京都府南丹市園部の山間の小さな村。齋藤 健司さんと豊泉 未来子さんのゐる青い森自然農園。そこで、ほんの少しだけれども、稲刈りのお手伝ひをさせていただく。
古い農家の中で質実な暮らしをされてゐるおふたりのすがたとこころのひろやかなありやうに、連れて行つたふたりの娘も深く深くこころに何かを受け取つてゐるやうで、大阪の家に帰つて来てから、ひたすら青い森自然農園のおふたりのことを喋つてゐる。
おふたりは、本当に、静かである。
こころが、静かである。
おふたりも、きつと、人生の旅をし続けてをられることと思ふのだが、その静かさが、優しさとなつて、客人を包む。
娘たちは、その静かさ、その優しさが、帰ってきた後も、こころにしづしづと流れて続けてゐるのを感じてゐるのかもしれない。
わたし自身も、そこへ足を運ばせてもらふたびに実感することがあつて、それは、彼らおふたりを通して、日本といふ国の生命がいまだ滔々とみづみづしく流れてゐる、その瀬音を聴かせていただいている感覚である。
米づくりといふ営み。
その収穫の時である、秋。
すべて手で稲を刈り、刈り取つた稲をはざに掛けること。
秋ならではのこの営みを日本人は、何百年、何千年、し続けてきたことだらう。
そこには、機械労働では決して得られない、天と人と地とを繋いで流れてゐる神々の生命に触れる感覚があり、この何百年、何千年間の日本の農を生きた方々との繋がりを持てたやうな喜びを感じさせてもらへてゐるのは確かなのだ。
そして、この収穫した米を炊き、餅に搗き、酒に醸し、神に捧げつつ、その新しき収穫を感謝をもつて神と共にいただく。それが、我が国古来の祭り。そのように神々と語り合ひ、飲み合ひ、祝ひ合ふ、新嘗祭(にひなめのまつり)が、我が国では毎年、旧暦の十一月の末に行はれてゐたし、新暦になつてしまつてゐるがいまも行はれてゐる。その祭りといふ行ひそのものが、そもそも、神々と通じ合ふ、たいせつな営みであつた。
そのやうに、神々の生命に触れることで、人は、甦る。
疲れてゐる人、病んでゐる人も、いのちの甦り、こころの甦りをいただく。
無意識に毎年繰り返される経済の営みとしての農といふあり方を突き抜けて、天と人と地を繋ぐものとしての米づくりといふ意識を積極的に持ち、その勝ち取られた意識から新しく祭りを創つてゆくことが、育ちゆく子どもや若者、そしてすべての大人たちにとつて、どれほど必要なことだらう。
何はともあれ、わたくしごころを排して、いつも、わたしたちを迎へて下さる、おふたりから、そんな祭りの新しい創造へ向かつての基本的な人としてのあり方を学ばせてもらつてゐる。