大阪市住吉区の生根神社の夏祭り
これまで「国家」といふことばが発せられるときになぜか生じる多くの人の反感の似た情動に対して、わたしはどこか違和感を感じて来ました。
「国家」について考へること、ことばに出して言ふこと、それらがなぜか憚られるやうな雰囲気が、これまでのわたしたちにありはしないでせうか。
普段日頃の人との付き合ひにおいて、「国家」について話すこと、「政治」について語り合ふこと、それらがどこか避けられてゐるし、自分自身も避けてゐる、そんな風に感じられてゐる方は多いのではないでせうか。
それは、こういう理由からではないかと思ひます。
幕末の黒船来航以来、西洋からの軍事的、文化的侵略に対抗すべく、どうしても成り立たせねばならなかつたもの、それが「国家」であつた。
明治維新以来、急造されたものとしての「国家」、すなはち、「近代国家」です。
それが、「国家」といふ名で、現代人が意識してゐる(させられてゐる)ものなのではないでせうか。
その「国家」とは、自国の尊厳や希望からではなく、ましてや他国との協調、友愛から生まれたものなどでは全くなく、争ひ、闘ひ、反目、緊張の中でこしらえざるをえなかつたものだつたのではないでせうか。
その経緯は、この日本という国が歩まねばならなかつた運命の必然、しかし近代史のまことに特異な特徴です。
さう、わたしたちの「国家」は、始めも始めから「近代国家」でした。ある意味、無理強いされて作らざるをえなかつた近代国家でした。
ですので、「国家」といふことばを聞くと、反射的に、「戦争」「軍事国家」といふイメージを思ひ浮かべてしまふのです。
日本の歴史を丹念に振り返つてみますと、この日本はそもそも、そのやうな「国家」ではなかつたことに思ひ至ります。もちろん、「国家」といふことばはありました。しかし、明治維新が起こると同時に、わたしたちのご先祖様たちは、外圧によつて、近代的な「国家」を打ち樹てざるをえなかつたのです。そのときのスローガンは、「文明開化」と「富国強兵」です。
この日本はそもそも、そのやうな「国家」ではなかつた、と書きました。
古くからある他の多くの国家は、自分たちの「神話」を持つてゐます。それは、自分たちの国を生み出し、世界を生み出し、地球を生み出し、宇宙を生み出した神々の物語です。
そして、我が国、日本にも神話がありがたいことに残つてゐます。そのひとつが「古事記」ですが、そこに記されてあることは、人と人とのエゴのぶつかり合ひ、弱肉強食の世界から結果的に生まれた、いはゆる「国家」ではなく、この国もまた、天つ神(あまつかみ)から授かつた「くに」を実現しようとして、葛藤の末、成り立つて来たものであること、それは、神々の崇高な意図を人が受け継いで生まれたものとしての「くにつち」でありました。
つまり、そもそも、他のいくつかの国々と等しく、日本も、天から降りて来たものである「くに」であるといふ神話を持ち続けてゐたのでした。
わたしたちは、その神話の中にずつと長く生きて来た民でした。神話が語り継がれて来たからこそ、少なくても何千年にわたつて、ひとつの「くに」が引き続いて来られたのです。神話がなければ、絶対に、途中で、「くに」は奪はれ、他の民族に「くにつち」は侵され、侵入され、転覆してゐたことでせう。
いま、わたしたちは、「神話」をもつてゐるでせうか。
「神話」とは、ひとつの民族が「くに」といふ人の共同体をとこしへに引き続かせてゆくための大事なストーリー・物語です。「神話」とは、人が、自由な人へと成長して行くための、とこしへに続く精神の糧です。なぜなら、物語こそ、ことばこそが、人をその人たらしめる、源の精神だからです。
ひとりひとりの人に精神的な履歴が確かにあつて初めて、その人はその人であるといふことが自他ともに意識されるやうに、ひとつひとつの共同体もさういふ履歴をしつかりと持つといふことがその共同体の存続にとって重要なことです。さらには、ひとつひとつの「くに」が健やかに自身を成長させていくためには、己れの精神の履歴、精神の歴史を意識し続けていく必要があるのです。
さういふ精神の履歴、精神史がその「くに」を貫いてゐるからこそ、未来に向けて、「こういうくにでありたい」といふことば、絵姿をもつた想ひ、ビジョンを、ひとりひとりの人が持つことができ、その「くに」のさらなる歩みを導いて行きます。
そのビジョンとは、ことばを換へて言ふならば、建国の精神です。
この日本には、そのビジョンが、建国の精神が、はじまりのことばが、あつたのです。
それは、決して、「富国強兵」「文明開化」ではありませんでした。
天の高天原からのことよさしとして、「天地(あめつち)極まりなく栄へゆかむ」といふものでした。
しかし、そのビジョンは、共有されなければ、何の意味もありません。
どのやうにして、そのビジョンは共有されてゐたのでせうか。
それは、経典でも教説でもなく、米作りを中心とした神と人との共同作業をもつて営まれる暮らしの営みそのもの、そして、その暮らしの連続に句読点を打つ祭りをもつてです。
それは、手足の働きからぢかに生まれて来た神々の叡智でありました。
そして、いま、わたしたちに、共同体のビジョン、「くに」のビジョンを描くためには何が必要でしょうか。
それには、米作りを中心とした農、漁、林といふ第一次産業の新しい立て直しによる食生活の見直しや、祭りの精神的な意味に目覚めること、その他多くも多くの課題があります。
しかし、より本質的なことは、その共同体に参加するひとりひとりのこころの内に、ビジョンがしつかりと描かれてゐることです。
ひとりひとりの人が、みづからのこころの内で、わたし自身がどのやうな人になりたいのか、どのやうな人生を送りたいのか、そしてそこからこそ、わたしはこの国をどういふ「くに」にして行きたいか、と熱く考へ、想ふことです。
とりわけ、現代に生きているわたしたちは、誰かひとりの人によって、リーダーによつて、ビジョンが描かれるのではなく、ひとりひとりの人が意識を目覚めさせ、みづから己れのこころの内に明確にビジョンを描かなければならない時代に生きてゐます。
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