キリストが、十字架上にていのちを全うし、墓に埋められた後、甦り、その後四十日間にわたつて、十二の弟子たちの前に現れたと、新約聖書の「使徒行伝」に記されてあります。
そして、弟子たちが見守る中、キリストはふたりの白い衣を着た方々と共に天へと昇つてゆかれたと。
そのときから十日間、キリスト不在のときを、静かに身を慎んで、ひたすらに祈りのために円うてゐた十二の弟子たちの頭(かうべ)の上に、部屋中を激しく吹き渡る風の音と共に、炎の舌のかたちした聖き靈(ひ)が降りて来て、ひとりひとりの弟子が様々な言語でキリストのこころざし(Christ Impulse)を語り始めた。
その日を祝ふのが、聖き靈(ひ)の降り給ふ祭(Pentecostes)です。
明日の日曜日がその日です。
毎年、毎年、この日を迎へるたびごとに、この祭が伝へようとしてゐる意味を自身で確かめたいといふ願ひを持ちます。
ひとりひとりの弟子に降りて来た炎の舌、それは、キリストといふ精神の存在が聖き靈(聖霊)となつてひとりひとりのこころに、炎のやうな情熱を湛へたことばとして宿つた、といふことです。
さうして、十二の弟子たちは、そのときより、ひとりひとり、炎のやうな情熱をもつて、ことの告げ手となり、使い手となつていったのでした。
日本で生きてゐるこのわたしにとつて、なにゆゑ、このキリストのこころざし、そして聖き靈のことばをもつての働きかけが、かうまで気にかかり、こころを動かし、我が生き方を導こうとするのだらうと考へ続けてゐます。
自分といふ存在がからだに束縛されてゐるのでは実はなく、精神こそが自分なのだといふこと。
その精神の中でこそ、まことの自分が羽ばたくことができるといふ感覚が、ほのかなものから、だんだんと明らかさに満ちたものとなつて来るにしたがつて、自由であるとはかういふことなんだと実感するのです。
わたしといふ存在は、肉ではなく、靈(ひ)である。
そうして、靈をもつて炎のやうに生きよ。
そのことこそが自由になるといふことであり、そのことを想ひ起こすこと。
この聖き靈の降り給ふ祭は、日本に生きてゐるわたしにも、かくも強く働きかけて来る祝祭なのです。
いはゆる比較文化学や比較宗教学などに倣うやうなことはせずとも、日本の精神文化の中にこの祭りを見いだすことは、もう何十年もかかつてゐますが、きつと、わたしの中でも熟して来るものだと信じてゐます。
【アントロポゾフィーの最新記事】
- 理想をことばに鋳直すお祭り ミカエルのお..
- エーテルの世を描いている古事記
- 我がこころのこよみ
- 「分かる」の深まり
- ヨハネの祭り 夏、地を踏みつつ天へと羽ば..
- 夏至考
- 幼な子の夢見る意識を守ること
- メディテーションのことばと言語造形
- 音楽家ツェルターに宛てた手紙から ゲーテ..
- 『神秘劇』(シュタイナー作)より
- 日本における聖き靈(ひ)の降り給ふ祭り(..
- 教員養成講座 受講生のことば
- アントロポゾフィーを分かち合う場
- アントロポゾフィーという練習の道
- ことばが甦るとき
- 破壊のかまど
- 冬、それは見えないものを考える季節
- 本を通して自由になるといふこと
- クリスマス・新嘗祭への備え 〜いのちの営..
- むすんでひらいて