我が「ことばの家」の近くにある万代池の龍神様のお社
現代に生きる多くの人は、目に見えるもの、耳に聞こえるもの、手で触れることのできるもの、それらの範囲のものしか、その存在を認めない傾向があるように思います。
それは、もっともなことだと思われます。感覚できないもの、分からないもの、知らないものを認めることはできないのですから。
しかし、人は、自分自身の限界を拡げ、高め、深めて行くことができるものですよね。
ですので、自分よりも、より広やかで、より高く、より深いものを感覚し、分かり、知っている人の存在を知り、その人のことばに耳を傾けることはとても大事なことだと思います。
そうして、現代人は、己れの見えているもの、聞こえているもの、知っているものから外へと視野を広げることができて、己れの傲慢さ、高慢さから、自由になることができる。
わたしは、そういう人の限りない成長のためには、芸術というものが欠かせないものだと実感しています。
芸術を通して、これまで観えていなかったものに対する視力が生まれて来る、聞こえていなかった響きや調べを聴くことができるようになって来る、触れることができなかったものに対する妙なる手応えを実感するようになって来る。
芸術は、目に見えるもの、耳に聞こえるもの、手で触れることのできるものを、その素材とするにもかかわらず、そこでだんだんと勝ち取られてゆくものは、物質の境にあるものではなく、こころの境、精神・靈(ひ)の境にあるものです。
その精神・靈(ひ)をリアルに感じ、分かり、それこそが頼りがいがあるものだ、まことのものだと信じて、生きて行くことができるようになる。
精神・靈(ひ)が実際にわたしたちの身のまわりにあるどころか、身を貫いて、世を貫いて、すべてを貫いて、ある。
そのことに対する理屈ではなく、実感、感覚を育てて行くことこそが、これからの時代を生きて行く上で、とても大切なものになってゆくようにわたしには思われます。
その精神・靈(ひ)から、生きて行く術(すべ)を身につけていく。
それは、芸術実践を通して、だんだんと身に織りなされて来るものです。
そして、さらに、瞑想・メディテーションが、その芸術実践を深みから支えてくれます。
それら、芸術実践とメディテーションとがあいまって、外なるものに支配されず、内なる〈わたし〉こそが主(あるじ)となってゆく、自由のリアリティーが自分の中で育ってくるように実感しています。
生の僕(しもべ)たるべからず、生の主(あるじ)たるべし。
こういった毎日の練習は、ややもすると、まことの目当てとは逆に、一見、人に不自由を強いるもののように受け取られがちです。
ただ、促成栽培のような自己意識変革メソッドを求めるのではなく、日々の暮らしの中で、焦らず、怠らず、こつこつと、長い、長い時をかけて、繊細に、自己教育していくことを好む人にも、ちゃんと、道があるのです。
知はすべての基なので勉強はもちろん必要ですが、知識だけでは歯が立たず、情も、意欲も、こころのすべてを注ぎ込んで、意識的に仕事と生活を創ってゆくことになります。
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