2023年07月28日
地下の水脈
先日、生徒さんと話しをしてゐて、男性性と女性性の話になつたのです。
女性性のことはともかくも、自分は男性であるので、つい自分に引きつけて、「男性は遠くを見晴るかしながら、先のことを、先のことを、考へてゐるやうに思ふ」と話したのでした。
つまり、何かを目指して、目的をもつて、毎日仕事をしていくのが、男性性では、と云ふ思ひでした。
しかし、その後、よくよく、考へ直してみると、何かの目的をもつて仕事をすると云ふのは、表層のことで、こころのより深みでは、「生きるために仕事をしてゐる」と云ふのが本當のところだなと氣づくのでした。
それは、「生きて行くためにはお金が必要でそのために仕事をする」と云ふ意味ではなく、仕事してゐなくては生きてゐる心地がしないと云ふ感覺に近い。
自分の場合は、人樣に言語造形とアントロポゾフィーからの人間學を傳へると云ふことの他、言語造形の稽古と作品創り、そして讀書が仕事なのだが、いづれも、手足を使つて汗を流しながらしてゐる。
手足を使つて仕事をしてゐなければ、生きてゐると云ふ心地がしない。
だから、生きて行くために、毎日、仕事をしてゐる。
さう云ふ仕事をしたいから、さう云ふ仕事をしてゐる。
若し、仕事をしてゐなければ、どんな餘計なことを考へ、どんな餘計なことにいらつき、どんな餘計なことをしでかしてしまふか分からない。
そんな感覺です。
しかし、しかし、更に考へてみると、何かをする、しないにかかはらず、時間が充實してゐると云ふこと。
さう云ふときこそ、人が人として生きてゐると云ふときであり、わたしが<わたし>としてあると云ふことぢやないか。
さう云ふときを生きるためには、こころの内に何かが育ちつつあること、しずかさの内に何かが根附き始めてゐること。
さうして、つまるところ、何をしてゐてもいいし、何もしてゐなくてもいい、と云ふ<わたし>がここにあると云ふ情。
それは、考へと云ふよりも、情。
だから、その情がこころに根附くには、練習の積み重ねが要る。長いときがかかる。
そして、その情が導き手となつて、仕事をして行く。
シュタイナーの『いかにして人が高い世を知るにいたるか』の中に、こんなことばがあります。
「闇から光を目指してみづからと渉(わた)りあふことをやりぬかうとする人」
道は果てしなく續きます。
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