するか、しないか。かうするか、ああするか。
人には、みづからのこころを決める力があります。
その、こころをみづから決める力は、しかし、育まなければ、いくつになつても得られません。
これは、若いころからの練習に懸かつてゐるやうに思ひます。さらには、幼いころからの親や教師からの働きかけも大いに深く関はつてゐるやうです。
アントロポゾフィーからの子どもへの教育においては、次のやうに、はからひます。
なんでもかんでも親や教師が外から「ああしろ、かうしろ」と指図するのではなく、その、こころを決める力がひとりひとりの子の内側から、だんだんとゆつくり生まれて来るやうに。
さう、だんだんとゆつくり、ですので、小学生時代から子どもに大切なことについての判断をさせたり、こころを決めさせたりはしません。ゆっくりと、ゆっくりと、やがて思春期を経て二十歳前後にその判断する力、みずからこころを決める力が熟して行くことを促して行きます。
早産させず、かけるべき時間をかけて、待てばこそ、生まれて来るものは、健やかで力強いのです。
そして、人は、二十歳ぐらいから、みづからのこころをみづからで決め始め、おずおずとながら、世へと踏み出して行くのです。
幼い頃から、小学生の頃あたりまで、何でも「自分で考へなさい」とか「自分のことでしよ、自分で決めなさい」と親や教師から言はれて来た子どもは、大人になつてから、逆に、自分自身では何も決めることができない大人になつてしまひます。
何らかの権威の後ろ盾がなければ、ものごとを判断することのできない、判断力の弱い人にならざるをえないのです。
判断力の早産の結果なのです。
ちなみに、ドイツ語では、「こころを決める、みづからを決める」といふことばは、「sich(みずからを) erschließen(まさに結ぶ)」となります。
そして、「開けてくる」といふことばは、「sich(みずからを) entschließen(結びからほどく)」となります。
「こころを決める、こころをむすぶ」と「こころがひらける、ものごとがひらける」とは、対になつてゐるやうです。
対になつてゐるふたつのことばは、精神のいのちの流れにおいて深いところで繋がつてゐます。
人は、みづからこころを決めればこそ、初めて、自分自身も啓けて来、また世界も開けてくるのですね。
こころを決める時、ものごとがひらかれ、自分自身のこころがひらかれるからこそ、腹も座るのでせう。
いま、そして、これから、ますます、大人であるわたしたちこそが、右往左往することから抜け出し、みづからで、みづからの、こころを決める力を培はなければならないと思はれてならないのです。
その力は、暮らしの中で、ひと場面ひと場面ごとに、自分はどう考へるか、どう感じてゐるか、どうしたいかを、意識することによつて、まづは育つてゆくものであり、それは、まぎれもない〈わたし〉の力です。
その〈わたし〉の力が、世を啓きます。
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