんど雲ひとつない秋晴れで、穏やかなことこの上ない今朝、天王寺公園でひとときを過ごしていました。少しずつ秋も深まって来ました。
春、夏、冬は、「深まる」とは言わないのに、秋だけは「深まる」と言いますね。秋という季節の移りゆきと共に、ものを思うこころも深まって来るからでしょうか。
ものを思うこころの深まり。それは、こころの内なる空間が、濁りをだんだんと去って、澄んで来るがゆえにだと感じます。澄み切った秋の高い空のように、こころの内も透明度を増してゆくように感じるのですが、皆さんいかがでしょうか。
本居宣長の歌論『あしわけ小船』から『石上私淑言(いそのかみささめごと)』を続けて読んでいます。何度目かの再読ですが、本当に勉強になるなあ、と今朝もため息をついていました。
そう、この「ため息」。この「ため息」「嘆息」をつくときの人のこころのありようを表すことばをこそ、「あはれ」と言うのだと宣長は説いています。
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阿波礼(あはれ)といふ言葉は、さまざま言ひ方は変はりたれども、その意(こころ)はみな同じ事にて、見る物、聞く事、なすわざにふれて、情(こころ)の深く感ずる事をいふなり。
俗にはただ悲哀をのみあはれと心得たれども、さにあらず。すべてうれしとも、おかしとも、たのしとも、かなしとも、恋しとも、情(こころ)に感ずる事はみな阿波礼(あはれ)なり。
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「あはれ」とは、まさに、なににつれ、「あぁ・・・」と胸から、こころから、息が吐かれるときに湛えられている情のありようです。
その吐息には、どれほど、その人の嘘のない、まごころが籠められていることでしょう。また、籠もってしまうことでしょう。
息を吐いてみる。声に出してみる。ことばにしてみる。
そのように、人は、己れの内にあるものを外に出して、初めて我がこころを整えることができ、鎮めることができる。そうして、ようやく、自分自身に立ち戻ること、立ち返ることができる。
さらには、外に響くことばの調べをより美しく整えて行く。その吐息に乗って、整えられたことばづかい、それが和歌(うた)です。
不定形だったこころのありさまを、和歌(うた)として整えられた調べへと造形することによって、人は、「もののあはれを知る」ことができるのでした。それは、「己れを知る」ということへとおのずから繋がってゆき、さらには、「人というものを知る」ことへと、道を歩いて行くことができるのでした。
そして、宣長は、和歌(うた)とは「もののあはれを知る」ことにより生まれて来るものである、と説くのでした。そしてその和歌(うた)に習熟していくことによって、人はますます「もののあはれを知る」人になりゆくのだと。
本居宣長は、そのような、この国の歴史の底にしずしずと流れていることばの生命力を、ひとりひとりの人がみずから汲み上げることの大いなる価値を、その生涯の全仕事を通して謡い上げ、語り尽くしたのです。
わたしは、いまも、いや、これからますます、この「もののあはれを知りゆく」ことが、子どもから大人にいたるすべての人にとっての最もたいせつな教育目標であると考えています。
日本人が日本人であること、それは、「もののあはれを知る」人であるということではないでしょうか。
そのためには、国語教育、文学教育が、どれほど重きをなすことでしょう。
小学校へ上がる前は、たっぷりと、昔話やわらべ歌、美しい詩歌や和歌を全身で聴くことができるように、そばで大人が語り、詠ってあげる。
小学校へ上がってからは、子どもたち自身が全身で詠う和歌(うた)から授業を始めるのです。ことばの意味は措いておいてもいい。まずは、ことばの流れるような調べを、先生の声、自分自身の声の響き、震えを通して、全身で味わうところから。そうして、国語の授業だけでなく、色々な授業を通して、ゆっくり、だんだんと、自分自身のことばを整えてゆくことを学んで行く。
ことばを整えてゆくことによって、子どもたちは、自分自身のこころを整えてゆくことを学んで行くことができるのです。
こころとことばとが、ひとつに重なること。これは、本当にたいせつなことです。
なぜなら、人は、ことばによってこそ、ものを考え、「もののあはれ」を感じ、自分自身のこころを決めることをなしとげるからです。
吐かれる息づかいに、顔に表れる表情に、することなすことに、その人のこころのありようが写しだされます。
しかし、とりわけ、こころのありようは、すべて、ことばに表れます。選択されることばの趣きに、発せられることばの響きの後ろに、表れます。
小学校時代には、知識を詰め込むのでもなく、知識に取り組むのでもなく、外なる世に現に向き合っている自分のこころに豊かな情が育ってゆくことこそを、子どもたちは求めています。その情の育みのためには、こころとことばが美しく重なった言語生活が最もものを言うのです。
これまで、国語教育では、正しいことばづかいは教えられてきたのかもしれません。しかし、これからは、美しいことばづかいを学んでゆくことに、人としての教育の如何が懸かっています。
重ねて言いますが、その美しさは、表面的なものではなく、こころとことばがひとつに重なる美しさです。
和歌(うた)から学びを始めること。美しいハーモニー。調べをもったことばづかい。
宣長は、その日本人が古来たいせつにして来た精神の伝統を甦らせてくれた人なのです。
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