
奈良県天理市にある崇神天皇陵から遥か東の二上山を眺める
内なるこころの育みに向けての実践の書である、ルードルフ・シュタイナーの『いかにして人が高い世を知るにいたるか』。
この書に、もう二年半ほどの間、毎週取り組み続けていただいてゐるオンラインクラスをさせてもらつてゐます。
秋も少しづつ深まつて来て、その秋といふ季節からのおのづからな働きを受けるやうに、わたしたちのクラスにも、ある稔りを感じるのです。
この季節になると、決まって思ひ出すことがありまして、それは、もう十数年前にわたしの師、鈴木一博さんが行つた秋の祝祭に関する講演の内容です。
そこでは、確か、松尾芭蕉と与謝蕪村の俳句が紹介されて、その句を精神の観点から注釈することで、秋といふ季節がわたしたちに何をもたらさうとしてゐるのかが見事に解き明かされたのでした。
秋深き隣は何をする人ぞ 芭蕉
江戸の元禄の頃の長屋の暮らしに限らなくてもいいと思ひますが、何も隣家の人の動静を伺つてゐるのではなく、まさに、人への深く熱い想ひから、「あなたは何をする人なのですか」「あなたは何をするべくこの世に生きてゐるのですか」といふ、滅多に他人に問ふことのない問ひを芭蕉はこころの奥底で響かせてゐる。
それは、隣人といふ隣人への問ひであり、つまりは、己れみづからへの問ひでせう。「あなたは何をする人ですか」。秋とは、そのやうな問ひを立てるべく、考へる力によつて意識が明るんで来る、そんな季節。
わたしたちのオンラインクラスにおいても、二年半といふ時の流れからも、おのづと熟して来たものがあり、それは成果を期することなく、ただ学び続けることの手応へ、そしてメンバー同士の互いへの信頼といつてもいいやうに思ふのです。そこから、この『いかにして人が高い世を知るにいたるか』の書においても、おのづからのごとく、「人のこころを観る、聴く」といふことに取り組む段に入つて来たのでした。
書の上で読むだけでなく、わたしたちのクラスの共に学び合ふ者ひとりひとりが、己れのこころがまこと求めてゐることをことばにしてみる、そのことばにしづかに周りの者は耳を澄ます、さうしますと、クラスのあと過ごす一週間、仲間が語つてくれた願ひや念ひが我がこころにずつと響き続けてゐるのをありありと感じるのです。
その一週間は、まさに、芭蕉の「秋深き隣は何をする人ぞ」といふ句が孕む精神に対するエコーのやうな調べをこころに揺曳させるかのやうな時の流れであり、語つてくれたその人その人の存在が、まさに「隣人」として親しく、深く、こころに響いてゐる。その調べを感じてゐる。そんな、人の現存を感じる時の流れです。その隣人は、物理的には遠くにありますが、心理的、精神的には、まさに我がこころの「となり」にゐてくれてゐます。
また、与謝蕪村の句にも、本当にしみじみと秋の精神に感じ入ることのできる注釈を鈴木さんはしてくれたのでした。
己が身の闇より吠えて夜半(よは)の秋 蕪村
我が身において、闇があること。それは、闇であるのにもかかはらず、その闇が闇として見えるといふこと。そして、闇が極まる夜中「夜半」、己が身の闇よりわたしは吠えざるをえないこと。泣かざるをえないこと。叫ばざるをえないこと。
そのありやうは、己れの身のうちに闇などないと思ひ込んでゐる者との間に、雲泥の精神の開きを感じないでせうか。己れの内なる悪に無自覚な者と自覚してゐる者とでは、また、単なる無知と、己れが無知であることを知つてゐる無知とでは、生き方においてどれほどの違ひが生まれて来ることでせう。
そして、秋といふ季節は、己が身の闇を闇として捉える光が差し込むときだといふこと。何も見えてゐないといふことが見えて来た。何も分かつてゐないといふことが分かつて来た。そのこころのあり方にこそ、光が訪れて来ないだらううか。
そんな精神からの光が訪れ、我が胸がときめき始める。そこには、希みが兆し、生きてゆく勇気が湧き上がつて来はしないだらうか。こんな自分にも、ここに生かされてあることへの感謝と、〈わたしがある〉ことへの信頼がいただけないだらうか。
その勇気、感謝、信頼は、持たうと思つて持てるものではなく、隣人と己れみづからへの親しみからの、愛からの、考へる働きによつてこそ、おのづから我がこころに訪れる恩寵です。
己が身の闇をまつかうから認め、意識することによつて、その闇から正直に、素直に、語ること、歌ふこと、泣くこと、吠えることによつて、そして、その声を誰かに聴いてもらふことによつて、また、たとへ誰もゐなくとも自分自身で聴くことによつて、恩寵がこころに訪れる。
そんな秋です。
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