幼児期、ことばを唱えながらたっぷりと身をもって遊ぶことができた子、また、お話をたっぷりと聴かせてもらった子は、その国語力の裏の力、聴く力を携えて小学校にやってきます。
そのように動きに満ちたことばの精神を浴びて来た子どもは、小学校に入ってから、今度は、生き生きと自分の口からことばを発することのできる子へと成長して行きます。
ことばを話す力、それは、国語力における表の力と言っていいものです。
学校制度が始まる前の昔の子どもたちは、どれほど、この生(なま)の生きたことばに包まれ、囲まれて、暮らしていたことでしょう。
幼少時、傍にいてくれた親や他の大人たち、お兄ちゃんお姉ちゃんたちが、活き活きとしたことば、その人その人のこころといのちが通っていることばを話してくれていたからこそ、その子はその裏のことばの力を、表のことばの力へと変換させていきます。
年上の人たちからたっぷりと与えられてきた多くのことばの中から、意味がそれとなく分かり、なおかつ、口にしやすい音韻の並びで出来ていることばを、ここぞというときに瞬間的に選んで、口にする。
その、ことばの選択の神秘。
それは、難しい言い方をしますと、ことばを聴くとき、自分の精神によって、ことばの精神を捉えて来た子どもが、やがて、その捉えたことばの精神を、我がこころ、我がからだにまで引き降ろすことができた、ということなのですね。
ことばの精神を、我が精神からこころへ、そしてからだへと、引き降ろす、受肉させる、それが、聴いたことばを憶え、それを口にするということなのですね。
それは、国語力が裏から表へなりかわること、とも言えますし、また国語力の裏表の行き来を盛んに促しもします。
そうして、だんだんと、自分自身の感じていること、思っていること、欲していること、考えていることを、的確にことばにしていくことができるようになってきます。
昔には、それが、「一人前にものが言える」という、子どもの成長におけるひとつの徴(しるし)でありました。
そうして、子どもたちは、聴く力の充実に裏打ちされた、話す力を育てて行くのです。
そのように、第二・七年期の子ども時代(7〜14歳)、それは、ことばの表の働きにだんだんと通じていくことの始まりであり、それは、やがて、ことばの主(あるじ)になるべく、自己教育していくための礎になります。
その、ことばを話す力は、昔ならば、依然として引き続いている子ども同士の群れの中で、外なる自然の四季の移り行きの中で、ひたすら磨かれていたでしょう。
ことばを話す力は、まさに、その子、その子の固有のものから発せられる、こころを如実に表すもの、心情を確かに顕わすものとして、その子らしいものの言い方を活き活きと発現していたことでしょう。
ことばとその人とが分離していなかった。
いまならば、ひとつの教室の中に長時間閉じ込められている子どもたちにとって、何がその国語力の表の力の育みに資することができるでしょうか。
現代にふさわしい、本当に意識的な教育が必要だと思われます。
シュタイナー教育は、そのひとつになりうると、わたしは思っています。
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