
若き日のミヒャエル・エンデ
暮らしと芸術が、深いところで通い合っていた時代があった。
その通い合いが、暮らしと芸術の互いを生命力で満たしていた時代があった。
連綿と続く、そういう営み、育みがあるということが、文化に型があるということなのではないか。
文化の型が失われ、いや、文化そのものが失われ始めて、どれほどの年月が経ったのか。
わたしは、文化ということばを、物語と言い替えてもいいかもしれないと思っている。
物語が、わたしたちから失われてしまった。物語るとは、ものを語ることであり、ものとは、そもそも、見えないもの、聴こえないもの、さわれないもののことを指す。
物語りとは、人のこころ、夢、内なる秘め事、表沙汰にはならない隠されていたこと、そして通常の感覚を超えた英知を語ることであり、果ては、神のことを語ることを指す。
だから、物語は、そもそも神話だ。神話とは、神自身が語られたことばをそのまま人が語り継ぐことから始まり(古事記)、神に触れ、神に通われるような、驚くべき、畏るべき経験を語ることであった。
文化に型があった時には、物語の共有、神話の共有がなされていた。
わたしたちは、共有する物語を失い、神話を失い、文化の型を失い、文化そのものさえも失ってしまっている。人と人とをむすぶエレメントを失ってしまっている。
だから、いま、人は、自分自身の神話を見出すしかない。芸術を真摯に生きようとする人は、とりわけそうだ。
ひとりひとりが孤独に夢を織り続け、その孤独の中に、自分ひとりだけの神話を見いだし、聴きとること。そして見いだしたもの、聴きとったものを、下手でもなんでもいいので、外に表し続ける。
そのような神話の個人的な表出の仕方が、いったい何にむすびつくのだろう。
自分自身の足元を掘って掘って掘り進むことによって、見たこともない岩盤にたどり着くかもしれない。その岩盤はとても古く、そしてとても新しい。その岩盤が語りだす物語は、新しい共有性を持つ可能性はないだろうか。
芸術を通して、人と語り合う今日この頃。
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