●昭和の文芸批評家として生きた保田與重郎は、ずいぶん多作な人だったが。彼の多作ぶりには、重複を少しも厭わない肝の太さ、自作を振り返りもせず、力尽き、斃れるまで進んでいく志士(もののふ)の剛毅があった。(23頁)
●(最後の著作『わが萬葉集』において)幾つかの歌、特に大伴家持の作をめぐっては、何度引き、いくら釈いても決して表し切れない称賛、愛着、親しみを、じっと抑えているように見える。そこに、僅かばかりの繰り返しが、やむなく現れてしまう。そんな趣である。(23頁)
●繰り返しは、不注意から来るのではない、彼が心中で耐えてきたものの避け難い ― それが故に美しい ー綻びのように現れて来る。その綻びの姿に接することができるのは、私には、むしろ有り難いのである。(24頁)
保田與重郎の著作を読み続けてゐると、彼のその猛然とした筆の進み方に、唖然とするのである。どうして、これほどまでに、筆が止まらないのか。
彼は、思ひに思ひを重ねつつも、いつたん筆を執つたなら、こころの中から蚕が糸を吐くやうにするするとことばを紡ぎ始め、その営みは糸を吐き終はるまでは到底止むことはない、そんな趣きではなかつたかと感じるのである。
保田の文章を綴る際の、その原動力は、まさに、ここで前田氏が述べてゐる、「いくら釈いても決して表し切れない称賛、愛着、親しみ」といふ溢れんばかりの情だつた。そのことを、即座に感じる。
そして、後代のわたしたちは、この情の奔逸とその抑制を味はふことを、文学の喜び、読書の喜び、生きることの喜びとするのである。
だから、わたしはまづは問ふてしまふのだ。現代のわたしたちは、いや、このわたしは、このやうな溢れんばかりの情を湛へて生きてゐるだらうか、と。この情の過剰と言つてもいい、生の昂ぶりを持つてゐるだらうか。
さう問ふたときに、その情のみづみづしい昂ぶりこそをわたしは希(こひもと)めてゐると、わたしは応へてゐる。
そして、そのこころのありやうを、ことばに鋳直すことへの憧れに憑かれてゐる、と。
ことばに鋳直すといふ行為は、まさに、こころをかたどることであり、それは不定形なものにかたちを与へること、抑制を加へ、言語表現における一回きりのすがたを得ようとすることである。
そのやうな、奔逸と抑制といふ相反する精神の力の均衡を培ふことへの憧れが、古来、人にはあり続けてゐる。なぜなら、その均衡と、僅かばかりの綻びが、美しいすがたを生み出すからである。
保田與重郎の文章は、その精神の美しさを味ははせてくれるのだ。
【読書ノートの最新記事】
- 写真という信仰の道 〜日高 優著「日本写..
- 前田英樹氏著「ベルクソン哲学の遺言」
- 近藤康太郎著『百冊で耕す』
- アラン『幸福論』から
- 小林秀雄『ゴツホの手紙』
- 辞典ではなく註釈書を! 〜保田與重郎『わ..
- 前田英樹氏著「愛読の方法」
- 前田英樹氏「保田與重郎の文學」
- 江戸時代にすでにあつた独学の精神 小林秀..
- 前田英樹氏『保田與重郎の文学』読書ノート..
- 吉田健一「本が語つてくれること」
- 執行草舟氏『人生のロゴス』
- 学びについての学び 〜小林秀雄『本居宣長..
- 小川榮太郎氏『作家の値うち』
- 芸術としての文章 遠山一行著作集(二)
- 精神の教科書 詩集ソナタ/ソナチネ
- 語り口調の闊達さ 福翁自傳
- 柳田國男 ささやかなる昔(その一)
- 幸田露伴 〜美しい生き方〜
- 命ある芸術 〜フルトヴェングラー『音と言..