住吉大社の夏越祓神事
人の意識が、時代の流れの中で、移り変はつて來てゐます。
これまで当たり前だつた家庭のあり方。これまで当たり前に通つてゐた學校と云ふところ。これまで当たり前だつたお金の稼ぎ方、働き方、生き方。
さういつたもののあり方、存在する意味が、特に、ここ十年ほどの間、少しづつ少しづつ、しかし、はつきりと変はつてきてゐることを実感します。
それは、これまであつたそれぞれの共同体のあり方が崩れて來てゐるといふことであり、ひとりひとりの人が「個人であること」を確立しようとする方向性に向かつてゐるといふことではないかと思ふのです。
しがらみや窮屈な人間関係から自由になりたくて、多くの人が、これまで当たり前のものとしてゐたそれらの共同体からの離脱をなしてゐるやうに思はれます。
それは、人とは「自由」を求める存在であるといふ、時代の徴(しるし)です。時代が進むにつれて、その願ひ、こころざしはだんだん強まつてきました。
しかし、それは同時に、ひとりひとりが孤立していく方向性の加速を意味してゐます。
21世紀の20年代のいま、自由を求める上で必然的に生じて來る自分自身のエゴイズムとの葛藤、挌鬪を經ずして、それをそのまま放置してきたあまり、ひとりひとりが真にその人自身を生きるといふ、まことの自由を味はふことができずに、單なる孤立に追ひ込まれてゐる己れのありように苦しんでゐます。
そして、人は、これまで離脱してきた家庭や地域社会やその他樣々の人間關係が、実は、他の何よりも自分自身の成長にとつてかけがえのないものであつたことに氣づき始めてゐる、さう感じます。
つまり、目覺めつつある若い人ほど、共同体なるものへの憧れ、人と協力し合つて生きること、暮らすことへの憧れが増して來てゐるといふことなのです。
人は獨りきりで生きることなどできませんし、獨りきりでゐて自由になることもできません。
人は他者との關係性の中でこそ、だんだんと、その人自身になつてゆくのであり、共同体といふ背景があつて初めてひとりの人としての自立と自由への道を歩きうるのです。
まことの自由とは、ひとりひとりの人と、社会共同体との間に、活き活きとしたこころのこもつたやりとり、精神に滿ちたやりとりがなされてゐる時に、育つてゆくものです。
いま、わたしは、その共同体のひとつとして、いきなり大きな話になるやうですが、「国家」い云ふものをあらためて、しつかりと、考へてみたいと思つてゐます。
なぜならば、「国家」とは、ひとつの言語を共有してゐる民族を樣々な意味でまとめつつ共生して行く上での、最大の共同体であることが、ひとつ。
しかし、その国家といふものが、わたしたちの暮らしを覆ふ唯一の傘のやうなものではないのだといふことが、二つ目。
そして、三つ目は、日本といふ国で、戰後、「国家」について、しつかりと、確かに、考へさせる教育といふものがほとんどなされてゐないといふことを思ふからです。そして、わたし自身、これまで積極的にそのことを學んで來なかつたからです。
いま、ここでは、一つ目、二つ目のことはとても意味深いことですので、わたし自身これから更にゆつくりと考へて行くことにします。そこで、順序が逆になつてしまひますが、三つ目のことから考へて行きたいと思ひます。